『少女は夜明けに夢をみる』 メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『夜明けの夢』が、この11月2日(土)より『少女は夜明けに夢をみる』の邦題で東京・岩波ホールほか全国順次公開されるのを前に、メヘルダード・オスコウイ監督が来日。「国際人流」と2誌合同でインタビューの機会をいただきました。


『少女は夜明けに夢をみる』

原題:Royahaye Dame Sobh(夜明けの夢) 英題:Starless Dreams
監督:メヘルダード・オスコウイ
製作:オスコウイ・フィルム・プロダクション

高い塀に囲まれた女子更正施設。ここには、強盗、殺人、薬物、売春などの罪で捕らえられた少女たちが収容されている。
取材申請してから7年待ち、ようやく3ヶ月間の取材許可を得たオスコウイ監督。更正施設に通って、少女たちにマイクを向ける。
監督に同年代の娘がいることを知り、「あなたの娘は愛情を注がれ、わたしはゴミの中で生きている」と語る少女。そんな彼女たちが心を開いたのは、監督自身、15歳の時に父親が破産し、自殺をはかった経験があると知ったからだ。少女たちが語った人生は、それぞれが壮絶だ。貧困や、親族からの虐待で罪を犯してしまった少女たち。雪だるまを作り、無邪気に雪合戦に興じる姿からは、心に傷を抱えながらも、塀の中で過ごしている間は安心したように見える。
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作品紹介 

2016年/イラン/ペルシア語/76分/カラー/DCP/16:9/Dolby 5.1ch/ドキュメンタリー
配給: ノンデライコ
(C)Oskouei Film Production
公式サイト:http://www.syoujyo-yoake.com/
★2019年11月2日(土)より、東京・岩波ホールほか全国順次公開

メヘルダード・オスコウイ
 Mehrdad Oskouei
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1969年、テヘラン生まれ。映画監督・プロデューサー・写真家・研究者。「テヘラン・ユニバーシティ・オブ・アーツ」で映画の演出を学ぶ。これまで制作した25本の作品は国内外の多数の映画祭で高く評価され、イランのドキュメンタリー監督としてもっとも重要な人物の1人とされている。2010年にはその功績が認められ、オランダのプリンス・クラウス賞を受賞している。イラン各地の映画学校で教鞭を執り、Teheran Arts and Culture Association(テヘラン芸術文化協会)でも精力的に活動している。2013年にフランスで公開された『The Last Days of Winter』(11)は、批評家や観客から高く評価されている。(公式サイトより)


◎メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

机の上には、監督が持参したペルシア柄のテーブルセンターが敷かれ、ピスタチオ入りのクッキー「ソーハーン」が置かれていました。

   K誌(「国際人流」佐藤美智代さん) 
   シネジャ(シネマジャーナル 景山咲子)

◆少年更生施設の奥の少女たちが気になった
K誌:本作はティーンエイジャーの3部作の最終章ですが、そもそも少年少女たちの映画を撮ろうと思ったきっかけを教えていただけますか?

監督:この作品だけでなく、私はいつも、声を出せない人たちや、声を出しても聞く人がいない人の言葉を皆に伝えたいと思って作っています。
3部作は、青少年の話でもありますが、刑務所の話でもあります。青少年時代の自分の体験なのですが、15歳の時に父が倒産してしまって、家族は経済的に苦しくなって、私自身、絶望して自殺しようと思ったことがありました。
革命前なのですが、父も祖父も政治的な理由で刑務所に入れられていました。ですので、子どもの時から刑務所の話を身近に聞いていました。自分の経験した15歳の時の混乱と共に、こういうテーマで撮りたいと思いました。
青少年を巡る3部作ですが、イランの映画史の中では初めてドキュメンタリー監督のカメラが刑務所に入りました。
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K誌:娘さんがちょうど生まれて女の子に興味をお持ちになった時期であったり、社会的経済的混乱の中で子どもたちの犯罪が増えたことが映画を撮るきっかけになったのでしょうか?

監督:
最初に少年施設を撮ろうと思ったのは、自分の15歳の時の経験などが影響しています。少年施設に入って撮影した時には、自分には娘がいたのですが、それがきっかけになって少女に興味を持ったわけではありません。
少年施設を撮っていたときに、少女が連れていかれるのをみて、奥に少女の施設があるのがわかりました。
カメラを持って入ってみると、自分の娘と同じ年ごろの少女たちがいて、皆、自分の娘よりも頭もよくて、大変な経験をしていて、彼女たちの将来はどうなるのか、施設の中でどういう生活をしているかに興味を持ちました。
最終的には撮影許可が下りるまで、7年待たされました。ねばって待ったのは、少年施設を撮っていた時に少女が奥に連れていかれるのをみて、すごく驚いて、絶対中を見てみたいと思ったからなのです。

◆自分の痛みを治すために映画を作っている

シネジャ: 「お父さんに仕事があればいいのに」という少女の言葉が切実でした。監督も15歳の時、お父様が破産して自殺しようと思ったとのこと。未成年の子どもにとって家庭環境が人生を左右すると、つくづく思いました。イランだけでなく、どこの国でもあることと考えさせられました。

監督:今の言葉を聞いてわかったのですが、私たちは子ども時代に経験したことを忘れてしまうのですが、大人になって同じような経験をした人の話を聞いて、自分にもそんなことがあったなぁと、ふっと思い出します。人間の気持ちを題材にして映画を作っている監督たちは、自分の内面と会話しているのだと思います。自分の中に何か問題があったり、悲しみや痛みがあるのを治そうと思って映画を作っています。私は15年間も刑務所の話を撮っているのですが、まわりの監督から、「もうその題材はやめてほかのことを撮れば」と言われても、「言いたいことが終わってない」と答えるのです。でも、終わってないのではなく、自分の中の痛みが解放されてないので、撮りながら自分を治そうとしている部分が大きいのだと思います。
作品が出来ると、皆に見せて、これから子どもたちをそういう目に合わせない方法を考えましょうと提示したいのです。皆の救いになれば、自分の痛みも癒されると思っています。


◆家族の絆が強いイラン人。外国では群れないのは、なぜ?
シネジャ:イランの人たちは家族の絆がすごく強いと思っているのですが、そんなイラン社会で、この施設にいる少女たちは施設を出て家族と会うことも拒みたいと言っています。人間関係が希薄になっている日本では、さほど感じない寂しさを、イラン社会では家族との関係が希薄なことをいっそう寂しく感じるのではないかと思います。
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監督;大事な話だと思います。文化の違いの話だと思います。2日間、いろんな方と話をしてわかったのですが、日本の施設では、入所している青少年に自己責任として反省させたり謝罪させたりしているようです。イランの施設では、施設の人たちが入所している子どもたちを守ろうとします。慰めて、皆とシェアしようとします。そこは文化の違いだと感じます。
これは私の疑問なのですが、いろんな国にイラン人が住んでいるのですが、イラン人は中国人やインド人のようにコロニーをつくりません。
イラン人は国を出ると単独で暮らす傾向があります。イランの中にいる時には、家族の絆も強いし、親戚などとよく集まるのに、これはなんだろうと。
例えば、空港でイラン人を見かけても、お互いイラン人とわかっても、知らない顔をします。外人ですという顔で前を通ったりします。国の中にいると、あんなに群れるのに。
この映画の少女たちも、家族のような気持ちになっているし、ソーシャルワーカーたちも、家族の中にいるような環境を作ってあげています。それほどイラン人は国の中ではコロニーを作るのが好きなのに、一歩、国を出ると、なぜあんなによそよそしくなるのかと思ってしまいます。
日本に来てみると、日本人は一人一人が孤独を感じているようにみえます。家族や親戚で集まることや友達のところに遊びに行くこともイランほどないと聞いています。それが一歩、日本を出ると、ヨーロッパやイランのツアーでは、皆くっついていて、旗の下で一緒に動いていてます。日本人は国の中でコロニーをつくらないので、イラン人と正反対で、なぜだろうといつも思っています。国の中で、一人一人でいるから、逆に外に出ると集団行動できるのかなと。
施設は、一つの大きな壁の中にあって、そのさらに小さな壁の中にいる十数人は、お互いをサポートして慰めあってくっついているのですが、一歩施設を出るとばらばらになります。
日本では、施設の中でばらばらで孤独。お互いに気持ちをシェアしないと聞きました。逆に質問したいのですが、日本人はなぜ自分の痛みをシェアしないのですか?

わたしたち二人:なぜなのでしょう・・・ 難しいですね。

監督:あんなに質問して、答えてあげているのだから、答えてくれなくちゃ。ドキュメンタリー監督としては、疑問を持ってカメラを動かしていて、いつも質問する側です。映画を通して大きな質問を投げかけているのに、今日はその映画について質問されるので、仕方ないから答えているんですよ。(笑)

シネジャ:日本人は、自分のことを知られたくないから、思いを明かさないのではないかと思います。

監督:
日本人は、そうやって、なぜ蓋をしようとするのですか?

シネジャ:
恥だと思うからかなと。

監督:文化的背景があるのですか?

シネジャ:
う~ん、どうでしょう。


◆壮絶な経験をした人は強くなる

監督:昨日、少女更生施設に入っていた経験のある女性の方から取材を受けました。今は成功して仕事をしていらっしゃる方です。その方は、まっすぐ私やショーレの目を見て、質問してくださいました。この2日間でいろんな方にお会いしたのですが、ほかの方は、まっすぐ私を見ずに目をそらして話すのに、とても印象的でした。
更生施設に入っていろいろな経験をして出てきたことや、今は4人子どもがいて、本も書いてと、まっすぐ自分のことを話してくださいました。すごい体験をした人は、すごく強くなっている気がしました。
私が取材した少女たちも、すごくしっかりとした意志を持っていました。先生になりたい、大学に行きたいとか、実現できるかどうかは別にして、やりたいことをはっきりと語りました。なぜ、苦労した人の方が、強くなるのかというのが、私の中の質問です。普通に社会の中で生きている人たちは、自信がなかったり、戸惑ったりしているのを感じます。
日本に来て数日ですが、いろいろな疑問が湧いてきたので、この映画が公開される時には、また来日して、日本の皆さんの声を聞いてみたいです。
この作品は、ヨーロッパやアメリカでも上映されて、観た人たちと話をして、何を感じたのか、どういうところで感動するのかなどもわかりました。
日本人がこの作品を観て、どう思ったのか、どこで感動したのか、普通の観客の人たちと話してみたいのです。私の作品の目的がちゃんと日本人に伝わるのかも知りたいのです。
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小津監督は、家族をテーマに映画を作っていて、日本の家族はこういうものということを少し学んだのですが、それから50年以上経っていて、日本の家族がどう変わったのかも知りたいと思っています。
黒澤監督の映画を観ると、スケールの大きなものを描いています。シェークスピアのハムレットのような歴史的な時代劇を作っているのですが、小津監督は、日本の小さな家族の中に入って、個々人がどんな考えを持っているのか、どんなコミュニケーションを取っているかを描いています。
私が取材した施設の子どもたちは、小さな環境の中にいるのですが、一人一人細かくみてみると、深みを感じます。ほんの数人が、イランという国の文化まで説明してくれるとわかります。今、私たちは作品を通じてイランと日本の文化まで話したではないですか。

◆権力者が絨毯の下に隠したものをはたきだして見せる
監督:昨夜、少しの時間ですが渋谷の街を歩いてみて、若者たちの姿を観察してみました。立ち方、坐り方、服装をみると、アピールしているものと中身が違っている感じがしました。
私は小津監督の『東京物語』(1953年)が好きなのですが、何十年前に作られた映画の中で、おじいさんとおばあさんが心を開いているのに、若い人たちはそれを受け止めないというジェネレーションギャップを描いています。
今の子どもたちと家族がどういう関係を持っているのかを考えると、もっと距離が離れている気がします。それがなぜなのか知りたいのです。
いろいろな文化の中で、どう人が生きているのかを私は考えてみたいと思っています。
(ここで、コップが倒れて水がこぼれました)
イランでは水が流れると明るい未来が開けるといいます。いい兆候です!
イランでは、物事を絨毯に例えて語ることが多いのですが、権力者や政府は、こういう施設のことや貧困社会のことを絨毯の下に隠します。視界に入らないようにするのですが、このような作品を作るのは少しだけ絨毯をあげて見せるためなのです。でも、また権力者は絨毯の下に隠します。私たちのような人が増えて、風で絨毯が飛んでしまえば、隠れたものが見えるようになります。


◆死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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シネジャ:少女たちが食卓を囲んでイランの新年「ノウルーズ」を迎える瞬間を映した場面がありました。イラン暦新年1394年でしょうか? 西暦2015年3月21日(土) 午前2時15分11秒(テヘラン時間)ですので、ちょうど夜明け前です。
(注:イラン暦の新年は、春分の日に迎えます。太陽が春分点を通過する時間を天文学的に正確に計算して、新年を迎える時として事前に発表されます。年によって、真昼になったり、夕方になったりと時間は様々です。)

監督:いいえ、撮影したのは、その前年、イラン暦1393年(西暦2014年)です。

シネジャ:
そうすると、新年を迎えたのは、午後8時27分7秒でしたね。

監督:タイトルを『夜明けの夢』としたのは、刑務所で死刑執行の時間が朝の5時で、彼女たちは死刑宣告を受けているわけじゃないけれど、朝の5時というのは怖い時間。5時を過ぎれば、安心して夢がみれるのです。

★監督から逆に質問攻めにあい、もう時間切れだったのですが、無理をお願いして聞いた私の意図を監督は察知して、「夜明けの夢」の意味するところを答えてくださいました。 
(注:11月6日にもう一度映画を観てみたら、新年を迎える場面、クルアーンや金魚を飾っているテーブルが出てきて、ラジオから「1393年になりました。おめでとうございます」というアナウンスが聴こえてました。失礼しました。映画でちゃんと言ってるじゃないかと冷たいことを言わない、優しい監督でした!)
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☆取材を終えて

お会いした時に、ペルシア語で挨拶したら、とても喜んでくださって、今日はペルシア語で話しましょうと冗談交じりに言われました。(もちろん、私のペルシア語が挨拶程度と見越したうえで!)
国の中では、あんなに群れるイラン人が外では群れないという監督の話に、知らないイラン人どうしでは、お互いの政治的立場などがわからないから、あえて近づかないのではないかと思いました。革命後、外国に出たイラン人は多く、ロサンジェルスやロンドンでは、ペルシア語のテレビやラジオもあって、決して群れないわけではないのです。
プレス資料のインタビューに、少女たちに接する時に、アムー(父方のおじ)だと嫌がられ、ダイー(母方のおじ)なら受け入れてくれたという話が興味深かったので、そのことも詳しく聞いてみたかったのですが、時間切れで残念でした。
精力的に話す監督に、とにかく圧倒されました。これからも絨毯の下に隠されてしまったものを大いにはたき出して衝撃的な映画を作り続けてくださることと期待しています。

取材:景山咲子




『ジョージア、ワインが生まれたところ』  エミリー・レイルズバック監督インタビュー 

ワインが人生であり文化 ジョージアを巡る旅
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11月1日からの公開を前に、シカゴ在住のエミリー・レイルズバック監督とスカイプインタビューの機会をいただきました。

『ジョージア、ワインが生まれたところ』
原題:Our Blood Is Wine
監督・撮影・編集:エミリー・レイルズバック
出演:ジェレミー・クイン、他

紀元前6000年からワインが醸造されてきたジョージア。 だが、伝統的な甕を使ったクヴェブリ製法は、ソ連時代の大量生産政策でつぶされてしまう。
シカゴのレストランでソムリエを務めていたジェレミー・クインは、シカゴでの仕事を辞め、ワインの起源を知るためにジョージアにやってきた。各地を巡り、家庭で自家用に細々と伝統的製法でワインが作られ続けてきたことを知る・・・
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作品紹介


2018年/アメリカ/78分/英語、ジョージア語/DCP/1:2.35
字幕翻訳:額賀深雪/翻訳協力:ニノ・ゴツァゼ/字幕監修:前田弘毅
配給・宣伝:アップリンク © Emily Railsback c/o Music
公式サイト: https://www.uplink.co.jp/winefes/
★2019年11月1日(金)、シネスイッチ銀座、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開


◎エミリー・レイルズバック監督インタビュー


◆伝統的製法は口伝えで細々と守られてきた

― ジョージアは、グルジアと呼ばれていたソ連時代から行ってみたかった憧れの国。映画を観て、まさにジョージアを旅しているようでした。ソ連崩壊後、ワインの生産がどのような状況にあるのかが各地方ごとによくわかり、とても興味深く拝見しました。
伝統的なクヴェヴリ製法がソ連によってつぶされた中、家庭で細々と作り続けられてきたとのこと。クヴェヴリ製法は書かれたものがなく、口伝えとのことですが、歌によって伝えられてきた面が大きいのでしょうか?

監督: 歌によっても伝えられてきた面はありますが、毎年、収穫の時期になると、人を雇うのではなく、家族や近所の人たちがやってきて、協力しあって作るという形で伝えられてきました。


◆スプラ(宴会)は男たちのもの

― ジョージアで大切にされてきたスプラという宴席ですが、スプラはもともと食卓に敷かれる布のこととのこと。 私はイラン文化を学んできたのですが、食事の布のことを「ソフレ」といいます。絨毯の上にソフレを敷いて、その上に料理を並べて、皆で囲みます。スプラとソフレ、恐らく語源が同じではないかと推測しました。ペルシアはジョージアを攻めた国ですが、お互い文化的に影響もしあっているのではないかと思いました。
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監督:その繋がりについてはわからないのですが、ジョージアのスプラのことでしたらお話できます。ジョージアは家父長制の強い文化の国で、スプラに参加するのはほとんどの場合男性だけです。私が参加させていただいたスプラも、女性は私だけか、もう一人いる程度でした。女性たちは台所にいて、料理を作ったり運んだりして、女性は女性だけで料理を囲みます。時代と共に変化していて、若い女性たちは男性たちのスプラに参加することも増えてきましたが、高齢の女性たちは男性の席に一緒に坐ることはほとんどありません。

― イランでは今はイスラーム政権でお酒は禁止ですが、それ以前は、ワインも作っていました。特にウルミエ湖の近くで見つかった数千年前の壺から葡萄の種が見つかっていて、かなり古い時代からワインが作られていたことも証明されています。壷の形も、ジョージアのクヴェヴリに似ています。

監督:ジョージア、トルコ、アルメニアといった地域には、あちこちに行く民族がいましたので、ペルシアとの繋がりもあると思います。とても興味深いですね。


◆小さな国なのに多様なジョージア

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― ソ連からの独立後、2006年~2013年にかけて、ロシアがジョージアに対してワインを出荷禁止にさせたとのこと。出荷禁止の解けた2013年に奇しくもクヴェヴリ製法がユネスコの無形文化遺産に登録されたことに興味を持ちました。

監督:
はっきりしたことはわかりませんが、映画に出て来た友人のニコラゼが当時、文化庁に勤めていて、無形文化遺産登録になんらかのかかわりがあったかもしれません。
ジョージアに居る時に、ジェレミーがブログを書いていて、古代のことなども詳しく説明していますので、ぜひお読みください。
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― 撮った映像が、170時間以上もある中、どういう点を重視して映画に取り上げたのでしょうか?  78分という比較的短い中に収めていますが、もっと長くすることもできたと思います。

監督:いくつかの違ったバージョンを作ってみました。編集は1年半かけて、私以外の人にも入ってもらってやりました。トルコやアルメニアにも行って、いろいろな映像を撮りました。馬のレースや、山あいの村でいけにえの儀式なども撮ったのですが、ワインとは関係ないのでカットしました。

― そういう場面の入ったバージョンもぜひ観てみたいです。
ところで、重いワインのところは歌が重厚、軽いワインのところは歌も明るいとのこと。地域的な特色を教えていただけますか?

監督:
ジョージアには多くの民族がいます。映画に出て来るメインキャラクターのギオルギさんは南のトルコとの国境の近くの方で、軽くてフレッシュなワイン。ペルシアの影響もみえます。東のカハティ地区では平坦な土地で、ワインはシリアス。いろんな民族に侵攻されて、血が土にしみこんでいる土地柄です。


◆案内役のジェレミーさんと映画完成後に結婚

―映画学科の学生時代にシカゴのワインバーで働いていた時、ソムリエのジェレミー・クインさんと出会われたとのこと。いつごろから公私ともにパートナーになられたのでしょうか?

監督: (ケラケラ笑って、照れながら答えてくださいました) 
映画を作り始めたころには、まだ友人というカジュアルな感じでした。映画にお金を出してもらう段になって、出資者とのミーティングの時に、出資者から二人の関係が真剣なものでないと映画がうまくいかないのではないかと指摘されました。隣に座っているジェレミーの反応が心配で顔をまともに見れなかったのですが、「私たちの関係は真剣で絶対別れることはありませんので出資してください」とお願いしました。ですので、そのミーティングの中で宣言したような形です。

― 映画がお二人の橋渡しをしたのですね。

監督:はい、映画を撮り終わって、結婚しました。(大いに照れる監督!)


◆ワインが文化であり人生であるジョージアに感銘
― ジェレミーさんは、出来上がった映画をご覧になってどのようにおっしゃっていますか?
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監督:映画を作ったことよりも、ジェレミーはジョージアという国に感銘を受けています。ワインの飲み方がアメリカとジョージアでは全然違います。彼はワインバーで長く働いていて、アメリカではワインがトレンドのようになっていて、何を飲むのがクールだとか、ワインに対するうんちくがどれくらい詳しいかといったことを気にしていることに飽き飽きしていました。ジョージアに行ってみたら、皆がワインを楽しんでいて、ワインが血になっている。ワインが文化であり、人生であることに、とてもリフレッシュして、ジョージアが大好きになりました。
今日は残念ながらここに同席できませんでしたが、何かご質問がありましたら、ぜひご連絡ください。

― 今日はありがとうございました。ジェレミーさんにも、どうぞよろしくお伝えください。



エミリー・レイルズバック
Emily Railsback
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イリノイ州シカゴを拠点に活躍するインディペンデント映画の監督、脚本家、デザイナー、撮影監督。2014年にコロンビア・カレッジ・シカゴを映画芸術科学の美術学修士(MFA)を取得して卒業。ソムリエのジェレミー・クインと共に映像制作会社、バーント・シュガー・プロダクションを設立。タッグを組んだ2人の仕事のテーマは、飲み物への理解を通しての文化やアイデンティティーに特化している。

案内役ジェレミー・クイン
Jeremy Quinn
20年近くソムリエとしてのキャリアを持つ。全米トップのソムリエ賞(『Food & Wine』誌)、最優秀ワインリスト叙情詩人賞(『Chicago Reader』誌)など受賞歴多数。ワインの調査のために24カ国以上を旅しており、この10年以上、その中の5ヵ所のブドウ園で収穫の仕事をしている。自然農法の積極的な支持者であり、彼のワインに対する見識は、ラジオやポッドキャスト、書物で目にすることができる。現在は、世界中の農園を飛び回り、ワイン醸造、ワイン文化、そして土地の特性について調査をしている。
(二人のプロフィール: 公式サイトより引用)

『夕陽のあと』越川道夫監督インタビュー

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越川道夫監督プロフィール
1965年生まれ。静岡県浜松市出身。助監督、劇場勤務、演劇活動、配給会社勤務を経て、1997年映画制作・配給会社スローラーナーを設立。ラース・フォン・トリアー監督『イディオッツ』(98)、アレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』(03)などの話題作の宣伝・配給を手がける。熊切和嘉監督『海炭市叙景』(10)、ヤン・ヨンヒ監督『かぞくのくに』(12)などをプロデュース。エミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」を翻案した『アレノ』(15)で劇場長編映画監督デビュー。2017年島尾敏夫と島尾ミホの出会いを描いた『海辺の生と死』、『月子』、佐伯一麦原作の『二十六夜待ち』の3本が立て続けに公開。本作に先駆け、監督・脚本・撮影・編集を手がけた『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景 vol.1』が10月19日に公開。

『夕陽のあと』ストーリー
鹿児島県最北端の長島町。佐藤茜(貫地谷しほり)は都会からやってきて食堂で働き、1年になる。明るく溌剌とした働きぶりで人気だが、自分のことを語ることはなく謎に包まれている。
島で生まれ育った日野五月(山田真帆)は、島に戻って家業を継いだ夫の優一(永井大)、義母のミエ(木内みどり)、里子の豊和(松原豊和)と平穏に暮らしている。五月は長い間不妊治療を続けてきたが断念し、7年前赤ちゃんだった豊和(とわ)の里親となった。豊和には知らせず、7歳になった今まで我が子同様に暮らしてきた。ようやく生活が安定してきたので、特別養子縁組の申し立てを行うところだった。手続きは順調に進むと思えたが、豊和は東京のネットカフェに置き去りにされた乳児であり、その母親が佐藤茜であることがわかる。

監督:越川道夫
脚本:嶋田うれ葉
音楽:宇波拓
企画・原案:舩橋敦
撮影監督:戸田義久
配給:コピアポア・フィルム
(C)2019 長島大陸映画実行委員会
http://yuhinoato.com/
★2019年11月8日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー

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―越川監督はプロデューサーをされているほうが多いですね。この作品には監督としてご指名があったんですか?

いつもは製作のプロデューサーたちと何をやるかということを話し合いながら、僕が企画を作って立ち上げています。監督をやりながらもどこかでプロデューサー的な部分を担うことが多いんです。この作品に関しては製作委員会のほうからやらないかという話があり、その時点でほぼほぼプロットがあり、キャストも決まっていました。
僕は澤井信一郎という監督の弟子筋になります。当時の職業監督はそうだと思うんですけれど、彼らはスターシステムの中で、たとえば「この原作でこの人で」と決まった中で、自分の作品作りというものを真摯に考えていったと思うんです。今回それに比較的近い形で、僕のところに話がきました。それがね、面白いと思ったんです。
僕は作家であるというより、どこかで自分を職業監督と思っています。わりと企画を考えるときも「人」から入って「この俳優に何をやってもらったら輝くのか?」と考えることが多く、そういう考え方は嫌いじゃないんです。
なおかつ島の人たちの「この映画を作りたい」という思いは、プロデューサーをやっていて地方の方たちと映画を作ることがこれまでも多かったので、自分なりにはわかっているつもりです。自分ができるのであれば「その思いを形にしたい」と受けました。
舩橋淳さんの原案とプロットラインはそんなに変わっていません。結末はちょっと違いますが。

―どこが違うのか気になります。伺っていいですか?

いいですよ。舩橋さんの原案だけじゃなくて、これまで「育ての親」と「産みの親」をめぐる作品はたくさんあります。プロットを読んで僕が思い浮かべたのは「大岡裁き」であり、ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」(1948)です。育ての親と産みの親が子どもの両手を引っ張って、子どもが「痛い」と言ったら離したほうを親とした、というような。しかし、今回、僕はその「白墨の輪」の外に出なくちゃいけないと思ったんです。これは、どちらかに決められる問題じゃない。
もっと言えばそれを決めようとするのは親の都合なのであって、子どもには関係ない。いや関係はあるんですよ。子どもは親の影響を受けるわけですから関係はあるんですけれど、子どもにはどうにもならない。白黒つけようとするのは親のエゴだと思います。もちろんそれは子どもに対する愛情ゆえではあるのですが。

前のプロットは比較的どちらを選択するかという結末になっていました。でも、それでは僕には撮れないと思った。この問題点の外に出て、子どもを解放しなければならないと考えたんです。「子どもの人生は誰のものか?」と聞かれれば「そりゃ子どものものですよ」と誰もが言うでしょう。しかし、親である僕らはなかなかそれを現実的にやれません、やっぱり「僕の子ども」「私の子ども」になってしまい、どこかで子どもを私物化し所有してしまう。そして子どもたちは、どうしても親の影響を強く受けてしまいます。たとえばDVを受けた子どもが、自分もDVをしてしまうのではないかと思って苦しむ例はいくらでもあると思います。そういうことから子どもたちをどうしたら解放できるだろう、子どもたちの人生は子どもたちのものであるとどうしたら言い切れるのか。少なくとも、この映画において、子どもたちも含めて二人の母親は「こうなってしまったことを引き受けて向き合いながら生きていかなくちゃいけない」と思いました。「生きていかなくちゃね」というのはチェーホフ「桜の園」の台詞ですけれど、誰もが続いていく人生を生きていかなくちゃいけない。この映画に描かれているのは、容易に解決されることのない人生の継続された問題なんです。

世の中にはさまざまな親がいて、さまざまな形の夫婦があります。子どもを産んだ人たち、自然分娩の人たちがいて、帝王切開の人たちがいて、養子縁組をする人たちがいて、子どもがほしいと思いながら恵まれなかった人もいます。積極的に子どもを作らない選択をした夫婦もいます。LGBTの婚姻というのもあり、ずっと籍を入れないパートナーというのもあり、様々な形態があるわけです。
しかし、誰もにとって子どもの問題というのは、無関係な問題ではないはずです。それは、自分たちの後からくる人たち=子どもたちに対して、私たちが何ができるのかということです。それが「私の子ども」でなかったとしても。アメリカのインディアンは七代先のことを考えると言いますけれど、大人にはその責任がある。この映画がそこまでなんとかして届いてほしい。そうでないと描いたことにならないんじゃないか。「どっちの親に行きました。おしまい」という形にはならないし、なれない。そういうことを考えながらシナリオを作って行きました。

―子どものことを一番に考えて歩み寄った形になりましたね。

「子どもを救え!」だと思います。僕はそう思います。

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―お母さん役の貫地谷しほりさん、山田真帆さんは、もう決まっていたんですね?

決まっていました。僕がキャスティングしたのは、宇野祥平さん、滝沢涼子さん、鈴木晋介さんの3人だけです。

―こういう真面目な宇野さん(児童相談所の職員役)を初めて見た気がしました。

宇野さんは、20代のころからの知り合いですが、エキセントリックな役をやることが多いと思います。彼らの違う芝居が観たい、と思います。『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景 vol.1』では宇野さんだけでなく深水さんにも、いつもとちょっと違う役柄を演じてもらいました。俳優は、一つの当たり役があるとイメージが固定して同じような役を振られることがよくあると思います。でも、もっといろんな顔を見たいと思うし、できると思うので、みんなで試行錯誤しながら芝居を作っていきたいと思っています。宇野さんは40になってほんとにいい役者になりました。

―俳優さんにとってありがたい監督ですね。

一緒にいろんなことして遊びたいんですよ(笑)。

―監督は「映画作りはライブに似ている」とおっしゃっていましたね。

そうです。僕の頭の中にある青写真は、机上のものです。現場では、それを元にみんなで作業をするわけですが、青写真通りになることを僕は望みません。ともに作業をしながら、自分たちが想像していなかったものが出てくることを望んでいます。ひとりの頭の中から出てくるものよりも、共同作業の中から有機的に生まれてくるものを信じているんです。そうでなければ、共同作業の意味がないと思うからです。

―貫地谷しほりさん、山田真歩さんには監督からどういったお話をされたんでしょうか?

それはもういっぱいありますよ。
貫地谷さんと山田さんでは、芝居の質が全く違います。どちらがいい悪いではなく。その質が違うものが一つのフレームの中にどういることができるか、ということを考えていました。ましてや島の人たちが300人くらい出演しているわけですから、尚更です。俳優と俳優ではない人がどう一つの映画の中に共存できるのか、質の違う芝居が質が違うままどうしたら一つの映画の中にいることができるのか、ということをさんざん考え、話しあった2週間でした。

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―ロケの期間が2週間ですか。すごく短いですね。

大騒ぎです(笑)。でも夜9時半には撮影を終わりたいと思っています。みんなを寝かしたいんです。風呂に入って寝る。そうしなかったら、スタッフもキャストもいいパフォーマンスできないですよ。もちろん越えちゃうこともあるんですけど、基本的に、徹夜でやって、こんだけ頑張ったぜっていうのは自己満足だと思います。疲れ切って事故おこしたらしょうがないですから。これは労働、仕事ですからみんなちゃんと食べてちゃんと風呂に入って寝て、いいパフォーマンスをする。大事なことだと思います。

―監督は「身体から生まれるものを大事にする」とおっしゃっていましたが、それは作りこまないで出てきた生のものということですね。ワンテイクで終わることも多いですか?

多いですよ。もちろんリハーサルしますし。
ただ、3テイク以上撮ったら、あと30テイクやらないといいものは生まれないと思います。

―3テイクと30テイク???

3テイク目くらいからは芝居は安定するんです。要するに、役者というのは基本的に不安なものです。自分の身体と心をさらして、独りぼっちで、画面の中に置き去りにされるわけです。だからものすごい不安と恐怖の中にいるので、役者は基本的に安定したいと思う。しかしね、安定した芝居は面白くないです。だから絶えず役者を不安定な状態においておくことが重要になってきます。
安定しだすと相手の芝居が変化しても自分の芝居が変わらなかったりする。芝居はアンサンブルですから、絶えずアクションに対するリアクションが必要です、自分が机上で考えてきたように相手が芝居するかは分からないわけですから、自分の考えてきた芝居だけに固執し安定を求めると芝居が生き生きしていきません。
僕は流動的なものを望みますから、現場、その場所のアンサンブルで生まれてきたものを大切にします。だから基本的にはワンテイクで終えることができれば、それに越したことはありません。

―30テイク以上になっちゃうと、役者さんも揺れますし、疲れるでしょうね。

あ、そうだと思いますよ。それね、小津安二郎監督『東京物語』(53)でも大坂志郎さんへの演出でそうしていたという話を聞いたことがあります。大坂さんはもう自分でも何やってるかわからなくなっていたのではないでしょうか。自分でもコントロールできないところにいる状態にわざと俳優を置いたのだと思います。
『アレノ』を観ていただいたならわかると思うんですけど、冒頭山田真歩さんの真冬の湖から引き上げられるシーンがあります。彼女は芝居をいっぱい考えてきたんだと思います。だけど、湖があまりにも寒くてもう体が言うこときかない。暖かいところで考えてきた芝居など一つもできない。でもそのときが一番面白かった、スリリングだったと、体に任せたのだと言ってくれたことがあります。
どんな映画でもエンターテイメントだと思うし、どうなっていくんだろうこれ?っていうサスペンス性みたいなものがメロドラマやラブストーリーにあってもいい。人の興味を引っ張っていくのであれば、フレームの中の芝居がどこに向かうかわからないのが、一番面白いわけです。そのためには僕がわかってちゃいけないんだよね(笑)。

―あぁやっとわかりました! 役者さんも自分もアンコントロールの状態に置くっていうのはそういうことだったんですね。

机上で考えたことは机上のものですよ、やっぱり。現場には風が吹いていて、雨が降って、土があって…寒かったり。そこで変わらなかったら嘘ですよ。僕ではない人間がそこにいるわけです。僕は自分を描くことには興味がない。

―監督さんは自分を投影したり、重ねたりするものだと思いましたが、越川監督は自分のことは使わないですか?

いや、使いますよ。なぜかといったら、人の、役者個人でも観ている人でもいいですけど、その個人的な記憶を引きずり出すために、僕も自分のことを使います。

―引きずり出す…

自分が率先して裸になっているようなものです。だから僕は自分の恥ずかしいことでも人を裸にするために使う。僕は森崎東さん(2013年『ペコロスの母に会いに行く』監督)と台本を作ったことがあるんです。森崎さんは、実話をすごく求めるんです。それをぼんぼん台本に取り入れる。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985年)もそう。近藤(昭二/脚本)さんに話を聞くと。なんなんだろうなと思うんですけど、解釈を許さないような強さがそこにはあるんです。
ある程度個人的なものが出てきたとき、目にした僕たちは自分の経験にアクセスすることが多い。だから、僕は自分の話を使います。でも自分をやってほしいわけじゃないんです。個人的な体験を演劇として立ち上げていくということを、若い俳優たちとのワークショップでもよくやります。台本を使わずに、みんなに話をさせて、それを芝居として立ち上げていく。話の中から何を掴み出して、芝居を作っていったら演劇になるのか?それを若い役者たちとやるんです。『愛の小さな歴史~』の瀬戸かほさんともそれをワークショップで2年間やりました。

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―(話戻って)豊和(とわ=本名)くんは、島の子どもの中から選ばれたそうですが、全く演技経験がない彼をどう演出されたんですか?

豊和のことは何も心配していませんでした。豊和のいいところは、「物事を豊和の感じ方で考えたり、思ったりする」ところです。誰々がそう言ってるからとか、親たちがそう思っていたことがあるからとかではないんです。
豊和が覚えてきたセリフが出てこないときがある。それは豊和の責任じゃなくて、大人たちの責任だと思います。大人が子どもたちにチューニングを合わせていない。大人たちが勝手に「子どもたちはこう考えるだろう、こういうもんだろう」という考えで子どもを縛ろうとすると、子どもたちは止まります。これはこの映画のテーマとも通底しているんですけど、大人が豊和にチューニングを合わせることができたら、豊和はどこまでもできるんです。
具体的なことを言えば、助監督たちが子どもたちに「ああしてこうして、ここで止まって、ここでこうしなさい」と言ったら子どもたちは萎縮してどんどんできなくなります。そして大人の考えに合わせてあげようとする。すればするほどできなくなる、子どもの考えとは違うから動けなくなる。死んでしまうんです。
逆に「豊和、この石の上からすっげーカッコよく飛び降りてくれる?何度も」と言ったら、「わかりました!」って、やりますよ。それだけでいいんです。

―豊和くんの台詞は脚本にあるものですよね。それが自然に身体から出るまで待つ感じですか?

脚本にある台詞です。キャンプのシーンの撮影の後、豊和は号泣したらしいです。なぜなら「自分の思った演技ができなかった!」(笑)。お前どんなプロなんだよ(笑)。
豊和は考えている。子どもたちが考えてないなんて大人の思い上がりです。それはね、『楽隊のうさぎ』(14)のプロデューサーをしたときそう思いました。あの子たちは、いじめのことに関しても自分たちなりにいっぱい考えている。だから大人たちが「君はこう思ってる」と考えたら違うんですよ。そんなこと思ってない。大人が机上で考えた子どものイメージよりも、子どもたちに聞いたほうが面白い。子どもにチューニングを合わせたほうが面白い。

―豊和くんはとにかく、自分で咀嚼して「やる」んですね。

そう。「面白いね、豊和!カッコよかったね」「でしょ?」みたいな(笑)。

―豊和くん可愛いですよね。富士山みたいな口元も可愛い。

すごい可愛いです。で、変な動きするんです(笑)。

―劇団出身の子どもたちとは違いますね。

大人におもねろうとするから。子どもは大人の思い通りになんかならないですよ。うちの子どもみたいに。

―映画の豊和と豊和くん本人とは?

映画に描かれているのは「役」で豊和ではないので、彼が自分自身でいろいろ対話をして考えてくるんだと思います。それを僕の前でやってみせてくれるんです。
山田さんは上手かったですよ。豊和から台詞が出てくるように「いる」んです。だから豊和からも言葉が出てくるんですよ。チューニングの仕方があるんです。

―やっぱり7年一緒に暮らした感じが出ていましたね。

豊和とどう演技していくかと考えたことが、母親として豊和とどうやっていたかっていうのとちゃんとエコーしている。そういう芝居になっていたと思います。

―貫地谷さんのほうは同じ時間、穴があいたままでいて、それをなんとか折り合いをつけていくところまで、とても切なかったです。あの子ども部屋を覗くところとか、取り戻せないものがある。
その自分の部屋があるのに、豊和はまだお母さんたちと川の字で寝ているんですね。ずっと可愛がられてきた、っていうのがそこだけでもわかりました。


わりと、僕の経験を使っているんです。「ギューして」っていうところ、あれうちの子なんですよ。小学校3年の息子ですけど。そういうところがいっぱいあります。それをあまり解釈しないで画面の中に置いておく。解釈しすぎるとまた机上の空論におちていきますから。

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―母親の話、子育ての話でもあるし、貧困と孤独の話でもあるし、都会と地方の話でもあるし、いろんな観方ができますね。

子どもをめぐる映画は、不可避に様々な問題を含んでしまうと思います。僕自身が体験したことでもあります。東京で子育てをするのがどんなことなのか、実際やってみないとわからなかったです。
そんな一つ一つがこの映画にはいっぱい入っていますし、さっき言ったように子どもがいない人には関係ない映画にしちゃだめなんです。人が生きていくってことはそういうことだと思います。様々なことと対峙しながら生きていくわけですから。

―私は小3まで北の島で育ちました。舞台は南ですが、人情とか濃い関わりとか、子どもは周りから見てもらっているとか同じでした。

僕は浜松です。昔が良かったというわけではなく、共同体の中での生活ってやっぱりあったんですよ。僕は洋品店の長男ですが、町の人達がみんなで僕を育ててくれたような感覚があります。

―ロケ地ですが、鹿児島だから南端だと思ったら、長島はずいぶん上(北)にあって思ったより大きな島なんですね。

天草寄りなんです。実際の豊和の住む獅子島は長島の二つ先の島で、雲仙天草国立公園にちょっとひっかかっています。群島なので人の住んでいない小さな島もいっぱいあります。

―茜の家はなんだか人が住んでいなかったような感じがしました。豊和のおうちは生活感ありましたが。

あの映画の中では少ししか触れていませんが、やはり過疎なんです。出生率は高いですけど、島に高校がなくなって外に出なくてはいけない。Uターン、Iターンで戻ってくる人が多くても、人口は減ってい流そうです。それで空き家プロジェクトがあって、戻ってきた人に安く提供しています。あの家も、そんな家のひとつです。豊和の家も空き家だったのを掃除して飾っています。美術(岡村正樹)さんと、役者のお芝居の力がそう感じさせていると思います。

(残り時間お知らせ)

―わー、ちょっと辛い(笑)。では綺麗だった夕陽の撮影のことを。計画通りでしたか?

撮れて良かったと思いますよ。二週間なので、夕陽は14回です(笑)。そのうち3回撮らなくちゃいけないっていうの、スケジュールとしては結構しんどい。ずらしようがない。夕陽が出てよかった。
映画というものは、僕が撮りたいから、と言って撮れるものではないんと思います。そうやってきてちゃんと夕陽が出るっていうのは、この島のために何か僕たちができている、だから撮らせてもらえているのかなと思いました。

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―この作品は長島のプロジェクトから出たものですよね。とても貢献できたんじゃないですか。

そうだといいんですけど。僕はプロデューサーとして『海炭市叙景』(10)をやったんですが、そのときもプロジェクトがあって「越川さんこれやってくれない?」って函館から電話がかかってきたんです。『楽隊のうさぎ』もその『海炭市叙景』を観て、うちでもやりたいと僕の故郷である浜松市の人たちから声をかけてもらって作りました。彼らの思いをどう受け止めるのか、それにどうこたえていくのか、っていうのはすごく真摯に考えました。いつもそう考えてきました。

―ストーリーとロケーションがいいですし、ご当地だけでなく、どこででも通じる受け止められる映画だと思います。

函館でも「絵葉書のような函館が出てくる映画はいらない」と言われたんです。長島の人たちにも「いい映画を」と言ってもらいました。

―これは地元の方々に先に観ていただけるんですか?

製作委員会の人たちはもうDVDとかで観ていると思います。映画館のない町なので、10月26日に僕と貫地谷さんが鹿児島に行って、お披露目の上映があるんじゃないかな。

―エンドロールにたくさんの協力者のお名前がありました。

『海炭市叙景』もそうでしたが、あのクレジットの長さに「思いが可視化している」と思います。ハリウッド映画みたいに長い。

―豊和くんはどうしているんでしょう?

去年撮影して豊和は今5年生かな? ゲームやってると思います(笑)。初号試写に東京まで来てくれて、久しぶりに会いました。

―あのまんま大きくなってほしいですね。俳優になりたいとか言いませんか?

あのまんま大きくなってほしいですけどね。俳優はねえ、言わないんじゃなかなぁ。『楽隊のうさぎ』では、プロダクションに入った子はいました。でもね、彼らに俳優になってほしいわけじゃないんです。ただ、彼らの人生の中で「ものを作るということは大変だけど面白い」って残ってくれればと思います。彼らが辛い目に遭ったとき傍らに「映画や音楽や本や表現されたもの」があって、それが大事なものであってくれたらとも思っています。僕にとって芸術ってそういうものだったし、実際に芸術に救われましたから。彼らにとってもそうであったらいいな。

―めったに映画の内側には入れませんし、とってもいい経験だったはずです。

こういう映画は町の記録でもあるし。そのときの町の在り方を低予算の映画でも映しこんでしまえますから。こういう風に映画を撮って、権利を含めて地域がその映画を持っているというのはすごく大事なことだと思います。

―ほんとにそうですね。今日はありがとうございました。


=取材を終えて= 

2人の母親、貫地谷しほりさん、山田真帆さん、どちらも息子を失いたくない。豊和(とわ)くんがまた愛くるしいんです。両方の母親の気持ちもわかるし、どうするのが一番子どものためになるのか、ぐるぐる考えてしまいました。一男一女の父親でもある越川監督は、ずっと先を見据えた大人としての責任も観客に問いかけています。たくさんの方々に届きますように。
越川監督はプロデューサー歴が長く、50歳にして初めて監督をされたそうです。その始まりを伺いたかったのですが、長くなりそうとのことだったので、新作のお話を先に伺って後で戻ろうと思いました。が、演技やワークショップのお話など興味はつきず、時間はあっというまに過ぎて始まりには戻れませんでした。初監督作『アレノ』での越川監督と渋川清彦さんのインタビューをよそで見つけました。これはちょっとやそっとでは終わりません(笑)。
気の合う仲間と遊ぶのが好き(=仕事)とおっしゃる監督とキャスト、スタッフとの仲の良さ、現場の楽しさが想像できます。
(写真・まとめ:白石映子)