映画『居眠り磐音』 “大入り”御礼舞台挨拶レポート

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『居眠り磐音』を見るなら女性はメイクポーチが必須
連れの男性はメイク直しを待つ心の余裕を持ってほしいと
木村文乃がアドバイス


松坂桃李が“時代劇初主演”を務めた『居眠り磐音』が5月29日(水)に新宿ピカデリーで“大入り”御礼舞台挨拶を行った。登壇したのは主人公の磐音を演じた松坂桃李、磐音が江戸で住む長屋の大家の娘・おこんを演じた木村文乃、本木克英監督の3人。松坂の紺のスーツに合わせたかのように、木村は青いノースリーブのワンピースで登場。和服とは違った美しさを披露した。監督はシンプルな黒のスーツだった。
なお、舞台挨拶を前に、スクリーンの入口で松坂と監督がサプライズで観客を出迎え、大入り袋を直接手渡した。観客のほとんどが女性。松坂が「ありがとうございます」とはにかむような笑顔で感謝の言葉を口にしながら手渡そうとすると、驚きのあまり、立ち止まる、後ずさりする、うれしさのあまり動かなくなる、「応援しています」と話しかけるなど反応はさまざま。しかし、誰もがうれしそうだった。ちなみに監督も手渡すはずだったが、手前に松坂が立ったため、みなが松坂から受け取り、監督は補充係と化していた。しかし、穏やかな顔で横に立ち、監督の人柄の良さがにじみ出ていた。
(舞台挨拶詳細は作品情報の後に)

<映画『居眠り磐音』 “大入り”御礼舞台挨拶>
日程: 5月 29 日(水)
場所:新宿ピカデリー スクリーン1 (東京都新宿区新宿3-15-15 )
舞台挨拶登壇者:松坂桃李、木村文乃、本木克英監督

『居眠り磐音』
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<STORY>
友を斬り、愛する人を失った。 男は、哀しみを知る剣で、悪を斬る。
主人公・坂崎磐音(松坂桃李)は、故郷・豊後関前藩で起きた、ある哀しい事件により、2人の幼馴染を失い、祝言を間近に控えた許嫁の 奈緒(芳根京子)を残して脱藩。すべてを失い、浪人の身となった。江戸で長屋暮らしを始めた磐音は、長屋
の大家・金兵衛(中村梅雀)の紹介もあり、昼間はうなぎ屋、夜は両替屋・今津屋の用心棒として 働き始める。春風のように穏やかで、誰に対しても礼節を重んじる優しい人柄に加え、剣も立つ磐音は次第に周囲から信頼され、金兵衛の娘・おこん(木村文乃)からも好意を持たれるように。そんな折、幕府が流通させた新貨幣をめぐる陰謀に巻き込まれ、磐音は江戸で出会った大切な人たちを守るため、哀しみを胸に悪に立ち向かう。

出演:松坂桃李、 木村文乃 、芳根京子、 柄本佑、 杉野遥亮、 佐々木蔵之介、 奥田瑛二、 陣内孝則、 石丸謙二郎、 財前直見、 西村まさ彦、谷原章介 、中村梅雀、 柄本明 ほか
監督:本木克英
原作:佐伯泰英「居眠り磐音 決定版」(文春文庫刊)
脚本:藤本有紀
音楽:髙見優
主題歌:「LOVED」MISIA(アリオラジャパン)
製作:「居眠り磐音」製作委員会
配給:松竹
©2019映画「居眠り磐音」製作委員会


松坂が忙しさのあまり日曜日と勘違い
舞台挨拶は松坂がうっかり日曜日と勘違いし、連ドラの撮影などで忙しく、曜日の感覚がなくなっていることを恥ずかしそうに告白することからスタート。「公開してしばらく経ってから、またこうして来ていただけてうれしいです」
続いて、木村はまた舞台挨拶ができたことに感謝の言葉を述べた後、「居眠り磐音をたくさん愛して、みなさんの心に留め置いて、いえ、留め置かなくても広めていただいても大丈夫なんですが(笑)、これからも好きになってください」
最後に本木監督は「大入り袋配布のときに8回見たといっていた人がいた」と喜びを語った後、「見ていただいた方の話を聞くと居眠り磐音が心に残る作品になったのではないかと感じています」と挨拶した。

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ひとりひとりの目を見て感謝の言葉を言えるのは貴重な機会

大入り袋のサプライズ配布の話になると、松坂は11回見たと言っていた人がいたことに驚き、「僕らより見ている。僕らよりセリフが言えるんじゃない?」というと、監督も「私よりディティールに詳しいんじゃない?」と続けた。そして松坂が「直接、ひとりひとりの目を見て感謝の言葉を言えるのは貴重な機会だなと思いました」と答えると、本木監督が「みなさんの目が松坂さんを見て、驚きとともに喜びでキラキラと輝いていましたね。いいものだなと思いながら、横で見ていました(笑)」と重ねた。

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磐音は愛されるニューヒーロー

公開から2週間ほどが経過し、総動員数が24万人を超え、31名の著名人からコメントが届いていると司会が伝えると、はるな愛のコメントがスクリーンいっぱいに映し出された。

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そこには「 愛する人、家族、友達に対してこんなにまっすぐに向き合ったことがあるでしょうか? 人の思いが重すぎるほど見えてくる愛を教えてくれた映画でした。殺陣のスピード感、景色の綺麗さ、桃李くんのカッコ良さ、この作品は時代劇を好きになっていく、いいきっかけになると思います」と書かれていた。それに対して、松坂は「本当にありがたいですね。これだけ影響力のある方にこうして発信していただけるのは、 より時代劇を知るきっかけにもなるのでうれしいです」とコメントすると木村が「公式なものでは苗字で呼ぶのがスタンダードなのかなと思いますが、桃李くんといっているあたり、はるなさんの重すぎる愛を感じました(笑)。それくらい愛されるニューヒーローなんだなと思いました」と続けた。本木監督は「最近、時代劇は敷居が高いと敬遠されがちだったが、磐音をきっかけに、時代劇の美しさや深い感情の表現を感じてもらえるとうれしい。はるな愛さんは演出意図を分かっていただけたのを感じます」とコメントに対する喜びを表現した。

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感想コメントを聞き、「監督の演出意図がしっかり伝わった」と松坂

続いて、北斗晶のコメント「昔から、私が思う本当に強くて優しい男は【無口で孤独】。正に坂崎磐音は、私が思う本当に強い男そのものでした。 時代劇の映画は数々観てきましたが、この時代ならではの、こんなに切なくて淋しくて…どうしたらいいんだろう? と考えさせられる映画は初めてでした。そして衝撃過ぎる結末とそれでも諦めない人を愛する心に号泣でした」が映し出され、女性を中心に涙を流した人が多かったようだと司会が一般の人の似たような感想を読み上げた。それに対して松坂が「監督の演出で意図したものがしっかり伝わっていた」と反応すると、本木監督は「2人(松坂や木村)が磐音とおこんを演じてくれたから」と答えたが、木村が松坂との間を広げて「本当はここにもう一方いて、私は横からじーっと見つめているだけでしたからね」と自虐的に笑いを誘った。

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時代劇を撮ってきた先輩たちから「いいじゃん、松坂」と言われた監督

松坂は司会に女性からの反応を聞かれ、ちょっと戸惑いながらも、予告編が公開されたときに磐音が自分のことを“某(それがし)”と言っていたことをドラマの撮影の現場で照明部の男性からいじられていたことを告白。女性からの反応を問われていたが、さらりと男性との話にすり替えた松坂。その照明部の男性から「某って言ってたね」と言われたと、この質問を締めた。
木村は女性として感じることを問われ、「女性に観ていただきたい映画だなと思います。 ただ、女性は泣いてしまうので、カップル、ご夫婦で行かれたときはメイクポーチが必須。男性には化粧直しを待っている心の広さと余裕を持っていただいたら、その後のご飯がもっと楽しくなる」と男性へのアドバイスに繋げた。
監督は「時代劇を撮ってきた先輩方から、よくここまでちゃんとした時代劇にしてくれたとお褒めいただいた。『いいじゃん、松坂』と言われました」

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好きな気持ちを原動力に変える!

特別企画として「お仕事相談コーナー」が開かれ、会場からの仕事上の悩みに登壇者が応えた 。最初は松坂桃李ファンの女性から、「桃李さんがステキすぎて、磐音さまがステキすぎて、日中仕事に集中できないのですが、どうしたらいいですか」と苦しい胸の内の告白があると、松坂が「僕も撮影のときに、好きなアニメや週刊ジャンプについて考えてしまうことが確かにあります(笑) 。これが終わったらアニメを見る、これが終わったらコンビニに行ってジャンプを買おうとその気持ちを原動力に変えると、目の前の仕事に対して集中して、あっという間に時が過ぎると思います」と答えた。

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初めての環境に馴染むには名前を呼ぶことが大事

続いて、4月から働き始めた新社会人が「みなさんは新しい環境にはすぐに馴染めますか」と質問をした。それに対して、木村が「初めての環境は大変ですよね」と相槌のようなコメントをすると、 松坂が「我々は派遣みたいなものですから」と言った後、「スタッフさん同士が何と呼びあっているかをさり気なく聞いたりして、その名前で呼んでみたり、スタッフさんが会話で何かで盛り上がっていたら、自分もちょっと入ってみたりする。仕事に向き合っていれば心配なくスムーズに時間が経てば馴染んでいるじゃないでしょうか」。木村も松坂の答えに賛同し、「名前って魔法がありますよね。 積極的に名前を呼ぶと絆は強くなる」と答えると、質問者が「名前を早く覚えます」と返事をした。
ここで、松坂たちはいったん降壇し、大きな大入り袋を持って会場中央に再登場。フォトセッションをした後に、松坂が「本日はみなさん、ありがとうございました。こうやってもう一度舞台挨拶ができるということはみなさまの応援のおかげだと思っております。これだけ多くの方に支えられているんだなと改めて実感しております。もっともっと時代劇が多くの方に見てもらえるようにこれからも自分自身も精進していこうと思っておりますので、ぜひともこの『居眠り磐音』応援のほどよろしくお願いいたします」と締めて、大盛況のうちに幕を下ろした。
(取材:白石映子・堀木三紀、文:堀木三紀)

『僕はイエス様が嫌い』奥山大史監督インタビュー

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デビュー作から各国の映画祭で異なる反応を学べた幸運

公開初日から満席の快挙。その後も口コミ効果か日本有数のシネコンで好調な入りが続いている『僕はイエス様が嫌い』。鮮やかな監督デビューを飾った奥山監督に話を聞いた。

《プロフィール》
奥山大史(おくやまひろし)
1996年生まれ。映画美学校入学時から監督志望で、お笑いコンビ「FUJIWARA」の原西孝幸主演の短編『白鳥が笑う』(2015)、大竹しのぶ出演の短編『Tokyo 2001/10/21 22:32-22:41』(2018)を製作。GUのテレビコマーシャルも手がけた。
青山学院大学在学中に製作した長編デビュー作『僕はイエス様が嫌い』が、世界三大映画祭に続き権威があるとされるサンセバスチャン国際映画祭最優秀新人監督賞を受賞。第29回ストックホルム国際映画祭の最優秀撮影賞、第3回マカオ国際映画祭のスペシャル・メンションなど受賞を重ねた。既にフランス、スペイン、韓国での公開が決定している。


監督:監督・撮影・脚本・編集:奥山大史
出演:佐藤結良、大熊理樹、チャド・マレーン、木引優子、佐伯日菜子、ただのあっ子、二瓶鮫一、秋山建一、大迫一平、北山雅康

祖母と暮らすことになった少年ユラは、東京から地方のミッション系の小学校に転校する。毎日の礼拝に困惑する彼の前に、とても小さなイエス様が姿を現す。ユラ以外の人には見えないが、いつも彼の願いをかなえてくれるイエス様をようやく信じかけた矢先、彼に苦難が降り掛かる。

作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/465919453.html



ーー受賞おめでとうございます。映画祭上映では各国で反応が分かれたそうですが、どのように違いましたか?

上映された5カ国では、マカオが宗教文化が最も根付いていましたね。事前に入る質問に宗教的なものが多いので分かるんですよ。アイルランドのダブリンでは宗教的な質問は少なく、日本の映画自体に興味があるらしく、小津監督に関する質問とか聞かれました。他、スペイン、スウェーデンなど、カソリックの国とプロテスタントの国の違いがあるのかな?とも思いましたが、どこの国でもクリスチャンである観客に認められたのが嬉しいです。
共通していたのは、どの国もイエスが出てくるたびに爆笑が起こるんですよ(笑) 如何にも”ジーザス”という感じではなく、コミカルな動きをするのが面白かったみたいです。こちらは神に対する誤解を招きたくないと思ったのですが、その点の反発はありませんでした。

ーー紙相撲とか日本独特の遊びだと思うのですが、分かったのでしょうか?

分かったみたいですよ。笑ってましたね〜。それから紙幣=お金だということも分かったみたいです。お金は各国共通の概念ですからね。

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選んだ子役に共通した点

ーー子役たちの演技が自然体でいながら、きちんと台詞が聴き取れる発声をしていて感心しました。どのように選んだのですか?

70人くらいオーディションしました。玩具を与えてのびのびと遊んでるところを撮影したいと思っていました。主役の結良くんはずっと撮っていたい、という気持ちになったんです。

ーーそれはどういうところが決め手になったのでしょう?

小さい頃の自分に似てるというか…。別に敬語が使えるからいいという訳ではないんですが、結良くん以外でも大人に対してきちんと敬語が使える子を結果的に選びました。

ーー今のお答えで分かりました!どの子役も品が良いんですよね。メディア擦れしていないというか…。興味深いお話ですね。

台詞の音声については、自主製作では珍しくガンマイクだけではなく、一人一人にピンマイクを付けたから明瞭に聞こえたのではないかと思います。スタッフは以前から知っている人ばかりだったので、僕の方針を分かっており、音声・音量も理解してくれていました。
演出面では、リハーサルに時間をかけました。台本を渡さず、説明もしないんです。感情だけを伝えて演じて貰いました。結良くんと友だちがサッカーをする場面では好きに動いて反応したところを撮っています。
大人の俳優さんには脚本は見せましたけどね。

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屋外は基本的に自然光撮影

ーーロケ地はどのように選んだのですか?

群馬県にある雪の中の廃校で撮りました。この映画では雪国の空間といったイメージがずっとあったんです。

ーー撮影がとても美しいですね。元々カメラマン志望だったのですか?

監督を目指して映画美学校に入りました。写真が好きだったのでカメラは撮るうちに写真の延長線上にあり、面白くなったんです。

ーー撮影手法にこだわりはありますか?

構図は頭の中にあるので、なるべく絵コンテには縛られないようにしています。縛られないことで、子役を軸にして自由に動かせたんです。役者を入れた構図を考えています。
物や配色へのこだわりはあります。学校の渡り廊下を子どもたちが袋を持って歩きますが、それぞれどんな色の袋にするか、こだわったつもりです。

ーー自然光撮影のように見えましたが…。

屋外では自然の光線を活かしたいと思って、レフ板も使っていません。影が映ったら映ったでいいと思うんです。室内ではライトを使っています。
なるべく画角を広く取りました。結良くんがおばあちゃんと、おじいちゃんの仏壇へ手を合わせる場面では、仏壇の中へ小さいカメラを仕込んであります。紙相撲とか室内の場面は、窓から棒を付けたカメラで撮ったり、あまりカメラを意識しないで演技してもらうよう心がけました。

ーーワンカット長回しが効果的ですね。

本当は全てワンシーンワンカットで撮りたかったのですが、そういう訳にも出来なくて…。ただ、フィルムっぽい質感にしたいなと思っていました。統一感を出すために望遠で撮ったりしています。後からイエスとの合成をしなくてはならないので、編集のことも視野に入れ、大きな広角レンズを使い、パンフォーカスにしています。

ーー映像が作品世界を雄弁に語っていました。その理由の一端が理解できたような気がします。邦画では暫定1位の傑作だと思っています。これからのご活躍を期待しています。


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☆☆ 話を伺ったのは、晩春の午後だった。23歳の若い監督の門出を祝うようにピンク色の桜吹雪が舞う中、印象的なインタビューとなった。
(取材・撮影 大瀧幸恵)

『メモリーズ・オブ・サマー』アダム・グジンスキ監督インタビュー

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試練にさらされた親子の絆 母親と息子はどうなるのか

映画『メモリーズ・オブ・サマー』は母と子を結びつける特別な絆とその崩壊を軸に、初めての恋や友情、性を取り巻く感情に戸惑う思春期の痛々しさをサスペンスフルに描く。主人公のピョトレックを演じたマックス・ヤスチシェンプスキはワルシャワの小学校に通っていたときにグジンスキ監督に見いだされ、本作が俳優デビュー作。あどけなさが残る少年が精神的に成長していく様が瑞々しい。舞台となった1970年末ポーランドの音楽やファッション、インテリアが見事に再現されているのも見どころである。
公開を前に来日したアダム・グジンスキ監督に物語の着想や作品への思いを聞いた。

<プロフィール>
アダム・グジンスキ監督 Adam Guziński
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1970年、ポーランドのコニンに生まれ、14歳の頃、父親の仕事の都合で中央部のピョートルクフに移る。ウッチ映画大学でヴォイチェフ・イエジー・ハスの指導を受け、短篇「Pokuszenie」(96)を発表。続いて、父親のいない少年を主人公にした短編『ヤクプ Jakub』(97)がカンヌ国際映画祭学生映画部門で最優秀映画賞を受賞したほか、数々の映画祭で賞を受賞する。本作は、2007年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で開催された「ポーランド短篇映画選 ウッチ映画大学の軌跡」でも上映された。短篇「Antichryst」(02)を手がけた後、2006年、初の長編映画となる「Chlopiec na galopujacym koniu」を発表。作家の男とその妻、7歳の息子の静かなドラマを描いたこのモノクロ映画は、カンヌ国際映画祭のアウト・オブ・コンペティション部門に正式出品された。『メモリーズ・オブ・サマー』はグジンスキ監督にとって長編2作目となる。

『メモリーズ・オブ・サマー』(原題:Wspomnienie lata)

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1970年代末―夏、ポーランドの小さな町で、12歳のピョトレックは新学期までの休みを母ヴィシアと過ごしている。父は外国へ出稼ぎ中。母と大の仲良しのピョトレックは、母とふたりきりの時間を存分に楽しんでいた。だがやがて母はピョトレックを家に残し毎晩出かけるようになり、ふたりの間に不穏な空気が漂い始める。一方ピョトレックは、都会からやってきた少女マイカに好意を抱くが、彼女は、町の不良青年に夢中になる。それぞれの関係に失望しながらも、自分ではどうすることもできないピョトレック。そんななか、大好きな父が帰ってくる。

監督:アダム・グジンスキ
撮影:アダム・シコラ 
音楽:ミハウ・ヤツァシェク、
出演:マックス・ヤスチシェンプスキ、ウルシュラ・グラボフスカ、ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ

2016年/ポーランド/83分/カラー・DCP
配給:マグネタイズ 
© 2016 Opus Film, Telewizja Polska S.A., Instytucja Filmowa SILESIA FILM, EC1 Łódź -Miasto Kultury w Łodzi
公式サイト:http://memories-of-summer-movie.jp/
2019年6月1日(土)より YEBISU GARDEN CINEMA 、 UPLINK吉祥寺ほか全国順次ロードショー

作品紹介はこちらから

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―本作は監督のオリジナル作品です。物語の着想を得たきっかけをお聞かせください。

母親と息子、父親と娘という感情的に最も強い親子の結びつきが以前から気になっていました。これが試練にさらされるとどうなるか。
ポーランドでは1970年代後半、父親が母親と子どもを家に残して、外国へ出稼ぎに行くことがよくありました。そこで、この時代の母親と息子でストーリーを考え始めました。
私自身が子どもだった時代ですが、描かれている母親と息子の関係は私が経験したことではありません。子どもたちの関係性に私の周りで起きたことが反映されています。

―監督はウッチ映画大学でヴォイチェフ・イエジー・ハスの指導を受けたとのことですが、ハスの作品は幻想的な手法が取られています。この作品にも何か影響を与えていますか

ハスの指導の下で初めての劇映画を撮りました。ご存知のようにハスはヨーロッパの映画界でとても重要な人物です。ハスは言葉の力ではなく、映像の力で物語ることを学生に教えてくれました。俳優の顔を映す。いろいろなディテールを映す。たくさんのオブジェを組み合わせることで新しい文脈を作っていく。そもそもハスの授業のテーマはセリフなしの映画を作ること。カメラを使って映画の新しい可能性を見せてみろというのが課題でした。
ハスのことを尊敬し、たくさんのことを学びました。だからといって、この作品に直接、影響を与えたというような単純なことでありません。
世界には他にも多くの監督がいます。素晴らしい監督だけれど、私の創作には何の関係もない人もいます。そういう意味で言えば、ハスは私に影響を与えた、多くの監督の1人だとは言えます。

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―白いワンピース、白いテーブルクロス、白いシーツ。これらはアンジェイ・ワイダ監督へのオマージュでしょうか。

ワイダへのオマージュとして、意識的にやっていたわけではありません。ワイダに限らず、いろいろな監督が白に象徴性を込めて使っています。
例えばワンピースが赤いバルシチ(ポーランドの伝統的なスープで、鮮やかな赤色が特徴)で汚れますが、ある種の理想に傷が付くイメージです。ピョトレックがテーブルでバルシチをこぼすかどうか迷っているのは、母親が家を出て行ってしまうのを止めることができるかどうかというメタファ。洗濯が終わったシーツを2人で両端を持って広げ、引っ張ってから畳む作業でピョトレックが手を放してしまうのも2人の関係性の現れ。そういうものを意識下に伝えたい。
ワイダに限らず、タルコフスキーやフェリーニといった監督がオブジェや色彩を機能させることでメタファ化を行っている。つまり、私とワイダが同じ手法を使ったのです。

―ピョトレックの行動には倫理的選択があるのでしょうか。

ピョトレックを動かしているのは倫理観ではなく、感情です。ピョトレックは湖で知り合ったメガネの男の子から見ているよう頼まれたけれども、こっそり逃げてしまいました。彼とは住んでいる世界が違う、彼とは関わりを持ちたくないという感情的な判断が働いたのです。良いか悪いかを考え抜いた末に判断したわけではありません。
その後で子どもが溺れて亡くなる事故が起こりました。ピョトレックは自分が見ていなかったから、あのメガネの男の子が溺れてしまったのではないかという罪の意識に襲われます。別の世界の子どもだから、関わり合いを持ちたくないという単純なエモーションが道徳的な責任感から罪悪感に転じる。つまり、逃げたときではなく、後になって生まれてきたのです。それは移動遊園地で再会するまで続きました。再会は彼の罪悪感が清められる瞬間です。

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―湖での水難事故の際、カメラワークはピョトレックが人垣の合間から覗くような視点になっていました。このカメラワークにはどんな意味があるのでしょうか。

人垣の間から見えるのは、断片に過ぎません。それはこの作品、全体に言えること。何か隙間から物事を見るような、少年の視点で全ての物事を見ていくという方法論を貫きました。

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―夜、出掛けた母をピョトレックが追っていたときに小鹿が現れました。あの小鹿は何を象徴しているのでしょうか。

ピョトレックは12歳です。まだ大人になり切っていません。大人の世界で起きていることを見ることができないのです。
つまり、子どもの側にいるという境界線のシンボルとして、小鹿を出しました。ピョトレックは鹿が象徴するような子どもの世界にいる人間であって、夜、母親たちが何をやっているのか、何が起きているのかを見ることができないのです。

―ラスト近くにマイカと出掛けた以降、ピョトレックの唇が切れていました。

ピョトレックがマイカと2人だけでいたときに何かが起きたことを暗示するような痕跡を残そうと思ったのです。余計なものを具体的に指示し過ぎたかもしれません。

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―家族で回転ブランコに乗るシーンが印象に残りました。

大きな都市に移動遊園地がやってくる。そこに行って、メリーゴーランドや回転ブランコに乗るのは子どもにとっての憧れ。移動遊園地は中東欧社会に娯楽があまりなかった時代の娯楽のシンボルです。幸せの象徴でもありました。それはポーランドに限らず、ハンガリー、ルーマニア、チェコ、ロシアでも同じでした。

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―次はどのような作品を考えていますか。

実はシナリオを書き終わったところです。多くは語れませんが、少しだけお話しますと、主人公は35歳くらいの女性。彼女は父親が亡くなったばかりで、まだ心の整理がついていません。そんなときに、父親と瓜二つの男性と出会います。それをきっかけに自分にとって父親は何だったのかと考え始め、精神的に不安定になりますが、そこから立ち直っていく姿を描いています。
(取材・写真:堀木三紀)


『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー

2019年5月25日(土)より ポレポレ東中野ほか全国順次公開
公開劇場情報
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未来へ突き抜ける炭鉱力

監督:熊谷博子
撮影:中島広城、藤江潔
照明:佐藤才輔
VE:奥井義哉

 出演
井上冨美 (作兵衛の三女)
井上忠俊 (作兵衛の孫 三女の長男)
緒方惠美 (作兵衛の孫 作兵衛の三男の長女)
菊畑茂久馬 (作兵衛の画集「王国と闇」を世に出した画家)
森崎和江 (作家 筑豊に住み、女性解放などをテーマに本や詩集を出す。「からゆきさん」で知られる。女坑夫への聞き書きなどを続けた)
上野朱 (炭鉱労働者の自立と解放の運動拠点である「筑豊文庫」を開設した記録作家上野英信の長男)
橋上カヤノ(9歳から筑豊で育ち、19歳で結婚してから夫と共に坑内で働いた。2015年105歳で亡くなった)

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山本作兵衛さん ©Taishi Hirokawa

『作兵衛さんと日本を掘る』
福岡県筑豊の元炭坑夫、山本作兵衛(1892~1984)が描いた炭鉱の記録画と日記697点が日本初のユネスコ世界記憶遺産に登録されたのは2011年5月。暗くて狭い、熱い地の底で石炭を掘り出す男と女。命がけの労働でこの国の発展を支えた人々の生々しい姿。作兵衛さんは炭鉱で働く人々の労働や生活、炭鉱で使われた道具など炭鉱のことを記録し絵に描いた。
作兵衛さんは幼い頃から炭鉱で働き、専門的な絵を描く教育は一度も受けていないが、自分の体験した労働や生活を子や孫に伝えたいと、60歳半ば過ぎから本格的に絵筆を握り、2000枚とも言われる絵を残した。
石炭を掘り出す作業は先山(さきやま)と運び出す後山(あとやま)の二人一組で、先山は男性、後山は女性。夫婦が多かったが、兄妹、姉弟のこともあり家族労働が主だった。女性の炭鉱内での労働は1930年に法律で禁止されたが、筑豊では戦後までひそかに続いたという。
作兵衛さんが記録画を描き始めたのは、国策で石炭から石油へのエネルギー革命が進み、炭鉱が次々と閉山していく頃。さらに、その裏で原子力発電への準備が進んでいた。炭鉱労働者は、今度は原子力発電所に流れていった。作兵衛さんは自伝で「底の方は少しも変わらなかった」と残している。
熊谷監督は作兵衛さんの残した記憶と向き合い、104歳の元女炭坑夫を老人ホームに訪ねて、当時の炭鉱道具の使い方を教わったり、筑豊に住む作家森崎和江さんのほか、作兵衛さんの三女、孫、炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点を作った上野英信さんの長男朱(あかし)さんなど、作兵衛さんを知る人々の証言を聞き取り、作兵衛さんが生きた時代の筑豊の姿を記録し、日本の近現代史をみつめた。

公式HP


熊谷博子監督プロフィール

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1951年4月8日生まれ。東京都出身。1975年より、番組制作会社のディレクターとして、TVドキュメンタリーの制作を開始。戦争、原爆、麻薬などの社会問題を追う。『幻の全原爆フィルム日本人の手へ』(1982)など。85年にフリーの映像ジャーナリストに。
主な監督作に映画『よみがえれ カレーズ』(1989:土本典昭氏と共同監督)、映画『ふれあうまち』(1995年)、映画『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005年:JCJ特別賞、日本映画復興奨励賞)、NHK ETV特集『三池を抱きしめる女たち』(2013年:放送文化基金賞・最優秀賞、地方の時代映像祭奨励賞)。(公式HPより)

熊谷博子監督インタビュー

*104歳の元坑夫が生きていた!

ー 『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』から『作兵衛さんと日本を掘る』まで、映画、TVで炭鉱関係の作品が続いていますが、熊谷監督の作品と意識して接したのは『よみがえれ カレーズ』(1989)が初めてでした。
山本作兵衛さんの絵は2011年5月25日にユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが、作兵衛さんを描いた映画は、その前に萩原吉弘監督の『炭鉱(ヤマ)に生きる』(2006)で観て知っていたので、作兵衛さんの絵が世界記憶遺産に登録されたのがとても嬉しかったのを覚えています。その後、RKB毎日放送の『坑道の記憶 炭坑絵師・山本作兵衛』(2013)も観ていますが、初めて作兵衛さんの絵を観た時に女性も炭鉱で働いていたんだと知りびっくりしました。


熊谷監督 作兵衛さんの絵は前から気になっていたし、女坑夫がいたということは、『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』の時から知ってはいましたが、三池の作品の時もずいぶん女坑夫を捜したのですが、みつからなかったんです。三池は大炭鉱だったから、1930年に法律で女性の炭鉱内での労働が禁止されたときにピタッと終わったのですが、筑豊は中小の炭鉱が多く、また法律の執行も2,3年遅かったのです。とにかく働かないと生きていけないから、違法な状態で女性の坑内労働は戦後まで続いていました。なので筑豊では女坑夫だった人がみつかるかもしれないなとは思っていました。

ー 私は作兵衛さんの絵を見て、初めて女性も炭鉱で働いていたことを知りました。まさか女性が炭坑の中で働いていたとは思ってもいませんでした。今回、坑内で働いていた橋上カヤノさんが出てきて、女坑夫でまだ生きている人がいた!とびっくりしました。しかも104歳なのに、しっかりと話しもできる状態だったので驚きました。

監督 そうです。すごいことですよ。最初にお目にかかった時104歳だったのですが「ようこそ」と立ち上がって迎えてくれたし、話ができる状態だと想像もしていなかったのでびっくりしました。さらにその後、持っていった背負いかごも、背負って見せてくれました。なぜカヤノさんの存在がわかったかというと、筑豊女性アーカイブスのニュースレターの中に、102歳になる橋上カヤノさんという元女坑夫が飯塚のホームにいると書いてあったのです。それを見た時は104歳になっているはずだし、生きてはいないかなと思ったのですが、連絡を取ってみたら存命だったんです。それで慌てて会いに行ったんです。

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©Yamamoto Family

*絵を描く原動力

ー 間に合ってよかった。貴重な炭鉱労働の証言でしたね。
作兵衛さんのことは、何度も映画になっていますが、絵そのものに魅力ありますよね。私は2013年に東京タワーであった作兵衛さんの絵の展覧会に行ったのですが、絵の迫力に涙が出ました。ユネスコの世界記憶遺産に日本で初めて選ばれたのが作兵衛さんの描いた炭鉱の絵だったというのも納得いく絵の力がありました。それにしても2000枚も描いているというのがすごい。しかも描き始めたのが60代半ばからですものね。


監督
 とにかく伝えたくて伝えたくてしょうがないというのが創作の原動力だったようです。

ー それにしても写真を見て描いたわけではないのに、細かいところまで描いていていますよね。今だったら写真を見ながら描くということもありますが、当時の写真はそう残ってはいないわけですからすごい記憶力だと思いました。

監督
 写真的記憶術というか、脳の中にたたみこまれた記憶が絵として出てきたような感じはありますよね。次から次へと出てくるのでしょうね。絵の大きさはB3~A2くらいが多いのですが、和紙ではなく画用紙に描いていたので、いずれは崩壊する運命にあるんです。

ー 絵もそうですが、文字も味がありますよね。

監督 絵の具で描いているのですが細かいですよね。普通、よると粗も目立つのですが、作兵衛さんの絵はよっても粗が目立たず、ここまで細かくきちっと描いているのかとわかってすごいです。

ー 東京タワーで見た絵は原画だと思いますが、とても見ごたえがありました。田川市 石炭・歴史博物館の「山本作兵衛コレクション」も見てみたいです。

監督 そうです。東京タワーでの展覧会は、ご家族や親しい方たちが持っていた原画でした。田川の博物館には世界記憶遺産登録分がありますが、全作品がまとめて展示されているというわけではなく、何ヶ月かごとのローテーションです。そういう意味では、東京タワーでの展覧会の絵は一番見ごたえがあったと思いますよ。

ー 同じようなシーンを何度か描いているうちに完成度が高くなっているのでしょうね。92歳まで生きて描いていたわけですが、25年近くの間、精力的に描いていたんですね。

監督 そうですね。孫や後の世代に伝えたいという思いから描き続けたんですね。

ー 今までの作兵衛さんの絵をテーマにした映画は、作兵衛さん自身のことについて描いたものが多かったのですが、今回の熊谷監督の作品は、作兵衛さんの周りの人たちに取材していて、作兵衛さんと筑豊の姿が描かれていたので、作兵衛さんのことだけでなく、筑豊のこともより理解できました。お子さんやお孫さんが語る家での作兵衛さんの話、炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点を作った上野英信さんの長男上野朱さんが語る筑豊の労働者のこと、筑豊に住む作家森崎和江さんの語る当時の筑豊の姿とかとても興味深かったです。上野英信さんや森崎さんがこんなに筑豊とかかわりがあったということを知りました。

監督
 意識のある若い世代が観ると、こういう人がいたんだとびっくりする人がけっこういるんですよね。

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*かつては筑豊出身と言えなかった

ー 作兵衛さんのことは、ユネスコの世界遺産に登録された時に知った人が多いでしょうけど、名前だけ出しても知っている人は少ないですよね。「炭鉱の絵でユネスコの世界記憶遺産になった人」というと「ああ、その人」という風に答える人がほとんどで、なかなか知られていないのが残念です。やっぱり、こうやって何度も映画にしてほしいです。これからもいろいろな角度から作兵衛さんや炭鉱のことをテーマに作品が作られてほしい。あの時代のことを知ることができます。

監督 そうですよね。今回、炭鉱に対して、あれだけの差別があったということを初めて知りました。これまではそういう話は表には出てこなかったんです。

ー お孫さんが「作兵衛さんの絵が世界記憶遺産に登録されてからやっと筑豊の出身だと言えるようになった」というシーンに驚きました。日本の発展を支えてきた炭鉱だったのに、そんなに差別があったんですね。思ってもみませんでした。

監督
 前に三池炭鉱の映画を作った時に驚いたのは、作ってくれてありがとうとあんなにいわれた作品はなかったんです。やっとこの映画を観て、やっと自分の出身地を言えるようになったという方がすごく多かった。三池に限らず鉱山で育った方も、「閉山」という言葉そのものが「おまえらいらない」と言われている感じがしていた。この映画を観て、そうじゃなかったと初めて悟り、自分の出身や生い立ちを言えるようになったと言っていました。
作兵衛さんのお孫さんの井上さんが、この話をされたのは、この映画を撮り始めてから5年くらいたってからなんですよ。作兵衛さんのことをTV番組でもやったんですが、その絵をじっくり見せるという風にはならなくて納得がいかず、自分で映画も作ろうと思ったんです。
もう一度作兵衛さんの日記を読み直してみた時に、米騒動のところで「思エバ悲シ、我々勤労者ナリ」という言葉にズキっときたんです。また「みんな富裕層の番犬になっている」という言葉にも感じるところがありました。また、自伝を読んだ時に「変わったのは表面だけであって底のほうは変わっていない。炭鉱は日本の縮図に思えて胸がいっぱいになる」という言葉があって、ほんとに変わってないな、この国はという思いです。そこから「日本を掘る」というタイトルが浮かんできたんです。
作兵衛さんの作品を作り直しますとお孫さんの井上さんに言った時、「実はね、出身地を話せなかったんです。爺ちゃんの作品が世界記憶遺産になることによって、やっと出身地を堂々といえるようになった」とおっしゃったんです。それを上野朱さんのところに行って話したら、上野さんも「いやあ、僕も結婚して新たに戸籍を作る時に、炭鉱のあった場所を本籍地にしたら、役場からやめた方がいいと言われた」と。このことを作品に入れようと思いました。

ー 私自身は「エッ!日本の発展を支えてきた人とたたえられていたのに、差別があったんだ!」と思いました。確かに仕事としては3K(きつい・汚い・危険)の大変な仕事だから、皆さん他に仕事があればそちらを選ぶでしょうから、食いつなぐために炭鉱の仕事をしていたのでしょうけど、そういう仕事をしていることに差別意識があったのでしょうね。そんな差別があるなんて思ってもみなかったけど、現地ではそうだったんですね。

監督 作兵衛さんの絵が世界記憶遺産になったり、映画になったりしているうちに、この炭鉱の仕事は誇って良いものだったんだと思えるようになった。作兵衛さんの絵が認められることによって、底辺と思われていた炭鉱の仕事が認められるようになったということなんでしょうね。

ー 国のエネルギー政策が炭鉱から原発にシフトされるようになって、炭鉱から原発にという人の流れがあったということを、この作品でハタと思い至りました。炭鉱が閉山されて、たくさんいた労働者たちはどこへ行ったんだろうと思ったのですが、今度は原発に流れていったのですね。炭鉱の仕事も原発の仕事も危険と隣合わせの仕事ですが、閉山してしまったから行かざるを得なかったのでしょうね。

監督 筑豊って盛んだった頃は「口きき稼業」で炭鉱へ労働者を送り込んでいた人がいたわけですが、閉山になると、今度はその人たちは、行き場のない炭砿労働者を原発へ送り込んでいたんです。しかし原発に行った後、身体がだるくて動けない、いわゆる“原爆ブラブラ病”みたいな状態で筑豊へ戻ってきた炭鉱出身者が多かったんですね。被爆して体を蝕ばれていた。

ー 今までたくさんのドキュメンタリー映画で、歴史や文化などの知識を得てきましたが、この九州の炭鉱の歴史も繰り返し、映像で表現していってほしいです。TVより主題を深く掘り下げることができるのは映画ですよね。でも、たくさんの人に観てもらえるのはTVと違って難しい。いかに興味がない人にも興味を持ってもらうかですね。『カメラを止めるな』みたいに話題になるといいのだけど(笑)。

監督 そうなんですよ。『カメ止め』超えを狙っているんですよ(笑)。

ー なんかのきっかけで話題になって、たくさんの人が観に来てくれるといいですね。シネマジャーナルあたりでは力になれそうもないけど(笑)。でも地味な作品でも「これぞ」と思う作品を紹介していこうと思います。

監督 これはそういう意味でもブレイクさせたいという思いはあります。7年に渡って作ってきた作品ですから。自分一人ではなく、いろいろな人たちの思いが詰まっています。炭鉱の生活の中で、たくさんの亡くなった人たちの想い、無名の人たちの想いが詰まっている。その人たちに後押しされてできたという感じがしています。
作兵衛さんは絵を残してくれましたし、カヤノさんは長生きして話を聞かせてくれたけど、その背後にいる無数の人たちの存在というのが大きかったですね。その人たちに支えられてできたと思います。作兵衛さんの絵は明治・大正・昭和初期までの炭鉱の姿を描いているけど、今も全然変わらないエネルギー産業の姿。原発も構造は一緒だということに気づかせてくれた。

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©2018 オフィス熊谷

*作兵衛さんの絵の魅力とインパクト

ー 作兵衛さんの絵は、作兵衛さんの目で見た記憶で、その絵に存在感があったから、この映画は成り立って炭鉱の姿を見せてくれる。作兵衛さんの絵の力はすごいですね。

監督 作兵衛さんはもともと絵が好きで絵心がありますよね。また、絵もそうですが、向上心がありますよね。字は漢和辞典を書き写して覚えているわけですから。

ー 字も絵も絵心というかバランス感覚があるとうまいですよね。作兵衛さんの字も味がありますよね。絵と字を合わせて目に焼き付けさせてくれる。それにしても色や形、柄などもしっかり覚えていたんだなと思いました。
作兵衛さんの絵を見て女の人も上半身裸で働いていたんだとか、炭鉱のお風呂は男女混浴だったというのも見せてくれて「エ~っ!」とびっくりしました。今だったら信じられないような状況ですね。

監督 作兵衛さんって、女坑夫に対する愛が深いというか、尊敬の念があって、だからこそ美しく描いているかなと思います。男は風呂からあがって酒を飲んでいるのに、女は傍らで米をといでいるというような絵、そういう生活の状態をちゃんと描いている。あの時代の男の人の感覚からするとすごいと思います。文章にもそう書いています。

ー そうですね、あの時代に働く女の人の姿を見ていて、大変さを思ってくれていたんだなと思いました。 今も同じですよね。家事育児はどうしても女性に負担が多い。そういうならいになってしまっている。森崎和江さんは「からゆきさん」で知っていたのですが、筑豊にずっと暮らして作家活動だけでなく、そういう女性たちの地位向上のための活動もしていたのですね。今もお元気で活動しているのですか?

監督 今はもう入院も長引いてお話を聞くことができないかもしれません。画家の菊畑茂久馬さんも、もうあまり人に会っていないとおっしゃっていました。

ー 皆さん、今のうちに話を聞いておかないと話を聞けなくなってしまいますよね。作兵衛さん自身も本人の話はあまり残っていないのが残念です。作兵衛さんのことは絵のインパクトで表現ですね。

監督 ユネスコの世界記憶遺産に推薦した理由を見てみると、「誰も記録する人がいなかった時代に、一労働者が残した記録」というのが、世界にも類がないということだったんですね。

ー ほかの国はどうだったのでしょう。

監督
 イギリスも19世紀の中頃まで、女性がほぼ同じように働いていたようです。
*イギリスでの炭鉱労働の絵が掲載されていた本を見せてくれた。同じように狭い炭鉱で働いている女性労働者の姿があった。

ー 日本ではまだ炭鉱が残っているのでしょうか?

監督 釧路で海底炭鉱が残っていて、火力発電所で石炭を使っています。
ベトナムの炭鉱に撮影で入ったんです。地底から坑道を1時間くらい歩いて上ってくる時に、遠くに入り口の光が見えて、「ああ、これで生きて帰れる」と思ったので、炭鉱で働いていた皆さんは、そういう風に思って毎日働いていたんだなと坑夫たちの気持がわかりました。

ー 日本がここまで発展するのに、炭鉱で働いていた人がたくさんいて、そういう人たちがいたことを作兵衛さんが絵で残してくれたから、今の時代の人たちに、彼らのことが伝わるということがすばらしい。作兵衛さんありがとうと感謝したい気持ちです。今日はどうもありがとうございました。
取材 宮崎 暁美

『山懐(やまふところ)に抱かれて』初日舞台挨拶4/27(白)

今頃ですが、この素敵なご夫婦の言葉をやっぱり残しておきたいので、おくればせながら書き起こしました。
東京のポレポレ東中野での上映は今週金曜日まで。この後全国各地での上映となります。詳細はこちらのHPの上映情報をご覧ください。

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遠藤隆監督 今日の主人公はこのお二人です。私はインタビュアーになります。実はお二人が映画を観るのは今日初めてです。ご覧になった感想を。

お父さん(吉塚公雄)どうもみなさん、今日は本当にありがとうございました。岩手県で一番の、日本で一番の貧乏暮らしがこんな映画になって信じられない気持ちでいっぱいです。あの場面あの場面の子どもとの思い出とか、いろんなことを思い出すと…胸がいっぱいで…とにかく今までね。奇跡的につぶれないでこれて、なにもかにも思い返すと遠藤さんのおかげでした。牛乳屋が生まれてできたことも遠藤さんのおかげ、こんな映画にも…(涙ぐむ)ほんとにもう感謝しかありません。これを支えてくれたみなさんが牛乳をとってくれて…ほんとにありがとうございました。
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お母さん(吉塚登志子) 新しい気持ちで今日見せてもらったんですけれども、よくここまでこれて、ましてこんな映画にまでなったなんて信じられない。ずっとテレビ岩手の遠藤さんに、ずっともう小汚い家に何回も通っていただいて、子どもたちと接していただいて。初めのころは遠藤さんが持ってきてくれるお土産を楽しみに(爆)みんな待っていたような感じでしたが(笑)、こういう形になったというのは、ほんとに感謝して、感動しています。

遠藤監督 自分で作って泣くのもおかしいんですが、見てて涙が出てきてしまいました。昔、私と出会ったころはたぶん一番厳しいころだったと思うんです。ただ逆に子どもたちが小さくてお父さんの話をちゃんと聞いてくれて、家族の仲がすごくうまくいっていた時期でもあります。あの頃のことを思い返していかがでしょう?

お父さん そうですね。画面の中にも出てきましたけど、子どもたちが小さい頃はね。親父が右といえば、右(笑)。「早く終われ!」と怒りつけて頭をゴンってやったり(笑)、そうやって私が家族を思い通りにやらせてきた。それが徐々に成長してきて、自分の思いを認めてもらえない、って。頭ごなしにやってきたのがああいう風になるわけなんです。今思えばひどい親父だな、と思いますが。でもその時その時、精一杯やってきましたんでね。反省はしても後ろ向く暇がない(笑)。とにかく前を向く。希望の光を目指してですね、進むことしか考えてないアホですから(笑)あんまり反省はしない。申し訳なかったとは思っていますけれども、今からも前進することだけを信じてやっていきます。早くしないと人生おわっちゃうんで。

遠藤監督 確かに取材していても、僕も理不尽だなと思うことはありました(笑)。僕も実はお父さんとずいぶん喧嘩しています。子どもたちもああやって喧嘩しているんだけれども、お父さんはとてもよく聞いています。聞いてていろんなことを思っているんです。自分で頑固親父だと言っていますけど、一応人の話を聞く頑固親父でした(笑)。お母さんはそれをずっと受け止めて。どういう思いでやってこられたんでしょうか?
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お母さん はい。よく皆さんに「お母さんよく頑張ってこれたね。どうして?」と聞かれるんです。私の子どものころの夢は「家族みんなでご飯が食べたい」。それが夢でした。小さいころに預けられて、クリスマスに姉と2人だけでロールケーキを食べたことがあります。「これを家族みんなで食べたらどんなに美味しいかね」と言いながら食べた記憶があるので。両親をを早くなくしているので「お金がなくたって、何もなくたって、家族みんなが健康ならなんとかなるじゃん」って。何かにぶつかったときにも「みんなが元気ならいいじゃん」って思います。だから頑固でいろいろありましたけど(お父さんと顔を見合わす 笑)こういう皆さんと会う機会ができて遠藤さんに一番感謝します。ほんとありがたいだけです(拍手)。

遠藤監督 結婚を決めたのはどういうところか、僕はもう100回くらい聞いているんですけど(笑)、お父さんからお見合いの話を。

お父さん 電気のないところで学生のころ20歳から一人頑張ってきたんですけど、それまで自炊したことがなかったんです。健康のために玄米食にして一汁一菜でした。朝たくさん炊いて、しゃもじで三等分にしてしゃもじのまんま食べる。すると洗い物が少なくてすむので(笑)。三等分を六等分にするとさらに楽なんです(笑)。そんなことをしていたらだんだん痩せてきて、栄養失調になってこのままじゃやべぇなと、初めて実家に助け船を求めたんです。「嫁さんなんとかなんねぇかな、女ならだれでもいいから」(笑)。
そういうことで候補に挙がってきたのがこの方でございまして(笑)。当時私は28歳、彼女は22歳。お袋が親代わりで連れてきました。牛を追って九州から北海道までいろいろ歩いたんですけど、女性との経験がまるでないもんですから舞いあがっちゃって食事ものどを通らなくなったりしてね(笑)、大変な思いをしました。
でも開拓農家ですから、仕事をやってみてもらおうと思って一輪車で薪を運んでもらったんです。そしたら、この人は一輪車に割った薪を一個乗っけて運んでいるんです(笑)。そして次に2個(笑)。次に10個というならまだわかるけど、ちょっとこれは申し訳ないけど、この人に開拓は無理だなと。可愛いかなんかしんないけど、若いかもしんないけど無理だなと、帰ったらお断りしようと思ったんです。
帰る日の朝、食事前に牛の乳絞っていたら彼女がパパパパと走ってきて、「私合格ですか?」と言うんです。
22歳の若い女の子が「合格ですか?」ってね。傷つけないように頭めぐらして考えました。そして出てきた言葉が「僕で良ければ」(爆笑と拍手)。
そういういきさつがございまして、めでたくですね。どっちがめでたいんだか?今二人並んでいるわけでございます。ほんとに馬鹿馬鹿しいお笑いで(拍手)。

遠藤監督 最後のほうのカットで二人が結婚なさったときの写真があります。あれはつい最近見たんですが、お父さんとお母さん目があってなくて、変な写真なんです。あの頃、お孫さんのいる今を想像もできなかっただろうな、と。誰もそうですけど、素敵だなとああいう構成にしました。
私はディレクターとしてずっと関わってきました。今日も撮影に来ている田中君も20年撮影してくれました(拍手)。映画にしろと言ってくれた社長、ほかにもたくさんのスタッフがいます。
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田中カメラマンと遠藤監督

そのみんなが映像しか見ていなくても、吉塚さんに夢中になって、ここにたどり着いたんです。そのことはぜひ知っていただけたら、と思います。どうもありがとうございました。(拍手)

田野畑村の石原 弘村長が駆けつけ、石塚夫妻と遠藤監督に花束を贈りました。
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遠藤隆監督インタビューはこちら
(まとめ・写真 白石映子)