写真家石川真生を追ったドキュメンタリー 『オキナワより愛を込めて』 砂入博史監督インタビュー

8月24日(土)より沖縄・桜坂劇場での先行上映を皮切りに、8月31日(土)から東京・シアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー

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本作は沖縄を拠点として活動する写真家、石川真生さんを追った自伝的なドキュメンタリー。昨年「Cinema at Sea- 沖縄環太平洋国際映画祭」のオープニング映画にもなりました。今年2月に沖縄出身の写真家として初の文部科学大臣賞を受賞、3月には土門拳賞を受賞しています。
自身の初期作品を見ながら当時の様子を語る。写真家としての石川真生のルーツを辿りながらファインダーを通して語られた「愛」、作品の背景となった歴史、政治、人種差別、それらを乗り越えるパワーが写真とともに映し出される。

映画内容
1971年11月10日、米軍基地を残したまま、日本復帰を取り決めた沖縄返還協定を巡り、沖縄の世論は過熱していた。ストライキを起こした労働者と機動隊の衝突は、警察官一人が亡くなる事件に発展。当時、10代だった真生さんは、この現場を間近で目撃。「なんで沖縄にはこんなに基地が多くて、いろいろな事件や事故が多いんだろう」。同じ沖縄の人間同士の衝突がきっかけとなり、浮かんできた疑問が写真家の道に進ませた。

1975年、米兵を撮るために、真生さんは友人を頼り、コザ・照屋の黒人向けのバーで働き始める。バーで働く女性たちや、黒人たちと共に時間を過ごしながら、日記をつけるように写真を撮り続けた。
当時の生活が収められた3冊の写真集「熱き日々 in キャンプハンセン!!」(1982)、「熱き日々 in オキナワ」(2013)、「赤花 アカバナー 沖縄の女」(2017)を手に、およそ半世紀が経った今、当時の記憶を回想する。真生さん自身が「最も大事にしてる写真」と語る作品、そこに納められた人々との物語が語られていく。写真家、石川真生による自由な生き方を肯定する「人間賛歌」。

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 early elephant film + 3E Ider © 2023

以下HPより

石川真生さん プロフィール、活動など
1953年、沖縄県大宜味村生まれ。1971年、11.10ゼネストを機に、写真家になることを決意する。1974年、WORKSHOP写真学校「東松照明教室」で写真を学ぶ。1975年、黒人兵向けのバーで働きながら、黒人兵とバーで働く女性たちを撮り始める。半世紀に渡り、沖縄を拠点に制作活動を続け、沖縄に関係する人物を中心に、人々と時間を共にしながら写真を撮り続けている。2011年、『FENCES, OKINAWA』で、さがみはら写真賞を受賞。2014年から沖縄の歴史を再現した創作写真シリーズ「大琉球写真絵巻」を開催。2019年に日本写真協会賞作家賞、2024年には土門拳賞、文科大臣賞を受賞。東川賞、沖縄タイムス賞を受賞。

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early elephant film + 3E Ider © 2023

写真集 (全ての写真は石川真生が撮影したものです)
「熱き日々 in キャンプハンセン」石川真生・比嘉豊光 (あ〜まん出版 1982)
「熱き日々 in オキナワ」石川真生 (FOIL 2013)
「赤花 アカバナー 沖縄の女」石川真生 (Session Press 2017)
© MaoIshikawa

砂入博史監督プロフィール
1972年広島で生まれ、ニューヨークを拠点に活動する。1990年に渡米し、ニューヨーク州立大学現代美術科卒業。欧米、日本の美術館、ギャラリーにてパフォーマンス、写真、彫刻、インスタレーションなど様々なジャンルの創作を手掛けている。近年は、チベットや福島、広島の原爆等をテーマにした実験ドキュメンタリーを制作。2018年、袴田巌をインタビューした『48 years – 沈黙の独裁者』で同年熱海国際映画祭長編コンペで特別賞受賞。2001年からニューヨーク大学芸術学科で教鞭も執る。現在は広島在住。
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監督のコメント
オキナワの写真家石川真生は、体当たりで写真を撮る、作品にオキナワの複雑な歴史、政治、アイデンティティを反映させ、進化させ、体現する。石川の実証的でありながら詩的な言葉は、写真と同じくらい印象的だ。写真と言葉は影響し合い、互いをより力強いものにする。私が気をつけたかったことは、被写体を植民地化しないこと、日本人としてオキナワを語らないこと、女性をオブジェクティファイしないこと、石川真生を説明しないこと。彼女の言葉を、映像やリサーチでイシュー順に構成し、オキナワ人であり、女性であり、写真家である石川真生が、可能な限り透明で複雑なオーガニズム、スーパー真生として生成する。

作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/504504591.html
公式ホームページ:https://okinawayoriaiwokomete.com/
予告編: https://youtu.be/cu_ot-S-GiE

砂入博史監督インタビュー  
取材 宮崎 暁美

●ニューヨークでの出会い
宮崎 私は石川真生さんよりひとつ年上です。彼女と同じ時代に生きているから、時代の影響というのは似ているところがあると思います。私は高校3年の1969年にベトナム戦争反対のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加したのがきっかけで、報道写真に興味を持ち、真生さんと同じ1970年ころから写真を始めました。でも、報道写真の分野には進めなかったけど、写真関係の仕事をしてきました。
そんな中で写真展には数多く行きました。1977年の石川真生さんの写真展、「金武(きん)の女たち」も行きました。その後、真生さんの写真展には1,2回は行ったと思います。でも、だんだんに写真展に行かなくなり、彼女のその後の活動については知りませんでした。
今回、監督にインタビューするにあたり、石川真生さんの活動を調べてみましたが、その後も沖縄を撮り続け、昨年は東京初台の東京オペラシティ アートギャラリーで「石川真生 私に何ができるか」という写真展をやっていたことを知りました。それに行けなかったのは残念でした。
同時代を生きてきた石川真生さんのことを知りたいと思い、砂入博史監督にインタビューをお願いしました。

監督 1977年の写真展に行ったのですか。それは貴重ですね。去年の写真展は彼女の回顧展です。その図版はありますよ。

宮崎 そうですか。後で見てみたいと思います。
石川真生さんは1974年に東松照明さんのワークショップに入り写真をやり始めました。監督は1972年生まれで石川さんが写真を始めた頃生まれたわけですから、20年近く若いですよね。石川真生さんを知ったきっかけとか、彼女を撮ろうと思ったわけなどを教えてください。

監督 まず最初に彼女に会ったのは2004年。ニューヨーク(クイーンズにあるPS1)で写真展があり、それに出品するためニューヨークに来られた。米軍を扱った写真展で、韓国や沖縄での米軍を扱ったグループ展でした。その時に学芸員をやっている友人が「面白い人が沖縄から来ているよ」と言って紹介されました。それまではまるっきり知らなくて、その時、初めて石川真生さんのことを知りました。
その頃、ニューヨーク大学で教えていたんですが、学生ギャラリーの運営をしていて、「じゃあ見にいく」と真生さんが来て、少し話をする機会がありました。その時は初めてだったので、まったく真生さんのことを知らなくて、米軍の基地を撮っている人かなぐらいに思っていました。
その後、2017年の「赤花 アカバナー 沖縄の女」という写真集がニューヨークで出版された時(「熱き日々 in キャンプハンセン」1982年写真集が再構成され、このタイトルで出版された)、出版記念のイベントみたいのがあって、真生さんが「ニューヨークに行くよ」とFacebookで言っていたので、「じゃあ、行きます」と、行きました。それで初めて、この「アカバナー~」というか、「熱き日々 in キャンプハンセン」のことを知ったんです。それで、こんな写真を撮っていた人なんだとびっくりしました。

宮崎 そうなんですよ。彼女の写真が初めて出て来た頃は1977年頃で、衝撃的でした。その頃、女性の写真家が少しづつ出てきましたが、当時、米兵の写真を撮っていた女性は、真生さん以外には石内都さんがいました。彼女は横須賀で米兵を撮っていました。

監督 石内都さんも米兵の写真を撮っていたのですか。

宮崎 石内さんは「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年個展)の中で米兵も撮っていました。偶然、二人とも1977年に写真展をやっていますね。私の中では、その二人の写真に強烈な印象が残っています。
米兵ではないけど、70年代~90年代にベトナムやカンボジア、中東など戦場や紛争地を撮っている女性もいました(大石芳野さん、南條直子さん、古居みずえさんなど)。もちろん男性はたくさんいましたが、女性は少なかった。その方たちも含めて、アート系や商業写真系ではなく、報道、ドキュメンタリー系写真分野で活躍し始めた女性が出てきた時期だったと思います。

監督 そうだったんですね。

宮崎 真生さんが昔の自分の写真集を見ながら、その時の気持ちや状況を語っていますが、彼女はかなり怒りながらこの女性たちを侮辱するのは許さないと言っていました。当時、彼女の写真を見て「売春婦が売春婦を撮った」とか、そんなひどいことをいうような人たちがいたとはびっくりしました。激しく憤っていましたが、私は、彼女の写真に対してそういう言い方をしたメディアがあったということを当時は知らず、この映画で知りました。たぶん、週刊誌や男性誌、スポーツ紙などがそういう風に書いたのだと思いますが、それで真生さんはきっと本土のメディアや男性に対して不信感や嫌悪感を持ったのじゃないかと思います。「本土のメディアは信用していない」なんて言ってますしね。

監督 彼女はすごく傷ついて、トラウマになっていたみたいです。アラーキーや東松照明さんに推薦されて華々しくデビューしたから、その上でのメディアの扱い方というのがあったと思います。

宮崎 そんなふうに言っている真生さんが、本土の男性である砂入監督の映画製作にスムーズにOKが出たのはどうしてかと思ったのですが、ニューヨークでこのような出会いがあって、このドキュメンタリーを撮ることになったのですね。

監督 2017年に彼女の写真集が出版された時にニューヨーク大学で、彼女の作品と沖縄についてのシンポジウムが開かれ、彼女はそれに呼ばれたんですね。その時に、沖縄の米軍を撮ろうと思ったきっかけの話をされました。子供の頃に、米軍(米兵)によるレイプとか人殺しとかの犯罪とかがあっても、琉球警察は何もすることができなかったという状況を話したのですが、それが当たり前のようにあった少女時代の話をしました。その話が生々しくて、かなり怒りを露わにして話されたんです。そこから米軍ってなんなんだという感じで、写真を撮ろうと思った話をしたんです。あとは映画の内容と同じですが、黒人専用のバーで働き始め、付き合っているうちにいい人、悪い人がわかるようになって、米軍ではなく一人の人間として見えてきて理解したという話になったんです。ちょうど2017年頃、ニューヨークではブラック・ライブズ・マター(黒人の命、人生も大切)の運動が盛んだった時だったんです。

宮崎 私、中学校の頃(1960年代)、人種差別、黒人差別の問題を知り、アメリカの人種差別反対運動関係や、ジェームス・ボールドウィンなどの本を読んでいました。なので、私が社会の問題に興味を持ったきっかけは黒人への人種差別問題でした。
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監督 そういう運動が60年代から行われていたのですが、やはりまだまだ改善されていなくて、現代も差別はあるわけです。その頃、黒人が警察官に殺されたりした問題もあり、運動が起こりました。
黒人だけではなく、ラテン系の人たちも加わって、アメリカ各地でプロテストの運動が起こっていたんです。ニューヨークではすごく大きな運動が起こっていて、ブルックリンからマンハッタンに来る橋がブラック・ライブズ・マターの人たちが通行止めにして大きなプロテストをしたりとか、そういうことが起こっている時期でした。
そんな中で、メディアも白人の人たちも黒人問題に言及することに、かなりの緊張感をもたないといけないような状態だったのです。
そういう時に、彼女の偏見ばりばりのしゃべり方、黒人はみんな同じに見えたとか、でも最後は人間として彼らを理解していったという言説に感動して、久々にこんなに率直な黒人やレイシズムに対する意見を聞いたなとフレッシュに感じたんです。なぜかというと、白人が黒人はみんな同じように見えるとか言ってはいけないんです。大きな問題になります。でも沖縄の女性からの発言だったのでびっくりしました。こんな素晴らしい言葉、今のアメリカ人は聞くべきだなと思って、彼女のドキュメンタリーを作ろうと思いました。写真も素晴らしかったし。

宮崎 そうだったんですね。

監督 それと、2017年に新たな癌がみつかって、ニューヨークに来ているときは手術前だったんです。シンポジウムの時、苦しそうにしていたので、その危機感もありました。こんな素晴らしい言葉を今残しておかないとと思ったので、今、作り始めるしかないなと思いました。

宮崎 本土のマスコミや男の人に対して、かなり反発があるようだったので、ドキュメンタリーを撮るときに、最初は断られたのかなと思っていたのですが、こういう形で知り合った上でのことだったのでスムーズだったんですね。

監督 レクチャーが終わったあとに、真生さんのところに行って「あなたのドキュメンタリーを作ります」って言ったら、真生さんは「はい、わかりました」って(笑)。知り合ってからではなく、日本からいきなり「砂入と言いますがドキュメンタリーを撮らせてください」という形だったら断られたでしょうね。

宮崎 そういう意味ではいい出会いでしたね。TBSのドキュメンタリーでも真生さんを3年位追っているようですね。

監督 金平茂紀さんの番組ですね。NHKでも撮っています。

宮崎 TBSのは見たことないけど、NHKのほうは見たことがあります。
車いすに乗っている姿をみましたが、手術の後だったんですね。

監督それもありますが、この2,3年で足腰が弱くなってしまったので、最近は車いすでイベントとかに出ていますね。

●真生さんが使っていたカメラ

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early elephant film + 3E Ider © 2023

宮崎 撮影は3年くらいとありましたが、何年頃ですか。

監督
 2017年から2019年頃です。


宮崎 辺野古で、舟に乗って写真を撮っているシーンがありましたね。あれは何年頃ですか?

監督
 2019年です。牧志治さんという辺野古の海の写真を撮っている方が、抗議行動と写真を撮るために舟を出しているんです。その舟を出す時に乗せていただきました。彼自身も大琉球絵巻に出演しているんです。


宮崎 あの時、ペンタックス6×7(フィルムの中型機)で撮っていたのでびっくりしました。彼女は今もフィルムカメラで撮っているのですか?

監督 そうだと思います。彼女はフィルム派の人みたいで、フィルムで撮ってスキャンしているみたいです。

宮崎 実は、私もペンタックス6×7を使っていたのでわかりますが、かなり重いです。舟のように揺れるものの上で写真を撮るのはかなり大変なのに、重いカメラで撮影しているってすごいですね。私はもう使っていないので、彼女がペンタックス6×7必要ならあげたい(笑)。

監督 海だししぶきがかかるだろうし、普通ならスナップショットを持っていったりするんですけどね。

宮崎 車いすに乗っているのに、ペンタックス6×7を使っているという彼女の心意気、すごいと思いました。

監督 そうですよね。しびれますよね。 

*と、しばしペンタックス6×7の話で盛り上がりましたが、さすがに今は、デジタルカメラを使っているようです。そしてペンタックス6×7は砂入監督が引き取ってくれました。

●撮影場所について

宮崎 石川真生さんの写真はなぜ黒人兵ばかりなんだろうと思っていたけど、この作品を観て、コザの黒人兵が集まる店に勤めながらの撮影だったということを知りました。コザの街で、黒人街と白人街が分かれていたというのは全然知らなかったので、それもびっくりしました。

監督 たぶん外からだったらわからないでしょうね。

宮崎 今年(2024)、47年ぶりに沖縄に行ったのですが、コザには行けませんでした。この作品を観て、行っておけばよかったとちょっと後悔しています。真生さんは、かつて自分が働いたところを何か所か歩いたりしていますが、最後に訪ね歩いていたのはコザですか?

監督 いえ、あれは金武(キン)です。彼女は最初、コザで働いていましたが、そのあとは金武に行ったのです。でも、かつての街は変わってしまっていて、勤めていたところとか探し出せないくらいでした。

宮崎 そういえば、最初の写真展のタイトルは「金武の女たち」でしたね。彼女は米兵たちが訪れるバーで働きましたが、最初から取材ということではなく、働いて仲良くなってから写真を撮っていたのですね?

監督 思うに、彼女はそこまで前提を考えずに、撮影スタイルも確立されていないまま飛び込んでいったのではないかな。それで、状況に慣れながら写真を撮れる機会をみつけて撮っていき、そのスタイルが定着して行ったんじゃないかと思います。最初から取材をしに行こうというコンセプトで撮っていたんじゃないと思います。

宮崎 そういうスタイルだったからこそ、自然な写真が撮れたということしょうね。

監督 写真家としてそこにいるのではなく、いる人たちの中の一人として、自分も当事者としていたのでしょう、

宮崎 彼女がコザや金武にいた数年というのは、写真のためにというよりは、自分が体当たりで入っていって、体験していったのでしょうね。

監督 そうでしょうね。1日にいっぱい撮るのではなく、ゆっくりと撮っていたって言っていました。ちょこちょこと日記のように撮ったと言っていました。

宮崎 その頃、私も毎日カメラを持って通勤していましたけど、そういう人はけっこういました。彼女も働いている人や米兵とも仲良くなって写真を撮り、その撮りため写真で写真展をしたんですね。写真を発表するにあたって、肖像権などのトラブルはなかったのでしょうか。

監督 その中で、何人かは問題視して、文句言ってきた人もいたようです。女性の側からだけでした。米兵の人たちは見る機会もなかったですからね。

宮崎 40数年くらい前から肖像権について厳しくなりました。私もメーデーの写真や、女子マラソンの写真、登山の写真などを撮っていたんですが、雑誌などに載せる時は、肖像権について載せてOKという許可を取ってないとダメになってきましたね。肖像権が厳しくなってきてからは、知らない人を正面から撮ったり、アップの写真は撮りにくくなりました。顔がわからないように撮るとか、後から撮るとかそういう写真の撮り方しかできなくなり、表情豊かな写真が撮りにくくなりました。

監督 つまらない時代になっちゃいましたね。 

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●写真家のドキュメンタリー

宮崎 去年は、アフガニスタンなどを撮ってきた長倉洋海さんを撮った『鉛筆と銃 長倉洋海の眸(め)』(河邑厚徳監督)が公開されましたが、ここ数年、毎年のように写真家のドキュメンタリー映画が公開されています。『ひろしま 石内都・遺されたものたち』という石内さんのドキュメンタリーも公開されました。リンダ・ホーグランド監督の作品ですが、砂入監督もご存じではないですか。

監督 リンダさん知っています。ジャパンソサエティ(ニューヨーク)などでの上映の時に翻訳や通訳をしていました。

宮崎 石川文洋さんのドキュメンタリー『石川文洋を旅する』の時には、石川文洋さん本人にもインタビューしました。

監督 ベトナム戦争を撮っていた方ですね。米軍に従軍して撮っていたんですよね。僕も何冊か写真集を持っています。

宮崎 ベトナム戦争の時は、写真は自由に撮れたんです。その時は沖縄の基地からもベトナムに飛び立っていっていたわけですが、ベトナム戦争が終わった後も、基地は残り、アメリカ軍の日本基地の70%くらいが沖縄にあるという状態ですよね。

監督 でも基地はグァムに移るということになっているんですけどね。

宮崎 エ~! そうなんですか。それなら、なぜ辺野古に基地を作ろうとしているのでしょう。

監督 そこがよくわからないところですが、60%移るということが決まっているようです。それだけ減るのなら、もう作らなくていいということになるじゃないですか。でも、工事を続けている。皆憶測で言っているのですが、もしかしたら自衛隊用に使うために作っているんじゃないかという人もいます。

宮崎 わざわざ埋め立てて造っているのに、基地は減る予定って、どうなっているのですかね。でも、そういうことは報道されていないような気がします。それでいいのかしら。八重山の自衛隊基地がどんどんできていることも、メディアではほとんど報道されてないですよね。

監督 真生さんは、そのことも大琉球写真絵巻で描いていますね。
去年の写真展は天野太郎というオペラシティの学芸員の方がプロデュースしています。

宮崎 70年代から80年代は、まめに写真を撮り、写真展も行ってたのですが、その後、写真展なども行かなくなってしまったし、カメラ雑誌なども見なくなってしまったので、何十年もの間、彼女の活動を知りませんでしたが、この映画がきっかけで、去年東京で写真展があったりとか、今年(2024)文部科学大臣賞や土門拳賞を受賞したことを知りました。しかし、写真やアートなどに興味ある人以外にはなかなか知られていないので、この映画を観ていただき、たくさんの人に石川真生さんのことを知っていただきたいですね。

『帰って来たドラゴン』舞台挨拶

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7月26日(金)より『帰って来たドラゴン』(1974)2Kリマスター版の上映が始まりました。
翌27日(土)新宿武蔵野館に、満席のお客様を迎えて倉田保昭さん、ゲストの谷垣健治さんの舞台挨拶がありました。
ほぼ書き起こしでその様子をお届けします。MCは江戸木純さん。(白) 

倉田保昭 1946年3月20日、茨城県出身。俳優、武道家。日本大学芸術学部演劇科卒。東映撮影所の研究生となる。70年香港のショウ・ブラザース社のオーディションに合格し『続・拳撃 悪客』(71)で香港映画デビュー。多くのクンフー映画に出演。74年『帰って来たドラゴン』を引っ提げで日本凱旋を果たした。テレビシリーズの「闘え!ドラゴン」、「Gメン‘75」で人気を博す。
76年に倉田アクションクラブを設立して人材育成を行い、数多くの映画、テレビ番組のアクション・コーディネートを手がけ、創武館道場で空手の指導を行ってきた。85年に倉田プロモーションを設立。その後も香港映画をはじめとした数多くの海外作品に出演。

谷垣健治 1970年10月13日、奈良県出身。映画監督、アクション監督、スタント・コーディネーター。
1989年大学入学と同時に倉田アクションクラブ大阪養成所に加入。1993年の大学卒業後つてもないまま22歳で単身香港に渡り、広東語を学びながら映画の仕事を探す。スタントマンとして多くの映画に参加、アクション監督トン・ワイの推薦で「香港動作特技演員公會 Hong Kong Stuntman Association」に所属した。唯一の日本人。香港ではドニー・イェンの作品に多く関わり、『燃えよデブゴン TOKYO MISSION』では監督をつとめた。日本では映画『るろうに剣心』シリーズのアクション監督ほかで活躍。
日俳連アクション部会委員長。DGA(全米監督協会)会員。

作品紹介はこちら
(C)1974 SEASONAL FILM CORPORATION All Rights Reserved.


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倉田 本日はお暑い中、ほんとにたくさんの方がいらしてくださってありがとうございます。50年前の映画ということで、私ちょっと不安なところがあるんですけど、いかがでした?(拍手)古臭さはなかったですか?パワーを感じていただけると有難いなと思っているんですけど。CGもワイヤーもない時代ですから。もう、今やれと言われてもとてもできないです。
ありがとうございました。ほんとに。

谷垣 おはようございます! 僕も今後ろで観ていたんですけど、面白いですよね。なんか神様がジャンプ力の調合を間違えたような2人(ブルース・リャン&倉田保昭)が(笑)こう上に上がって行く(必見)のが力強いなと思いました。先生ね、「今はもうできない」とおっしゃっていましたけど、『夢物語』では全然スピードは劣っていないですよね。むしろ速くなっているかもしれないなと(笑)。
先生、今日のこのお衣装は?

倉田 これはね、50周年なので、50年前に作った洋服。

谷垣 『戦え!ドラゴン』のときのですか?

倉田 これ、撮影では使ってないですよ。何かイベントみたいなので。たぶんブルース・リーのがかっこいいなと真似て作ったのかな。

―1974年に作られた『帰って来たドラゴン』と(新作の)『夢物語』を一つのスクリーンで上映するという、とても貴重な機会です。50年前に撮影されたこの映画、観るからに大変だったろうなと思うんです。そのへんのエピソード、こんなに凄かった、忘れられないことなどがありましたら。

倉田 先週プロデューサーのウー・シーユエン(呉思遠)に会いに香港に行ってきました。2人だけで5時間、広東語で話しました。その中で『帰って来たドラゴン』の話も出て、「あの頃はこうだったよねぇ」と。当時は中国の文化大革命の後で、国境があって行き来ができなかった。その中国大陸が見える小さい島で撮影しました。そこを見ながら「ウー・シエンのバカヤロー!なんでこんなきつい撮影させんだよー!」と(叫んでいた)。ホテルも何もないので、バーベキューやったりね。たまの休みに小さい船に乗って美味しい物を食べに行く。今は橋ができて渡れますけど。

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―谷垣さんはこの時代の香港映画、どう思われますか?

谷垣 観なおしたときに、これはできないなと思いましたね。役者にさせられないし、やれる役者もいない。僕らはこの方たちが作ったレールに乗ってアクション映画を撮っているんですけども、いろんなことを工夫しなきゃいけないわけで。言ってみたら僕らの映画には「味の素」をいっぱい足しているんですよ。味の素がいっぱいまぶされている。これ(帰って来たドラゴン)はほんとに「役者の素材の良さ」を生かした映画。すごいですよね、アクションも。
ブルース・リーが”間”で勝負するというか、”間”の中で一発パカーンとやるとしたら、これは”手”(アクションの動き)が多い。今のアクション映画も”手”は多くなっていますが、これは戦って走って、戦って走って。今も昔もアクション映画のお手本のような映画ですね。パリでオリンピックやってますけど、「アクション」という種目があったらたぶん金メダルじゃない?(笑)観れば観るほどすごい。

倉田 彼とも話したんですけども、当時は(ブルース・リャンと自分)2人だけなので、休憩時間なんてないんですよ。吹き替えもいないし、ただ2人がどうやって何ができるか、キャメラが移動するだけの時間で。一日何十回とやってそれを一ヶ月。

谷垣 移動って言っても、2人だからここからここ移動するだけでしょ?そしたらもう本番でしょ?(笑)

倉田 そう(笑)。そして”手”はついてないですから。”手”というのはアクションの、ここで出してここで受ける、という。

谷垣 今日また「発見」です。”手”があるんだかないんだか、という中でやったんだと思うんですけど、ブルースがぱっと来たら、先生がぱっと引いて(アクション付き)なんというか喧嘩強い人同士、喧嘩慣れした人同士のちょっとしたやりとり、こう動いたらこうやって、というそこんとこが面白いんだろうなぁと。

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―生(なま)の迫力、勢いというのが、50年前のフィルムの中に全部詰まっていますね。

谷垣 そう思いました。

ー今日『帰って来たドラゴン』と一緒に観ていただいた『夢物語』。作られた経緯というのは?どういうところから始まったのでしょう?

倉田 単純なものですよ。77歳になって、コロナであんまり撮影もないので、「77歳どれくらい動けるか、ちょっと竹藪を借りてやろうよ」という話で、1週間竹藪にこもりました。蚊に食われながら(笑)立ち回りをして撮影しました。これはどこに配信するのか、何も決まってない。海外の映画祭に出したら、インドのレイクシティ(国際映画祭)で最優秀短編映画賞をいただいたり、スペインで(アジアサマー映画祭)特別賞をいただいたり。
でも、これは日本では上映できないよねと言ってたら、たまたま今回の企画があり、50年前のアクション『帰って来たドラゴン』と50年後の『夢物語』、この対照はある意味初めての企画だと思うんです。

―谷垣さん、この『夢物語』変わらないと言われました。

谷垣 いやもうすごいとしか言いようがないんですよね。50年前の映画ですから、この中にはもう亡くなられた方もいますし、俳優やっている方もいる。ただ俳優はやっているけど現役感のない方もいるのに(先生は)一人だけ現役感バリバリ(笑)。

―ほんと、変わらないところがすごいですね。

谷垣 『夢物語』は何か言うのが野暮になるくらいすごい。『夢物語2』もあるんですよね。
『無敵のゴッドファーザー/ドラゴン世界を征く』と上映するとか。観たいと思いません?

倉田 今回上映するよ。

谷垣 あっもうやってるんですか?

―8月9日から2にあたる『夢物語 奪還』が併映になりますので、もう一度ご来場ください。『夢物語』もシリーズ化して、毎年倉田さんに撮っていただくとか。谷垣監督の『夢物語』シリーズをぜひ。

倉田 その話をしていたんですけどね、彼が忙しくて。

谷垣 いやいやいや。

倉田 谷垣健治監督で、79歳の倉田保昭のアクションをぜひね、撮ってもらいたいんですけど。

―みんな観たいなと思いますよね?(拍手)

倉田 彼もね、ほんとにもう私の手の届かないところへ行ってしまって。

谷垣 ちょ、ちょっと待ってください、先生。こっちの話をしましょう。これ(ポスターを指す)。(笑)

―ほんとに大活躍されています。お話面白くて延々と聞いていたいのですが、今日はお時間がありません。この続きは、売店にも売っております倉田保昭著「帰って来たドラゴン」(「和製ドラゴン放浪記」(1997)から改題して再販)を読んでいただくと、その撮影背景とか、台湾で出演した時とんでもない話とかいっぱい出てきます。ぜひお買い求めいただければと思います。

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―では最後に一言ずつ。

倉田 これから全国に挨拶に回りますけど、とにかく東京で皆さんに観ていただかないと話にならないので。1人でも多くの方に観ていただきたいと思います。よろしくお願いします。(拍手)

谷垣 50年前の映画という事で、僕も今日初めてスクリーンで観ました。面白かったです。こういう映画は今後もう作られないと思うので、皆さんが生き証人になったと思って伝えていってください!よろしくお願いします。

ースクリーンで観る機会は多くないので、ぜひよろしくお願いします。

谷垣 まだスクリーンで観たい作品、僕いっぱいあるんで。ね。(と倉田さんへ)

倉田 キング・オブ・カンフー?

谷垣『激突!キング・オブ・カンフー』とか観たくないですか?(拍手)
ねぇ、僕はスクリーンで観たいですよ、ほんとに。『ファイナル・ファイト 最後の一撃』と同時上映とかね。(拍手)

ー企画もこれからまた進めていければと思います。本日はありがとうございました。(拍手)

(取材・写真 白石映子)

『ヴァタ ~箱あるいは体~』亀井岳監督インタビュー

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マダガスカルの音楽と死生観に魅せられた亀井岳監督が、全編マダガスカルで撮影したロードムービー

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022で、国内コンペティション作品でありながら、全編マダガスカルで撮影した映画として注目を集め、みごと観客賞を受賞。 
高校時代からマダガスカルの音楽に魅せられてきた亀井監督。旅と音楽をテーマに、ドキュメンタリーとドラマを融合させるスタイルで映画を製作してきた亀井監督は、2014年、2作目の『ギターマダガスカル』を完成させるも、撮影時にマダガスカルの南部で偶然出会った、遺骨を入れた箱を長距離に渡り徒歩で運ぶ人々のことが忘れられず、初の全編劇映画となる監督3作目もマダガスカルで製作することを決意。音楽によって祖先と交わってきたマダガスカルの死生観を元に、家族を失った人々がその悲しみをどう乗り越えていくかという普遍的なテーマの映画を全編マダガスカルロケで、マダガスカル人のキャストのみで製作されました。
この度、公開を前に、亀井岳監督にお話を聴く機会をいただきました。マダガスカルでの撮影のこと、音楽や食文化のことなど、未知の国マダガスカルのことをお伺いしました。


『ヴァタ ~箱あるいは体~』

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© FLYING IMAGE

監督・脚本・編集:亀井岳
撮影:小野里昌哉 音楽:高橋琢哉
録音:ライヨ トキ
出演:フィ、ラドゥ、アルバン、オンジェニ、レマニンジ、サミー

マダガスカル南東部の小さな村。
この地では、亡くなった故人の遺骨を、故郷の村人が生まれ育った場所に持ち帰らなくてはいけない。長老が男たちを集め、出稼ぎの地で亡くなった少女ニリナの遺骨を持ち帰って来るよう伝える。その命を受け、ニリナの弟タンテリとザカ、スル、そして離れ小屋の親父の4人は、楽器を片手に片道2、3日かかる村へ旅に出る。
4人は途中、出稼ぎに行ったまま行方知れずの家族の消息を求めて旅するルカンガの名手・レマニンジに遭遇。
果たして4人は、無事ニリナの遺骨を故郷に持ち帰り、ニリナは“祖先”となれるのか。レマニンジは、家族を見つけ、長い旅を終えられるのか。
作品紹介

2022/日本、マダガスカル/85分/カラー/アメリカン・ビスタ/ステレオ
製作:亀井岳 櫻井文 スアスア
配給:FLYING IMAGE
公式サイト:https://vata-movie.com/
公式X: https://www.twitter.com/vatamovie
公式Facebook: https://www.facebook.com/VataMadagascar
公式Instagram:https://www.instagram.com/vata_movie
★2024年8月3日(土)より渋谷ユーロスペース、8月24日(土)より大阪・第七藝術劇場ほか、全国順次公開



亀井岳 (Takeshi Kamei)
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1969年9月3日生まれ。大阪府出身。
大阪芸術大学美術学科卒業、金沢美術工芸大学大学院修了。2001年、造形から映像制作へと転身。旅と音楽をテーマに、ドキュメンタリーとドラマを融合させるスタイルで映画を監督。監督デビュー作はモンゴルの喉歌をテーマにした『チャンドマニ 〜モンゴル ホーミーの源流へ〜』(09)。マダガスカルの人々の営みと音楽を主題にした2作目『ギターマダガスカル』(14)は、2016年にマダガスカルの首都アンタナナリヴでも上映された。本作は、監督3作目となる。


◎亀井岳監督インタビュー
【取材】 撮影:宮崎暁美(M)、まとめ:景山咲子(K)


K:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022での観客賞受賞おめでとうございました。 文化人類的なことに関心がありますので、とても興味深く拝見しました。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022の折の公式インタビューに、お聞きしたいことは、ほとんど網羅されていたのですが、それを踏まえてお伺いしたいと思います。

日本から遠いマダガスカルですが、死後もラザナ Razana(祖先)として永遠に生き続けているという考え方は、日本人にも通じるところがありますね。マダガスカルの改葬儀礼「ファマディハナ」 は、沖縄で数年後に洗骨する風習と似ていると思いました。今回出てきたマダガスカルの方たちの信じる宗教は?

監督:土着の宗教とキリスト教が半々です。敬虔なクリスチャンの人もいる一方、そうでもない人もいます。
ムスリムは北部にはいて前作の『ギターマダガスカル』には出てきていて、お酒を飲まない方もいるのですが、『ヴァタ』の舞台である南部ではムスリムは少ないです。


◆どんな環境の中で生まれた音楽なのかに興味
K:浪人生だった30年くらい前に、ワールドミュージックのブームの中で、大阪の輸入レコード屋さんでマダガスカルの音楽に偶然出会って惹かれたとのことですが、その後、実際にマダガスカルに初めて行かれたのは、いつ頃ですか?  

監督:2014年に初めてマダガスカルに行きました。

K:その時には映画を撮るつもりではなかったのでしょうか?

監督:いえ、撮ろうかなと思って一度行ってみようと思いました。

K:1作目でモンゴルの音楽を題材にされて、次にはマダガスカルの音楽という思いがあったのでしょうか?

監督:ありましたね。1作目の『チャンドマニ 〜モンゴル ホーミーの源流へ〜』を撮ったときに、モンゴルのホーミー(モンゴルの伝統的歌唱法)が長い間遊牧されてきた方たちが生活の中から生み出したものだと知りました。自分の好きなマダガスカル音楽は、マダガスカルの人たちがどういう環境で営みを続けてきた中でできたのか興味が沸いたので、行ってみようと思いました。

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© FLYING IMAGE

M:そうして作られたのが前作『ギターマダガスカル』ですが、その中で子供たちが歌っているところで、ホーミーの唸り声のような歌が聴こえて、モンゴルと繋がっているのかなと思いました。

監督:あれは実は私が後ろでホーミーの練習をしていたのですよ!(笑) まさか気づいてくれる人がいるとは!

◆偶然出会った「骨を運ぶ人々」をテーマに脚本を書いた
K:前作の撮影時に出会った「骨を運ぶ人々」が忘れられなくて、ファンタスティックな劇映画として作り上げたとのことですが、『ヴァタ ~箱あるいは体~』では、マダガスカルの人たちの死生観にも踏み込んでいます。かなりのリサーチを経て、脚本を書かれたことと思います。

監督:リサーチには2回行きました。2回目の時には、脚本もほぼ出来ていて、キャスティングも行いました。
やろうと決めてから数年で撮影に入りました。


K:日本語で書いた脚本を、マダガスカル在住のコーディネーター・櫻井文さんがマダガスカル語に訳し、それをさらに、マダガスカル人のスアスアさんが納得のいくものにしたとのことですね。出演したマダガスカルの方たちにも、すんなり受け入れられたのでしょうか?

監督:ものすごくたくさん台詞があるわけじゃないし、見たらわかるように絵コンテも描きました。

K:出演者が皆、とても魅力的でした。

監督:村の長老に遺骨を運ぶよう命じられるタンテリとザカとスルの三人組は、『ギターマダガスカル』の出演者・トミノの一族の3人。 離れ小屋のオヤジを演じたサミーは首都アンタナナリヴで活躍するミュージシャンで、僕が20歳位の時にすごく好きで聞いていたバンド「タリカ・サミー」のサミー。タバコ屋のレマニンジは南西部の大きな町チュレアールの有名人でアンタンルイ族です。

K:皆さんの楽器は手作りですね。

監督:自分で作ったり、楽器作りの得意な人に作ってもらったりしています。プロで音楽をやっている人は安定感がある既製品のギターを使うこともあります。

M:手製の楽器は味があっていいですね。楽器を買うだけの金力のある人は少ないのでしょうね。

監督:地方では、現金収入がなかなかありませんし、物が出回ってないので、手作りのものが多いですね。

M:遺体を故郷に戻すという映画は観たことがあるけれど、骨を故郷に戻すのは初めて観ました。日本だけでなく、死んだら遺体を故郷に戻すという映画は、中国、韓国、南米、トルコなどのものを観ていますが、この映画では、マダガスカルで土を掘り起こして骨を持って帰るということがあると知りました。

K:沖縄では何年か経って洗骨の風習がありますよね。

監督:今はその風習も無くなっていると思います。骨は白くて永遠に残ります。肉は腐るので不浄のものという考えがあると思います。我々も遺骨を大切にしますので、その感覚は近いと思います。 

M:遺体を布で包んであるのを包みなおしていましたが・・・

監督:ぐずぐずになっているので、4~5年に1度、お墓から先祖の亡骸を出して、新しい布で綺麗に包みなおします。「ファマディハナ」といいます。それがちゃんと出来るのはある程度お金を持っている人だけです。

K:お墓はどんな形ですか?

監督:地域差があります。石を積んだり、生前好きだったものが描かれているもの、山の斜面だったり。地方によって特徴はあると思いますが、決まった形はありません。

K:お墓というと町外れにあるイメージですが。

監督:確かに生活圏の中でなく町外れでみましたね。

M:お姉さんが隣村に出稼ぎに行って亡くなったとありましたが・・・

監督:産業が何もないところなので、家事手伝いくらいしか仕事がないのです。
マダガスカルの南部は飢饉もひどくて、食べるものもなくて大変です。
撮影隊もダニに襲われました。彼らは地元の人は襲いません。移動している外国人などが狙われます。

K:木の上でコーヒーの実を取っている人が印象的でした。

監督:祖先の世界と今を行き来する、その間にいる存在です。彼はイタコではないです。地上と天上の間の木の上にいる設定です。彼とはたまたま出会いました。南東部の河の河口が広くて、渡し船で渡るのですが、エンジン付きの船が動かない時には、丸太船を漕いで渡ったり、泳いでいく人もいます。
船着き場の傍らで用足ししていたときに、目の前でごそごそ動いている人がいて、声をかけられたという出会いでした。


M:幽霊のような存在がありましたが。

監督:「ルル」というのですが、日本の幽霊の概念に似ているところもあります。成仏していません。


◆タイトル「ヴァタ(箱)」に込めた思い

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© FLYING IMAGE

K:マダガスカル語で「ヴァタ」は[箱]、映画の舞台の南部では[体]を意味する単語でもあると聞きました。遺骨を入れるのも箱ですし、ギターも箱に見えました。タイトルに込めた思いをお聞かせください。

監督:「箱」は非常にキーになっています。 骨を入れる箱と楽器の箱。肉体が腐って骨になったという身体性があります。
マダガスカルに住む人たちは、諸説ありますが、約1500年位前に東南アジアから来られた人たちが祖先なのですが、持ってきた中に楽器もあったと思います。竹の中に弦を張ったヴァリハという弦楽器から始まっています。おなじような楽器がインドネシアやフィリピンなどにもあります。「箱」はマダガスカルのルーツである楽器ヴァリハのイメージでもあります。 今回の映画にはヴァリハは出てないですが。


K:マダガスカルは島ですし、アフリカ大陸とも違う文化ですね。

監督:全然違いますね。大陸との間に、モザンビーク海峡があって、50kmくらいなので、頑張れば泳いで渡れそうですが、流れが急らしいです。

K:インドやアラブ、東南アジアなど、海を渡ってきた文化がマダガスカルにはあって、面白いですね。
マダガスカルといえば、バオバブの木が思い浮かぶのですが、特に強調されていなかったように思います。

監督:この映画には、マダガスカルの動植物として有名なバオバブもカメレオンも出てきません。バオバブは西の方の乾燥した地域にあります。1本くらいあれば使いたいと思ったのですが、南のほうにはありませんでした。

M:帽子を家の中でもかぶっていたのが印象的でした。

監督:家の中でかぶっていたのはたまたまだと思うのですが、帽子は民族によって違います。四角、丸、とんがっている帽子や印がついているものなど、いろいろあります。


◆前作はフランス文化センターで上映会
K:マダガスカルには映画産業がほとんどないのだそうですね。

監督:今は映画館も出来たと聞いているのですが、映画館にかけるような映画を作っているかどうかは知らないです。今はYouTubeの時代で、YouTubeで流すインデペンデント映画を盛んに作って、稼いでいるみたいです。

K:『ギターマダガスカル』と『ヴァタ ~箱あるいは体~』は、マダガスカルの人たちに観てもらう機会はあったのでしょうか? どんな感想をいただきましたか?  出演者の方、一般の方、それぞれの感想は?

監督:『ギターマダガスカル』は、2016年に現地で大使館が企画して、フランス文化センターで上映会を開いてくれました。当時、マダガスカルで唯一映画が上映できたホールです。現地の方も喜んでくれました。楽しんでもらったと思います。
『ヴァタ ~箱あるいは体~』は、まだ現地で上映会を開いていませんが、スタッフには観てもらいました。



◆味付けは、どんな食材もトマトソースで!
K:骨を運ぶ人たちに南東部で会ったので、本作は南東部で撮影されたけれど、不便な場所で大変だったそうですね。

監督:あとで考えたら、あんなに遠くまで行く必要はなかったのですが・・・ 首都アンタナナリボからちゃんとした四駆の車で行っても3日かかります。クルーの大半は飛行機で行って、そこから車で移動したのですが、現地で車も必要なので、首都から車で行ってもらったスタッフもいます。外のロケが多い映画なので、雨が降ったら全然撮影できませんでした。

K:撮影隊の人数は少なかったのですか?

監督:クルーは25人で、日本からは4人。ドライバーや料理をする人も含めての人数です。テントや小屋で寝泊まりしました。長編の劇映画は初めて監督したので面白かったです。

K:料理はどんな感じですか? お米をよく食べるそうですが。

監督:三食お米です。でんぷん質の高くない痩せているお米。いっぱい食べてもそんなに腹持ちがよくないです。

K:味付けが気になります。

監督:小さな缶詰のトマトソースがあって、なんでもそれで味付けします。肉でも魚でも海老でもなんでも、トマトソースと塩。どれも味が似ています。
冒頭に出てきた船は、伊勢海老取りの船です。小ぶりの伊勢海老は売り物にならないので、それを買ったのですが1匹 50円くらい。「トマトソースは入れないで」とお願いして、ゆでたり、焼いたりしてもらいました(笑)。


K:辛くはないのですか?

監督:辛い薬味はあります。美味しいと思います。フランスの植民地だったので、フランス料理も安く食べられます。田舎に行ったら、昔のフランスの影響でパンを炭火で焼いていて、めちゃくちゃ美味しいです。ホウシャガメも食べます。ハリネズミ、ホロホロ鳥、コウモリも美味しい。鰻も川で取れます。輪切りにしてトマト煮(笑)。繊細な料理はできません。

M:テレビでマダガスカルを観ることはありますが、トマトソース味の料理は観たことがなかったです。

監督:テレビクルーは、マダガスカルのコーディネーターが連れていくので、報道で観れるものは同じ。パターンが決まっています。

M:そういう意味で、この映画で観たマダガスカルの文化は新鮮でした。


◆『スターウォーズ』そして『宇宙からのメッセージ』の衝撃
K:高校時代にすでに映画部に入っていたのに、それも忘れていたとか。
小さい時に観た映画でこれはという映画は?

監督:『スターウォーズ』ですね。小学校2年生の時に観て、衝撃的でした。凄すぎて!
1978年の『宇宙からのメッセージ』という日本映画が、『スターウォーズ』の半年後くらいにできたものですが、まるで『スターウォーズ』。ショックを受けて愕然としました。真田広之さんが出ています。


K:『宇宙からのメッセージ』、ぜひ観てみたいです。 監督の次の作品も楽しみにしています。
本日はありがとうございました。

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★取材を終えて
アフリカには子供のころから興味があって(60年以上も前です)、小中学校の頃にはアフリカを舞台にした動物ものや冒険もの、20世紀の新発見というような本をよく読んでいました。
ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」を読んで、いつか世界一周の旅に出たいと思っていたので、2018年にピースボートで世界一周の旅に出たのですが、その時にマダガスカルにも行く予定でした。ところがインド洋のまんなかで右肩を脱臼してしまい、マダガスカルの手前のモーリシャス諸島から日本に帰ることになり、マダガスカルには行けませんでした。子供の頃からマダガスカルのバオバブの樹に興味があったので、マダガスカルにとても行きたかったのですが、そういうわけでマダガスカルにたどり着けず、とても残念でした。
そのマダガスカルと音楽に高校生の頃から興味があったという亀井監督。その頃からの好きが高じて、マダガスカルに行き、しかもマダガスカルを舞台に映画を作ってしまったという。とてもすてきな話だなと思いました。そして、できた映画では、これまでTV番組で伝えられてきたマダガスカルとは違う光景や文化を知ることができました。しかも、死んだ人の魂や骨を故郷の土地に戻すという風習は、この国にもあるらしい。とても興味深かった(暁)。

私も若い頃から民族音楽に惹かれましたが、ただただ聴くだけでした。亀井監督は、各地の音楽が、人々がどういう営みをしてきた中から生まれたものかを追求されて、映画まで作ってしまいました。さらに、本作は現地で偶然出会った箱に入った骨を運ぶ人をテーマに、ご自身で脚本まで書いて、現地の方たちに演じてもらったという稀有な映画。次のターゲットはどこなのか、とても楽しみです。
そして、今回のインタビューの中で、一番印象に残ったのは、食べ物のこと。どんな素材も同じトマトソースで味付けしてしまうという話が面白かったです。トマト味は大好きですが、伊勢海老は、私も単純に茹でるか焼くかでいただきたいです。(咲)


映画『WALK UP』主演クォン・ヘヒョ登壇トークイベント報告 (咲)

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韓国の名匠ホン・サンス監督の長編第28作目となる『WALK UP』が2024年6月28日(金)より日本劇場公開されることを記念して、主演のクォン・ヘヒョが緊急来日し、上映劇場の一つ、ヒューマントラストシネマ有楽町にて、6月6日(木)19:00回上映後にトークイベントが開催されました。
クォン・ヘヒョは、20年前に日本での韓流ブームの火付け役となったドラマ「冬のソナタ」(02)のキム次長役で知られ、メインストリームの大作『新感染半島 ファイナル・ステージ』(20)や、Netflixドラマ『寄生獣 ―ザ・グレイ―』(24-)などでも活躍する名優。

『WALK UP』は、ホン・サンス監督常連俳優の名優クォン・ヘヒョを主演に迎え、都会の一角にたたずむ4階建てのアパートを舞台にした、芸術家たちの4章の物語。
シネジャ作品紹介 


●『WALK UP』上映後トークイベント
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ゲスト:クォン・ヘヒョ
MC:月永理絵(ライター/編集者)
通訳:根本理恵

MC: 本日は最速上映会にお越しいただきまして、ありがとうございます。
それでは、本作で主演の映画監督ビョンスを演じ、これまで「冬のソナタ」はじめ多くの作品に出演されてきましたクォン・ヘヒョさんをお呼びしたいと思います。どうぞ拍手でお迎えください。

クォン・ヘヒョ:今回はホン・サンス監督の『WALK UP』の日本での最速上映会の機会にお招きいただきありがとうございます。個人的には20年前に「冬のソナタ」で来たことがある東京にまた来ることができて、ホン・サンス監督の作品を通して、このような形で皆さんとお会いすることができて、本当に光栄です。

MC:ホン・サンス監督から特別に観客の皆様にメッセージをいただいていますので、根本さんから読み上げていただきます。

根本:「私たちが作った映画を今日観に来てくださった観客の皆さんに心から感謝いたします。私が自らご挨拶に行けなくて残念ですが、クォン・ヘヒョさんは映画の主人公であるだけでなく、私と一緒に多くの映画を作った素晴らしい俳優ですので、皆さんと楽しくお話できると信じています。私たちの映画に関心を寄せてくださった皆さんへ改めて心からの感謝をお伝えします。 ホン・サンスより」

クォン・ヘヒョ:昨日の夜遅くホン・サンス監督から届いて、私から読んで欲しいということでしたが、内容をみましたら自分で読み上げるのはどうしても恥ずかしくてできませんでした。

MC:今日はたっぷりクォン・ヘヒョさんにお話しをお伺いしたいと思います。

クォン・ヘヒョ:質問を受ける前に、気になっていることがあります。映画をご覧になっていかがでしたでしょうか?
(満席の観客より大きな拍手)
カムサムニダ。(と、ほっとした表情で笑うクォン・ヘヒョ氏。)


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MC:出演された経緯、どのように出演が決まったのかお伺いします。

クォン・ヘヒョ:『WALK UP』は、ホン・サンス監督の28本目の映画で、私がホン・サンス監督とご一緒した映画としては9本目です。ホン・サンス監督からの出演オファーは、いつも同じ形でいただきます。それは、「いつからいつまで映画を撮る予定だけど、時間ある?」。それだけです。ここにいらっしゃる方なら、ホン・サンス監督の撮り方をご存じかと思います。世界でも類をみない特別な撮り方をされる方です。いつも撮影の前日までどんな映画になるのか、まったくわかりません。撮影場所に着くと、その日に撮影する分だけの台本を撮影の1時間前にいただきます。ホン・サンス監督がその日の早朝に書いた台本です。その日撮影したものの中から細かい事柄を考えて、次の日の撮影の糧にするのです。私たち俳優は、次の日の撮影内容も知りません。私はこの作品をとても気に入ってます。長く答えてしまって申し訳ありません。

MC:主演作としては、ホン・サンス監督作では『それから』以来の主演作だと思いますが、主演であることが、ほかの作品とは違うお話が監督からあるのでしょうか?

クォン・ヘヒョ:この作品については、撮影が始まる前に知っていたのは二つのことだけでした。それは監督から「主人公は君だよ」「主人公の仕事は監督だよ」とだけ言われて撮影に臨みました。このような話をすると、皆さんは脚本がないように思われるかもしれません。先ほどお話しましたように、この作品を含めて、その日の撮影を踏まえて次の日の脚本を書かれます。完璧な台本です。俳優は置かれた状況の中でアドリブは一切なく、ホン・サンス監督は28作品、そのようにしてテイクを何度も重ねて本当に精巧に精密に作品を作っています。撮影の日の朝、台本をいただくのは撮影の約1時間前なのですが、その間にセリフを覚えます。ワインを飲むシーンはワンテイクで17分間ありますが、A4で何枚もあるセリフを一言も間違えずに覚えて、3人の俳優のアンサンブルで撮るので、かなりの集中力が必要とされます。

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MC: 本作は地上4階・地下1階建ての小さなアパートで物語が進んでいきますが、実際に、1軒の建物内で順番に撮影をしていったのでしょうか?

クォン・ヘヒョ:この質問をいただいて思い出したのですが、先ほど、「いつからいつまで撮影するけど時間ある?」といわれたと話しましたが、ホン・サンス監督から特別のお話しがありました。「ソウルの江南に面白い建物を見つけた。ここで撮影したら面白い物語ができそうだ」という一言がありました。実際に、最初から最後まで一つの建物の中で撮影が行われました。

MC:1階から2階と上にあがっていくにつれ、時間が少し経過しているような、もしかして時間が経ってないような不思議な作りでしたが、実際に順番通りに撮っていったのでしょうか?

クォン・ヘヒョ:ホン・サンス監督の作品世界は、非常に特別な構造を持っていますよね。繋がっているようで繋がっていない特別な構造の世界です。驚くべきことであり面白いことです。ホン・サンス監督は、いくつものシーンを撮っておいて、あとから編集して時間軸を決めたりするという編集の技術を使う形ではなく、皆さんがご覧になった順番通りに、本当に一日一日順撮りしていくので、私も撮りながらいつも驚かされています。これはいったいどういうことなのか、これは何だろうと驚きながら撮影に臨んでいます。観ている方も驚きながらご覧いただいたことと思います。皆さんまじめで、真剣に聞いていますが、この話をすると、うわ~っと笑われるのですよ。(ハハハと大笑いするヘヒョ氏)カムサムニダ。

MC:今回、監督役ですが、俳優として、どのような基準で出演作を決めていますか? 監督で選ばれるのか、脚本を読んで決められるのか?

クォン・ヘヒョ:役柄の大きさに関わらず、この作品は面白いなと思ったら出演するようにしています。私は若い頃からホン・サンス作品のファンでした。ホン・サンス監督の作品に出られることは光栄なことです。28年以上に渡り、唯一無二と言えるご自身の世界がある芸術家であり、作品を通して全世界に届けているインスピレーションは素晴らしいものです。撮影に参加できるのは、ほんとうに嬉しいことですし、今日もお蔭様で久しぶりに東京に来て皆さんにお会い出来て嬉しく思っています。

MC: 劇中でギターを弾いているシーンがありますが、今日は特別にギターを弾いていただこうと思います。

クォン・ヘヒョ: 2022年に韓国で公開されたあと、いつ歌ってくれるのですかとよく言われました。
(ギターが目の前に運ばれます)
歌えますかと言われて、自分に歌える歌には何があるだろうと考えました。

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大いに照れながらギターを手にして、「上を向いて歩こう」を日本語で歌ってくださいました。
手拍子しながら聴く観客。
最後は口笛でメロディー

クォン・ヘヒョ:(ハハハ)一つ、問題があります。私が一番恥ずかしいのが、歌っている映像を撮られたのを自分で観ることなのです。歌手と私の違いは何だと思いますか? 歌手の方はしらふで歌いますが、私はお酒を飲まないと歌えません。しらふで歌った映像を観たとしたら、もう頭がいかれてしまいそうな気になります。もし撮られた方がいましたら、自分だけでご覧ください。外に流さないでください。

MC:ほんとうにスペシャルなことをありがとうございました。

クォン・ヘヒョ:カムサムニダ。俳優になって初めての経験です。皆さんが緊張されていたのが、少しほぐれたような気がします。

MC: お時間が迫ってきましたので、写真撮影の前に一言お願いします。

クォン・ヘヒョ:ホン・サンス監督の作品を通じて皆さんとお会いできて嬉しい気持ちでいます。一方、作品というのは、観終わった後は観た方のものだと思っていますので、このように観た後にお会いすると皆さんの思いを壊してしまうのではないかなと思っていました。私にとって今日のこの場は本当に嬉しい場になりました。6月28日から日本で公開されて日本の皆さんにご覧いただけることになりますが、これからも多くの関心を寄せていただけると嬉しいです。遅い時間までご一緒していただいてありがとうございました。皆さん、健康には十分気をつけてお過ごしください。


*フォトセッション*

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観客の皆さんにも撮影タイム
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最後には、ファンの女性の方から花束も。
大いに照れるクォン・ヘヒョ氏でした。

映画『WALK UP』主演クォン・ヘヒョ登壇トークイベント Facebookアルバム
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.993600336100885&type=3


WALK UP  原題:탑 
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監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス 
出演:クォン・ヘヒョ、イ・ヘヨン、ソン・ソンミ、チョ・ユニ、パク・ミソ、シン・ソクホ

2022年/韓国/韓国語/97分/モノクロ/16:9/ステレオ 
字幕:根本理恵 
配給:ミモザフィルムズ
公式サイト:https://mimosafilms.com/hongsangsoo/
★2024年6月28日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺、Strangerほか全国ロードショー


*********
★取材を終えて
私がクォン・ヘヒョ氏を意識した最初の作品は、「冬のソナタ」より前、映画『ラスト・プレゼント』(オ・ギファン監督、2001年)でした。詐欺師の役で、コメディアンなのかなと思いました。その後、強烈に印象に残っているのは、ドラマ「私の名前はキム・サムスン」のキム・サムスンの姉といい仲になる総料理長役。その後、数々の作品で彼が出てくると思わず笑ってしまう存在でした。先日、再放送で観終えたばかりのドラマ「王になった男」では、政治を牛耳る悪代官的な役どころで、凄みがあって、いつもと違うクォン・ヘヒョ氏に驚きました。『WALK UP』では、いつものホン・サンス監督の作品通り、ひょうひょうと浮気者の監督を演じています。
今回のトークイベントは、笑いに満ちた楽しいものでした。根本さんが通訳している間には、会場のあちこちに愛想よく目線をおくっていらっしゃいました。終了後も、ロビーで皆さんに気さくに接していらして、思わず、私も握手。これからも楽しみな役者さんです。


報告:景山咲子

『ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―』のトークイベント付き特別試写会レポート

5月18日(土)(2024)よりポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールほか全国順次公開されるドキュメンタリー作品『ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―』のトークイベント付き特別試写会が、4月22日に東京四ツ谷にある駐日韓国文化院ハンマダンホールで行われました。この作品は、朝鮮半島をルーツに持つ薩摩焼の名跡・沈壽官家の420年以上にわたる歴史を背景に、日本と韓国における陶芸文化の発展と継承の道のりをひも解いたドキュメンタリーです。
フリーライター、ラジオパーソナリティなど多方面で活躍している武田砂鉄さんをゲストに、本作品、企画・プロデュースの李鳳宇(リ・ボンウ)さん、松倉大夏監督が出席しました。

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左から李鳳宇プロデューサー、松倉大夏監督、武田砂鉄さん 


*松倉大夏監督
2004年よりフリーランスの助監督としてTV・映画業界で活動。
『ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―』が初監督作

*李鳳宇プロデューサー
製作や配給作『月はどっちに出ている』『パッチギ!』『フラガール』『健さん』『セバスチャン・サルガド』『あの日のオルガン』『誰も知らない』など
配給作『風の丘を越えてー西便制』『シュリ』『JSA』『殺人の追憶』など

『ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―』
2023年/日本/日本語・韓国語/5.1ch/117分
作品紹介 公式HP
監督:松倉大夏
企画・プロデュース:李鳳宇
出演:十五代 沈壽官、十五代 坂倉新兵衛、十二代 渡仁、ほか
語り:小林薫
企画・製作・提供:スモモ
配給:マンシーズエンターテインメント
シネマジャーナルHP 作品紹介はこちら


★トークイベント

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*この作品を作ったきっかけ
武田砂鉄さん「配給会社さんから依頼があり、ポスターや作品紹介を読み、地味な映画かと思いましたが、観ていくうちに長い歴史とか、いろんな国や地域というものが重なり合い、なんで自分たちが今ここにいるのかとか、今ここにそのものがあるのか、蓋を開けてみればどんどん広くなっていったという感覚で、扉を開けたらそこにものすごく広い世界があった」と映画の感想を。

李プロデューサー「沈壽官さんとは20年くらい親交がありますが、この映画の話をしたのは4~5年前。沈さんは、最初はあまりやってほしくない感じでした。劇映画ばかり作ってきたけど、ちょうど高倉健さんのドキュメンタリー映画『健さん』を作った後だったので、『健さん』の次なんですよと言ったら、沈さんが「じゃあ俺もやろうかな」と言ってくれました」と、オファー時のエピソードを披露してくれました。

武田さん「司馬遼太郎の『トランス・ネーション』や『国家を超越していく』という言葉や考え方がこの映画の背骨になっていると思うが、企画の段階からそこに到達できそうな見込みはあったのでしょうか?」

李プロデューサー「僕は在日韓国人の2世で、『パッチギ!』とか『月はどっちに出ている』とか色々作ってきて、韓国、朝鮮との関わりみたいなことを考えたことは何度かあったけど、司馬さんの本に触れ、沈さんの物語を聞き、おそらくこの先100年とか200年とか経ったときに、在日韓国・朝鮮人という人たちはどうなっているのかの、そのひとつの答えのようなものが沈壽官家にあるんじゃないかと思う。そういった物語もなんとかいかしてほしいと監督にお願いしました」

松倉大夏監督「狭い尺度じゃなくて広い尺度で歴史を捉えないといけないと念頭に置いて、沈壽官家のドキュメンタリーを撮りたいと思いました」
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武田さん「司馬さんの言葉でもう一つ、強い日本人ということでなくて、強く日本人であるということばを大切にされていて、この言葉というのは個々に受け止め方は違うでしょうけど、ともすれば強い日本人というのは、いかに鍵括弧つきの日本を愛せるかとか、ほかの別のところから来る脅威から守れるかという、強い日本ということになっている。それは大きな間違いだと思うのですが、強く『日本人である』というのは、ともすれば今この日本がどういう国で、どういう場所であるかっていうことを、疑うとか、批判するとか、監視するっていう、その視点っていうのはすごく必要だなって思うんですよね。そのときにやはり監督がおっしゃったような、なんで今この歴史、ここにたどり着いているのかってことを考えたときに、先の戦争だけじゃなくて、もっと長いスパンでこう歴史をみていく、その視野を持つっていうのはすごく大事なことだなと改めて思った」と、この映画に対して印象を述べました。

ラストシーンについて

武田さん「エンドロールが終わったあとのあのシーンというのは印象的でしたね。あれは思い入れがあったのですか?」

松倉監督「あれはどうしても使いたいと思って編集していました。あの神社に行った時、蝶が飛んでいるのをみて、沈さんの親への気持ちというものを表現するのにどうしても使いたいなと思っていたのですが、流れの中には入らなくて。なので、一番最後に入れるのがいいのではないかと話し合い、そういう結論に達しました」
「鹿児島での先行上映の時にもお客さまからさまざまな箇所に言及してもらいました。いろいろな感想を持てる映画になったと思うので、SNSでも感想をあげて、ぜひ広めていただきたい」と呼びかけ、イベントは終了。

*トランス・ネーション 司馬遼太郎の造語
「いまの日本人に必要なのは、トランス・ネーションということです。韓国・中国人の心がわかる。同時に強く日本人である、ということです。」「真の愛国は、トランス・ネーションの中にうまれます」
トランス・ネーションとは、司馬の造語。トランスは変圧器。異なる電圧を変換して、生活に役立てるのがトランス。双方を繋ぐ役。司馬さんは橋渡し役をというような意味で言ったのでしょうか。

『ちゃわんやのはなし―四百年の旅人―』は東京のポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールほか全国で順次ロードショー。

文:宮崎暁美 撮影:景山咲子