『山懐(やまふところ)に抱かれて』遠藤隆監督インタビュー

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〔遠藤隆監督 プロフィール〕
1956年東京都生まれ。岩手大卒業後テレビ岩手に入社、報道記者となる。1987年よりドキュメンタリー番組を手がけ、受賞多数。1994年「山地酪農(やまちらくのう)」に魅せられた吉塚公雄さんを取材以後、他作品製作の傍ら24年間取材を続ける。2016年編成局長退職後新しい役職につき現在に至る。吉塚さん一家シリーズはテレビ岩手で放映されたほかNNNドキュメントで回を重ね、“ガンコ親父と7人の子どもたち”の暮らしは多くの視聴者に共感と感動を与えた。作品紹介はこちら
★2019年4月27日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開(103分)

ー長い間テレビ番組として取材されてきて、映画化するまでどんな道を辿られたのでしょうか?

24年間取材して、もともとの素材は全部で1000時間分はありましたが、もうテレビ局にはなく、保管してあった170時間分と追加撮影した30時間分で200時間分。それを全部一から見直してあらためて編集しました。2017年11月頃からテープ素材をデータ変換し始め、取り込んで編集を繰り返して詰めていきました。
最終的に「これで行こう」という構成ができたのが2018年5月です。テレビ岩手のローカル番組として50分番組にした後、編集の佐藤さんと見て、今度は90分の番組に作り直しました。これで昨年文化庁芸術祭賞テレビ・ドキュメンタリー部門優秀賞をいただきました。映画化のためにもう一度ブラッシュアップして作り直し、出来上がったのが今回の映画です。

ー編集で切るのが忍びなかったでしょうね。

入れたかった部分はたくさんあって、監督としてはきりがないですね。田野畑村で行われている「なもみ」(男鹿半島では「なまはげ」)と呼ばれている風習があるんです。兄弟二人がやっている不思議で絵的にもいいシーンでしたが、前後と繋がらず入れられなくて残念でした。
入れるか入れないかは、この『山懐に抱かれて』のタイトルに対してどうか?と考えて、取捨選択ができたと思います。例えば公太郎君の修行の場面は数カットですが、北海道で1週間泊り込んで撮った素晴らしいシーンがある。あれだけなのは「山懐」に対して公太郎くんが帰ってきたときの布石以上にはならないからです。タイトルは50~60あった候補の中から昨年秋に決めました。

ー吉塚家を撮影しているうちに監督の立ち位置は変わりましたか?

ごく初期のころは取材者と対象者でしたけれど、かなり早い時期から“親戚のおじさん”みたいに一緒に茶の間にいたという感じで(笑)、そこから今まで変わりません。
とにかく牛乳を売らないと一家は山を降りるしかない、という瀬戸際で取材が始まっています。あの生活をやめて千葉に帰らなきゃいけないとしたら悲しいし、当然そうなってほしくはなかった。お父さんお母さんも子どもたちもそれはいやだけれど、経済状態が追い込まれていましたから、子どもたちも含めて同じ目標があったので一緒に考えていました。

ーきっとあの吉塚家の雰囲気のせいですね。私たちも家族の仲間になったような気がして心配していました。子どもたちが可愛くて、遠い親戚のおばさんみたいに「こんなに大きくなった~」とか(笑)。
 
観た方々が、同じようにあの家族のことを心配して応援してくださる。僕は技術ありませんから意図してできたものじゃないけれど、そう観ていただくのが一番嬉しいです。
子どもたちはお母さんが大好きなんです。そしてお母さんは(どんなに生活が大変でも)お父さんの悪口を言わない。女の子たちはお父さん大好きなんです。男の子たちは多かれ少なかれお父さんには言いたいことがあるんですが、お母さんに対しては100%大好き。

ー明るくて働き者のお母さんで愚痴も言わない。妻の一人として耳が痛いです(笑)。

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(C)テレビ岩手

ー山地酪農を続けている吉塚さんを、他の酪農家の方たちはどう見ていらっしゃるんでしょう?

田野畑地区は酪農地帯で、だいぶ減りましたが酪農家は何十軒もあります。最近は昼間何時間か放牧して夜は牛舎に戻るという一部放牧が増えています。山地酪農を続けて完全放牧をしているのは田野畑村では熊谷さんと吉塚さんの2軒だけです。吉塚さんと熊谷さんは、自分たちの理想を追求しますが、他の酪農家のことも仲間だと言っています。
「山地酪農」は山を切り開き、ニホンシバを植え育てます。牛は草だけを餌に、輸入穀物飼料を使いません。一年中放牧して自然交配・出産です。乳量は一般酪農より少なく、軌道にのって収入を得るまでに長い時間がかかります。
提唱した猶原恭爾(なおはらきょうじ)先生は、元々草地学者で農水省の研究施設の役人でした。牛を飼った実践は十年ですが、その前に理論的な研究を何十年もやっています。「日本の山地酪農」という楢原先生の貴重な本を読みまして、こんなに先進的なことを戦前から考えていたことにほんとにびっくりしました。

ーとても尊いと思いました。でも生活が回っていくまで長くかかりますね。日々食べて子育てしなくてはなりませんし。

猶原先生は山地酪農を永続的に続けることを「千年家(せんねんや)」と言っています。それがお父さんの理想です。子どもをたくさん作って男の子たちに継がせるというのを考えてきました。子どもたちはちょっと違っていて、「千年家を本当に続かせたいんだったら、家族だけに頼っていたら続かない」と言います。今は会社組織にして社員が2人、他人も関わって「千年家」のバトンをつないでいく。2代目はそう思っています。

ーその長い間に放射能の心配をするなんて予想もつきませんでしたね。

原発事故はこの24年間の一番のピンチでした。ほかのこと、確かに経済的にはボロボロだったけれども「とにかくやるしかない」みたいに打つ手があったわけです。放射能は違います。ただ、現段階で汚染されていないことは確かです。それが未来永劫続くという保障はどこにもないですが。牧場を拡げていけると、もし何かあっても、第2、第3の牧場で継続できる。そういう千年家にしなきゃいけないんじゃないか、と。そういうところは、お父さんも忸怩たるものがありながら認めています。

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ー息子さんたちの考えもあるでしょうから、また変わっていくでしょうね。吉塚さん親子に出会ったことで、監督が影響されたことはありますか?

僕はあの親父の生き方をマネしようとは全く思いません(笑)。あのお父さんを含めた家族たちは、みんなでご飯の前に「お爺ちゃんお婆ちゃん・・・(家族全員と牛の名前も全部呼ぶ)ありがとう!」と言います。あの感謝の気持ちですね。それに励まされました。
ロケで何が辛いってほんっとに寒い。あの寒さはハンパじゃないです。風も強いですし。その中で働いている彼らと一緒にいて、僕らはちょこっと取材して帰ってきますが、彼らはずっとあそこにいるわけです。
会社でもドキュメンタリーというのはテレビの中で特殊な世界で、そんなに楽ではないんです。そんなときにやっぱり我慢するとか、いろんな方々に関わっていただいていることに感謝するとかという気持ちを教えてもらいました。
これは仕事人というより、人間として教えていただいた分が大きいと思います。

ー子どもたちが小さかった始まりのころも、孫たちも加わった今もずっと同じようにみんなの名前を呼んで「ありがとう。いただきます」と、変わらないんですよね。じーんとしました。まだ撮り続けていかれますか?

取材はこれから先もできるだけ続けたいと思っていますが、彼がガンコ親父であることはたぶん変わらないでしょう。そういう彼の生き様を伝え、彼の遺言みたいなものを作れたらいいなという気持ちです。
僕はもちろん、すぐ近くにいるスタッフや後ろにいる社長や東京支社の人たち、配給さん宣伝さん、みんなが夢中になってくれるんです。これまでもドキュメントの仲間たちがものすごく応援してくれましたし、日本テレビの報道局の人たちがニュース番組の中で繰り返し放送してくれました。田舎の局の一つの題材をそんなに放送してくれるなんてほんとに異例です。

ー室井滋さんがナレーションをなさっていますね。

室井滋さんは、ずいぶん前から田野畑山地酪農牛乳を愛飲して、一家を応援してくださっているというご縁で今回につながりました。そういう多くの人の共感を呼ぶ力をこの家族は持っているんだと思います。
3代目の孫が映画の最後のほうで手を広げていましたけど、あの子たちが大きくなったらまた変わるかもしれないです。僕の気持ちとしては、そうやって「形を変えながらバトンタッチをしていく」というメッセージを伝えたいです。

ー今日はありがとうございました。

=取材を終えて=
なにかできることはないかな、と応援したくなる魅力的な家族でした。今、一家庭に子どもの数は1人いないんですよね。吉塚さんちは7人の子どもに恵まれました。働き者のお父さんお母さんを見てきた子どもたちは、小さなうちから立派な働き手となっています。電気もまだ通らないころ、ランプの灯りでご飯を食べている家族。学校に行く前にお父さん、お母さんの顔の見えるところまで走って「行ってきま-す」という子どもたち。ご両親の志をそれぞれに受け取って、まっすぐに育っています。
山地酪農はすぐには結果が出ません。一日中働いても思うような収入につながらず、子どもたちに何もしてやれないと声を詰まらせるお父さん。形のない、目には見えないものをたくさん贈ってきましたよ。子どもたちの中でそれは豊かに実っています。見ている私たちも幸せの種をもらいました。(取材:白石映子、宮崎暁美)