母から子へ チェーンのように繋がる命
洗骨とは、風葬された死者が骨だけになった頃に、縁深き者たちの手によって骨をきれいに洗ってもらう風習のこと。沖縄諸島の西に位置する粟国島などには残っているとされる。
この風習を「ガレッジセール」のゴリが短編映画「born、bone、墓音。」で取り上げ、ショートショートフィルムフェスティバル&アジア(SSFF&ASIA)2017のジャパン部門賞グランプリを受賞するなど、高い評価を受けた。
その短編をゴリが本名の照屋年之名義で監督をし、長編として生まれ変わらせたのが、映画『洗骨』である。洗骨を通して、それぞれに問題を抱えていた家族が再生していく姿をコミカルに描いた。主演は奥田瑛二で、筒井道隆、水崎綾女、大島蓉子、坂本あきら、鈴木Q太郎、筒井真理子が脇を支える。
公開を前に、照屋年之監督に映画を撮り始めたきっかけや洗骨に対する印象、作品に対する思いを聞いた。
<照屋年之監督プロフィール>
芸名:ガレッジセール・ゴリ。
1972年5月22日沖縄県那覇市出身。
日本大学芸術学部映画学科演劇コースを中退後、中学の同級生だった川田広樹とお笑いコンビ、ガレッジセールを結成。テレビ番組を中心に活躍し、2005年には「ゴリエ」のキャラクターで大ブレイクし、「第56回紅白歌合戦」では歌手として出場。その後は俳優としても活躍の場を広げ、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」では主人公の兄役を好演。06年、短編映画『刑事ボギー』で監督デビューを果たす。『born、bone、墓音。』(16)は、ショートショートフィルムフェスティバル&アジア(SSFF&ASIA)2017のジャパン部門賞グランプリ、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2017でも観客賞を受賞するなど高い評価を受け、芸人、俳優、映画監督と多岐に渡り、活躍している。
『洗骨』
<story>
沖縄の離島、粟国島・粟国村に住む新城家。長男の新城剛(筒井道隆)は、母・恵美子(筒井真理子)の“洗骨”のために、4 年ぶりに故郷・粟国島に戻ってきた。
実家には、剛の父・信綱(奥田瑛二)がひとりで住んでいる。生活は荒れており、恵美子の死をきっかけにやめたはずのお酒も隠れて飲んでいる始末。
そこへ、名古屋で美容師として活躍している長女・優子(水崎綾女)も帰って来るが、優子の様子に家族一同驚きを隠せない。様々な人生の苦労とそれぞれの思いを抱え、家族が一つになるはずの“洗骨”の儀式まであと数日、果たして 彼らは家族の絆を取り戻せるのだろうか?
監督・脚本:照屋年之
出演:奥田瑛二、筒井道隆、水崎綾女、大島蓉子、鈴木Q太郎(ハイキングウォーキング)、筒井真理子
配給:ファントム・フィルム
©『洗骨』製作委員会
2019年1月18日(金)から沖縄先行公開、2月9日(土)から全国公開
―映画を撮り始めたきっかけについて、お聞かせいただけますか。
吉本興業が芸人に映画を撮らせるというプロジェクトを立ち上げたのです。何人かの芸人に声を掛け、そのうちの1人が僕でした。僕が日本大学芸術学部映画学科に通っていたからでしょう。15分くらいの短編映画『刑事ボギー』で監督デビューしました。
—日本大学芸術学部映画学科に入学されたということは、元々監督志望だったのでしょうか。
僕は演者志望で、演技コースでした。でも、映画の基本的な授業はみんな一緒に受けますから、学ぶ内容に大きな差はないと思います。とはいえ、僕は3年生になる前に大学をやめてしまったので、ほぼ独学です。
人は生きている中で、映画やドラマを見ています。その積み重ねが授業みたいなもの。役者に寄りで撮ったり、引きで撮ったりするのはどんなときか。その事をロジックに説明できないだけで、感性さえあればわかるので、現場は回ります。カメラマンに「この辺を撮ってほしい」、「もうちょっと寄ってください」とか言うだけでいいんです。
—映画作りは順調に進んだのですね。
そんなことはありません。『刑事ボギー』で初めて脚本を書きましたが、15分の短いストーリーであっても、飽きさせない物語の起承転結ってこんなに難しいんだと思い知らされました。これまで書いてきたコントとは違う。そして撮影に入っても、カメラマンに画角の指示が出せない。照明マンにいい塩梅の明るさが伝えられない。演者の演出の仕方が分からない。寒い冬にすべて外ロケ。朝から撮って、夜10時に終わる予定が6時間も押して、終わったのが朝の4時。現場でも苦戦の連続でした。現場のスタッフ、演者、みんなの顔にストレスが出ている。精神的に追い込まれて、「2度と映画を撮らない」と思いました。
—それなのになぜ、また映画を撮ることにしたのでしょうか。
編集で物語が繋がっていく快感を味わってしまうと、また撮りたくなるのです。
まず、僕が書いた脚本で、僕の頭の中にしか存在しなかった世界を読んだ人が共有できるようになる。でも、頭の中に描いている主人公のイメージはみんなそれぞれ違う。役者さんを使って具現化していき、1つのイメージにするのが映画です。この面白さを知ったら、やめられない。依存性があるから、映画作りは違法にしたほうがいいです(笑)。
—編集にはグレーディングなどの専門知識が必要なのではありませんか。
グレーディングはカメラマンがやってくれます。例えば「この青を濃くすると海が映えると思うので、こういう風にしてみたんです」と、編集する前と後を見せてもらって、いいと思えば、変えてもらえば済むだけのこと。シーンの繋がりもそうです。終わり方が気持ち悪いと感じたら「もう半秒つまんでください」、「このセリフを入れ替えてください」などといえば、編集マンがわかっているのでやってくれます。専門的な知識がないから困ったということはなかったですね。
—これまでの全作品で監督と脚本をされています。ストーリーはどんな風に作り出しているのでしょうか。
12年近くやっていると映画作りも日常ですね。歩いているときに、ふとアイデアが浮かんでくる。そうしたら携帯のメモに書き留めておき、家に帰ったらパソコンに移す。継続的に短編の地域映画を撮るというのは決まっているので、そろそろ映画の時期が来たなと思ったら、パソコンに保管してあるアイデアからチョイスして、脚本に広げていきます。
—いわゆるネタ帳ですね。お笑いと映画ではネタ帳は別なのでしょうか。
お笑いと映画、それぞれ分けて、パソコンの中に入っています。お笑いのネタ帳は僕と相方の川田しか出てきません。2人でのやりとりです。一方、映画は物語ですから、登場人物をいくらでも増やすことができますし、減らすこともできます。
お笑いに寄り過ぎてしまうと非日常過ぎて、観客は感情移入しません。映画では日常で起こるおかしな出来事や共感できるポイントを作っていきます。作り方は違いますが、どうやったら人が喜ぶかという根本に流れている考えは、お笑いも映画も同じです。
—映画の中のくすっと笑ってしまうような笑いもベースは芸人としての笑いと同じなのですね。
芸人をやってきたからこそ、感動とお笑いのバランスが取れた作品を作ることを心掛けてきましたし、そこが僕の魅力と思っています。
ただ、笑わせるだけならコントをやっていればいい。映画は見応えが必要。そのために共感、感動、笑いを、バランスを考えて、作っています。
—監督の作品は共感と感動に、笑いがスパイスのように加えられているのを感じます。
人は自分のことを分かってほしいという承認欲求がありますよね。それが共感に繋がります。「これ、俺にも当てはまる」、「私はあの役に似ているかも」、「あそこでイライラするのが分かる」、「あそこで意見を言えなくなる気持ちわかるよね」といった日常における共感が大事だと思うんです。
僕の作品の登場人物は何かが欠けている、完璧ではない人が多い。みんなが「弱いのは自分だけじゃない。みんなも弱い。じゃあ俺もそれを背負った上で明日を一生懸命に生きていこう」と思ってもらえるといいですね。自信を持てないコンプレックスや寂しさという弱さの共感を意識して作っています。
—本作で奥田瑛二さんが演じた父親は本当に情けなくて、びっくりしました。こんな奥田瑛二さんは初めてです。なぜ、奥田瑛二さんをキャスティングしたのでしょうか。
奥田瑛二さんご自身からも「なんで俺なんだ」と言われました。「目の奥にある寂しさです」と答えたら、一瞬黙って、「それは役者に言ったらダメだよ。目って言われたら、役者はいちばんうれしいんだから」と言われました。
奥田さんは酒を飲んだらエロ爺ですが(笑)、目の奥にこれまでの生き様というか、ふっと寂しさが見えたのです。それをこっちが引っ張り出せばいいんだと気がついたら、信綱という役に確信が持てたんです。そして奥田さんは見事に信綱を演じてくれました。
—キャスティングする前から目の奥に見える寂しさに気がついていたのですね。
『GOEMON』という作品でご一緒したときの打ち上げで、酔っ払ってくだらない話をいっぱいしたのですが、ふと見せる寂しい目が僕の記憶に残りました。
—信綱役は奥田瑛二さんを当て書きしたのでしょうか。
まずはざっくりと全体的ものを作り、そこからみんなでキャスティング会議を開きました。「この人がいいんじゃないか」という話を出していって、みんなが「いいね」といったところでオファーをしたのです。僕が最初から決めていたわけではありません。
―2006年の『刑事ボギー』以来、ずっとゴリ名義で監督をしていましたが、本作から本名の照屋年之ですね。
この作品もゴリ名義でやろうと思っていたのですが、短編『born、bone、墓音。』を長編にするように言ってくれた吉本興業の上層部の方に「名前はどうするの」と聞かれ、「何も考えていないです」と答えたら、「本名でいいんじゃない」と言われました。
その言葉が僕の中でしっくりきました。確かに、映画の現場にいるときはガレッジセールのゴリ感はゼロなんです。
ゴリであるときは見られているという、人の目を意識しています。見られているから、ゴリとしての表情をサボるわけにはいかない。何かしゃべらなきゃいけない。場を和ませるひとことを言わなきゃいけない。仕事モードですね。でも、監督をやっているときはタレントのオーラがなくなります。現場をご覧になったらわかると思いますが、ゴリ感は一切ないです。ひとりの映画監督で、次はどう演出しようかと考えているだけ。だから、照屋年之でいいじゃないかといわれて、何の抵抗感もなく、そうですね、と答えていました。
もちろん、ゴリが撮ったといった方がわかりやすい。照屋年之って誰だよと言われるかもしれません。でも、名前を売る気はないので、作品を面白いと思ってもらえれば、それで十分。監督としては今後も照屋年之でやっていくつもり。自分が演者として出るときだけ、ゴリの名前を使えばいいと思っています。
―洗骨は粟国島の風習で、沖縄本島ご出身の監督もこの作品の原案となった『born、bone、墓音。』のときに知ったとのことですが、初めて聞いたときはどう思いましたか。
正直、最初は「人をミイラにして洗うなんて怖い!」と思いました。沖縄出身の僕ですら知らなかった風習です。しかし、よくよく聞いたところ、昔は沖縄全土でやっていたとのこと。僕の祖先も遡るとやっていたわけです。しかも、このご時世に、今でもやっているところがある。怖いもの見たさで、どういうことをやるのか、聞きたくなりました。で、聞いてみたら、家族をここまで大事に思っているんだという愛にあふれた風習だったのです。洗骨の話は島民の方に聞けば聞くほど、絶対に映画にしたいと気持ちは固まりました。
—『洗骨』という文字のイメージとはかなり違いますよね。
みんな勘違いするんです。いい意味で裏切られますよね。このタイトルでは来ない人もいるのではないかと、何度もスタッフと話し合いました。もっと柔らかく、『骨とワイシャツと私』みたいな楽しいタイトルがいいかもしれないとも考えました。でも、とっても素晴らしい映画なのに、それでは安っぽくなってしまう。悩んで悩んで、洗骨なんだから『洗骨』でいいんじゃないかと落ち着いて、勝負に出ました。この裏切りも気持ちいいと思ったのです。
笑って、泣けて、また笑う。笑いと感動の往復リレー。命を繋ぐということで、女性が軸になっているので、女性の方から「映画を見て考えさせられた」と言われますが、男性も男性で母親のことを考えた人が多いようです。
—監督がこの作品でいちばん伝えたいことは、「命を繋ぐ」ということでしょうか。
亡くなった母のことを思いながら、脚本を書きました。
母が亡くなったとき、僕は遺体の横に寝そべって2日間過ごしました。添い寝しながら母の頭を撫でたりしていたのです。そのときに「この人がいたから俺が生まれた。この人がいたのは、ばあちゃんがいたから。ばあちゃんがいたのは、ばあちゃんの母ちゃんがいたから」と、どんどん遡っていったら、命のチェーンが僕の中で繋がったのです。
人間は死が怖い。しかし、死は誰にでも、いつか訪れるもの。当たり前の摂理です。自分が死んでも新しい命が生まれてくるから、自分もチェーンの中の1つの命として繋がっている。それで、そういうセリフを脚本に入れました。母ちゃんがこの脚本を書かせてくれたと思っています。
—監督が今、話しているときのお母さまの顔に触れる身振りで、冒頭のお葬式シーンの娘の優子を思い出しました。
そうかもしれません。僕もずっと母の髪と頬を触っていましたから。
髪っていいですよね。気持ちの再生の部分で息子と父親が髪を切るシーンを描きたかったので、逆算して優子を美容師にしました。母親が亡くなったときに髪を切り、死に化粧をしたから髪を触っている。逆算から生まれた演出です。僕の中で髪に対する思い入れや意識が強いのかもしれません。
そういえば、うちの母ちゃんがよく、作品の母親のように髪をバレッタで結わえていたんですよ。
—今の監督の仕草で鈴木Q太郎さんが遺品のバレッタで髪を結わえて振り返るシーンを思い出しました。
ああいうボケを入れるのが好きです。
―Q太郎さんが演じる本土の人間が観客の視点で、洗骨について質問したり、驚いたりしてくれたので、スムーズに話が理解できました。狂言回し的な役割を果たしていますね。
まさに観客に情報を橋渡しするために作った役です。あとは笑わせて、癒しですよね。ちょっと肩の力を抜いてくれる。そういう意味で重要な役でした。
—Q太郎さんの役は、てっきりディーンフジオカみたいなイケメンが演じるかと思っていました。
(パンと手を叩いて)そうなんですよね。彼が出てきた瞬間に、そこにいたみんなが「お前かい!」って顔をするのがいいんです。お笑いのフリとオチです。まんまとお笑いの罠に引っかかりましたね(笑)。
―そのQ太郎さんがおっかなびっくり、この世とあの世の境界線を越えるシーンが印象的でした。
あそこは本当にこの世とあの世の境目ですからね。粟国島の人はあそこから向こうをあの世という考え方で実際に生活しています。
—撮影であの世に入ってもいいのですか。
大丈夫です。粟国島の人は普通に、この世とあの世を行ったり来たりしています。集落がないので、行く用事はそんなにありませんが、あの先に展望台があるので、そこに行く時は車で境界線を越えて行きます。
粟国島の人たちがあの世を重く考えていない感じが好きでした。だから、信綱の姉である信子に「あの世ってこんなもんなのよ。あなたたちが怖いって思っているようなものではない」と言ってもらいました。
―今後も映画を撮っていかれることと思いますが、次はどんな作品を考えていらっしゃいますか。
笑いを入れるのは僕の持ち味ですが、人が持っている弱さ、寂しさも大事にしたい。映像を通して、そういう寂しさの共感、弱さの共有といったものを観客と一緒に感じる、人間ドラマを撮っていきたいですね。
映画を撮るのは10数年継続してやってきていることなので、今年もまた、夏以降に撮るでしょう。基本は短編ですが、もうちょっと短いスパンで長編も撮っていこうと思っています。
(インタビュー:堀木三紀)