本物の国宝が登場する映画『六つの顔』 完成披露試写に狂言の野村家3代が登壇

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早稲田大学大隈記念講堂に野村家親子三代と犬童一心監督が登壇!

人間国宝の狂言師・野村万作を追ったドキュメンタリー映画『六つの顔』が8月22日(金)より公開されるのに先立ち、7月24日(木)夜、舞台挨拶付きの完成披露試写会が開催されました。

   会場:早稲田大学 大隈記念講堂 大講堂
   主催:万作の会、カルチュア・パブリッシャーズ 
   共催:早稲田大学演劇博物館


『六つの顔』
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©2025万作の会

監督・脚本:犬童一心
出演:野村万作、野村萬斎、野村裕基、三藤なつ葉、深田博治、 高野和憲
ナレーション:オダギリジョー
題字・アニメーション:山村浩二 音楽:上野耕路
監修:野村万作 野村萬斎

650年以上にわたり受け継がれ、人々を魅了してきた「狂言」。その第一人者であり、芸歴90 年を超える今もなお、現役で舞台に立ち続ける人間国宝の狂言師・野村万作。映画『六つの顔』は、ある特別な1日の公演に寄り添い、万作が磨き上げてきた珠玉の狂言「川上」と人生の軌跡に迫る──。監督は、『ジョゼと虎と魚たち』、『のぼうの城』の犬童一心。アニメーションを『頭山』山村浩二、ナレーションをオダギリジョー、監修を野村万作と野村萬斎が務める。豊かな映像表現で織りなす、至高のドキュメンタリー。
公式サイト:https://www.culture-pub.jp/six-face/
★2025年8月 22 日(金)シネスイッチ銀座、テアトル新宿、YEBISU GARDEN CINEMA ほか全国順次公開



●舞台挨拶

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舞台挨拶付き完成披露試写会が行われたのは、万作の母校である早稲田大学の大隈記念講堂。映画の上映後、野村万作、野村萬斎、野村裕基の親子三世代、そして犬童一心監督が登壇。MCは萬斎の娘である野村彩也子アナ。

万作;学生時代、大隈記念講堂では、毎年早稲田祭でお能や狂言を上演していました。もう一つ申しあげますと、学生時代、歌舞伎研究会に入っていまして、6代目菊五郎が現役の頃で、歌舞伎はよく観に行きました。この講堂では歌舞伎の映画の上映もしました。幸四郎、羽左衛門、菊五郎の「勧進帳」の映画を演劇博物館の館長さんを通じて松竹にお願いしてお借りして上映いたしました。そういう思い出が多々あった上での今日の初めての映画上映でございます。ありがとうございます。
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萬斎:今日は遠路ありがとうございました。クラウドファンディングなどでご協力いただいた方にもいらしていただきました。映画では、父の90年の足跡を監督に撮っていただきました。ご覧になった皆さま、どうでしたかねぇ?  (会場より大きな拍手) ありがとうございます。いろいろな感想を頂戴できればと思います。今日は付け加えの裏話などもお話いただければと思います。
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裕基:早稲田大学卒業ではなく、わたしは慶應を卒業したんですが、慶應の講堂より早稲田の講堂に立たせていただくことの方が多い野村裕基でございます。本日はありがとうございました。この映画が、まさか全国津々浦々の劇場で上映されることになったというのも、その規模感がすごく驚きとともに、ありがたいことだなと思っております。
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犬童監督:僕は早稲田も慶応も出ていませんけども、今日は3人の方と一緒にここに立つことができました。よろしくお願いします。
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MC: 万作さんは、大学在学中の1950年に「狂言研究会」を設立。その後、現在に至るまで一門で学生に指導を続け、2010年より毎年、大学主催「早稲田 狂言の夕べ」公演を行っておられます。そんなゆかりの深い場所での初お披露目となったことについて、どう思われましたか?

万作:大学時代、毎年、お能や狂言をやっていた場所ですし、いろいろな思い出がたくさんございますので、感慨深いものがあります。

MC:万作さんは芸歴90年を超え、文化勲章も受賞された記念公演も収録されています。これまでの歩みを描いた映画になっていますが、自ら映画化を希望されたとも伺っています。

万作:先ほど申しあげましたとおり、勧進帳や小津安二郎の素晴らしい映画を若いころに観ていますので、狂言の演者として狂言についての映画を作りたいなぁと思っておりました。

MC: 犬童監督は、この映画のお話をいただいてどう思われましたか?

監督:私が思ったのは、しめたなと。前から万作先生を撮りたいと思っていましたし、能楽堂も映画的に撮ってみたいと思ってました。この話をいただいて、なんといっても万作先生の映画を撮る仕事を頼まれた、ということがものすごい名誉だと思いました。大事にやらなきゃいけないと思いました。

萬斎:われわれは無形文化財です。隣にいる父は本物の人間国宝です。(会場から拍手と笑い) 父の代弁をするならば、おそらく自分の芸を形に残したいという想いはあったと思います。有形のものにしたいと。
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万作:映画の中にも丸々収められている演目「川上」は、近年ライフワークとしても取り組んでいます。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で狂言のシンポジウムを行った際、野外で上演した「川上」でものすごい拍手をいただきました。ミラノでは、ある老夫婦が、舞台で手を取り合って立ち去る夫婦の姿を見て、自分たちも一緒になって手を取り合って帰っていったと通訳の方から聞いて、あ~嬉しいなあと思いました。
私が好きなのは、静かな狂言。もちろんゲラゲラ笑うのも悪くはありませんけれども、それ以上に和というものがある、柔らかい狂言。泥棒を許してやる。桜の花を盗人にあげて、お酒もふるまって帰すというような柔らかい人と人との交流というものが、「川上」にもあるということ。そのような狂言を少しでも色濃く演じていけたらばなぁ~と思います。

監督:万作先生の狂言の考え方として、まず美しくなければいけないということをよくインタビューでおっしゃっています。映画自体が先生の趣旨に沿っていることが大事だと思いました。万作先生は普段、座っていても立っていても、シルエットや佇まいがすごく綺麗。だから、本作はドキュメンタリーなんですけど、その佇まいやシルエットをとにかく綺麗に撮る。そうすることで万作先生が普段言ってらっしゃる狂言に、映画が近づけるのではないかと思いました。

萬斎:われわれは全身で表現しているという思いがあるので、顔ばっかり追われるより、シルエットにこだわっていただいたというのは、そういう意味でも本当にその通りだなと思いました。前半部分、撮影に立ち会っていないので、どういう風になっているのかと思いましたら、いきなりただ歩く後ろ姿。90年の歩みを感じさせる始まり。

裕基:この映画の中で思ったことですし、普段からも思っていることでもあるんですが、万作先生から芸を継承することはあっても、記憶を継承することはできないなぁ~ということを感じました。映画というものになることで、万作先生がこういう方に思っていらっしゃったのだ、戦時中のことであったり、未来に向けてどういう道を歩んでいくのかといったことが記憶されると思いました。

万作:この映画で大変嬉しいことが一つありました。後半部分で、能楽堂の2階席から撮ったNHKのアーカイブを映画に取り込んでいただいたこと。50歳位の時の舞台だったと思いますが、僕にとっては嬉しいことでした。

MC: 映画『国宝』の大ヒットで人間国宝に注目が集まっていますが、人間国宝・野村万作さんを、息子と孫という関係で、どのように捉えていらっしゃいますか?
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萬斎:父というより師匠であるということがすごく大きいです。家族でありながら、師弟でもあるという特殊な関係。やはり同じように考えていくということがとても重要に思います。僭越ながら同士でもあり、同業者であり、共演者であるというところがとても重要。僕らは単なる技芸を受け継ぐだけではなく、父が言いましたように精神を受け継ぐところがあります。時代時代とアップデートされていくことに合わせて、自分たちが何を守り、何を更新していくのか。そのための色々なチャレンジを惜しまないということを身をもって見せてくれた。そういう意味で『先達』であり『先人』でもある。われわれは『猿に始まり狐に終わる』と言いますけれども、まさしく『獣の世界』ですよ。親が、餌はこうやって獲るんだよということを言葉では説明しないわけです。まず親が『獣の獲り方はこうやるんだよ』という姿を見せて、それを見様見真似で覚えていく。そういう意味で特殊ではありますが、ずっと背中を見せてきてくださったなと思っております。

裕基:「芸に実直であれ」という姿勢の方であると感じています。94歳になってもまだ高みを目指す、というような気持ちと精神と体力を持ち合わせている。本当に改めて大きな存在なのだなぁと感じました。


*フォトセッション*
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観客の皆さんにも、撮影タイムが設けられ、いよいよ舞台挨拶も終盤。最後のコメントを求められた万作さん、
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「当たるといいですねぇ~」と、ひと言。会場がどっと笑いに包まれ、大きな拍手で4人を見送りました。

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少し耳が遠い万才さんに、孫の裕基さんが時折、耳元でささやいている姿が微笑ましかったです。 萬斎さんも、万才さんを気遣いながらフォローされていました。師弟でありながら、やはり家族だと感じました。
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学生時代には、歌舞伎もよく観に行ったという万才さん。ほんとうに歌舞伎が大好きだったご様子。同じ日本の伝統芸能である歌舞伎からも大いに学ばれたことと思いました。 狂言を生で観たのは、ほんの数回ですが、この映画を観て、「川上」の演目をいつか能楽堂で観てみたいと思いました。 

取材:景山咲子(文・写真)



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『私の見た世界』石田えり監督初日舞台挨拶

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女優の石田えりさんの初監督長編映画『私の見た世界』。
昭和57年、松山ホステス殺人事件で逮捕された福田和子。名前を変え14年11ヶ月10日間におよぶ逃走の日々を描いた物語。
監督だけでなく脚本・編集・主演も務めた石田えりさんが初日舞台挨拶に登壇しました。

2025年7月26日(土) 
シアター・イメージフォーラム


大きな拍手で迎えられた石田えりさん。
「皆さんお暑い中、今日はどうもありがとうございます」と、にこやかに挨拶。

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― 俳優として長いキャリア。いつ頃から違うこともと?

石田:ほんとにやりたいことは待ってても来ないなと思ったのが30年前くらい。
舞台を3本作ったのですけど、人を探して演出家もお願いして、お金も払ったのですが、でも結果、私がやりたいこととはちょっと違ったなと。6年前に短編映画を作ったのですが、自分で作ったにもかかわらず、表現したいことがどうやって表現したらいいかわからない。
勉強しなくてはダメだと思って、勉強して、今回の作品になったのですけど、やっぱり勉強しなくてはいけないんだなと。

― 福田和子の主観で撮影されています。

石田:福田和子さんのことを本で読んで、逃げて逃げまくってというイメージが映像とともに浮かんできて作ろうかなと。浮かんできたイメージが、福田和子本人じゃなくて、福田和子が出会った景色や人のイメージだったので、和子さんの見た景色や人で追っていく形で描きました。

― 画面サイズが変わりますね。

石田:画面サイズは、普通の時はスタンダード。俯瞰の時は、ビスタサイズでワイドです。

― 個性的な役者さんたち、何を一番大切に?

石田:顔ですね。顔で決めさせていただきました。こんな顔の人がこんなことするワケない。こんな怖い顔の人がノミの心臓? そのまんまのキャラの人もいる。普段の生活でも自分の判断力を顔で遊べると映画を観て思って貰えるのではないかと思います。
コロナの頃だったのでオーディションできなくて、写真で選びました。

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― 初めての長編、撮影で苦労されたことは?

石田:もう、それは・・・。諦めないといけないこともありました。ストレスが溜まって、ある時、ホテルで寝ているときに壁を脚で蹴飛ばしてしまって穴が空いてしまって、次に泊まったらテープが貼られてました。すみません・・・

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― 追われて逃げる夢を見たそうですね。

石田:お化けがずっと追ってくるので、逃げて、逃げて、もう怖くて逃げられないと振り向いたら消えてました。その夢を見た3日後に、詩人の谷川俊太郎さんが見た夢を語られているのを、テレビで観たんですが、全く同じ夢でした。この夢のことを映画で伝えられればなと思いました。嫌なものや怖いものは見ればいいんだと。

表情豊かに、語ってくださった石田えりさんでした。

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報告:景山咲子


石田えりプロフィール 
熊本県出身。『遠雷』(80/根岸吉太郎)で日本アカデミー賞優秀主演賞と優秀新人賞、『華の乱』(88/深作欣二)や『飛ぶ夢をしばらく見ない』(90/須川栄三)などで日本アカデミー賞最優秀助演賞などを重ねて受賞。 カンヌ映画祭コンペティション部門出品の『嵐が丘』(88/吉田喜重)、ヴェネチア映画祭オリゾンテ部門オープニング作品『サッド ヴァケイション』(07/青山真治)他に出演。 ヘルムート・ニュートンが撮影した写真集「罪-immorale-」(93)は大きな話題を呼んだ。2019年には、短編映画『CONTROL』で初監督。『G.I.ジョー・漆黒のスネークアイズ』(21/ロベルト・シュヴェンケ)でハリウッド映画デビュー。


私の見た世界
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(c)2025 Triangle C Project
監督・脚本・編集・主演:石田えり
出演:大島蓉子 佐野史郎 夏川さつき 後藤ユウミ 下総源太朗 林歩楓 蒲生純一 佐藤まんごろう 桑田佳澄 島村苑香 スガ・オロペサ・チヅル 日下部そう 峰秀一 石井ひとみ くれ みわ 小田和江 関口ふで 山内ナヲ 櫻井紗季 岡本舞 仲野元子 黒井悠未 塩野谷正幸 吉田武房 松下太亮 西山水木 齋藤光司 世志男 栗田昌治

昭和57年、松山ホステス殺人事件で逮捕された福田和子。名前を変え14年11ヶ月10日間におよぶ逃走の日々を新たな視点で描く。「女」は、何から逃げたのか ——

シネジャ作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/517028996.html

2025年/日本/日本語/69分/カラー/1.85:1
製作・配給:トライアングルCプロジェクト 
配給協力・宣伝:Playtime
公式サイト https://watashinomitasekai.com/  
★2025年7月26日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開


『黒川の女たち』松原文枝監督インタビュー

2025年7月12日(土)からユーロスペース、新宿ピカデリー、池袋シネマ・ロサ、キノシネマ 立川髙島屋S.C.館、MOVIX昭島、CINEMA Chupki TABATAで公開 その他劇場公開情報 

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80年以上前の戦時下、国策の満蒙開拓により満州に渡った岐阜県白川の黒川開拓団員は650人余。5年満州で生活した。日本の敗戦が色濃くなる中、1945年8月9日ソ連軍が突然満洲に侵攻。守ってくれるはずの関東軍はすでに去り、満蒙開拓団は過酷な状況に。集団自決した開拓団や、避難する途中で亡くなった人も。
敗戦後はソ連兵や、抑圧してきた中国人から襲撃を受け、黒川開拓団は日本に帰るため敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは女性たちによる接待だった。差し出された女性は15人。数えで18歳以上の未婚女性が犠牲になり性の相手をさせられた。そして4人の乙女たちが亡くなった。
性接待の犠牲を払ったが、敗戦から1年、黒川開拓団の人々は451人が帰国できた。しかし、帰国した女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目、そして誹謗中傷。同情から口を塞ぐ人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。二重の苦しみに追い込まれ、故郷を離れ他の土地で酪農を始めたり、東京に行った人も。それぞれ思いを抱えていたが、その思いを口にすることなく、時に、犠牲にあった女性たちのみで集まり、涙をこぼした。
だが、黒川の女性たちは、犠牲の史実を封印させないため「なかったことにはできない」と手を携えた。2013年に満蒙開拓平和記念館で行われた「語り部の会」で、佐藤ハルエさんと安江善子さんが、満州で性暴力にあったことを公の場で語った。彼女たちの勇気ある告白に、今度は、世代を超えて女性たちが連帯した。
その後、1982年、黒川の鎮守の森に「乙女の碑」が建てられたが、お地蔵さんが鎮座するだけで説明はなかった。戦後70余年、2018年に、彼女たちの犠牲を史実として残す碑文が「乙女の碑」の脇に建てられ、その歴史が刻まれた。過去に向き合うこと、それは尊厳の回復にもつながった。

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(c)テレビ朝日(場面写真クレジット)
『黒川の女たち』公式サイト 
監督:松原文枝
語り:大竹しのぶ
製作:テレビ朝日
配給:太秦
2025/日本/99分/ドキュメンタリー

松原文枝監督プロフィール 公式HPより
1991年テレビ朝日入社。政治部・経済部記者。「ニュースステーション」、「報道ステーション」ディレクター。政治、選挙、憲法、エネルギー政策などを中心に報道。
2012年にチーフプロデューサー。経済部長を経て現在イベント戦略担当部長。2019年からイベント事業局戦略担当部長。
「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞。「黒川の女たち」のベースとなった「史実刻む」(2019)がUS国際フィルム・ビデオ祭で銀賞。
ドキュメンタリー番組「ハマのドン」(2021、22)でテレメンタリー年度最優秀賞、放送人グランプリ優秀賞、World Media Festival銀賞など。
映画『ハマのドン』がキネマ旬報文化映画ベスト・テン第3位。
著書に「ハマのドン」(集英社新書)。

松原文枝監督インタビュー 
2025年6月6日

*満蒙開拓平和記念館での「語り部」の会
編集部 これまで従軍慰安婦のドキュメンタリーの作品紹介やインタビューはしてきましたが、日本人女性の戦時性被害を扱ったドキュメンタリーについて取材するのは初めてです。
黒川の女性たちのことを知り、取材を始めたのはいつ頃ですか? また2013年の満蒙開拓平和記念館の佐藤ハルエさんと安江善子さんの「語り部」の取材には行っているのですか?

松原文枝監督 2013年の満蒙開拓平和記念館の取材には行ってないです。取材を始めたのは2018年の11月に碑文ができた時からです。それができる前の2018年8月に朝日新聞の全国版に佐藤ハルエさんのことが載っていました。岐阜市民会館で行われた戦争の証言集会というのがあり、自分の満州での体験を語られていて、それが記事になっていたんです。こんな戦時性暴力の体験をたくさんの人の前で語る人がいるんだと驚きました。その時佐藤さんは93歳でした。年を経たので語れるという人もいますけど、最後まで話さず、墓までもっていこうという人が多いわけで、たくさんの人の中で自分の体験を話すということは、ものすごく勇気もいるし、覚悟もいる。そこに写っていた写真の表情がとても印象的で、口を真一文字に結んで、ものすごく信念がある表情だったんです。それに引き込まれて「この女性、なんでここまで話せるんだろう」と思ったのが、この黒川開拓団の取材に入るきっかけでした。
公の場で話す機会はこの後ありますか?と聞いたら、「ありません」と言われて、その後、2018年11月に「乙女の碑の碑文の除幕式があり、佐藤ハルエさんも来ます」と黒川村の遺族会の方から連絡があり、その除幕式を撮ったのが映像を撮り始めた最初です。

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佐藤ハルエさん

編集部 満蒙開拓平和記念館での二人の語りの映像は、TV朝日の報道の映像ですか?

監督 2013年7月と11月の映像は、満蒙開拓平和記念館が撮っていた記録映像です。あの映像を残しておいてくれたことが次に繋がっていったので、満蒙開拓平和記念館の存在というのが、ものすごく大きかったなと思います。彼女たちが安心して話せる場所であり、それを記録した場所でもありました。

編集部 私は、2015年に山田火砂子監督の『望郷の鐘』という作品を観て、満蒙開拓平和記念館ができたことを知り、2016年の1月に長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行きました。ここは2013年4月にできていますが、彼女たちは7月と11月の「語り部の会」で証言をしているんですね。彼女たちにとって、ここができたから語れたという部分があるのかなと思いました。
(『望郷の鐘』の山本慈昭さん。長野県阿智村、長岳寺の元住職で、国民学校の先生として満蒙開拓民を募集して連れていかなくてはいけない状況で、終戦の半年前に満州に渡る。シベリアに抑留され1947(昭和22)年に引き揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれている。「満蒙開拓平和記念館」は、この長岳寺のそばに建てられています)

監督 おっしゃる通り。

編集部 ここでの話が世間に知られるきっかけだったのでしょうか? 長年、伏せられ、表には出せないできたけど、ここで発言するにあたり、黒川村の開拓団の幹部の人たちのかくしておきたい事情とのせめぎ合いとか葛藤もあったかと思います。でも、彼女たちの「なかったことにはできない」という思いから、証言になっていったのでしょう。

監督 満蒙平和記念館ができたのは2013年4月で、佐藤ハルエさんが話しをしたのが7月の語り部の会で、第2回目なんです。安江善子さんが話しをしたのは11月なんですが、やはり、その場があったということが大きかったと思います。遺族会会長の藤井宏之さん(戦後生まれ)が、そこで話しをしてほしいとお願いしたのですが、それは、別に「性接待のことを話してほしい」とは言っていないし、彼はそのことを話すとは思ってなかったんですね。彼女たちに「満州の話をしてほしい」と言ったら、その場で彼女たちは、自分たちのほうから語り始めたそうです。そこの場は、満蒙開拓のことを知りたい、考えたいと思う人たちが来るところだから話せたのだと思います。でも安江善子さんは、その後、皆さんの前では語ってはいないんですよ(2016年死去)。後に、記念館の人たちがインタビューに行った時にはしゃべらなかったそうです。
佐藤ハルエさんは、記念館ができる前から「性接待」の話をしています。わかっている人、気づいた人が来た時には話をしていたんです。新聞などにも書いてほしいと言っているシーンも、この映像の中に出てきます。
以前の黒川村の開拓団の幹部は、証拠を焼いたり、埋めたりして、なかったことにしようとしていたわけです。女性たちが出したいと思っても声をあげられなかったのです。当時の遺族会の幹部によって抑え込まれ消し去られました。会長が戦後世代の藤井さんになったから、声を上げられるようになったと思います。

*「乙女の碑」のエピソード
編集部 会長の妻の藤井湯美子さんがが出てきてきて、「夫ながらあっぱれ」と言っていましたが、私は彼女がいたことで、ここまでできたんじゃないかと思いました。

監督 この女性は「長いものには巻かれたくない、おかしなことにはおかしい」という元気がいい女性なんです。この女性の存在も大きかったです。

編集部 彼女たちがいくら声をあげたとしても、遺族会があるわけだから、会長が先頭に立っていかなければ碑文の制作にしても形にはなっていかなかったと思います。「恥になること」と言っていた開拓団帰りの男性の声もあったわけですから、彼女たちの声を消さないで拾い上げて形にしたということに拍手喝采。

監督 そういう風に観ていただいて嬉しいです。ほんとにそうですよ。共同体のリーダーって大事ですよ。彼がいたことによって碑文として残せたと思います。

編集部 「乙女の碑」そのものは1982年に作られたわけですが、碑文は2018年に建てられていますね。でも、その碑だって、戦後37年もたってから建てられているんですね。

監督 黒川開拓団は600名余りの人たちが行っていますが、200名ぐらいの方たちが現地で亡くなり、性接待を強要された女性たちの中からも4名の方が現地で亡くなっています。お参りする場を作りたいということで、安江善子さんが中心になって、彼女たちを弔うために寄付金を集めて「乙女の碑」が作られました。
1981年に遺族会の方たちが、開拓団がいた陶頼昭(とうらいしょう)に慰霊の旅をしています。訪中の後、1982年にその記念碑が作られ、そこには満蒙開拓の説明や碑文もあるのですが、同じ頃建てられた「乙女の碑」の方は何の説明もなくお地蔵さんだけだったのです。身内の人がわかっているだけという状況でした。


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*性接待の状況
編集部 映画の中にも、‎訪中慰霊団のシーンは出てきますね。松原さんが2018年から取材を始めて、TVで放映されたのはどんな番組だったのでしょう。

監督 2019年の8月に報道ステーションで特集にしたのと、テレメンタリーという30分のドキュメンタリー番組になりました。その後に、テレメンタリーで1時間の拡大版というのが11月に放送されました。

編集部 反響がすごくあったということですね。

監督 結構ありました。

編集部 戦後すぐ、ソ連兵による日本女性への「性被害」という話は、これまでもいろいろ出てきていますが、ソ連兵に守ってもらう(中国人の襲撃から)という発想を開拓団の幹部がするというのは可能だったのかなというのは、この作品で知ってびっくりしました。

監督 このような「性接待」のことは、平井和子さんという戦時性暴力を研究者の本(「占領下の女性たち」)などを読むと、女性を物のように提供して性接待をするというのは44件くらいあったようです。平井さんは、国会図書館とかで記録集を読んで調べたものがそのくらいなので、たぶん証言とかないものも含めたら、もっとあったんじゃないかなと想像されます。これはそういう時に女性を差し出すという例ですが、そうでなく一方的な性暴力はもっとたくさんありました。

編集部 何年もかかって日本に戻ってきた人たちがいた一方、この黒川開拓団は敗戦の1年後には日本に帰ってきましたが、帰還事業の初期の頃に帰れたんですね。これまで、満蒙開拓団の話や避難を描いた映画をいくつも観ていますが、ソ連国境に近いところにいた人、中央部にいた人、港に近いところに住んでいた人によって状況は違いましたよね。日本は、もとはと言えば加害者だったのに、侵略者だった日本人を、終戦後、復讐のため襲撃した中国人もいた一方、子供や女性を受け入れて、育ててくれたり保護して家族にしてくれた中国人もいたわけですから、感謝の思いがあります。避難の途中で亡くなった人や、残留孤児、残留婦人になった人もたくさんいるわけですから、その団の人たちがいた場所とか、開拓団に成人男性がどのくらい残っていたかとか、また、団の運命は団長の決断によって分かれてしまい、自決したり、その後の状況は違ったものになりましたね。

監督 ほんとにそうですよ。その時にどう判断するかで変わってきましたね。女性を性の対象に差し出すって、犯罪的行為だと思うんですよね。それが、団を守るためという論理に差し替えられている。女性をそういう対象にしか見ていなかったことの現れですよね。

編集部 満蒙開拓団で渡った人というのは次男、三男とか、口減らしのために渡った人も多かったし、日本にいたところで、その時代だったら売られた女性もいっぱいいたわけだから、そういうことに対する意識は今とは全然違うので、今の時代の見方でみるわけにはいかないですね。
性接待の状況を説明するのに、床に布団が並べられて犯されている状況に驚いたという場面がありますが、従軍慰安婦の場合もカーテンとかで仕切られた場所でそのように相手をさせられていたという証言もあるので、そういう形は当たり前のように思われていたところがあったんじゃないかと思います。

監督 そうですね。このことを誰が決めたのかということははっきりわからないんですよ。ソ連軍がもちかけたという話もありますが、黒川開拓団がいた陶頼昭というのは交通の要所にあり、関東軍の事務所にいた人がいたり、ロシア語ができる人もいたりで、そういう人たちが開拓団の幹部にもちかけたという話もあります。

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*満州からの引き揚げ

編集部 日本から、満蒙開拓で行ったのが27万人と言われていて、8万人くらいが亡くなったということですが、あの状況から考えたら意外に帰ってこられた人の数は多かったという印象があります。長い距離を歩いて、日本に帰り着くための港・葫芦島(コロ島)までたどり着くのに時間がかかった団があった一方、黒川開拓団は、早くたどりついたと思いました。やはり、彼女たちの犠牲があってのこともあるのかなと思ったりしました。

監督 いや、彼らはもっと早く帰ればよかったと言っています。関東軍は日本からの撤退の情報を開拓民に伝えず、自分たち、あるいはその家族だけを連れて、さっさと日本に帰ってしまったわけです。彼らのように情報があれば、早く帰れたわけですよ。

編集部 それを伝えもせず、関東軍は、自分たちだけが帰ってしまったという、ひどい話ですよね。

監督 ひどい話ですよ。ソ連の中枢のほうも、兵士の風紀が悪くて、性暴力の話が国際的にも問題になってきたので、取り締まりもやっていたのですが、中国から引き上げるという話になっていたようです。いずれにせよ、早く帰さなかったことが被害を大きくしたと思います。

編集部 日本は敗戦で余裕もなかったのかもしれないけど、中国に送ってしまった人たちを日本に戻すという動きは、敗戦後すぐにはできなかったということですね。(舞鶴の「引揚記念館」などに引揚の状況などの記録が残っている)

監督 今と違って情報が伝わらずで、どうしたらいいかがわからないという状況があったわけですが、「現地にとどまれ」という話もあったのですが、その話すら伝わっていなかったのです。終戦の翌年1946年(昭和21年)の5月に引き揚げ事業が始まるのですが、陶頼昭の駅で、この引き揚げの情報を聞きつけ、すぐに葫芦島に向かったようです。だから、黒川開拓団は帰ってこられましたけど、集団自決しなくてよかったなとは思いますが、女性を差し出したから400人余りの人が助かったとは、必ずしも言えないかもしれません。

編集部 今の時代の発想で考えてはいけないと思うけど、そういう意味では、無駄な犠牲になってしまい、彼女たちの人権は踏みにじられてしまったといえますね。

監督 中国人たちを支配していたから、敗戦後、襲撃にあって根こそぎ物品が取られてしまっても、命に危害は与えられなかったようです。

編集部 いずれにせよ、27万人が満蒙開拓団として渡ってしまったわけだから、日本に帰るのは大変だったわけですよね。
そういえば、佼成学園女子校の高野先生が、この黒川村の女性たちの性接待の状況を授業の中で伝えているのはすごいなと思いました。こういう活動は必要ですよね。

監督 ハルエさんのところに学校の先生たちも集団で足を運んでいたのですが、先生ばかりでなく大学生や高校生、一般の会社員なども話を聞きに来て、ハルエさんはその都度丁寧に話をしているんです。そういうことで、人の心が動かされ、伝えるという行動につながっているんですね。あの映像はたまたま学校がOKしてくれたのですが、そうじゃない学校でもそうやって教えているんです。
ハルエさんや他の女性もそうですが、顔を出して自分の言葉で語ったというのは大きくて、その勇気と覚悟に対して、心打たれて、学校の授業にまで伝わっていったというのは、女性たちが突き動かしたなと思うんですよね。


*彼女たちの絆とカミングアウト

編集部 名前と顔を出して語っていたのは、最初は佐藤ハルエさんと安江善子さんだけでした。水野たづさんや安江玲子さんは、最初は名前を出さないでいたけど、後になって顔も名前も出すようになりましたが、それは安江善子さん、佐藤ハルエさんが亡くなって、後は自分たちが伝えていかないとと覚悟を決めたのかなと思ったんですけど、どうですか。

監督 この二人の場合は、覚悟を決めたというより、周りが理解してくれたということが大きかったと思います。彼女たちのことを認めて、尊敬というか大事にしたということが、心をとかしたんじゃないかと思います。

編集部 そうですね。自分の体験を言った時に、家族からどう思われるかというのがあると思うから。それに対して、家族から理解ある反応があったからというのが一番大きいのでしょうね。孫からの手紙を、ずっと持っていた話が出たときには思わず涙が出ました。
また、仲間たちとの団結力というか、励まし合いというのが大きな力になっていたと思います。一人じゃできないけど、5,6人の人たちが支え合い、時々は集まっていたのが大きな原動力だったのだろうと思います。

監督 そう思います。彼女たちの連帯というのがものすごく大きくて、彼女たちがお互いに支え合い、かつ「なかったことにされている」ことに対して憤りを持っていましたから、碑文を残すにあたって、彼女たちの力が大きかったですよね。連帯でもあるし、お互い支え合い、それぞれの気持ちを大事にして、ずっと一緒に生きてきた時間が長かった。

編集部 ハルエさんが安江菊美さんに対して、「あなたのおかげ」と言っていましたが、安江菊美さんはそれは逆だと言っていましたね。でも、やっぱり菊美さんの存在は大きいですよね。性被害体験者本人は言いずらいけど、周りにいた人だったら言えるということはあると思います。

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安江菊美さんと佐藤ハルエさん


監督 菊美さんは、被害者たちより若い世代ですし、非常に記憶力が鮮明で当時のことをよく覚えていますし、論理的な人なので、何があったかということを道先案内人のように解説をしてくれるので、すごくよくわかりました。彼女の存在はとても大きかったです。

編集部 当時11歳くらいだったのですよね。でも、それで、あれだけ覚えているというのはすごいなと思いました。私は、その年齢の時のこと、それだけ覚えていないです。

監督 私もその年の頃は全然ぽやっとした記憶しかないのですが、菊美さんはよく覚えていたんですね。やっぱり衝撃的だったからだと思います。記憶力がいいのもありますが、語り部をしているので、資料を整理してもっているということと、写真も持っているというのが大きいと思います。また、繰り返し当時のことを言っているのもあるかと思います。

編集部 菊美さんの存在もあったので、彼女たちの体験を裏付けられたと思います。そういえば、ものすごい量の手紙が出てきましたが、あれはどういうことだったのでしょう。

監督 あれは、佐藤ハルエさんのところに、いろいろな人から来た手紙の山だったのですが、あれはほんとに一部で、もっと膨大にあったと思います(笑)。

編集部 そういうのにも、絆というか助け合いというのを感じます。そういう繋がりがあったから、語ることができたのかもしれないですね。まとめる方がいて、集まれる場所があったり、励まし合ったりすることがあって、公表することにつながったのかなと思いました。

監督 ありがとうございます。女性たちが支え合ってきたことが大きかったと思います。でもやっぱり思うに、佐藤ハルエさんが外に出したかったという思いが大きかったと思います。その信念をみんなが支えていたんだと思います。お互いに理解し合える人たちがいることが、彼女の心の安寧にもなっていたと思うんですね。

編集部 一人だったらできなかったかも。

監督 仲間がいてくれるからこそ、彼女は行動できたと思います。一方で、絶対残さなくてはいけないという強い信念を持っていたのが大きいと思います。安江善子さんは公の場で話したのは、2013年の満蒙開拓平和記念館の時だけでしたけど、その後3年後の2016年には亡くなっているので、そのあとは話す機会もなかったのかもしれないですね。

編集部 ハルエさんはこれだけ苦労して99歳まで生きたそうですが、すごいですよね。

監督 ほんとですよ。良かったなと思います。大往生で、去年亡くなるまでよく生きたと思います。99歳の人生を生き抜いて、いろいろなことを後世に残しました。

編集部 ハルエさん一人だけのことでなく、黒川開拓団だけでなく、満蒙開拓団の方たちの代弁者だったと思います。本人はどうかわからないけど、いつのまにかそういう立場になってしまったので覚悟を決めたのかもしれませんが。

監督 いや、この方は固い意志があったと思います。

編集部 そういえば、佐藤ハルエさんが満州の農業学校(女塾)で学んだ時に、先生から「女性は戦争に負けたら、こういうこと(性接待)もあるかもしれないから覚悟をしておくように」と言われたということを話していましたね。しかし、日本に戻った時には「労らわれる(ねぎらわれる)」ことなく誹謗中傷に合い、結局、他の村に行かれたわけですね。
お孫さんからの励ましの手紙を持っていた方は、玲子さんですね。この手紙をずっと持っているというエピソードに心打たれました。それまでは顔を出さずに証言していたわけですが、この手紙をもらってから、名前も顔も出すようになったのですね。

監督 玲子さんは2017年くらいから語り始めていたのですが、顔も名前も出さずにいたわけです。

編集部 水野さんはもっと後ですか。 

監督 水野さんは、2017年、2018年ごろには匿名で話はしていましたが、その後は家族の手前、取材に応じていませんでした。このため、TV放映した頃は、写真にはぼかしを入れていました。今回、映画にするにあたって、インタビューも難しいかと思いましたが、碑文も出来て社会に知られたことで、息子さんの理解も進み、顔と名前を出して応じて頂きました。また犠牲になった女性たちが皆で映ってる写真では、TVの時は3人だけしか出せなかったのですが、映画になるときには、本人や遺族に確認をして、ご了解を得て、顔を出すことが可能になったんです。やっぱり顔が出せるとリアリティがありますからね。

編集部 彼女たちの救いは、家族が理解をしてくれたということでしょうね。だからこそ、発言して残していかなくてはと思ったのかなと思いました。TV放映は、どれか1回は見ていると思うのですが、映画化しようと思ったきっかけというのはあるのですか?

監督 それは玲子さんという人が笑顔になって、変わったんですよね。私自身、見て驚きました。人間は尊厳を回復することができるんだというのを目の当たりにしたんです。もう一つ決定的だったのはハルエさんが目の前で亡くなったというのが大きくて、この女性の死に立ち会ったことで、何か残さなくてはという焦燥感にかられたんです。彼女がやってきたことに対して頭が下がる思いがあり、何か記録に残さねばと思ったのです。到着して10分後に亡くなったんですが、おふたり(安江菊美さんと藤井宏之会長)を待っていたという感じがして、安心して逝かれたんだなと思いました。

編集部 あの菊美さんの語りかけのシーン、いいですよね。

監督 ハルエさんと菊美さんはいつも話しをしていて、絆が強い二人でした。いつも満州の話をしているんですよ。

編集部 悩みごとでもなんでも話すと少し楽になるということだったのかもしれませんね。だから満州時代の同じ経験をした仲間と集まって話すことが安らぎだったのかもしれませんね。

監督 他のところで話せないので、本音とか悲しみとか率直に出せる相手だったんだと思います。

編集部 その期間(性接待)が2カ月くらいだったとはいえ、病気になったり性病を持って帰ってきたりで、身体の状態が悪いまま帰ってきた方もいたと思います。

監督 完治しないまま、日本に帰ってきて、治療をしていた方もいました。

編集部 帰国後の誹謗中傷を生んだのは、「開拓団幹部の人の発言から」というのが出てきました。藤井会長が、もしかしたら自分の父さんかもしれないと語っていましたが、その時代の、そういうことに対する認識が今と違うからだったのでしょうね。それに伏せておこうとしても噂は広がってしまったのですかね。

監督 開拓団の中で内緒にはしていたけど、村の中で多くの人が開拓団として行っていたから噂にはなりますよね。いわれなき誹謗中傷や、そういう目で見られているということがあって、彼女たちはいたたまれない気持ちにはなりました。

編集部 時間が来てしまいました。この話を興味ある方に広げたいと思います。ありがとうございました。

監督 ありがとうございます。満州から帰ってきて、戦後日本で開拓した人たちというのはたくさんいると思います。ぜひぜひ広めてください。
取材 宮崎 暁美

映画『ハルビン』ジャパンプレミア

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日帝時代の事件 両国での公開が平和の証

ヒョンビンが祖国の独立に命をかける孤高の男、安重根(アン・ジュングン)を演じ、リリー・フランキーが伊藤博文役で韓国映画初出演を果たした映画『ハルビン』。
7月4日(金)からの日本公開を前に、ジャパンプレミアが行われました。

   2025年6月27日(金)  9:30からの上映終了後舞台挨拶
   新宿ピカデリー SCREEN1
   登壇:ヒョンビン、リリー・フランキー、ウ・ミンホ監督
   MC:古家正亨

上映が終わり、満席の観客の前にウ・ミンホ監督、ヒョンビン、リリー・フランキーが登壇。
まずは挨拶。

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ウ・ミンホ監督:映画『ハルビン』の監督ウ・ミンホです。お会いできて嬉しいです。

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ヒョンビン:こんにちは(日本語で)。こうして久しぶりに皆さんと映画館でお会いできてうれしいです。皆さんにとっていい思い出になれば嬉しいです。

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リリー・フランキー: 平日の昼間にたくさんいらしていただきありがとうございます。映画をご覧になったあと。すごくダイナミックな映画。久しぶりにヒョンビンに来ていただきましたので、皆さんどうぞ楽しんでください。

― 韓国で公開され6か月経ちました。いよいよ日本で公開されるのにあたってどんなお気持ちですか?

監督:映画『ハルビン』は、皆さんにご覧いただいた通り、日帝時代の大韓義軍の物語です。日本での公開がとても大きな意味を持っていると思います。この作品を観て、どのように感じてくださるのかわくわくしています。

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ヒョンビン:監督がおっしゃった通り、日韓の歴史的事件を描いています。このように観客の皆さんとお会いするのは非常に感慨深いことです。皆さんがこの映画をどのように観てくださるのか気になっています。少し緊張もしています。

リりー:なによりもお互いの国でこの映画が上映されるのが平和の象徴だと思います。映画として楽しんでいただければなによりです。今日はありがとうございます。

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◆アン・ジュングンの人間的な苦悩を描きたかった
― 監督がこの題材に取り組んだきっかけは?

監督:元々アン・ジュングンに関心がありました。韓国では彼についてのコンテンツがたくさん作られています。偶然自叙伝を読んで、今まで知らなかった人間的な苦悩を抱えていたことを知りました。日本軍の捕虜を助けたことも書かれていて好奇心を持つようになりました。なぜ彼がハルビンへ行って大きなことを果たそうとしたのか、また、彼の同志への思いを描きたいと思いました。

― お二人が出演を決めたのは?

ヒョンビン:監督と同じような気持ちです。アン・ジュングンは韓国では伝説的な英雄ですが、それだけでなく、人間としての姿を映画を通して見せたいと思いました。監督が映画を通じて伝えたいと思うことが誠意を持って伝わってきて、意義のある映画を作ろうという思いに一緒に映画を作ろうと思いました。

リリー:素晴らしい脚本。面白い映画になると思いました。監督の映画の大ファンですし、ヒョンビンの作品もほとんど見ています。僕に限らずオファーを受けたと思います。

― ラトヴィアやモンゴルの素晴らしい映像でしたが、撮影は大変だったのでは?

リリー:氷の上とか、すごくない?

ヒョンビン:撮影を始める前に監督から、この時代に苦労した人たちがいたから、簡単に撮影してはいけない。充分覚悟してと、スタッフもキャストも言われました。つらいという気持ちよりも、当時の人たちの思いに気持ちを馳せることができました。

◆リリー・フランキー 手を重ねてくれたヒョンビンにときめく
― リリーさんは日本人一人で撮影現場に?

リリー:日本人はほんとに僕一人でした。ヒョンビンも、監督もすごく優しくて・・・ 10人くらいで食事をしていた時に、日本人が僕一人なものですからヒョンビンが横に座ってくれて、韓国語の会話でわからない中、テーブルの下で手を重ねてくれて、「リリー、Are you OK?」と聞いてくれて、あなたたちそんなことされてごらんなさいよ。もう・・・! それくらい気を使ってくれて優しい。
監督はいい時はすごく褒めてくれて、早く終わった時には飲みに行こうと。

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― ヒョンビンさん、手を重ねたこと覚えてますか?

ヒョンビン:リリーさんの大ファンでしたので、下心ありました。


◆優先順位1位は、決まった時間の美味しいご飯
― 公式SNSで質問を募集しました。一つ目、韓国での撮影現場はご飯が美味しいと聞きました。何が一番美味しかったですか?

リリー:日本みたいにお弁当じゃなくて、ケータリングで、キムチだけでも何種類もありました。終わった後に食べに行ったお店も美味しかったです。
3日撮影したら、1日休み。スタッフが温泉に連れてってくれて、おじさんが全裸で垢すりしてくれました。休みの時も思い出深いです。

― 監督は現場でのホスピタリティをどんな風に考えていますか?

監督:ケータリングのことが出ましたが、優先順位の1位は美味しいご飯だと思っています。精神的にも肉体的にも疲れているのに、ご飯が美味しくなかったら怒ってしまいますよね。ご飯は美味しくないといけない。時間も守らないといけない。

リリー:これ絶対書いてくださいね。日本の現場では守られない!

ヒョンビン:映画自体は重い雰囲気ですが、現場は重くなかったです。お互い演じるキャラクターがあってプレッシャーはありましたが、お互い話し合ったり、助け合ったりしました。皆で一緒に過ごす時間が長かったので、同志のようになりました。

◆一歩一歩進めば、いい未来が見える! 
― 映画『ハルビン』の魅力をひと言で!

ヒョンビン:難しいですね。リリーさんから先に。

リリー:ダイナミックでいい映画!

監督:日帝時代を描いたものですが素晴らしい映画。配信の時代ですが、この映画はぜひ劇場で観てください。

ヒョンビン:一歩一歩進めば、いい未来が見える映画です。

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リリー:これまでヒョンビンの映画をご覧になっているかと思いますが、僕が撮影に入った時には、もうアン・ジュングンの髭がはえてて、髭のヒョンビンにしか会ってなかったんです。そのあとプライベートで髭を剃って綺麗なかっこうをしたヒョンビンに会って、「あ、ヒョンビンだ」と。いつもぼろぼろの服を着たヒョンビンに会っていたので、本当にものすごいナイスガイで、監督もものすごく才能に溢れた人なので、また一緒にいろんな仕事をしていきたいですね。

ヒョンビン:私も一言付け加えたいと思います。こうして日本に来てジャパンプレミアをするにあたって大きな働きをしてくださったのがリリー・フランキーさんです。韓国で公開された時にはリリー・フランキーさんも韓国に来てくださってプレミア上映や舞台挨拶もしました。その時にも話したことがあるのですが、日本でもイベントや舞台挨拶することがあれば、一緒にという約束を果たすことができました。

監督:ヒョンビンはいつも見ていたのとは違う姿を見せてくれました。まさにアン・ジュングンでした。 リリーさんの大ファンで、これは伊藤博文以上の存在感でした。あらためてお礼を申し上げます。

*******
フォトセッション
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観客の皆さんにも撮影のチャンス。取材陣が退出したあと、満席の観客をバックに記念撮影も行われました。




ハルビン  原題:하얼빈(ハルビン) 
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ⓒ 2024 CJ ENM Co., Ltd., HIVE MEDIA CORP ALL RIGHTS RESERVED

監督: ウ・ミンホ
出演: ヒョンビン、パク・ジョンミン、イ・ドンウク、リリー・フランキー

1909年10月、安重根(アン・ジュングン)と同志たちは
伊藤博文を追ってある使命を果たすため、
中国・ハルビンヘ向かった。
そしてハルビン駅に銃声が鳴り響いた…。

2024年/韓国/114分/カラー/シネマスコープ/5.1ch
字幕翻訳:根本理恵
配給:KADOKAWA
公式サイト:https://harbin-movie.jp/index.html
★2025年7月4日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開

シネジャ作品紹介





『星より静かに』 君塚匠(きみづかたくみ)監督インタビュー

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*プロフィール*
1964年生まれ。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。 1988 株式会社フジテレビジョンの取材ディレクターを経て株式会社テレビマンユニオン に移籍。ドキュメンタリーを中心に数々のディレクターをして実績を残した。1988年、劇場映画『喪の仕事』の脚本・監督をするために株式会社テレビマンユニオンを退 社。フリーランスの道を選び、背水の陣で映画の実現に臨んだ。
1991年に監督・脚本 した『喪の仕事』が完成し公開。その後、『ルビーフルーツ』『激しい季節』『おしまいの日』の監督を依頼されて、2000年、黒木瞳、萩本欽一出演の『月』まで5本の劇場映画の監督と脚本を手掛けてきた。一方、TVディレクターとしても、ドキュメンタリーや情報番組、テレビドラマの監督経験多数監督。TV-CM、企業VPの監督もこなし受賞歴多数。今作『星より静かに』は最新作であり企画、プロデュース、脚本、監督、出演を果たす。
同映画は第49回湯布院映画祭にて映画祭最後を飾るクロージング上映に選出された。

*ストーリー*
55歳のときにADHD(注意欠如多動性障害)と診断された君塚匠監督は、それまでの生きづらさがADHDの特性によるものだと知った。この症状がもっと知られていってほしいという思いから映画制作を決意。
映画は君塚監督の実体験を元にしたドラマ部分と、ADHDについて君塚監督自身が様々な人と出会いながら探っていくドキュメンタリー部分とがあり、この二つが分かれるのではなく、互いにミックスしながら進む構成。
ドラマ部分ではADHDの夫・はじめ(内浦純一)と彼を支える妻・朱美(蜂丸明日香)、息子・純(三嶋健太)を見守る母(渡辺真起子)、二組の暮らしを丁寧に描いている。
公式サイト https://hoshiyori-shizukani.com/
作品紹介  http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/516463115.html
(C)ステューディオスリー
★2025年6 月21日(土)より K’s cinemaほか全国順次公開

―ADHDの人が今300万人から400万人もいるそうですが、知られてきたのは、最近ですよね。
私は検査したことはありませんが、「道順を憶えるのが苦手」とか「失くしもの、忘れものが多い」とか共通点がありました。監督は55歳になってからわかったそうですが、何かきっかけがありましたか?


僕はそれが顕著に出るんです。
最初は若い時にパニック障害で通院していて、それからいろいろな精神疾患の症状が出ました。検査をしてADHDの薬を処方されたら、てきめんに良くなるんですよ。それでこれまで生きにくかったのは、ADHDだったからだなとわかったんです。

―以前はちょっと変わった人、神経質な子ども、などと言われていました。ほかと違うことで困ったり、生きづらかったりした監督の体験からADHDはこういうものですとお知らせしたいと、この映画を作ることになったんですね。

はい、そうです。

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君塚監督、施設長

―映画はインタビューなどドキュメンタリーの部分と俳優さんが演技をするドラマの部分が両方あって、それがまじりあっています。夫婦と親子、二家族分のドラマがありましたが、ドラマの俳優さんがドキュメンタリー部分に出たり入ったりして面白いと思いました。ああいう組み立ては脚本の段階からだったんですか?

ええ、最初からです。構想は1年くらい前からあって、作ろうと動き始めて6か月くらい、脚本は20回、30回と書き直して、3ヶ月くらいで書き上げました。

―キャストは脚本が書き上がってから決まったんですか?

キャスティングは、二転三転しました。最初に考えていた人たちとはがらりと変わりました。

―観ているうちにこの人は当事者なのか、俳優さんなのかわからなくなっていました。支援施設で「支援員誰々」と名前が画面に出る方は本物の方ですね。

はい。障害者の方も、支援員の方もいます。経歴もほんとです。よく全部出させてくれたと思います。普通モザイクかけたりするので。交渉がうまくいったということです。

―みなさん、顔出してお話してくださっていましたね。施設長さんから職員の方、主治医の先生・・・。

家族2組の4人(内浦純一、蜂丸明日香、三嶋健太、渡辺真起子)は俳優で、後は実際の現場の方々です。
ふつうドキュメンタリードラマというと、ドキュメンタリーとドラマ部分がはっきり分かれています。僕はそういう考えは全くなくて、ミックスさせる、混在させたかった。脚本でわからないという人もけっこういたんです。作りながら、脚本にはなかったシーンを足したり、だいぶ変えました。
たとえば最後のほうのたこ焼き食べながら、突然タケノコの話をするのは現場で足したものです。

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はじめ(内浦純一)と朱美(蜂丸明日香)

―はじめさん役の俳優(内浦純一)さんもうまくて、この方は俳優さんなのか当事者なのか?と考えました。それくらい自然でした。

プロの俳優とそうじゃない素人との差がありすぎるのは、よくないと思ったんです。そこはすごく注意深くやりました。
今おっしゃったように、どっちが役者かわからなかったというのは、それがうまくいったんだと思います。

―私の感想は、監督のねらいどおりだったんですね。20代の独身の純、40代のはじめさん、年代の違うADHDの方の両方に監督の経験が入っているわけですね。

そうですね。最初ははじめ夫婦の2人がいて、純が出る予定はなかったんです。設定もわざわざ作ったところがあるんです。純がリンゴしか食べないとか、リンゴの会社に勤めているとか。ちょっと変わったユーモラスな部分を作りました。ドキュメンタリーとドラマとのバランスが良くなるかなと考えました。

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純(三嶋健太)と母(渡辺真起子)

―帰宅した純のシャツの背中に何か書かれていました。何と書いてあったんでしょう?

あれは最初純がぶん殴られる設定だったんですが、時間がなかったので変えました。何を書いていたかと言うと、デタラメな落書きです。
*宣伝さん「監督が自分で書かれたんですよね」監督「あ、そうです」

ー監督も同じ目にあったことが?

中学生のとき、いじめの対象になったことはあります。子どもって残酷ですから。暴力が当たり前のようにあった時代で、今なら大問題になりますが、生徒同士、先生が生徒に暴力を振るうのは珍しくなかったですから。シャツに書かれたことはないです。

―学校が荒れた時代がありましたね。
街頭のインタビューでは4、5人の方が登場していました。実際は何十人にもあたられたんでしょうか?


街頭ではけっこう長時間やったんですけど、ADHDはデリケートな話なので、自分が出て間違った話をして差別になっては、と出るのを断られる方もいました。5時間粘って、顔出しを了承してもらえた方はあれだけになりました。

―きっと長い時間かかったんだろうと思っていました。カップルの方は面白かったですね(2人ともADHD。お互い認め合って仲良し)最後の方はとてもまじめに答えてくださっていました。

はい。はっきりお話して顔出しもOKしてくれて、映画としてもよかったかなと。

―撮影は全部でどのくらいかかったんでしょう?
ドラマとドキュメンタリーが混在しているので、撮影や編集はたいへんではなかったですか?


撮影はドキュメンタリー部分も含めて1週間でした。お金がないので、僕が撮影したところもあります。
編集はテレビの編集マンをお願いしました。映画は初めてですが、ドキュメンタリーを何度か一緒にやった人です。ドキュメンタリー部分にはナレーション入れたらどうか?と言われたんです。そうするとわかりやすくはなったかもしれないけど、考えてみて結局それはつけませんでした。

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お姉さま、君塚監督、森重プロデューサー

―長引くとその分お金かかりますしね。(映画の中で)家を訪ねて来ていた森重さんがプロデューサーですね。

森重さんが資金集めをしてくれて、僕も制作に入っています。森重さんの条件は、スタッフは自分で集めろ、ADHDの当事者である監督の君塚匠が出演しろというものです。
とにかくものすごく低予算だったので、メイクも衣装もいなくて全部自前でした。衣装を替えるのもハイエースの中でやって。
渡辺真起子さんは根性のある方で、どんなに低予算でも自分が納得した脚本だったら出ると。メイクだけはあとから入れました。
いろいろボランティアでやっていただきました。カメラだけは2カメで撮ったんです。僕の出ているところも2カメで。じゃないと終わらないと思った。
テレビの再現ドラマを撮るカメラマンさんに頼みました。再現ドラマを狙ったわけじゃなくて、撮影が圧倒的に速いんです。この予算でこの映画って、相当異常ですね。

―俳優さんたちは出来上がったのをご覧になってなんとおっしゃっていましたか?

湯布院映画祭にも一緒に行ったんです。できあがって喜んでもらえました。

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君塚監督、渡辺真起子さん、蜂丸明日香さん
―「クレージー」と書かれたメールが間違って監督のところに届いた件、本人に届くとは思わず仲間うちの軽口のつもりだったかもしれないですが。

信頼していた人なのでびっくりしました。2、3人相手のメールだったんですが、そんな風に思われていたのかと人間不信になりました。その件を知った会社の幹部が深く謝罪してくれて、僕の怒りも静まりました。その後も配慮してくれて。

―言葉通り受け取るので、傷つきますね。ASDやADHDの人は、自分が思ったのと違うことを言えないしできないですよね。ほかの人も同じだと思って、裏を考えたりしません。

「忌憚のない意見を」とか言われると、正直にそのまま言ってしまうし、僕は忖度(そんたく)とかできないです。相手にも自分に直接ダメだったらダメと、はっきり言ってもらいたい。

―映画の中で喧嘩する場面ありましたね。うまく自分の気持ちを伝えられなくて、ついぎりぎりまでため込んでしまったりするのでしょう(自分がそうです)。監督の体験だけでなく、ADHDの特性を少しずつ入れ込んだのですか。

ADHDの特性については、医療監修していただいています。
鍵を何度も確かめるのは、強迫神経症(強迫性障害)のようです。

―はじめさんが何種類かの薬を飲んでいました。薬剤師さんが鍵をかけた引き出しを見せてくれましたがとても厳重なんですね。

アメリカでは承認されていない薬ですが、日本では承認されていて、ああいうふうに厳重に管理されています。診断書や証明書がないと処方されません。

―薬が効くのはありがたいですが、副作用の心配はありませんか?

薬によってはすごく眠くなるものもあるんです。最初はすごくよく効いても、長く使っているうちにだんだん効かなくなるものもあります。今も道順が覚えられないという、ADHD特有の自覚はありますが、体調は悪くないです。

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―登場するお姉様、仲良しなんですね。監督のご両親は?

父は70歳で、母は91歳で亡くなりました。

―ああ、そうでしたか、いろいろご心配しながら育てられただろうなと思ってしまって。施設長さんが、「いいことと悪いこと」を挙げていましたが、いいことを目指していかなきゃいけないですね。

そうですね。四六時中いっしょに見ていられるわけではないので、施設にいる2時間、3時間だけでも有効に使って自分で努力していくってことじゃないですかね。

―服飾専門学校のシーンは、ここだけちょっとカラーが違う感じがしました。若い人たちはこんなにこだわりないよということで?

差別をする人もいるけど、差別をしない人もいるよと、対比にしたんです。僕が世の中を歩いて、探していく旅のようにしました。答えは出していません。
「差別はあるけど、仕方がない。差別するしないのは自由なんだ」と施設長さんに言ってもらえて良かった。
湯布院映画祭ではそれを「冷たい発言ですね」という人もいたんですけど。自分が「ADHDだからしょうがないでしょ」と思っているところもあったので。
この映画で僕は自分を見栄えよくしようとは思っていないです。正直に自分の気持ちを言おう、前向きにさらけだそうと思いました。

―それは成功していると思います。ADHDを知らない人にこの映画が届いて、ほんの少しでも知識を持って理解が進んでくれるといいですね。

ありがとうございます。
            
(取材・監督写真:白石映子)

君塚匠監督の著作
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*書名:「もう一度、表舞台に立つために ―ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡―」
*出版社:中央法規出版
*仕様:A5判/タテ組/並製/1色刷 約200頁
ISBN/JAN:9784824302830
*定価:2,000円(税別)
*書籍概要:55歳でADHD(注意欠如・多動症)と診断された映画監督・君塚匠は、人間関係がうまく築けず、人と同じようにできない自分に苦しんできた。本書は、自身も出演したドキュメンタリー×ドラマ映画『星より静かに』では描かれなかった君塚監督の幼少期からの生きづらさや周囲との軋轢、映画監督、テレビディレクターとしてのキャリア、自分を理解してくれる人々との交流などを、ときにユーモアを交えて著す。
*発行予定:2025年6月27日