『種をまく人』竹内洋介監督インタビュー

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*竹内洋介監督プロフィール*
1978年埼玉県生まれ。芝浦工業大学卒。一般企業に就職後2001年に退職してアメリカで航空機免許を取得、さらにハワイで滑空機の免許を取得。2002年パリに渡り、油絵を学ぶ。その後半年間アフリカを旅し、2004年に帰国。
2006年初短編『せぐつ』を発表。2016年初長編『種をまく人』を自主製作。世界各地の映画祭にノミネートされ、第57回テッサロニキ国際映画祭では最優秀監督賞、最優秀主演女優賞(竹中涼乃)を受賞。第33回LAアジア太平洋映画祭では最優秀作品賞、最優秀脚本賞、最優秀主演男優賞(岸建太朗)、ベストヤングタレント賞(竹中涼乃)の4冠に輝いた。

『種をまく人』ストーリー
高梨光雄(岸建太朗)は3年ぶりに病院から戻り、弟・裕太(足立智充)の家を訪れた。姪の知恵(竹中涼乃)やその妹でダウン症の一希(竹内一花)に迎えられ、久しぶりに団らんの温かさにひたる。知恵は光雄が聞かせてくれた被災地のひまわりの花と幼い一希の姿が重なる。知恵は一希を愛する心の優しい姉だった。翌日、光雄は知恵と一希を遊園地に連れていくことになった。ひとしきり遊んで、光雄がちょっと目を離したとき悲劇が起こってしまう。

監督・脚本:竹内 洋介
撮影監督:岸 建太朗
助監督・制作:島田 雄史
撮影・照明 : 末松 祐紀 
録音・サウンドデザイン 落合 諌磨
カラリスト:星子 駿光
出演:岸建太朗(光雄)、足立智充(裕太)、中島亜梨沙(葉子)、知恵(竹中涼乃)、杉浦千鶴子、岸カヲル、鈴木宏侑、竹内一花(一希)、原扶貴子、植吉、ささき三枝、カウン・ミャッ・トゥ、高谷基史

2017/日本/カラー/ビスタ・DCP/117分
配給:ヴィンセントフィルム
©YosukeTakeuchi
http://www.sowermovie.com/
★ 2019年11月30日(土)より池袋シネマ・ロサにてロードショー
毎週水曜日・日曜日はバリアフリー用日本語字幕付き上映


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―着想のきっかけは東日本大震災の被災地に咲いていたひまわりと、姪ごさんの誕生だと資料で読みました。姪ごさんはこの映画に出ていた妹の一希ちゃん役で当時3才。お姉ちゃん知恵役の竹中涼乃ちゃんが当時10才。もうずいぶん大きくなられたでしょう。

2011年の大震災の半年後に、岸さん(撮影監督兼主演)と一緒に被災地に赴いたのですが、荒れ果てた砂地に咲くひまわりを見ました。その時脳裏に走ったイメージは鮮烈でした。それから翌年の2012年に姪っ子の一花(いちか)が生まれます。撮影から4年経過したので一花はいま7才、小学2年生になりました。言葉もまだたどたどしいですが彼女なりのスピードでゆっくり成長してます。とても可愛いですね。涼乃ちゃんはもう中学3年生になっています。

―2016年に完成、海外を中心にいくつもの映画祭にノミネートされて、受賞もされました。その後生活は変わりましたか?

生活が変わった実感はまるでないです。聞くところによると、テッサロニキ国際映画祭で受賞したあとは日本では少し話題になっていたようですが。ただそのときスウェーデン(ストックホルム国際映画祭映画祭)にいたので、あんまり日本の状況がよくわかりませんでした。

―テッサロニキ国際映画祭ではコンペティション部門で最優秀監督賞と最優秀主演女優賞を受賞されましたね。テッサロニキってどこ?と調べましたら、ギリシャなんですね。

テッサロニキはギリシャ第2の都市で、テオ・アンゲロプロス監督作の撮影場所としても使われていた港町です。僕も撮影監督の岸さんもテオ・アンゲロプロスの監督作品が大好きなので、「あ、これは(永遠の一日)のラストシーンの撮影場所だ!」などと毎日興奮しながら港を歩きました。そして幸運なことに、テオ・アンゲロプロス作品のほぼ全ての撮影監督を務めたヨルゴス・アルヴァニティスさんに出会いまして、実際の撮影場所でお話しを聞かせていただくことができたんです。それは一生の宝になりました。

―映画監督になる前にも世界のあちこちに行かれていますね。放浪癖がありますか?

それはあるかもしれませんね。学生時代にサン・テグジュペリの「人間の土地」や「夜間飛行」などを読んで、その世界にのめりこむうち、彼の作品の根幹を理解するには、実際に飛行機を操縦してみないとわからないと考えて、それでアメリカへ飛行機の免許を取りに行ったんです。

―そこで飛行機に繋がるんですか。謎がとけました。ハワイにも行かれていますね。

当時、日本で自家用飛行機を飛ばすのにはかなりのコストがかかったんです。でも飛行機とグライダーが合体したモーターグライダーという航空機があって、それならば日本で比較的安く空を飛べるということを教えて頂き、ハワイでグライダーの免許も取得したんです。アメリカで取得した免許は日本で書き換えることができるので、帰国後に日本で自家用飛行機とグライダーの他に、モーターグライダーの免許も取得しました。アメリカは土地も広く、飛行機での移動も比較的一般的なのですが、日本で自家用飛行機を持っていても飛べる場所が制限されてしまいますし、飛行機の文化が日本で根付くことはないでしょうね。最近は空撮もドローンが主流ですが、でもいつか自分が乗る飛行機で空撮をして見たいと言う夢はあります。

―次は絵のためにフランスに留学されて。

幼いころからいつかフランスで絵を描きたいという漠然とした夢があって、アメリカから戻った後は、アルバイトをしてお金を貯めてフランスに行ったんです。1年半くらいパリでひたすら油絵を描いていたのですが、その過程でゴッホの絵に出会ったんです。その時の衝撃は言葉で言い表せませんが……その長年の思いが本作で結実したと言えるかも知れません。

―『種をまく人』にも繋がっているんですね。その後アフリカにも行かれました。

それもサン・テグジュペリの影響とナショナルジオグラフィックという雑誌の影響なんですが……。サン・テグジュペリの本の中に砂漠に不時着する話があって、学生時代からその世界観に惹かれていたのですが、とにかくサハラ砂漠に行きたいという思いがあって、サハラ砂漠を横断しようと思っていたんです。フランスからまず飛行機でエジプトに入って、その後スーダンから横断を予定していました。ただ当時スーダンと隣国のチャドという国が内戦状態だったのでビザが取れなかったんです。そこで方向をエチオピアに変え、エチオピアからケニアに行きました。その後、セネガルに飛び、モーリタニア、モロッコと陸路で北上して行きました。ただモロッコは交通機関が発達しすぎてつまらなかったので、現地で自転車を購入して、野宿しながら1000キロくらいひたすら自転車で旅を続けました。

―自転車で1000キロ!

本当は自転車でパリまで行く予定だったんです(笑)。でもヨーロッパの人混みの中を野宿する勇気がなくて断念しました。野宿で一番怖いのは人なんです。だからモロッコの時はなるべく町から離れた場所で野宿していました。でも自転車を盗まれる夢を毎日見るんです。それでぱっと目が覚めたら、自転車を抱いて寝ていたりしました。今思えば当時は無茶苦茶なことばかりしていましたね。常識のかけらもありませんでした。 

―まあ、病気もせずに無事で何よりでした。丈夫なんですねぇ。

アフリカでは「ナイル川の水を飲んだ人は病気にならない」という逸話があって、ナイルの上流の水を飲んだ後は、本当に身体が強くなってアフリカでは一度も病気にかかりませんでしたね。日本に戻ってからは、絵を描く仕事がしたくて一度アニメーションの会社に入ったのですが、そこはすぐ辞めてしまいました。その後、当時京橋にあった映画美学校に入ったんです。当時はドキュメンタリー科とフィクション科があって、僕はフィクション科のほうへ入りました。初等科と高等科とあって最長2年受講できるのですが、初等科の1年目に16㎜のフィルムで15分の作品が、ショートショートフィルムフェスティバル(SSFF)にノミネートされました。それが初の短編映画監督作品です。

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―今回の作品が初長編ですね。絵を学んだ後、映画の道に来られたのは何かきっかけになる作品があったのでしょうか? 

当時はこういう映画を撮りたいというより、自分の表現を映画という形式でやってみたいと考えていたんです。学校に入ってみて思ったのは、究極的にはカメラと被写体があればとりあえず映画は撮れると言うことです。本当はそんなに簡単ではないのですが。でもそれが始まりですね。

―監督と脚本の両方をなさっていますが、監督は絵を描かれるので、脚本を書きながら絵がぱーっと浮かぶんでしょうか?たとえばこのラストシーンのひまわりみたいに。

だいたい同時ですね。シナリオを書きながら絵が浮かびます。
映画『種をまく人』の全体のストーリーができたのは2013年くらいだったと思います。フィンセント・ファン・ゴッホという画家の絵にフランスで出会い、徐々にゴッホの人生の苦悩や思想に引き込まれていき、初の長編映画を撮る時は必ずゴッホをモチーフにした作品にしようと思っていました。「ゴッホの人生を現代日本に置き換えて、もし彼が絵画という表現を持ち合わせていなかったらどう生きたか」ということを思いついて、そのイメージをもとにシナリオを執筆して行きましいた。

―ゴッホに関する実話などは盛り込まれているのですか? 

いくつもありますが、その一つに、「ある町で少女のデッサンをしていたら、その子が妊娠してゴッホが疑われた」という話があったんです。結局犯人はどこかの牧師だったらしいんですが、ゴッホは風貌からも真っ先に疑われて、それでもそのことを否定せず罪を受け入れたんです。というか抵抗しようがなかったのかもしれませんが。ただ、この物語の一つのモチーフに、その逸話が大きく影響しています。

―そうでしたか。ホームページには聖書の言葉も引用されていますね。

ゴッホはプロテスタントのカルヴァン派の厳しい牧師の親の元で育って、彼自身聖職者を目指していた時期がありました。ゴッホは牧師見習い時代、ボリナージュという炭鉱の町で伝道活動をしていたんです。聖書に書いてあることを忠実に実行するために、自分の衣服やお金を貧しい人たちにすべて分け与えたそうです。自分は身なりも気にせず、納屋などで暮らしながらも愚直なまでに伝道活動に力を入れていたんです。ただその極端な行動が教会から批難されて、結局排斥されてしまいました。結局そのことで聖職者を諦めて画家を目指すんですが、絵を描き始めてからもゴッホの根底には聖書の言葉やキリストへの憧れがずっと残っていくことになります。主人公の光雄という人物は、まさにゴッホのそういう部分を受け継いでいるので、聖書と光雄は切っても切り離せないですね。それでタイトルも「種をまく人」という聖書にも書いてある一説から拝借しました。

―ひまわりとゴッホと好きなものがつながっているんですね。長い間あきらめずに大切にしてきたもの。

初長編なのでやはり色んなものが詰め込まれてますね。ゴッホはもちろん、被災地で見たひまわり、震災の翌年に生まれた姪っ子の存在。こういったものが融合して出来上がっていると思います。特に、当時3才だった姪の姿をどうしても映像として残しておきたいという気持ちがありました。

―夫婦の会話のエピソードにはモデルがいましたか?

モデルは特にいません。兄夫婦は全然逆の性格です。とても仲睦まじい夫婦なので、劇中の夫婦は僕の完全な想像です。
ただ脚本を自分で書いているので、登場人物一人一人に少しずつ自分が投影されるのは当然で、それぞれのキャラクターに少なからず何かしらの自分の性格の部分は入っていると思います。特に主人公の光雄はゴッホがモデルなので、ゴッホについてずっと考え続けてきた自分にとっては一番近い所に光雄はいますね。

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―イランのアミール・ナデリ監督がこの作品を褒めていらっしゃいますね。

ナデリ監督はテッサロニキ国際映画祭の審査委員長で初日に観にきてくださったんです。審査委員長ですから、審査が終わるまでは直接話すことはできないんですけど、受賞した後はいろいろとお話する機会を頂きました。特に役者の演技について評価してくださって「自分に全ての権限があったら、役者全員に賞をあげたい」と絶賛してくださいました。

―その絶賛された役者さんのキャスティングは?

岸さんの知り合いも含まれていますが。ほぼオーディションで決めました。森さん(キャスティングディレクター)が厳選して集めてきてくれた資料から選考し、その後オーディションを数日かけて行い、演技は当然ですが、役者同士のバランスなどを見ながら時間をかけて決めていきました。森さんの言葉には随分助けられましたね。迷ったときに、いつも冷静で的確な意見を言ってくださるので。

―岸さんは俳優と撮影を兼任されています。もうおひとりカメラマンがいらしたんですね。

岸さんが登場する場面は、岸さんが撮影監督をした映画でフォーカスマンや撮影をしていた末松くんという優秀なカメラマンが撮っています。二人は、そもそも普通の俳優とカメラマンという関係じゃないんです。お二人には、撮影監督とその女房というくらいの強い信頼関係があるので、そのことが画面ににじみ出ているのかも知れません。
それで言うと、岸さんと僕にも同じことが言えますね。僕らが出会ったのは9年ほど前で、彼の監督作『未来の記録』(2011)を見たのが縁でした。映画を見たとき、あるシーンを境になぜか涙が止まらなくて、その映画に強い衝撃を受けたんです。それで岸さんに長い感想のメールを送って。それから意気投合して、シナリオを一緒に書いたり、彼の作品にもスタッフで関わったりしました。なので僕らは、この映画の作り始める段階でとても強い関係が築けていたんです。一人のスタッフや俳優と言うよりも「同志」という感じです。
ちなみに、順番で言うと撮影をお願いしたのが先です。「未来の記録」では岸さん自身が撮影もしてて、初長編映画を撮る時は、必ず岸さんにカメラをお願いしたいと決めていました。
僕らはいつの間にか映画の準備を始めていたので、いつだったかは忘れましたが、光雄役をお願いしてからは、この作品におけるカメラの意味性についていろいろ話しました。撮影監督と主演を同時にやるということについて。分かりやすく言うと、岸さんは光雄として撮影していたんです。光雄の目線で知恵を撮るということの重要性を深く考えて行きました。

―岸さんはゴッホの風貌に近づけるために一年を費やしたそうですが。

随分前から修行僧のような生活をしてましたね。三食、同じ時間に同じ量だけ食べて、1日1ページずつゴッホの書簡集を読み、それに応答する手紙を毎日書き続けたそうです。実はこの映画のラストに、光雄から弟の裕太に当てた手紙を出す予定だったのですが、どうせなら岸さん本人に書いてもらおうと思って。役作りにもなりますしね。その準備だけで半年以上かけたと思います。撮影の一週間前に手紙は出来上がって、実際撮影もしたのですが、結局、シーンとしてはカットしてしまいました。
ちなみに僕は岸さんに30キロ痩せて欲しいとお願いしいて、実際は22キロくらい減量してくれました。ある日、ほぼ骨と皮になった岸さんに「もうちょっといけますね」と言ったら、「きみは俺を殺す気か」と(笑)。この映画は40キロくらいのカメラを一日中担いでもらったりしていたので……。思えば、岸さんにはかなりの無茶を強いましたが、それが出来たのも信頼関係の強さではないかと思います。

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―竹中涼乃ちゃんはどこが決め手でしたか?

オーディションに来た子はみんな事務所に所属している子たちだったんですが、子役の子達というのは入ってきた瞬間にそれぞれの性格が分かってしまうんですね。無理に明るく振る舞う子や、異常に媚びを売って来る子、事務所の教育だとは思いつつ、僕はあまりそういうのが好きになれなくて。その中で数人、自然な顔を見せるおとなしい子たちが数人いたんです。その一人が涼乃ちゃんでした。最終的には3人まで候補を絞り込んだのですが、スタッフや、すでに決まっていた大人の役者たち全員一致で涼乃ちゃんに決まりました。でも正直、彼女を最初に見た時の直感ですでに決まっていた感はありましたね。

―泣くシーンの演出はどんなふうになさったんでしょう?

ここで泣いてほしいとかは一切言いませんでした。泣きたくなければ泣かなくて良いし、言いたくない言葉があれば言わなくても良い。といった感じで、嘘はつく必要は一切ないと思ったんです。ただ彼女は本気で泣くのが特技なようで、そのようにお母さんはおっしゃってました。きっと入り込んでしまうのが持ち味なのだと思います。びっくりしたのは、かなり感情的なシーンで、何度か撮り直せざるを得ない時もあったのですが、それでも彼女は同じように本気で泣けるんです。すごい才能だと思いました。

涼乃ちゃんには前半の事故前までの台本しか渡さず、その後はその場その場で状況を説明していきました。簡単に言うと、昨日はこういうことがあったから、これからこうなるんだよ。という風に説明するのですが、シナリオ上で嘘をつくような場面でも、どうするかは涼乃ちゃんの気持ちにまかせて、嫌だったら言わなくてもいいと伝えるんです。そこで周りの大人の役者たちが協力して彼女を追い詰めて行くわけですが、だから、彼女の演技をどう引き出すか、それについて俳優たちと随分話し合いました。彼女から、最もピュアで嘘のないありのままの感情をどう引き出すのかという。感情を一番大切にしたかったので、彼女を中心にスケジュールを立ててほぼ順撮りで撮りました。ですので、涼乃ちゃんはまさに映画の中で知恵の人生をそのまま生きていたのだと思います。撮影の後半で一度すこし体調を崩したりしてしまいましたが、それでも最後まで頑張ってくれましたね。彼女を発見できたことは、本当に大きなことでした。

―子どもながらさすがにプロの役者さんなんですね。本当のことを打ち明けた娘に対するお母さんが怖かったですが、こういう台詞は言えませんとか役者さんからはないんですか?

そういったことはまったくなかったです。疑問に思ったことはちゃんと話し合って決めていきました。結果的にほぼシナリオ通りに演じています。あと全員の役者さん同士が事前に関係性を深く築く作業をしていて、撮影の合間には、家族として一花と接したりして、常に疑似家族というか、親密さを失わずに取り組めたことは、全員の演技に生かされていると思います。

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―子どもがいると特に空気って大事ですね。

涼乃ちゃんも前半の段階では、すごく一花との時間を楽しく過ごして仲良くなっていたので、実際の妹のように思っていたんじゃないですかね。だから事故のシーンの後は、築き上げたその感情を抑えることが出来なかったんだと思います。

―お父さん(裕太)はお母さん(葉子)に比べると静かな役ですが、間に挟まっている立場ですね。兄のことも娘のことも信じたい。

足立智充さんの役はこの映画にとって最も重要な立ち位置です。ゴッホにとっては彼を支え続けた実弟のテオをモチーフにした役です。足立さんの役はいわゆる一見フラットなキャラクターなんですが、それでいて一番苦しいものを背負うことになる人物なんです。彼の立場になってこの映画を見ると、より辛いと思います。

―岸さんのお母さん役は、実のお母さんがなさっているんですね。

一応は面接し、ちゃんとセリフを読んでもらってオーディションのようなことをしてもらっています。その上でキャスティングしました。シナリオ上は彼女にまつわる話がいろいろあって、光雄一家のことも深く掘り下げているんです。そのエピソードも全て実際撮影しているんですけど、映画の構成上切らざるを得ませんでした。

―カウン君が出たのは、岸さん繋がりですね。(『僕の帰る場所』藤元明緒監督/岸さん撮影)

男の子役もオーディションはしたんです。でも良い子がいなくて。それでカウン君のことを思い出したんですね。「僕の帰る場所」の短い映像を一度岸さんから見せてもらっていて、その時の彼の演技の素晴らしさがずっと残っていました。ただ年齢が当時合わなかったので考えていなかったのですが、実際の年齢より大人びていて、違和感なく知恵の同級生を演じることができました。

―メイキングや撮影日記はありますか?

人がいなくてメイキングは作っていません。ふだんアイディアとかメモするんですけど。撮影日記ってみんな書くんですか?

―監督が書かなくても、どなたか。もし将来本など出すことになったら、記録は必要じゃないですかー。

じゃ2作目のときはぜひお願いします(笑)。

―この次の作品は?

脚本はつねに書いています。まだ撮影の予定はないんですけど、常に書き続けてはいます。
たぶん今回と同じように小さい規模の映画を同じように撮ろうと思っています。

―では、これから作品を観る方へメッセージを。

この映画はあまり説明が多くありません。あえて説明をなるべく排除しています。説明は様々なことを狭め、限定的に伝えてしまうことがあります。ちゃんとじっくりものごとを見てもらいたい。目の前にあるものが全てではない。そういったところを感じて、そして考えてもらえたら嬉しいです。
隣にいる友達、親とか子どもとか、身近にいる人への気遣いというか、自分が感じていることを一度疑うことも大切だと思うんです。今の人たちは安易に白黒つけたがります。そこを決めつけないで、いろんな視点で物事を見てもらいたいですね。正常とか異常とか、障がいがあるとかないとか、そういうところをはっきり線引きしたがる現実があります。でもそうじゃなくて、一人一人の本質の部分をちゃんと観ることが大切なんだということを、この映画を通して感じて、そして考えてもらえたら嬉しいです。

―はい。ありがとうございました。


=取材を終えて=

前振りがたいへん長くなってしまいましたが、外国でのエピソードがいろいろ出てきて面白くってつい聞き入ってしまいました。お話を伺ううちに、2001年9・11テロで、ワールドトレードセンターに激突したハイジャック犯も、竹内監督と同じようにロングビーチにいくつもある学校の一つで航空免許を取っていたのだと知りました。自家用機の免許でジェット機を操縦していたんですね。そのすぐ後に免許を取りに行った監督含め外国人は白い目で見られたそうです。そのせっかくの免許なのに、日本の空も砂漠の上も飛ぶ機会がないとは、ちょっともったいないです。サン・テグジュペリは、1944年に偵察機で出撃した後戻ることはありませんでした。長く行方不明のままでしたが、2003年に地中海から乗機の残骸が引き上げられて、彼のものと確認されたそうです。サン・テグジュペリとゴッホを愛する監督は、放浪癖(すみません)じゃなくて、冒険好きなロマンチストなのでしょう。
劇中、知恵のクラスで先生が読む「椋鳩十の詩」は病床での言葉を、夫人が書きとったものだそうです。飛行機で風と一体になって飛ぶ人、キャンバスに暮らしを描きとめる人、どちらの目にも似たような風景が映っていたのではないかと思うのです。この作品も同じように優しいまなざしが感じられます。
竹内監督は、また外国に行きたいそうです。蒔いたひまわりの種が芽吹くように、脚本のアイディアのメモが少しずつ増えて、いつか次の作品につながりますように。(取材・写真 白石映子)


 松風になりたい
 日本の村々に
 人たちが
 小さい小さい喜びを
 おっかけて生きている
 ああ美しい
 夕方の家々の
 窓のあかりのようだ 

 椋鳩十「松風の詩(うた)」より

『ゆうやけ子どもクラブ!』井手洋子監督インタビュー

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ゆうやけ子どもクラブは1978年に発足。障害のある子どもの放課後や学校休業日(土曜日、夏休み・冬休み・春休みなど)の生活を豊かにする活動の草分け的な存在です。保護者や市民など、多くの関係者の力を得て発展してきました。  
特定非営利活動法人あかね会が運営する、ゆうやけ子どもクラブ・ゆうやけ第2子どもクラブ・ゆうやけ第3子どもクラブがあります。すべて、児童福祉法にもとづく放課後等デイサービスの事業所です。 小平市内に在住する、知的障害、自閉症などをもつ、小学1年生から高校3年生を対象としています。(ゆうやけ子どもクラブHPより)
https://www.yuyake-kodomo.club/index.html

*井手洋子(いで・ようこ)監督プロフィール*

1984年より映像製作の仕事を始める。羽田澄子監督の『安心して老いるために』『歌舞伎役者・片岡仁左衛門』などに助監督として参加後、フリーランスの映像ディレクターとして岩波映画製作所、桜映画社などで仕事をする。布川事件を14年間追いかけたドキュメンタリー『ショージとタカオ』(自主映画作品)は、2011年度文化庁映画賞 文化記録映画部門大賞、2010年第84回キネマ旬報ベストテン文化映画部門第1位、2011年度第66回毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞、2011年釜山国際映画祭アジア部門最優秀ドキュメンタリー賞、ドバイ国際映画祭ベストヒューマンライツ賞など国内外で高い評価を得た。著書に「ショージとタカオ」(文藝春秋社)「女性が拓くいのちのふるさと海と生きる未来」(共著 昭和堂) (HPより)

『ゆうやけ子どもクラブ!』作品紹介はこちら
監督・製作:井手洋子
撮影:中井正義、井手洋子
編集:大川景子
https://www.yuyake-kodomo-club.com/
★11月16日(土)~12月6日(金)、ポレポレ東中野にて上映中
1日1回12時からの上映です。
★11月30日(土)~12月13日(金)横浜シネマジャック&ベティ
時間はHPでお確かめください。


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―映画の始まりは?

このゆうやけ子どもクラブ代表の村岡真治さんが、前作の『ショージとタカオ』をご覧になっていて、連絡をいただきました。見てみないとわからないので一回伺いますと、2017年の6月に伺ったのが最初です。
障がいのある子どもたちの「放課後の支援」をするところでした。それまでそんなところがあることを全然知らなかったんです。もしかしてこれはとても大事なことなのではないだろうか? 私と同じように「知らない人たちに知らせる」ことができるのではと思いました。
夏休みにアシスタントの女性とカメラを持ってゆうやけ子どもクラブへ行ったんですが、そのときは何が何だか(笑)。名前もまだわからないし、走り回る子どもたちが何をするのか全く予測できないんです。お昼から半日いて、くたくたになりました。30分だと子どものつぶやきとか入らない。30分だけでなく、1時間の長いバージョンも作ったほうがいいと思いました。ちゃんと映画にして、小平という枠をとり払って、ほかの人にもこの活動を見てもらったほうがいいんじゃないかと考えました。寄付を集めてもらったりして一緒に創り上げました。2017 年冬から本格的に撮影を始めましたが、今回の撮影は体力勝負になると思ったので、私が単独で撮影するのではなく、カメラマンに参加してもらうことにしました。

ゆうやけ子どもクラブは40周年ですが、2012年に「放課後等デイサービス」という国の制度ができました。署名を集めたりした運動が実ったのはいいんですが、今度は営利事業者などもたくさん参入してきました。「作業所ですぐ役に立つような能力を開発」をアピールする事業者もいます。
ゆうやけ子どもクラブのやり方は、人とコミュニケーションが取れるようになるとか、友達と遊べるようになるとか、そういう本質的な“人として少しでも自立していけるようなことを考えた、遠くを見た支援”なんですよね。それは長年かかって少しずつできてくるものですから、即効性ではないんです。
 
撮影は、ゆうやけ子どもクラブの日常を記録して、子どもたちの成長の兆しを少しでも描くことができたらという思いで始めました。
何が大変って「主人公がいない」ってこと(笑)。ゆうやけは3ヵ所あって、第1から第3まで全部撮ってほしいと言われたんです。普通は1ヵ所で誰を撮る、と絞っていくと非常に取材しやすいんですが「わかりました」と。4~5年撮れればいいですけどそうはいかないので、短い間でも少しでも変化の兆しを撮れるようにしたいと思って、何人か紹介してもらいました。
最初にカメラを向けたのはユウトくん、公園でダンゴムシを探す男の子です。ホールに集まった子どもたちは見ているといろんなことをしている。一緒について歩いて撮るんですけど、次に何をするのか予測不能です。撮影現場自体は、子どもたちのエネルギーが溢れていて楽しいのですが、終了して帰る道すがら、「どうしよう…」と焦りが。真っ暗闇の中にポツンといて、手探りで歩いているような感じでした。

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―撮影期間はどのくらいですか?

製作費に制約があるので、トータルで30日しか行けてないんです。ゆうやけ子どもクラブの職員さんは午前中から来ているので(子どもは放課後)何をしているのかなと行きました。職員研修会という会議をしていたんですけど、それが一人の子どもの活動記録を何年分も遡って、しかもそのデティールがもう細かい細かいことなんです。それを撮っていたら、これってドキュメンタリーに似ていると思いました。映画は事実の集積、「何年何月何日あの人がこうした」というのを集めていくのがドキュメンタリーの取材と思っているから。そのときは1人で行ったんですけど、面白くって。カメラやマイクで知らないことを発見するというのが、私にとってドキュメンタリーの面白さなんです。だからもうわくわくした気持ちになって。

中学生のユウトくんを撮っていたときのこと。村岡さんから聞いた話では、ユウトくんは担当の指導員に段ボールで「アイフォン」を毎日作ってくれというんです。画面にアプリケーションの絵まで描いて、同じものを毎日毎日作らされるうちに、ユウトくんが「アイフォンの文字が消えないようにセロテープを貼って。そうしたら触っても消えないよね」と言ったそうです。それで、「あ、これは本人の発見があるな、発見があるんだったら作るの続けようか」と気づいて続けることにしたそうです。
「放課後活動ってこれだけしなさい、これだけでいいというものじゃなくて、“本人の探求をどこまでも一緒に、どこまでも飛んでいくつもりでやっていこうよ。”それだけ腹を括ってやっていかないと放課後活動はできない」という村岡さんの言葉にパーンと反応しました。その前までは正直ちょっと子どもたちを甘やかしすぎじゃない?と思っていたんですが、そうじゃないんだと。中井カメラマンに「”一緒に飛んでいく”ってキーワードをテーマにして、ずっとこっちも何か始まったら止めないで撮っていきましょうよ」と頼んで。ほんとにずーっとついて行ってたら、中井さん(カメラをかつぐので)肩壊してしまって。

―職員の方々は子どもたちにあれこれ指示するのでなく、子どもが始めるのを待って、することをじっと見守っていますよね。親はなかなか気長に待つことができないです。村岡さんのご本には、大学生のときにボランティアから始めて「子どもたちと一緒に成長した」とありました。

村岡さんはゆうやけに最初からいる方なんですが、みんなで活動を続けながらそんなふうにしていったんだと思います。
とことん子どもを理解するというのが第一にあって、理解するために、すぐ制しないで子どもの「こうしたい、ああしたい」心を全て受け止めたいということなんです。そこからどうするか。
村岡さんが前に言っていたのは「率先して遊ぶ」。自分を見て「あ、そういう風にして遊んだらいいのか」と考えてもらえる。だから自分が率先して後ろ姿を見せてきたんじゃないですかね。

―30日間通われたそうですが、撮影が終わったのはいつでしたか?

終わったのは今年の3月くらいです。使っている映像は1月くらいまでのなんですが、並行してずっと編集もして、ロングバージョンを職員さんに見せたり。一筋の光は見えたんですが、その後がなかなか難しくて。自分が職員さんと同じくらい毎日通ってずーっと見つめていないと、微妙な気持ちの揺れとかわからないんですよね。

夏休みなどの長い休みのときには、朝から夕方まで事業所を開いているので、長い時間子どもを撮影できます。それで昨年の夏休みに集中的にゆうやけ子どもクラブに行って、その期間に出会ったカンちゃんという(その頃聴覚過敏に悩まされていた)中学生の子と、前に気になっていた小学生のガクくんを撮影しました。

―ガクくんはけっこう大きいのに、散歩に出たときに指導員さんが途中でやめずにずーっとおんぶしていましたね。あの姿に感動してしまいました。自分だったら「そろそろいいかな、降りてくれる?」と言ってしまいそうです。

業界的に言うとこのくらいの年齢の子どもにおんぶはNGなんだそうです。ちゃんと歩かせる。ガクくんは気持ちの不安定な子みたいで、1年半くらい前にゆうやけ子どもクラブに入ったのですが最初は大変だったそうです。ガク君の気持ちをみんなで受け止めよう、とあえておんぶも抱っこもする。そうすることで少しずつ心が開いてきたんです。そういう実践を前に聞いていたので、(機会があったら)撮ろうと思っていたらちょうど。
おんぶしている井原さんはガクくんを担当することが多くて、二人の散歩についていきました。その間ずーっとおんぶでしょう。私はマイクを持って、中井さんはカメラ持ってずーっと。井原さんのその姿にこちらも感動したわけです。最後の最後までおんぶしていく後ろ姿をずーっと見ていて、これはすごいな、これは映画に使いたいと思いました。彼女はエネルギー溢れる人で、プロとして子どもの先を考える、その先を見ているんだと思うんですよね。近い将来はもう少し気持ちを開いてくれればいいって。

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―子どもたちの成長の兆しがちゃんととらえられていました。

ぎりぎりセーフっていうか、夏から絞り込んでガクくん、特に中学生のカンちゃんと積み木に夢中になっている小学生のヒカリくんは、何度も撮影しました。始めはどういう風に撮っていいかわからなかったんです。でも去年の秋、10か月ぶりくらいに行ったら見事に変化がみられました。たまに行く人のほうがよくわかるもので、ヒカリくんは積木の内容も変わっていましたし、これはすごい!と。さらに撮影をすすめたときに、ヒカリ君は他の子どもたちからいつも離れていて孤立しているかのように見えたのに、実はそうじゃなかったことがわかる。自ら子どもたちの輪に…。彼の成長の様子はぜひ映画で観て欲しいです。

―ヒカリ君が子どもたちの中に入って行ったときに、胸がいっぱいになりました。
あるお父さんが、ゆうやけ子どもクラブに入って子どもが変わったことを喜んでいたのと、障がいのある子どものお母さんが孤立しがちなこと、こういう活動が拡がって改善されるようになってほしいと言われたのが心にしみました。


外から見ただけではわからない障がいの場合、わかったときの周りの反応が冷たくて厳しいらしいんです。気丈なお母さんたちばかりだけれど、心が折れると言っていました。それで、この映画もお母さんたちにとっては思い切ったわけです。
最初は躊躇したらしいですが、映画のための実行委員会を作って“映画館上映をスタートにして、いろんな人にわかってもらおうよ”と人に勧めてくれています。

―聴覚過敏でイヤマフをしていたカンちゃんはとても繊細で、伝えたいことが伝わらないもどかしさを感じました。

カンちゃんの場合は、ちょうどわーっと泣いているところが初めての出会いだったんです。耳の敏感な子に初めて会ったので吸い寄せられたんです。カンちゃんどんな人?って。そのとき彼は、中学生になって環境がいっきに変って、もともとの聴覚過敏が急激に強まっていた頃でした。カンちゃんは、内面にどんな世界を持っているのだろうと。そこから彼を何度も取材しました。そうして時間がたつにつれてカンちゃんも徐々に変わる兆しが見られるようになってきた。
彼を担当する職員の女性があるとき語ってくれた「小さい頃からすると、納得してできることが増えてきた。今は音への過敏性が強まっていて、厳しい状況もあるけれど、いつかは変っていく。そう思っていたい」その言葉が私の胸に響きました。

映画を観ている人が「健常者と障がい者」じゃなくって、そうしたバリアをとりはらってもっと近しい関係で観てくれたら。世の中にはいろんな人がいるんだよね、ってそういう見方をするきっかけになったらなぁと思っています。ゆうやけ子どもクラブでは、一人ひとりの子どもの状況に応じてスタッフがじっくり向き合って、一人ひとりを大切にする環境をつくり出そうとしている。考えれば、私たちの足元だって、どうだろうかと。
私は女性で仕事をしてきたけれど、初めて一緒に仕事をすることになるスタッフの中には、女性監督という「女性」ということを意識しすぎている人たちが今でも多いことに時々気づかされます。私もそうですが、だれだって一人ひとり、自分らしく、ありのままの自分を受け入れて欲しい。男性とか女性とかが前提ではなく。井手洋子という一人の人間として。
一人ひとりが大切にされる社会、それが本来のダイバーシティなのではないのか。『ゆうやけ子どもクラブ!』の映画を観てもらって、いろんなことを考えて欲しいのです。この映画のテーマは一つではなく、複合的に様々なことがからまってゆうやけ子どもクラブが今あるのです。

井手監督は映画少女でしたか?

小さいころから好きでしたよ。小学生のころ放送部だったんです。給食時間に「今日は音楽鑑賞の日です。いただきます」とアナウンスしたりレコードかけたりしていました(笑)。それやこれやで、放送という媒体が面白いなと思って、受験生時代は当然深夜放送を聞いていました。
音や映像で自分の内側にあるものを伝えることがすごく面白いというのが、ずっと前からあったんです。大学のころは「アナウンス研究会」で、作品も作るんです。構成して音楽を入れてというのがものすごく面白くなった。できたら放送の仕事をしたかったんですが、そのころ制作に女性が入れるかどうかわからなかったので、ラジオ局を受けたんですがだめでした。
しばらく復習塾で先生をやっていたときに映画好きの人に逢って、影響を受けてたくさん観るようになりました。そしたらやっぱり映画かな、と思って(笑)、すぐ思い込みやすいタイプなんです(笑)。映画なら絶対監督になりたい。

そのころ観たのは『木靴の樹』(1978/エルマンノ・オルミ監督)、リバイバルですけど『裸の島』(1960/新藤兼人監督)とか、そういうものに感動して映画がやりたい、できれば劇映画を。その当時は男性監督がメインで女性は全然いない。演出をやりたいので、助監督。でも全然ないんです。そのうちに岩波ホールでよく映画を観ていたので、羽田(澄子監督)さんを知って「助手をさせてください」と立候補しました。1回目はダメで、別の作品についたんです。西啓子さんというドキュメンタリーの監督で自閉症児の1年間を記録するものでした。西さんはすぐにOKしてくださって、それが映画スタッフとしての初めての仕事でした。西さんの仕事が終わってから、こういう仕事をしましたと羽田さんに手紙を出したら、ロケに助監督さんが急きょ必要になったからと羽田さんから連絡があって、(「痴呆性老人の世界」という、後に岩波ホールで大ヒットになった作品)演出助手として羽田さんのスタッフに加えてもらうことになりました。
一概には言えませんが、私があたった男性の監督は意外に「いいですよ」というんですけど、その場だけでした。女性はダメっていうのもちゃんと言ってくれて誠実だったんです。この仕事で食べていくのは大変だからやめたほうがいい、と羽田さんもはっきり言ってくださったし。お2人の女性の監督にお世話になってなんとかこの業界に入ったわけです。私はそのときに「職人」になろうと思ったんです。つまり映像作家じゃなくて、この映像を生業としてやりたい。これでご飯食べていきたいと思ったんです。そういう意味で何でもやろうと思いました。
短編業界っていうんですけど、クライアントから発注があって映像をつくる。そこで切磋琢磨して、その経験を生かして、自主製作もやりたい、と『ショージとタカオ』を作ったんです。
私映像が大好きなんです。ドキュメンタリーとか劇映画とかいう枠をとっぱらって、とにかく映像が好き、その仕事をするのが大変は大変なんですけど、もう至福なんですよね。


=インタビューを終えて=
映画を観て、こんなふうに障害のある子どものためを一番に考える居場所があちこちにあったら、どんなにかいいだろうと思いました。子どもを気にかけながら仕事に急ぐお父さんやお母さん、迎えに行くまで安心して預かってもらえる場所がここにあります。ゆうやけ子どもクラブに来る子たちの中には、「ただいま!」と元気に飛び込んでくる子もいます。ここが大好きなことがよくわかります。とことん遊ぶ中で大事なことを身につけていきます。目に見えてわかるまでに時間がかかりますが、確実に子どもは変わっていっています。子どものしたいことに寄り添ってじっと見守る指導員さんたちの、気力・体力はどれほどあるんでしょうか。心の容量もとても大きいはずです。
ゆうやけの子どもたちの毎日を追いかけて、映像に残した井手洋子監督もまたたいへん志の高い、しかも粘り強い方でした。子どもたちの記録はいつまでも映像の中に残ります。ご両親の支えになり、同じ境遇にある方々への応援歌になるでしょう。10年後20年後ゆうやけの子どもたちがおとなになっても幸せでありますように。
(取材・写真:白石映子)

『テルアビブ・オン・ファイア』 サメフ・ゾアビ監督インタビュー

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昨年の東京国際映画祭で「イスラエル映画の現在2018」の一環として、コンペティション部門で上映された『テルアビブ・オン・ファイア』。
ヨルダン川西岸地区で製作中のメロドラマのヘブライ語のチェック係のパレスチナ青年。エルサレムに住むイスラエル国籍の彼が、検問所の所長に脚本家と言ったことから、毎日のようにドラマの筋に介入されるという大笑いのブラックコメディー。今やなかなかあり得ないパレスチナ人とユダヤ人との対話を描いた笑撃の作品。
ぜひ公開してほしいという願いが実現しました。
公開を前に、9月にサメフ・ゾアビ監督が来日。インタビューの時間をいただきました。

『テルアビブ・オン・ファイア』
監督・脚本:サメフ・ゾアビ
出演:カイス・ナシェフ、ルブナ・アザバル、ヤニブ・ビトン、マイサ・アブドゥ・エルハディ、ナディム・サワラ、ユーセフ・スウェイド
2018年/97分/ルクセンブルク・仏・イスラエル・ベルギー/カラー/アラビア語=ヘブライ語
配給:アット エンタテインメント  
公式サイト:http://www.at-e.co.jp/film/telavivonfire/
★2019年11月22日(金)、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
シネジャ作品紹介 

サメフ・ゾアビ
 Sameh Zoabi
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*プロフィール*
1975年、イスラエル・ナザレ近くにあるパレスチナ人の村・イクサル生まれ。98年、テルアビブ大学を卒業後、映画研究と英文学を学ぶため、NYのコロンビア大学でフルブライト奨学金を受け、M.F.A(美術学博士号)を取得。05年に、短編映画「Be Quiet」がカンヌ映画祭に出品され、翌06年、フィルムメイカー・マガジンによって、「インディーズ映画界の新しい顔のトップ25」の1人に選ばれる。本作は、ヴェネチア、トロント、ロカルノ、サンダンス、カルロヴィヴァリほか世界各国の映画祭で上映・受賞し、世界から新たな才能として注目を浴び、今後の作品も期待される映画作家である。(公式サイトより)

◎インタビュー
― 去年、東京国際映画祭で観て、とても気に入りました。
去年の記事をお見せしました)
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*右は、イスラエルの検問所の主任アッシを演じたヤニブ・ビトンさん

監督:1年前は、ずいぶんわかかったなぁ~! (と、写真に見入る監督)

◆和平への夢 ~アラブのドラマをイスラエル中で観ていた時代があった~

― 1991年にイスラエルを訪れ、監督の故郷ナザレも含め、あちこち行きました。まだ分離壁のない時代で、和平に向かっているのではと期待できる時代でした。今や、ガザは屋根のない監獄状態で悲しく思っています。

監督:以前を知っている方は、鮮烈に今の状況を感じると思います。

― イスラエルの方とパレスチナの方が映画について語り合うという、現実ではなかなかあり得ない状況を描いていて、監督のこうあればいいなという思いを感じました。

監督: (笑)過去へのノスタルジーかもしれませんね。
91年にいらした頃は、まだどこか希望が持てて、いつの日か和平がという可能性が見えたのが、今は分断されて希望すら見えない。ですから、この映画は私の願望かもしれません。かつて、金曜の夜7時からエジプトのドラマが放映されていて、イスラエルの人誰しもが見ていた時代がありました。もうそんな時代は来ないかもしれません。

― 昨年の東京国際映画祭の折のQ&Aで、お母様がエジプトのドラマが大好きで、当時チャンネルの選択権はお母様にあったとおっしゃっていました。お母様は、この映画をご覧になって、どんな感想をもたれましたか?

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(C)Samsa Film - TS Productions - Lama Films - Films From There - Artemis Productions C623

監督:ソープドラマの部分はわかったと思うけど、映画のほんとの意味は理解していないかも。

― お母さまとしては、ドラマの結末をどうしてほしいなど、おっしゃっていましたか?

監督:
それは特に・・・。私の1作目の長編の初日を家で撮影したのですが、主人公が目玉焼きを作る場面で、後ろから見ていて、もうちょっと油を入れたほうがいいわよと言ってました。そんな母です。(笑)

― お母さまは今もナザレに住んでいらっしゃるのですか? そして監督は?

監督:
はい、母はナザレで、私はニューヨークです。

◆パレスチナ人を分離するイスラエルの教育システム
― 映画の中でサラームはパレスチナ人ですがイスラエル国籍でヘブライ語のチェック係。イスラエル国籍のパレスチナ人にとって、ヘブライ語は必須。子どもたちの世代では、学校教育はヘブライ語で、アラビア語は家でしか使わなくて、ヘブライ語に馴染んで行くという状況なのでしょうか?

監督:
イスラエル国籍のパレスチナ人は、今もアラビア語を主に使っています。子どもたちも高校までアラビア語で教育を受けています。分断されていて、よっぽど混ざった町でないとアラブ人がユダヤ人の学校に行けない状況なのです。逆にいえば、イスラエル政権は教育システムを通して、分断をはかろうとしているのです。アラブ人とユダヤ人は別の学校に通っています。ヘブライ語は第二言語として小学校3年生から学びます。第三言語の英語は4年生から。大学に行きたければ、ヘブライ語しかチョイスがありません。高校までアラビア語だけで学んでいるとハンディがあります。ヘブライ語ができないと、より良い仕事につくことも難しくなるのです。

― それでいながら、イスラエル国籍だと兵役につかなければいけないのですね?

監督:パレスチナ人には兵役は義務ではありません。志願はできますが、99%は、兵役につきません。

― それを伺って、少しほっとしました。

監督:中には、よりイスラエル寄りにみせたくて行く人もいますが、ある程度教育を受けた人なら、通常は行きません、

◆米=メキシコ国境を舞台に第二弾

― とても面白くて、続編が観たいと思ったのですが、作るとしたらどのようなものを考えていますか?

監督:続編を作ろうと考えたこともあるのですが、今、アメリカとメキシコの国境を舞台にリメイクの話があって、脚本も含めて監督を依頼されています。シーズン2は、場所を変えての話になります。

― 同じような問題を抱えていますよね。本格的に考えているのですね。

監督:
ホンモスがワカモレ(アボガドベースのディップ)になります!
かなり本格的になっていて、日本に着いた日、ほんとは寝たかったのですが、アメリカとの法律的な交渉をする必要ガあって、寝れませんでした。

― 面白い話になると思うので期待しています。

◆「トマトが愛の実」も「アラブ式キス」も私の創造

― 「いちじくは愛の実」というの対し「トマトが愛の実」という言葉が出てきました。

監督:
私が創造したものです。監督の醍醐味は、勝手にものを作って、それがあたかも真実のようになることです。唇の触れないアラブ式キスも私が作ったものですが、もう一人歩きしています。

― ホンモスの話に戻します。
2週間家に閉じ込められて、缶詰のホンモスを食べていたといのは、ほんとの話ですか?

監督:私が実際に経験したのは、第二次インティファーダーの時、ヨルダン川西岸に住む友人のところに日帰りの予定で行ったのに、制圧で3日間閉じ込められたことがありました。独身男性のアパートだったので、その時にツナの缶詰しかなかったのです。その経験をもとに書きました。

― 毎日じゃいやですよね。

監督:
フレッシュじゃなくて、缶詰ですからね。

◆イスラエル資金を得たが忖度しない
― チェックポイントがあることで、ほんとに皆さん苦労していますよね。
脚本を書かれた『歌声にのった少年』も、何度もチェックポイントを通らないといけなかったですよね。

監督:ほんとは、もっと面白い展開で書いていたのですが、監督がよりドラマチックなものに変更しました。

― 今回の映画は、自分で書いて監督したので、納得ですね。
イスラエルのファンドも付いていますが、最初のタイトルから、アラビア語と英語で、ヘブライ語がなかったことが嬉しかったです。資金がついていても、忖度しなくても文句はないのですね。
もしかしたら、アカデミー国際長編映画賞の代表になるかもしれないとのことですね。

監督:選ばれるかどうかが、明日判明します。イスラエルの代表になるかのか、ルクセンブルグの代表になるのかということはあります。
(注:9月下旬に、ルクセンブルグ代表に決定しました)

◆ユダヤ人もパレスチナ人も本作に足を運びたがらないのが問題
― 映画を観たユダヤ人の反応は?

監督:パレスチナ人を映画で観たくないという意識がどこかにあると思います。
観ていただいたなら、同じところで笑うし、同じレベルで理解して、いい気持ちで劇場を出ます。足を運んでもらうのがチャレンジです。

― パレスチナ人の反応はいかがでしたか?

監督:やはりなかなか観て貰えません。パレスチナ人が題材だと、悲惨な状況を見せられるのではと思うようです。イスラエルとのことが描かれているから観たくないという風潮ですね。テーマとして飽き飽きしているということがあると思います。

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(C)Samsa Film - TS Productions - Lama Films - Films From There - Artemis Productions C623

― ユダヤ人とパレスチナ人が顔を見合わせて意見を交わすという物語。両方の人にこそ観てもらいたい映画ですね。アカデミー賞の代表になれば、注目してもらえるのではないかと期待しています。

監督:まさにそうだと思います。きっと考えが変わって、観てくれると期待しています。

― 今日はありがとうございました。

取材:景山咲子


★アカデミー国際長編映画賞 ルクセンブルク代表に決定!
監督の喜びのコメントは、こちらでどうぞ!

『夕陽のあと』初日舞台挨拶

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11月9日(土)新宿 シネマカリテにて、主演の貫地谷しほりさん、山田真帆さん、越川道夫監督の舞台挨拶がありました。上映後の舞台挨拶のため、内容ネタバレがありますのでご注意ください。ほぼ書き起こしでお届けいたします。

貫地谷 こんなに満員のお客様の前で舞台挨拶ができるのがすごく嬉しいです。今日はよろしくお願いします。

山田 劇場まで来てくださってありがとうございます。ちょうど1年くらい前に長島に行って撮って、こうしてみなさんに観てもらうことができて感無量です。長島の方も喜んでいると思います。

監督 長島はツワブキが咲き終わるくらいの時期でした。東京は今咲いているんですけど、ツワブキを見ると長島で撮影をしていたなぁと思い出します。今日はどうもありがとうございます。

―先日鹿児島での先行上映を迎えまして、いよいよ昨日から全国公開となりました。率直に今のお気持ちをお聞かせいただけますか?

貫地谷 皆様に茜という女性がどう映ったのかなぁというのが、正直ちょっと怖い部分でもあります。

監督 むしろ感想聞きたいですよね。(会場へ)どうでした?

―皆様いかがだったでしょうか?(会場拍手)
貫地谷さんが演じられたこの茜という役は、自分の幼い子どもを置き去りにしてしまったというなかなか辛くて想像し難いような役柄だったと思います。撮影中も精神的にもハードだったとお聞きしております。どのようなお気持ちで、現場で乗り越えていったんでしょうか?


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貫地谷 皆様がどう思われたのかわからないんですが、これから養子縁組をしてすごく幸せそうな家族の新たなスタート、というところに私という女が現れて、ある意味かき乱していきます。普通だったら山田さんの五月のほうに感情移入してしまうんですが…今もうネタバレしていいんですもんね?「一度失敗した人間にはもうチャンスはないのか」というセリフもありましたが、私はやはりそこが大切なことなんじゃないかと思っていて。なので、今回自分の価値観というものは置いておいて、いかに茜という役に寄り添えるか、というのを常に考えていたら毎日すごく辛くて。島の皆さんたちと山田さんたちはコミュニケーションもとられているのを見て、すごく羨ましいなぁと、いつも台本見ながら暗い気持ちでいました(笑)。

―監督は茜という役を演じられる貫地谷さんを、どのようにご覧になっていましたか?

監督 すごく悩んでいましたよね。微妙な感情の度合がいっぱいあって。

貫地谷 こんなに大々的に「産みの親、育ての親」という宣伝があるかもわからず(監督:そりゃそうだ)どこまで私が産みの親だというのを見せていいのか、っていう匙加減がすごい難しかった。

監督 感情の匙加減は微妙なので、それについては「こうじゃないか、ああじゃないか」と二人でやっていました。茜のいないシーンでも、茜の残像がお客様の中に残っていることが大事だと思っていたので…出ているシーンはもちろん大事ですよ。出ていなくても茜の存在がどう残っていくかを考えながら演出していた気がします。

―山田さんの演じられた五月は、島で生まれ育って、これからもずっと島で暮らしていく女性として描かれていました。本当に山田さんがずっと長島町で暮らしていたんじゃないかというくらい溶け込んでいらっしゃいました。

監督 「誰が女優さん?」「どれが女優さんですか?」と聞かれました(笑)。

山田 誉め言葉と受け取っておりましたけど(笑)。

―どんな風に島の皆様とお芝居の形を作られていったのでしょうか?

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山田 台本をいただいたとき、島で生まれ島で育っているということだったので、そこに説得力がないとダメだなと思って。飲み会のシーンや友達のシーンが島の方だったので、やっぱり波長を合わせたいと思いました。お願いして漁師さんの家に泊まらせていただいて、一緒に朝の仕事に行ったり、とにかく島を歩き回っていました。

貫地谷 朝現場に向かうときにたまたま、山田さんが台本持ってぶつぶつ言いながら歩いていく姿を見て、すごく素敵な方だなと思いました。

山田 車で横切ったの気づかなかったです。とにかく島を全部歩こうと思っていて、あるとき、電動三輪車に乗ったおばあちゃんが来まして、「どうも」って会釈したらハグされたんですよ。「あ~~」ってハグしてきて、親戚でも何でもないんですけど。

貫地谷 それはどういうノリなんですか?

山田 わかんないんですけど、びっくりしちゃって。なんか外国に来たみたい(笑)。おばあちゃんがそれから「私はあそこに見える種子島から嫁いできて長島にずっといる」という身の上話を20分くらい聞いて…(笑)

貫地谷 新しい仲間と思ったのかな。

山田 不審者という感じではなくて、私も話しているうちに親戚や家族みたいな気持ちになってすごいな~って。その心があけっぴろげな感じができたらいいなと思いました。

―「産みの親、育ての親」というなかなか答えの出せない問題に、お二人と豊和くんと一緒に挑んでいったかと思います。監督ご自身もお父さんでいらっしゃって、この映画で大切に描きたかったポイントはどこだったでしょうか?

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監督 どっちが本当の親かという映画や芝居は昔からありますが、その問題点の外に出たかった。そんなに簡単に決まるものではない。その問いの外に出ることはできるのだろうか? 子どもの人生は誰のものですかと言われれば、それは子どものものと言うと思うんです。しかし、僕を含めて子どもを所有しちゃう。でも子どもの人生をどういう風に尊重できるか?ということを一番に考えた。それは取材した児童相談所の方から「子どものことは最終的に子どもが決めます。僕らが決めるんじゃない。親が決めるんじゃない。子どもが決めます。そのことをいつも考えながら務めています」とお聞きして、この考え方は間違いじゃないんじゃないか。しかし、子どもを愛ゆえに拘束してしまう。どうしたら外に出られるのか?それぞれの苦しみも喜びもそれぞれにあると思いますけれど。
僕らはいい大人ですから、後からくる子どもたちのためにどういう風な場所や世界を残しておけるかというのがすごく大事な問題だと。それは子どもがいるいないに関わらず、大人の問題だと思っているので、それをどういう風に描けるかとみんなで考えながら、みんなと問いながら作った映画です。

―今本編をご覧になったみなさまも、映画の中のみんなと一緒に考えていただけましたらと思います。

ここでフォトセッション

―最後に貫地谷さんより締めのご挨拶をお願いいたします。

貫地谷 本日は来てくださってほんとにありがとうございます。今この国は失敗した人間がどうやって再起をかけられかということがすごく難しくなっている世の中なんじゃないかなと思います。その解決策は難しいと思うんですが、わからないから怖いということもあると思いますし。その中で、もしかしたら、隣にそういう人がいるかもしれない。そういう思いをみなさんが常にどこかで感じていただければ、この先また違う景色が見えるんじゃないかなと思います。私はこの映画に携わってそう感じました。なので、良かったらお知り合いの方に薦めていただいたり、また来てくださったり、これからも『夕陽のあと』をよろしくお願いします。

作品紹介はこちら
越川道夫監督インタビューはこちら

(まとめ・写真 白石映子)

『この星は、私の星じゃない』田中美津さん、吉峯美和監督インタビュー

2019年10月26日~11月8日 渋谷ユーロスペースにて公開
この後の上映情報は末尾に紹介

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監督:吉峯美和
出演:田中美津、米津知子、小泉らもん、古堅苗、上野千鶴子、伊藤比呂美、三澤典丈、安藤恭子、徳永理華、垣花譲二、ぐるーぷ「この子、は沖縄だ」の皆さん

作品紹介
1970年代初頭「女性解放」を唱えて始まった日本のウーマンリブ運動を牽引した田中美津さんの歩んできた道、鍼灸師として働く姿、そして沖縄辺野古に通う彼女の今を4年に渡り追ったドキュメンタリー作品。
詳細は下記で
シネマジャーナル 作品紹介 
『この星は、私の星じゃない』 公式サイト 

吉峯美和監督プロフィール(公式HPより)
1967年生まれ。フリーランスの映像ディレクターとして、民放やNHKのドキュメンタリー番組を手がける。2015年に、Eテレ特集『日本人は何をめざしてきたのか 女たちは平等をめざす』で田中美津にインタビュー。その言葉の力と人間的魅力に惚れ込み、自主製作で本作の撮影を始めた。

田中美津さん、吉峯美和監督インタビュー
2019年9月 あいち国際女性映画祭会場 ウイルあいちにて

あいち国際女性映画祭2019で上映があり、上映後Q&A、その後のインタビューです。

・インタビュアー 高野史枝 
映画監督(『厨房男子』)、シネマジャーナル執筆協力者 名古屋在住
・まとめ 宮崎暁美 シネマジャーナルスタッフ 東京在住

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*「パワフル ウィメンズ ブルース」

高野史枝 ドテカボ一座(リブセンター)が「パワフル ウィメンズ ブルース」を歌って踊っている姿を見て、名古屋で赤華(しゃっか)というグループを作ってあちこちライブしていた人たちのことを思い出しました。名古屋でもウーマンズハウスとかそういう喫茶店があったんです。もう70歳近いのですが。彼女たちはずっとあれが私の原点なんて言っていました。「パワフル ウィメンズ ブルース」は名古屋でもいろいろな人に影響を与えています。

宮崎暁美 「パワフル ウィメンズ ブルース」の曲は知っていたし、歌っていたのですが、田中美津さんの詩だとは知りませんでした。この映画で知りました。

高野 「たまたま女に生まれただけなんだよ」というのが、映画の中で最後につながっていましたよね。

田中美津さん 試写でこの映画を3回観てるんですが、もっぱら「なんでこんなズボン履いてるのよ」とか、自分の「あれまぁ!」と思うところしか見てなくて、全部をしっかり観たのは、実は今日が初めて(笑い)。観終わって隣にいた監督に、「ウン、なかなかいい映画よね」と初めて感想を言って・・・・(笑)。

高野 まあ、最初から最後まで、1時間半出づっぱりですものね。
監督にお聞きしたいのですが、映画論法でいくと、普通は周りに本人を語らせて、その人を浮かび上がらせるというやり方が、安易かもしれないけど一応客観的なアプローチだと思うのですが。上野千鶴子さんが出ているのなら、上野さんが語ったらすごいよねと思ったのですが

吉峯美和監督 上野さんや伊藤比呂美さんにもインタビューしたのですがカットしてしまいました。

高野 それはどうしてですか?

吉峯 尺の問題が大きかったです。90分に収めなきゃいけないというのがありました。取捨選択していく中で、田中さんがしゃべっている以外で評論的なものはやめようとなりました。よくTV番組では、知らない人もいるから田中さんがいかにすごい人かということを証明するために誰か識者みたいな人に持ち上げてもらう手法を使います。2015年のTVの時は実際、上野さんに田中さんを語ってもらったんですよ。田中さんの『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論』を「今は古典になっている本で、これを学生の時に読んで共感したのよ」と語っています。だけど映画では、そういう作りをしなかった。インタビューという手法じたいを少なくしたかったからです。
なぜ「この星は、私の星じゃない」と思うようになったのかということを語ってもらうために、そこの部分はしっかりお寺や公園で撮りました。また息子さんとの葛藤の話は、自宅でインタビューしているのですが、その2つ以外は、基本的には田中さんは誰かとしゃべっているとか、一人で自然としゃべり出すとか、普通に何かをやっているのを撮るというような作りにしました。本人でさえインタビューを減らしたいので、上野さんや伊藤さんへのインタビューは使わないという方針でした。

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高野 やっぱり本人が語るのが一番強いですね。今回観ていて改めて思ったのですが、言葉に対する思い入れ、才能がすごい。そのまま文章になっていくんですが、普通あまりそういうことはないですよね。きちっと伝わってくる。

吉峯
 田中さんはフェミニズムにおいて、与謝野晶子や平塚らいてうと並び称される人なのですから、それ以上持ち上げなくてもいいのではというのがあります(笑)。


*嬉野京子さんの「ひき殺された少女」の写真をめぐって

高野 自分の思いを語っている断崖のシーンも好きです。沖縄で写真*をみせながら男の人と口げんかしているシーン、これよく撮ったなと思いました。

*嬉野京子さんの「ひき殺された少女(1965年)」の写真を入れ込んだ田中さんが作ったチラシのこと。この写真を見たくない人も沖縄には多いから、こういうのを配らないでほしいといってきた男の人がいて、田中さんと口論するシーンがある。
嬉野京子さんの写真 参考サイト1
http://longrun.main.jp/okinawa1965/film.html

田中 あれはほんとはもっと激しくやりあってたのよ。あの人、東京の人で、自分の意見なのに「沖縄のおばぁが嫌がってる」と言ってクレームをつけてきた。そういうクレームのつけ方ってズルいと思うのよね。

宮崎 私はあの嬉野京子さんの写真を1970年頃見て、田中さんと同じように衝撃を受けました。だからあの写真に対して「これを見たくない」という人がいるということに驚きました。思ってもみなかった。

田中 自分が正義だと思ってる人とは、話し合っても疲れるだけ。だからあの男を相手にしてもしょうがないと思って、直接当のおばぁに写真をどう思ってるのか感想を聞いたのね。

吉峯
 「あの事故にあった少女の尊厳を考えたら、このチラシを配るのはやめろ」ということだったんです。「その少女の死をただの死に終わらせないで、この子の死が発するメッセージを伝えることも、彼女の尊厳を生かすことにつながるんだ」という田中さんの反論が良かったから使いました。しかもその後、ちゃんとおばぁに謝りに行ったところが偉い。「私はこの写真を見たことで、何かをしなくてはという思いにかられて信念を持ってやっているけど、気を悪くしたのだったらごめんなさい」と。

田中 あの少女の死を、本土の人間はほとんど知らないというそのこと自体が、あの子の尊厳を踏みにじっている根本であって、本土の人間にまず、あの写真を見てもらいたい、本土の私らは見るべきだと思って、始めた運動なのよね。

高野 そうですよね。

田中 そうしたら隣にいたおばぁが、「もうずいぶん前に見た写真だから忘れていたけど、こういうことがあったね」と思い出してくれて・・・。こういうことがいくらでもあった、と。そのことを直接聞けたから、まぁあのクレーム男も役には立った(笑)。

高野 男を面と向って敵にしたくはないけど、そういうタイプの象徴的な人が出ていたと思いました。田中さんはこういう権威的なものと闘ってきたよねと思いました。

田中 私、権威を盾にしてモノをいう人をバカにしていますから、ああいうのとは闘うより無視したいほう。

*田中さんと吉峯さんの信頼関係

高野 断崖のシーン、参道のシーンを観ると、吉峯さんと田中さんの信頼関係がしっかりと出ていましたね。ドキュメンタリーは時間が必要ですよね。知り合ってすぐという感じの映像ではないと感じられますよね。


田中 ほんとに、私のそのまんまが撮られてる。

高野 ある程度の時間をかけないと、そこまで撮れないですよね。

田中
 でも、私の場合、最初から緩んではいるんです(笑)。

吉峯 久しぶりに観たんですが、TV番組の時はやっぱり顔が厳しいですね。今と全然違いますね。

高野
 撮っている順番はわからないですが、最初の頃のきちっとしゃべろうとしている感じと、最後の頃の好きに撮ってねという感じ、雰囲気が時間の経過でずいぶん違ったと思います。やっぱり出ますよね。1ヶ月くらいで撮っていたら、顔の表情は硬いままですよね。

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*ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った

田中 顔と言えば、リブ運動をしていた時の信頼している仲間であった米津さんと会って話している時の顔が、我ながらほんとに嬉しそうな顔をしていて驚いた、

吉峯 米津さんも嬉しそうでした。

田中
 ほんとに

高野 その時のリブの話がすごく良かったです。「ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った」という話、ジーンときました。

吉峯 あれは米津さんがいたから撮れた話だったと思います。

田中 米津のところに、たまたまソファがあったから(笑)

高野 抽象的な話も必要だけど具体的な話は説得力ありますね。「ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った」という言葉は、ものすごく伝わってきました。

吉峯 実感がわく言葉ですよね。

高野 それまでは仮暮らしだったけど、ソファを買ったことで、「ここで暮らしてゆく」という決心がついたというのを感じました。

田中
 あれは、年齢と関係なく通じる話よね。

高野 特に女性にはリアリティがある。

吉峯 「この星は、私の星じゃない」という言葉では思わなかったけど、同じような違和感を持っていたという人がいました。

宮崎
 『この星は、私の星じゃない』というタイトルに、最初、何だろうと思ったけど、このソファの話で「なるほど」と思って、このタイトルぴったりだなと思いました。

吉峯 私は好きなんですけど。

高野
 皆さん、ここで腑に落ちるんですよね。この作品の時制はバラバラなんですか?

吉峯 そうですね。最初のエピソードは、まあ、アバン(導入部分)みたいなもので、リブのこと、鍼灸師、沖縄のことなどが、頭18分の中に入っていないといけないと思っていました。

高野
 「こういう映画ですよ」という導入部ですね。

吉峯 その後、お寺のインタビューあたりからは、時系列通りという感じです。子供だった田中さんがいて、20代になってリブやって、メキシコに行って母になって、息子が育って鍼灸師になってというように話を続けたんです

*沖縄に通う

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@konohoshi2019


高野 沖縄の部分はまとめずに、沖縄に行って帰ってきて、東京での日常があり、また沖縄に行く、そういう日常だよという風に作っているのですね。

田中 あの、米軍の車に引かれた女の子の写真見て、すごくショックを受けて、私は沖縄のことを自分の問題として考えてこなかったと猛反省。直ちにいろんな人に呼び掛けて沖縄ツアーをやるんですが、あの時、実は岩波書店ともうひとつの出版社から本を出すことになっていたんです。それを全部打っちゃって沖縄へ、沖縄へとなってしまって・・・・。

高野 そのあと、必死に校正していましたね。

田中 必死の校正は今年になってからで、この映画の題名と同じ「この星は、私の星じゃない」という本と、この10月にインパクト出版会から出る「明日は生きてないかもしれない…とい」う自由」という本があの時に蹴飛ばされちゃった2冊なんです(笑)。

吉峯 ようやく映画の完成に合わせて出版されました。

田中 1枚のチラシから、自分は沖縄の大変さを分かったつもりでいただけなんだと知って、本のことどころじゃない、ひたすら恥ずかしかったのです。

吉峯 田中さんはツアーだけで10回くらい行っていますが、個人的に下見も行かれていますので、倍くらいは行ってますね。

田中
 久高島のよくしゃべるおばさん、あの巫女っぽい人が出てくるシーンだけど、話を聞いているフリをしながら、私、居眠りしているんですよね。わかったかしらね(笑)。

高野
 あれ居眠りですか。私は感動して頭垂れているのかと思いました(笑)

田中 あれは辺野古へのツアーの翌日で、参加者と別れて私一人で久高島に行ったんですけど、最初から疲れているのに、暑い中あちこち連れ回されて、もう、あまりに疲れ果てて思わず眠ってしまって・・・・(笑)。彼女の話がなんか神がかってて、そういうの苦手だし。

宮崎 私は久高島まで行ったんだと感動しました。

吉峯 呼ばれないと行かれない島です。私たちきっと呼ばれたんですよ。

田中 女たちの島だしね。

高野 あの美津さんを見ると、よく似合っていましたね。巫女気質あるんじゃないですか。

田中 少しはあるかもしれないけど、神がかってる人に従順だったのは、あまりにも疲れていたからよ。

*カリスマ

高野 友人から聞いてほしいと頼まれたのですが、メキシコに渡られたのは国際婦人年のメキシコ会議で行って、そのまま残ったんですか?

田中 そう、たまたま行って、たまたま居ついた。

高野 リブの中でカリスマのように持ち上げられてしまって、居心地が悪かったので日本から飛び出したということなんですか? 田中さんがいなくなってから、運動が下火になっていったということもあったのですが、田中さんはそのへん意識していたのでしょうか?

田中 私にとってリブは「1対多数の関係」で、そういう関係になってしまうカリスマって、なりたくてなるもんじゃないのよね。思いもかげずカリスマみたいな者になってしまい、いつも落ち着かなかくて。体が悪くなってメキシコに逃れたことで、いわば仕切り直しができて・・・・。鍼灸師はいい、鍼灸は1対1の関係だもの、もう、私の天職です。

高野 さます時間が必要だったんですね。

サブ・治療.jpg

@konohoshi2019


田中 「有名になりたくない」なんていうと偉そうに聞こえるかもしれないけど、なんで有名になりたくないかというと、「面白くなさそうだから」につきるのね。「有名になる」って、他人が自分をどう見るかということを常に意識する、させられるということでもあるし、そういう意味で、それって不自由になることでしょ。猫は、ただ生きているだけで猫なのに、人間ってただ生きているだけではその人にならない。自分を探しながら生きて行くんだよね。そして探してるうちに、こういう私は嫌だとかこんなのは私らしくないとかわかってくる。

高野 その意識もあったんですね。田中さんがカリスマを拒否したいという姿勢、リーダーなしで運動を進めるという考え方はリブの中で具現化しましたね。私は名古屋でワーキングウーマンというのを30年くらいやっていたんですが、リーダーも事務局も志願制というか、やりたい人がやる。一切、代表とかはなし。
 
田中 リブって、そういうことを大事にしようと努力した運動だった。

高野 そうですね。皆さん、若い頃からそういう風に活動してきたのですが、他からの問い合わせとかで、「代表はいったい誰なんですか」とか「誰か責任もって話してください」とか言われるのですが、その時に「担当が対応します」と言ってやってきたので、そういう、田中さんがおっしゃったような「1対多数」というようにはしないというのが、あの頃の運動の流れでした

田中
 理念は横一列なんだけど、動き始めると自分が中心みたいになってしまうのが、とにかく嫌だった。でも、それを個人的にどうにかしたかったら運動から離れるしかないがけど、私は離れたくなかった。それに私がそういう存在であることの意味もあったのね。できたばかりの運動だと、どこがヘソかわからないと、マスコミは取り上げてくれないから。

高野 それはそうですね。

田中 それだから頑張りすぎて体が悪くなってメキシコで暮らすようになった時には、ほっとしました。ハハハ、恋愛もできたし。

高野 お子さんも生まれたしですね。

*生活者としての田中さん

宮崎 運動家としての田中さんの姿を、いくつかのドキュメンタリーで観てきましたが、初めて生活者としての田中さんを見た作品でした。私としては安心というかほっとしました。田中さんも普通に生活して生きてきたんだなあと思いました。さっきトークの時(映画祭上映後のトーク)。「私もこうやって日々の生活を送って生きていけばいいんだなと勇気をもらいました」という人がいましたが、私もそう思いました。

田中
 そうですよ。

高野 そう思った人、たくさんいらっしゃいますよ。

吉峯 「もっとすごい人のはずなのに、どうしてこんな普通の人みたいに描いているの」って、怒られるんじゃないかと思ったんですが、そういう風に言ってくれる人がいて安心しました。

高野
 撮っていて、すごい人だというのがあるし、お話しもインパクトがあるじゃないですか。日常をこういう風に撮っていいのかなというジレンマみたいのはなかったですか?

田中
 なかったみたいよ(笑)

吉峯 ジレンマはないんですけど、最初の頃はやっぱりすごい人を撮っているという意識がありました。その人の記録を歴史として残さなくてはいけないみたいに思っていたんですが、撮り始めて2年くらいたって、そうじゃないんだとわかったんです。田中美津という人を撮っているけど、自分を見つめ直すような作業なんだなと思いました。だからテーマが変わっていったんですよね。

*「膝を抱えて泣いている少女」が意味すること

高野 一番、変わられたというのはどういう部分ですか

吉峯 2年目の時に、女子会をやったんですよ。30代の女性カメラマンと、40代の音響効果の女性、50になろうとする私と田中さんの4人で。田中さんはお酒を飲めないけど、他のメンバーはお酒を飲んで。その時、田中さんが「あなたたちが柔らかな感性を持ち続けて作品を作っていきたいのなら、自分の中にいる膝を抱えて泣いている少女の存在を忘れてはいけないんだよ」というようなことをおっしゃって。確かに私、自分の中にいる泣いていた、つまりトラウマ的なことをなかったことにして、忘れて蓋していたんです。それでなんか大人になったような気分になって、男と同じように番組をバリバリ作って、結婚もしていないし、子供もいないけど充実した日々を送っているという風に思っていたんだけど、それって、その少女に蓋して生きてきたということなんだなあ、それを言われたんだなと思ったんです。そんな痛みに蓋しているような人には、「田中美津」は捕まりませんよって言われたような気がしたんです。
それでその頃から、その蓋していた少女ってなんだろうって自分のことを一生懸命探るようになって、そういえば私「この星は私の星じゃない」と泣いていた時あったなあと思い出したんです。その少女って、結局、田中さんの中には今もいるから、そこの痛みから発するから、皆に言葉の強さが伝わるんだと思って、だから、自分の中にもいて、田中さんの中にもいる、その少女を描かなくてはいけないんだ、そこを大事にしないと、ほんとに偉人伝のようになっちゃうと思ったんです。
それが2年目くらいにわかったので、そこから撮り方も変わっていたし、これまでいっぱい撮ったけど、これもいらない、あれもいらない。少女に関係ないと思うところは全部捨てることにしました。

高野
 撮っているうちに変わるというところは、必ずありますよね。

宮崎 4年も撮ったということは、かなり撮っていますよね。

高野 もう一本映画作れそう。見るのが大変ですよね。

吉峯 そう。ぜんぶ文字起こしもしたし、それが大変でした。

高野 実は私の話なんですが、私も今『おっさんず ルネッサンス』という作品でおっさんを撮っているんです。おっさんって大嫌いで、だいたいおっさんって抑圧的じゃないですか。油断するとセクハラしようとするし、パワハラはあるし、おっさんたちに変わってほしいという作品を作ろうとやっているのですが、10年くらい付き合いのある人たちを撮っています。撮っているうちに、なんか可愛げがすごくあると思うようになりました。抑圧が取れて、社会からの足枷が取れて、むき出しの自分になって、妻との関係に悩んだり、友達ができないって悩んだりする姿があって、おっさんは意外に可愛いと思えてきました。

*『おっさんず ルネッサンス』 高野さんが今、製作している映画
愛知県大府市の施設「ミューいしがせ」で生活自立を学ぶおっさんたちのドキュメンタリー映画 
https://ossan-obu.com/

田中 フェミニストもおっさんも、好きなヤツと嫌いなヤツがいるだけじゃないかと思うのよね。。。どんな肩書きだろうと嫌いなヤツは嫌いなんです。妻子に優しく家事をやってるという男が全員好きなわけではないし。「膝を抱えて泣いていたボク」を忘れない男で、女・男の別なく付き合っていける、オープンザッマインドの男が、いいなぁ。

高野 なるほどね(笑)。その少女の心情というのが自分の中にいないと、そういのが消えてしまうと、これはうまく撮れる、これは効果的という風になってしまうかもしれませんね。

田中 「膝を抱えて泣いている少女」というのは、映画の中に出てくる言葉で使えば、「なぜ、私の頭に石が落ちてきたのか」ということへの拘りとイコールなのね。それは、「たまたま」に過ぎないんだと、散々悩んだ末に私は思い至るんだけど。ほんとにつらい何かを抱えた人って、「他の人も皆いろいろな傷を負ってるんだ」とわかっても、そういう事実に四捨五入できない自分がいるんですよ。「なんで私の頭に?」という、その問いそのものは、個人的に答えが出せるものではないし、社会的にも難しい。。。いわばそれって天に問うようなことですものね。そんな大きな事柄だから、「なぜ私のアタマに?」という問いや苦悩が宗教をもたらしたと言っても過言じゃないと思うんです。
いまはもう、石が落ちてきたのは「たまたま」なんだと知ったから、「なんで私のアタマに?」というこだわりも薄れてきましたが、でもそういうことばではないかもしれないけど、「なぜ私のアタマでなければならないの?」と悩んでいる人はたくさんいるはず。だから心細く自分を手探りしてきたことを、自分は忘れちゃいけないと思うのね、幾つになっても。その思いから多くの人とつながって行けるはずだから。


高野
 そういうのをお聞きできただけでよかったです。これから自分はどうやって生きるかというのも、少しそういう視点を忘れちゃだめということですよね。

田中
 センチメンタル過ぎるのは、モチロンいやだけど、センチメンタルがまったくなくなってもダメよね。。。人と繋がっていくのは、センチメンタルな部分もあってのことだから。

吉峯 あの海の崖のところで泣いていたのは、美津さんの少女の部分が反応してですね。

宮崎 田中さんの思いが伝わってきました。

田中 自分で言うのもナンですが、あそこ、いいですよね。

*カメラの組み合わせについて

高野 映像がクリアに撮れていますね。

吉峯 カメラはいいです(笑)。

高野 カメラいいんですか。

吉峯 私が撮っている自宅の場面は家庭用のビデオカメラだけど、外の映像とかイメージカットなどはいいカメラで撮っています。断崖で撮ったのは、南幸男さんという日本のドキュメンタリー界では5本の指に入るカメラマンです。

田中 横にカメラがあるのにゼンゼン気にしないでしゃべれたのは、やっぱカメラマンの腕がいいからでしょうね。

吉峯 ほんとですね。

田中 お蔭で、戦火に追われて人々が飛び込んだあの崖の下で話してたら、まるで自分も飛び込んだ一人になったような気がしてきて・・・・。

高野 慣れてしまったという感じでしょうね。

吉峯 あそこはシンクロしちゃって、世界に入っちゃっているんですよ。

高野 ちょうど良かったですね。小さいカメラでは家の中とか、狭いところを撮っていて。

吉峯 鍼灸院なんかも女性が裸だし、私が小さいカメラで撮っています。

高野 狭いところは機動性があるカメラ、広いところは大きなカメラで、映像にメリハリが効いていますね。色合いもいいですし。後半は外の景色が多いですしね。両方がうまく組み合わさっていますね。

吉峯 カメラマンの腕です。

高野 そういういいカメラマンを使えていいですね。

吉峯 一点豪華主義で、イメージカットや広いところの場面とか撮ってもらいました。

高野 私は大学出たてのカメラパーソンにお願いしています。京都から来てもらって撮影しています。名古屋ではそういう映画のプロカメラマンがいないので羨ましい。DVDができたらお送りします。

田中 東京でやるときは教えてください。映画は映画館で観るのが一番です。

吉峯 ほんとですよ。

*ウーマンリブとフェミニズム

宮崎 3,40代の人たちはウーマンリブの時代を知らないから、この映画を観て興味を持ってくれる人がいたらいいなあ。ウーマンリブの運動があってフェミニズムが生まれたということがわかるといいなあとも思います。ウーマンリブの運動、こういうような形であったんだなと、とても入りやすい内容です。

吉峯 そうですね。田中さんの生き方を通してリブたちの思いが伝わればいいですね。

田中
 リブとフェミニズムってちょっと違うんですね。あと、この映画ができて良かったなと思うのは、リブっていいなって思う人が、この映画で増えんじゃないかということです。

宮崎
 私もそう思います。私も運動に関わってはいたけど、カチカチの運動の記録だと、運動に関わっている人はわかるけど、そうでない人はそう思わない人もいる。


吉峯 逃げ腰になっちゃうから。

*再び「パワフル ウィメンズ ブルース」について

田中 みんなで歌って踊っている場面、いいでしょ。私、あの場面すごく好き。

高野
 すごくいい。あの時代の記録として撮れていて良かったですね。

宮崎 あんな映像が残っていたなんて思ってもみなかったので驚いたし、嬉しかったです。

田中 あれ1番と3番だけなんですけど、2番も入れてほしかった。2番はなんと原一男監督の元女房で、私たちの仲間だった人が歌っていたんですが、彼女は体から発する力が強い人で「父ちゃんみたいな男じゃいやなんだよ、母ちゃんみたいに生きたくないんだよ」って歌ってて、あれ、入れてほしかったなぁ。

宮崎
 そうでした。そうでした。それは残っていないんですか。

吉峯 1番と3番しか使ってないんです。

高野
 名古屋でも、最初に言った「赤華」ってグループが、あの歌をずっと歌っていたんです。オリジナルは直接は聴いていなかったんですが、彼女たちが歌っていて知っていましたし、彼女たちの持ち歌だと思い、それを聴いてとてもインパクトがある歌だと思っていました。

田中 みんな好きだったのよねぇ。

高野 テーマソングになっていて良かったですね。かっこいい歌になっていましたね。

田中 同じ歌詞が、カッコいい新しいメロディで歌われてて、あれでリブファンがグンと増えた感じ。

高野 「たまたま女に生まれただけなんだよ」って、いろいろしんどいことがあっても、この歌に励まされました。応援歌になっていますよね。

吉峯 「私のサイコロ私が振るよ、どんな目が出ても泣いたりしないさ」って。

田中 この映画、をマスコミがどのくらい取り上げてくれるかなぁ。なんせ男マスコミだから・・・・・。

高野 「なんだリブか」ってことにならなければいいんですけどね。

宮崎 私もかつて、そのマスコミが作り上げたリブ像のおかげで、リブのことを誤解していて、1975年まで5年の間、リブの人たちに出会わずにいました。

田中 敬遠しちゃったのね。でも今日ね、上映が終わった後、感じのいい男の人が寄ってきて、感動したと言ってしてしっかり握手を求められたんだけど、なかなか手を離してくれなかったのね。60代くらいの人だったけど、何をやっている人なのかなと凄く印象に残った。
 
吉峯 男にも伝わって良かった。その人も自分の中の少年を思い出していたんじゃないですか。

田中
 嬉しいよね。

高野 やっぱり映画ができると大きいですよね。みんなリブの影響をあちこちで受けながら細々とやっているんですよ。

田中 この映画、10月26日からまず東京で公開されるんですが、その際いろいろな方がゲストに来てくれることになっていて、上野千鶴子さんもその一人。上野さん、この映画を観てどう思うかなぁ。感想が楽しみです。

高野
 上野さんは、ちゃんと受け止めてくれますよ。

田中 フェミニズムの代表として上野さんがいるでしょ。でも自分もフェミニストなんだけど、フェミニズムはあまりシックリ来ないという人が、私のファンには多いのよね。

宮崎 そうですね。私もそうです。

高野 私もちょっと違うというのは、感覚としてよくわかります。

田中 だから上野さんがこれを観て、どう思うか知りたいのよね(笑)。 

高野
 フェミはやっぱり根っこに膝を抱えた少女が必ずいると思うんです。そして「この星は、私の星じゃない」とも思った人たちだと思うんです。

田中 私ね。上野さん的なフェミニズムを否定的に思っているのではなく、あの映画を観てから一層、私的なフェミニズムと上野さん的なフェミニズムの両方必要なんだと強く思ったのね。そのことを上野さんもわかっていると思いますが、この際生の声であの映画を観た感想聞けるのが聞けるんで。楽しみだなぁと

高野 ほんとにそうですね。興味深いです。

吉峯
 しかも初日ですよ。初日。

取材を終えて
東京でインタビューさせてもらう予定でしたがあいち国際女性映画祭で上映があるということを知り、ちょうど映画祭に行くので、今回は名古屋で取材をと考えたところ、いつもシネマジャーナルに記事を寄稿されている名古屋在住の高野史枝さんが取材申請しているというのでご一緒させてもらいました。名古屋の女性たちの運動との兼ね合いでお二人に質問していたので、名古屋のことも知ることができる記事ができました。名古屋でも「パワフル ウィメンズ ブルース」が歌われていたというのは感慨深いものがあります。
米津さんも出てきて嬉しかった。私は1980年頃、新宿の製版屋(印刷の版を作っていた)で働いていたんだけど、そこに米津さんが時々製版の依頼に来ていた。私はてっきりリブ新宿センターの仕事と思っていたんだけど、その頃はすでにリブセンターはなかったんですね。この映画のことを調べていて知りました。米津さんは大きなバイクに乗ってやってきました。あの頃、大きなバイクに乗った女の人は珍しく、さっそうとしていてかっこよかった。そんなことを思い出しました。
そして何よりも田中さんがこんなに気さくな方だとは思いませんでした。そんな田中さんの姿を4年も追い続けた吉峯監督。長い時間が紡ぎ出した田中さんの姿だと思いました。(宮崎暁美)

2019年10月26日~11月8日 渋谷ユーロスペースにて公開

連日朝10時30分より(上映時間90分)上映開始
トークショー開始 12時ごろの予定
11月2日(土)は田中美津さんによるトークの聴き手は渡辺えりさん(女優/劇作家/演出家)です!
以後のトークイベント(いずれも映画の上映終了後)‼
11月 3日(日)小川たまかさん(ライター/フェミニスト)
11月 4日(月・祝)吉峯美和さん(本作の監督)
11月 6日(水)安冨 歩さん(社会生態学者/東京大学東洋文化研究所教授)

ユーロスペースでの上映後、名古屋シネマスコーレ 横浜シネマリン、大阪シネ・ヌーヴォ 京都みなみ会館神戸元町映画館 鹿児島ガーデンズシネマ 沖縄桜坂劇場 松本シネマセレクト 他全国順次公開予定!

参考
シネマジャーナル スタッフ日記
『この星は、私の星じゃない』完成披露試写会に行ってきました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/469274783.html