公開劇場情報
未来へ突き抜ける炭鉱力
監督:熊谷博子
撮影:中島広城、藤江潔
照明:佐藤才輔
VE:奥井義哉
出演
井上冨美 (作兵衛の三女)
井上忠俊 (作兵衛の孫 三女の長男)
緒方惠美 (作兵衛の孫 作兵衛の三男の長女)
菊畑茂久馬 (作兵衛の画集「王国と闇」を世に出した画家)
森崎和江 (作家 筑豊に住み、女性解放などをテーマに本や詩集を出す。「からゆきさん」で知られる。女坑夫への聞き書きなどを続けた)
上野朱 (炭鉱労働者の自立と解放の運動拠点である「筑豊文庫」を開設した記録作家上野英信の長男)
橋上カヤノ(9歳から筑豊で育ち、19歳で結婚してから夫と共に坑内で働いた。2015年105歳で亡くなった)
『作兵衛さんと日本を掘る』
福岡県筑豊の元炭坑夫、山本作兵衛(1892~1984)が描いた炭鉱の記録画と日記697点が日本初のユネスコ世界記憶遺産に登録されたのは2011年5月。暗くて狭い、熱い地の底で石炭を掘り出す男と女。命がけの労働でこの国の発展を支えた人々の生々しい姿。作兵衛さんは炭鉱で働く人々の労働や生活、炭鉱で使われた道具など炭鉱のことを記録し絵に描いた。
作兵衛さんは幼い頃から炭鉱で働き、専門的な絵を描く教育は一度も受けていないが、自分の体験した労働や生活を子や孫に伝えたいと、60歳半ば過ぎから本格的に絵筆を握り、2000枚とも言われる絵を残した。
石炭を掘り出す作業は先山(さきやま)と運び出す後山(あとやま)の二人一組で、先山は男性、後山は女性。夫婦が多かったが、兄妹、姉弟のこともあり家族労働が主だった。女性の炭鉱内での労働は1930年に法律で禁止されたが、筑豊では戦後までひそかに続いたという。
作兵衛さんが記録画を描き始めたのは、国策で石炭から石油へのエネルギー革命が進み、炭鉱が次々と閉山していく頃。さらに、その裏で原子力発電への準備が進んでいた。炭鉱労働者は、今度は原子力発電所に流れていった。作兵衛さんは自伝で「底の方は少しも変わらなかった」と残している。
熊谷監督は作兵衛さんの残した記憶と向き合い、104歳の元女炭坑夫を老人ホームに訪ねて、当時の炭鉱道具の使い方を教わったり、筑豊に住む作家森崎和江さんのほか、作兵衛さんの三女、孫、炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点を作った上野英信さんの長男朱(あかし)さんなど、作兵衛さんを知る人々の証言を聞き取り、作兵衛さんが生きた時代の筑豊の姿を記録し、日本の近現代史をみつめた。
公式HP
熊谷博子監督プロフィール
1951年4月8日生まれ。東京都出身。1975年より、番組制作会社のディレクターとして、TVドキュメンタリーの制作を開始。戦争、原爆、麻薬などの社会問題を追う。『幻の全原爆フィルム日本人の手へ』(1982)など。85年にフリーの映像ジャーナリストに。
主な監督作に映画『よみがえれ カレーズ』(1989:土本典昭氏と共同監督)、映画『ふれあうまち』(1995年)、映画『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』(2005年:JCJ特別賞、日本映画復興奨励賞)、NHK ETV特集『三池を抱きしめる女たち』(2013年:放送文化基金賞・最優秀賞、地方の時代映像祭奨励賞)。(公式HPより)
熊谷博子監督インタビュー
*104歳の元坑夫が生きていた!
ー 『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』から『作兵衛さんと日本を掘る』まで、映画、TVで炭鉱関係の作品が続いていますが、熊谷監督の作品と意識して接したのは『よみがえれ カレーズ』(1989)が初めてでした。
山本作兵衛さんの絵は2011年5月25日にユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが、作兵衛さんを描いた映画は、その前に萩原吉弘監督の『炭鉱(ヤマ)に生きる』(2006)で観て知っていたので、作兵衛さんの絵が世界記憶遺産に登録されたのがとても嬉しかったのを覚えています。その後、RKB毎日放送の『坑道の記憶 炭坑絵師・山本作兵衛』(2013)も観ていますが、初めて作兵衛さんの絵を観た時に女性も炭鉱で働いていたんだと知りびっくりしました。
熊谷監督 作兵衛さんの絵は前から気になっていたし、女坑夫がいたということは、『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』の時から知ってはいましたが、三池の作品の時もずいぶん女坑夫を捜したのですが、みつからなかったんです。三池は大炭鉱だったから、1930年に法律で女性の炭鉱内での労働が禁止されたときにピタッと終わったのですが、筑豊は中小の炭鉱が多く、また法律の執行も2,3年遅かったのです。とにかく働かないと生きていけないから、違法な状態で女性の坑内労働は戦後まで続いていました。なので筑豊では女坑夫だった人がみつかるかもしれないなとは思っていました。
ー 私は作兵衛さんの絵を見て、初めて女性も炭鉱で働いていたことを知りました。まさか女性が炭坑の中で働いていたとは思ってもいませんでした。今回、坑内で働いていた橋上カヤノさんが出てきて、女坑夫でまだ生きている人がいた!とびっくりしました。しかも104歳なのに、しっかりと話しもできる状態だったので驚きました。
監督 そうです。すごいことですよ。最初にお目にかかった時104歳だったのですが「ようこそ」と立ち上がって迎えてくれたし、話ができる状態だと想像もしていなかったのでびっくりしました。さらにその後、持っていった背負いかごも、背負って見せてくれました。なぜカヤノさんの存在がわかったかというと、筑豊女性アーカイブスのニュースレターの中に、102歳になる橋上カヤノさんという元女坑夫が飯塚のホームにいると書いてあったのです。それを見た時は104歳になっているはずだし、生きてはいないかなと思ったのですが、連絡を取ってみたら存命だったんです。それで慌てて会いに行ったんです。
*絵を描く原動力
ー 間に合ってよかった。貴重な炭鉱労働の証言でしたね。
作兵衛さんのことは、何度も映画になっていますが、絵そのものに魅力ありますよね。私は2013年に東京タワーであった作兵衛さんの絵の展覧会に行ったのですが、絵の迫力に涙が出ました。ユネスコの世界記憶遺産に日本で初めて選ばれたのが作兵衛さんの描いた炭鉱の絵だったというのも納得いく絵の力がありました。それにしても2000枚も描いているというのがすごい。しかも描き始めたのが60代半ばからですものね。
監督 とにかく伝えたくて伝えたくてしょうがないというのが創作の原動力だったようです。
ー それにしても写真を見て描いたわけではないのに、細かいところまで描いていていますよね。今だったら写真を見ながら描くということもありますが、当時の写真はそう残ってはいないわけですからすごい記憶力だと思いました。
監督 写真的記憶術というか、脳の中にたたみこまれた記憶が絵として出てきたような感じはありますよね。次から次へと出てくるのでしょうね。絵の大きさはB3~A2くらいが多いのですが、和紙ではなく画用紙に描いていたので、いずれは崩壊する運命にあるんです。
ー 絵もそうですが、文字も味がありますよね。
監督 絵の具で描いているのですが細かいですよね。普通、よると粗も目立つのですが、作兵衛さんの絵はよっても粗が目立たず、ここまで細かくきちっと描いているのかとわかってすごいです。
ー 東京タワーで見た絵は原画だと思いますが、とても見ごたえがありました。田川市 石炭・歴史博物館の「山本作兵衛コレクション」も見てみたいです。
監督 そうです。東京タワーでの展覧会は、ご家族や親しい方たちが持っていた原画でした。田川の博物館には世界記憶遺産登録分がありますが、全作品がまとめて展示されているというわけではなく、何ヶ月かごとのローテーションです。そういう意味では、東京タワーでの展覧会の絵は一番見ごたえがあったと思いますよ。
ー 同じようなシーンを何度か描いているうちに完成度が高くなっているのでしょうね。92歳まで生きて描いていたわけですが、25年近くの間、精力的に描いていたんですね。
監督 そうですね。孫や後の世代に伝えたいという思いから描き続けたんですね。
ー 今までの作兵衛さんの絵をテーマにした映画は、作兵衛さん自身のことについて描いたものが多かったのですが、今回の熊谷監督の作品は、作兵衛さんの周りの人たちに取材していて、作兵衛さんと筑豊の姿が描かれていたので、作兵衛さんのことだけでなく、筑豊のこともより理解できました。お子さんやお孫さんが語る家での作兵衛さんの話、炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点を作った上野英信さんの長男上野朱さんが語る筑豊の労働者のこと、筑豊に住む作家森崎和江さんの語る当時の筑豊の姿とかとても興味深かったです。上野英信さんや森崎さんがこんなに筑豊とかかわりがあったということを知りました。
監督 意識のある若い世代が観ると、こういう人がいたんだとびっくりする人がけっこういるんですよね。
*かつては筑豊出身と言えなかった
ー 作兵衛さんのことは、ユネスコの世界遺産に登録された時に知った人が多いでしょうけど、名前だけ出しても知っている人は少ないですよね。「炭鉱の絵でユネスコの世界記憶遺産になった人」というと「ああ、その人」という風に答える人がほとんどで、なかなか知られていないのが残念です。やっぱり、こうやって何度も映画にしてほしいです。これからもいろいろな角度から作兵衛さんや炭鉱のことをテーマに作品が作られてほしい。あの時代のことを知ることができます。
監督 そうですよね。今回、炭鉱に対して、あれだけの差別があったということを初めて知りました。これまではそういう話は表には出てこなかったんです。
ー お孫さんが「作兵衛さんの絵が世界記憶遺産に登録されてからやっと筑豊の出身だと言えるようになった」というシーンに驚きました。日本の発展を支えてきた炭鉱だったのに、そんなに差別があったんですね。思ってもみませんでした。
監督 前に三池炭鉱の映画を作った時に驚いたのは、作ってくれてありがとうとあんなにいわれた作品はなかったんです。やっとこの映画を観て、やっと自分の出身地を言えるようになったという方がすごく多かった。三池に限らず鉱山で育った方も、「閉山」という言葉そのものが「おまえらいらない」と言われている感じがしていた。この映画を観て、そうじゃなかったと初めて悟り、自分の出身や生い立ちを言えるようになったと言っていました。
作兵衛さんのお孫さんの井上さんが、この話をされたのは、この映画を撮り始めてから5年くらいたってからなんですよ。作兵衛さんのことをTV番組でもやったんですが、その絵をじっくり見せるという風にはならなくて納得がいかず、自分で映画も作ろうと思ったんです。
もう一度作兵衛さんの日記を読み直してみた時に、米騒動のところで「思エバ悲シ、我々勤労者ナリ」という言葉にズキっときたんです。また「みんな富裕層の番犬になっている」という言葉にも感じるところがありました。また、自伝を読んだ時に「変わったのは表面だけであって底のほうは変わっていない。炭鉱は日本の縮図に思えて胸がいっぱいになる」という言葉があって、ほんとに変わってないな、この国はという思いです。そこから「日本を掘る」というタイトルが浮かんできたんです。
作兵衛さんの作品を作り直しますとお孫さんの井上さんに言った時、「実はね、出身地を話せなかったんです。爺ちゃんの作品が世界記憶遺産になることによって、やっと出身地を堂々といえるようになった」とおっしゃったんです。それを上野朱さんのところに行って話したら、上野さんも「いやあ、僕も結婚して新たに戸籍を作る時に、炭鉱のあった場所を本籍地にしたら、役場からやめた方がいいと言われた」と。このことを作品に入れようと思いました。
ー 私自身は「エッ!日本の発展を支えてきた人とたたえられていたのに、差別があったんだ!」と思いました。確かに仕事としては3K(きつい・汚い・危険)の大変な仕事だから、皆さん他に仕事があればそちらを選ぶでしょうから、食いつなぐために炭鉱の仕事をしていたのでしょうけど、そういう仕事をしていることに差別意識があったのでしょうね。そんな差別があるなんて思ってもみなかったけど、現地ではそうだったんですね。
監督 作兵衛さんの絵が世界記憶遺産になったり、映画になったりしているうちに、この炭鉱の仕事は誇って良いものだったんだと思えるようになった。作兵衛さんの絵が認められることによって、底辺と思われていた炭鉱の仕事が認められるようになったということなんでしょうね。
ー 国のエネルギー政策が炭鉱から原発にシフトされるようになって、炭鉱から原発にという人の流れがあったということを、この作品でハタと思い至りました。炭鉱が閉山されて、たくさんいた労働者たちはどこへ行ったんだろうと思ったのですが、今度は原発に流れていったのですね。炭鉱の仕事も原発の仕事も危険と隣合わせの仕事ですが、閉山してしまったから行かざるを得なかったのでしょうね。
監督 筑豊って盛んだった頃は「口きき稼業」で炭鉱へ労働者を送り込んでいた人がいたわけですが、閉山になると、今度はその人たちは、行き場のない炭砿労働者を原発へ送り込んでいたんです。しかし原発に行った後、身体がだるくて動けない、いわゆる“原爆ブラブラ病”みたいな状態で筑豊へ戻ってきた炭鉱出身者が多かったんですね。被爆して体を蝕ばれていた。
ー 今までたくさんのドキュメンタリー映画で、歴史や文化などの知識を得てきましたが、この九州の炭鉱の歴史も繰り返し、映像で表現していってほしいです。TVより主題を深く掘り下げることができるのは映画ですよね。でも、たくさんの人に観てもらえるのはTVと違って難しい。いかに興味がない人にも興味を持ってもらうかですね。『カメラを止めるな』みたいに話題になるといいのだけど(笑)。
監督 そうなんですよ。『カメ止め』超えを狙っているんですよ(笑)。
ー なんかのきっかけで話題になって、たくさんの人が観に来てくれるといいですね。シネマジャーナルあたりでは力になれそうもないけど(笑)。でも地味な作品でも「これぞ」と思う作品を紹介していこうと思います。
監督 これはそういう意味でもブレイクさせたいという思いはあります。7年に渡って作ってきた作品ですから。自分一人ではなく、いろいろな人たちの思いが詰まっています。炭鉱の生活の中で、たくさんの亡くなった人たちの想い、無名の人たちの想いが詰まっている。その人たちに後押しされてできたという感じがしています。
作兵衛さんは絵を残してくれましたし、カヤノさんは長生きして話を聞かせてくれたけど、その背後にいる無数の人たちの存在というのが大きかったですね。その人たちに支えられてできたと思います。作兵衛さんの絵は明治・大正・昭和初期までの炭鉱の姿を描いているけど、今も全然変わらないエネルギー産業の姿。原発も構造は一緒だということに気づかせてくれた。
*作兵衛さんの絵の魅力とインパクト
ー 作兵衛さんの絵は、作兵衛さんの目で見た記憶で、その絵に存在感があったから、この映画は成り立って炭鉱の姿を見せてくれる。作兵衛さんの絵の力はすごいですね。
監督 作兵衛さんはもともと絵が好きで絵心がありますよね。また、絵もそうですが、向上心がありますよね。字は漢和辞典を書き写して覚えているわけですから。
ー 字も絵も絵心というかバランス感覚があるとうまいですよね。作兵衛さんの字も味がありますよね。絵と字を合わせて目に焼き付けさせてくれる。それにしても色や形、柄などもしっかり覚えていたんだなと思いました。
作兵衛さんの絵を見て女の人も上半身裸で働いていたんだとか、炭鉱のお風呂は男女混浴だったというのも見せてくれて「エ~っ!」とびっくりしました。今だったら信じられないような状況ですね。
監督 作兵衛さんって、女坑夫に対する愛が深いというか、尊敬の念があって、だからこそ美しく描いているかなと思います。男は風呂からあがって酒を飲んでいるのに、女は傍らで米をといでいるというような絵、そういう生活の状態をちゃんと描いている。あの時代の男の人の感覚からするとすごいと思います。文章にもそう書いています。
ー そうですね、あの時代に働く女の人の姿を見ていて、大変さを思ってくれていたんだなと思いました。 今も同じですよね。家事育児はどうしても女性に負担が多い。そういうならいになってしまっている。森崎和江さんは「からゆきさん」で知っていたのですが、筑豊にずっと暮らして作家活動だけでなく、そういう女性たちの地位向上のための活動もしていたのですね。今もお元気で活動しているのですか?
監督 今はもう入院も長引いてお話を聞くことができないかもしれません。画家の菊畑茂久馬さんも、もうあまり人に会っていないとおっしゃっていました。
ー 皆さん、今のうちに話を聞いておかないと話を聞けなくなってしまいますよね。作兵衛さん自身も本人の話はあまり残っていないのが残念です。作兵衛さんのことは絵のインパクトで表現ですね。
監督 ユネスコの世界記憶遺産に推薦した理由を見てみると、「誰も記録する人がいなかった時代に、一労働者が残した記録」というのが、世界にも類がないということだったんですね。
ー ほかの国はどうだったのでしょう。
監督 イギリスも19世紀の中頃まで、女性がほぼ同じように働いていたようです。
*イギリスでの炭鉱労働の絵が掲載されていた本を見せてくれた。同じように狭い炭鉱で働いている女性労働者の姿があった。
ー 日本ではまだ炭鉱が残っているのでしょうか?
監督 釧路で海底炭鉱が残っていて、火力発電所で石炭を使っています。
ベトナムの炭鉱に撮影で入ったんです。地底から坑道を1時間くらい歩いて上ってくる時に、遠くに入り口の光が見えて、「ああ、これで生きて帰れる」と思ったので、炭鉱で働いていた皆さんは、そういう風に思って毎日働いていたんだなと坑夫たちの気持がわかりました。
ー 日本がここまで発展するのに、炭鉱で働いていた人がたくさんいて、そういう人たちがいたことを作兵衛さんが絵で残してくれたから、今の時代の人たちに、彼らのことが伝わるということがすばらしい。作兵衛さんありがとうと感謝したい気持ちです。今日はどうもありがとうございました。
取材 宮崎 暁美