『花のあとさき ムツばあさんの歩いた道』 百崎満晴監督、伊藤純プロデューサー インタビュー

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<百崎満晴監督プロフィール>1969年生まれ。新潟県出身。日本大学芸術学部映画学科卒業。1993 年NHK入局。初任地は東京の放送センター。担当は番組系カメラマン。以後、仙台、東京、福岡局を経て、2012 年より再び仙台局勤務。現在もヒューマンドキュメンタリーのカメラマンとして被災地の取材を続けている。2004年「にんげんドキュメント ムツばあさんの花物語」で第11回JSC賞受賞。

<伊藤純プロデューサー プロフィール>1978年NHK入局。山形放送局を経て、制作局・NHKスペシャル番組部などで主にドキュメンタリーを制作。近現代史、文化、自然など幅広いテーマを多様な演出方法で描いてきた。日本人がどう生きてきたのかを、「見て面白い記録」として後世に残すのが夢。「新日本風土記」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。「秩父山中 花のあとさき」シリーズには当初から携わる。映画初プロデュース作品。

<物語>埼玉県秩父の山あいの村に暮らす小林ムツさんと夫の公一さんは、後継者がなく使われなくなった段々畑を一つまた一つ閉じて山に還していく。これまでの感謝の気持ちを込めながら、花や木を丁寧に植える。いつか山を訪ねてきた人が「花が咲いていたらどんなに嬉しかろう」と。テレビ番組が好評でシリーズとなり、映画化された。
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(c)NHK
★2020年6月1日(月)よりシネスイッチ銀座ほかにて全国順次公開


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―ムツさんの最初の印象はいかがでしたか?

百崎 別番組のカメラマンとして初めて会ったムツさんに圧倒的な魅力を感じました。畑に花を植えて山に還そうとしていることと合わせて、すごいなぁ素敵な人だなぁと。

伊藤 僕は映像の中でしかお会いしていないんですが、「畑に花を植えて山に還す」という言葉から感じる観念的なものとは違う、生活感のある、柔らかな茶目っ気のあるおばあちゃんだと思いました。

―ドキュメンタリーは何が起こるのか先の見通しがたてられませんが、撮影していくにあたって芯になったものは何だったんでしょう?

百崎 テーマということですか?「なぜ山に還そうという発想をするんだろう?」「なぜこんなに素敵な人生を歩めるんだろう?」「なぜこんなに長く続けられたんだろう?」という問いの答えを探しに行くのが、このシリーズのテーマだった気がします。その「なぜ」を直接ぶつけてみたことはないですね。そもそものスタートが情報番組とは全く違うので、質問をしなきゃみたいなのではなく、カメラマン兼ディレクターの僕が、撮りながら声をかけていくスタイルだったんです。とにかくムツさんたちについて歩いていました。

―秩父への取材は泊まりですか?

百崎 泊まりにしていました。当時は高速を使っても2時間半~3時間半くらいかかりましたので。そのすぐ下に「下久保ダム」があるんですが、そこに何軒か宿があって、そこを定宿にしていました。音声さん、ドライバーさんと僕の3人の都合が合う日を選んで、4~5日撮影をして帰ってくるという形です。テレビの場合、普通行く前に構成を考えていきますが、僕たちは訪ねて行ってはその状況に応じて声をかけて撮る、という繰り返しですね。

―ゴールというか、いつまで撮ろうというのは決めていましたか?

百崎 2001年、最初に撮ったころは「花が咲くまで」が、ひとつのゴールでした。公一さんが亡くなった後に作った番組もやっぱり「花が咲くまで」。季節の変わり目というか、節目のところまでのピリオド。放送日の関係もありますけれど。

伊藤 現場に長時間はりつけるような体制はとれませんでしたから、季節や畑仕事の節目と、百崎君の他の仕事の兼ね合いもみてロケを積み重ねていくやりかたでした。

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―公一さんが亡くなられて、ひとりになったムツさんも2年少し後に亡くなられてしまいます。

百崎 公一さんが亡くなられて3か月くらいして訪ねました。番組にするというより、ムツさんが山を下りてしまうかもと聞いたからなんです。それまでの経験で山を一度下りてしまうと戻ってこないかもしれない、ひょっとするとムツさんがあの集落にいる最後の日々になるかもしれない、というある種の危機感があったんです。ムツさんがここにいる姿を残そうと思いました。
ムツさんが亡くなった後も、番組の予定も何もなかったんです。当時僕はスロバキアという東欧の小さい国に海外ロケで行っていて、そこでまさに公一さんムツさんのような老夫婦を主人公にしたドキュメンタリーを撮っていました。やっぱりもう一度あの太田部を見に行かないと、と海外から伊藤さんに「これこれこうで東欧におりますが、4月1日に帰国しますので2日~3日の撮影は可能でしょうか?」。番組提案も何もなしで「ムツさんがいなくなった後の花を撮りたい」と長文のメールでお願いをしました。そしたらクルーが用意されていました(笑)。
そこからゴールを考えたかな。

―テレビは映画と違って家にいながらたくさんの方が視聴します。ムツさんたちは自分たちがテレビで放映されることをどんな風に思われていたんでしょうか?

百崎 すごく喜んでくれていました。ムツさんが一番喜んでくれていたと思うんですけど、テレビを見た人がたくさん訪ねて来られたんです。本来ならだれも訪ねて来ないような静かな日常だったはずが、花が咲いてる、咲いていないに関わらず、だいたい週末になるといろんな方々が訪ねて来られました。「色んな話を聞かせてくれるんだ」と、それをすごく楽しみにしているようでした。
「防犯上含めて大変じゃないですか。大丈夫かな」と当時息子さんとも話したんです。「心配は心配なんだけど、それがムツさんや武さんたちにとってある種の生きがいになっているから、大丈夫じゃないかな」とお話しされていました。

―楽しみにしてくださっていたんですね。人好きのする方ですものね。

百崎 もう大好きなんですよ。一日中喋りっぱなしでも平気な方で。

―ほんと可愛いおばあちゃんですよね。笑顔が良くて小柄で。

百崎 可愛いんですよ。ちょっとしたお茶を淹れる仕草でさえ可愛い。近視でよく見えないこともあって、何かと人を使うんです。お茶を淹れたから持ってきてとか、棚の上にお菓子があるから取って、とか(笑)上手なんです。テレビを見ての「ムツさんファン」もいますけど、その放映前からのムツさんファンも実はたくさんいて。週末や春なんかひっきりなしに訪ねてくるんです。

―それはすごいですね。最寄り駅はどこになりますか?

百崎 最寄り駅…最寄り駅がないんですよ。公共交通機関がほぼなくて、西武線の秩父駅からだと車しかない。1時間半くらい。

―遠い~。トレッキングにしてもちょっと辛いですね。

百崎 群馬県の新町駅からバスが出ていて、バスに乗ると1時間20分。ダムの赤い橋のところまで。そこから歩いて50分。びっくりするくらいたくさんの方が訪ねてこられるんです。芳名帳みたいな記録ノートがあるんですけど、相当な冊数です。

―じゃあ楽しい老後だったんですね。

百崎 ムツさんにとって何がほんとに楽しかったのか。少なくとも賑やかだったことは確かです(笑)。

―映画化にあたっての準備は?

伊藤 テレビ版に使われなかったものが当然あるわけです。その中で映画だったら何が生きるだろう、という見直しはもちろんやりました。
最初のころ、20年前はハイビジョンの初期のころですが、素材が残っていないものもあるんです。ほんとに残念ですが、こういう事態は想定していなかったので。

百崎 終わったらテープを返却しないといけない、繰り返し使うものなので。

伊藤 ある時期以降は未編集の映像も残っているんです。テレビで使わなかったシーンやカット、映画館なら良さが伝わるカット、構成が多少崩れようが、絵として魅力があればはなるべく使うという方向で考え直したんです。テレビと同じものでは見に来てくださる方にも申し訳ないので、大きなスクリーンや音響を意識してイチから組み立てました。

―その準備期間はどのくらいかかったのでしょう?

伊藤 ずっとこのシリーズを担当している編集マンが今回もやりましたので、作業は2週間くらい。紙の上で映像の流れを組み立てる作業はその前に終わっていましたから、実際に繋いで試写をしてというのは短期間でした。
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―おふたりはムツさんに出逢ったことで自分の生活や考え方が影響された、変わったということは?

百崎 僕自身は完全に変わりました。ムツさんに出逢わなければまるで違います。伊藤さんは?

伊藤 僕は…仕事という意味で言うと、この番組をやらなかったらそれから後の仕事の中身は全然変わっていたでしょうね。こういう、大きな事件や出来事は特に起こらないけれど、きちっと日本人を記録する、そういったものが面白いし、ちゃんとやっていく意味があるんだなと思った大きなきっかけのひとつです。
NHKのBSプレミアムで毎週「新日本風土記」という番組を担当していますが、このムツさんの番組がなかったら始めなかったかもしれません。

―リストを見ましたら話題性のあるものですね。

伊藤 そうですね。戦争体験の記録をずっと続けていたんですけど、ムツさんの番組がなかったら長期的にやろうとは思わなかった。僕の父親や、もう一世代上の日本人が、いったいどんな風に生きてきたのか、あるいは死んでいったのかということを、しっかり残したい気持ちがこの番組から芽生えたんだと思います。ディレクター時代は、この種の番組をほとんどやったことがなかったんです。だからナレーションの書き方とか…カメラマン番組ですから、あんまり論理で組み立てていくよりは現場の映像の生理を生かしたい…そういうことの面白さをこの番組を通じて身につけたところもある。映像作品を作る上で、何に対して面白がるか、何をやるべきかということの判断のひとつの分かれ目になったかもしれません。

―ものすごく人生が変わってしまった監督はこの後どうなさいます?

百崎 いやー(笑)。

伊藤 白石さん面白い質問しますね(笑)。

―もうただのおばちゃんになってます(笑)。

百崎 いろいろ考えていまして、まずは家族の立て直しから(笑)。このムツさんご夫婦や武さんとの出逢いでは、僕の人生も、生き方も、仕事のやり方も、いろんなことを学ばせてもらいました。ここで番組の取材をやってこなければ、今の僕のカメラマンスタイルというかカメラマンスキルもなかったでしょうね。たぶんムツさんと出逢っていなければNHKをやめていたかもしれない。カメラマンにそんなに興味も自信もなくて、違う道を考えていたかもしれない。カメラマンのこういう手法もあり、と教えてくれたのが伊藤さんでした。結果的に視聴者からも「いいね」って言ってもらえたことが、カメラマン人生でこういうのもOKなんだと、こういうことをもっと大切にしていいんだと気付くことの連続でした。
ご質問の「ここから先どうしますか?」ですが、あと定年まで何年か残っているので、住宅ローンもあり(笑)、なんとか頑張ってこの組織に残らなきゃいけないです(笑)。

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ムツさんたちから教わったひとつのやり方として、何か人生の課題を設けて、そこに向けて日々重ねていく。ひとつの故郷としての秩父の楢尾太田部の方々とは、いやだと言われない限りしばらくは人間・百崎満晴として何かしら関わりを持っていきたいと思っています。
今は仙台局にいて被災地の取材をずっと続けさせてもらっています。被災地で起こっていることは先駆的にここで起こってきたこととさほど変わらない。今被災地でもやもやしている、もしくは苦しんでいる、困っている人たちのところで同じようにカメラという武器を使いながら、すぐには何か解決していくことはできないかもしれないけれども、記録していくことはできるでしょうし、一緒に何かを考えていくこともできるでしょう。このふたつの場所ではやるべき仕事はあるかなぁと、年齢的に退陣を迫られるかもしれませんけど(笑)。やれることをやっていこうと思っています。

―ムツさんが私の母親と同い年ということもあって、両親や祖父母、故郷のことを考えました。おふたりの故郷はどちらですか?

伊藤 僕は東京の墨田区。川向うなので江戸っ子じゃないんです(笑)。
やっぱり自分の親のことを考えますよね。僕の母親は今年90でまだ元気です。母親もこの番組がすごく好きで、ムツさんを見ていて慰められたり、励まされたりってあるようなんです。僕自身もムツさんに自分の親のことを重ね合わせて見ましたし、たぶん日本中でそういう人がいますよね。それはどういう場所に住んでいようが、それぞれの形で自分の親のことを思い出す、自分の記憶を重ねるよすがになるというか、そういうものを世の中に出せたということが良かったと、有難いことだなと思います。

―墨田区ならすぐ帰れますね。

伊藤 そうなんです。すぐ帰れるのでなかなか行かないという。

―百崎監督の故郷は野山のあるところだったのに、だんだん変わったとか。

百崎 僕自身は新潟市なんですけど、郊外型のニュータウンみたいなところです。小学校のときにそこへ引っ越してきて、そのときはまだ周りにちらほら田んぼが残っていたり、宅地化するのに土が盛られて雑草が生えた荒野のような、その先に飯豊や越後の山々が見える平野部が故郷でした。高校を卒業するまでそこで育って、そのころにはだんだん家が建ってきました。30年くらい経った今帰るとまるっきり風景が変わって、田んぼは一枚もなく完全な住宅地です。大きな道路に郊外型チェーン店がドドドーンと建って、まるで故郷がないんです。帰るべき風景がない。むしろムツさんのところに行く方が「帰ってきた~」って。

―原風景って感じですよね。

百崎 日本人ってそういう縄文時代に刷り込まれたDNAがあるのかも(笑)。山の暮らしのDNA、なぜかこの風景に引き込まれちゃう。

―だから訪ねる人多いんでしょうね。親戚がいるわけでもないんですけど。

伊藤 親戚がいるわけでもない(笑)けど、遠い親戚がいるような気分で。

―老夫婦の映画がほかにもありますが、ご覧になりましたか?

伊藤 『ふたりの桃源郷』は素晴らしかったですね。おじいさんが亡くなってからおばあさんが森に叫ぶシーンがあって、あれはすごいなぁと思いました。よくあの場にカメラがいたなぁと思って。

―声が耳に残りますよね。あのおばあちゃんもムツさんも声がいいです。若くて可愛い声で。
そして年を取ると眉間のしわが深くなるんですけど、ムツさんないんです。(よく見るとありましたが、笑い皺のほうが目立ちます)眉を寄せて人を責めたり怒ったり恨んだりしなかったんでしょうね。監督身近にいらしてどうでしたか?


百崎 ほんとに「受容する」という言葉がぴったりな方です。世間的に考えたら苦労の連続だし、大変な子育てだし、親父はノンベエだし。ムツさんにとっては苦を苦にしない、大変だ~とは言うと思うんですけど、眉間にしわ寄せてまでやらない。受け入れていく強さです。公一さんが酔っ払って帰ってきても公一さんが悪いわけじゃない、酒が悪い。

伊藤 ユーモアの精神があるよね。

百崎 それがこう、できちゃってる人ですよね。恐らくムツさんも気合入れてやってない。ほんとに自然体で辛いことも悲しいこともすっと受け入れて。言葉がないですけど、素敵だなと。なんでそんな生き方ができるんだろう。

―これから映画を観る方にひとことどうぞ。

百崎 人生で迷ったりしている人は、ムツさんのあの笑顔に出逢ってください。解決しないかもしれないですけど、これでいいんだって思えたり、勇気をもらえたりします。人生において何を大切にしなきゃいけないのか、もう一回考えるきっかけは絶対作ってくれると思います。「出逢ってほしい」です。

伊藤 若い人に観てほしいですね。若い人は今、いろいろな意味でたいへんだと思うから、そういう人にこそ観てもらえたらうれしいです。
テレビ版は、年配の方を中心に支えていただきましたけれど、この映画は違う世代、これからの世代にも響くはずだと思っています。

―ありがとうございました。

(まとめ・写真 白石映子)