TBSドキュメンタリー映画祭 先行特別上映会&トークイベント [香港、沖縄、今と未来へ/香港2019×生きろ 島田叡]

日下部正樹監督×佐古忠彦監督「TBSドキュメンタリー映画祭」
先行特別上映会&トークイベント


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倉田徹・立教大学教授、日下部正樹監督、佐古忠彦監督、伯川星矢さん


2021年3月18日(木)より21日(日)まで「TBSドキュメンタリー映画祭」がユーロライブで開催されています。それに先立ち、3月15日(月)東京・渋谷LOFT9 Shibuyaで、民主主義が揺らぐいま注目される「香港、沖縄、今と未来へ」として『香港2019—あの時、何があったのか―』と『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』」というテーマで先行上映とトークショーが行われ、日下部正樹監督、佐古忠彦監督、トークゲストが登壇し、映画の見どころについて話しました。

■トークゲスト
 日下部正樹監督(『香港2019—あの時、何があったのか―』/「報道特集」キャスター)
 佐古忠彦(『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』監督)
■ゲストスピーカー:倉田徹(立教大学教授)、フリーライター 伯川星矢(香港出身) 
■司会:皆川玲奈(TBSアナウンサー)

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・シネマジャーナルHP TBSドキュメンタリー映画祭情報
・TBSドキュメンタリー映画祭 公式HP
・『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』公式HP
 2021年3月20日 ユーロスペースほか全国順次公開
 2021年3月6日 沖縄桜坂劇場にて先行公開

当日はまず『香港2019—あの時、何があったのか―』 特別編集版上映後(10分程度)、日下部正樹監督、香港問題に詳しいゲスト倉田徹・立教大学教授、フリーライター伯川星矢さん(香港生まれ香港育ち)によるトークイベント。
後半は『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』2部作で戦後沖縄史に切り込み、最新作『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』が話題の佐古忠彦監督と、日下部正樹監督によるトークが行われた。司会は皆川玲奈さん(TBSアナウンサー)。

トーク前半

2014年に起きた民主化要求デモ「雨傘運動」、2019年の逃亡犯条例修正に端を発するデモ、2020年「香港国家安全維持法」が施行され民主化活動家とされた人々に実刑判決が下され、1997年の英国から中国への香港返還の時に約束されていた1国2制度が反故にされ、高度な自治が脅かされる香港で何が起きているのか…。

日下部監督はオレンジ色のジャンパーで登場し、「このジャンパーは、今、拘束されているジミー・ライ(黎智英)さんにもらったものです。ジミー・ライさんが1995年にアップルデイリー(蘋果日報)を創刊した時、私はちょうど香港支局にいて、ジミーさんにインタビューに行き、それいいですね。余っていたら売ってくださいと頼んだら、もう余っているのはないよ。私が着ているのをあげるよと言われ、ジミーさんが着ているのをいただいたものです。ジミーさんが収監されている今、とても意味をもつようになってしまい悲しい思いです」と意外な縁を最初に語った。
 
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日下部正樹監督:映画は、2019年報道特集でオンエアしたものをまとめたもので、ディレクターの努力のたわものです。日々の香港ニュースは衝突シーンとか、そういうのが主体ですが、その裏にはもっといろいろな事情やいきさつがあって、本編ではさらに深く紹介しています。
なぜこういう長い映画を作ろうと思ったかというと、日々の香港ニュースという形だと衝突シーンとかが主体になってしまい、それだけ観ていたら若者たちは暴徒としかみえないけど、長い映像になれば歌が生まれたりとかいろいろなシーンがあり、深く掘り下げています。理工大学の占拠のシーンなどは警察と真正面から対峙するというようなシーンもありました。結果的には警察にかなうわけがない。でも、そのすぐ後の2019年11月の区議会選挙では、これまでの香港では考えられないような70%の投票率で、民主化を掲げる人たちが80%を占め圧勝するわけです。これまでの香港では考えられないような数字です。これでいくらなんでも香港政府も中国共産党も耳傾けるだろうなと思ったのが2019年だったわけです。
これでいい方向に向かうのではないかなと思ったのですが、まずコロナで抗議活動が抑え込まれます。そして2020年6月に国家安全維持法の導入があり、ジミー・ライさんや周庭さんなどが逮捕されてしまった。これまで香港には高度な自治が認められていたのに、今年に入って全国人民代表者会議で香港の選挙制度が変えられてしまい、愛国人が香港を治めるという言い方で、香港の高度な自治が変わってしまった。香港にあった自由の質が変わってしまった。価値観が変わっていくのを感じていると危機感を語った。私の駐在時代、人生で一番楽しかった。自由というよりは、あそこは国家というのを意識しないで済む土地だった。昔のカイタック空港(啓徳空港)は、あんな狭い空港で分刻みで飛行機の発着があり、活気に満ちた街だった。
タイやミャンマーのデモ活動を見ると香港の若者たちの行動の影響を強く感じる。2014年の行動は「雨傘運動」と呼ばれているが、2019年の行動には名前がない。2019年からの抗議活動はまだ終わっていないのでまだ名前がついていない。今はまだ光が見えないけど、これからも香港を見ていきたい。『香港2019—あの時、何があったのか―』では香港の若者の姿を描いた。これに続く作品を作る時は、また違う世代を主役に描くかもしれないと、日下部監督は次回作への思いを語った。


倉田教授:これはわずか2年前の出来事です。香港研究を20年以上続けてきたけど、この2年で予想もしないような大きな抗議活動が起こりました。そしてコロナ禍、国家安全維持法の施行と、若い人達の命がけの姿を大きな画面で観せていただきました。
これまで香港の区議会選挙というのは生活問題を扱うことがほとんどで、投票率も40%程度。地元の有力者を選びましょうというような形の選挙でした。でも2019年11月の選挙はこれまでとはまったく違う形の選挙になりました。あの時の区議会の選挙は単純に一種のデモなんですよね。民意をを数字でわかる形で出そうと。投票した人が300万人を越え、その中で民主派が200万人を越え、投票所に長い行列を作って投票をするという香港の人々を見て、これこ民主主義を求め、人々が立ち上がった選挙だと思い、これこそ民主化運動だと思いました。と香港にとっての2019年の意味を語った。しかし、2020年6月の国家安全維持法の施行により、政権に歯向かうことや、外国との連携が恣意的に禁止され、抗議活動ができなくなってしまい、さらに先日の全国人民代表者会議では香港の選挙制度を変える決定が推し進められ、国家の安全という言い方で中国政府のお墨付きの人しか選挙に出られないしくみを作ってしまった。中国政府はもともとそういうことを狙っていたかもしれないけど、香港返還以来30年ははっきりとは出してきてなかったから、香港はその中で夢を見てきていたのにそれが全部打ち消され、香港にとって不幸な時代になってきてしまった。逃亡犯条例、国案法、選挙制度の変更と中国という巨大な権力が、今後どうなっていくのか想像もつかない。それを知るためにも香港を注視する必要があると語っていた。

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伯川星矢さん:この特別編のデモの現場の映像を観て、もう2年たったんだという思いと、今の現状を考えるとありえないことが日常になってしまっているという思いがおこりました。本来であれば、自由の都市香港の人たちが街に出てきてデモをしている。そうして今は街に出られなくなってしまった。どうしてこうなってしまったんだろうと、香港人の一人として改めてそう思わざるを得なかった。
2019年の区議会選挙では、私も香港人の一人として投票しに行きました。これまで地元の親中派の人たちに有利だったんですが、2019年の選挙では若い人たちが多く当選し、これまでの選挙を覆しました。そこに希望を感じた瞬間でもありました。その時、警察に封鎖された香港理工大学に新人議員たちが入ろうとしたが入れなかった。しかし若い人たちが香港の民意に答えようと香港全体の議題について考え、動いたのは新しい動きだったと、2019年の区議会選挙のあとの香港について語った。
去年12月に香港に入ったけど静かでした。政治的な影響というより、コロナの影響で店舗がなくなってしまっていた。実家の近くに警察の寮があるけど、そこの塀が高くなっていて、監視カメラも多くなり、電気もこうこうとつけるようになっていました。市民が襲ってくるのを恐れているのかと思いました。
自由を売りにしていた香港が、不自由な場所となって自ら光を消すような場所になってしまうのかと思った。中国のようであって中国でない、国のようであって国ではない。そんな香港の立場がどうなっていくのか。経済都市である香港の価値が下がってしまえば、中国にとってもマイナスだし、香港人としてのアイデンティティも揺れている。
“今日の香港、明日の台湾”といわれているが、香港人は香港の姿を世界に知ってもらうことで、中国式統治はこういう形なんだと示しているのかもしれない。台湾に1国2制度を導入したらこうなると、自分たちの姿を通して暗示しているとも思う。今、希望は見えない。どうなっていくかわからない。でも香港人は賢く生きていけるかも。海外にいる香港人も、各々の活動を通して違う風景をもたらすこともあるかと期待していると語った。

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後半

3月6日(土)沖縄・桜坂劇場の先行公開で、大ヒットスタートだった佐古忠彦監督の最新作『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』の予告編が上映され、佐古忠彦監督と、引き続き日下部監督が登壇し、後半のトークイベントが始まった。
*沖縄の戦後史に取り組んだ『米軍(アメリカ)が最も恐れた男その名は、カメジロー』『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』の2部作を作った佐古忠彦監督の最新作が『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』

「住民側から戦争を描いた作品は数多くあるが、『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』は権力側の人間から見た戦争を描いている。

日下部監督の賛否両論あるけどという問いかけからトークは始まった。

佐古忠彦監督:内地、本土から行政官として戦前、戦中最後の沖縄県知事として権力側の人間として批判される立場ではあるけど、権力側にいた人間も個人としての姿、人間の姿があるはず。どういう立場でもって何をなした人なのか。昔話かもしれないけど、今日的なテーマも含まれている。
そして現代にも通じる“リーダー論“というテーマもあるんだろうなと思います。官僚はいかにあるべきかという視点もあります。
主人公の島田叡は写真数点が残るのみで、本作で使用されている映像資料は全てアメリカが撮影した資料(1フィート運動によって集められた)。数点の写真しか残されていない中で、どう島田叡という人物を描き出すか。それが自分の挑戦だと思った。沖縄戦の経過は陸軍や海軍の電文などによって戦況がわかるように描いている。今回牛島司令官が島田知事にあてた手紙の写しなども出てきます。そういうところに歴史の謎を解く鍵が含まれています。歴史の評価というのも描いています。住民にとっての戦争も描いていますが、官僚から描いたというのは珍しいと思います。摩文仁の丘の慰霊の塔に、この島田叡さんの名前も彫られています。あの戦争直後の日本軍や日本政府に対する沖縄の人達の感情からすると、ここに厳しい目を向けられるべき本土の人間なのに(内務省から指令を受けて沖縄を統治する県知事として沖縄に来た)、ここに名前が残されているということにどんな意味があるかに着目。島田叡という人は軍の権力の前で抗っていたということだと思います。
沖縄の人たちは戦場になり右往左往させられたわけだし、生きるということ。命と向きあった人たちの物語ともなっています。迷い苦しみ、なんのために生きるのか。現代にも通じる命の大切さを伝えたい。22人の方の証言を入れているのですが、その中の一人が少年兵として沖縄戦を戦った元沖縄県知事の大田昌秀さんです。軍と県の関係で悩んだ島田さんですが、大田さんも時を越えて、その問題に苦しんだと思います。
沖縄戦というのは、問い返すべきものがたくさんある。命に向き合った人々の話は、必ずや皆さんの心の中に何かを残してくれると思います。多くの人にご覧いただきたいと思っていますと佐古監督が本作にかける思いを語り、会場は大きな拍手に包まれた。

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日下部監督:沖縄と香港、台湾、朝鮮は境遇が似ている。同じ国の中にいるけど、自分たちとは違うという意味で近いところがあると思う。またそういう意味で戦前戦中に体制の側にいた人については厳しいまなざしを持たないといけないけど、体制側の人間と決めつけてしまうと見えなくなってしまこともある。行政官の中には、内地でがんじがらめだったので、台湾や満州などでは自分の行政官としての理想を追っていた人も数少ないけどいた。こういう人もいると紹介すると、日本は植民地でいいこともしたじゃないかと言う人に利用されるのは怖いけど、でもそういう事実も提示していかないとと思います。
沖縄の人たちに対して私たちはどれだけの重荷を負わせてしまっているか。沖縄の地上戦というけど、あれも軍の判断ミスですよ。軍はフィリピンの次は台湾だと、軍の資材を沖縄から台湾に移してしまって、それで沖縄の悲惨な地上戦になってしまったわけですから。そして多くの沖縄の人たちが犠牲になったその責任は誰も取っていない。歴史を知るには様々な視点から見ることが大切と示してくれるような作品と語った。

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 TBSドキュメンタリー映画祭は、3月18日から4日間、渋谷のユーロライブで行われ、『香港2019—あの時、何があったのか―』は21日に、『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』は18日に上映されます。また20日からユーロスペースで公開されています。

・シネマジャーナルHP 特別記事
『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
佐古忠彦監督インタビューはこちら





『凱歌』坂口香津美監督Q&A

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坂口香津美監督プロフィール
1955年鹿児島県種子島生まれ。早稲田大学社会科学部中退。芸能通信社の記者を経て、1984年、TBSの朝の報道番組の企画・リポーターからテレビの世界へ。以来、家族や思春期の若者を主なテーマに約200本のTVドキュメンタリー番組を制作。2000年、制作プロダクション、株式会社スーパーサウルスを設立。
2015年度文化庁映画賞受賞のドキュメンタリー映画『抱擁』など、これまで劇映画6本(2022年春公開予定の『海の音』を含めて)、ドキュメンタリー映画3本(本作を含む)を監督し、劇場公開。著書に小説「閉ざされた劇場」(1994年/読売新聞社刊)

『凱歌』
東村山市にある「国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)」には、らい予防法廃止(1996年)後も、ハンセン病の元患者(回復者)の方々が今も暮らしている。すでにみな高齢となっており、後遺症による重い身体障害を持っている人や、また、未だに社会における偏見・差別が残っていることなどもあって、療養所の外で暮らすことに不安があり、安心して退所することができず、やむなく留まるしかなかったのが理由だった。
22歳で入所した山内きみ江さんは、かつて院内で同じハンセン病患者の男性と出会いますが、結婚の条件は※ワゼクトミー(輸精管切除術)と呼ばれる断種だった。(※ワゼクトミー(vasketomie):輸精管を約1cm切除し睾丸において造られる精子の排出路を絶つこと) 
ハンセン病の療養所の所長には警察権が与えられ、その結果、療養所は名ばかりの強制収容施設で、終身隔離政策という人権破壊、非人道的な誤った国策の下、長い間、ハンセン病の患者たちは想像を絶する艱苦の日々を強いられて来た。
『凱歌』は、その凄絶な実相と隠された暗闇に光を当て、ハンセン病の元患者たちが自らの手で勝ち取った人生の誇りと実りを描く。

監督・撮影・編集:坂口香津美
出演:山内きみ江 山内定 中村賢一 斉藤くるみ 中島萌絵 佐川修
2020年製作/90分/日本
配給:スーパーサウルス
https://supersaurus.jp/gaika/
2020年11月28日より全国順次公開中
●シネ・ヌーヴォ大阪 2021年3月27日(土)〜
●アップリンク吉祥寺 4月2日(金)〜4月8日(木)
●刈谷日劇 4月9日(金)〜4月15日(木)
作品紹介はこちらです。

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Q.全生園を取材するきっかけはどんなことからですか?
1998年秋、企画構成演出を担当したフジテレビ特番「家族再生~家族の絆を見つめる母と子の旅」(60分/1999年4月放送)の取材のため、番組に出演することになった東村山市に住む少年の自宅を訪問しました。少年の自宅は多磨全生園の広大な敷地(森)と隣接していました。多磨全生園で職員として勤務する少年の両親から、ハンセン病に罹患し、多磨全生園に入所、わずか3年で夭折した小説家北條民雄のことを聞きました。今思えば、この番組と、この小説家が、僕を多磨全生園へと導いてくれました。その日から10年後の2009年11月、多磨全生園にて『凱歌』の撮影がスタートしました。

Q. 映画にしよう、映画になると感じられたのはいつ、どんなときからでしょう? 具体的なお話を伺ってからですか?
手応えを感じたのは、映画の冒頭から登場するハンセン病の元患者、中村賢一さんと出会ってからですね。取材をすすめていくうちに、「これはかならず映画にしなくては」、そして、「映画になる」と確信しました。

Q. ハンセン病については、撮影の前からどれくらいご存知でしたか?映像を撮る前にいろいろな本や映像をご覧になりましたか?
いえ。撮影の前は、「いのちの初夜」の北條民雄の小説や随筆、北條の師匠だった川端康成の愛弟子(北條民雄)の葬儀の日をノンフィクションのように冷徹な眼差しで描いた小説「寒風」や随筆を読んだぐらいでした。2009年5月、僕は初めて多磨全生園に足を踏み入れました。
ちなみに、松本清張にハンセン病をテーマにした長編推理小説『砂の器』があります。1974年映画化され、話題になったこともあり、19歳の僕も劇場で観ました。今回、『凱歌』の公開を機に、小説「砂の器」に目を通すと、ハンセン病について医学的、社会的な考察は皆無で、解説者が「あとがき」でほんの少し触れている程度、今から50年も前の1961年に出版されたとはいえ、これには違和感を覚えました。

Q.撮影を始めるにあたり、多磨全生園で最初にどなたに声をかけられましたか?
多磨全生園の敷地内には当時、そこが強制隔離施設であったことを示す負の遺産はところどころに残ってはいるものの、当然ながら今や、社会に開放され、門は存在しますが、門衛はいない、出入りは24時間、完全に自由です。僕たちが忘れてはならないのは、ハンセン病の患者がこの自由を獲得するまでには、無数の患者たちの血が流されたという事実です。
ところで、実際に多磨全生園で、ハンセン病の元患者さんに声をかけようとしましたが、なぜか声をかけられません。その日は帰宅し、また、しばらくしてから再訪し、声をかけようとしますが、やはりどうしても話しかけられません。
その時、園内に「入所者自治会」の看板があることに気づきました。そこで自分の無知さも含めて正直に事情を話して、アドバイスを求めたのです。
結果として、同書記室を通じて、元患者の方々に僕が書いた映画の企画書をみてもらうことになりました。  
しばらくたって、入所者自治会書記室から連絡が入りました。「映画出演を希望される方がおられる」というのです。その方が、映画の冒頭に出て来る中村賢一さんでした。

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Q.なぜ、なかなか声をかけられなかったのでしょうか?
なぜ、ハンセン病の撮影をしたいのかという根幹が、私のなかで曖昧なまま、思いや行動だけが先走っていたのだと思います

Q.中村賢一さん、山内定さんご夫婦……、メインになる取材対象者は自然に決まっていったのですか?
はい。すべては中村賢一さんと出会ったことで川は流れ始めました。その流れのなかで、自然に山内きみ江さんご夫妻とも出会いました。最初のうちは、中村賢一さんが船頭役でしたが、後半は山内きみ江さん夫妻が先導役になっていきました。「自分の役目は終わった、あとは山内さん夫妻に任せた(笑)」という感じで、中村賢一さんはそのうち本当にカメラの前に立つのを拒絶するようになりました。
中村賢一さんは、厳しい施設での生活とともに闘った来た親友として療友として山内定さんを信頼し、愛し、また山内きみ江さんの明るさと行動力に、ハンセン病に対する新しい価値観を打ち立てる役割を託したのだと思います。

2019年8月21日、国立ハンセン病資料館の会議室で、『凱歌』の出演者限定の初の試写会を行いました。映画を見終わった後の、中村賢一さん、山内きみ江さんの顔が忘れられません。「映画にしてくれてありがとう」と二人から言われ、嬉しかったのを昨日のように覚えています。
残念だったのは、そこには映画に出演された山内定さん、佐川修さん(前全生園自治会会長)のお二人が、すでに鬼籍に入られ、出席が叶わなかったことですが、あの世で観て下さっていると思います。

山内きみ江さんは『凱歌』の公開中の今も毎日、自室のパソコンを開いて、『凱歌』のFacebookをチェックして、映画の感想を見るのを楽しみにしているとのこと。中村賢一さんは元もと穏やかな性格で、平穏な日常を送ってはいますが、胸の中では、誤った国策によってハンセン病患者がいかに人生をゆがめられ、苦しめられて来たか、自身の体験を含めてそのことへの怒りや哀しみや憤りがいささかも消えず、それどころか今も沸々と煮えたぎっているように思えます。その思いを伝えていく責務が、『凱歌』にはあると思っています。

Q.出演者のみなさんが、坂口監督によく心を開いているように感じます。 
そうでしょうか。そうだとしたらありがたいですね。去年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで映画を観た人からも、同じように言われました。「出演者の方は、坂口さんに自然に心を開いていますね」と。そして、「坂口さん、『抱擁』を見せましたか?」と言われましたので、「そう言えば、中村賢一さんと山内きみ江さんに、何年か前に『抱擁』のDVDを差し上げました」と言うと、「それですよ、坂口さんのお母さんのあのドキュメンタリー(『抱擁』)を一度でも見たら、坂口さんの事がよくわかるから」と。 
ちなみに、きみ江さんは1934年(昭和9年)生まれで現在86歳。僕の亡くなった母より4歳年下です。山内きみ江さんにお子さんんがいたら、僕ぐらいの年齢なのかもしれません。

Q.出演者のみなさんの印象的なエピソードがありましたらご紹介ください。
そういえば、中村賢一さん、山内きみ江さんにそれぞれ別日に、お会いしたとき、二人から同じ言葉が返ってきました。「ぼくはこの歳になるまで、独身で……」と僕が言った言葉に対してです。「結婚しないなんてもったいない!」と。「子どももいないんですが」と言うと、二人とも、「それももったいないね」と。それ以上は、二人ともその事情については一切、僕に聞きません。今も、驚きの声をあげる二人のお顔を、僕は思い出すことができます。子どもを作ることを禁じられるという恐ろしくも残酷な国策の犠牲者であれば、子どもを作れる状況なら作って欲しい、と素直に願ってのことだったと思います。

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Q.中村賢一さん、山内きみ江さん、お二人とも結婚をされたことによって、それぞれの人生にどのような変化がもたらされたと思いますか?
本作で描いているように、堕胎や断種が日常的に行われ、自殺者が出る強制施設は人権無視の異常な世界。そこでパートナーを得て、結婚をされた山内きみ江さん御夫妻にとって、お互いの存在こそが、いうまでもなく生きる希望であり、生きる根幹であり続けたと思います。
あるとき、僕は山内きみ江さんに次のような質問をしたことがあります。「数多(あまた)いる若い患者たちのなかから、医師から余命4か月を宣告されていた8歳上の定さんを結婚相手に選んだ理由は?」と。
「あの頃、私は定さんを信頼し、好意を抱いていましたし、お互いがお互いを必要としていることがわかったからです。そして、何より相性がぴったり合っていたことですね。どんなに厳しい状況でも冗談を言い合いながら、人生を楽しみ、支え合うことができたのも結婚してパートナーがいたからです」
中村賢一さん、山内定さん、きみ江さんの三人ともに、家族の愛に包まれたなかで育ったことで、根幹に自分を愛し、他者を愛するという豊かな感性が育まれたように思えます。それが、強制隔離という人間の尊厳を根底から揺るがす事態にも、絶望せずに様々な困難に打ち克ち、乗り越える原動力になったのではないでしょうか。

Q.映画のテーマ、核になるものは最初から? それとも撮影していくうちに決まっていくものですか?
劇映画の場合は、撮影の前に、テーマも物語の核も、シナリオの段階である程度、決めます。そうでないと、キャスティングができませんから。ドキュメンタリー映画の場合は、撮影前に、テーマは大きく決めてあります。本作の場合は、「多磨全生園を舞台に、ハンセン病の元患者の生きる姿を通して、人間の本質を描く」というぐらいですが。しかし、その時点ではまだ、映画の「核」が何であるか、いつ出会えるかは霧の中の状態でした。『凱歌』の時は、核と出会うのに9年かかりました。『凱歌』で僕が考える核というのは、映画の主人公の山内きみ江さんが、ハンセン病を罹患したからこそつかみ得た生き方や哲学を、ハンセン病とは直接関係のない若い世代に伝えることで、山内きみ江さん自身も変容し、人生に新たな意味を見出すこと、それがラストシーンにつながるものだと思います。

Q.映画で紹介されるみなさんの人生の、ほんの一部を知っただけでも、過酷な日々であったことが想像できます。重い口を開いてお話してくださった方々が、観客に望むことはなんでしょうか? 
みずからの強い意志で、『凱歌』に出演された方々は、おそらく次のようなことを今、望まれているのではと思います。
ハンセン病を発症し、家族と離れ、第二の人生を送ることを余儀なくされた自分が、これまで経験した事実と真実を明らかにすること。それを、映画を通して観客のみなさんと共有すること。ハンセン病に罹患したというただそれだけの理由で人権を破壊されるほどの残酷な行いが国策として平然と行われていた、この悲劇を未来永劫、繰り返してはならないという強い一念があると思います。

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Q.撮影の開始からアップまで9年間かかったとのことですが、その間に変わっていったこと、変わらなかったことはなんでしょう?
変わったことで、一番大きかったことは、ご出演されたお二人(佐川修さん、山内定さん)がお亡くなりになられたことですね。あと、山内さんご夫妻がお住まいになられていた住居が壊されて、更地に変わったことです。
変わらなかったことは、映画で出演された中村賢一さんも山内きみ江さんも、今も多磨全生園で生活をされているということです。

Q.坂口監督の作品は、重いテーマのものが多い気がします。監督自身がそのテーマにひきつけられるのか。あるいは、テーマから呼ばれたように感じることはありませんか。
僕自身、自分の方から撮影するテーマを探したことはありません。テーマは自分の前に不意に、あるいは徐々に姿を現すという感じです。自分がテーマにひきつけられているように感じることもありますし、またテーマから呼ばれているように感じることもあります。ぼくにとって映画のテーマは1つの森のようなイメージです。テーマと出会ったときはすでに、その森の入り口に立っています。カフカの小説の多くはテーマに「到着」の場面から始まります。「城」も、主人公はすでに城を見上げる町に到着しています。僕の映画も気づいた時にはそのテーマを抱く森の入り口に立っていて、そこからカメラをかついで森のなかに入っていくというイメージです。森に入るや、引き返す道はすでに消えています。進むしかなく、暗い森の奥へ導かれるように、どんどん、どんどん入っていきます。底なし沼のような森のなかを……、何度も迷子になりながら、そんな感じですかね、僕の映画作りは。劇映画も、ドキュメンタリーも。

Q.映画制作で大切にしていることはなんですか?
なにものにも「阿(おもね)らない」ということ。映画にも、観客にも、自分自身にも。すべてのものから、完全に自由であるということ。

Q.ほかの作品も並行して撮り続けていたことになりますね。違う作品を撮ることは気分転換になりますか? 普段、充電のために何をされるのでしょう?
僕の作る映画は、メジャーの映画会社のプログラムピクチャーではないし、納期が決まっている製作委員会の映画でもありません。誰かから求められて映画を作るわけでもありません。というわけで、気分転換とか、充電とかいう意識は特にありませんが、日常のなかでゆったりと心身を浸す時間を作るということを心がけています。料理を作ったり、ベランダで植物を栽培したり、近場の鎌倉近辺の寺や周辺の森や浜辺を散策したり。また、絵を描いたり、Youtubeで、古い外国の映画を渉猟したりするのも楽しいですが、つまるところ読書以上の充電、快楽はないように思います。

Q.去年からコロナ禍で、映画界も大変でした。『凱歌』を送り出して、上映を続けるほかにこれからの予定や計画は?
今から5年前、コロナなんて想像だにしなかった2016年の夏、郷里の種子島で撮影した『海の音』という劇映画があります。命の時間が少ない子どもたちがひと夏を過ごす海辺の子どもホスピスが舞台です。3人の少女たちが一人の少年を好きになる、という、ただそれだけの映画です。この映画を2022年に公開する予定です。ティーンエイジャーが出演する映画は撮っていて楽しいですね。

―気になっている映画―
2020年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、『凱歌』を観たという方から一通のメールが届きました。「『凱歌』はとても美しい映画でした。ふと昔観た、同じハンセン病を扱った『小島の春』という映画を思い出しました。あの映画も、とても美しい映画でした」と書かれていました。
気になり、ネットで『小島の春』を検索すると、1940年の公開で、第17回キネマ旬報ベストワン映画とあります。
その夜、僕は『小島の春』(88分)をふるえながら見ました。ふるえたのは、この映画の持つ恐ろしさにふるえたのです。『凱歌』を撮っていなければ、その恐ろしさに気づかなかったでしょう。映画は、一隻の舟から白衣の女医が島に降り立つ場面から始まります。数日後、女医は島で見つけたひとりのハンセン病患者を伴い、療養所をめざして舟で島を離れる、という物語です。
この劇映画の何が恐ろしいのか。二点あります。一点は、映画の内容で、「療養所にいくと病気の治療が出来、何不自由なく暮らせる」という国の政策を女医に語らせ、療養所がまるでハンセン病の患者にとって「天国」であるかのような印象を持たせます。その主張は、映画の全編をつらぬいています。ならば、ハンセン病を罹患した父親のこれから生きる場所は、女医が示す療養所以外にあろうはずはなく、小島の片隅で家族とひっそり暮らしたいと父親が願ったとしても、それは周囲からして許さないことは自明です。
1930年代から1960年代にかけて、全国の県内からすべてのらい患者を療養所に隔離・強制収容させるという「無らい県運動」に『小島の春』は少なくない貢献をしたと推察されます。
『小島の春』の公開から17年後の1957年、22歳の山内きみ江さんはハンセン病を発症し、全生病院(現国立療養所 多磨全生園)に入所します。『小島の春』の主人公のように、愛する家族と永訣し、終生、この療養所で過ごす道を選択するしか道はありませんでした。
1940年は、新聞とラジオと、そして最も国民に影響を及ぼしていたメディアは映画でした。ここにメディアとして映画自体の孕(はら)んでいる脆(もろ)さと危(あや)うさがあると思います。
『小島の春』のラストシーン、家族を残し、女医とともに島を離れるハンセン病の父親を乗せた小舟、その後を追い、見えなくなるまで手をふる少年。この映画のような家族との冷酷な永訣が、全国で無数に行われていたということだと思います。
ハンセン病の患者が連れて行かれた療養所が、『小島の春』の主人公の美しい女医がとうとうとして語る天国などでは決してなく、ハンセン病患者を撲滅する監獄のような強制収容所であったことを、その実相と真実を80年後の今、入所者の実体験から発せられた証言によって真実を露見させたのが、本作『凱歌』ということになるのだと思います。


=取材を終えて=
お目にかかってのインタビューでなく、メールで質問をお送りして回答していただく「Q&A」に変更になりました。坂口監督には丁寧なご回答を書いていただき、大変お手数おかけしました。ありがとうございました。
先日ご紹介した『夜明けのうた ~消された沖縄の障害者~』も国策によって隔離された人たちにフォーカスしたものでした。自分では知りえないことに目を開かせてもらいました。
今コロナ禍でどなたもいろんな影響を受けています。自分のことだけでいっぱいの日々でも、気になる言葉や人に出会ったら、あとちょっとだけ想像力を働かせたらもっと世の中が潤いそうです。
坂口監督の『曙光』(2018)公開前に試写&トークに参加しましたのに、そのときは記事にできませんでした。今回またご縁があって、別の形でお約束が果たせた気がします。文中にあります坂口監督の『抱擁』(2015)の記者会見記事もごらんくださいませ。

(質問・まとめ:白石映子 写真:坂口監督提供)

『ミセス・ノイズィ』公開から15週目突入  ロングラン記念舞台挨拶!!

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左から天野千尋監督、新津ちせ、篠原ゆき子、長尾卓磨、宮崎太一


2021年3月6日(土)ロングラン記念舞台挨拶
渋谷・ユーロスペースにて
登壇者 篠原ゆき子、長尾卓磨、新津ちせ、宮崎太一、天野千尋監督
MC   伊藤さとり

・シネマジャーナルHP 作品紹介『ミセス・ノイズィ』
・本誌103号でも紹介
・『ミセス・ノイズィ』公式HP
・シネマジャーナルHP 特別記事
 『ミセス・ノイズィ』天野千尋監督インタビュー記事はこちら

第32回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門にて上映、その後も海外でのさまざまな映画祭でも上映され話題となった天野千尋監督オリジナル脚本の映画『ミセス・ノイズィ』(出演:篠原ゆき子、大高洋子、新津ちせ ほか)が、2020年12月4日(金)より全国公開中。スランプに陥った小説家・吉岡真紀(篠原ゆき子)と、騒音を巻き起こす隣人若田美和子(大高洋子)とのご近所トラブルが、世間を巻き込んだ大騒動となるさまを描く。
ささいなすれ違いから生まれた隣人同士の対立が、マスコミやネット社会を巻き込んで、2人の女の運命を狂わせる大事件へ発展していく。「SNS炎上」や「メディアリンチ」「規格に合わないものに対する皮肉」など、現代の社会事情を反映した作品。後半は思わぬ方向に展開し、あらゆる「争い」が、ちょっとした食い違いから大きな争いに発展するさまを描いた。観客の口コミなどで広がり、ロングランヒットを記録。6日から公開劇場がユーロスペースに移し上映され、ロングランを記念して舞台挨拶があった。今後は地方の映画館などの上映のほか、東京では下高井戸シネマで4月24日から上映がある。

天野千尋監督は「映画を始めた時からユーロスペースで上映できたらいいなと考えていたので、この劇場で上映されることになりとてもうれしいです。昨年、冬の初めに公開が始まったのですが、3か月も上映され、春まで上映していただけるとは。はじめは想像もしていませんでした。口コミで広がっていったからですね。伊集院光さんや放送作家の鈴木おさむさんなどがラジオで話してくれたりもしましたし、松尾貴史さんもテレビで紹介してくださいました。観客の皆さんからは、「職場の先輩に勧められた」とか、「友だちに勧められた」とか、一番いい形で広まっているなと思いました。本当に感謝しています」と緊張しつつも感激の言葉を述べた。

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主人公の新進小説家吉岡真紀を演じた篠原ゆき子さんは、本作への出演を「なんだかドキュメンタリーのようでした」と語り、「閉店セールのようにそろそろ終わると言いながら、3カ月も続き、口コミで広げてくれた皆さんに感謝します。真紀は私に似ていると言われたり、映画の口コミサイトなどで真紀はムカつく女だと書かれていたり、当て書きだと言われたりして、落ち込んだりもしました」と苦笑い。でも「映画楽しんでいただけましたか?」と問いかけると満席に近い会場から拍手と歓声が飛んだ。

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お隣さんとのトラブルに妻に寄りそうでもなく迷惑顔で、どこか他人事な真紀の夫吉岡裕一を演じた長尾卓磨さんは「悪役でもないけど、無関心を装い、距離を置いた役でした。僕自身はそうではない人間のつもりですが、それで叩かれるのはわかります」とぼやき観客を笑わせた。

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真紀の娘、菜子を演じた新津ちせちゃんは「私は役でいろいろなことにチャレンジすることが好きです。本当の私は臆病で、誰かに怒られるようなことはしない性格ですが、この映画で私が演じたなっちゃんは自分のやりたいようにおもちゃをガッシャーンとひっくり返したり、白い壁に落書きしたりする役。この役を通して大胆な性格になれたかなと思います」と笑顔で語り、今年の抱負を尋ねられると「これからもまわりの方に感謝しながらいろんな役にチャレンジしていきたい」と、10歳とは思えないようなしっかりした答えが返ってきた。

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隣の家の若田美和子の夫、若田茂夫を演じた宮崎太一さんはハサミ虫について問われ「あれはCGではありません。スタッフがヤフオクで買った本物です。ハサミ虫が体を這うシーンは覚悟を決めて臨みました。ハサミ虫は大量にはいないので、何度もシーンを撮ったりしました」と答えていた。それは大変だったかも。

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面白かった話題はコロナ禍の話題で、「コロナでトイレットペーパーが買えなかった時、近所のおばあさんがトイレットロールがなくて困っていたので、3ロール差し上げたら、お返しにメロンをいただきびっくりしました」と篠原ゆき子さんが語っていた。

天野監督も「コロナがきっかけで近所の方との距離が近くなりました」と話し、映画のことも話すことができ、そのへんからも口コミが広がりましたと答えていた。次回作について「私は社会のちょっと悪いことをしてしまうグレーな人に興味があります。普通の女たちが悪巧みをするんだけど、それには正義があり、それぞれの生き様がありというような作品を撮りたい」と語っていた。
取材・写真 宮崎暁美


取材を終えて
この作品、試写、東京国際映画祭でも見逃していたのですがなんとか観ることができました。3か月も続いていたとはびっくりです。最初は嫌な女同士の争いかと思わせて、最後はそれぞれの思いがうまくかみ合う大団円で終わりホッとしました。でも、私としては新人小説家の吉岡真紀にしろ、となりの家の若田美和子にしても、家事をほとんどこなし、夫の面倒をみすぎという感じがして、そんなもの自分でやらせないの?と思ってしまうシーンがいくつもありました。真紀の家では妻が食器を片付け洗ったりしているのに夫はただのうのうとしていたりするシーンも何回かあったし、隣の若田家は、いくら夫がうつ病気味とはいえ、夫のハサミ虫布団を夫が自分で干すのではなく、いつも妻がやっている。ま、争いを起こす原因を作るための手段だったのかもしれないけど、観ていてちょっとイライラしてしまった。せっかく女性監督の作品なんだから、日本社会の妻の家族への献身しすぎ、家庭貢献事情にちょっと皮肉でも入れてくれたらなんて思ってしまった。そして篠原ゆき子さん大活躍ですね。今、TV番組「相棒」で刑事役で頑張っている!
それにしても、この天野監督の『ミセス・ノイズィ』のロングランといい、大九明子監督の『私をくいとめて』の東京国際映画祭の観客賞受賞といい、最近の二人の活躍が嬉しい。私は観ていないのだけど、新進女性監督3人による『放課後ロスト』(2014)というオムニバス作品に天野監督と大九監督は参加している。あいち国際女性映画祭2014ではもう一人の名倉愛監督と3人によるトークがあった。この時はまさか、二人がこんなに活躍するまでになるとは思わなかったので余計感慨深い。

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あいち国際女性映画祭2014にて

『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』原義和監督インタビュー

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原義和監督プロフィール
1969年愛知県名古屋市生まれ。フリーTVディレクター。
2005年より沖縄を生活拠点にドキュメンタリー番組の企画制作を行う。東日本大震災の後は福島にも通って取材し、Eテレ「福島をずっと見ているTV」にディレクターとして参加。
主な制作番組は、「戦場のうた~元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史」(2013年琉球放送/2014年日本民間放送連盟賞テレビ報道番組最優秀賞)「インドネシアの戦時性暴力」(2015 年7月TBS報道特集・第53回ギャラクシー賞奨励賞)「Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生」(2016年琉球放送/第54回ギャラクシー賞優秀賞)「消された精神障害者」(2018年Eテレ ハートネットTV/貧困ジャーナリズム賞2018)など。著書に「消された精神障害者」(高文研)、編書に「画家 正子・R・サマーズの生涯」(高文研)。

『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』
私宅監置は、1900年制定の精神病者監護法に基づき精神障害者を隔離した、かつての制度。日本本土では1950年に禁止になったが、沖縄では1972年まで残った。
原監督は、1964年に沖縄で撮影された私宅監置の現場写真と出会ったことから、写真に写る人びとを探し始める。隔離や排除の社会的背景を考察し、制度の犠牲になった人びとの心に寄り添おうとするドキュメンタリー。
監督・撮影・編集:原義和
https://yoake-uta.com/
★2021年3月20日(土)より東京K’ s cinema
4月3日より沖縄桜坂劇場、4月10日より大阪シネ・ヌーヴォほか全国順次公開

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私宅監置小屋跡

―番組のための取材が始まりでしょうか?それともテーマが先にあったのでしょうか?

僕の仕事は最初から番組枠が決まっているものもありますが、多くはどこで放送できるか分かりません。けれども取材はどんどん進めます。TBS、RBC(琉球放送)、NHKなど、いろんなところで仕事をしていますが、企画書を書いてプロデューサーにプレゼンテーションしないと番組にはなりません。その時、ある程度取材して映像が撮れていないと、薄っぺらな企画書になります。僕のスタイルとしては、カメラ取材をずいぶんやってどういう風にまとめられるかが見えてきてから、プレゼンします。
10年以上前から、精神障害者の社会的入院の問題を取材し、様々な番組で放送してきました。その延長線上に、今回の映画もあります。

TBSの古い記者で吉永春子さんというドキュメンタリー界の巨匠の方が、1972年に私宅監置について取材しています。その時の映像を活用させていただきながら、そこに登場する人たちのその後を取材し、TBSの「ザ・フォーカス」という番組でも放送しました。(「生きていた座敷牢 その後」2019年4月21日放送)
吉永さんは極めて珍しい例で、映画のテーマでもある「私宅監置」については、その後、誰も掘り起こしてきませんでした。
私宅監置は、精神障害者を隔離し、「いない人」にしてしまった社会制度です。犠牲者は納得できなかったに違いありません。国の制度によって人生を台無しにされのですから。命の尊厳を傷つけ、人間として否定する、とてつもない人権侵害の制度でした。しかしながら、公的な検証や総括はされていません。闇に葬られてきたと言えます。
映画のサブタイトルは「消された沖縄の精神障害者」ですが、社会的に抹殺された存在ということです。その隔離の事実は、まるでなかったことのように歴史的にも抹消されてきました。
すべてを現代の論理で捉えることはできませんが、過去の出来事をきちんと振り返って考え直すことは必要だと考えています。ですから、ジャーナリストとしてこの取材は社会的に意味があると思って続けてきました。
僕の取材で、誰かが傷つくこともあったと思います。相手によっては、聞かれることは非常につらいことだからです。家族の傷がこじ開けられるような取材ですから。僕には逆にそうやって取材した責任がありますから、映像素材を引き出しにしまうわけにはいかないと思っています。
テレビ番組では時間枠の関係でどうしても少ししか出せません。たくさんたまった映像素材をどうすればよいかと思案しました。当初は映画という発想はありませんでした。本ならまとまった形で出せるのではと、付き合いのある出版社の方に相談しました。売れそうにないと思われたはずですが、懐の深い方で、社会的意味を考えてくださって出版できることになりました。(「消された障害者」2019年/編著:原義和/高文研)
僕は書くのは得意ではありませんし、全部カメラで撮っているわけですから、できれば映像でまとまった形で発表したいとずっと思ってきました。ある時、「映画でやってみたら」という声かけをいただき、チャンスがあるならと映画にチャレンジすることになりました。

―よかったですね。本もこれはこれで、とても意義があると思います。図書館や書店にあれば、これからずっと読んでもらえます。映画館は全県にはないですし、アーカイブにでも残らないと、上映が終わったら観られません。いろんな人に届ける意味で、いろんな媒体を利用するのは必要なことだと思います。

そうですね。出版社の人に「将来、私宅監置について文献を探す研究者が現れるかもしれない。今、売れなくても100年後に探し出してくれたら…」と言ったら、「今の本(に使っている紙)は100年もたない」と笑われました。冗談ですが。
本は電子版というものがありますけれど。今の映画の規格であるDCPが100年先にどうなっているのか僕には分かりません。
過去に学ぶことからヒントを得ていくことが大事だと思うんですね。私宅監置という社会制度としての排除の歴史。どういう苦悩や悲しみがあったかを記録することは、人類的な意味があると思っています。この映画も、100年後に隔離の歴史を調べる誰かが出会ってくれるかもしれない。時代を越え、何かのきっかけでこの映画が引っかかってくれたらと思います。

―最初拝見したときは、なんだか重い荷物を受け取った感じがしました。「私宅監置」という言葉も、ある時期まで合法であったことも、この作品で初めて知りました。つらい話でも知ってしまったら知らなかったことにはできません。
そんな中で(私宅監置されていた)金太郎さんのお孫さんが登場したのがとても嬉しかったです。


あれはマスクをしているでしょう。去年の映像なんですよ。
この映画は、いったん去年3月に完成させているんです。それがコロナ禍で映画館が閉まり、いろいろな事情で公開が延期になってしまいました。その間に金太郎さんの孫の幸恵(ゆきえ)さんから連絡をいただき、6月~7月に取材をさせてもらいました。
彼女との出会いは僕の中でも大きかったです。金太郎さんの息子は、故郷の島を出たきり帰ってこなかったという証言があります。幸恵さんの父、進さんです。進さんは大阪に出てきて、長らくタクシー運転手をされていたそうです。沖縄差別が色濃くあった時代です。たとえ差別的なひどい目に遭っても、故郷には戻れなかった。
「父はいろんな意味で荒れていた」と幸恵さんは話されました。娘としてはそんな父親をあまり好きにはなれなかったようです。進さんが「荒れていた」というのは、父・金太郎さんが隔離されて受けた傷を、引き継いでしまった面があると僕は思いました。でも娘からすれば、そう簡単ではありません。屈折した複雑な思いを持ち続けています。
映画でもにじみ出ていると思いますが、金太郎さんが受けた私宅監置の傷が、実に3代に渡ってお孫さんにまで深い影を落としている。私宅監置の問題は、今も全く終わっていない、生々しい傷としてずっと刻まれ続けていると痛切に感じました。

どうすれば、そうした傷の連鎖を断ち切れるのか。それは、社会的にきちんとけじめをつけるということでしかないと思います。私宅監置というのは、金太郎さんや家族が悪いことをしたわけでは決してない。本人たちは何も悪くない。あくまでも社会の過ちです。法律に基づく制度だったのですから。
時代は変わっても、「あの私宅監置は間違った制度だったんじゃないの?」「どうすればよかったんだろう?」とみんなで考えていくことが大事だと思っています。
今回の映画は過去を追っているわけですが、幸恵さんのシーンを新たに入れたことによって、今につながる問題だとリアルに押し出せたと思います。
今、隔離監禁をやったら犯罪ですから、より見えにくくなっているかもしれませんが、形を変えた私宅監置は今もそこら中にあります。社会的に排除されている存在が、実は私たちの周りに大勢いるということに、思いをめぐらせたいと思っています。そのためにも、無理をしながら掘り起こした私宅監置の実態について、なんとかして世に出したいと思って映画をつくりました。

―そうなんです。自分のできる方法で知らせたいと思うんです。

僕は劇場で公開する映画をつくるのは初めてです。テレビドキュメンタリーというのは実に限られた世界で、最近のテレビの制作現場では「中学生にわかるように、分かりやすく」とプロデューサーがよく言います。結果、きれいにストーリーを積み上げていく、1・2・3・4…と順序立てて結論まで誘導していくスタイルが主流です。
今回は、僕は正直、映画って何だろう?というところからのスタートでした。決してテレビ的につくりたくはありませんでした。葛藤しながら行き着いたのは、映画では「ひとりの作者として何をやりたいのか」が深く問われるということです。それは僕自身の根源的なところが暴露されてしまうことでもあるということ。作者である僕は一体何者なのか。それを僕自身がつかまえないといけないのが、映画づくりではないかと思いました。
それはテレビのように一面的な表現ではなく、もっと多面的でよいということでもあると考えました。描くのも描かれるのも人間ですから。映画を見る人が考えて理解しようとする、その主体性にゆだねる面を大切にすべきだとも思いました。
と言いつつ、普段テレビの仕事でやっていることから抜け出せなかったとは思いますが、仮面の女性を登場させたり、小屋を作ったり、僕自身の世界観を追求しました。映画になったかどうかは、見る人が判断してくれると思います。

―この写真に写っている方々の視線が痛くて「何もしないの?」と言われたようで、何ができるかわからないけれど、まず監督にお会いしようと思いました。

僕にとっても、写真との出会いは非常に大きかったです。映画の芯とも言えます。写真のほとんどは、1964年に岡庭武さん(精神科医)が医療記録として撮ったものです。(写真を並べながら)

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―情(じょう)が入っていますよね。

これらの写真は奇跡的に生まれたと思います。岡庭さんは日本政府が沖縄に派遣した精神科医で、調査をしに行ったわけですが、そうでなければここまで踏み込めなかったと思います。家族も地域も患者を隠していたわけですから。また写真は単なる記録ではなく、情というか、激しい動揺や怒りなどが含まれています。結果、見る者を揺さぶります。僕自身も「お前は何をやってるんだ?」と金縛りにあったような気持ちになりました。

―当時の調査報告はどこかへ届いていますか?

岡庭さんは厚生省から派遣されましたから、報告書はおそらく書いたでしょうし、その後、論文も世に出ています。それは大きな反響があったと聞いています。沖縄で私宅監置が数多く残っていると分かり、医療支援を唱える声がたくさん上がったそうです。

僕が写真と出会ったのは2011年、社会的入院をテーマにした「隔離の現在(いま)」(RBC)という番組の取材の時です。吉川武彦さん(当時は清泉女学院大学の学長)をインタビューする中で、原版のポジフィルムを見せていただきました。吉川さんが保管していましたので。しかし彼は、「こんなもの、外に出せるわけがない」「写真を出すなら顔をぼかして下さい」と言いました。僕は言われるままに、ぼかして放送しました。深く考えずに。

その吉川先生が2015年に亡くなられたのです。その後、沖福連(沖縄県精神保健福祉会連合会)事務局長の高橋年男さんが、「あの写真を沖縄で保管したい」と、ご遺族にお願いしたのです。しかし、山積みになった遺品の中からあの写真群を探し出すことはとても出来ないと言われたそうです。それで、2011年に僕が取材した映像からキャプチャーして保管してはどうかということになりました。ですから、これら(手元)の写真はそのキャプチャーデータをプリントしたものです。ポジフィルムとはサイズなどが異なりますが、それでも記録的な意味は大きいだろうということになりました。

僕は、これらの写真をどうすべきなのか問われていると思いました。再び引き出しにしまうべきなのか?だとすれば、いつまで隠し続けるのか。隠すのではなく、世に出して問うべきではないのか。でもどうやって?…そうした葛藤が生まれました。
写真と正面から向き合う時間が始まりました。世に出すとしたら、吉川さんが言ったように顔をぼかして出すべきなのか。あるいは、ぼかさない方法はあるのか。
2011年の番組では顔をぼかして放送しました。しかし、一体誰を守っていたのだろうか?僕は当時を振り返って、問わずにはいられませんでした。写っている本人を守っているようで、実は放送する自分たちを守っていたのではないかと思うようになりました。写真の顔をぼかすことは、かつて精神障害者を隔離して世間から隠し、存在を消していったことを再び繰り返すことになりはしないか。隔離という加害の歴史を上塗りすることではないのか。そう思いました。もしそうだとしたら、違う道を選ばなければなりません。

顔をぼかさないのであれば、どうすべきか。写っている本人を探し出して公表する許可をもらうべきだろう。ですから、まずは彼らに会いたいと考え、そのあたりから、取材が始まったわけです。ポジフィルムの枠には名前と地域名が記されていましたので、それらを頼りに調査を始めました。まるで探偵のように。
那覇のような人口流動が激しい都市部では難しいですが、離島などではその家にたどりつくことができました。もちろん、会いに行って断られた人もいますが、中には話を聞かせてくださった方もいました。そうやって私宅監置の実態調査も進んでいきました。
私が調べた限り、岡庭写真に写っている当事者で生きている人はいません。ご親せきにたどり着き、写真の公開について了承をいただいた人はいます。でも、ご遺族にたどり着けなかった人がほとんどです。

50年以上も前の写真であること、徹底して本人や家族を探す努力をしていることなどを踏まえ、写真はぼかさずに公開すると決めました。これは高橋年男さんとの共犯かもしれません。ぼかさずに出しましょうと。隠されてきた歴史を社会的に明らかにすることの意味を大事にしましょうと。そして2018年4月、写真展を沖福連と協同的に行いました。(「闇から光へ」於 沖縄県立博物館美術館・県民ギャラリー)

―時代もありますし、大変だと思うんですけど、地域ぐるみで助ける方向にはいかなかったんでしょうか?

そういう風にうまくいった人もいるのかもしれませんが、私宅監置のケースでは、病状も含め、家族や地域で生じた不和などがそれだけ大変だったのだと思います。病院も少ない時代、医療らしき医療がない状況でトラブル続きだったんじゃないでしょうか。私宅監置という制度があるわけですから、それを利用した。1人を犠牲にすることで、マジョリティの安寧を保つという安直な道が選ばれることになりました。それは、今の時代における僕たちの日常的なあり方そのものだとも思っています。地続きなのです。
沖縄には「ユイマール」という言葉があって、みんなが助け合う社会、みんなで共に生きていくのが建前です。でもその輪からはじかれた人が厳然と存在していましたし、存在しています。別に沖縄だけの話ではなく、古今東西、どこにでも排除の現実はあります。

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私宅監置現場写真(1960年代)

―これはたまたま沖縄が取り残されて、ずっと後まで監置が残っていたから明らかにできたけれども、実は日本全国にかつてあった話ですね。時間が経ったから見えなくなっただけ。

もちろんです。日本中にあったことです。
沖縄も、あと20年も経つと関係者が亡くなっていきますし、今だから聞けた話です。逆に20年前だったら、生々しくて話を聞くのは難しかったかもしれません。吉川先生が「こんなもの、外に出せるわけがない」とおっしゃったように、それを許さない空気が強く、取材はもっと難航したはずです。ですから、映画は奇跡的なタイミングで生まれたとも言えます。
僕はこれらの写真とたまたまめぐり逢ったわけで、それはこの映画をつくることを“求められた”ということだろうと。クリスチャン的な言葉で言いますと…

―「神のご計画」ですか?

かもしれないです。
でも、映画も「尺」(上映時間)というものがあるので難しいですね。あれもこれも入れたいけれど、入れられない。この内容で2時間を超える映画をつくる勇気は僕にはありませんでしたから、カットしたシーンがいっぱいあるんです。実際はこんなに(手をひろげる)撮っているけど、こんなもの(手を縮める)ですよ。

―特にドキュメンタリーは脚本ないですから。
それではこれから観る方にひとことどうぞ。ひとことじゃ足りないと思いますが。


私なりに「語った」つもりです。一つは、「うた」にポイントを置いて構成しました。うたは、生きることそのものだと思うんです。なぜ、人は歌うのか?そこには理屈も何もない。生きているから、生かされているから歌う。証言を集めているうちに、隔離されてどんなにひどい目に遭っても、人は歌うのだと知りました。そこで歌われた歌は大切なことを伝えているように思います。人間って、歌う存在なんだなと思っています。

―ありがとうございました。

=取材を終えて=
周りの人に聞いても知っている人はほんのわずかでした。全く知らされなかった、こんな状況で隠されていた人がいたのだということに驚きました。国や地域、個人でも「隠したい。いないこと、なかったことにしたい」体質はそうそう変わらないでしょう。自分にもそういうところがあります。でも自分や大事な人がそんな目に遭ったら、とちょっとだけでも想像力を働かせることが、少しずつでも変えていくことにならないでしょうか?そんな中で、金太郎さんのお孫さんが登場して、後からでもお爺ちゃんを想ってくれたことで、こちらも救われた気がしました。たまたま公開延期になったので、追加できたシーンと聞いてめぐり合わせと思いました。
映画には、台湾にもあった私宅監置の証言をする方が登場します。日本だけでなく、世界中で昔も今もあることなんですね。遠く西アフリカのコートジボワールでは、精神障害者の施設で患者を診るヒーラーや広場の樹木に鎖で繋がれている患者も映し出されます。見えるところにいるせいか、患者が家族や地域で受け入れられ「ま、しょうがないか」と安心している感じがします。鎖は嫌ですが、表情が全く違うのに感心します。監督の著書「消された精神障害者」(高文研)もぜひご覧ください。

(まとめ・監督写真 白石映子)