『少女は夜明けに夢をみる』 メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『夜明けの夢』が、この11月2日(土)より『少女は夜明けに夢をみる』の邦題で東京・岩波ホールほか全国順次公開されるのを前に、メヘルダード・オスコウイ監督が来日。「国際人流」と2誌合同でインタビューの機会をいただきました。


『少女は夜明けに夢をみる』

原題:Royahaye Dame Sobh(夜明けの夢) 英題:Starless Dreams
監督:メヘルダード・オスコウイ
製作:オスコウイ・フィルム・プロダクション

高い塀に囲まれた女子更正施設。ここには、強盗、殺人、薬物、売春などの罪で捕らえられた少女たちが収容されている。
取材申請してから7年待ち、ようやく3ヶ月間の取材許可を得たオスコウイ監督。更正施設に通って、少女たちにマイクを向ける。
監督に同年代の娘がいることを知り、「あなたの娘は愛情を注がれ、わたしはゴミの中で生きている」と語る少女。そんな彼女たちが心を開いたのは、監督自身、15歳の時に父親が破産し、自殺をはかった経験があると知ったからだ。少女たちが語った人生は、それぞれが壮絶だ。貧困や、親族からの虐待で罪を犯してしまった少女たち。雪だるまを作り、無邪気に雪合戦に興じる姿からは、心に傷を抱えながらも、塀の中で過ごしている間は安心したように見える。
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作品紹介 

2016年/イラン/ペルシア語/76分/カラー/DCP/16:9/Dolby 5.1ch/ドキュメンタリー
配給: ノンデライコ
(C)Oskouei Film Production
公式サイト:http://www.syoujyo-yoake.com/
★2019年11月2日(土)より、東京・岩波ホールほか全国順次公開

メヘルダード・オスコウイ
 Mehrdad Oskouei
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1969年、テヘラン生まれ。映画監督・プロデューサー・写真家・研究者。「テヘラン・ユニバーシティ・オブ・アーツ」で映画の演出を学ぶ。これまで制作した25本の作品は国内外の多数の映画祭で高く評価され、イランのドキュメンタリー監督としてもっとも重要な人物の1人とされている。2010年にはその功績が認められ、オランダのプリンス・クラウス賞を受賞している。イラン各地の映画学校で教鞭を執り、Teheran Arts and Culture Association(テヘラン芸術文化協会)でも精力的に活動している。2013年にフランスで公開された『The Last Days of Winter』(11)は、批評家や観客から高く評価されている。(公式サイトより)


◎メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

机の上には、監督が持参したペルシア柄のテーブルセンターが敷かれ、ピスタチオ入りのクッキー「ソーハーン」が置かれていました。

   K誌(「国際人流」佐藤美智代さん) 
   シネジャ(シネマジャーナル 景山咲子)

◆少年更生施設の奥の少女たちが気になった
K誌:本作はティーンエイジャーの3部作の最終章ですが、そもそも少年少女たちの映画を撮ろうと思ったきっかけを教えていただけますか?

監督:この作品だけでなく、私はいつも、声を出せない人たちや、声を出しても聞く人がいない人の言葉を皆に伝えたいと思って作っています。
3部作は、青少年の話でもありますが、刑務所の話でもあります。青少年時代の自分の体験なのですが、15歳の時に父が倒産してしまって、家族は経済的に苦しくなって、私自身、絶望して自殺しようと思ったことがありました。
革命前なのですが、父も祖父も政治的な理由で刑務所に入れられていました。ですので、子どもの時から刑務所の話を身近に聞いていました。自分の経験した15歳の時の混乱と共に、こういうテーマで撮りたいと思いました。
青少年を巡る3部作ですが、イランの映画史の中では初めてドキュメンタリー監督のカメラが刑務所に入りました。
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K誌:娘さんがちょうど生まれて女の子に興味をお持ちになった時期であったり、社会的経済的混乱の中で子どもたちの犯罪が増えたことが映画を撮るきっかけになったのでしょうか?

監督:
最初に少年施設を撮ろうと思ったのは、自分の15歳の時の経験などが影響しています。少年施設に入って撮影した時には、自分には娘がいたのですが、それがきっかけになって少女に興味を持ったわけではありません。
少年施設を撮っていたときに、少女が連れていかれるのをみて、奥に少女の施設があるのがわかりました。
カメラを持って入ってみると、自分の娘と同じ年ごろの少女たちがいて、皆、自分の娘よりも頭もよくて、大変な経験をしていて、彼女たちの将来はどうなるのか、施設の中でどういう生活をしているかに興味を持ちました。
最終的には撮影許可が下りるまで、7年待たされました。ねばって待ったのは、少年施設を撮っていた時に少女が奥に連れていかれるのをみて、すごく驚いて、絶対中を見てみたいと思ったからなのです。

◆自分の痛みを治すために映画を作っている

シネジャ: 「お父さんに仕事があればいいのに」という少女の言葉が切実でした。監督も15歳の時、お父様が破産して自殺しようと思ったとのこと。未成年の子どもにとって家庭環境が人生を左右すると、つくづく思いました。イランだけでなく、どこの国でもあることと考えさせられました。

監督:今の言葉を聞いてわかったのですが、私たちは子ども時代に経験したことを忘れてしまうのですが、大人になって同じような経験をした人の話を聞いて、自分にもそんなことがあったなぁと、ふっと思い出します。人間の気持ちを題材にして映画を作っている監督たちは、自分の内面と会話しているのだと思います。自分の中に何か問題があったり、悲しみや痛みがあるのを治そうと思って映画を作っています。私は15年間も刑務所の話を撮っているのですが、まわりの監督から、「もうその題材はやめてほかのことを撮れば」と言われても、「言いたいことが終わってない」と答えるのです。でも、終わってないのではなく、自分の中の痛みが解放されてないので、撮りながら自分を治そうとしている部分が大きいのだと思います。
作品が出来ると、皆に見せて、これから子どもたちをそういう目に合わせない方法を考えましょうと提示したいのです。皆の救いになれば、自分の痛みも癒されると思っています。


◆家族の絆が強いイラン人。外国では群れないのは、なぜ?
シネジャ:イランの人たちは家族の絆がすごく強いと思っているのですが、そんなイラン社会で、この施設にいる少女たちは施設を出て家族と会うことも拒みたいと言っています。人間関係が希薄になっている日本では、さほど感じない寂しさを、イラン社会では家族との関係が希薄なことをいっそう寂しく感じるのではないかと思います。
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監督;大事な話だと思います。文化の違いの話だと思います。2日間、いろんな方と話をしてわかったのですが、日本の施設では、入所している青少年に自己責任として反省させたり謝罪させたりしているようです。イランの施設では、施設の人たちが入所している子どもたちを守ろうとします。慰めて、皆とシェアしようとします。そこは文化の違いだと感じます。
これは私の疑問なのですが、いろんな国にイラン人が住んでいるのですが、イラン人は中国人やインド人のようにコロニーをつくりません。
イラン人は国を出ると単独で暮らす傾向があります。イランの中にいる時には、家族の絆も強いし、親戚などとよく集まるのに、これはなんだろうと。
例えば、空港でイラン人を見かけても、お互いイラン人とわかっても、知らない顔をします。外人ですという顔で前を通ったりします。国の中にいると、あんなに群れるのに。
この映画の少女たちも、家族のような気持ちになっているし、ソーシャルワーカーたちも、家族の中にいるような環境を作ってあげています。それほどイラン人は国の中ではコロニーを作るのが好きなのに、一歩、国を出ると、なぜあんなによそよそしくなるのかと思ってしまいます。
日本に来てみると、日本人は一人一人が孤独を感じているようにみえます。家族や親戚で集まることや友達のところに遊びに行くこともイランほどないと聞いています。それが一歩、日本を出ると、ヨーロッパやイランのツアーでは、皆くっついていて、旗の下で一緒に動いていてます。日本人は国の中でコロニーをつくらないので、イラン人と正反対で、なぜだろうといつも思っています。国の中で、一人一人でいるから、逆に外に出ると集団行動できるのかなと。
施設は、一つの大きな壁の中にあって、そのさらに小さな壁の中にいる十数人は、お互いをサポートして慰めあってくっついているのですが、一歩施設を出るとばらばらになります。
日本では、施設の中でばらばらで孤独。お互いに気持ちをシェアしないと聞きました。逆に質問したいのですが、日本人はなぜ自分の痛みをシェアしないのですか?

わたしたち二人:なぜなのでしょう・・・ 難しいですね。

監督:あんなに質問して、答えてあげているのだから、答えてくれなくちゃ。ドキュメンタリー監督としては、疑問を持ってカメラを動かしていて、いつも質問する側です。映画を通して大きな質問を投げかけているのに、今日はその映画について質問されるので、仕方ないから答えているんですよ。(笑)

シネジャ:日本人は、自分のことを知られたくないから、思いを明かさないのではないかと思います。

監督:
日本人は、そうやって、なぜ蓋をしようとするのですか?

シネジャ:
恥だと思うからかなと。

監督:文化的背景があるのですか?

シネジャ:
う~ん、どうでしょう。


◆壮絶な経験をした人は強くなる

監督:昨日、少女更生施設に入っていた経験のある女性の方から取材を受けました。今は成功して仕事をしていらっしゃる方です。その方は、まっすぐ私やショーレの目を見て、質問してくださいました。この2日間でいろんな方にお会いしたのですが、ほかの方は、まっすぐ私を見ずに目をそらして話すのに、とても印象的でした。
更生施設に入っていろいろな経験をして出てきたことや、今は4人子どもがいて、本も書いてと、まっすぐ自分のことを話してくださいました。すごい体験をした人は、すごく強くなっている気がしました。
私が取材した少女たちも、すごくしっかりとした意志を持っていました。先生になりたい、大学に行きたいとか、実現できるかどうかは別にして、やりたいことをはっきりと語りました。なぜ、苦労した人の方が、強くなるのかというのが、私の中の質問です。普通に社会の中で生きている人たちは、自信がなかったり、戸惑ったりしているのを感じます。
日本に来て数日ですが、いろいろな疑問が湧いてきたので、この映画が公開される時には、また来日して、日本の皆さんの声を聞いてみたいです。
この作品は、ヨーロッパやアメリカでも上映されて、観た人たちと話をして、何を感じたのか、どういうところで感動するのかなどもわかりました。
日本人がこの作品を観て、どう思ったのか、どこで感動したのか、普通の観客の人たちと話してみたいのです。私の作品の目的がちゃんと日本人に伝わるのかも知りたいのです。
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小津監督は、家族をテーマに映画を作っていて、日本の家族はこういうものということを少し学んだのですが、それから50年以上経っていて、日本の家族がどう変わったのかも知りたいと思っています。
黒澤監督の映画を観ると、スケールの大きなものを描いています。シェークスピアのハムレットのような歴史的な時代劇を作っているのですが、小津監督は、日本の小さな家族の中に入って、個々人がどんな考えを持っているのか、どんなコミュニケーションを取っているかを描いています。
私が取材した施設の子どもたちは、小さな環境の中にいるのですが、一人一人細かくみてみると、深みを感じます。ほんの数人が、イランという国の文化まで説明してくれるとわかります。今、私たちは作品を通じてイランと日本の文化まで話したではないですか。

◆権力者が絨毯の下に隠したものをはたきだして見せる
監督:昨夜、少しの時間ですが渋谷の街を歩いてみて、若者たちの姿を観察してみました。立ち方、坐り方、服装をみると、アピールしているものと中身が違っている感じがしました。
私は小津監督の『東京物語』(1953年)が好きなのですが、何十年前に作られた映画の中で、おじいさんとおばあさんが心を開いているのに、若い人たちはそれを受け止めないというジェネレーションギャップを描いています。
今の子どもたちと家族がどういう関係を持っているのかを考えると、もっと距離が離れている気がします。それがなぜなのか知りたいのです。
いろいろな文化の中で、どう人が生きているのかを私は考えてみたいと思っています。
(ここで、コップが倒れて水がこぼれました)
イランでは水が流れると明るい未来が開けるといいます。いい兆候です!
イランでは、物事を絨毯に例えて語ることが多いのですが、権力者や政府は、こういう施設のことや貧困社会のことを絨毯の下に隠します。視界に入らないようにするのですが、このような作品を作るのは少しだけ絨毯をあげて見せるためなのです。でも、また権力者は絨毯の下に隠します。私たちのような人が増えて、風で絨毯が飛んでしまえば、隠れたものが見えるようになります。


◆死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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シネジャ:少女たちが食卓を囲んでイランの新年「ノウルーズ」を迎える瞬間を映した場面がありました。イラン暦新年1394年でしょうか? 西暦2015年3月21日(土) 午前2時15分11秒(テヘラン時間)ですので、ちょうど夜明け前です。
(注:イラン暦の新年は、春分の日に迎えます。太陽が春分点を通過する時間を天文学的に正確に計算して、新年を迎える時として事前に発表されます。年によって、真昼になったり、夕方になったりと時間は様々です。)

監督:いいえ、撮影したのは、その前年、イラン暦1393年(西暦2014年)です。

シネジャ:
そうすると、新年を迎えたのは、午後8時27分7秒でしたね。

監督:タイトルを『夜明けの夢』としたのは、刑務所で死刑執行の時間が朝の5時で、彼女たちは死刑宣告を受けているわけじゃないけれど、朝の5時というのは怖い時間。5時を過ぎれば、安心して夢がみれるのです。

★監督から逆に質問攻めにあい、もう時間切れだったのですが、無理をお願いして聞いた私の意図を監督は察知して、「夜明けの夢」の意味するところを答えてくださいました。 
(注:11月6日にもう一度映画を観てみたら、新年を迎える場面、クルアーンや金魚を飾っているテーブルが出てきて、ラジオから「1393年になりました。おめでとうございます」というアナウンスが聴こえてました。失礼しました。映画でちゃんと言ってるじゃないかと冷たいことを言わない、優しい監督でした!)
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☆取材を終えて

お会いした時に、ペルシア語で挨拶したら、とても喜んでくださって、今日はペルシア語で話しましょうと冗談交じりに言われました。(もちろん、私のペルシア語が挨拶程度と見越したうえで!)
国の中では、あんなに群れるイラン人が外では群れないという監督の話に、知らないイラン人どうしでは、お互いの政治的立場などがわからないから、あえて近づかないのではないかと思いました。革命後、外国に出たイラン人は多く、ロサンジェルスやロンドンでは、ペルシア語のテレビやラジオもあって、決して群れないわけではないのです。
プレス資料のインタビューに、少女たちに接する時に、アムー(父方のおじ)だと嫌がられ、ダイー(母方のおじ)なら受け入れてくれたという話が興味深かったので、そのことも詳しく聞いてみたかったのですが、時間切れで残念でした。
精力的に話す監督に、とにかく圧倒されました。これからも絨毯の下に隠されてしまったものを大いにはたき出して衝撃的な映画を作り続けてくださることと期待しています。

取材:景山咲子