『盗月者 トウゲツシャ』舞台挨拶

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         (公式写真)

『盗月者 トウゲツシャ』が11月22日に公開を迎え、11月23日に都内の映画館で公開記念舞台挨拶が実施され、ユエン・キムワイ監督が「ハロー、ハロー、ハロー!」と登壇、また香港からオンラインで主演のイーダン・ルイ、少し遅れてアンソン・ローが参加しました。(映画の内容にふれています)

ユエン監督 みなさんこんにちは!『盗月者 トウゲツシャ』を観に来てくださってありがとうございます。日本で上映できて、とても感動しております。

香港の映像が映りましたが、イーダン・ルイが一人です。「ハーイ、みなさんこんにちは!」と広東語で挨拶。

ーそれでは、イーダン・ルイさんから日本の観客の皆様にひとことお願いします。
 
イーダン・ルイ (広東語で)みなさんこんにちは、イーダンです!
(日本語で)オハヨウゴザイマス。ワタシハ イーダン・ルイ デス。
(英語で)皆さんに会えて嬉しいです。映画を楽しんでくれると嬉しいです。どうもありがとう。

―アンソンさんをお待ちいただくことにして、私の方からいくつか質問させていただきたいと思います。まず、監督から見た主演お二人の印象はいかがでしたでしょうか?

ユエン・キムワイ監督 もちろん僕の目からみて、2人ともとても有能な俳優です。イーダンはとても努力家で真面目です。脚本を何度も読み返して、たくさん質問をしてきました。200個くらい(笑)。困った俳優さんです(笑)。でも、それは作品にとても思い入れがあるということなんです。これからもそんな風に映画に情熱をそそいでくれると嬉しいです。
アンソンはまた違って、現場の雰囲気で自分のカラーを出していくスタイルの俳優です。元々のバックグラウンドがダンスだからかもしれません。あ、(アンソンが)来ました。

アンソン・ロー みなさんこんにちは、僕はアンソンです。

ーそれでは監督からもう一度アンソンさんの印象を。(会場笑)

ユエン・キムワイ監督 アンソンはすごく感覚的で、感性に訴えるような俳優です。計算して演技をするというのではなく、現場での雰囲気や相手の方とのフィーリングで演じていくタイプです。現場でもいろいろ発見がありました。

ーそれでは逆に、ユエン監督の演出はいかがでしたか?

イーダン・ルイ 監督とはこれが初めてではなくて、これまで何度か一緒にお仕事をしてきました。お父さんのように見守ってくれるタイプの監督です。ゆとりを持たせてくれる、いろいろなことを試させてくれます。ですから僕は安心して仕事ができて、自分のチャレンジもサポートしていただきました。とても感謝しています。

アンソン・ロー 撮影の際にいろいろなトラブルに見舞われました。というのは、この4人(※窃盗チームを演じた、イーダン・ルイ、アンソン・ロー、ルイス・チョン、マイケル・ニン)で一緒に仕事をしたのは初めての経験で、手探りの部分もありました。撮影前にも何度もリハーサルを繰り返して調整してきました。実際の演技でもバージョンをいろいろ変えて、どうやったら気持ちが込められるのか、もっと良くなるのか監督に観ていただいて決めていきました。我々みんなが監督を信頼し、監督も信頼してくださったので、お互いの絆の輪の元にこの映画ができたと感じています。アリガトー。

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ルイス・チョン、マイケル・ニン、アンソン・ロー、イーダン・ルイ

ーこれから会場からの質問に移ります。時間が限られておりますので、映画に関するご質問にしぼって、お一人お一つでお願いします。

Q ユエン監督は大阪アジアン映画祭のときに、「撮影で迷惑かけてごめんなさい」と仰っていたんですけど、アンソンは日本での撮影中、何を感じていましたか?寒くて大変とか、ホームシックは?

アンソン・ロー 日本で緊迫したシーンを撮影するときに、自分の感情をどう表現していくか、わざとらしくなく自然に緊張感を出すといった演技の工夫が必要でした。とても緊張したシーンの後に、そうではない平穏なシーンの撮影が始まると、その気持ちを白紙に戻します。その感情の切替えが大変でした。ご質問ありがとうございました。

Q 日本での撮影なので、親近感がありましてとても面白いと思っています。お二人、撮影中の面白い思い出はありますか?また日本でどこか行きたいところはありますか?

イーダン・ルイ 面白いエピソードはたくさんあります。印象的なシーンは、時計店の地下で金庫を開ける場面です。お店の人が暗証番号を入れるのを、みんなが肩越しに見ようとしているのですが、実際は完全に見えてしまっていました。見えているのに、見えない演技をしなければならなくて、みんなが笑うのを必死に我慢していたシーンなんです(笑)。
マイケルがタバコに火をつけるシーンで、撮影のときにタバコの火が下に落ちてしまって何かに引火して炎がわっと上がってしまいました。みんなで何んだ何が起きたんだ?と大騒ぎしました。
僕たち二人とも、東京はもちろん大好きです。大阪やほかの都市にも行ってみたいです。日本の冬はとても綺麗なので、また来たいです。

ーお名残惜しいですが、そろそろ時間となりましたので、アンソンさんイーダンさんから一言ずつ。

アンソン・ロー みなさん映画をサポートしてくださってありがとうございます。この映画は僕にとって今までとはちょっと違うもので、力を入れました。これからももっともっとみなさんに楽しんでいただけるものを提供したいと思っています。どうぞ応援してください。ありがとうございました。

イーダン・ルイ この映画を応援してくださってありがとうございます。日本での撮影は、1ヶ月間でした。海外での撮影の機会はあまりないのですが、また機会があればみなさんとの交流ができればと思っています。ありがとうございました。  

ー珍しい形となりますが、ここでフォトセッションとなります。後方から撮りますので、みなさん大きく手をふってください。

イーダン・ルイ&アンソン・ロー(手を振りながら)ありがとうございました~!

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ユエン・キムワイ監督(公式写真)

ここでスペシャル・プレゼントとして「5人のサイン入り香港版ポスター」を一名の方に。ユエン監督がチケット半券の中から一枚を引き、前方の男性の方が当選しました。監督のサインをその場で加えて完成。おめでとうございます。

―最後に監督から日本の観客のみなさんに一言お願いたします。

ユエン・キムワイ監督 みなさま今日は観に来てくださって本当にありがとうございました。面白いと思われたらぜひお友達に観てねと薦めてください。これは香港映画でも数少ない「悪役が誰も警察に捕まっていない」映画です(笑)。
楽しんで気に入っていただけると嬉しいです。サンキュー!
(写真:公式/まとめ:白石映子)

(C)Emperor Film Production Company Limited MakerVille Company Limited All Rights Reserved

★上映劇場にて来場者特典プレゼントを実施中です。
各週、ご来場の方に先着で、登場キャラクターの特製ポストカードをプレゼント!
※ランダムでの配布です。絵柄は選べませんのでご了承下さい。
※ご鑑賞のお客様お一人様1回につき1枚、先着順での配布、在庫がなくなり次第終了となります。詳細は上映劇場のHPにてご確認ください。

■上映劇場→ https://theaterlist.jp/?dir=tougetsusha
上映1週目:ヤウ(アンソン・ロー) or タイツァー(ルイス・チョン)
上映2週目:マー(イーダン・ルイ) or マリオ(マイケル・ニン)
上映3週目:ロイ(ギョン・トウ)

⽇本×ウズベキスタン 初合作映画『草原の英雄ジャロロフ~東京への道~』記者会見報告

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モデルとなったジャロロフ選手が二つの金メダルを持って来日!

ウズベキスタンが誇るボクシング界の英雄、バホディル・ジャロロフ選手の半生を描いた映画『草原の英雄ジャロロフ〜東京への道〜』。11月8日からの公開を前に、モデルとなったバホディル・ジャロロフ選手とアククロム・イサコフ監督が来日し、10月23日、日本記者クラブで記者会見が開催されました。
日本とウズベキスタン初の合作映画となる本作は、ウズベキスタンの貧しい農村出身ながら、恵まれた体格を活かしてボクシングの道を選び、東京オリンピックで金メダルを獲得、さらにパリオリンピックでも金メダルを手にした実在の英雄の感動の物語。


「草原の英雄ジャロロフ〜東京への道〜」 原題:Engilmas
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監督・脚本:アククロム・イサコフ
出演:ダダホン・オビドフ/ボイル・ホルミルザエフ/ジャボヒル・ゾキロフ/サイダ・ラメトワ、フィリップ・ラインハルト/イゴール・ジジキネ/アレクサンダー・ラポポート/山本修夢/アナスタシア/加藤雅也
配給:平成プロジェクト
平成プロジェクトHP https://heisei.pro/
公式サイト: https://yengilmas-movie.com/
©2024 Conglomerate Production
★2024年11月8日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開


●記者会見
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登壇者:
アククロム・イサコフ監督
バホディル・ジャロロフ選手
俳優 加藤雅也さん
俳優 山本修夢さん 

最初に在日本ウズベキスタン共和国アブドゥラフモノフ・ムフシンフジャ大使のご挨拶:
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困難に立ち向かい、夢に向かって闘うウズベクの若者に鼻高い思いです。ボクシングはウズベキスタンで人気です。大統領がボクシングの普及に力を注いでいます。20以上の新しいジムが開設されました。古いジムのリニューアルも行われています。
主人公ジャロロフ選手は、東京オリンピックに続き、パリオリンピックでも金メダルを獲得し、若者たちの大きな励みとなっています。映画『草原の英雄ジャロロフ~東京への道~』は、国の英雄ジャロロフ選手、渦劇スタンの自然や豊かな文化を描いていて、ウズベキスタンと日本の文化交流に大きく役立つことと思います。アククロム・イサコフ監督と平静プロジェクトの益田祐美子さんに感謝申しあげます。

監督:アッサラームアレイコム。こんにちは。合作映画の撮影にあたり、種々ご協力いただきまして、心から感謝申しあげます。初めての合作映画でした。モデルになったジャロロフ選手の東京オリンピックでの成功までを描きました。

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ジャロロフ選手:日本人は親切で、人間関係がよくて、暖かく迎えてくれて嬉しい。インタビューを受けて、好きな町は東京とパリと答えました。いずれもオリンピックの夢が叶ったところです。

加藤雅也:一つの架け橋で終わるのでなく、今後の架け橋になるようにしたいという監督の思いを受けて引き受けました。

山本修夢:ウズベキスタンに滞在したことがありますが、とても美しい国です。この作品に参加できて光栄です。

MC:ジャロロフ選手、オリンピック2連覇おめでとうございます。喜びの言葉を!

ジャロロフ選手:夢が叶ってとても嬉しいです。目標に向かって歩んできて、東京で初めて金メダル。神様のお陰でここまで成功できました。今、ウズベキスタンでは若者のスポーツとしてボクシングが参加です。今後のチャンピオンを育てていきたいです。

MC:ご自身の半生を描いた映画の感想をお聞かせください。

ジャロロフ選手:実はまだ見ていないのですが、映画が成功することを願っています。
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MC:監督に伺います。 アメリカ、カタル、ウズベキスタン、日本で撮影し、途中で主人公役の交代もありました。どんな道のりでしたか?

監督:苦労は付き物です。主役が代わることも、よくあることです。東京への道に到着できたのは、日本とウズベキスタンの架け橋になれればという思いがあったからです。

MC:加藤さん、山本さん、合作映画への思い、苦労したこと、楽しかったこと、いくつもの言語が飛び交ったことなどお聞かせください。

加藤:日本とウズベキスタンの架け橋になれればと。名前は知っていても、どんな国か知らなかったので、調べてみました。たくさんの苦労はなかったのですが、この映画を機に第一歩を踏み出せればと。今後も映画でお互いの交流があればと思います。
経済的に、今、日本の円は弱いけれど、日本のツーリストが過ごしやすい物価だと思います。文化を学んでいただければと思います。

山本:出演の経緯ですが、昨夏タシケント映画祭に参加した時に、監督にお会いしたのがきかっけです。タシケントは空が綺麗で、様々な文化が溶け合って素晴らしい町です。人がとても日本人に優しくて、日本が好きです。日本との歴史があったことを知りました。日本とウズベキスタン、両方のプロデューサーの方からオファーをいただきました。 撮影現場ですが、日本でのパートでは、通訳が3人もいました。監督の細かい指示を説明してくださいました。

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2002年にイランと日本の合作映画『風の絨毯』を手掛けて以来、様々な国との合作映画を放ってきた平成プロジェクトCEOの益田祐美子さん。
10月23日の朝、益田さんから「イスラム教ペルシャ圏でもあります、ウズベキスタンとの合作映画『草原の英雄ジャロロフ』本日5時半から日本記者クラブで記者会見します。お時間あれば ぜひお越しくださいね」とメールをいただき、予定を変更して駆け付けました。記者会見後に行われた試写は残念ながら観ることができなかったので、劇場で拝見するのが楽しみです。
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「今年5本映画を作ってしまったの」と益田祐美子さん。勢いが止まりません。ますますのご活躍を!

報告:景山咲子


『西湖畔(せいこはん)に生きる』グー・シャオガン監督トーク付き上映会

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新宿シネマカリテ、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次公開中の『西湖畔(せいこはん)に生きる』の顧暁剛(グー・シャオガン)監督が先行上映会に登場し、映画の上映後トークショーが行われました。
 
1作目の『春江水暖〜しゅんこうすいだん』が日本でスマッシュヒットしたグー・シャオガン監督。2作目の『西湖畔に生きる』は、去年10月の第36回東京国際映画祭(2023)で上映され、その際に来日。それ以来の来日をし、8月27日に先行上映と監督のトークショーが行われた様子をまとめました。
東京国際映画祭では、黒澤明賞(新たな才能を世に送り出していきたいとの願いから、映画界の未来を託していきたい映画人に贈られる賞)を受賞。山田洋次監督とのトークショーも行われています(記事はこちら)。

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©Hangzhou Enlightenment Films

『西湖畔(せいこはん)に生きる』 ストーリー
浙江省杭州の西湖畔。中国緑茶・龍井茶の産地として有名な西湖の沿岸に暮らす母と息子の関係を軸に、マルチ商法など経済環境の変化の中で揺れる家族の姿を美しい風景の中に描いた。10年前に父が行方不明になり、母の苔花と生きて来た青年目蓮。父を探すためにこの地で進学。卒業を控えて、今は求職活動をしている。
母の苔花は茶摘みで生計を立てていたが茶商の錢と恋仲に。茶摘みの仕事ができなくなり、苔花は同郷の友人に誘われ、マルチ商法に取り込まれ、詐欺まがいの仕事にのめりこんでいった。
マルチ商法の地獄に落ちていく母・苔花(タイホア)役を蔣勤勤(ジアン・チンチン)が演じ、母を救おうとする息子・目蓮(ムーリエン)を呉磊(ウー・レイ)が演じ、母子を守ろうと心を寄せる茶畑の主人に陳建斌(チェン・ジエンビン)が扮した。
シネマジャーナルHP作品紹介
『西湖畔に生きる』公式HP

グー・シャオガン監督トークショー
2024年8月27日(金) Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて

司会 ムヴィオラ 武井みゆきさん 通訳 磯 尚太郎さん

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●「山水映画」というのも1つのジャンルになるのではないか

顧暁剛監督 幸運なことにたくさんの方に注目していただき、東京国際映画祭では山田洋次監督と対談もできて夢見心地でした。今回また日本に来て、さらに多くの皆さんに作品をお見せできることがとてもうれしいと同時に皆さまに親しみを感じています。

司会 1作目の『春江水暖』でファンになった方も多いと思います。この『西湖畔に生きる』はまだ長編2作目です。去年の東京国際映画祭でこの映画を観ている方もいると思いますが、1作目とタッチが変わったんじゃないかとすごく驚いた方もいらっしゃると思います。前作『春江水暖』は、主に監督の親戚がキャストとして出演していましたが、本作ではウー・レイやジアン・チンチンといった中国映画界のスター俳優が参加しました。長編2本目でスケールアップしましたが、大きな勇気がいったと思います。西湖を撮っている、山水というところには共通点はあると思いますが、監督は、なぜ2本目でこのような変化をしてみたいと思われたのですか。

監督 私は映画学校で制作を学んだわけではないんですね。前作は初めての長編劇映画で、インディペンデントな方法で製作しています。その時からもっと多くの映画の技法を学びたいという気持ちがありました。今回、幸運なことにスター級の俳優を起用することができ、映画産業のルールにのっとった商業的な映画の製作ができて、このような規模がまったく違う方法で製作できました。
前作『春江水暖』は、幸運にもたくさんの方に好きと言っていただけましたが、これを撮っている時は、まだ「山水」と映画の関係について、ちゃんと考えていたわけではないのです。『春江水暖』を公開した時には3本の「山水映画」を撮ると言っていたのですが、『西湖畔に生きる』の中ではそれを訂正しました。この映画の冒頭で墨文字が出てきましたが、そこに「無数の山水画がある、無数の山水映画がある」というような表現をしました。
『春江水暖』が山水画の「富春山居図」を元にして「山水」という映像言語の可能性を提示したものであったとすれば、『西湖畔に生きる』では「山水」が、クライム映画とかロマンスとかロードムービーのようなジャンルというように、映像言語の1つであるジャンルになる可能性について追及しようと思いました。

●冒頭シーンはどの段階から考えていたのでしょうか

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©Hangzhou Enlightenment Films

司会 この映画の冒頭、山起こしをするシーンまでのドローン撮影が圧巻ですが、あのすごい映像は、脚本を書いている段階から考えていたのでしょうか。

監督
 脚本を書いている段階であの描写を考えていました。
『春江水暖』の時は長回しの技法をたくさん使いました。長回しというのは、右から左、左から右へと、技術的には複雑なことではありません。しかし、時間と空間の理解とか概念というのがこれまでと違っていて、山水画に由来するものでした。たくさんの登場人物たちが、いろいろな時間と空間を共有しています。
『西湖畔に生きる』では、山水画の遊観という原理を使いました。これは必ずしも写実的な映し方ではありません。ひとつの画面の中に複数の空間、異なる時間を並列させておくという考え方です。冒頭のシーンはその考え方を映像にしたものです。

●映画のみどころ 俳優たちの熱演

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©Hangzhou Enlightenment Films

司会 最初のドローン撮影とともに、この映画ではジアン・チンチンさんのすごい熱演というか狂気というのが心に残りました。また息子役のウー・レイさんの純粋さというか、こんなにも目の綺麗な人っているんだなあと映画を観て驚きました。

監督 今回、初めてプロの俳優たちとの仕事をすることになりました。今思い出すと彼らと仕事ができたことは夢のようなことだったと思います。彼らと一緒に役やキャラクターを作っていきました。今しがたこの舞台にのぼる前に外で最後に流れる歌を聴きながら「今回の撮影は本当に地獄の旅のようだった」感じていたところです(笑)。
橋の下でジアン・チンチンが絶叫するシーンでは、ウー・レイは、本当に心が崩壊してしまいそうになりました。お母さんに気持ちを投入し、「自分の母親がまったく違う母親になってしまった」と思って演じてくれました。撮影が終わった後もつらくて1時間ほど泣き続け、ずっと芝居から抜け出すことができないそういう状態でした。
ジアン・チンチンとウー・レイはあのとき、タイホアとムーリエンを演じていたわけではなく、かといって彼ら自身だったわけでもない。多くの母子の情感や魂が彼らの上に降臨してあの演技ができたのだと思います。
それと、もうひとつ思いだすのは、ウー・レイがお母さんを背負って山の中に入っていくシーンです。あのシーンを撮った時はすでに寒くなっていて、スタッフはコートを着ていました。ウー・レイは風邪気味で、コンディションが良くなかったのにジャン・チンチンを背負って山を登らなくてはならないという状態でした。調子が悪そうだったので翌日に回そうかなと思ったのですが、その撮影場所まで往復4,5時間かかる場所だったし、スタッフがたくさんいるので、ウー・レイは早く撮影を終わらせようと頑張って登ってくれたのです。
撮影の時に吐き気をもよおすシーンがありますが、これは演技ではなく、ほんとにつらかったんです。撮影が終わった時には彼はヘトヘトで、しかも、そこから2時間かけて山を下りなくてはならないという状態でした。ウー・レイは「今生の中で一番暗かった時間だった」と言っていました。

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©Hangzhou Enlightenment Films

もう一つ大変だったのは、この映画の撮影時期はコロナ禍で出資を募るのも簡単にはいかなくて、撮りながら出資を募っていくという状況でした。その中でジャン・チンチンとウー・レイも出資してくれたんです。そこまで映画を信じてくれました。今回、役者たちの信頼を得て撮影を行っていく中で、普通の仕事の関係を越えた感情で結ばれるようになったと思います。私は魂を差し出す、魂を交換するということがよくわかりました。大雨のシーンの一瞬は役者たちの力がすべてでした。俳優たちは皆、私たちのチームを信頼して、身と心を預けて演じてくれました。私はあの雨のシーンの撮影で魂の交感を本当に実感しました。
そして、もう一つ大事だったのは、あの撮影の現場に茶畑の主人を演じたチェン・ジエンビンさんもいたということです。彼も私たちのことを完全に信頼してくれました。実は彼はジャン・チンチンさんの本当の夫で、妻であるジャン・チンチンさんを励ましてくれました。そういう手助けがあって演技ができたんだと思います。
と、撮影を振り返りながら俳優たちへの深い感謝を語っていました。

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観客からの質問コーナー

質問 中国では検閲がネックになっていると思いますが、どのように乗り越えたのでしょう。

監督 その点でも大きな挑戦ではありました。映画の企画、テーマも大きな冒険の旅だったと思います。マルチを扱った映画というのは、これまで中国ではなかったのです。それが、なんとか形にできたのはプロダクション、配給会社、スタッフ、キャストの信頼があってこそだったと思います。それによって、今回、チャレンジ、様々な冒険を経て、このテーマの映画を撮ることができたと思います。完成して公開され、中国では良い成績を残すことができたのは、この映画にとって大きな成功だったと思います。

質問 先ほど言っていましたが、山水映画はどんなテーマと結び付くのでしょう。

監督 素晴らしい質問ありがとうございます。「山水」というのは、直感的に目に見えるもの、耳に聞こえるものなど直接の風景などもある以上に「澄懐観道」という四字熟語が山水映画のテーマとしてあるんです。心を澄ませて道を見るということ。ホウ・シャオシェン監督や小津安二郎監督らの作品がどうしてあんなに素晴らしいかというと、そこに彼らの人間世界に対する愛や、人の世に対する彼らの見方があるからだと思います。だから時空を超えた芸術作品としての価値を持つことができたんだと思います。だからこそ彼らの作品は「澄懐観道」だったと思うんです。
『春江水暖』も、この「澄懐観道」を目的としていました。ただそれは直接的ではない方法で描かれました。家族の物語でしたが、「循環・輪廻」を描いていました。『西湖畔に生きる』は、いかにして人間が本来の自分に戻ってこれるかを主題にしています。日本版のポスターやチラシの右上に「そのほとりには天上が在り地獄が在る。」とキャッチコピーがありますように、人の世の中、天国と地獄の両方が存在する。現代文明では、社会から教育とか価値観によっていろいろことが吹き込まれる。でもそれはほんとの意味での自分ではないので、「本当の自分」というのを模索したかったんです。天国と地獄、人間の心にある神と悪魔の部分を違った撮影形式で表現した作品になっています。
マルチ詐欺の場面は山水映画の言語として、観察者の視点で客観的に撮ることもできました。ただ今回はジャンルとしての山水映画を探求したかったので、観察者の視点をやめ、もっと入り込んだ視点で撮ることにしたんです。人間の心にある神と悪魔の部分を違った撮影形式で表現しました。風景を映すときは神のような視点で、マルチ詐欺の部分は入り込んだまなざしで地獄を描きました。今回はクライムの映像としての可能性を広げられないかということを考えたのです。

質問 タイホアが茶摘みの仕事で家計を支える設定にした理由は? 

監督 核心的な質問なので、どうやったら簡単に答えられるかですね(会場爆笑)。この話は「目連救母」という仏教故事をもとにしていて、目連は宗教的な意味を帯びた登場人物です。それを現代的に翻訳する上で「茶」がすごく大切だったんです。中国の原題は「草木人間」で、‌「茶」の文字を分解したものです。要するに、人間が草木の間にいるということです。この題名には、私自身深い意味、感情を込めたものです。この映画の中では「茶」というのは3つに分けて出てきます。ひとつは銭さんが煎っているお茶です。西湖龍井茶でとても高いんです。経済的なお茶です。また宋代のお茶のてん茶の技法。日本の抹茶的な技法です。それから唐代のお茶の技法が出てきます。「茶禅一味」といって、茶は禅に通じるものがあるということです。この映画の中では、人間を越えた神のような存在、タイホアは悪魔のようなもの。神と悪魔が自分探しをするんですね。仏教故事を現代の物語として描く上でお茶というのが大切な道具になりました。

司会 監督、次回作のことも含めて最後の挨拶をお願いします。

監督 次作、第3作ですが、やはり山水映画です。家族の物語で、ラブストーリーの要素が強くなると思います。今までとは違い、撮影のスタイルを決めてから脚本を書いています。できるだけ早く皆さんにご覧いただけるように頑張ります。
今日は遅い時間まで長くお付き合いいただき本当にありがとうございます。すばらしい夜でした! 気をつけてお帰りください。

笑顔の監督に、観客からは大きな拍手が!

トークショーを終えて
監督の答えがすごく長く、翻訳をする方はとても大変だったと思いますが、完璧な翻訳でした。四文字熟語についても、私たちにわかりやすく説明してくれました。それにしても、1問1問に丁寧に答えてくれた顧暁剛(グー・シャオガン)監督。最後の方、司会がなるべく短くお願いしますと言ったら、どうやって短くまとめるか考え込んだ監督でした(笑)。終わってみれば、1時間半。充実したトークショーでした。 
取材・写真 宮崎暁美

写真家石川真生を追ったドキュメンタリー 『オキナワより愛を込めて』 砂入博史監督インタビュー

8月24日(土)より沖縄・桜坂劇場での先行上映を皮切りに、8月31日(土)から東京・シアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー

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本作は沖縄を拠点として活動する写真家、石川真生さんを追った自伝的なドキュメンタリー。昨年「Cinema at Sea- 沖縄環太平洋国際映画祭」のオープニング映画にもなりました。今年2月に沖縄出身の写真家として初の文部科学大臣賞を受賞、3月には土門拳賞を受賞しています。
自身の初期作品を見ながら当時の様子を語る。写真家としての石川真生のルーツを辿りながらファインダーを通して語られた「愛」、作品の背景となった歴史、政治、人種差別、それらを乗り越えるパワーが写真とともに映し出される。

映画内容
1971年11月10日、米軍基地を残したまま、日本復帰を取り決めた沖縄返還協定を巡り、沖縄の世論は過熱していた。ストライキを起こした労働者と機動隊の衝突は、警察官一人が亡くなる事件に発展。当時、10代だった真生さんは、この現場を間近で目撃。「なんで沖縄にはこんなに基地が多くて、いろいろな事件や事故が多いんだろう」。同じ沖縄の人間同士の衝突がきっかけとなり、浮かんできた疑問が写真家の道に進ませた。

1975年、米兵を撮るために、真生さんは友人を頼り、コザ・照屋の黒人向けのバーで働き始める。バーで働く女性たちや、黒人たちと共に時間を過ごしながら、日記をつけるように写真を撮り続けた。
当時の生活が収められた3冊の写真集「熱き日々 in キャンプハンセン!!」(1982)、「熱き日々 in オキナワ」(2013)、「赤花 アカバナー 沖縄の女」(2017)を手に、およそ半世紀が経った今、当時の記憶を回想する。真生さん自身が「最も大事にしてる写真」と語る作品、そこに納められた人々との物語が語られていく。写真家、石川真生による自由な生き方を肯定する「人間賛歌」。

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以下HPより

石川真生さん プロフィール、活動など
1953年、沖縄県大宜味村生まれ。1971年、11.10ゼネストを機に、写真家になることを決意する。1974年、WORKSHOP写真学校「東松照明教室」で写真を学ぶ。1975年、黒人兵向けのバーで働きながら、黒人兵とバーで働く女性たちを撮り始める。半世紀に渡り、沖縄を拠点に制作活動を続け、沖縄に関係する人物を中心に、人々と時間を共にしながら写真を撮り続けている。2011年、『FENCES, OKINAWA』で、さがみはら写真賞を受賞。2014年から沖縄の歴史を再現した創作写真シリーズ「大琉球写真絵巻」を開催。2019年に日本写真協会賞作家賞、2024年には土門拳賞、文科大臣賞を受賞。東川賞、沖縄タイムス賞を受賞。

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early elephant film + 3E Ider © 2023

写真集 (全ての写真は石川真生が撮影したものです)
「熱き日々 in キャンプハンセン」石川真生・比嘉豊光 (あ〜まん出版 1982)
「熱き日々 in オキナワ」石川真生 (FOIL 2013)
「赤花 アカバナー 沖縄の女」石川真生 (Session Press 2017)
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砂入博史監督プロフィール
1972年広島で生まれ、ニューヨークを拠点に活動する。1990年に渡米し、ニューヨーク州立大学現代美術科卒業。欧米、日本の美術館、ギャラリーにてパフォーマンス、写真、彫刻、インスタレーションなど様々なジャンルの創作を手掛けている。近年は、チベットや福島、広島の原爆等をテーマにした実験ドキュメンタリーを制作。2018年、袴田巌をインタビューした『48 years – 沈黙の独裁者』で同年熱海国際映画祭長編コンペで特別賞受賞。2001年からニューヨーク大学芸術学科で教鞭も執る。現在は広島在住。
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監督のコメント
オキナワの写真家石川真生は、体当たりで写真を撮る、作品にオキナワの複雑な歴史、政治、アイデンティティを反映させ、進化させ、体現する。石川の実証的でありながら詩的な言葉は、写真と同じくらい印象的だ。写真と言葉は影響し合い、互いをより力強いものにする。私が気をつけたかったことは、被写体を植民地化しないこと、日本人としてオキナワを語らないこと、女性をオブジェクティファイしないこと、石川真生を説明しないこと。彼女の言葉を、映像やリサーチでイシュー順に構成し、オキナワ人であり、女性であり、写真家である石川真生が、可能な限り透明で複雑なオーガニズム、スーパー真生として生成する。

作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/504504591.html
公式ホームページ:https://okinawayoriaiwokomete.com/
予告編: https://youtu.be/cu_ot-S-GiE

砂入博史監督インタビュー  
取材 宮崎 暁美

●ニューヨークでの出会い
宮崎 私は石川真生さんよりひとつ年上です。彼女と同じ時代に生きているから、時代の影響というのは似ているところがあると思います。私は高校3年の1969年にベトナム戦争反対のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加したのがきっかけで、報道写真に興味を持ち、真生さんと同じ1970年ころから写真を始めました。でも、報道写真の分野には進めなかったけど、写真関係の仕事をしてきました。
そんな中で写真展には数多く行きました。1977年の石川真生さんの写真展、「金武(きん)の女たち」も行きました。その後、真生さんの写真展には1,2回は行ったと思います。でも、だんだんに写真展に行かなくなり、彼女のその後の活動については知りませんでした。
今回、監督にインタビューするにあたり、石川真生さんの活動を調べてみましたが、その後も沖縄を撮り続け、昨年は東京初台の東京オペラシティ アートギャラリーで「石川真生 私に何ができるか」という写真展をやっていたことを知りました。それに行けなかったのは残念でした。
同時代を生きてきた石川真生さんのことを知りたいと思い、砂入博史監督にインタビューをお願いしました。

監督 1977年の写真展に行ったのですか。それは貴重ですね。去年の写真展は彼女の回顧展です。その図版はありますよ。

宮崎 そうですか。後で見てみたいと思います。
石川真生さんは1974年に東松照明さんのワークショップに入り写真をやり始めました。監督は1972年生まれで石川さんが写真を始めた頃生まれたわけですから、20年近く若いですよね。石川真生さんを知ったきっかけとか、彼女を撮ろうと思ったわけなどを教えてください。

監督 まず最初に彼女に会ったのは2004年。ニューヨーク(クイーンズにあるPS1)で写真展があり、それに出品するためニューヨークに来られた。米軍を扱った写真展で、韓国や沖縄での米軍を扱ったグループ展でした。その時に学芸員をやっている友人が「面白い人が沖縄から来ているよ」と言って紹介されました。それまではまるっきり知らなくて、その時、初めて石川真生さんのことを知りました。
その頃、ニューヨーク大学で教えていたんですが、学生ギャラリーの運営をしていて、「じゃあ見にいく」と真生さんが来て、少し話をする機会がありました。その時は初めてだったので、まったく真生さんのことを知らなくて、米軍の基地を撮っている人かなぐらいに思っていました。
その後、2017年の「赤花 アカバナー 沖縄の女」という写真集がニューヨークで出版された時(「熱き日々 in キャンプハンセン」1982年写真集が再構成され、このタイトルで出版された)、出版記念のイベントみたいのがあって、真生さんが「ニューヨークに行くよ」とFacebookで言っていたので、「じゃあ、行きます」と、行きました。それで初めて、この「アカバナー~」というか、「熱き日々 in キャンプハンセン」のことを知ったんです。それで、こんな写真を撮っていた人なんだとびっくりしました。

宮崎 そうなんですよ。彼女の写真が初めて出て来た頃は1977年頃で、衝撃的でした。その頃、女性の写真家が少しづつ出てきましたが、当時、米兵の写真を撮っていた女性は、真生さん以外には石内都さんがいました。彼女は横須賀で米兵を撮っていました。

監督 石内都さんも米兵の写真を撮っていたのですか。

宮崎 石内さんは「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年個展)の中で米兵も撮っていました。偶然、二人とも1977年に写真展をやっていますね。私の中では、その二人の写真に強烈な印象が残っています。
米兵ではないけど、70年代~90年代にベトナムやカンボジア、中東など戦場や紛争地を撮っている女性もいました(大石芳野さん、南條直子さん、古居みずえさんなど)。もちろん男性はたくさんいましたが、女性は少なかった。その方たちも含めて、アート系や商業写真系ではなく、報道、ドキュメンタリー系写真分野で活躍し始めた女性が出てきた時期だったと思います。

監督 そうだったんですね。

宮崎 真生さんが昔の自分の写真集を見ながら、その時の気持ちや状況を語っていますが、彼女はかなり怒りながらこの女性たちを侮辱するのは許さないと言っていました。当時、彼女の写真を見て「売春婦が売春婦を撮った」とか、そんなひどいことをいうような人たちがいたとはびっくりしました。激しく憤っていましたが、私は、彼女の写真に対してそういう言い方をしたメディアがあったということを当時は知らず、この映画で知りました。たぶん、週刊誌や男性誌、スポーツ紙などがそういう風に書いたのだと思いますが、それで真生さんはきっと本土のメディアや男性に対して不信感や嫌悪感を持ったのじゃないかと思います。「本土のメディアは信用していない」なんて言ってますしね。

監督 彼女はすごく傷ついて、トラウマになっていたみたいです。アラーキーや東松照明さんに推薦されて華々しくデビューしたから、その上でのメディアの扱い方というのがあったと思います。

宮崎 そんなふうに言っている真生さんが、本土の男性である砂入監督の映画製作にスムーズにOKが出たのはどうしてかと思ったのですが、ニューヨークでこのような出会いがあって、このドキュメンタリーを撮ることになったのですね。

監督 2017年に彼女の写真集が出版された時にニューヨーク大学で、彼女の作品と沖縄についてのシンポジウムが開かれ、彼女はそれに呼ばれたんですね。その時に、沖縄の米軍を撮ろうと思ったきっかけの話をされました。子供の頃に、米軍(米兵)によるレイプとか人殺しとかの犯罪とかがあっても、琉球警察は何もすることができなかったという状況を話したのですが、それが当たり前のようにあった少女時代の話をしました。その話が生々しくて、かなり怒りを露わにして話されたんです。そこから米軍ってなんなんだという感じで、写真を撮ろうと思った話をしたんです。あとは映画の内容と同じですが、黒人専用のバーで働き始め、付き合っているうちにいい人、悪い人がわかるようになって、米軍ではなく一人の人間として見えてきて理解したという話になったんです。ちょうど2017年頃、ニューヨークではブラック・ライブズ・マター(黒人の命、人生も大切)の運動が盛んだった時だったんです。

宮崎 私、中学校の頃(1960年代)、人種差別、黒人差別の問題を知り、アメリカの人種差別反対運動関係や、ジェームス・ボールドウィンなどの本を読んでいました。なので、私が社会の問題に興味を持ったきっかけは黒人への人種差別問題でした。
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監督 そういう運動が60年代から行われていたのですが、やはりまだまだ改善されていなくて、現代も差別はあるわけです。その頃、黒人が警察官に殺されたりした問題もあり、運動が起こりました。
黒人だけではなく、ラテン系の人たちも加わって、アメリカ各地でプロテストの運動が起こっていたんです。ニューヨークではすごく大きな運動が起こっていて、ブルックリンからマンハッタンに来る橋がブラック・ライブズ・マターの人たちが通行止めにして大きなプロテストをしたりとか、そういうことが起こっている時期でした。
そんな中で、メディアも白人の人たちも黒人問題に言及することに、かなりの緊張感をもたないといけないような状態だったのです。
そういう時に、彼女の偏見ばりばりのしゃべり方、黒人はみんな同じに見えたとか、でも最後は人間として彼らを理解していったという言説に感動して、久々にこんなに率直な黒人やレイシズムに対する意見を聞いたなとフレッシュに感じたんです。なぜかというと、白人が黒人はみんな同じように見えるとか言ってはいけないんです。大きな問題になります。でも沖縄の女性からの発言だったのでびっくりしました。こんな素晴らしい言葉、今のアメリカ人は聞くべきだなと思って、彼女のドキュメンタリーを作ろうと思いました。写真も素晴らしかったし。

宮崎 そうだったんですね。

監督 それと、2017年に新たな癌がみつかって、ニューヨークに来ているときは手術前だったんです。シンポジウムの時、苦しそうにしていたので、その危機感もありました。こんな素晴らしい言葉を今残しておかないとと思ったので、今、作り始めるしかないなと思いました。

宮崎 本土のマスコミや男の人に対して、かなり反発があるようだったので、ドキュメンタリーを撮るときに、最初は断られたのかなと思っていたのですが、こういう形で知り合った上でのことだったのでスムーズだったんですね。

監督 レクチャーが終わったあとに、真生さんのところに行って「あなたのドキュメンタリーを作ります」って言ったら、真生さんは「はい、わかりました」って(笑)。知り合ってからではなく、日本からいきなり「砂入と言いますがドキュメンタリーを撮らせてください」という形だったら断られたでしょうね。

宮崎 そういう意味ではいい出会いでしたね。TBSのドキュメンタリーでも真生さんを3年位追っているようですね。

監督 金平茂紀さんの番組ですね。NHKでも撮っています。

宮崎 TBSのは見たことないけど、NHKのほうは見たことがあります。
車いすに乗っている姿をみましたが、手術の後だったんですね。

監督それもありますが、この2,3年で足腰が弱くなってしまったので、最近は車いすでイベントとかに出ていますね。

●真生さんが使っていたカメラ

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early elephant film + 3E Ider © 2023

宮崎 撮影は3年くらいとありましたが、何年頃ですか。

監督
 2017年から2019年頃です。


宮崎 辺野古で、舟に乗って写真を撮っているシーンがありましたね。あれは何年頃ですか?

監督
 2019年です。牧志治さんという辺野古の海の写真を撮っている方が、抗議行動と写真を撮るために舟を出しているんです。その舟を出す時に乗せていただきました。彼自身も大琉球絵巻に出演しているんです。


宮崎 あの時、ペンタックス6×7(フィルムの中型機)で撮っていたのでびっくりしました。彼女は今もフィルムカメラで撮っているのですか?

監督 そうだと思います。彼女はフィルム派の人みたいで、フィルムで撮ってスキャンしているみたいです。

宮崎 実は、私もペンタックス6×7を使っていたのでわかりますが、かなり重いです。舟のように揺れるものの上で写真を撮るのはかなり大変なのに、重いカメラで撮影しているってすごいですね。私はもう使っていないので、彼女がペンタックス6×7必要ならあげたい(笑)。

監督 海だししぶきがかかるだろうし、普通ならスナップショットを持っていったりするんですけどね。

宮崎 車いすに乗っているのに、ペンタックス6×7を使っているという彼女の心意気、すごいと思いました。

監督 そうですよね。しびれますよね。 

*と、しばしペンタックス6×7の話で盛り上がりましたが、さすがに今は、デジタルカメラを使っているようです。そしてペンタックス6×7は砂入監督が引き取ってくれました。

●撮影場所について

宮崎 石川真生さんの写真はなぜ黒人兵ばかりなんだろうと思っていたけど、この作品を観て、コザの黒人兵が集まる店に勤めながらの撮影だったということを知りました。コザの街で、黒人街と白人街が分かれていたというのは全然知らなかったので、それもびっくりしました。

監督 たぶん外からだったらわからないでしょうね。

宮崎 今年(2024)、47年ぶりに沖縄に行ったのですが、コザには行けませんでした。この作品を観て、行っておけばよかったとちょっと後悔しています。真生さんは、かつて自分が働いたところを何か所か歩いたりしていますが、最後に訪ね歩いていたのはコザですか?
*参照記事 シネマジャーナルHP スタッフ日記
佐喜眞美術館に行きたくて沖縄へ
http://cinemajournal.seesaa.net/article/503300142.html
7年ぶりに沖縄に行きました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/503301098.html

監督 いえ、あれは金武(キン)です。彼女は最初、コザで働いていましたが、そのあとは金武に行ったのです。でも、かつての街は変わってしまっていて、勤めていたところとか探し出せないくらいでした。

宮崎 そういえば、最初の写真展のタイトルは「金武の女たち」でしたね。彼女は米兵たちが訪れるバーで働きましたが、最初から取材ということではなく、働いて仲良くなってから写真を撮っていたのですね?

監督 思うに、彼女はそこまで前提を考えずに、撮影スタイルも確立されていないまま飛び込んでいったのではないかな。それで、状況に慣れながら写真を撮れる機会をみつけて撮っていき、そのスタイルが定着して行ったんじゃないかと思います。最初から取材をしに行こうというコンセプトで撮っていたんじゃないと思います。

宮崎 そういうスタイルだったからこそ、自然な写真が撮れたということしょうね。

監督 写真家としてそこにいるのではなく、いる人たちの中の一人として、自分も当事者としていたのでしょう、

宮崎 彼女がコザや金武にいた数年というのは、写真のためにというよりは、自分が体当たりで入っていって、体験していったのでしょうね。

監督 そうでしょうね。1日にいっぱい撮るのではなく、ゆっくりと撮っていたって言っていました。ちょこちょこと日記のように撮ったと言っていました。

宮崎 その頃、私も毎日カメラを持って通勤していましたけど、そういう人はけっこういました。彼女も働いている人や米兵とも仲良くなって写真を撮り、その撮りため写真で写真展をしたんですね。写真を発表するにあたって、肖像権などのトラブルはなかったのでしょうか。

監督 その中で、何人かは問題視して、文句言ってきた人もいたようです。女性の側からだけでした。米兵の人たちは見る機会もなかったですからね。

宮崎 40数年くらい前から肖像権について厳しくなりました。私も、メーデーや、女性解放運動、女子マラソン、登山、祭りなどの写真を撮っていたんですが、雑誌などに載せる時は、肖像権について載せてOKという許可を取ってないとダメになってきましたね。肖像権が厳しくなってきてからは、知らない人を正面から撮ったり、アップの写真は撮りにくくなりました。顔がわからないように撮るとか、後から撮るとかそういう写真の撮り方しかできなくなり、表情豊かな写真が撮りにくくなりました。

監督 つまらない時代になっちゃいましたね。 

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●写真家のドキュメンタリー

宮崎 去年は、アフガニスタンなどを撮ってきた長倉洋海さんを撮った『鉛筆と銃 長倉洋海の眸(め)』(河邑厚徳監督)が公開されましたが、ここ数年、毎年のように写真家のドキュメンタリー映画が公開されています。『ひろしま 石内都・遺されたものたち』という石内さんのドキュメンタリーも公開されました。リンダ・ホーグランド監督の作品ですが、砂入監督もご存じではないですか。

監督 リンダさん知っています。ジャパンソサエティ(ニューヨーク)などでの上映の時に翻訳や通訳をしていました。

宮崎 石川文洋さんのドキュメンタリー『石川文洋を旅する』の時には、石川文洋さん本人にもインタビューしました。

監督 ベトナム戦争を撮っていた方ですね。米軍に従軍して撮っていたんですよね。僕も何冊か写真集を持っています。

宮崎 ベトナム戦争の時は、写真は自由に撮れたんです。その時は沖縄の基地からもベトナムに飛び立っていっていたわけですが、ベトナム戦争が終わった後も、基地は残り、アメリカ軍の日本基地の70%くらいが沖縄にあるという状態ですよね。

監督 でも基地はグァムに移るということになっているんですけどね。

宮崎 エ~! そうなんですか。それなら、なぜ辺野古に基地を作ろうとしているのでしょう。

監督 そこがよくわからないところですが、60%移るということが決まっているようです。それだけ減るのなら、もう作らなくていいということになるじゃないですか。でも、工事を続けている。皆憶測で言っているのですが、もしかしたら自衛隊用に使うために作っているんじゃないかという人もいます。

宮崎 わざわざ埋め立てて造っているのに、基地は減る予定って、どうなっているのですかね。でも、そういうことは報道されていないような気がします。それでいいのかしら。八重山の自衛隊基地がどんどんできていることも、メディアではほとんど報道されてないですよね。

監督 真生さんは、そのことも大琉球写真絵巻で描いていますね。
去年の写真展は天野太郎というオペラシティの学芸員の方がプロデュースしています。

宮崎 70年代から80年代は、まめに写真を撮り、写真展も行ってたのですが、その後、写真展なども行かなくなってしまったし、カメラ雑誌なども見なくなってしまったので、何十年もの間、彼女の活動を知りませんでしたが、この映画がきっかけで、去年東京で写真展があったりとか、今年(2024)文部科学大臣賞や土門拳賞を受賞したことを知りました。しかし、写真やアートなどに興味ある人以外にはなかなか知られていないので、この映画を観ていただき、たくさんの人に石川真生さんのことを知っていただきたいですね。

『帰って来たドラゴン』舞台挨拶

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7月26日(金)より『帰って来たドラゴン』(1974)2Kリマスター版の上映が始まりました。
翌27日(土)新宿武蔵野館に、満席のお客様を迎えて倉田保昭さん、ゲストの谷垣健治さんの舞台挨拶がありました。
ほぼ書き起こしでその様子をお届けします。MCは江戸木純さん。(白) 

倉田保昭 1946年3月20日、茨城県出身。俳優、武道家。日本大学芸術学部演劇科卒。東映撮影所の研究生となる。70年香港のショウ・ブラザース社のオーディションに合格し『続・拳撃 悪客』(71)で香港映画デビュー。多くのクンフー映画に出演。74年『帰って来たドラゴン』を引っ提げで日本凱旋を果たした。テレビシリーズの「闘え!ドラゴン」、「Gメン‘75」で人気を博す。
76年に倉田アクションクラブを設立して人材育成を行い、数多くの映画、テレビ番組のアクション・コーディネートを手がけ、創武館道場で空手の指導を行ってきた。85年に倉田プロモーションを設立。その後も香港映画をはじめとした数多くの海外作品に出演。

谷垣健治 1970年10月13日、奈良県出身。映画監督、アクション監督、スタント・コーディネーター。
1989年大学入学と同時に倉田アクションクラブ大阪養成所に加入。1993年の大学卒業後つてもないまま22歳で単身香港に渡り、広東語を学びながら映画の仕事を探す。スタントマンとして多くの映画に参加、アクション監督トン・ワイの推薦で「香港動作特技演員公會 Hong Kong Stuntman Association」に所属した。唯一の日本人。香港ではドニー・イェンの作品に多く関わり、『燃えよデブゴン TOKYO MISSION』では監督をつとめた。日本では映画『るろうに剣心』シリーズのアクション監督ほかで活躍。
日俳連アクション部会委員長。DGA(全米監督協会)会員。

作品紹介はこちら
(C)1974 SEASONAL FILM CORPORATION All Rights Reserved.


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倉田 本日はお暑い中、ほんとにたくさんの方がいらしてくださってありがとうございます。50年前の映画ということで、私ちょっと不安なところがあるんですけど、いかがでした?(拍手)古臭さはなかったですか?パワーを感じていただけると有難いなと思っているんですけど。CGもワイヤーもない時代ですから。もう、今やれと言われてもとてもできないです。
ありがとうございました。ほんとに。

谷垣 おはようございます! 僕も今後ろで観ていたんですけど、面白いですよね。なんか神様がジャンプ力の調合を間違えたような2人(ブルース・リャン&倉田保昭)が(笑)こう上に上がって行く(必見)のが力強いなと思いました。先生ね、「今はもうできない」とおっしゃっていましたけど、『夢物語』では全然スピードは劣っていないですよね。むしろ速くなっているかもしれないなと(笑)。
先生、今日のこのお衣装は?

倉田 これはね、50周年なので、50年前に作った洋服。

谷垣 『戦え!ドラゴン』のときのですか?

倉田 これ、撮影では使ってないですよ。何かイベントみたいなので。たぶんブルース・リーのがかっこいいなと真似て作ったのかな。

―1974年に作られた『帰って来たドラゴン』と(新作の)『夢物語』を一つのスクリーンで上映するという、とても貴重な機会です。50年前に撮影されたこの映画、観るからに大変だったろうなと思うんです。そのへんのエピソード、こんなに凄かった、忘れられないことなどがありましたら。

倉田 先週プロデューサーのウー・シーユエン(呉思遠)に会いに香港に行ってきました。2人だけで5時間、広東語で話しました。その中で『帰って来たドラゴン』の話も出て、「あの頃はこうだったよねぇ」と。当時は中国の文化大革命の後で、国境があって行き来ができなかった。その中国大陸が見える小さい島で撮影しました。そこを見ながら「ウー・シエンのバカヤロー!なんでこんなきつい撮影させんだよー!」と(叫んでいた)。ホテルも何もないので、バーベキューやったりね。たまの休みに小さい船に乗って美味しい物を食べに行く。今は橋ができて渡れますけど。

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―谷垣さんはこの時代の香港映画、どう思われますか?

谷垣 観なおしたときに、これはできないなと思いましたね。役者にさせられないし、やれる役者もいない。僕らはこの方たちが作ったレールに乗ってアクション映画を撮っているんですけども、いろんなことを工夫しなきゃいけないわけで。言ってみたら僕らの映画には「味の素」をいっぱい足しているんですよ。味の素がいっぱいまぶされている。これ(帰って来たドラゴン)はほんとに「役者の素材の良さ」を生かした映画。すごいですよね、アクションも。
ブルース・リーが”間”で勝負するというか、”間”の中で一発パカーンとやるとしたら、これは”手”(アクションの動き)が多い。今のアクション映画も”手”は多くなっていますが、これは戦って走って、戦って走って。今も昔もアクション映画のお手本のような映画ですね。パリでオリンピックやってますけど、「アクション」という種目があったらたぶん金メダルじゃない?(笑)観れば観るほどすごい。

倉田 彼とも話したんですけども、当時は(ブルース・リャンと自分)2人だけなので、休憩時間なんてないんですよ。吹き替えもいないし、ただ2人がどうやって何ができるか、キャメラが移動するだけの時間で。一日何十回とやってそれを一ヶ月。

谷垣 移動って言っても、2人だからここからここ移動するだけでしょ?そしたらもう本番でしょ?(笑)

倉田 そう(笑)。そして”手”はついてないですから。”手”というのはアクションの、ここで出してここで受ける、という。

谷垣 今日また「発見」です。”手”があるんだかないんだか、という中でやったんだと思うんですけど、ブルースがぱっと来たら、先生がぱっと引いて(アクション付き)なんというか喧嘩強い人同士、喧嘩慣れした人同士のちょっとしたやりとり、こう動いたらこうやって、というそこんとこが面白いんだろうなぁと。

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―生(なま)の迫力、勢いというのが、50年前のフィルムの中に全部詰まっていますね。

谷垣 そう思いました。

ー今日『帰って来たドラゴン』と一緒に観ていただいた『夢物語』。作られた経緯というのは?どういうところから始まったのでしょう?

倉田 単純なものですよ。77歳になって、コロナであんまり撮影もないので、「77歳どれくらい動けるか、ちょっと竹藪を借りてやろうよ」という話で、1週間竹藪にこもりました。蚊に食われながら(笑)立ち回りをして撮影しました。これはどこに配信するのか、何も決まってない。海外の映画祭に出したら、インドのレイクシティ(国際映画祭)で最優秀短編映画賞をいただいたり、スペインで(アジアサマー映画祭)特別賞をいただいたり。
でも、これは日本では上映できないよねと言ってたら、たまたま今回の企画があり、50年前のアクション『帰って来たドラゴン』と50年後の『夢物語』、この対照はある意味初めての企画だと思うんです。

―谷垣さん、この『夢物語』変わらないと言われました。

谷垣 いやもうすごいとしか言いようがないんですよね。50年前の映画ですから、この中にはもう亡くなられた方もいますし、俳優やっている方もいる。ただ俳優はやっているけど現役感のない方もいるのに(先生は)一人だけ現役感バリバリ(笑)。

―ほんと、変わらないところがすごいですね。

谷垣 『夢物語』は何か言うのが野暮になるくらいすごい。『夢物語2』もあるんですよね。
『無敵のゴッドファーザー/ドラゴン世界を征く』と上映するとか。観たいと思いません?

倉田 今回上映するよ。

谷垣 あっもうやってるんですか?

―8月9日から2にあたる『夢物語 奪還』が併映になりますので、もう一度ご来場ください。『夢物語』もシリーズ化して、毎年倉田さんに撮っていただくとか。谷垣監督の『夢物語』シリーズをぜひ。

倉田 その話をしていたんですけどね、彼が忙しくて。

谷垣 いやいやいや。

倉田 谷垣健治監督で、79歳の倉田保昭のアクションをぜひね、撮ってもらいたいんですけど。

―みんな観たいなと思いますよね?(拍手)

倉田 彼もね、ほんとにもう私の手の届かないところへ行ってしまって。

谷垣 ちょ、ちょっと待ってください、先生。こっちの話をしましょう。これ(ポスターを指す)。(笑)

―ほんとに大活躍されています。お話面白くて延々と聞いていたいのですが、今日はお時間がありません。この続きは、売店にも売っております倉田保昭著「帰って来たドラゴン」(「和製ドラゴン放浪記」(1997)から改題して再販)を読んでいただくと、その撮影背景とか、台湾で出演した時とんでもない話とかいっぱい出てきます。ぜひお買い求めいただければと思います。

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―では最後に一言ずつ。

倉田 これから全国に挨拶に回りますけど、とにかく東京で皆さんに観ていただかないと話にならないので。1人でも多くの方に観ていただきたいと思います。よろしくお願いします。(拍手)

谷垣 50年前の映画という事で、僕も今日初めてスクリーンで観ました。面白かったです。こういう映画は今後もう作られないと思うので、皆さんが生き証人になったと思って伝えていってください!よろしくお願いします。

ースクリーンで観る機会は多くないので、ぜひよろしくお願いします。

谷垣 まだスクリーンで観たい作品、僕いっぱいあるんで。ね。(と倉田さんへ)

倉田 キング・オブ・カンフー?

谷垣『激突!キング・オブ・カンフー』とか観たくないですか?(拍手)
ねぇ、僕はスクリーンで観たいですよ、ほんとに。『ファイナル・ファイト 最後の一撃』と同時上映とかね。(拍手)

ー企画もこれからまた進めていければと思います。本日はありがとうございました。(拍手)

(取材・写真 白石映子)