『ライズ ダルライザー -NEW EDITION-』主演・和知健明インタビュー

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ダルライザーとは、福島県白河市の名産であるだるまをモチーフに作られたヒーロー。転んでも起き上がる不屈の精神で町の平和を守る。2008年から活動を始め、リアルに存在する等身大のヒーローを目指してきた。
そのダルライザーを主人公にし、キャストのほとんどを福島県白河市の一般市民たちが演じた映画『ライズ -ダルライザー THE MOVIE-』は第1回タイ国際映画祭でベストプロダクションデザイン賞を受賞。このほど、新たに編集を施したニューバージョン『ライズ ダルライザー -NEW EDITION-』が公開されることとなった。
“等身大のヒーロー”を生み出したのは、劇中で自らダルライザーに扮する和知健明。主演だけでなく、原作、プロデューサーも兼ね、自身の半生をモデルに物語を作り上げた。和知健明にダルライザー誕生秘話や撮影時のエピソードを聞いた。

<プロフィール>
和知健明 Takeaki Wachi
1980年生まれ。現・桐朋学園芸術短期大学演劇科卒。卒業公演で本作の監督佐藤に声をかけられ、自主制作映画やコント等の俳優活動をしていた。結婚を機に帰郷し、ウエディングプランナーをしていた頃、08年に白河商工会議所青年部でダルライザーを発案。その後地域活性を目指して一念発起し、15年に事業展開を始める。なるべく身近に感じてもらえるように自身の体験を織り込んだところ、そのリアルな物語が好評を博し、全国にファンが点在する。また演劇文化などを根付かせるため、しらかわ演劇塾の運営に携わる。15年に映画化を決意、それに伴い日本人初のKEYSIインストラクターの資格を取得。本作が初の映画プロデュース作品。

『ライズ ダルライザー -NEW EDITION-』
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東京で俳優を志しながらも夢破れ、妻の妊娠をきっかけに故郷の白河市に帰ってきたアキヒロ。生まれてくる子供のためにも安定した人生を歩もうと就職するものの、俳優業を諦めきれない彼は、ある日町おこしのキャラクターコンテスト開催を知って“ダルライザー”というキャラを考案、ご当地ヒーローとして活動を開始する。しかしその頃、秘密組織〈ダイス〉によって、ある恐るべき計画が進められていた…。

監督・脚本:佐藤克則
原作・プロデューサー:和知健明 
出演:和知健明、三浦佑介、桃 奈、山口太郎、佐藤みゆき、山﨑さやか、田村 諭、宮尾隆司、赤城哲也、古川義孝、鈴木桂祐、鈴木裕哉、湯本淳人、緑川順子、フスト・ディエゲス、井田國彦
製作:ダルライザープランニング 
配給:ダルライザープランニング/アムモ98
2018年/日本/カラ―/119分/シネスコサイズ/5.1ch  
©2018 Dharuriser Planning

★2019年3月9日(土)より、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開!


―ダルライザー誕生の経緯を教えてください。

子どもが生まれたことが大きなきっかけでした。24歳で夢を諦めて帰郷し、その3年後に子どもが生まれたのです。そのころ、地元は不景気で、衰退していく地方都市の1つでした。子どもが大きくなったときもこのままだったらどうしよう。何かできることはないかと考えるようになっていました。『バットマン ビギンズ』と自分の町の状況が重なったのも、そんな時期だったからかもしれません。ちょうど、その頃、白河商工会議所青年部でキャラクターを作ろうということになったのです。子どもが安心して暮らせるように地元を変えたい。いろいろなきっかけが一つになり、ヒーローを作って活動を始めました。
白河市の名産は白河だるまです。転んでも起き上がる。「努力と工夫で何度でも立ち上がれ」という決め台詞でそれを伝えたい。僕がいなくなっても、この言葉があれば子どもはがんばれるはず。こうして、ダルライザーの活動を始めました。

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—ダルライザーの名前の由来は、だるまは何度でも起き上がるということなのですね。

ダルライザーは名前を公募しました。採用になったのは当時6歳の男の子の案です。ダルライザーの響きに惹かれました。ただ、由来は書いてなかったので、こちらで考えたのです。

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—ヒーロー活動をしているときのエピソードがあったら教えてください。

最初のころはまだ名前が決まっていませんでした。それで、みなさんから「ヒーロー」と呼ばれていたのですが、それですっかり気分がよくなっていました。
あるとき、5歳くらいのお兄ちゃんが赤ちゃんの乗ったベビーカーを押しながら3歳くらいの弟を連れて近寄ってきました。お兄ちゃんから「僕と握手してくれませんか」と言われて、「いいよ」と言ったら、まず、「握手してくれるって」と弟の手を差し出してきました。その後に「この子もいいですか」とベビーカーの赤ちゃんの手を差し出しました。最後にお兄ちゃんと握手して、3兄弟は帰ろうとしましたが、「あっ」と振り返って、「ありがとうございました」と頭を下げてくれました。感動しましたね。ヒーローと呼ばれていい気分になっている場合じゃない、あの姿こそヒーローだと恥ずかしくなりました。
それから、「ヒーローって何なんだ」を追求するようになり、自分自身が子どもたちの模範になるよう、「食事は残さない」、「横断歩道を渡る」といったことにも気をつけるようになりました。

—本作は2018年に公開された『ライズ -ダルライザー THE MOVIE-』を新たに編集したとのことですが、『ライズ -ダルライザー THE MOVIE-』を制作することになったきっかけについて教えてください。

大きなきっかけは2014年11月に行われた日本総研の講演会です。そこで、「2050年になると日本の人口が1億人を下回り、消滅する地方自治体が出てくる」と聞き、居ても立ってもいられなくなったのです。当時、私は結婚式場で仕事をしていましたが、ダルライザーとしての活動もやっていました。そこで、ヒーローショーで世の中を明るくできたらいいなと思い、ダルライザーで会社を立ち上げたのです。ただ、ヒーローショーでは時間がかかる。もっと何か大きなチャレンジをして、注目を集めて、転んでもいいから立ち上がるんだということを伝えたい。
そんなとき、私自身が高校生に向けて講演する機会をいただいたのです。話を聞いた高校生から「自分でも何かできる気がした」、「諦めないって大事なんだ」、「夢がなかったけれど、夢を追いかけてみたい」といった感想を聞きました。そこで、映画を作れば、ヒーローの楽しさと講演会の良さを組み合わせることができるかもしれないと考えたのです。映画を見た人ががんばろうと思ってくれれば、ヒーローが1人でも増えるかもしれない。そういう人たちが増えれば、世の中を変えることができる。しかも、映画なら、私が直接行って話さなくても伝わりますし、僕が歳を重ねても、映画は残ります。これが映画を作ろうと思ったきっかけです。

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―脚本からダイスにも理念があるのを感じました。

ダイスは洗脳することで理想社会を作ろうとする。ダルライザーはみんなとがんばって社会を変えていこうとする。2つは正義の価値観が違います。一方の価値観を押し付けるのではなく、あなたはどちらですかと問う。そして、ライバルであっても互いに認め合うことができるのではないか。そこが原点です。いろんなことが起こるけれど、転んでも起き上がっていくだるまの精神を伝えていくように脚本を書きました。
福島県内には、原発で避難した人、避難せずに残っている人がいます。同じように地元を愛しているのに、震災直後は言い争いが起きていました。逃げる人には逃げる人の、残る人には残る人の理由がある。互いに認めあえば、今は平行線でもいつか交わるときがくるかもしれない。そういう思いもあります。

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—ダイスを演じた方々はプロの役者ではなく、白河市の市民の方々ですね。

僕はダイスを演じてくれた仲間が本当のヒーローだと思っています。僕は多少なりとも演劇を学んでいましたが、彼らは白河商工会議所青年部の繋がりで出てくれたので、演技はまったくの未経験者です。今回、撮影までに1年半くらいかけて、演技トレーニングをしました。最初は辿々しかった台詞回しが、何とか喋れるようになり、感情もプロには及ばないとはいえ、多少なりとも理解してきた段階で、ダイスのメンバー6人だけの居酒屋のシーンから撮影に入りました。監督が気を遣ってくれたのです。
プロの役者さんと絡んでいくうちに少しずつ演技力が上がっていき、ラッシュ版で全編見たら、居酒屋のシーンだけ演技のクオリティが低い。みんなにもう一度集まってもらって撮り直しました。納得いくまで撮れたのはみんなのおかげです。彼らも作品を見て、こうすればよかったなどと話をしていました。それって「転んでも立ち上がる」ダルライザーの精神です。

—彼らは今もヒーローショーでダイスをやっているのでしょうか。

彼らは2008年にダイスを立ち上げたときに演じてくれていた人たちで、2010年くらいまではこのメンバーでやっていました。その後、メンバー交代が進んで、今はファンとして外側から見てくれていた人たちが中に入っています。ただ、ダイス発足当時から知っているファンたちは彼らが演じていたことを知っている。だから、映画にも出てほしいと頼んだのです。最初は「市民が演技しても面白くない」と断られたのですが、謎の集団が暗躍しているという設定なら、顔が分からない人たちが演じている方が謎の組織感があると説得しました。

—市民の方々が仕事をしながら映画に出演するのは、大変だったことと思います。

ダイス№1の田村さんは旅館の若旦那さん。朝5時には起きて、お客さんの朝食の仕込みをします。夜中の3時くらいまで撮影したときはそのまま寝ずに朝食作って、それから寝たようです。時間をやりくりして協力してくれました。

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—本作の見どころをお聞かせください。

雨の中、田村さんが傘をさしてダルライザーに話しているシーンはじっくり見てほしいところの1つ。リハーサルのとき、なかなかセリフが出てこなくて、練習を重ねましたが、本番ではノーミス。ものすごい集中力でやってくれました。
もちろん、アクションシーンも迫力があります。出演した市民の方々がトレーニングを積んで演じてくれました。スタントマンを1人も使っていません。

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―ダルライザーの今後についてお聞かせください。

僕が考えているヒーローはコスチュームを着て、ショーをする人ではありません。地元のために新しいことにチャレンジして、改革していく人たちこそヒーローだと思っています。この映画を全国に広げて、市民がチャレンジすることの大切さを伝えたい。住んでいる人たちが自分たちで町を育てていくのです。
それと、後任の育成をする自社ビルを白河市に建てたいですね。正立方体で窓が賽の目になっている巨大なサイコロビル!(笑)。株式会社ダイスは世の中を変革していく会社です。ビルの中では演技やアクションのトレーニングをし、撮影もできる。子どもたちがいろんなことにチャレンジし、それによって気づいた、自分の町の魅力を発信する。スタジオを兼ねたエンタテインメント施設にしたいと思っています。
(取材:堀木三紀)

『あの日のオルガン』平松恵美子監督インタビュー

戦時下に自ら考え、行動した保母たち
現代にも通じる若者の可能性を体感してほしい

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太平洋戦争末期、若い保母たちが幼い子どもの命を守ろうと声をあげ、53人もの園児を連れて集団疎開を敢行した。この実話を、久保つぎこが1982年に「君たちは忘れない-疎開保育園物語」(「あの日のオルガン」(朝日新聞出版 2018年刊)に改題,加筆修整)として出版。強い信念で逆境を乗り越えていった保母たちの奮闘ぶりを描いた。
映画『あの日のオルガン』は久保つぎこの小説を原作とし、山田洋次監督作品で共同脚本、助監督を務めてきた平松恵美子がメガホンをとった。主人公の保母2人を演じたのは戸田恵梨香と大原櫻子。『家族はつらいよ』シリーズのレギュラーメンバーの夏川結衣、林家正蔵、橋爪功が脇を固めた。
戦時にあってもなお、子どもを健やかに育てようとした保母の姿が、豊かで便利な時代に投げかけるものは何か。平松恵美子監督に疎開保育園の実話を映画化する意義や本作の見どころを聞いた。

<平松恵美子監督プロフィール>
1967年生まれ、岡山県出身。
新宿ピカデリーで「鎌倉映画塾」のチラシを見たことをきっかけに、1992年、会社員を辞め第一期生として入塾。在塾中の1993年、山田洋次監督の『学校』、『男はつらいよ 寅次郎の縁談』に助監督として参加したことから卒塾後も山田組に加わることとなる。助監督として『たそがれ清兵衛』(2002年)、『隠し剣 鬼の爪』(2004年)など山田組のほぼ全作品に参加。また共同脚本作品として、『さよなら、クロ』(2003年/松岡錠司監督)、『釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪』(2005年/朝原雄三監督)の他、山田洋次監督の『武士の一分』(2006年)以降のほぼ全作品に参加。『武士の一分』(2006年)、『母べえ』(2008年)、『おとうと』(2010年)、『東京家族』(2013年)、『小さいおうち』(2014年)、『母と暮せば』(2015年)、『家族はつらいよ』シリーズ(2016年・2017年)では日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。『ひまわりと子犬の7日間』(2013年)で、松竹では『お吟さま』(1962年/田中絹代監督)以来、2人目の女性監督としてデビュー。その他監督作品に「双葉荘の友人」(2016年/WOWOW)がある。

映画『あの日のオルガン』

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戸越保育所の主任保母・板倉楓は、園児たちを空襲から守るため、親元から遠く離れた疎開先を模索していた。別の保育所・愛育隣保館の主任保母の助けもあり、最初は子どもを手放すことに反発していた親たちも、せめて子どもだけでも生き延びて欲しいという一心で保母たちに我が子を託すことを決意。しかし、ようやく見つかった受け入れ先はガラス戸もないボロボロの荒れ寺だった。幼い子どもたちとの生活は問題が山積み。それでも保母たちは、子どもたちと向き合い、みっちゃん先生はオルガンを奏で、みんなを勇気づけていた。戦争が終わる日を夢見て…。そんな願いをよそに1945年3月10日、米軍の爆撃機が東京を襲来。やがて、疎開先にも徐々に戦争の影が迫っていた―。

出演:戸田恵梨香、大原櫻子、佐久間由衣、三浦透子、堀田真由、福地桃子、白石糸、奥村佳恵、林家正蔵、夏川結衣、田中直樹、橋爪功
監督・脚本:平松恵美子
原作:久保つぎこ『あの日のオルガン 疎開保育園物語』(朝日新聞出版)
音楽:村松崇継 
主題歌:アン・サリー「満月の夕(2018ver.)」(ソングエクス・ジャズ)
配給:マンシーズエンターテインメント 
文部科学省特別選定作品(一般劇映画)
©2018「あの日のオルガン」製作委員会

★2月22日(金) より東京・新宿ピカデリーほか全国でロードショー

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―監督を引き受けた経緯をお聞かせください。

本作を企画した鳥居明夫さんは1982年に疎開保育園の映画化に奔走しました。そのときは実現には至りませんでしたが、その後、虐待やネグレクトなど子どもたちが置かれている状況はますます厳しくなっていった。鳥居さんは今こそ作るべきではないかと考え、企画を掘り起こしたのです。それが人を介して、巡り巡って私のところにお声掛けいただきました。

―就学児の「学童疎開」は知っていましたが、「疎開保育園」は初めて聞きました。

私も原作を読んで疎開保育園があったと知り、驚きました。偉い人が考えたことではありません。現場で働く保母さんたちが「学童疎開はしたのに、それよりも小さい子どもたちは放ったらかしでいいのですか」と疑問を抱き、疎開させた。すごいなと思いました。

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―保母さんたちが保育に「文化的生活」を掲げていたのが印象的でした。

原作にその言葉が書かれていて、私もいいなと思って使いました。
文化的生活とは、衣食住といった必須のこと以外で、心に潤いがあること。映画の中ではお花を飾ったり、オルガンを弾いたりして表現しました。
子どもたちの豊かな感性を育むことは保母さんたちの使命です。単に生きているだけでは動物と一緒。戦時中でも疎開先でもその使命を諦めたくない。そんな崇高な理想があったのではないかと思うのです。それが現実にどこまでうまくいったかは別物として、そういう思いがあったというところが素敵だと感じました。
今の人たちは働かざるを得ない状況に置かれてはいるのですが、みんな働きすぎというか、余裕のなさを感じますね。

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―子どもはかわいいものの、24時間一緒の生活は大変です。映画の中で保母さんの1人が「子どもはかわいいと思う。それと同じくらいうるさい、面倒くさいと思う」と言っています。子育て中の母親がこの作品を見ることで、育児を負担に思い、余裕のないのは自分だけではないという気持ちになれるのではと思いました。

そのセリフはどうしても入れたかったのです。自分が24時間、保育しなきゃいけないと考えただけでも気が重くなる。しかも、何人もの子どもをいつ終わるかわからない、出口のないところで預かっている。本当に大変です。
保母さんたちが終戦まで持ち堪えられたのは、お互いに協力して補い合い、地域の人にも助けてもらったから。1人でできないのは当たり前。できないときは人を頼ってもいい。今、育児をしているお母さんたちへの「1人で抱え込まないでほしい」というエールになればとも思います。

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―主任保母の板倉楓役を戸田恵梨香さんが演じています。戸田さんを選んだ決め手をお聞かせください。

戸田さんは一本芯が通っています。最近もテレビの連続ドラマ『大恋愛~僕を忘れる君と』で若年性アルツハイマー病になるヒロインを演じていましたが、芯があり、その芯がブレない。そういった芯を持っているところが、この作品にはまさに適役だと思いました。
実は『駆込み女と駆出し男』を拝見して、戸田さんのお芝居をいいなと思っていたのです。今回、キャスティングをしてくれたプロデューサーから戸田さんを打診されたときは嬉しかったですね。

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―対照的な保母さんの野々宮光枝役は大原櫻子さんです。

大原さんは未知数の部分がありました。映像としてはデビュー作の『カノジョは嘘を愛しすぎてる』を観ただけでしたが、舞台では感情豊かなお芝居をしています。
光枝役は直線的で、前向きな表現のお芝居をしてくれれば大丈夫と思っていたのですが、大丈夫どころか、大原さん以外は考えられないお芝居をしてくれました。

-楓と光枝にはモデルになる保母さんがいたのでしょうか。

怒り出すと手がつけられなくなる、憤怒院盆顔大姉という戒名というかあだ名をつけられた先生が原作にいました。楓はその人をモデルにしています。
怒るといっても、ただブチ切れて、わあわあ、きゃあきゃあ言うのではありません。当時の社会のいろんなことに対して怒らなくてはいけない、しっかりとした理由がある。ただ、当時は戦争中で、あまり声を大にしては言えないから常に心の中でグラグラ沸騰している。そこが魅力的。現代は怒り方を知らない人、怒られ方を知らない人がいっぱいいます。こんなに素敵に怒れる人はいないと思いました。
光枝もモデルらしき人はいます。しかし楓が怒っているタイプなので、若い人が共感しやすいキャラクターとして、失敗ばかりするけれど明るく笑っていて、天然でピュアなみんなに愛されるキャラクターに作り替えました。

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―楓も本当は光枝のようになりたかったのではないかと感じました。

楓も保育の世界に入ったときは光枝のような保母さんだったのではないかと私は思っています。周りの保母さんに怒られて叱られて、今のしっかり者の楓になっていった。だから光枝に対しても「この子なら、もっと叱って大丈夫」と期待を込めて厳しく接していたのでしょう。

―東京大空襲から戻ってきた楓がみんなに語るシーンがありましたが、楓のセリフと様子から東京の惨状がリアルに伝わってきました。

東京が大空襲で焼け野原になったシーンを作って、そこをひたすら、とぼとぼ歩いていく絵が作れればいいのでしょうけれど、そんな予算はない。しかし、観る人に体感してもらいたい。
あの頃は楓がいちばんピンチだった時です。内面がグラグラ、ユラユラしていて、ちょっと強い力で押されたら、ぐずぐずっと崩れてしまいそうなところをやっと持ちこたえている。そんな不安定感を戸田さんがしっかり出してくれました。戸田さんは阪神淡路大震災を幼いときに経験して、見たくない光景を見ています。表現の重みが違うと思いましたね。

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―本作でいちばん伝えたいのはどんなことでしょうか。

疎開保育園は若い保母さんたちが自分の頭で考え、行動し、成し遂げた。若い子たちはものすごい可能性を秘めているのです。それを現在の若い子たちに感じてほしい。
保母さんは人の子どもの命を預かるのが仕事。その意義や過酷さがもっと認められて、待遇の改善が行われるべきです。この作品がその議論への一助になってくれればと思います。

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―これからこの作品をご覧になる方にひとことお願いいたします。

たくさんの幼い子どもたちが、若い保母さんたちと心を通わせながら自然に笑い、生き生きと振る舞っています。しかもドキュメンタリーではなく劇映画で。こんな作品は後にも先にも観られないのではないかと思います。ぜひ、体感しにきてください。
(インタビュー:堀木三紀)

『空の瞳とカタツムリ』脚本家・荒井美早インタビュー

求め合うがゆえに傷つけあう心の機微を綴る
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アクターズ・ヴィジョンが主催した俳優ワークショップがきっかけで制作された映画『空の瞳とカタツムリ』。10代、20代の頃に感じる迷いや焦り、モラトリアムな時間と青春のおわりを繊細なタッチで映し出した作品である。主演は縄田かのん。中神円、三浦貴大、藤原隆介とともに難しい役どころにも屈せず、全身で果敢に挑んだ。映画『サンデイ ドライブ』『フレンチドレッシング』など脚本・監督と二足の草鞋で活躍する斎藤久志がメガホンをとり、テレビドラマ『深夜食堂』シリーズで脚本家デビューを果たした荒井美早が脚本を務める。
本作が初のオリジナル映画脚本となった荒井美早に作品への思いを聞いた。

<荒井美早 プロフィール>
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1986年生まれ。
2011年、テレビドラマ『深夜食堂2』で脚本家デビュー。
本作『空の瞳とカタツムリ』で初の映画脚本に挑戦。
主な脚本作品
2011年:ドラマ『深夜食堂2』(第15話、第16話)
2013年:ドラマ『ソドムの林檎~ロトを殺した娘たち』
2013年:映画『共喰い』(脚本助手)
2014年:ドラマ『深夜食堂3』(第21話)

『空の瞳とカタツムリ』
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<STORY>
祖母の残した古いアトリエでコラージュ作品を作りつづける夢鹿(縄田かのん)は、消えない虚無感を埋めるため、男となら誰とでも寝る生活を送っていた。一方、夢鹿の美大時代の友人である十百子(中神円)は極度の潔癖症。性を拒絶し、夢鹿にしか触れられない。そして二人の友人、貴也(三浦貴大)は、夢鹿への想いを捨てきれないまま堅実に生きようと努めていた。学生時代、とても仲の良かった三人。しかし月日が経つにつれ、少しずつバランスは崩れていった。そんな中、十百子は夢鹿に紹介されたピンク映画館でアルバイトを始めるが、行動療法のような日々に鬱屈していく。その映画館に出入りする青年、鏡一(藤原隆介)は、満たされなさを抱える十百子に心惹かれていくが……。夢鹿と十百子、永すぎたモラトリアムは終わろうとしていた。

監督:斎藤久志
脚本:荒井美早
企画:荒井晴彦
タイトル:相米慎二
出演:縄田かのん、中神円、三浦貴大、藤原隆介、利重剛、内田春菊、クノ真季子 、柄本明
製作:橋本直樹、松枝佳紀
プロデューサー:成田尚哉
製作:ウィルコ、アクターズ・ヴィジョン
制作プロダクション:ウィルコ、アルチンボルド
英題:Love Dart
2018/日本/カラー/DCP/5.1ch/120分
配給:太秦
公式サイト:http://www.sorahito.net/
©そらひとフィルムパートナーズ

★2019 年2月 23 日(土)より、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

―この作品の脚本を書くことになったきっかけをお聞かせください。

アクターズ・ヴィジョンのワークショップで使われた父(荒井晴彦)の脚本が映画化されることになった際、プロデューサーから「タイトルは『空の瞳とカタツムリ』。監督は齋藤久志。主演は縄田かのん。女の子2人の話という点を変えなければあとは自由に書いていいから、撮影に入る秋までに仕上げてほしい」とお話をいただきました。

-『空の瞳とカタツムリ』というタイトルを聞いたときにどう感じましたか。

『空の瞳とカタツムリ』は相米慎二監督の遺作『風花』のタイトル案として最終候補まで残ったものだそうです。今となっては素敵なタイトルに思いますが、当時、あらすじも決まっていない段階ではあまりにとりとめなく、つかみどころさえわからなかったので、カタツムリについて調べることから始めました。そこで、雌雄同体のカタツムリは交尾をする時、恋矢(れんし)という生殖器官を互いに突き刺しあうこと、それは相手の寿命を著しく低下させることを知ったのです。そこに着想を得て、筆が進むようになりました。

—主人公は夢鹿(むじか)、十百子(ともこ)の2人です。名前の漢字を見たときに、読み方に迷いました。人物設定と何か関係しているのでしょうか。

岡崎夢鹿の岡崎はマンガ家の岡崎京子さんから、高野十百子の高野は同じくマンガ家の高野文子さんからいただきました。夢鹿はラテン語で音楽を意味するムジカから。クラシック音楽は一曲の中で様々な表情を見せます。一見とりとめのない言動も彼女の中では繋がっている。そんな思いから夢鹿と名付けました。潔癖症だった十百子は最後に強迫観念から解放されたことによって何でも触れるようになってしまう。彼女はいつも極端で、0か100かしかない。病気が治っても苦難は続きます。そんな意味を込めています。
私はこの作品を書くにあたって少女マンガのような作品を目指していました。マンガ家のやまだないとさんから「少女マンガとポルノグラフィは似ている」というコメントを寄せていただき、とてもうれしかったです。

―十百子は極端なほど丁寧に手を洗います。荒井さんご自身にそういう部分があったのでしょうか。

私は18歳から10年間、ひどい潔癖症でした。しかも当時はそれを周囲に隠そうとしていたので本当に生きづらかった。症状がだいぶ緩和されてからも潔癖症については一生書くまいと思っていました。潔癖症というと手を洗うイメージが強いと思いますが、その根底にあるのは「触らなければならないが触りたくない」「触りたいが触れない」という圧倒的なジレンマであり、触ったことによって自分が汚れてしまうかもしれないという根拠のない恐怖心です。世界を拒絶し、誰にも抱きしめてもらえず、誰をも抱きしめることができない。潔癖症は映像的に地味なところがあるので、ドラマや映画で扱われることは少ないですが、こういった人もいる、実は意外と多いということを知ってもらえたらと思います。

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—ご自身の辛かったときのことを脚本に落とし込むのは大変だったのではありませんか。

今でも普通の人よりは手を洗っています。そのおかげかは分かりませんが周囲でどんなにインフルエンザが流行ってもいつも私だけはかかりません(笑) 絶対に書くまいと思っていた潔癖症ですが、いちばん辛かった時のことをこうして作品に残すことができて結果的に救われました。
私自身が潔癖症だった頃、父から「きれいは汚い、汚いはきれいだから、2つは同じなんだよ」と言われました。今回、潔癖症を扱うことに決めた時、主人公2人を対の存在にしようと思い、対極の設定にしました。ただ、対極でありながら、表裏一体、一心同体であり、本当にきれいなのはどちらなのか、本当に汚いのはどちらなのか、物理的な多重人格といったイメージで書いています。

―「穴」という言葉が何度も出てきます。欠落感を意味するように感じました。

穴はつまり膣のことであり、心に空いた深淵のことでもあります。そのどちらもSEXでは埋まらない。夢鹿が探しているのは「そういう雰囲気になってもSEXしない人」です。そういう存在こそが彼女の穴を埋めてくれるんだと思います。だから彼女は一度寝た男とは二度と寝ない。三浦さん演じる貴也は夢鹿の穴を埋めることが出来る可能性を持った唯一の男でしたが、貴也とも結局は体の関係になってしまった。それがまた夢鹿に途方のない欠落感を与える。穴が空いているのは体ですが、本当に埋めたいのは心の穴です。

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—夢鹿と十百子は互いに特別な好意を持っていますが、穴はふさがらないのですね。

ひな鳥が最初に見たものを親鳥と思い込むように、強迫観念に支配された狭い世界に生きる十百子には夢鹿しかいませんでした。しかし、世界を狭くしている潔癖症が治っていくに従って、十百子の世界も広がっていく。その結果、見えるもの、触れるものが増えて、十百子は変わってしまう。もしくは本来の十百子に戻る。十百子自身にも、それまでの夢鹿への執着的な好意が強迫観念が見せた夢なのか、本心なのか、分からない。盲信的にではなく、十百子から愛されたかった夢鹿は十百子を試し、結果的に夢鹿のものだった十百子は巣立ってしまう。
心と体の問題もあります。夢鹿は十百子の心も体も欲しい。そのために、貴也が自分にしたようにSEXを利用してしまう。そしてやはり体は手に入ったけど、心は手に入らなかった。十百子は夢鹿の心を手に入れたかったけど、体は別に要らなかったんでしょうね。しかも十百子はずっと普通になりたいと思ってきた。相容れないところが最終的に生じてしまったのです。

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—荒井さんがこだわったシーンがあったら教えてください。

夢鹿、十百子、貴也が3人でボートに乗って、早死にした有名人を言い合うシーンです。3人が唯一一緒にいるシーンなのに、現実味がない。三途の川の渡し船も3人乗りだし、自分でもいちばん好きなシーンです。あと、書き直すうちになくなってしまったシーンなのですが、貴也が死ぬシーンです。完成した映画では暴走車による事故死になっていますが、最初は赤信号に歩き出す自殺でした。死にたがっていた女2人の代わりに、一番まともに生きようとしていた男が死ぬ。2人の中から死を消し去るためかのような貴也の死が、2人に彼の遺骨を食べさせる。他にも貴也がブラックな広告代理店でパワハラを受けてるシーンとか、球体関節人形を作ってるシーンもありました。

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―荒井さんは映画の脚本は初めてとのこと。テレビドラマと映画では違いがあるのでしょうか。

映像化されたのは初めてですが、以前にも書いたことはありました。初めて書いたのはシナリオは映画用です。
もともとアニメの制作会社にいたので、アニメの脚本はよく目にしていました。アニメは約15分経過するとCMが入るので、作家さんによっては「ここでCMが入る」と明確に書いてあるシナリオもあります。前半15分で起承転結の起承までやって盛り上げた後、CM明けに転結に持っていく。しっかり考えて構成されています。ドラマはアニメのように厳密ではありませんが、時間が短いので難しいです。CMのことを考えずに2時間書けるというのは映画だからこそ、ですね。

—お父さまは脚本家の荒井晴彦さんです。お父さまと同じ職業を選んだのはどうしてでしょうか。

最初は普通のOLになるつもりでした。今となっては普通のOLになれたかあやしいところではありますが(笑) 大学生のときに父に来た企画のシナリオを書く機会があり、うっかり脚本の世界に足を踏み入れてしまったのです。
私にとって父は謎の存在。書くという行為で、その謎に少しでも近づきたいという気持ちがありました。シナリオを書きながら父について模索しています。

—脚本を書くことで、お父さまのことがわかってきましたか。

私が幼い頃、父は基本的に家にいませんでした。昔から距離感のある人だったのです。自分が脚本を書くようになり、しんどい職業だということは身にしみて分かりました。家庭との両立は、悲しいことに、確かに難しい仕事ですね。

—今後はどのような脚本を書いてみたいですか。

アニメや特撮モノの脚本を書いてみたいです。子どもと一緒に“何とかレンジャー”といったスーパーヒーローモノを見ているうちに、その奥深さに気づきました。かなりはまっています。

—これから作品をご覧になる方にひとことお願いいたします。

青春は終わってしまったけれど、人生はこれから始まるという希望を描きました。ご覧になって受け入れがたいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、広い世界の片隅にはこういう人たちもいるのだと、広い映画界にこんな映画が1本あってもいいのではないかと、愛していただけると嬉しいです。
(インタビュー:堀木三紀)

『あなたはまだ帰ってこない』エマニュエル・フィンケル監督インタビュー

戦争は戦う人だけでなく、その裏に待っている女性がいる
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フランスが世界に誇る小説家マルグリット・デュラスの自伝的小説「苦悩」(河出書房新社刊)が映画化された。映画『あなたはまだ帰ってこない』である。本作は、第2次世界大戦下のフランスを舞台に、レジスタンス運動家であった夫ロベール・アンテルムの帰還を待ち続けるマルグリット・デュラスの苦悩の日々を描く。
パリのアパルトマンの一室で、自らの愛の行き場を失い、葛藤の中で夫を待ち続ける主人公デュラスを演じるのは、『海の上のピアニスト』『ザ・ダンサー』などのメラニー・ティエリー。ゲシュタポの手先でデュラスに近寄るラビエにはフランス映画界を代表する名優ブノワ・マジメル、そしてレジスタンス運動のメンバーでデュラスを支えるディオニスをフランスの敏腕音楽プロデューサーでソロミュージシャンや俳優としても才能を発揮するバンジャマン・ビオレが演じる。監督はゴダールやキェシロフスキの助監督などを務め、その才能に高い評価があるエマニュエル・フィンケル。
デュラス自身が「私の生涯でもっとも重要なものの一つである」と語っているほど、作者自身が深い愛着を抱いていた原作をベースに、デュラスの愛と苦しみを繊細に映し出したエマニュエル・フィンケル監督に作品への思いを聞いた。

<エマニュエル・フィンケル監督プロフィール>
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1961年パリ近郊のブローニュ=ビヤンクール生まれ。ベルトラン・タヴェルニエやクシシュトフ・キェシロフスキ、ジャン=リュック・ゴダールらの助監督を経て95年に監督デビュー。長編第一作「VOYAGES」はカンヌ国際映画祭<監督週間>に出品されユース賞を受賞したほか、セザール賞2部門など数多くの映画賞を受賞した。TVドキュメンタリー「EN MARGE DES JOURS」(07)ではビアリッツ国際テレビ映像フェスティバルのゴールデンFIPA賞(脚本賞)を受賞、「NULLE PART TERRE PROMISE」(08)では2度目のジャン・ヴィゴ賞に輝いた。2016年2月にフランスで公開された『正しい人間』(15)には、本作でデュラスを演じたメラニー・ティエリーとニコラ・デュヴォシェルが主演。商業的にも批評的にも成功し、アングレーム・フランス語映画祭の最優秀監督賞と主演男優賞を受賞した。2017年に世界で初めて開催されたオンライン映画祭、第7回マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルで上映された。

『あなたはまだ帰ってこない』
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<story>
1944年、ナチス占領下のフランス。若く優秀な作家マルグリット(メラニー・ティエリー)は、夫のロベール・アンテルム(エマニュエル・ブルデュー)とともにレジスタンス運動のメンバーとして活動していた。ある日、夫がゲシュタポに逮捕される。マルグリットは夫を取り戻すためにゲシュタポの手先のラビエ(ブノワ・マジメル)の力を借り、恐ろしい危険に身を投じることを決意する。愛する夫の長く耐えがたい不在はパリの解放後も続き、心も体もぼろぼろになりながら夫の帰りを待つマルグリットだったが…。 

監督:エマニュエル・フィンケル
出演:メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメル、バンジャマン・ビオレ
原作:マルグリット・デュラス「苦悩」
原題:La Douleur 英題:メモワール・オブ・ペイン
2017年/フランス・ベルギー・スイス/フランス語
配給:ハーク

★2019年2月22日(金)よりBunkamuraル・シネマにて全国順次公開


—マルグリット・デュラスの「苦悩」を映画化しようと思ったのはなぜですか。

25歳頃にこの小説を読んで以来、ずっと映画化したいと思っていたのです。実は、1942年に父の両親と弟がドイツ軍に捕まり、収容所に連れていかれました。父はずっと彼らの帰りを待っていたのです。それがマルグリット・デュラスと重なるところがあると感じました。

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—お父さまの体験やエピソードをこの映画に盛り込んでいますか。

収容所から戻ってきて、治療を受けている人たちにロベールの消息を聞くシーンがあります。そこに写真を手にした若い男性が入ってきて「この家族を見ませんでしたか?」と聞くのですが、あの男性は私の息子で、持っている写真は私の父方の祖父母です。パリ解放の後、父も同じように自分の家族を探していたそうです。

—デュラス役にメラニー・ティエリー、ラビエ役にブノワ・マジメルをキャスティングした決め手を教えてください。

この作品のためにフランスの有名な女優15人くらいをカメラテストしたのですが、メラニーから参加したいと申し出がありました。メラニーには2016年2月にフランスで公開された『正しい人間』に小さな役で出てもらい、素晴らしい女優だと思っていました。ただ、身体的に合わないのではないかと思っていたのです。しかし、カメラテストをしたところ、デュラスにぴったり。彼女だと思いました。
ブノワ・マジメルとは一緒に仕事をしたいと長い間、思っていました。しかも、彼は年齢を重ね、ちょっと恰幅がいい身体になってきて、それがまさに戦争の時に、敵に協力して、いい生活をしていた人たちの身体にぴったり合っていたのです。一方で顔はすごくティーンエイジャー的な脆い、線が細い人間味のある顔もしています。その両方を合わせている彼が魅力的で、ラビエにとても合うと思いました。

—メラニーが身体的に合わないというのは、デュラスの身体的特徴と似ていないということですか。

デュラスもメラニーも小さく、細めな人だったので身体的には似ていたのですが、顔の形が全然似ていなかったのです。ただこの映画では、似ている人物としてデュラスを描くということを意図しているわけではなく、戦争の裏には待っている女性がいるということを描きたかった。これはどの女性にもあてはまることですが、あまり語られていません。

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—この小説を映像化するにあたり、難しかったのはどんなところですか。

死の収容所から戻り、痩せ細って死にそうだったロベールがデュラスの看病を受けて元気を取り戻す。原作ではこの部分も描かれていますが、映画では割愛しました。嘘をつかず、胡麻化さずに映像にすることができなかったのです。
また、映画化するのに、マルグリット・デュラスの書くリズム、その作風を大切にしました。

—監督はデュラスをどんな女性としてとらえ、描きましたか。

この小説を映画化する際、まず考えたのは、デュラスがバランスを崩してしまっているのをしっかり描くということ。彼女はとても知的な人です。自分の気持ちと理性に矛盾があることをはっきり感じています。彼女が作品の中で「私は自伝的なものを書いている。それとともにたくさん創造の産物を描いている」と言っているように、現実の部分と小説としての作り上げられている部分の両方があるのです。ただ、この作品ではわざと、どちらが現実で、どちらが作り上げられたものなのか、わからなくなるようにしていますけれどね。それは彼女自身の葛藤でもあり、だからこそ、作品に彼女が2人現れて、1人は起こることをそのまま受け止めて生き、もう1人はそれを客観的に見ています。

—マルグリットのモノローグでストーリーが展開していくため、メラニー・ティエリーは演じているときにはあまりセリフがありません。表情だけで感情を引き出すために、監督からメラニー・ティエリーにどのような演出をしましたか。

普通は女優がセリフを言って、監督が聞きます。しかし、この作品では私がメラニーに語りかけ、それを聞いたメラニーが反応する。だから、感情が自然なのです。メラニーが私の言葉を咀嚼して、自分の内面を表現するので、ちょっと時間差はありましたけれどね。
大切なことは、女優が役になりきることです。役を解釈して演じるのではありません。

—正面からではなく、フレームからはみ出るくらいにアップで横や後ろから撮る。鏡やガラスに映った姿で人物を映す。この演出の意図をお聞かせください。

観客がデュラスの頭の中に入っていくような映画にしたい。それによって、彼女の主観が伝わってくるようにする。それがこういう手法を使った理由の1つです。
また、私たちの周りには鏡やガラスなど多種な素材があり、その中を自分の考えや精神が漂っているというか、それを見ながら生活をしています。そういったことに取り巻かれているという実態も映画の中で見せたいと思いました。

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—パリが解放されて、外では人々が歓喜にあふれているとき、マルグリットは1人部屋に籠ってラジオを聞いていました。そのときに聞こえてきたのが、日本の紹介です。なぜ、そこで日本を紹介する話を流したのですか。

過去のラジオ放送をたくさん聞いて、見つけました。長崎と広島に原爆が落とされる前の日本のことを語っています。この映画のラスト近くで、デュラス自身も言っていますが、あの頃はまだ、ユダヤ人があのようにひどい状態で虐殺されたことは知られていませんでした。同じように、長崎と広島で野蛮な行為が行われたのを知らないまま、日本を語る。世界で起こったおぞましいことをまだ知らなかったということをかけているのです。
また、デュラスが初めて書いたシナリオ「ヒロシマ、モナムール」に敬意を表しています。この作品は恥の気持ちを描いていて、「苦悩」にとても近い。通じるものがあると思いました。

—監督は、クシシュトフ・キェシロフスキやジャン=リュック・ゴダールといった独特な映画作りされる監督の助監督をされていました。それぞれの監督から影響を受け、学んだことはどんなことでしたか。

この二人はとても偉大な映画監督で、非常に力強い。特にゴダールは独特な撮影哲学を持っています。光や照明、動きの見方など、ものすごくいろいろなことを学びました。もちろん直接、教えてもらったのではなく、20年近く彼の助監督として一緒に仕事をしながら、彼のやり方を見て学んだのですけど。もちろん、ほかの多くの監督からもいろいろと学ぶところはありましたが、いちばん学んだのは、やはりゴダールですね。

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—日本の映画で好きな作品、好きな監督はいますか。

私は溝口健二監督や小津安二郎監督、黒澤明監督の作品をしっかり見て育った世代です。若いころは小津監督の最後の5作品は完全に暗記していました。アメリカで言えば、黒澤がジョン・フォードで、小津がジョン・カサヴェテスにあたるでしょう。彼らの作品が私たちを育て、作り上げたと思います。残念ながら、今の日本の監督はあまり知らず、見ていません。

—映画化してみたい小説はありますか。

ドストエフスキーの「二重人格」は面白いのですね。そのまま映画化するのではなく、「二重人格」をもとにして、いつか別の作品を作りたいと思っています。
(文・構成:堀木三紀)

『盆唄』中江裕司監督インタビュー

辛く、悲しいときでも故郷の歌が支えになる

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ドキュメンタリー作品『盆唄』が2月15日(金)に公開される。
盆唄とは盆踊りの唄のこと。震災後、今も散り散りに避難生活を送る福島県双葉町の人々は先祖代々守り続けてきた伝統「盆唄」の存続に危機感を抱いていた。そんなとき、100年以上前に福島からハワイに移住した人々が向こうで盆踊りを伝え、今もフクシマオンドとして日系人に愛され、熱狂的に踊られていることを知る。
双葉町の人々が土地に根差すルーツと伝統を絶やすまいと奮闘する姿を3年の歳月をかけて追ったのは『ナビィの恋』の中江裕司監督。公開を控え、中江監督に作品への思いを聞いた。

<中江裕司監督プロフィール>
1960年11月16日生まれ。 京都市に生まれ、その後沖縄に移住。92年、オムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』の1編を監督。同作品はベルリン映画祭フォーラム部門に選ばれた。99年には単独の長編映画『ナビィの恋』を監督。 同作品もベルリン映画祭フォーラム部門に選ばれ、興行面でも成功を収めた。その後も劇映画とドキュメンタリーを交互に発表し、現在までに9本の映画を監督。『ホテル・ハイビスカス』(02)はベルリン 映画祭キンダー部門に選ばれた。その他の作品に『白百合クラブ東京へ行く』(03)、『恋しくて』(07)、『真夏の夜の夢』(09)等がある。また05年には、那覇市内の閉館になった映画館を「桜坂劇場」として 復活させ、映画上映のみならず、ワークショップやライブ、市民講座も企画。沖縄文化の発信地となっている。

『盆唄』
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第19回 東京フィルメックス 特別招待作品
2015年。東日本大震災から4年経過した後も、福島県双葉町の人々は散り散りに避難先での生活を送り、先祖代々守り続けていた伝統「盆唄」存続の危機にひそかに胸を痛めていた。そんな中、100年以上前に福島からハワイに移住した人々が伝えた盆踊りがフクシマオンドとなって、今も日系人に愛され熱狂的に踊られていることを知る。町一番の唄い手、太鼓の名手ら双葉町のメンバーは、ハワイ・マウイ島へと向かう。自分たちの伝統を絶やすことなく後世に伝えられるのではという、新たな希望と共に奮闘が始まった。
映画は福島、ハワイ、そして富山へと舞台を移し、やがて故郷と共にあった盆唄が、故郷を離れて生きる人々のルーツを明らかにしていく。盆踊りとは、移民とは。そして唄とは何かを見つめ、暗闇の向こうにともるやぐらの灯りが、未来を照らす200年を超える物語。

監督:中江裕司
撮影監督:平林聡一郎
編集:宮島竜治・菊池智美
アニメーション:池亜佐美
出演:福島双葉町のみなさん、マウイ太鼓ほか 
声の出演(アニメーション):余貴美子、柄本明、村上淳、和田總宏、桜庭梨那、小柴亮太
配給:ビターズ・エンド 
©2018テレコムスタッフ 

★2月15日(金)よりテアトル新宿ほか全国順次ロードショー!フォーラム福島、まちポレいわきも同時公開!

―双葉町の盆唄の映画を作ることとなったきっかけをお聞かせください。

写真家の岩根さんからの依頼でした。「福島の盆踊りをやっている人たちの写真を撮っています。彼らをハワイに連れて行きたいと思っていますが、映画にできませんか」と相談を受けたのです。でも最初の3〜4年は断っていました。僕は双葉町の人やハワイに縁がなかったので、自分が撮る理由が見つからなかったのです。
その頃、全く違うところから頼まれて、ハワイの日系移民ドキュメンタリーを2本撮りました。ハワイに何回も行き、知り合った日系移民の方から話を聞き、気持ちがわかってきたタイミングで岩根さんから再度、依頼を受けて引き受けました。
僕は縁を大事にして、仕事をしてきました。岩根さんには『白百合クラブ東京へ行く』にスチールで参加してもらいましたが、あの作品は唄を撮っています。今回も「唄が撮れる監督だからお願いした」と言われて、唄とハワイに縁を感じたのが大きかったですね。
ただ、すぐには確信が持てませんでした。そこで、まずはカメラマンを連れて、岩根さんに紹介された横山さんを訪ねたのです。そこで、横山さんが思いを語り始め、彼の人となりを感じたときに、これは映画になるし、映画にしなきゃいけないと確信しました。

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―構成を決めてから、撮り始めたのではないのですね。

映画は娯楽だと思っています。見た人にとって、面白いことが大事。ただ、面白いには解釈がいろいろあって、「難しいことを考えるのも面白いのうち」と僕は考えています。そして、映画は何かが動いていくといいものになる。ドキュメンタリーの場合は特にそれが必要です。双葉町の人々が故郷に帰れずバラバラになっている状況から撮り始めれば、何か動くのではないか。そう考えていました。

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―完成までに3年かかりました。

ドキュメンタリーは撮り始めるのは簡単。しかし、撮影を終わらせるのは難しい。脚本を全部撮ったら終わりの劇映画と違い、ドキュメンタリーの場合はこれで撮れたという実感を得るのが難しいのです。だから、いつまでも撮り続けてしまう。
この作品も簡単に撮れるものではないと思っていたので、10年くらいは覚悟していました。3年で完成したときはほっとしましたね。

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―双葉町が舞台のドキュメンタリー作品と聞くと、原発に関する内容と勝手にイメージしてしまいますが、盆唄がメインなのですね。

盆踊りはコミュニティの中で行われるものです。双葉町はそのコミュニティがバラバラになっていて、みんなで集まることができません。双葉町の人たちが盆踊りをどうしていくのか。ここに焦点を当てました。

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―アニメーションで双葉町の歴史を説明していましたが、とても分かりやすかったです。

福島県は浜通り、中通り、会津の3つの地域に分かれます。双葉町は浜通りですが、その浜通りの郷土資料を調べたところ、天明の大飢饉のときに越中富山、加賀から移ってきた人がいると分かりました。しかし、移ってきた人たちは「加賀もんのところには水をやらない」、「嫁はやらない」、「火葬をするなんて恐ろしい」といろいろ言われて、長い間差別されていたそうです。それでも、長い時間をかけて土地に馴染んでいきました。
その人たちの子孫が放射能汚染で、どこかに行かなくてはならない。10年ぐらいの時間で考えると絶望的な現実がある。しかし、50年、100年スパンで物事を考えていったら、新しいところでいろんなことが芽吹いていく可能性がある。それがこの映画の救いになると感じて、アニメーションの部分を作りました。あれは双葉の皆さんへのメッセージでもあります。

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―横山さんが「伝統文化というものはずっとやってきて、あるとき自分が盆踊りそのものになる。突然なるので、意識していてはなれない」と語っていました。この言葉をどのように受け止めましたか。

あの言葉を聞いたときは「うぉお!」と思いましたね。盆唄ってものすごく単調。それを繰り返して、1曲で2時間くらい演奏しています。横山さんや今泉さんは「同じリズムを続けているうちに脳が揺さぶられる感じになって、みんなが無になる」と言っていました。
映画の最後に盆唄の演奏シーンを20分くらい入れたのは、観客の皆さんの脳を揺さぶり、全て忘れて、ただ身を委ねてもらいたいと考えてのことでした。

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―やぐらの競演の後、真っ暗な中にやぐらが浮かび上がるような演奏があり、そこでは横山さんが太鼓を打っていました。

ご先祖様や震災で亡くなった方も参加しているような演奏にしたいと思って、真っ暗な中で撮りました。だから演奏だけ映して、踊り手は映さない。お囃子は、双葉町の人々の声を入れました。
ご先祖様や亡くなった人も一緒にいる、50年後、100年後の風景だと思って撮っていました。

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―これからこの作品をご覧になる方にひとことお願いいたします。

故郷はすべてを受け入れてくれる母なる場所。そんな大切な故郷を離れるときは誰にでもあります。たとえ、それが人生において辛かったり、悲しかったりする場面であっても、故郷の唄があれば、それが支えになって、新しい土地で根付き、花開いていくことができる。そう思って、この作品を作りました。ご覧いただけるとうれしいです。
(インタビュー:堀木三紀)