『星より静かに』 君塚匠(きみづかたくみ)監督インタビュー

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*プロフィール*
1964年生まれ。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。 1988 株式会社フジテレビジョンの取材ディレクターを経て株式会社テレビマンユニオン に移籍。ドキュメンタリーを中心に数々のディレクターをして実績を残した。1988年、劇場映画『喪の仕事』の脚本・監督をするために株式会社テレビマンユニオンを退 社。フリーランスの道を選び、背水の陣で映画の実現に臨んだ。
1991年に監督・脚本 した『喪の仕事』が完成し公開。その後、『ルビーフルーツ』『激しい季節』『おしまいの日』の監督を依頼されて、2000年、黒木瞳、萩本欽一出演の『月』まで5本の劇場映画の監督と脚本を手掛けてきた。一方、TVディレクターとしても、ドキュメンタリーや情報番組、テレビドラマの監督経験多数監督。TV-CM、企業VPの監督もこなし受賞歴多数。今作『星より静かに』は最新作であり企画、プロデュース、脚本、監督、出演を果たす。
同映画は第49回湯布院映画祭にて映画祭最後を飾るクロージング上映に選出された。

*ストーリー*
55歳のときにADHD(注意欠如多動性障害)と診断された君塚匠監督は、それまでの生きづらさがADHDの特性によるものだと知った。この症状がもっと知られていってほしいという思いから映画制作を決意。
映画は君塚監督の実体験を元にしたドラマ部分と、ADHDについて君塚監督自身が様々な人と出会いながら探っていくドキュメンタリー部分とがあり、この二つが分かれるのではなく、互いにミックスしながら進む構成。
ドラマ部分ではADHDの夫・はじめ(内浦純一)と彼を支える妻・朱美(蜂丸明日香)、息子・純(三嶋健太)を見守る母(渡辺真起子)、二組の暮らしを丁寧に描いている。
(C)ステューディオスリー
★2025年6 月21日(土)より K’s cinemaほか全国順次公開

―ADHDの人が今300万人から400万人もいるそうですが、知られてきたのは、最近ですよね。
私は検査したことはありませんが、「道順を憶えるのが苦手」とか「失くしもの、忘れものが多い」とか共通点がありました。監督は55歳になってからわかったそうですが、何かきっかけがありましたか?


僕はそれが顕著に出るんです。
最初は若い時にパニック障害で通院していて、それからいろいろな精神疾患の症状が出ました。検査をしてADHDの薬を処方されたら、てきめんに良くなるんですよ。それでこれまで生きにくかったのは、ADHDだったからだなとわかったんです。

―以前はちょっと変わった人、神経質な子ども、などと言われていました。ほかと違うことで困ったり、生きづらかったりした監督の体験からADHDはこういうものですとお知らせしたいと、この映画を作ることになったんですね。

はい、そうです。

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君塚監督、施設長

―映画はインタビューなどドキュメンタリーの部分と俳優さんが演技をするドラマの部分が両方あって、それがまじりあっています。夫婦と親子、二家族分のドラマがありましたが、ドラマの俳優さんがドキュメンタリー部分に出たり入ったりして面白いと思いました。ああいう組み立ては脚本の段階からだったんですか?

ええ、最初からです。構想は1年くらい前からあって、作ろうと動き始めて6か月くらい、脚本は20回、30回と書き直して、3ヶ月くらいで書き上げました。

―キャストは脚本が書き上がってから決まったんですか?

キャスティングは、二転三転しました。最初に考えていた人たちとはがらりと変わりました。

―観ているうちにこの人は当事者なのか、俳優さんなのかわからなくなっていました。支援施設で「支援員誰々」と名前が画面に出る方は本物の方ですね。

はい。障害者の方も、支援員の方もいます。経歴もほんとです。よく全部出させてくれたと思います。普通モザイクかけたりするので。交渉がうまくいったということです。

―みなさん、顔出してお話してくださっていましたね。施設長さんから職員の方、主治医の先生・・・。

家族2組の4人(内浦純一、蜂丸明日香、三嶋健太、渡辺真起子)は俳優で、後は実際の現場の方々です。
ふつうドキュメンタリードラマというと、ドキュメンタリーとドラマ部分がはっきり分かれています。僕はそういう考えは全くなくて、ミックスさせる、混在させたかった。脚本でわからないという人もけっこういたんです。作りながら、脚本にはなかったシーンを足したり、だいぶ変えました。
たとえば最後のほうのたこ焼き食べながら、突然タケノコの話をするのは現場で足したものです。

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はじめ(内浦純一)と朱美(蜂丸明日香)

―はじめさん役の俳優(内浦純一)さんもうまくて、この方は俳優さんなのか当事者なのか?と考えました。それくらい自然でした。

プロの俳優とそうじゃない素人との差がありすぎるのは、よくないと思ったんです。そこはすごく注意深くやりました。
今おっしゃったように、どっちが役者かわからなかったというのは、それがうまくいったんだと思います。

―私の感想は、監督のねらいどおりだったんですね。20代の独身の純、40代のはじめさん、年代の違うADHDの方の両方に監督の経験が入っているわけですね。

そうですね。最初ははじめ夫婦の2人がいて、純が出る予定はなかったんです。設定もわざわざ作ったところがあるんです。純がリンゴしか食べないとか、リンゴの会社に勤めているとか。ちょっと変わったユーモラスな部分を作りました。ドキュメンタリーとドラマとのバランスが良くなるかなと考えました。

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純(三嶋健太)と母(渡辺真起子)

―帰宅した純のシャツの背中に何か書かれていました。何と書いてあったんでしょう?

あれは最初純がぶん殴られる設定だったんですが、時間がなかったので変えました。何を書いていたかと言うと、デタラメな落書きです。
*宣伝さん「監督が自分で書かれたんですよね」監督「あ、そうです」

ー監督も同じ目にあったことが?

中学生のとき、いじめの対象になったことはあります。子どもって残酷ですから。暴力が当たり前のようにあった時代で、今なら大問題になりますが、生徒同士、先生が生徒に暴力を振るうのは珍しくなかったですから。シャツに書かれたことはないです。

―学校が荒れた時代がありましたね。
街頭のインタビューでは4、5人の方が登場していました。実際は何十人にもあたられたんでしょうか?


街頭ではけっこう長時間やったんですけど、ADHDはデリケートな話なので、自分が出て間違った話をして差別になっては、と出るのを断られる方もいました。5時間粘って、顔出しを了承してもらえた方はあれだけになりました。

―きっと長い時間かかったんだろうと思っていました。カップルの方は面白かったですね(2人ともADHD。お互い認め合って仲良し)最後の方はとてもまじめに答えてくださっていました。

はい。はっきりお話して顔出しもOKしてくれて、映画としてもよかったかなと。

―撮影は全部でどのくらいかかったんでしょう?
ドラマとドキュメンタリーが混在しているので、撮影や編集はたいへんではなかったですか?


撮影はドキュメンタリー部分も含めて1週間でした。お金がないので、僕が撮影したところもあります。
編集はテレビの編集マンをお願いしました。映画は初めてですが、ドキュメンタリーを何度か一緒にやった人です。ドキュメンタリー部分にはナレーション入れたらどうか?と言われたんです。そうするとわかりやすくはなったかもしれないけど、考えてみて結局それはつけませんでした。

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お姉さま、君塚監督、森重プロデューサー

―長引くとその分お金かかりますしね。(映画の中で)家を訪ねて来ていた森重さんがプロデューサーですね。

森重さんが資金集めをしてくれて、僕も制作に入っています。森重さんの条件は、スタッフは自分で集めろ、ADHDの当事者である監督の君塚匠が出演しろというものです。
とにかくものすごく低予算だったので、メイクも衣装もいなくて全部自前でした。衣装を替えるのもハイエースの中でやって。
渡辺真起子さんは根性のある方で、どんなに低予算でも自分が納得した脚本だったら出ると。メイクだけはあとから入れました。
いろいろボランティアでやっていただきました。カメラだけは2カメで撮ったんです。僕の出ているところも2カメで。じゃないと終わらないと思った。
テレビの再現ドラマを撮るカメラマンさんに頼みました。再現ドラマを狙ったわけじゃなくて、撮影が圧倒的に速いんです。この予算でこの映画って、相当異常ですね。

―俳優さんたちは出来上がったのをご覧になってなんとおっしゃっていましたか?

湯布院映画祭にも一緒に行ったんです。できあがって喜んでもらえました。

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君塚監督、渡辺真起子さん、蜂丸明日香さん
―「クレージー」と書かれたメールが間違って監督のところに届いた件、本人に届くとは思わず仲間うちの軽口のつもりだったかもしれないですが。

信頼していた人なのでびっくりしました。2、3人相手のメールだったんですが、そんな風に思われていたのかと人間不信になりました。その件を知った会社の幹部が深く謝罪してくれて、僕の怒りも静まりました。その後も配慮してくれて。

―言葉通り受け取るので、傷つきますね。ASDやADHDの人は、自分が思ったのと違うことを言えないしできないですよね。ほかの人も同じだと思って、裏を考えたりしません。

「忌憚のない意見を」とか言われると、正直にそのまま言ってしまうし、僕は忖度(そんたく)とかできないです。相手にも自分に直接ダメだったらダメと、はっきり言ってもらいたい。

―映画の中で喧嘩する場面ありましたね。うまく自分の気持ちを伝えられなくて、ついぎりぎりまでため込んでしまったりするのでしょう(自分がそうです)。監督の体験だけでなく、ADHDの特性を少しずつ入れ込んだのですか。

ADHDの特性については、医療監修していただいています。
鍵を何度も確かめるのは、強迫神経症(強迫性障害)のようです。

―はじめさんが何種類かの薬を飲んでいました。薬剤師さんが鍵をかけた引き出しを見せてくれましたがとても厳重なんですね。

アメリカでは承認されていない薬ですが、日本では承認されていて、ああいうふうに厳重に管理されています。診断書や証明書がないと処方されません。

―薬が効くのはありがたいですが、副作用の心配はありませんか?

薬によってはすごく眠くなるものもあるんです。最初はすごくよく効いても、長く使っているうちにだんだん効かなくなるものもあります。今も道順が覚えられないという、ADHD特有の自覚はありますが、体調は悪くないです。

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―登場するお姉様、仲良しなんですね。監督のご両親は?

父は70歳で、母は91歳で亡くなりました。

―ああ、そうでしたか、いろいろご心配しながら育てられただろうなと思ってしまって。施設長さんが、「いいことと悪いこと」を挙げていましたが、いいことを目指していかなきゃいけないですね。

そうですね。四六時中いっしょに見ていられるわけではないので、施設にいる2時間、3時間だけでも有効に使って自分で努力していくってことじゃないですかね。

―服飾専門学校のシーンは、ここだけちょっとカラーが違う感じがしました。若い人たちはこんなにこだわりないよということで?

差別をする人もいるけど、差別をしない人もいるよと、対比にしたんです。僕が世の中を歩いて、探していく旅のようにしました。答えは出していません。
「差別はあるけど、仕方がない。差別するしないのは自由なんだ」と施設長さんに言ってもらえて良かった。
湯布院映画祭ではそれを「冷たい発言ですね」という人もいたんですけど。自分が「ADHDだからしょうがないでしょ」と思っているところもあったので。
この映画で僕は自分を見栄えよくしようとは思っていないです。正直に自分の気持ちを言おう、前向きにさらけだそうと思いました。

―それは成功していると思います。ADHDを知らない人にこの映画が届いて、ほんの少しでも知識を持って理解が進んでくれるといいですね。

ありがとうございます。
            
(取材・監督写真:白石映子)

君塚匠監督の著作
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*書名:「もう一度、表舞台に立つために ―ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡―」
*出版社:中央法規出版
*仕様:A5判/タテ組/並製/1色刷 約200頁
ISBN/JAN:9784824302830
*定価:2,000円(税別)
*書籍概要:55歳でADHD(注意欠如・多動症)と診断された映画監督・君塚匠は、人間関係がうまく築けず、人と同じようにできない自分に苦しんできた。本書は、自身も出演したドキュメンタリー×ドラマ映画『星より静かに』では描かれなかった君塚監督の幼少期からの生きづらさや周囲との軋轢、映画監督、テレビディレクターとしてのキャリア、自分を理解してくれる人々との交流などを、ときにユーモアを交えて著す。
*発行予定:2025年6月27日


『OKAは手ぶらでやってくる』 牧田敬祐(けいゆう)監督インタビュー

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*プロフィール*1958年生まれ。主に近畿地方の民俗行事や芸能の記録映像を監督。注力する「NPO法人映像記録」では市民活動やNGOを映像で支援している。本作はこの活動から誕生し、東京ドキュメンタリー映画祭2024でグランプリを受賞した。

*ストーリー* OKAこと栗本英世(くりもとひでよ)は、1985年から東南アジアで「ひとりNGO」として活躍した。人身売買や地雷の危険にさらされた人々を支援し、カンボジア各地に子どものための寺子屋を作り、2022年71歳で亡くなった。牧田監督は約15年にわたり、彼のそばで撮影を続けてきた。(OKAはカンボジアでチャンスの意味)

HP  https://www.haising.jp/movie-1/
(C)2024 NPO法人映像記録/ウェストサイドプロダクツ
作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/515063836.html
★2025年5月10日(土)より新宿K'sシネマにて公開中、ほか全国順次公開

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―このドキュメンタリーを観るまで、OKAさんのことを知りませんでした。誰もしなかったことを、長い間一人で続けていたのに、知らなくってごめんなさいという感じです。

あまり知られていないんです。よくマスコミに登場していたのは、2000年~2006年くらいの間です。テレビ出演などもしていました。それ以降は病気であまり顔を出していないので、見つけにくかったかもしれません。

―ネットで検索して読んだのはそのころの記事でした。監督はどういう経緯でOKAさんに出逢われたんですか?

私は「NPO法人映像記録」というのを2000年くらいからやっています。NGOや市民の方々の活動などを空いた時間を使って応援しようじゃないかというグループなんです。
OKAさんを最初に知ったのは、「キッズ・ゲルニカ」というピカソの名画ゲルニカにちなんだ活動の取材です。日本や世界各地で子どもが同じサイズの平和の絵を描き、最終的にネパールのカトマンズからヒマラヤの風に乗って世界に平和を呼びかけるプロジェクトです。その「キッズゲルニカ」で、カンボジアで子どもたちに指導したのが彼でした。初めはカメラマンだけが行って、私はその後でした。

―そのときのOKAさんの印象はいかがでしたか?

2000年ころに初めて会いましたが、想像していた「善人」とちょっと違ったんですよ。「あやしいオッサン」だったんです。いきなりタイを中心にした人身売買や臓器売買、地上げやマネーロンダリングの話などをするんですよ。まるで当事者のように次々と喋りまくる。地雷の村に寺子屋を建て、子どもたちに識字教育をしているやさしいボランティアのイメージからは程遠かったですね。普通の善人ではないなあというところが魅力でもありました。この人の心の奥には、いったい何があるんだろう?命がけなことも厭わない情熱はどこからくるんだろう?とボランティア活動のことよりそっちに興味がわいて根掘り葉掘り聞き出しました。

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―子供の頃からとてもご苦労された方のようですね。

映像の中で話していますが、極貧の家庭で育って、家族のことでとても辛い思いをしています。それで教会が心のよりどころになりました。中学を出ると牧師を志して上京しますが、幸運なことに留学の機会を得ました。千代田区にある富士見町教会の高名な島村亀鶴牧師に見出されて、台湾の大学に留学しました。ここで中国語を学んで、中国大陸にも行っています。禁止されていた本を持ち込んだりしたそうで、これはなかなか危険なことだったんですよ。

―ドラマチックな人生でご苦労もあるけれど、助けてくれる方がちゃんと現われるんですね。

帰国後は神学校に学びますが、純粋すぎる彼は学校とうまくいきません。やがて牧師になることにも教会にも背を向けてしまいます。

―イエス様はいいけれど、組織がいやになったということでしょうか。

そうですね。マザーテレサをずっと尊敬していました。1985年には一人で東南アジアに飛び出して、ミャンマー、タイ、ラオスの国境地帯をバイクで回ります。貧しさのために売られる子どもがいることに驚きます。そんな子どもたちを救いたいと奔走しますが、親が絶対的権限を持っているので、「親がいる子どもは救えない」というジレンマに苦しむことになりました。皮肉ですよね。何もできない自分を責め続けた挙げ句、一旦活動を停止し、バンコクでビジネスを立上げました。これが大成功しました。しかし、それは目指すところではないとすべて放り出して、裸一貫でラオスに入って活動を再開します。

―それは残しておいて、資金のために使えばよかったのにと思ってしまいますが。余分に持ちたくないんでしょうね。

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1996年からはカンボジアで孤児のために「子どもの家」を、1999年から地雷原の村で村人とともに地雷を掘り出し、「寺子屋」を作るという活動を各地で展開しました。ポルポト政権のときに、お寺や学校が破壊されて、知識人、先生も生徒もたくさん殺されてしまいました。ですから子どもたちの親の世代は教育の機会も場所もなくて、文字の読み書きができません。それで識字教育を始めています。

難民は生産手段がないので、困ると子どもを物乞いに出したり、売ってしまったりします。
町に公立の学校はあっても、タダではなくお金はかかから子どもを行かせられない。そういうところへOKAさんは手ぶらで行って、指笛を吹いたり歌ったりして、集まった子どもたちに寺子屋においでと誘います。

―日本でもカンボジアでも子どもたちに大人気でしたね。

子どもが喜びそうなことを見つけて練習して、なんでもやるんです。
OKAさんテキヤさんをやったことがあるんですよ。寅さんみたいに口上を言ってものを売る。西瓜売りとか。その口上がとても上手なんです。

―啖呵売’(たんかばい)ですね。それは聞いてみたかった。日本から飛び出したけれど、たまに帰られたみたいですが。

活動資金を集めるためにたびたび日本に帰ってきて、アルバイトや講演をしていました。講演会などでカンボジアの状況を話して支援をお願いする。小学校には支援者さんが作ってくださった腹話術の人形を使って子どもたちと会話して喜ばれています。そういのも習うのでなく、自分で面白くなるよう工夫するんです。すごく芸達者な人なんです。

―この寺子屋は風通しがよさそうです。人も出入りしやすいし、誰でも受け入れてくれそう。

カンボジアではお寺がコミュニティセンターです。人が集まります。OKAさんは誰でも出入りできて、勉強もできる「寺子屋」をいくつも作りました。掘っ立て小屋ですが、みんなで作ったので壊れても自分たちで直せます。お金をかけてプロの人につくってもらうと、何かあってもまたお金がかかります。
彼は子どものころ厳しい境遇で育って、教会だけが安全で安らげる場所でした。それと同じように、子どもたちを守れる、子どもたちが安心できる寺子屋=シェルターを作ったんですね。

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―寺子屋はOKAさんが蒔いた種のようなもので、今はそこが学校になって花開いたということですね。こんなに大事なことなのに行政からの公的支援はなかったんですか?

行政の支援はありません。それどころか州警察から逮捕状が出たりしていやがらせされていました。地雷がまだ埋まっている土地があちこちにあって危険なので、OKAさんたちは探知機を使って地雷を見つけては手で掘り出していたんです。逮捕状が出たのは危ないからでなく、民間人がそうやって掘り起こして地雷がなくなると、海外からの援助もなくなるからです。

―それは資料で読んだ「慈悲魔(じひま)」みたいですね。国が!?
(“慈悲魔”とは慈悲の情につけこんで入り込む魔。善悪の判断も狂わせる。金品に頼るようになり、親が子どもを痩せ細らせたり、傷つけたりして物乞いに使う)

そうなんです。OKAさんは「カンボジアという国は“慈悲魔”に陥っている」と言っていました。行政の援助もなし、組織も作らず、支援してくれる方、ボランティアの方々はたくさんいますが、基本的に一人で動いていました。

―OKAさんのいい話がいっぱいありそうです。

OKAさんって寝ないんですよ。入院したときは別にして、眠っているところを観たことがありません。いつも陽気で、動いていて、歌っているか喋っているか。ボランティアスタッフがね、OKAさんが出かけると歌本を隠すんだそうです。あると歌本の一番初めから終わりまで、知っている歌を次々と歌って止めないから。
支援者の方から伺った話ですいただいた支援金で普通は学用品などを買いますよね。OKAさんは木を買って植えました。カンボジアは暑いので、子どもたちに木陰を作ってあげたいって。その木は大きくなって子どもを日差しから守っています。

―まあ、いいお話ですね!
病気になられてからのシーンも必要ですよね。監督も撮っていて辛かったでしょう。


先に脳腫瘍が見つかり、回復したんですがその後認知症の症状も出てきました。カンボジアに行きたかったんでしょうね。いつのまにか僕の車に乗っていて、「カンボジアに行きます」と言ったことがありました。認知症が進んでからはコミュニケーションを取れなくなりましたし、入院後はそれまでのように会えなくなりました。

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牧田監督とシネジャ(宣伝さん撮影)

―ドキュメンタリーを作ることについて、何かおっしゃいましたか?

「いつでもなんでも撮っていい」と言ってくれて、いっさい要求はなかったです。映画を完成させる約束をしていましたが、間に合わなくて申し訳なかったです。撮りためていたのをときどき見せてはいました。施設にお見舞いに行ったときDVDを持っているのが映っています。あのときのOKAさんは髪の毛は真っ白になっているし、急に年取ったみたいで辛かったです。

―OKAさんを15年間も撮り続けて来られて、この作品ができました。

最初に会ったときから変わらない人でした。とっても魅力的で、知れば知るほど大好きになっていきました。OKAさんがいなくなって、肉親を亡くしたように寂しいです。
「どんな形でまとめたらええんや?」と悩んだりもしましたが、映画にOKAさんを残せて良かった。これでOKAさんを知ってもらえます。OKAさんのぬくもりが伝わっていけば、幸せです。
OKAさんの志を受け継いで現地にいるスタッフと相談して、村々を回ってこの映画の上映会をする計画があります。映画キャラバンです。向こうで上映するには吹き替えも必要ですし、移動の経費もかかります。どうぞ応援をよろしくお願いいたします。
(まとめ・撮影:白石映子)


★クラウドファンディングはこちらです。
https://motion-gallery.net/projects/okamovie

『いきもののきろく』初日舞台挨拶

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3月7日(金)テアトル新宿
原案&主演永瀬正敏さん、ミズモトカナコさん、井上淳一監督が登壇。
司会は井上監督


作品紹介はこちら

井上監督 ではさっそく。11年・・・こんな日が来ましたね。みなさんいろんなところでご存じだと思いますが、2013年の暮れにこの映画を撮って、すぐ年が明けて2014年2月に映画を企画したシネマスコーレで上映して以来です。当時はなかなか47分の映画を単独で公開できる環境になくて、公開できずにいました。まさかこんな風にテアトル新宿で満席のお客さんの前で上映できる日が来るとは思っていませんでした。

永瀬 監督、司会もやられて。(会場笑)

井上 僕が監督をやると誰も司会を別に用意しない(笑)。いろんな人に「書くより喋るほうが得意だろう」って言われるんです。

永瀬 本日はありがとうございます。(拍手)
ほんとに監督のご尽力と・・・テアトル新宿さんが空けて上映していただいて感謝しています。何より今日来ていただいたみなさんに感謝申し上げます。ありがとうございます。

ミズモト ミズモトカナコです。今日はお越しくださいましてありがとうございます。12年前の私いかがだったでしょうか? こうして皆さんの前で上映ができてすごく幸せです。11年間、井上監督が上映する機会をずっと考えていてくださったことが私も嬉しくて、そしてこうやって実現するということが何よりもすごいことだなと思っています。今日は短い時間ですが、皆さんと共有できたらと思います。よろしくお願いします。(拍手)

井上 ミズモトさんこの時は、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の学生さんだったですよね?

ミズモト そうですね。22・・・

井上 いち。この前計算したら21でした。(笑)

ミズモト まだ大学生でほんとに芝居の「し」の字もわからないような小娘だったんです。当時の記憶が正直あんまりなくて・・・でも撮影が、皆さんが暖かくてフォローしていただいた記憶が大きかったです。プロとしての仕事もほとんどしていないような私に、一人の俳優として接していただいて。それが当時は有難いことだと理解していなかったんですよ。今こうして上映されることになって、当時のことを思い返してみると、それはいかに素晴らしい環境だったのかということをあらためて感じました。

井上 僕たちほんとに低予算で作ってるので、「気ぐらい使わないと」ってだけなんです(笑)。
パンフレットにも書いてあるんで、ぶっちゃけて言いますと撮影4日なんですよね。
ちょっと話が逆になりますが、出てくる工場を永瀬さんとロケハンで偶然見つけたとき、廃工場だと思ったら操業している鉄くず工場で、休みの日しか撮れなかったんです。12月の27から30日でした。寒かった~。あの雪ほんとですもんね。

ミズモト はい。あのときだけチラッと。良かったですね。あれは。

井上 最初からいうと、2013年の4月に永瀬さんと作った『戦争と一人の女』が公開になって、僕の師匠の若松孝二が作った名古屋シネマスコーレに舞台挨拶に行ったんです。1回目の舞台挨拶が終わってお昼ご飯に食べに行ったら木全支配人が永瀬さんに「今度短編映画撮るんだけど、監督しない?」って言ったんです。

永瀬 はい。

井上 あんかけスパゲティ食べながらですけど。

永瀬 「無理です」って言いました。

井上 すぐ答えてね。そのままやめりゃ良かったのに、永瀬さんが「出るだけならいいです」って言っちゃって(笑)。

永瀬 井上監督で、って。

井上 僕が。でもそういうことはこのまま終わるだろうと思った。で、2回目の舞台挨拶が終わって外に出たら車が用意されてて、そのままロケハンに連れていかれたという。

永瀬 僕、40何年やってますけど、一番段取り良かった(笑)。スムーズで。

井上 「青春ジャック」ご覧になった方わかると思うんですけど、東出さんが演った木全さんですからね。普通そんな段取りがいいわけがない(笑)。そして鉄くず工場に行って、永瀬さんが持ってたカメラで写真を撮りまくって。そのまま僕は名古屋の実家に残って、今度は愛媛のシネマルナティックへ行くのに夜行バスに乗ったら、永瀬さんから(ガラケーに)メールでこのプロットが届いた。

永瀬 散文を監督にまとめていただいて。

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井上 当時3・11から2年と2ヵ月くらい経ったころ。それを読んだら、東日本大震災のことが色濃くにじんでいました。その時は永瀬さんといちいち話さなかったんです。今回、パンフレットの座談会とかで永瀬さんといっぱい話すことになったら、やっぱり震災後、半年くらい経って被災地に入ったときの思いが一番大きかったという。

永瀬 そうですね。具体的にではなかったですけど、「思い」はそこにちゃんと置いて。そこで出逢った方々や見聞きしたことばとかが浮かんできて。僕たちはミュージシャンの方たちと違って、すぐに何かをできないじゃないですか。

井上 そう。ギターだったり歌だったりね。

永瀬 心に寄り添えるんですけど、僕らなんにも役に立たないなって。でも被災地の人たちにね、「何かを残してください」って言われた言葉がずーっと胸にあって、それが出たって感じでした。

井上 この中ではオミットされていますけど「瓦礫、瓦礫っていうけどみんな生活の一部だったんだよ」っていうのも永瀬さんが実際に聞かれた言葉だったんですよね。

永瀬 お爺さんがご自宅であろうところを片付けされていて、話しかけたらもうばーっと。皆さん同じ境遇なので、弱音とか吐露できないんですね。

井上 みんなおんなじ喪失があるわけですから。

永瀬 だから僕みたいな部外者には話してくださって、そのときに「みんな瓦礫、瓦礫っていうけどよ。これは大事なもんなんだよ。生活の一部だったんだよ」っていう言葉が強烈に残って。それが胸に焼き付いて、書かせてもらったというか。

井上 もう1個だけ。ラストの非常にシンプルな「こんにちは」「こんばんは」「ありがとう」などの挨拶も撮影中に永瀬さんが急に「あそこでやろう」と言ったものです。そのときの体験が大きかった?

永瀬 そうですね。「昨日まで”おやすみ”って言えたのに、今朝まで”行ってらっしゃい”って言えたのに、言えなくなっちゃったんだよ」って言うのがまた深くこう突き刺さりまして。そんなシンプルな言葉を普通に言えないことの悲しみがずーっと残って。
この映画はほとんどセリフがなくて字幕しかないんですけど、シンプルなその思いをこめられれば、という風に思ったんです。

井上 セリフがないので録音部がいなかった。カメラマイクで僕がとったんですよ。

ミズモト 狭いところでとりましたよね。

井上 そうそう。外をバイクが通ってて、「信号が赤だからやろう!」みたいな。

永瀬 そうだったか。手作り過ぎますね。すごいですね。

井上 手作り過ぎますよ。ミズモトさんが最初僕たちと会ったときに、非常にアマチュア感で驚いちゃったんですよね。大学と変わらないと。

ミズモト あのう良い意味で!(笑)安心したって感じがしました。プロの現場でも「思い」が一番にあって動いてる現場なんだと。商業的な映画だと、もっと次元の違うビジネス的な感じとそのときは思っていたんです。でも井上監督の現場では、根本は一緒なんだと、どれだけ規模が大きくなろうが「映画を作りたい」「こういう想いを届けたい」という根底は一緒なんだと確認、体験できてすごく安心しました。嬉しかったです。

井上 規模は大きくはなかったんじゃないですかね?(笑)

ミズモト いえいえ、永瀬さんがいらっしゃいましたし。

井上 それを言うと、永瀬さんが我々に合わせてくれてた。

永瀬 いや、昔僕は「某」林海象監督(笑)と東大駒場寮が壊されるというので、短編を撮ろうと集まったことがあったんです。そのときに「某」大学の映研の方々が、同じところで撮影されていて、あまりにも機材がすごくて唖然としたことがありました。僕ら何もない、大丈夫?むこうすごい!(笑)

井上 学校の機材だから、あるんです。向こうは。だって、実はこの映画の撮影機材、全部そこにある宝塚大学の映像メディア学科から借りたんです。(笑)なんなら、ダビングもそこでやってますから。
主題歌のPANTAさんが生で歌ってくれると言ったときに、僕たち「今チャイムが鳴ったから、これからしばらく鳴らない!」とやってましたから。

ミズモト そのへんは各大学と一緒かも。

井上 また戻しますけど、撮影前に(被災後の)石巻に行かれていたんですよね?

ミズモト 大学一年生の冬、大学の先輩のお父さんが石巻の高校の校長先生で、そこで京都でやった舞台を体育館でやらせていただきました。そこでは言葉にできない苦しさがあって、携帯を持っていても写真なんか1枚も撮れなかったし、目に焼き付けなきゃいけない、という気持ちが強かったです。「ゴジラ」というタイトルのポップな舞台だったんですが、これを見てどう思われるんだろうとプレッシャーもありました。反応はとても良く、明るいものだったという印象でした。被災地の人たちは逞しく乗り越えようとしていると感じて、逆にパワーをもらって帰った記憶があります。
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井上 永瀬さんのプロットから僕も震災のことを読み取って・・・そのままシナリオにできるんですけど、僕も何か仕事しなきゃまずいだろうと考えて(笑)。この男はなぜここで筏を作っていて、なぜ女は来たんだろう?その「なぜ」の部分を足していこうと思いました。
ご存じの方も当然いると思いますが、黒澤明監督の『生きものの記録』という映画があります。『七人の侍』という大傑作を作った翌年に撮るんですよ。ちょうどそのころ世界各地で水爆実験ががあって第五福竜丸事件が起こったりします。「放射能に殺されるのがいやだ」という三船敏郎が家族から孤立して、静かに狂っていく話。三船敏郎が狂わずにそのまま生きていたら、どうなるんだろう?このシナリオをプロデューサーの片嶋一貴に見せたらすっごいボロクソに言って、「お前このシナリオ救うには、『裸の島』(新藤兼人監督)にするしかない」って。ずっとセリフないんです。セリフなくなったんですけど、短編だし。
この台本もらってどうでした?ミズモトさん。セリフのないシナリオ来ちゃった! みたいな?

ミズモト どう・・・どうだったかな?

永瀬 ずいぶん前だしね。

ミズモト びっくり半分、あっセリフ喋らなくていい!って気楽になったような。今だったらその大変さがわかってどうしよう~となると思うんですが、当時は軽い感じのノリでした。

井上 なるほど。

ミズモト でもセリフはカッコ書きで何を喋っているのかはわかる。

井上 昔の無声映画みたいに、そこはやろうと思ってた。

ミズモト もし喋ったら何と言うんだろうか、ほんとに喋らないのか、実際口は動いて会話できているけど音はとられないのか、アドリブ的なことを求められるのかしらと、考えました。

井上 永瀬さんは自分のプロットがセリフのない映画として戻ってきて、どうでしたか?

永瀬 素晴らしいアイディアの映画だと思いました。
自分が具体的に書かなかったこともあるんですけど、限定されちゃうかも、と。日々暮らしているといろんなことが起きるじゃないですか。そういうことに置き換えられる「何か」になればいいなぁと思っていましたので。そこに言葉を入れていただけるように、そう観ていただけるように僕たち頑張らなきゃいけないなぁと思いましたね。

井上 ほんとにね、セリフなしの映画で良かったと思っています。最後にカギカッコだけのところがあるので、エックスでそのカッコの中にみなさんが何か入れられるように、永瀬さんと漠然と話しています。ちょっとお待ちください。

永瀬 みなさんのカギカッコの中。

井上 それぞれにね、ある。
今日はQ&Aでなく、こういう挨拶にさせていただいて、明日はティーチインでいきますので。

永瀬 手を変え品を変え・・・

井上 11年目の『いきもののきろく』あのときにそのまま公開されていたら、あの瓦礫、瓦礫といわれるものは「3・11の後」にしか見えなかった。残念なことにその後、熊本地震があり、能登地震があり、大きな水害があり、火災があり。戦争でいえばミャンマーやウクライナ、ガザがあり。非常に大きなものの後に見えるんです。公開されることで見返して古びていないと思ったんです。映画としては幸運だけど、世の中としては不幸じゃないですか。
ミズモトさん何かありますか?今この映画を観てもらうことで。

ミズモト そうですね。そういう意味ではこの物語を観て、どれに当てはまるか? 何が身近に感じるか? 
人それぞれだと思うんですけど、幅広くよりたくさんの人に観てもらえていろんなものを感じてもらえる映画になっていると思います。自分の中の傷と照らし合わせたり、思いを共有したりできたらと思います。

永瀬 いいことなのか、悪いことなのかっていうのはありますけど、僕たちは作品として残すことしかできないので。残した作品を観ていただける。そして初めて「映画」になるということでは、残せてよかったかなと思っています。大きいことじゃなくて、小さなことでも。
僕3日くらい調子良くなくて、ずっと部屋にこもっていたんですけど・・・地味ですか?(笑)監督とミズモトさんに会って、すかり元気になりました。日々いろいろありますから、そういうことを乗り越える、半歩でも進む「何か」になってもらえるといいなという思いはあります。
(井上監督の『いきもののきろく』シャツを見て)

永瀬 作ちゃったんですか?

井上 作っちゃったんですよ。

ミズモト かっこいい!

井上 僕もひとこと言っていい?
この映画、最初に出る言葉は「時代はサーカスに乗って」というPANTAさんの歌で「どこからでもやり直しはできるだろう」。例えば震災で誰かを失った人を目の前にして「いやいや、どっからでもやり直しはできるだろう!」と肩叩いて絶対言えないわけですよ。これを「喪失と再生の物語」と大きく括ってしまうと陳腐になってしまうかもしれない。ただ大きなことを抱えたときに、「やり直しできるかもしれない」というのが、フィクションの唯一できること、責務みたいな感じがして。お二人のおかげで非常にうまくできました。一人でも多くの方に見てもらいたいと思っています。
こうやって舞台挨拶をやると、俳優と監督が出てきますけど、実に多くのスタッフの力でできています。絶対に呼ぶなと言われているんですけど、特撮監督の石井良和さん、編集の細野優理子さんがいるので、みなさん石井さんと細野さんに拍手を。(会場から暖かい拍手)

「配給と宣伝もやってたくさんお金がかかかるので」と井上監督からグッズの紹介、「ずるいよね」と言いつつ、「サインします」とご協力をお願い。
ここよりフォトセッション。カメラマンとのやりとりで会場を沸かせる井上監督。

(ほぼ書き起こし・まとめ:白石映子 写真:井上監督提供)


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(撮影・MIOKO)

★新宿テアトルシネマにて上映中
ほか全国順次上映
舞台挨拶に全国駆け巡ります。情報をお確かめください。
http://www.dogsugar.co.jp/ikimononokiroku/
☆当日のスタッフ日記はこちら

『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督オンライン・インタビュー

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第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影

世界各地の映画祭で高く評価され、感動の嵐を巻き起こした『Brotherブラザー 富都のふたり』がついに日本公開になりました。監督は、プロデューサーとして社会的弱者やアイデンティティの問題を扱ってきたマレーシアのジン・オングが務めています。身分証を持たないために社会の底辺で生きていかざるを得ない兄弟の姿を描いた感動作です。ジン・オング監督に初監督を務めることになった経緯やこの作品に籠めた思い、映画人としての思いについてオンラインでお話をうかがいました。

【あらすじ】
マレーシアの首都クアラルンプールのプドゥ地区のスラムで兄弟のように暮らすアバン(ウー・カンレン)とアディ(ジャック・タン)。耳の不自由なアバンは市場の日雇い仕事で糊口をしのぎ、アディは裏社会と繋がり危なげな日々を送っている。ふたりには身分証明書(ID)がなく、真っ当な職に就けないばかりか、公的サービスを受けることも銀行口座をつくることもできない。トランスジェンダーのマニー(タン・キムワン)が何かとふたりを気にかけ、NGOのジアエン(セレーン・リム)がID取得のため奔走している。そんなある日、ジアエンがアディの実父が見つかりID取得の道筋がついたとの知らせをもたらす。だが、アディはなぜかそれを頑なに拒否し、ジアエンを突き飛ばしてしまう。

出演
兄アバン:吳慷仁(ウー・カンレン)台湾
弟アディ:陳澤耀(ジャック・タン)マレーシア
マニー :鄧金煌(タン・キムワン)マレーシア
ジアエン:林宣妤(セレーン・リム)マレーシア

シネマジャーナルHP 作品紹介はこちら
公式HPはこちら

*監督プロフィール*王礼霖(Jin Ong)
1975年6月19日生まれ。マレーシア出身。
ムーア・エンタテインメント代表。プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」(17)、『楽園』(19)、『ミス・アンディ』(20)などを手掛けてきた。特に「分貝人生 Shuttle Life」は2017年の上海国際映画祭アジア新人賞部門で高く評価された。『Brotherブラザー 富都のふたり』は彼にとって念願の監督デビュー作となる。

◆プロデューサーから監督へ

――この映画の構想はいつくらいからあたためていたのでしょうか。
監督 2019年からです。まず監督としてマレーシアをベースにした作品を作りたい思いがありました。主人公は労働者階級で身分の低い兄弟にし、彼らがどういう状況・環境の下で生きていくのかフィールドリサーチを重ねていく中でどんどん固まっていきました。

――当初からご自身で監督しようというお気持ちだったのですね。
監督 2018年に大病を患って初めて死を近くに感じ、やり残したことはないか自問自答し、映画監督になる夢を思い出しました。そして、快復後はその夢の実現に向かって行動しようと思ったのです。

――それでプロデューサーは他の方を探されたということでしょうか。
監督 そうですね。今回プロデューサーは李心潔(リー・シンジエ)さんに依頼したのですが、もとから知り合いだったわけではなく、ただ彼女のことはマレーシア出身で中華圏でも活躍されているので名前は存じ上げていて面識はありました。彼女にその知名度を生かして生まれ故郷に貢献したい考えがあるという話を小耳にはさみ、未経験同士同じ思いで作品を作ろうということになり、プロデューサーとして加わってもらいました。

――リー・シンジエさんは、日本でも出演作が何本も公開されている女優です。出演もしてもらおうとは思いませんでしたか。
監督 最初はそういう考えがあったのですが、彼女が「プロデューサー業は初めてなので二足の草鞋ではなく職を全うしたい。(出演については)自分ではなくもっとポテンシャルのある若手にチャンスを与えたい」と。彼女は経験豊富な役者なので、現場に来たときには若手にアドバイスなどをしてくれました。

――脚本執筆段階で苦労されたことなどはありましたか。
監督 アイデアがあっても脚本化にはたいへんな専門性を要すると感じました。独善的にならないようプロデューサーからもたくさん意見をもらい、いろいろな人とディスカッションをしてブラッシュアップしていきました。映画は2時間しかないのでそこにあらゆる課題やテーマを盛り込むのは不可能。作品として成立させるため如何に取捨選択をしていくかが大変でした。

――初稿から削ぎ落した部分も多いのでしょうか。
監督 最終的なものは第3ヴァージョンで、だいぶ違う展開になりました。マレーシアのいろいろな社会問題を欠かせない背景としていて、それらはこの兄弟によって浮き彫りになります。しかし、その問題が実際に解決されているかどうか答えを出す必要はないのです。重要なのは、こういった残酷な現実世界で兄弟が互いを愛する気持ちや支え合う気持ちを諦めずに生きているということ、そこにフォーカスしていきました。

――この兄弟を支える存在としてマニーがいます。マニーをトランスジェンダーに設定した理由をお聞かせください。
監督 作中で考えてほしいテーマに身分や自己受容といったセルフ・アイデンティティの問題があります。プドゥにはさまざまな人がいて、例えば外国人労働者。その中には違法滞在の人もいますし、合法滞在でも過酷な労働環境の下でなんとか生きています。軽視されがちな存在であるトランスジェンダーもいます。実際にそういった人々が住んでいますから登場させました。そうすることで自己受容やアイデンティティについて考える枠を広げ、作品にもう少し力を与えられるのではないかと考えました。

――兄弟もマニーもすごくいいキャラクターで引き込まれますね。
監督 多くの観客が鑑賞後に涙を流してくださるのは、皆さんの心にも愛があるから残酷な状況下でも愛を諦めない人たちへの共感共鳴があるのだと思います。

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◆血の繋がりを超えた兄弟の絆

――撮影中に特に大変だったことをお聞かせください。
監督 ひとつ挙げるとしたら、やはり手話ですね。台湾とマレーシアでは手話の構成が全く違うことに後から気づきました(注:アバンを演じたウー・カンレンは台湾の俳優)。なので、兄弟役のふたりはかなり長い時間を手話の習得に費やしました。僕自身、手話が映画の中でこんなにも張力を持った言葉になるとは思いもよりませんでした。というのは、手話は往々にして我々が使用している自然言語(注:日常的に使用している話し言葉等)に比べてより簡潔になっています。如何に自然言語のように手の動きが見えるか、感情を指先に宿せるかというところでかなり役者と研究を重ねました。
あと、撮影現場で大変だったのは、カットをかける度にすべてのスタッフにティッシュを配って回らなければならなかったことですね。特に、最後の弟が兄に会うシーン、兄が自分の生活はそんな簡単ではないと強く訴えるシーン。そういった重要なシーンはカットをかける度にスタッフ全員が涙をポロポロ流していました。

――補聴器が壊れて手話だけのやり取りになるという、あそこは秀逸だと思いました。
監督 じつは、兄が自分の生活がいかに大変か訴えるシーンは最初のセリフから大幅に変わりました。撮影は順撮りで、そのシーンを撮る前に2週間の撮影があり、そこまでで積み重ねてきたものを踏まえた上でどうしたらより説得力を持たせられるか。そのことを撮影するタイミングで話し合って(セリフ等を)変えようという話は最初からしていましたが、セリフを変える度にウー・カンレンさんは手話を学び直さないといけないのでかなり苦労されたと思います。

――兄弟愛というものの、よくよく考えるとこのふたりは血の繋がった兄弟ではありません。しかし、本当に血の繋がった兄弟よりも強い絆で結ばれているという印象を受けます。そのあたりはいかがでしょうか。
監督 プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」や『ミス・アンディ』の中で血の繋がりのない人々が血縁を超えた中で如何に繋がることができるかという表現を試みました。そこからの流れと、僕自身の当事者としての経験があります。僕は1999年に一外国人労働者として台湾に行き、たったひとりで日々辛い思いをしていました。当時はフィリピンから来た外国人労働者と寝泊りをしていて、僕が人生で最も苦労したこの時期に自分を最もケアして温かさを与えてくれたのは、自分とまったく出自が違うフィリピンの人でした。そういう実体験もあります。血の繋がりを超えて互いを思いやる可能性については、引き続き探索していきたいと思っています。

――この一年間、この映画で世界各地の映画祭を回られたと思うのですが、それぞれの反応はどうでしたか。
監督 実際に回ってみて、人種を超えて兄弟の愛というものは人類共通だと感じました。欧米、特にヨーロッパですね。多くの観客が劇場を出るときに泣きながら僕をハグしてくれました。忘れられなかったのはポーランドで、父子で観に来てくれて、父親が見終わって「今年僕が観た中でもっとも美しい作品だ」と言ってくれました。また、イタリアでもあるカップルが涙をポロポロ流しながら感動したと感想をずっと話してくれました。言葉や人種を超えて共鳴共感できるものがある、そういう点では非アジア圏での印象が強く残っています。

――各地の国際映画祭では監督おひとりで登壇されたのでしょうか。
監督 宣伝で役者と一緒に行ったのは香港と厦門です。上映後のQ&Aで覚えているのはシンガポール・マレーシア・台湾ですが、特にマレーシアのQ&Aとメディアの反応は僕たちも目から鱗が落ちましたね。マレーシアは多民族国家で、特にマレー系の人々は中華系に対して必ずしも友好的ではありません。けれど、この兄弟を多くのマレー系の人々が愛すべき存在として捉えて質問してくれたり、ゆで卵を互いの頭で割るシーンを真似てくれたりしました。そういった反応を見ると、マレー系の人々もマレー人を演じた非マレー人にも民族や出自を超えたシンパシーを感じることができるのだと映画を通して実証されたように思います。

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◆マレーシアの映画人として

――監督として、またプロデューサーとしてずっと社会的弱者を扱った映画を送り出してこられました。その意義をどうとらえてらっしゃるのでしょうか。
監督 僕は中級階級の出身で、映画に出てくる兄弟よりも健康的で幸せに暮らせています。でも、自分が容易に手に入るものが異なる運命を背負った彼らの手には入らないことも目の当たりにしてきました。僕が長年仕事をしてきて思うのは、映画というのはストーリーテーリングをする上でとても有効的なメディアだということ。このメディアを介して、人々の関心が届かない市井で生きる人々――社会的弱者と言われる人々にはさまざまな生き辛さがありますが――その生き辛さをただ赤裸々に伝えるのではなく、彼らがどういった感情を抱いて生活しているのかということを、映画に携わる者として作品化していきたいと、それを信念として持っています。

――現在、特に関心を持っているテーマはありますか。
監督 マレーシア社会における難民と外国人労働者について、もう少し掘り下げていきたいと思います。もうひとつのプロジェクトとして、トランスジェンダーの人々ですね。性についても引き続き学びながら作品にできたらと思っています。

――監督のキャリアを拝見すると台湾との仕事が多いようですが、何か理由はあるのでしょうか。
監督 台湾は自分に映画作りのノウハウを教えてくれた所で、映画人としての原点であることは言うまでもありません。台湾は自由民主の地としていろいろなストーリーを描く上でほとんど制限がなく自由に作品をつくることができる得難い環境だと思っています。多くの友人がいて、台湾でプロダクションを設立したときも先輩方に手助けやご指摘をいただき、そうした温かい環境が僕を育ててくれました。今までの仕事の流れとして、台湾でインスパイアを受けたアイデアをマレーシアに持ち帰って発展させてきましたけれど、今後はもっといろいろな立ち位置でマレーシアと台湾のインターナショナルな共同作業ができるような、そういった懸け橋的なこともできたらと思っています。

――どうもありがとうございました。


(写真・取材:台湾影視研究所・稲見公仁子/写真はオンラインインタビュー時他、本邦初上映となった第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影)

台湾影視研究所の『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督記事 https://note.com/qnico_mic/n/n4ce57094ea25


『満ち足りた家族』ジャパンプレミア チャン・ドンゴン&ホ・ジノ監督登壇!

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いよいよ1月17日からの公開を前に、昨年行われたジャパンプレミアでの舞台挨拶の模様をお届けします。

2024年11月20日(水) 18:30~
場所:TOHOシネマズ 六本木ヒルズ スクリーン7


登壇者:チャン・ドンゴン、ホ・ジノ監督
MC:新谷里映


MC:2023年秋のトロント国際映画祭でのワールドプレミアを皮切りに、約1年間で20以上の映画祭で入選する快挙を達成しました。韓国では10月に公開され、大ヒットを記録しています。この度、ジャパンプレミアでの来日となりました。
それではゲストの皆様にご登場いただきましょう。韓国を代表する俳優チャン・ドンゴンさんと、本作の監督と務めましたホ・ジノ監督を、どうぞ拍手でお迎えください。

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チャン・ドンゴン(以下ドンゴン):こんばんは。チャン・ドンゴンです。(ここまで日本語で)久しぶりに作品を持って日本のファンに直接会えて嬉しいです。たくさんの関心をお寄せいただきありがとうございます。

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ホ・ジノ監督(以下 監督):こんばんは。お会いできて嬉しいです。チャン・ドンゴンと一緒に挨拶できて嬉しいです。

MC: 2023年のトロント国際映画祭を皮切りに世界の映画祭を回り、今回のジャパンプレミアが日本でのお披露目となります。お気持ちをお聞かせください。

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ドンゴン:初めて上映したトロントでは評判がよく、文化の違いがあるにもかかわらず、たくさんの良い評価をいただき安心しました。日本の観客の皆様が本作をどう観てくださるのか、とても楽しみでワクワクしています。

監督:トロントで初めて上映されたのですが、私の作品の中で一番たくさん映画祭に招かれた作品となりました。韓国での公開後の評判も予想以上によかったです。日本の観客の皆さんがどのように見てくださるか楽しみです。

MC: 『危険な関係』以来のタッグを組んだ作品となりましたが、感想をお聞かせください。

監督:5~6年ぶりと思ったら、12年ぶりにこうしてまたチャン・ドンゴンと組むことができました。現場はとても楽しいものでした。いろいろ話して一緒に作り上げていきました。
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ドンゴン:『八月のクリスマス』を観て、いつか一緒にと思っていた監督と『危険な関係』を撮りました。オール中国ロケでした。今までに出会ったことのない新しいスタイルの演出で苦労もしましたが、ご一緒して興味深く楽しい現場でした。俳優をリラックスさせてくださって、粘り強く俳優のことを理解してくださる方です。 
15年ほど前に、東京ドームで、恥ずかしいのですが韓流四天王の催しがあって、監督がディレクションを務めてくださいました。
今回オファーをいただいて、シナリオを読んで、これまで自分は殺し屋やゾンビのような非現実的な役が多かったのに、今回は現実身のあるキャラクターで興味を惹かれました。ホ・ジノ監督が演出されるときいて、素晴らしい作品になると確信しました。
(長い発言の通訳を終えたことに対して)オツカレサマデシタ(と日本語でねぎらうチャン・ドンゴンでした)

MC: ヘルマン・コッホの原作「ザ・ディナー」を映画化しようと思った理由をお聞かせください。

監督:原作の小説は、4回目の映画化となるのですが、これまでの3本がどれも素晴らしいものでしたので、韓国で映画化するのをためらいました。何度も自分のシナリオを読み返すうちに、今まで作ってきたものと違うものを込められるのではないかと思いました。これまで男女の愛を描いてきましたが、今作は韓国の社会問題も表現できて挑戦になると思いました。
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MC:原作との大きな違いですが、兄弟の職業は韓国を反映したものでしょうか?

監督:医師と弁護士は、韓国の皆さんがより身近に感じるものと思いました。医師は学生も憧れる尊敬する職業。弁護士を含めて法律家は尊敬を集める職業です。

MC:道徳的で善良な医師は、チャン・ドンゴンさんにぴったりの役でした。

ドンゴン:シナリオを読んだときに惹かれた理由の一つに、現実にいそうだと。道徳的でボランティア活動もしていて、とてもいい人だというキャラクターなのですが、隠れた本性もあって、演技でも、表面的なものだけでなく、隠れた弱点を出していくという楽しさもあると思いました。
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MC: 残念ながらお時間となりました。最後に一言ずつお願いします。

監督:ご覧いただいて楽しんでいただけましたら、まわりの方にPRよろしくお願いします。

ドンゴン:韓国ではすでに公開されています。いろいろなところで舞台挨拶をさせていただいたのですが、ある劇場の壁に「映画の中で答えを出している映画は、劇場で観終わったらそこで終わるけれど、質問を投げかける映画は、映画を観終わったところから始まる」と書いてありました。この作品は観終わった後に、皆さんにいろいろなことを考えさせる映画だと思います。どうぞ考えを巡らせてください。意味のあることを考える時間になると思います。どうぞお楽しみください。

★フォトセッション★
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取材:景山咲子



満ち足りた家族   原題:보통의 가족  英題:A NORMAL FAMILY
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(C)2024 HIVE MEDIA CORP & MINDMARK ALL RIGHTS RESERVED
監督:ホ・ジノ(『八月のクリスマス』)
出演:ソル・ギョング、チャン・ドンゴン、キム・ヒエ、クローディア・キム

2024年/韓国/109分/シネスコサイズ/5.1ch
字幕翻訳:福留友子
提供:KDDI 配給:日活/KDDI
公式サイト:https://michitaritakazoku.jp/
★2025年1月17日(金) 全国ロードショー