『彼岸のふたり』朝比奈めいりさん、並木愛枝さんインタビュー

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*プロフィール*
朝比奈めいり| Meiri Asahina(西園オトセ役)
2002 年 2 月 6 日生まれ。大阪府出身。
SAKURA entertainment 所属。イロハサクラ/Ellis et Campanule の 2 つのアイドルグループを兼任しながら、女優活動も行う。2019 年 3 月 20 日公開の映画『手のひらに込めて』の主題歌「雨降草」 でメジャーデビュー 。2019 年 6 月「幽霊アイドル」でバズる。主な出演作に『あおざくら』(短編/18)、『手のひらに込めて』(19)。

並木愛枝| Akie Namiki(西園陽子役)
1978 年 10 月 17 日生まれ。埼玉県出身。
10 代より小劇場を中心に活動。2001 年より高橋泉・廣末哲万で結成された映像ユニット"群青いろ"に参加し、2004 年の PFF アワードでは『ある朝スウプは』(高橋泉監督/03)がグランプリ、『さよなら さようなら』(廣末哲万監督/03)が準グランプリを受賞。その時の審査員長だった若松孝二監督の目に留まり『実録・連合赤軍~あさま山荘への道程~』(07)の永田洋子役を演じる事となる。2008 年、高崎映画祭・最優秀助演女優賞受賞、アジア太平洋映画賞・最優秀女優賞にノミネートされる。

作品紹介こちら
北口監督インタビューこちら
監督・脚本・編集:北口ユースケ
脚本:前田有貴
©2022「彼岸のふたり」製作委員会 higannofutari.com
★2022年2月4日(土)より池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。

ーこの台本を初めて読んだ感想をお聞かせください。

朝比奈 台本をいただいたときにぱーっと目を通して、ストーリーの流れは初めにわかったんですけど、自分が演じるオトセちゃんの行動の意味がいまいちわからないところが何か所かありました。何でこの行動をとっちゃったの?みたいな。それが疑問だったんですけど、撮影するまでに北口監督に何回かレッスンしていただいて、行動の意味がだんだん理解できるようになりました。撮影中は、オトセちゃんを演じないと、という意識を持たずに、自然に撮影に挑むことができて。自分に通じるものがあるキャラクターなんだなと思いました。

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並木 お話をいただいた時点で「毒親の役です」っていう風に言われていたので、あ、悪い人だなっていうのは認識していました。私は結構悪い人の役を頂戴することが多くて、いつも「悪いだけの人じゃなく演じたい」というのを心がけているんです。それは観ている人もそうなんですけど、自分がその悪いことをする立場の人になってしまう可能性もあるわけだから、それを忘れないためにも「人間臭くやりたい」と思って。「悪い人なんだけど、こんなことあったんだ、可哀そうだな」と思わせるようなことや、なぜ虐待に走ってしまったのかという理由付けを演技で表現しようと決めていたんです。
実際現場に入って監督と自分の表現したいこととかをご相談しながら進めていったときに、自分の中で子供をちゃんと育てられなかった後悔だとか、もっと違えば自分もきちんと母親になれたかもしれないという気持ちだったりとか、やっぱり離れてても自分が産んだ子だから、ああ愛しいと思う瞬間が一瞬でもあったりとか。でもやっぱりお金欲しいなぁ(笑)、働きたくないからこの子お金くんないかなぁって思ったりとか、そういういろんな、ひとつ母親らしい感情だけじゃなくてズルいことを考えているのと、あ、これが私の娘かと思ったりを入れていく作業とか、非常に難しくもあり、役者冥利につきるというか。
台本には書かれていない「ここをこうしてください」を、自分でわざと課題を作って「この時にオトセと親子になってみたい」と思ったり、着物を肩にかけたときに、「成人式とか七五三とか、こんな綺麗な姿を自分がちゃんとしていれば見れたかもしれないのに」、と悲しくなったりとか、そういうのを入れたいなぁと思ってやっていたら、やり終わった後、ただただ悪い人ではなくなって一人の女性の人生の一部が残せたかなと思いました。
時間が経って、かなり役からも離れて一個人並木愛枝として観たときは、「なんて面倒くさい我儘な女なんだろう。悲劇のヒロインになりたかったんだろうな」って冷たく思ってしまいました。

―朝比奈さんは完成した映画を観ていかがでしたか?

朝比奈 撮影してから、スクリーンで観たのが長い時間をおいてからでした。こういう気持ちで撮影していたというのが、自分の身体から抜けた状態でスクリーンで観ました。演じているときはオトセちゃんって人と会話するとき、びくびくしている感じがしました。パっと来られたら引く、自分を塞いじゃう、だから弱い女の子に見えるかもしれない。
だけど、アイドルのライブのチラシやみかんをいただいて、ライブ会場まで一人で行くじゃないですか。
自分がオトセちゃんだったら、ほんとにライブに行けるかな、と観ながら思いました。人がいっぱいいるだろうし、観たこともないライブハウスって入るのもたぶん怖いだろうし、と考えるだろうと。オトセちゃんは自分で足を運んで、出待ちもして、感想も伝えられる行動力があります。
ソウジュンと喋っても―自問自答ではあると思うんですけど―ソウジュンに対して出てくる言葉がけっこう強めの言葉が多いなと思ったので、本当は根ががっちりしている女の子なのかなと、終わってから思いました。

―お二人最初に会ったとき、どんな印象でしたか?初共演ですよね。

並木・朝比奈 はい(お二人顔を見合わせてクスっと笑う)

並木 どう思った…俳優のめいりちゃんの姿も、アイドルのめいりちゃんの姿も全く知らなかったんです。なんてまっすぐこっちを見てくる女の子なんだろうというのが最初ですね。返事もすごく…なんかどこから声出たかちょっとわからないくらい…(笑)

朝比奈 はい!!

並木 っていうのが宝塚かな?ってくらいの完成された「はい!」で。

―アイドルの「はい!」なんですね。

朝比奈 教育が…(笑)

並木 ちょっとびっくりして、このタイプの人初めてだなと思って(笑)。でもあんまり仲良くなっちゃっても、作品のためにも良くないし、演技経験もないということだったので。切り替えってけっこう難しいじゃないですか、俳優さんの中でもうまいことできる人とできない人がいるくらいなので、あまり楽しくなっちゃうと切り替えがもしできなかったときに、影響が出ちゃうといけないから意識的に仲良くなりすぎないように気をつけていました。
だから、もしかして「避けられてる」って感じてた?(と朝比奈さんへ)

朝比奈 あ、全然!!(笑)

並木 ほんと? じゃ良かった!ほんと、正直、接し方がわからなかったんです。

朝比奈 それは、私いろんな方にそう言われます。

並木 そうなの? そうなんだ(笑)。年齢もあるし、なんていうんだろうな、ほんと会ったことのないタイプの人間だったので(笑)、興味のあることもわかんないしね、あんまり話さなかったよね?

朝比奈 そうですね。

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―朝比奈さん、最初に「お母さん」と会ったときは?

朝比奈 すんごく緊張しました。普段のお仕事がアイドルなので、喋る人もだいたい同じ年齢くらい。歌って踊ってアイドルやって楽屋でおしゃべりするくらい。演技をお仕事にしている人としっかり話したこともあまりなかったし、(並木さんの)役もお母さん役だったので・・・何か不思議なオーラがありますよね(と並木さんへ)。

並木 そーお(笑)?そうかなぁ?

朝比奈 ほんと緊張しました。すごく。

並木 人を緊張させてしまう? 私。でも私それよく言われるのよ、「怖い」とか。ごめんね。

朝比奈 怖くはないです!でも初めて会う人だから緊張するのとは、またなんか違った不思議な緊張でした。

並木 それは私のせい?

朝比奈 はい! 

並木 私のせいですか、そうかー(笑)。その謎解きたいですね。
私すごく人見知りなんですよ。こうやって取材していただくときだと、一回しか会わないこともあれば何回もお会いできることもあるけど、大体がその時が「初めまして」じゃないですか? それだと覚悟ができるんです。一回しか会わないかもしれないし(笑)。
でもこれから何回も会わなくきゃならないとなると、あまり嫌な悪い印象も与えたくないし、と考えちゃう。人見知りの人って「気にしい」なんですね。だからあまり人とうまく接することができなくて「どうしようどうしよう」っていうのがもしかしたら、嫌な思いさせているのかも。

朝比奈 嫌な思いじゃなかったですー!ドキドキしました。初めが写真を撮るとき(とチラシを指して)。

並木 この写真を撮ったのが、二人が初めて会ったときなんです。

―まだ心の距離が近づいてなかったときですね。

朝比奈 初めての共同作業ですね。すごい寒かったんです。

並木 季節いつだったっけ?

朝比奈 なんだかすごく寒かったと覚えています。

並木 床が冷たかっただけじゃない?

朝比奈 めちゃくちゃ寒かった・・・

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―これは母と娘の愛憎のストーリーですね。私だったら違う、また、とてもわかるというところ、忘れられないセリフがあったら教えてください。

並木 私の場合、わかるっていう風にするために、脚本に描かれている役と自分をすり合わせて私ならどうするかという役作りをしていくので、私だったら違うのにな、というところは一個もないです。そのような状態に陥っているわけではないので、実際のところはわからないですけど、想像で私がこういう表現を相手に見せるんじゃないかということでやっているので、違うなっていうのはないですね。

―残っているセリフは何でしょう?

並木 予告編でも言っている「じゃあ何であんたはここに来たの?」っていう、あれって私の中ではすごく悲しくて。セリフ自体が悲しいというのじゃなくて、あれを言っている状況が私としてはすごく悲しい。ほんとはオトセが来てくれたのが嬉しい部分もあるんですよ。だけど、陽子も陽子で「どうせあんたはお母さんに会いに来てくれたんじゃなくて、お金渡しにきただけなんでしょ」と、求められていないことに対してひねくれている気持ちもあって、だから涙も出ちゃうし。

―ここ(目尻)に涙が光るんですよね。

並木 そう(笑)。なんでこんなことになっちゃうというのを、自分のせいと感じつつ、人のせいとも思っている。ほんとにぐちゃぐちゃになってて、「じゃあ何であんたはここに来たの?」の答えが「だってお母さんに会いたいから」だったらたぶん嬉しいかもしれないけど、ひねくれてるから「なんで来たのよ」半笑いだし泣き笑いだし、しかもそれを悟られたくないから言っちゃうという。

―めんどくさいですね。

並木 そうなんですよ(笑)、ほんとめんどくさい。

―なんか迷路みたいな人で(笑)。

並木 そういう風にしたくって、細かく考えてやりました。

朝比奈 セリフでいうと、状況も込みでなんですけど、包丁を向けて「私に会えて嬉しかったですか?」って聞くところが、セリフとしても一番頭に残っています。オトセちゃんは頑張って稼いだお金渡しちゃったり、ホテルでプチ事件があってお母さんのところに行ってときも、「お母さんに会えて嬉しかった」という気持ち込みの行動。「私に会えて嬉しかったですか?」と言うことだけでもすごい勇気のいる行動だったと思っています。
打掛を着せてもらうときに、おびえちゃう、拒絶しちゃうところ。セリフじゃないんですけど、ここも撮影中も後も印象に残っています。お母さんに会えて嬉しいし、お母さんを信じたい気持ちで家に行っているのに、昔虐待を受けていたことで身体がびくっとしてしまった。私は、オトセちゃんは最後のシーンの後もトラウマは消えないまま続いていくんじゃないかな、と後から思いました。

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―チラシの写真と最後の2人のシーンは、ポーズは同じだけれど、気持ちが違うわけですね。

並木 あそこまでのクライマックスになるには、俳優も時間を過ごして感じてるわけです。この時はまだなんにも始まってない、自分たちの中であるものだけだけど。やっぱり最後は二人で完結、作った時間だものね。

朝比奈 はいっ!!

並木 また「はい!」(笑)

―「はい!は元気よく」って言われたんですね。

並木 まだびくっとするんですよ。慣れないんですよね(笑)。

―朝比奈さんはアイドルを続けてきましたが、これから俳優としても活動していきたいですか?

朝比奈 はい! 始めたころはアイドルのことしか考えられなかったんですけど、『彼岸のふたり』ではレッスンや撮影機関が普段のお仕事よりもがむしゃらというか、夢中になってすごい楽しかったので、演技のお仕事がしたいなと思っていました。

―ここにいい先輩もいらっしゃることだし。並木さん演じるお母さんの心の揺れが表れるところ、オトセを助けに入れない姿とか、思わず涙がにじんでしまうところとか、監督に演出ですか?と伺ったら違いますということで、もう感動しました。

並木 ありがとうございます。すごく考えました。
(朝比奈さんへ)私を目指さないほうがいいですよ。大変だと思う。せっかく生まれ持った美しい容姿があるんですから、それがもうすでに武器なので。あんまりこうひねくれた(笑)ちょっと核弾頭みたいな方向はやめたほうがいいと思う(笑)。

朝比奈 わかりました。

並木 まずは綺麗でいてください。

朝比奈 はい。綺麗で・・・

―綺麗と演技力と両方あったら鬼に金棒ですよ。

並木 そうですよね。なかなかそういう人いないから。

―長く続けられる俳優さんになってくださいね。今日はありがとうございました。

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*私の大切な映画*
朝比奈 『渇き。』という映画を繰り返し観ています。主演の小松菜奈さんがとても美しいのですが、ただルックスが美しいだけでは無く、劇中の菜奈さんから滲み出る女の子の不安定さや危なさとどこか儚げで美しいルックスとの化学反応に驚き、「美しい!!!」と感じ強く魅了されました。自身の中での絶妙な後味の残り方が大好きで、「最近あまり生活に刺激を感じていないな」と感じたら思い出したようにこの映画を観ます。映画を観ている最中に心拍数が上がる経験をこの映画で初めて体験したので、大切に思っている映画です。

並木 どんな部分で大切なのかによって選ぶ映画が異なるので、今回は俳優・並木愛枝の根源という意味で大切な映画を。
それは高橋泉さん脚本・監督の『ある朝スウプは』です。
廣末哲万さんとのダブル主演で、まだ彼ら「群青いろ」が少人数で、出演者がカメラや録音、衣装や音楽など、スタッフと兼任していた頃の作品です。
当時の私はまだ、演技することが全てだと思っていましたが、彼らが求めるのはカメラの前でもありのままで、自分の中に生まれた感情や衝動を素直に体現する事でした。ゴテゴテと私に貼り付いた物を極限まで削ぎ落とす作業に初めは苦戦しましたが、廣末さんに引っ張って頂きながら感覚を掴んで行きました。「群青いろ」の現場で培ったものが、今の俳優である私を形成しているのは間違いありません。お二人には生涯感謝し続けると思います。
まだ北口監督には裏をとってないですが、もしかすると私を初めて知るきっかけになった作品が『ある朝スウプは』だったのでは?と思っています。今回の『彼岸のふたり』に繋がるきっかけにもなった…であろう映画であり、今でも演技プランに悩んだ時には必ず思い出し、余計な事をしようと企んでいたら、スッと腕を掴んで引き戻してくれるような、“私の大切な映画”です。


=取材を終えて=
北口監督のインタビューに続いて、オトセ役の朝比奈めいりさん、母・陽子役の並木愛枝さんにお話を伺いました。北口監督、プロデューサー、マネージャーさん、宣伝さんも後ろに控えて、ギャラリーの多い取材でした。どんな質問にも丁寧にお答えいただいて、率直なお二人のお話に楽しい時間を過ごしました。朝比奈さんの素直な回答に、書いてはいませんが(会場笑)となったこともたびたび。
子どもの虐待から始まるストーリーですが、母親の揺れる心情を表現した並木さん、愛情を取り戻したいオトセを夢中で演じた朝比奈さん、いい作品に出会われましたよね。オトセが自転車に乗って走るラストに希望が見えました。

(取材・写真 白石映子)
 

『彼岸のふたり』北口ユースケ監督インタビュー

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*プロフィール*
北口ユースケ/Yusuke Kitaguchi 1984 年 3 月 8 日生まれ。大阪府出身。
2006 年早稲田大学在学中に映画『カミュなんて知らない』(05)で俳優としてデビュー。俳優としての活動を続けながら、2016 年からショートムービーや WEB 動画の制作を始める。
処女短編「BADTRANSLATOR」が第一回やお 80 映画祭に入選。48 時間以内に短編映画を制作する Osaka 48hour film project で脚本・監督・編集を務めた作品『ノリとサイモン』が、監督賞・作品賞 2 位・観客賞1位を受賞。翌年の Osaka 48hour film project 2017 参加作品『ベイビーインザダーク』では、最優秀作品賞と脚本賞を受賞し、48hfp の世界大会である Filmapalooza では120を超える各都市の最優秀作品の中からベスト 15 作品に選出され、2018 年カンヌ国際映画祭ショートフィルムコーナーでも上映された。Osaka 48hour film project 2018 参加作品『THAT MAN FROM THE PENINSULA』では、監督賞、作品賞 2 位を受賞し、その後ベネチアで開催されたカフォスカリ国際短編映画祭、ダラスアジアン映画祭などでも上映された。また日本における人種問題を扱ったミニドラマシリーズ「TORINAOSHI」の第3話までがパイロット版として現在 YouTube にて公開中であり、再生回数は累計 120 万回を超える。

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朝比奈めいりさん、並木愛枝さんインタビューこちら
監督・脚本・編集:北口ユースケ
脚本:前田有貴
©2022「彼岸のふたり」製作委員会 higannofutari.com
★2022年2月4日(土)より池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。
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―この作品はコラボした衣装(上田安子服飾専門学校協力)を映画内で使うことが決まっていたそうですね。

シナリオも出来ていないのに、先に衣装を作るなんて前代未聞じゃないですか。こんな作り方をする映画はほかにないかもしれませんね(笑)。

―そして監督に声がかかったのは、以前48時間で短編映画を作り上げる「Osaka 48hour film project」に入賞していたので、縛りのあることの実績を見込まれたんじゃないか、と。どちらも初めて聞くことで、とても面白いと思いました。

課題を消化して作っていくのが得意なんじゃないかと思われたのかな。でもその縛りは、監督やりますと言ってからプロデューサーに後出しで言われた記憶があります(笑)

―コロナ禍中の制作ですね。誰もが大変でしたが、この映画は?

企画がスタートしたのが2019年。娘が誕生して一か月くらいのときです。その後、秋にキャストが交代したり脚本をガラッと書き換えたりして、2020年春にようやくクラインクインしました。その1週間後に緊急事態宣言が出てしまって再開できたのは、宣言が明けた7月です。2回目の宣言が出るまでのちょっとの期間で撮りました。撮影日数は、17日間です。ほんとに大変でした。

―そして可愛い娘を置いて(監督は育メンとお見うけしました)、撮影に通う毎日だったんですね。

現場にも連れていきました(笑)。ちらっとだけ出ているんです。養護施設で母役の並木さんと職員が話しているときに、庭で洗濯物を干しているのが妻で、おんぶされているのが娘です。妻も女優をやっているので、施設の子どもたちとのシーンももっとあったんですが、コロナ禍だったのでやめましょうということになってなくなりました。

―子役といえば、オトセの子ども時代を演じている徳網ゆうなちゃん(2013年生まれ)の目がとても印象的でした。朝比奈めいりさんも目が大きくて、二人とも目が決め手だったのかなと思いました。

そうですね。大きくて力強い目ですよね。やっぱり目は意識します。それだけで決めたわけではないですけど、

―この映画は辛い題材を扱っています。まだ経験の少ない俳優さんや子役への演出の際の気遣いは?

僕はもともと役者をやっていたので、感情を作り込みすぎることで精神が不安定になる危険さを学んできたし、自分自身も経験してきました。なので、そうではなくて行動から感情を作ることを心がけていましたね。
例えばバン!(両手で机を叩く)とするのは、日常では怒っているからそういう行動をするけれど、演技は逆で、先に行動をすることで気持ちを作っていきます。そうすることで自分の精神への負担が少ない状態で、観ている人に感動や影響を与えられる。そういった方法論をアメリカの演劇学校で学んでいたので、そこを徹底して作りました。どんなに辛いシーンであっても演技の楽しさは忘れてはいけないと思うので。

―子役のゆうなちゃんに、虐待シーンを詳しく説明するわけにもいかないと思いますが、具体的にどうやって演出し、撮影されたのでしょう。

あのシーンは(子どもと養父)別々に撮っているんです。ゆうなちゃんにはあんまり内面のことは言わずに、単純に視線を「こっち向けて」とか「視線の先にあるものをしっかりと見て」とか言うだけでしたね。とにかく具体的な行動だけを伝えました。

―オトセとソウジュンの名前はどこからつけられたのでしょう?

地獄大夫の本名の乙星(おとせ)と一休さんの本名からつけました。

―キャラクターの名前に多くの監督さんは悩むらしいです。

僕はけっこうテキトーです。いつも書いているときの直感でつけちゃったりしますね。登場人物に、子のつく名前が多いから別のに変えよう、とか、そのくらいです。

―並木愛枝さんのファンだったので、ラブレターを出して出演をお願いしたそうですが。

はい、そうなんです(笑)。大学生のときに『ある朝スウプは』や『14歳』を観て、こんな芝居をする人が日本にもいるんだ!とすごい衝撃を受けたのを覚えています。いつか機会があったら一緒にお仕事したいなとずっと思っていて、今回ついに夢が叶いました。

―監督作に俳優として出演はされないんですか?

実はこの作品でもワンシーンだけ出たんですけど、カットしました。別の作品になってしまいそうで(笑)。でもいずれは自分で監督・主演もやってみたいなとも思っています。

―いつか並木さんともがっちり俳優として共演したいですね。

そうですね。撮影現場でモニターを見ながら、僕も並木さんと一緒に演技をしたくて、朝比奈めいりさんや井之上チャルさんに嫉妬していました(笑)。

―僕もやりたい、と(笑)。例えばあの中だったらどの役がいいですか?ソウジュン?

あの中だったら…僕は、ソウジュンはできないと思います。とっかかりがないし、あの不思議な軽やかさみたいなのはドヰさんじゃないとできないです。よくあんなキャラクターを体現してくれたなと思います。僕がやるとしたらチャルさんに演じていただいた施設の人かなぁ。

―役の背景を詳しく考えて、俳優さんに説明されますか?

基本はお任せするんですけど、ヒントは与えたりしますね。今回の主演の朝比奈さんはほとんど演技の経験がなかったので、リハーサル以前に、演技の基礎レッスンみたいなこともみっちりやりました。基礎練の中で少しずつキャラクターを一緒に形作っていきましたね。
もう一組の親子の寺浦さんと眞砂さんも事前にリハーサルを何回か重ねて、その中でディスカッションしながら背景とかは作っていったかな。

―演じる人が納得できるように話し合って寄せていく。

俳優たちが、生理的に気持ちよく動いてくれないと、見ていて違和感が出るなと思って、基本的には現場でもカメラを置く前にまず動きをつけます。それも俳優たちが好きなように、気持ちがおもむくままにまずは動いてみましょう、という作り方をしていますね。

―オトセの父親については言及されていませんが、背景としてもいないんですね。

いないですね。特に背景も作りませんでした。

―ソウジュンが大人の男性の姿なのは、父親がいてほしいという想いが出ているのかなと思いました。
よく漫画で、頭や肩の上に天使と悪魔がいて、そそのかしたり、やめさせたりしますよね。あれにも似ています。

それに近いかも(笑)。実際オトセ自身の悩みから出たものですけど。

―自分から出たものだから、超えることはないんですよね。緊張する場面が続いて、ソウジュンが出てくるとなんだかホッとしました。
オトセの母は困った人ですが、並木さんの演技が細やかで、涙が光ったり、手が震えたりで動揺する内面が見えてきました。あれは監督が演出されたんですか?


並木さんに関してはそんなに細かいことは言わなかったかと思います。顔合わせするよりも前に、電話で1,2時間くらい色々役について話しました。並木さんからの質問はとても鋭いですし、そんな深い読み方をしているのかという驚きがたくさんありました。

―監督も監督として育ったということでしょうか

そうです。ほんとにそうですね。

―大阪で先行上映していますが、反響はいかがでしたか?

反響はよかったですね。リピーターの方もたくさんいらっしゃって。3月に凱旋上映をしますので、また地元でももっと多くの人に観てもらいたいです。せっかく舞台が堺なので堺でも上映したいですね。

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朝比奈めいりさん、並木愛枝さん、北口監督

===「北口監督」ができるまで===

僕は小さいころから映画少年だったんですよ。幼稚園のころにホラーが好きで、布団に隠れながら、怖がりながら早送りしながら(笑)よく見ていました。テレビでやってた『バタリアン』とか『13日の金曜日』とかをビデオに撮って観ていました。あのドキドキがたまらないんです。
それからだんだん色んな作品を見るようになったんですが、高校生のときに浅野忠信さんの『地雷を踏んだらサヨウナラ』(1999)を観て、こんなにかっこいい日本人がいるんだ!自分も芝居をやってみたいなと思ったのが映画を志したきっかけです。

もともとあんまり人前に出たりとか、話をしたりするのが大阪人のくせに得意ではなくて、そういうコンプレックスも強かったので、リハビリも兼ねて演劇をやってみたいなという想いもありました。それが浅野さんの映画を観てから、俳優になりたいという思いが一気に膨らんで、演劇が盛んな早稲田大学に入って、演劇部やサークルを片っ端から見学したり体験しに行ったんですが、どれもやりたいのとはちょっと違うなと思って。舞台より、もっとリアルな映画の演技をやりたかったんです。そんな時に、恩師である柳町光男監督と出会いました。僕が行ってた学部とは違う学部の授業を担当されてたんですが、潜りで通って。その授業で溝口健二の「近松物語」を1カットづつ分析して、柳町監督が解説してくださるんですが、それがめちゃくちゃ面白かったんです。俳優というよりは作り手向けの講義だったんですが、とにかく面白くて、潜りだから単位も取得できないのに、その授業を一番熱心に受けてましたね(笑)。そこで溝口や成瀬巳喜男やトリュフォーを知って、映画の見方みたいなのを教わりました。当時は監督になろうとはまだ思ってなかったんですが、柳町先生との出会いが監督になる原点になってるかと思います。

在学中にその柳町監督作の『カミュなんて知らない』(2006)で俳優としてデビューさせていただいたんですが、やっぱりちゃんと基礎を学ばないと駄目だと思って、そこから塩谷俊さんのアクターズクリニックに通うようになりました。
大学卒業してからは、アクターズクリニックとアルバイトとオーディションだけの日々でした。全然オーディションも受からないし、バイトばっかりしててこのまま社員になってしまった方がいいんじゃないかみたいなことが頭をよぎるようになって、25歳くらいだったかな、先が全く見えなくて辛い時期があったんですが、そんな時にアクターズクリニックの特別ワークショップで、ロン・バーラスというアクティング・コーチがアメリカから来日したんです。

ロンのレッスンを初めて受けたときに、「求めてたのはコレだ!」ってものすごく感銘を受けまして、もう絶対にこの先生のもとで学びたいと。もう売れるとかどうこうより、とにかくその術を学びたいと思って、ロンがいたART OF ACTING STUDIOへの留学を決めました。
ロンも一昨年亡くなられたんですが、算数を教えるみたいに論理的に単純明快に演技を教えてくださって、それ以上に人生との向き合い方というか、生き方そのものを教わったように思います。人生で一番影響を受けた人かもしれない。本当にスターウォーズのジェダイマスターのような方で、生徒達はみんな、親しみを込めてヨーダと呼んでいました(笑)

監督はいつかやりたいという想いはずっとあったんですが、帰国してからとにかくロンから学んだことを実践する場が欲しかったので、自分で演劇のプロデュースを始めたんです。大阪でヒッチコックの「三十九夜」(さんじゅうきゅうや 原題:The 39 Steps)「ダニーと紺碧の海」「アメリカン・バッファロー」と3本の戯曲を自分で翻訳してやりました。
自分で主演もしながら演出をしていたんですが、稽古を重ねて自分が変わっていくことよりも、共演者たちが自分の言葉でどんどん変わっていく姿を観るのがすごい楽しくて、そっちのほうにだんだん喜びを感じるようになって行ったんです。ちょうどその頃デジタルカメラも手頃になってきてたので、自然と遊び半分で映像を撮るようになっていきましたね。
いつかはフィルムで撮ってみたいんですよ。俳優デビューした『カミユなんて知らない』がフィルム作品だったんです。初めての現場がフィルムだったので、やっぱり。

人生で一番繰り返して観たのは『パルプフィクション』(1994)です。この映画で英語の勉強をしたので、台詞も結構覚えてます。現地でもそう言うとみんな面白がってくれてました(笑)。「パルプフィクションで英語勉強したのか?嘘だろ?」って。
砕けた英語で、Fワードばっかり。だから演劇学校でもセリフに出てくるFワードの使い方が異様に上手いって褒められてました(笑)。
影響を受けた監督は、大学の卒論でも書いたんですがジョン・カサヴェテス。あとは成瀬巳喜男、コーエン兄弟、ヒッチコックとかですかね…挙げればキリがないですが。好きな映画はコーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)です。自分が作りたい理想がたくさん詰まっているので、脚本を書く前とか書いてる途中とかに毎回見返してる気がします。

=取材を終えて=
初の長編を完成させた監督さんに取材することが多いです。北口監督も「初めまして」でしたので、いつも通り監督になるまでのことを伺いました。それが、北口監督の情熱にほだされて異例の長さになりました。「北口監督ができるまで」は囲みの予定でしたが、そうすると(見た目が)もっと長くなるので、やめました。熱を感じてくださいませ。

(取材・監督写真 白石映子)

『エンドロールのつづき』パン・ナリン監督トークショー

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*パン・ナリン監督プロフィール*
インド共和国・グジャラート州出身。ヴァドーダラーのザ・マハラジャ・サヤジラオ大学で美術を学び、アーメダーバードにあるナショナル・インスティテュート・オブ・デザインでデザインを学んだ。初の長編映画『性の曼荼羅』(01)がアメリカン・フィルム・インスティテュートのAFI Festと、サンタ・バーバラ国際映画祭で審査員賞を受賞、メルボルン国際映画祭で“最も人気の長編映画”に選ばれるなど、30を超える賞を受賞し、一躍国際的な映画監督となった。BBC、ディスカバリー、カナル・プラスなどのTV局でドキュメンタリー映画も制作しており、“Faith Connections”(13・原題)はトロント国際映画祭の公式出品作品として選ばれ、ロサンゼルス インド映画祭で観客賞を受賞した。2022年にグジャラート州出身の映画監督として初めて映画芸術科学アカデミーに加入。他の代表作に『花の谷 -時空のエロス-』(05)、『怒れる女神たち』(15)などがある。
*ストーリー*
作品紹介はこちら
ALL RIGHTS RESERVED (C)2022. CHHELLO SHOW LLP
★2023年1月20日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネリーブル池袋 他全国公開

劇場公開をひかえて17日に来日されたばかりのパン・ナリン監督が最終試写の上映後登壇されました。ほぼ書き起こしでその様子をお届けします。(通訳:大倉美子)

―パン・ナリン監督をお迎えして、本作についてたっぷり語っていただきます。拍手でお迎えください。
(満席の試写室に入ってワオ!と目を輝かせる監督)

観てくださって、そして残ってくださってうれしいです。

―上映が終わった後、拍手がわいていました。

ありがとうございます。残念ながら拍手は聞き逃してしまいました。映画をシネマホールで観ていただく、ということが日々難しくなっています。今日は試写会場にわざわざお越しくださって、(トークのために)残ってくださってうれしく思います。この作品の公開に関しても、配信などプラットホームではなく、まず映画館でと思って力を尽くしてきました。

―監督は日本にいらっしゃるのは何回目ですか?

12、3年ぶり5回目の来日です。前は映画『花の谷』(未公開)のために、クライマックスの撮影やキャスティングをしました。東京での撮影でとても楽しかったです。

―今回日本で一番やりたいことは何ですか?

やはりこの映画を観てくださった観客の方とお話しする、これが一番の目的です。パンデミックが少し落ち着いてきている中で、この映画がみなさんにどんな風に届くのかとても興味があります。

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―では映画について伺っていきたいと思います。まずはアカデミー賞国際長編映画賞インド代表としてショートリストへの選出おめでとうございます。世界から大注目されている本作のきっかけから教えてください。

2011年ころ、自分の親の住んでいる地元に戻りました。そのときに、映写技師の友人に会いに行きました。彼は非常につらい経験をしていました。というのはデジタル化の波がやってきて、映写技師の仕事を失ってしまったんです。彼だけではなく、インド中で何十万人という映写技師たちが仕事をなくしていました。新しいデジタルでの映写ということになると、コンピュータを使ってデータをダウンロードしなくてはいけない、英語ができなければいけない。そんな中で読み書きが得意ではなかった彼などは失職してしまい、「なんて世界になってしまったんだ。映写機もフィルムも変わってしまい、僕たちのような者はみな忘れられてしまったんだ」と悲しげに話していました。そんな彼を見て、心動かされました。
同時に自分の子供時代の話を、家族や友人たちからたくさん聞きました。「こういうことをしていたから、やっぱり映画監督になる人間だったんだよね」と。たとえば映画の中にでてきたように、色ガラスや「屑」と言われているものを集めたり、それで映写機を作ったり、フィルムを盗んだというのも実は本当です(笑)。
そういう自分自身の子ども時代のこと、年の離れた映写技師の友人の話を組み合わせることで、これは映画になるんじゃないかと思いました。それが2019年、ちょうどセルロイドフィルムが使われなくなって10年くらいだったんです。その変化についても触れられる素晴らしいタイミングなのではないか。ストーリーテラーとして、媒体が変わっていく中でどういう風にストーリーテリングをしていくかについての映画を作りたいと思いました。

―キャンペーンで訪ねた各国の反応はいかがでしたか?

自分と携わったチームはこれほどまで、この映画が世界中に連れて行ってくれるとは思ってもみませんでした。ほんとにたくさんの国に足を運ぶことができました。やはり映画界で仕事をしている方には胸に来るものがあったようですし、多くの方々が映画を愛していること、コロナで映画館に行けない状況が続きましたが、映画館で再び映画を観たいと思っていることを実感しています。
みなさんの共感のしかたというのは、いろいろあります。たとえば、サマイが大人になっていく過程―どんな風に映画ファンになっていくのか、そして夢のためにどう戦うのか、希望を見出すのか―というところにぐっときたという方もいます。
驚いたのは、ニューヨークの株式関係の方々が観たときに、「これは金融のベンチャーとしてあるべき形なんじゃないか」と称賛されたことです。つまり彼らの目には「同じ夢を見た人が一つのグループを作って戦うことで成功を手にするストーリー」という風に映ったようでした。
中国では、これも意外だったんですけど、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分断ができていることをご存じの方が、その調和をうたった映画であると言ってくださったんです。というのは、主人公の少年サマイはヒンドゥー教徒で、映写技師のファザルはイスラム教徒・ムスリムなんですね。そのテーマは、劇中に何度も出てくる大衆的な人気を誇る『ジョーダーとアクバル』という映画を通してでも示唆されています。ヒンドゥー教徒のジョーダー姫とムスリムのアクバル皇帝の二人が一つになるという物語であるからなんです。
そういう風に人によって共感するところが違う映画になっております。

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そしてもちろん映画がお好きな方には、たくさんの映画へのオマージュが詰め込まれています。気づかれたと思いますが、『アラビアのロレンス』、タルコフスキーの『ストーカー』、ルミエール兄弟など、ほかにも入っていますのでそういった部分を見つける楽しみもあるのかなと思います。試写を観てくださった方には、映写関係、技師の方、撮影家督、編集の方々がいらっしゃいまして、中には目を真っ赤にして終わった後僕のところに来てくださった方もいました。世界中でいろんな感情を抱いてくれたそんな作品になったと思います。アイスランド、中国、台湾、インドなどいろんなところに行って、たしか12の観客賞を受賞しています。それだけでもどんな映画か伝わるでしょうか。

―これから時間の許す限り会場からのご質問を受けます。監督に直接うかがえる貴重な機会です。

Q 素晴らしい作品をありがとうございます。サマイの未来、どういう大人になって、どういう作品を作っていくのかという構想をされていたらお伺いしたいです。

サマイはほぼ自分自身で、体験したことがそのまま描かれています。自分の子ども時代からインスパイアされた物語なので、たぶん大きくなったサマイは心から作りたいものを作っているはずです。インドでは、大衆向けの映画は、映画の方程式というようなものにのっとって作られていることが多いように思うんですね。音楽、ダンス、ドラマ、アクションとちょっと過剰なまでのものが盛り込まれています。そういうものではない、自分にとってリアルなものを作る映画監督になるんじゃないかなと思います。

Q すごく映画愛にあふれていて、映画館で映画を観る喜び、映画ファンとしての幸せをあらためて感じる映画でした。ありがとうございました。
二つ質問させていただきたいんですけど、一つは映画を観ることに厳しいお父さん、料理上手な優しいお母さんというご家族にはモデルがいるのでしょうか?
物語の中で「光」というのが大事な要素だったと思うので、監督が映画を撮られるにあたって、光の演出に特別なこだわりがあればお聞きしたいなと思います。


素敵な質問です。映画の両親も本物の僕の両親にインスピレーションをうけたキャラクターと言えます。今おっしゃっていただいたように、父は最初自分の息子が映画を作りたいと思っていることを良くは思っていませんでした。というのは、インドの地方で育つと、映画というものは道徳的ではないと思われていたんですね。ただ、自分の息子には幸せになってほしいという想いから、最終的にはやりたいことを応援してくれました。自分と同じような状況でいては同じになってしまう。だったら自分の道を歩んでほしいと考えてくれたんだと思います。
一方で母は、映画に興味を持った一日目から映画の夢を追うことをずっと応援してくれました。料理がとても上手で、そのスキルを家族全員に伝えてくれたんです。実は今回登場する料理は弟が作ってくれました。本物の色彩や味をこの映画で再現したかったからなんです。

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光の質問ですが、映画と同じく初めて映画を観たときは頭上に踊っている(映写室からの)光の筋がとても印象的でした。当時は映写室で何が起こっているのか、映画がどうやってできるのかなど全くわかっていなかったんですが。
空中のホコリやタバコの煙によって、よりその筋がはっきりと見えました。今はデジタル化してしまったので、もう光の筋は見えなくなってしまったんですけれど、当時はとにかく魅了されたんです。絶対に映画の魔法というのが光の中にあるに違いないと思い、その光を求める旅がそこから始まって、歳を重ねるごとに重要になってきました。
また精神面でも、仏教であろうとヒンドゥー教であろうと、”物理的な光”と人の中にある”内なる光”は等しく大事なものとされています。そういった意味でも自分にとって大事なもので、物語というものは光から始まり、映画の場合ストーリーは光から綴られていくわけですから、それが光に戻っていくというのがとても素敵だなと思いました。

―あっというまに時間が過ぎて最後の質問です。

Q とても心に響きました。ありがとうございました。映写技師の方はこの映画を観られたのでしょうか?何か印象に残るお話をされていたらお伺いしたいと思います。

映画ではファザルでしたが、彼の実の名前はモハメドといいます。作品は完成前のバージョンも完成後も見てくれています。見た後一日中泣いたと聞いています。彼にとっては、これはフィクションではなく、まるでドキュメンタリーにしか思えないと言っていました。
彼については面白い話があります。『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989/イタリア)がリリースされたときに、僕は彼に観るべきだと勧めました。お弁当を交換するとか、技師と友情をはぐくむとか、自分自身の子供時代から持ってきたかと思うようなシーンが5,6シーンあったので、観てほしいと思ったんです。そしたら観た彼が自分のことをスパイされたんじゃないかと疑念を抱いたりして(笑)。さらに「間違っている」と言い出しました。というのは、『ニュー・シネマ・パラダイス』の映写ブースの中には、映写機が一台しかなかったんです。フィルムの映写をご存じだと思うんですけど、2台ないと(巻を交換するため)あれだけの映画は映写することができないので、技術的に間違っている、と言っていました。
さきほどお話したように、コンピュータや英語を使うことや、読み書きもそこまでできない、そういう教育を受けたわけではないけれども、彼は人として聡明な僕の二人目の先生という存在です。

―最後にナリン監督からひとことお願いいたします。

今日は来てくださって心からありがとうございます。
みなさんも映画が好きな方々、映画というものがこれからも生き続けるためには、やはり映画館へ観に行かなければなりません。もし気に入ってくださったのであれば、ご友人やご家族に「こんな作品があるよ」と声をかけていただければ、大変うれしいです。
松竹さんもすごく頑張ってくれていますが、映画をお届けするのには配給会社や監督チームだけでは限界があります。
多くの方が映画館でこの『エンドロールのつづき』を見出すことができればうれしいです。
また弟さん、妹さんや若い方もぜひ。実はお子さんにはそんなに響かないかなと思っていたのですが、全然そんなことはなくて逆に驚くほどいろんな意味で共感してくださっています。今ではお子さんに向けての試写を行っているくらいです。
そして最後に主人公のサマイを演じたバヴィンくんが、よくQ&Aで言っているコメントを締めくくりとしてお伝えします。彼はインドの小さな村出身の男の子なんですが、彼に言わせるとこの映画をおすすめする理由は「まず笑えて、泣けて、最後はおなかが減る」(笑)そんな映画だからです。

ーありがとうございました。(これよりフォトセッション)

(取材・監督写真 白石映子)

『ジャパニーズ スタイル/Japanese Style』吉村界人さん、武田梨奈さんインタビュー

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*プロフィール*
吉村界人(よしむらかいと)
1993年生まれ。東京都出身。2014年『ポルトレ PORTRAIT』で映画主演デビュー。 第10回TAMA映画賞(18)にて最優秀新進男優賞を受賞。主な代表作に、映画『太陽を掴め』『悪魔』『ミッドナイトスワン』『神は見返りを求める』ドラマ『左ききのエレン』『列島制覇』『ケイ×ヤク-あぶない相棒-』など。今年は『遠くへ、もっと遠くへ』『人』『人間, この劇的なるもの』の主演作も公開された。
武田梨奈(たけだりな)
1991年生まれ。神奈川県出身。2009年、『ハイキック・ガール!』で映画初主演。15年日本映画プロフェッショナル大賞」にて新進女優賞をはじめ、数々の映画賞を受賞。主な出演作は映 画『デッド寿司』(13)『進撃の巨人』(15)
『世界でいちばん長い写真』(18)『いざなぎ暮れた』(19)『ナポレオンと私』(21)、ドラマは人気シリーズ「ワカコ酒」(BSテレ東)などがある。

*ストーリー*
大晦日。アメリカ留学中だった妻が死んだ。 絵描きの男(吉村界人)は、新年までに「死んだ妻の“肖像画”」を完成させなくてはならないが、「生きた“瞳”」をどうしても描けない。そんな時空港で、妻に似た女・リン(武田梨奈)と運命的な出逢いを果たす。彼女もまた、新年までに“終わらせたい”ことを抱えていた。ふたりはタイの三輪タクシー(トゥクトゥク)に惹きつけられて乗り込み、“終わらせる”ための旅に出る!
Japanese Style【ジャパニーズスタイル】は英語で『袋とじ』という意味である。旅の途中で、二人が互いに隠していた『袋とじ』も暴かれていく…!タイムリミットは年越しのカウントダウン!“終わらせたい”二人の運命はいかに?!年末にぴったりの『袋とじ』ロードムービー!!

監督:アベラヒデノブ
配給:スタジオねこ
作品紹介はこちら
(C)2020 映画「ジャパニーズスタイル」製作委員会
★2022年12月23日(金)よりユーロスペース、シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。

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―お二人が企画されたそうですが、この映画の始まりは?

武田 深夜に突然、吉村さんから電話がかかってきて、脅されたんです(笑)。
吉村 犯罪者みたいじゃん。「こいつが言いました」みたいな(笑)。
武田 アベラ監督も最初から一緒です。
吉村 最初はラフで、シリアスな感じではなかったんです。「大晦日用事がありますか?映画やりませんか?」という感じでした。こんなにみんなが関わって作るようになるとは思ってなかったですが。

―お二人の出会いはいつだったんでしょう?

武田 映画の話より前にアベラ監督に呼ばれて、紹介していただきました。居酒屋さんで、3人で会ったのが最初ですね。
吉村 超~前ですよね。6年くらい前かな。そのときは映画の話をしたわけではないですよ。
武田 たぶん6年以上前ですね。映画になるまで6年かかっていますから。

―大晦日に、二人が抱えていることを終わらせたい、結果を出したいというストーリーですが、完成までにいろいろ変わっていったんでしょうか?

吉村 けっこう何回も変わりましたね。
武田 ベースは「大晦日の二人」で、そこだけは変わっていません。最初は「Before Sunrise」シリーズのようなロードムービーにしようというところまではあって、そこからいろんなアイディアをそれぞれ出し合って作り上げていったという感じです。

―そのロードムービーにトゥクトゥクを使おうというアイディアは?

武田 最初はまったくなくて、吉村さんから突然「トゥクトゥクいいじゃん」というアイディアがありました。
吉村 「トゥクトゥク乗りたいな」と。タイで乗ったのを思い出して「どうですかね?」という話をしました。

―日本では見かけませんよね。日本の映画で初めて見ました。小さいトゥクトゥクにあの絵が載ると屋根みたいになって面白いです。吉村さんは大きな絵を持って走り回るのは大変でしたでしょう?

吉村 大変でしたよ。重かったですし。風圧がすごいんですよ。指が持っていかれそうでした(笑)。ハードでした。

―キーポイントになる絵ですが、重野(吉村さん)が眼を描けなくていつまでもうんうん唸っているので、早く描け~と思ってしまいました(笑)。絵は吉村さんが実際に描かれた?

吉村 違います、違います。

―絵に似ていると、リンに声をかけますが、武田さんの二役ということはなかったんですね。

武田 そうですね。監督からは「眼だけで探してみよう」ということだったので、そこがポイントでした。
吉村 あのこだわりはアベラ監督自身に近いところがあるのかなと思います。人がそんなに思わないようなことでも、「いやぁ・・・」って一人で考えこんだり。僕はあんなにはこだわりません。

―後半友人が登場して話が変わりますね。主演の男女はカップルになるよね、と観ていました。

武田 最初、この二人が出演するということだけは決まっていたので、そこには特にこだわっていました。男女二人になると、どうしても恋愛になりがちですが、それだけは避けようと。なので、絶妙な距離感が面白いと思います。

―袋とじを「ジャパニーズスタイル」というのを初めて知りました。タイトルの『ジャパニーズスタイル』は日本の生活様式や習慣のことをいうのかと思っていたんです。

吉村 普通はそうですよね。僕もそう思ってました(笑)。でも、そう教えてもらってからジャパニーズスタイルという言葉が真新しい言葉に感じて新鮮でしたね。言葉は意味と観念的な捉え方。の二つでもいいのかなと。

―ところどころに入る「赤い鳥居に和装のお二人」の綺麗なショットはどんな風に説明されて撮られたんですか

吉村 お正月の初詣的な、海外へわかりやすい日本的な「ジャパニーズスタイル」をやりたいからと説明をさらっと受けました。が、リハの時から監督の演出に僕は、その場で全て理解できなくとも、まず目の前の監督の言葉を信じてやってみようと思って神社に仁王立ちしました(笑)。

―リンと重野が近づきそうで近づけず、ジタバタするところが可愛かったです。あの場合、男性は困りますよね。

武田 どっちなんだ、と(笑)。
吉村 二人がけんかするところ?
武田 そう。
吉村 あれ困りますよね。アベラ監督に違う部屋に連れていかれて説明されたんだよね。「日本人ってこういうところあるじゃん」みたいな。「僕はこういう経験何回もしてるんだよ」って(笑)。監督の実体験に基づいて演出された記憶があります。

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―お二人の意見で変わったり、アドリブが入ったりしましたか?

武田 ほとんど脚本どおりです。ただ車中のシーンはカメラを設置して二人しかいない空間で、いつカットがかかったかわからず、ずっとやりとりをしていました。トゥクトゥクは両側があいていて、周りの音がすごく大きいので、よく聞こえないんです。
吉村 エンディングの、二人が前と後ろでしゃべっているところは「カット!」と言われた後に話しているのが使われていると思います。

―牽引されているのでなく、実際に運転しているんですね。

武田 そうです。かなり長距離を運転されていましたね。

―安全運転をして、セリフもしゃべるのはたいへんですね。

吉村 そうですね。でも楽しかったですけどね。監督車は後ろにいました。
武田 羽田から横浜へ、撮影もしながら片道を走りました。

―実際に年末に撮影されたので、カウントダウン花火も本物ですね。忘れられない年末になりましたね。

武田 この撮影のあった2019年から2020年は全く年末年始感がありませんでした。ずっと胸がざわついているというか。

―それは企画・制作に携わったからでしょうか? 俳優だけでいるのとは心持ちが違いましたか?

吉村 撮影中はお芝居のことしか考えていなかったんですけど、撮影が終わってから責任感みたいなのが芽生えてきたりしました。

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―このお仕事の前と後でお互いの印象は変わりましたか?

武田 変わりましたね。一緒にお仕事する前の吉村さんは“自由な少年”というイメージでした。やりたいことがちゃんとあって、それを言える素直な心を持っている方。でも、実際にお仕事をしてみると、その言葉の裏には繊細なナイーブな気持ちもあることがわかりました。

吉村 おっしゃるとおりです。(笑)

―吉村さん、武田さんの印象は?

吉村 童心といいますか、子ども心がある人です。あんまり人に頼るとか、本音を吐露するとかって今までしてこなかったのかなと。それを避けてちゃんとした人間として生きてるんだなぁと思って尊敬しています。
(武田さんへ向かって)そっちのほうが大変だろ、普通。こっちのほうが楽な生き方だと思うんだよ。辛い物食って「辛い!」っていうようなもので。辛いと思ったけど、「ん~」みたいな。「美味しいです」的な。尊敬してますけどね。
武田 吉村さん、お仕事する前は普通に下の名前で呼んでいたんですが、お仕事するようになってからは「おい、武田」と呼ばれるようになりました(笑)。だから、そんな尊敬している感じでは・・・。

―その裏には尊敬の念が。

吉村 そうなんです。尊敬の念が詰まっているんです。

―でも「武田」なんですね。

吉村 武田・・・さん。(笑)

―今度は他の心配をしないで、俳優として演技に専念できるようにお仕事できるといいですよね。今回はなかった「ちょっとお姉さんと素直な年下男子の恋愛もの」とか。「姉と弟」も似合うかもしれない。

武田 吉村さんは完全に弟タイプですね。撮影の合間にコンビニに行くと、「武田、カフェラテおごってよ」と言うので、可愛いですよ。憎たらし可愛い(笑)。
吉村 返せって言うんですよ。「後でちゃんと現金で返せ」と。

―出来上がった作品をご覧になっての感想をそれぞれ教えてください。

武田 不器用な人間たちが、大晦日に「このまま年越していいのかな」とあせります。本人たちにとってはとても大きなことなんですが、俯瞰的に見るとなんだか可愛らしかったり、人間らしいと思う部分があったりします。そういう経験って誰にもあるんじゃないかなと思うし、これから訪れる人がいるかもしれない。それはあせることではないし、一回自分を認めてあげるといいんじゃないかなと思える作品です。気楽に劇場に足を運んでいただけたら嬉しいなと思います。
吉村 今武田さんがおっしゃったことは、僕も・・・。全部言われたので(笑)、映画を楽しんでいい年を迎えてください。

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―最後に大切にしている映画を1本あげていただけますか。ぱっと思い浮かぶもので。

吉村 『クレイマー、クレイマー』(1979/ロバート・ベントン)、好きです。高校生のときに初めて観て、そのあともめっちゃ観直しました。離婚したお父さん(ダスティン・ホフマン)が慣れないことを(息子のために)真剣にやる姿、「お父さんファイト!」な感じが胸打つんですよね。僕もけっこう何やっても慣れないので、素敵だなと思っちゃいます。

武田 『グーニーズ』(1985/リチャード・ドナー監督/スティーヴン・スピルバーグ製作)です。もう年に何回観直しているかわからないくらい観ていて、映画の世界に入りたいと思うきっかけになった作品のひとつです。先ほど吉村さんが私のことを子ども心があると言っていましたが、本当に自分の中でずっとどこかにあって。映画って年を重ねて観ると観方が変わるものですが、『グーニーズ』だけは保育園のときに観たときと全く変わりません。本当に特別な、映画の世界に導いてくれた作品です。

―今日はありがとうございました。
(この後、外でトゥクトゥクと撮影)

(取材・写真 白石映子)

=取材を終えて=

吉村界人さんには「初めまして」でした。ハスキーなお声で率直に語る吉村さんは、どの映画、どのドラマに出演していても埋もれることなく、存在感を発揮しています。武田梨奈さんには『いざなぎ暮れた。』以来の取材です。このときに、『ジャパニーズ スタイル/Japanese Style』のことを次に伺いたいとお願いしていたのが叶いました。
2020年へのカウントダウンのシーンも入った、大晦日のストーリーは、ちょうど年末を控えての公開です。終わらせたい二人のジタバタを身近に感じられそうです。お二人のまたの共演も楽しみにしつつ。(白)

*小ネタ*
トゥクトゥクは軽自動車ではなく、「側車付きオートバイ」というカテゴリに分類されるそうです。ハンドルやペダルはバイクのようですが、運転には普通免許が必要です。昔よく見かけたオート3輪を思い出しましたが、まさにそのダイハツ ミゼットを母体に、タイでいろいろカスタマイズされてきたのだとか。ミゼットは軽自動車なのに、変身したトゥクトゥクは日本ではバイク扱いになるんですね。

アルテ・エ・サルーテ演劇「マラー/サド」東京公演

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2022年10月10日 イタリア文化会館

池畑美穂


イタリアのボローニャで活動をしているアルテ・エ・サルーテアソシエーションには、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健機構精神保健局の利用者が在籍している。
2022年、特定非営利法人東京ソテリアは、文化庁他の助成金を受け、アルテ・エ・サルーテアソシエーション、ボローニャ精神保健局と日伊協同演劇プロジェクト「世界精神保健デー 普及啓発事業 」を実施した。

アルテ・エ・サルーテアソシエーションに所属している”Teatro di Prrosa”(散文劇団)は、ボローニャ市内の劇場を拠点にし、年間2作品ほどの演劇作品を制作、イタリア国内を中心に作品を上演、また、スペイン、中国、日本での海外公演も行なってきた。

今回、日本で上演された『マラー/サド』は、18世紀のフランスのシャラントン精神病院をモチーフにした劇中劇である。

自由と公民権運動を訴え、ルイ16世からの王政を終らせたフランス革命は、市民の革命により、自由、差別のない社会が求められた。今回の上演では、自由に向けての音楽、イタリア側の俳優達の映像、そして、若い世代から熟年世代までの幅広い年齢層の当事者による日本側の俳優達の生の歌と演技が融合していた。

この公演へ向けて、日本人演者達は、オンラインと対面で舞台稽古を継続、公演直前には、イタリア、ボローニャへ赴き、現地で、リハーサルを行なっている。

監督と脚本は、イタリア人監督のナンニ・ガレッラの脚色により上演されている。

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アルテ・エ・サルーテ劇団は、本拠地であるボローニャにあるアレーナ・デル・ソーレ劇場にて、ペーター・ヴァイスのオリジナル台本を脚色した『マラー/サド』の他、シェクスピアの作品、また、2022年は、イタリアの著名な作家であるパゾリーニの生誕100周年を記念し、パゾリーニ原作の作品等、バラエティー豊かな作品を20年以上に渡り、上演をしている。
また、『マラー/サド』の中のシャルロット・コルデー役のように現役の著名な俳優達が客演することもある。

ボローニャでは、精神保健局の事業として、表現活動のプロフェッショナルを養成することを目的にアルテ・エ・サルーテアソシエーションを創立、長い養成期間を経た精神障害当事者達は、プロの俳優として劇場と契約をして活動をしている。

日本においては、2018年に東京ソテリアが、アルテ・エ・サルーテ劇団を招聘し、『マラー/サド』を公演、2019年には、同作品への出演者を決めるオーデションを国内で行い、普段は、ディケアーへ通所したり、障害者雇用で働いている精神障害当事者達が参加した。その中の一部が演劇稽古を継続している。

また、東京ソテリアでは、こころの病をもつ親とその子どもたちへのサポートをおこなっている“こどもソテリア”を利用しているこども達を中心としたこども劇団333を運営している。10月10日は、『マラー/サド』作品をわかりやすく紙芝居仕立てにした読みきかせを劇団の子ども達と一緒に前座としておこなった。
将来の当事者俳優として育成していくこともよいと思われる。
イタリアポロ―ニャでは、当事者でも専門職があり、民間でピアサポーターとしても働くもある。
ほかにもアートサークルなど、イタリアの芸術の街のように、文化と芸術の都で、オペラや、美術館など当事者も多くの楽しみたかがある。

2013年以降、東京ソテリアでは、ボローニャ精神保健サービス視察ツアーを実施し、ボローニャ市を視察している。

2016年からは、2年に及び、東京ソテリアでは、ボローニャ精神保健局、ボローニャにあるエータベータ社会的協同組合と提携し、「日伊精神障害者就労支援プロジェクト」実施した。日本人の当事者達は、1か月交代で、がボローニャに滞在しながら、パスタやお菓子作りを働きながら学んだ。また、余暇の時間には、ボローニャ精神保健局の外出プログラムへも参加した。ボローニャ精神保健局では、利用者の文化的活動が進展的で、ボローニャの劇場での観劇もしている。

障害者権利条約の8月の国連障害者権利委員会のジュネーブの対日監査での勧告では、日本が世界基準から遅れている部分として、強制入院が減少していないこと、社会定期入院入院に数が減らないこと、地域での社会参加や、共生社会、精神保健福祉包括ケアシステムが上手に循環していないことなどがあげられる。

また、制限された権利として、文化面でも美術館やその他の公的施設での障害者手帳の使用する権利や、手帳の申請率も全体の20パーセント程度で、精神障害の当事者の手帳を申請することや、福祉サービスとして他の身体、療育手帳に増して、日本人の偏見や差別意識が強く、手帳の申請も障害者雇用に特化した部分で、割り切って雇用のために3級を取得するだけである。

イタリアでは、強制入院をする場合、二人の医師の判断、市長の承諾、その市長は、48時間以内に裁判所へ通報しないとならない。

この強制期間は、7日間で、延長が必要な場合、同様の手続きが必要となる。ボローニャには、精神保健局が運営する精神科病床を併設した総合病院が4つある。
イタリアでは、精神科の平均入院日数は、10日間で、地域のなかで、治療、生活をしていくことが基盤となっている。 
日本は、平均在院日数が、281日である。

イタリアでは、精神科医であり、“哲学者”の渾名でも呼ばれたフランコ・バザーリアが精神医療改革運動を行い、1978年、イタリアの精神保健法である通称“バザーリア法”が制定された。この法律により、精神病院の新規入院が禁止され、のちにイタリア全土の精神病院は、廃止となった。入院病床は、総合病院の中に設置され、病床は、各病院に15床までと規定されている。この法律を元に各州が地域精神保健サービスを管理、運営している。

ソーシャルファームは、イタリアで始まり、他のヨーロッパ国々へ広がったと言われているが、東京ソテリアは、イタリアや他国との地域精神保健を通した交流から学んだ経験も活かしながら、東京都のソーシャルファーム事業へ応募、そして、正式認証を受け、在日外国人の精神障害を持つ就労困難者を主な対象とした“ソテリアファーム”事業を開始し、新宿区四谷にマフィン、グラノーラ、焼き芋、季節の果物・野菜等を販売する店、そして、キッチンを運営している。ここでは、在日外国人の精神障害当事者、留学生らがスタッフとして、シフト制で働いている。

マフィンを製造するキッチンとお店は、徒歩数分の距離にあり、東京都の最低賃金の支払い、また昇給も見込まれた職場環境の中で、心のケアも職員がサポートしている。

ソテリアファームの店舗は、東京都のソーシャルファーム事業の認証を受けて、2021年に開店したものである。

東京都のソーシャルファーム事業は、令和元年にソーシャルファーム条例が発令され、令和3年の初年度には、28事業、翌年には、12事業が認証を受けた。
認証には、従業員の総数に対し、就労困難者(障害者、引きこもり、生活困窮者、高齢者、矯正施設の出所者、高齢者、ひとり親など)と認められる人を20パーセント以上雇用すること、法人格を有すること、登記や、年度末の決算が条件付けされている。

毎年事前説明会後、秋にエントリーがあり、プレゼンテーションと、審査があり、審査で許可が出ると、事業の開始になる。基本的に、就労困難者の雇用と、社会保険がつく30時間就労を目安に、雇用契約を結ぶ事業所も多い。補助金があり、企業を目指す場合にも、手段の1つだと思われる。

・ソーシャルファ―ムとは・・・就労困難を抱える方が多く、企業の一つの形である。一般的な企業と同様に自立的な経営を行いながら、就労に困難を抱える方が必要なサポートを受け、他の従業員と共に働いている社会的企業のことである。
1970年代にイタリアで誕生した。海外において、ソーシャルファ―ムと呼ばれる社会的企業が多数存在しており、現在では、ドイツ、イギリス、フランスなどにも広がり、ヨーロッパ全体で約10000社、また、韓国にも約3000社存在する。障害者雇用と、就労困難者が、一般労働者と共に仕事をしている。

・アルテ・エ・サルーテ劇団は、ボローニャ精神保健局の利用者である精神障害を持った当事者がプロの俳優として活動する劇団である。ボローニャ精神保健局(州立)保健予算、そして、劇団が契約をしている劇場の予算が活動及び劇団員の収入の資金となっている。表現・芸術分野にて、精神障害者が専門的養成を受け、プロとして就労することを目的に2000年に設立された。


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2022年 世界精神保健デー 普及啓発事業 アルテ・エ・サルーテ「マラー/サド」~世界各地の精神科病院と表現活動をつなげるプロジェクト~
https://soteria.jp/a/5451