『99歳 母と暮らせば』谷光章監督インタビュー
谷光章(たにみつあきら)監督 プロフィール
1945年香川県生まれ。記録映像を撮る会社に10年務めたのち、フリーの映像作家となる。『華 いのち 中川幸夫』(2014年)、『DX(ディスレクシア)な日々 美んちゃんの場合』(2012年)などを発表するかたわら、発達障害の子どもたちに関わり続けている。
作品紹介
71歳の谷光監督の母千江子さんは99歳。認知症が進んで目が離せなくなってきた。谷光監督は仕事の場を実家へ移し、同居して介護を始めた。料理を作り、下の世話をし、デイケアへ送り出し、と気負うことなくこなしている。千江子さんは、物忘れはあっても食欲旺盛、社交的で明るい。母と息子の関西弁の会話は漫才のようで、思わず笑ってしまう。老々介護の一年間を淡々と映している。体調の波もうまくやり過ごし、二人手をつないで桜を愛でる。この穏やかな日々が続きますように。(92分)
★2019年6月8日(土)より新宿K’s cinemaほか全国順次公開
(C)Image Ten.
◎インタビュー
―拝見してまず思ったのは、息子はお母さんに優しいなぁということでした。
介護にあたる前から谷光監督とお母さんの関係がとても良かったのだろうと想像しました。
いやーどうなんですかね。僕は3人兄弟の末っ子なんです。ですから小さいころは甘えん坊でした。兄夫婦は母と同じ敷地内に、姉は今もピアノ教師をしていて近所に住んでいます。姉は長女ですからしっかりしなくては、と思うんでしょうか。母への接し方を見ているとやっぱりきついんですね。自分の常識や感覚と違うところは許せないところがあるのかなと思います。ですから何度か、「きちんと認知症のことを勉強してお袋と接してよ」という風には言っているんですけど、「そんなんわかってるわー」と(笑)。
認知症の人は同じことを何度も何度も言ったりしたりするとか、我々の常識から外れたことはいっぱいあるわけです。そういったことに対して叱ったり、怒鳴ったりしても決して良くなるわけはないんですね。そのへんきちっと踏まえて、じゃあどんな風に接してあげれば介護する側もされる側も不安なく、不愉快な思いをせずに日常を送れるのかなと、ずっと思いながら母と接しているんですけどね。
それぞれの立場によっては、そういうところがなかなか身につかないのか、理解しにくいのか、つい口に出てしまうようです。
―たぶん「しっかりしたお母さん」というこれまでのイメージから外れていくのが、娘としてはやっぱり悲しいし納得できないのだと思います。どこも娘のほうが母親にきつくなりがちと思います。
監督は認知症についてどうやって勉強されたのですか? 身体介護のトレーニングなどしたことがありますか?
勉強というほどのことはないんです。認知症についての本を何冊か読んではいます。
トレーニングはしていないですね。それで、映画を観たケアマネージャーさんに言われました。母がベッドの下で寝ているときに、私が抱えてベッドに戻すシーンがあるんですが、「あれはダメ、基礎ができてない」と(笑)。こちら学んだことがなくて全く素人なのでね。
―男性は力があるので、つい力任せでやってしまうんですよね。私は自分が腰痛になりやすいので、身体を密着させてどちらも楽なように気をつけていました。これから先もあることですし、監督もぜひ要領を身につけられるといいと思います。
ときどき風呂に入りますが、1人ではもう出られないんです。私が呼ばれて抱えてあげようとするんですが、これがなかなか。うちの母は60キロくらいあるんですよ。重いし、すべりますし怖いですよ。
―お風呂の介助はできるだけ二人でされるのが安心ですよ。裸だと支えにくいですから。
介護をするのに、他の兄弟との分担が難しいかと思います。それは監督が中心になって調整されているのですか?
私が同居する前は兄夫婦がデイケアに出かける準備などしていました。べったり世話をすることはできなかったので、昼食は業者に頼んだりしていたようです。今も私がいないときは、兄夫婦に代わってもらっています。
姉はわりと近いところに住んでいて、このところよく顔を出してくれます。本人が骨折したり、転んだりいろんなことがあって自分が弱ってきたからかもしれないです。来てくれるのはいいんですが、母が太らないようなメニューを考えているのに、材料や食べものを持ってくるんです。母は、あれば食べてしまうので、もう食べすぎなんです(笑)。
―お母さんはカメラを向けられるのを全く意識していないように見えましたが、イヤとおっしゃることはなかったですか? これまでも家族の映像を撮ってこられたのでしょうか?
カメラを置いて撮影したのは今回が初めてですが、ほとんど気にしていなかったですね。ベッドからトイレには廊下を伝っていくのですが、つき当たりのところに三脚につけたカメラが置いてあるんです。それを見たときに不思議がって「あれ、なんね?」と言っていました(笑)。普段はなるべく目につかないように注意して置いていました。
―すごく自然でしたね。監督が映っていらっしゃるシーンも多いので、どこで固定しているんだろうと思っていました。三脚なんですね。
三脚を立てて、多少寄り引きもありますので動かしながら、これくらいの画角なら入るかな、という感じですね。
―これまでたくさんの映像作品を作ってこられましたが、他人を撮るのと身内のお母さんを撮るのは何か違いましたか?
他の仕事のときはこちらである程度頭の中で組み立てて、それで臨んでいます。それでもドキュメンタリーの場合は、まあなかなか思い通りには相手だって動いてくれなかったりします。それは臨機応変にやるしかないんですが。
母の撮影のときは、そういった撮影技術などには重きを置かないで、ほんとに自分たちの自然な生活の様子をおさめていきました。この先ずっと撮っていって、どうなるか分からない。全くありのままを1年間撮りました。それを再構成してまとめました。ですから、正直言って特に起承転結があるわけではないんですね。わりと淡々と日常の生活を記録すことに徹しました。
ーお母さんは寝ているだけでなく、いろいろなところに出かけられるし、メリハリのある生活ですね。ハモニカを吹くし、達筆だし、明るくて楽しい方で、とても被写体として魅力がありました。
確かにいろんなことに手を出していました(笑)。私もずっと今まで見てきましたので、母の歩んできた人生を入れていけば、それなりに見ていただける作品になるかなと頭におきながら撮影していました。
―おうちにも今までのお母さんの歴史のようにあちらこちらに記念品がありましたね。
そうなんです。もうね、自分の気に入ったものがあると、置いておきたいんです。小さいこまごましたものがたくさん、居間の壁なんかそういうものでうずまっています。いろんなところに自分の思い出のものがあります。それはこちらで片づけられません。そういう環境が母にとって気持ちよく穏やかなものになっているならば、まあいいかな、と。
―お母さんは昔から、何にでも興味があって活発な方だったから、今もお若いのかな。ほんっとにお若いですよね。
昔スポーツやっていたり、専業主婦といっても洋裁習いに行ったり、琴や三味線もやったり、クロスステッチにはまり込んだり、短歌やったり…。非常に幸せですよね。なかなか主婦でそんなにいろいろやれないと思うんですけどね。
―お身体丈夫なんですね。まだまだ大丈夫ですね!
そうですね。ときどき近くのお医者さんで診てもらったりしますけど、内臓はもう全然大丈夫ですよ、といつも言われます。
―親子とはいえ、長く介護をしていると途中で疲れたり、投げ出したくなったりしませんか?
5年になりました。意外と私は料理を作ったりするのも、楽しんでやるほうなんです。兄夫婦も週に2回3回と来て着替えなどやってくれますし、下の世話もポータブルトイレなど使って片づけます。そういうことがルーティンになっていますし、それがいやだとかはないですね。
―出ないより出るほうがいいですしね、私も「出ないと大変、出てくれてよかったね」と言ってました(笑)。
やっぱりそういった日常の接し方によって、介護される方もある程度変わっていくのかなと思いますね。認知症の人によっては、介護されててもときどき暴言を吐いたりすることがあるんですけども、それも周囲の環境や接し方によって、そのときの怒りとか不満とかをうまく吸収したり、違うことに向けてあげたりできます。忘れるんですよね(笑)。
今、週2回デイケアサービスに通っていますが、「今日雨降っててしんどいからもう行かん!」と駄々こねるんですよ。こっちもたまに出かけてくれたほうが息抜きできますしね、なんとか行ってもらう方法を(笑)。しばらく置いてから違う話題を出します。「お母さん顔まだ洗ってないよ。洗って」と、顔洗うと一応鏡の前に座って、なんか(お化粧)しだしたりするんで、しめしめと(笑)。
―今、息抜きとおっしゃいましたが、ストレスをためないよう息抜きや気分転換に、これというものがありますか?
仕事をやるときと手を抜くところ、ズボラなところももちろんありますんでね。しんどいなぁと思ったら、ちょこっと音楽を聴いたり、テレビつけてみたりとか、それなりの解消法です。
―監督は今も映像のお仕事をなさっているので、介護とは全く違う世界もあって、それも気分の切り替えになりますね。
そうですね。編集に2時間3時間とかけていると、あきてしまいますので、母がいれば「ちょっと甘いもんでも食べる?」と一緒のお茶の時間作ったりしています。
―いちばんホロッとしたのは、お母さんと一緒に桜を見る場面です。来年私も親と一緒に桜が見られるかな、とか、亡くなった母と一緒に見たかったなと思って。自分が来年どうかというのもあるんですけど(笑)。日本人にとって桜って特別なんですね。
独特ですよね。自宅のちょこっとした桜とすぐ近くの公園の山桜、立派な桜があって毎年楽しませてもらっています。ほんとにあと何年くらい見られるかわからないですけどね。
―お母さんが「同窓会の案内が来てももう誰もいない。もう人生終わり~」なんてあっけらかんとおっしゃっていて(笑)明るいですよね。もちろんこの映画をご覧になったと思いますが、なんとおっしゃっていましたか?
自宅で見せて、市民ホールでも見せて、もう3回は見ているんですが、覚えていないんですよ(笑)。
―見てすぐに感想はおっしゃらなかったですか?
見てすぐは聞いたことがないなぁ。
―あの最後の場面が最新でしょうか? 映画は時系列ですか?
うーん、必ずしも時系列にはなっていないですね。最後は秋の終わりぐらいです。
―お孫さんが最初のお誕生日のお祝いのシーンに登場していましたが、普段の介護に携わったりは?
全くないですね。姉の子どもが近くにはいますが、誕生日などに顔は出しますが、普段は没交渉ですね。
―今、お年寄りと一緒に住んでいる人が少ないですよね。病院や施設に入る方多くなっていますし。
自分もそうですが、年を取っていくのを見せることも教育というか、役目ではないかと思うんです。
当然そうですね。昔は大家族で三世代が一緒に住んでいるから、どんな風に年を取って衰えていくか。死ぬ場面もみんなちゃんと見て経験するわけです。それがほとんど核家族になってしまって見られないですからね。老いや認知症に対する感覚を、若い人たちはなかなか掴めないままです。
それで、例えば書面だけで勉強して介護施設に入って、実際にそういった人たちに接すると、この前あった虐待事件のような対応になってしまうのかな、という感じがします。
よく言われていますけど「2025年には3人に1人は65歳以上、そのうちの5人に1人は認知症」って。
―はい、みんな入っています。予備軍です(笑)。
周りにそういう人たちが必ずいる社会になってくるんです。そんな中でちゃんとした認識を持つとか、どんな対処をすればいいかということを「自分とは関係ない」というのではなくて、同じ社会の中で生きていく人間として最低限は知っておいてもらいたいですね。
―そういうお気持ちは監督が介護を始める前と後では変化しましたか?
基本的にはそんなに大きく変わっていないと思います。確かに認知症に対してきちんと向き合って、それなりに考えたり書物を読んだり、ということでは自分なりに勉強して知識を得てきたとは思います。
私は20年近く発達障害の子どもたちを支援するNPOと関わってきました。発達障害の子どもたちというのは、どうしても表に出る症状で判断されがちです。そして戸惑ったり叱ったり、追い込んだり、そういう形が今まで多かったんです。彼らのそういった行動には、必ず彼らなりの理由があるわけです。それをちゃんと理解して、彼らの持っているいいところを引き出してあげれば、立派に社会の中で生きていけると思っています。
それは、認知症の人にも共通しています。その人の個性、性格、好き嫌いとか、どんなことをされたら嫌なんだとかを、一人の人間としてよくわかっていれば、接し方は自ずと変わってくると思うんですよ。
―認知症はわかりませんが(運よく免れるかもしれない)、年だけはみんな公平に取りますね。上手に年を取るための秘訣はなんでしょうか?
「上手に年取る」ね、どうしたらいいんですかね? なんかいい答えがあったら聞きたいなぁ(笑)。
―好きなことをたくさん持っていることかな、と思うんですけど(お母さんみたいに)。
好きなこと、そうですねえ。私もこういう業界に属しているのは昔から映画が好きだからなんですが、好きなことに携わってこられたというのは、やはり幸せな人生を送っているなと思いますね。
―それが一番ですよね。私たちもそうです(笑)。
それで私たちがいつもしている質問なんですが、この道を選ばれたきっかけになった映画はなんですか?
いやーいろいろあって、ありすぎて困っちゃいますね(笑)。『市民ケーン』『第三の男』チャップリンの映画なんかも大好きでしたし、エノケンの映画も好きでしたし。黒澤明の映画とか、それはもう凄いなぁと思いながら見たりとかね。だから漠然と映画の世界にあこがれていたけれども、私がこの世界に入ろうとしたころは、映画業界が斜陽でそのどん底でした。大手五社が全く人なんか採っていない時代でした、それでもなんとか映画に関わりたいな、ということで探しているうちにひっかかったのが記録映画を作っている会社でした。そこで10年くらいニュース映画に携わりました。それからフリーの演出家になって民放各局で仕事をしました。NHKさんはエンタープライズのほうで本局ではなかったです。
映画はフィルムからビデオ、それからデジタルになりました。フィルムのときは映画ってすごくお金がかかって、人も何十人と関わって映画を撮るのは大変だったんですよね。それが今は嬉しいことに私みたいになお金がない人も作れる、若い人もどんどん作れるような時代になっています。
―これから作りたい映画は?
う~~この年ですからね(笑)、ドキュメンタリー畑を来たので、またいいテーマが出てくればそれにのめりこむという可能性は無きにしも非ずですけど。ほんとはね、オリジナルでミュージカルがやりたいんです。
―あらー、素敵ですねぇ。
それはね、ずっと「夢のまた夢、叶わぬ夢」です。
日本もやっとミュージカルに対してそんなに抵抗がなくなってきまして。この前町の商店街でミュージカルを皆さんに見せるというのがあったんです。どこの町だったかな。
―町を巻き込んだパフォーマンスっていう感じでしょうか? その舞台裏を撮影したドキュメンタリーも観たいですね。
町の活性化みたいなことで、そういったことを仕掛けるところがあれば、ドキュメンタリーも作れますね。歌と踊りが好きな市民も巻き込んで。蜷川幸雄さんも高齢者を俳優に使って舞台を作っていらしたしね。
―夢をぜひ実現なさって、そのときはまた取材させてください。長時間ありがとうございました。
【 取材を終えて 】
自宅介護歴10年の私、ついあれこれとおしゃべり弾んでしまいました。世のお父さんたち、息子たちに谷光監督を見習ってほしいです。女性陣におまかせで「口は出すけど手は出さない」そこのあなたですよ。
お二人が病気のびの字もなく、お元気なのが明るい介護ができている要因ですが、前向き、楽天的なお母さんの性格を谷光監督も受け継いでいるのも大きいです。お顔も表情もよく似たお母さんと息子さん、あの笑顔を向けられたらやっぱり笑顔になります。(白)
約束の時間より早めに着かれた監督と、(白)さんが到着前に四方山話。監督がお母様と関西弁で話されていましたが、神戸生まれで15歳の時に東京に移った私も、母とは最後まで関西弁で話していたことをお話しました。監督にお伺いしてみたら、やっぱり普段の生活ではどちらかというと関東のアクセントなのだそうです。丸亀市生まれの監督ですが、高松に3年間住んだことのある(白)さんが、「讃岐弁じゃないですね」と指摘すると、大阪や甲子園に住んでいたことがあるとのこと。どうりで私には違和感のない心地よい関西弁だったのだと判明。監督が甲陽学園在学中の国語の村上先生が、作家の村上春樹のお父様だという話も飛び出しました。
監督ご自身のお父様は、70代半ばでお亡くなりになったとのことで、お母様はもう四半世紀にわたって一人暮らし。さて、私の父は96歳。認知症になって8年前に亡くなった母と違って、すこぶる記憶力もよく元気。監督のお母様を見習って、100歳目指して頑張って欲しいものです。この映画で学んだ気負わず介護する術を私は活かしたいと思います。(咲)
取材:白石映子(文)景山咲子(写真)