日下部正樹監督×佐古忠彦監督「TBSドキュメンタリー映画祭」
先行特別上映会&トークイベント
2021年3月18日(木)より21日(日)まで「TBSドキュメンタリー映画祭」がユーロライブで開催されています。それに先立ち、3月15日(月)東京・渋谷LOFT9 Shibuyaで、民主主義が揺らぐいま注目される「香港、沖縄、今と未来へ」として『香港2019—あの時、何があったのか―』と『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』というテーマで先行上映とトークショーが行われ、日下部正樹監督、佐古忠彦監督、トークゲストが登壇し、映画の見どころについて話しました。
■トークゲスト
日下部正樹監督(『香港2019—あの時、何があったのか―』/「報道特集」キャスター)
佐古忠彦(『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』監督)
■ゲストスピーカー:倉田徹(立教大学教授)、フリーライター 伯川星矢(香港出身)
■司会:皆川玲奈(TBSアナウンサー)
・シネマジャーナルHP TBSドキュメンタリー映画祭情報
・TBSドキュメンタリー映画祭 公式HP
・『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』公式HP
2021年3月20日 ユーロスペースほか全国順次公開
2021年3月6日 沖縄桜坂劇場にて先行公開
当日はまず『香港2019—あの時、何があったのか―』 特別編集版上映後(10分程度)、日下部正樹監督、香港問題に詳しいゲスト倉田徹・立教大学教授、フリーライター伯川星矢さん(香港生まれ香港育ち)によるトークイベント。
後半は『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』2部作で戦後沖縄史に切り込み、最新作『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』が話題の佐古忠彦監督と、日下部正樹監督によるトークが行われた。司会は皆川玲奈さん(TBSアナウンサー)。
トーク前半
『香港2019—あの時、何があったのか―』
2014年に起きた民主化要求デモ「雨傘運動」、2019年の逃亡犯条例修正に端を発するデモ、2020年「香港国家安全維持法」が施行され民主化活動家とされた人々に実刑判決が下され、1997年の英国から中国への香港返還の時に約束されていた1国2制度が反故にされ、高度な自治が脅かされる香港で何が起きているのか…。
日下部監督はオレンジ色のジャンパーで登場し、「このジャンパーは、今、拘束されているジミー・ライ(黎智英)さんにもらったものです。ジミー・ライさんが1995年にアップルデイリー(蘋果日報)を創刊した時、私はちょうど香港支局にいて、ジミーさんにインタビューに行き、それいいですね。余っていたら売ってくださいと頼んだら、もう余っているのはないよ。私が着ているのをあげるよと言われ、ジミーさんが着ているのをいただいたものです。ジミーさんが収監されている今、とても意味をもつようになってしまい悲しい思いです」と意外な縁を最初に語った。
日下部正樹監督:映画は、2019年報道特集でオンエアしたものをまとめたもので、ディレクターの努力のたわものです。日々の香港ニュースは衝突シーンとか、そういうのが主体ですが、その裏にはもっといろいろな事情やいきさつがあって、本編ではさらに深く紹介しています。
なぜこういう長い映画を作ろうと思ったかというと、日々の香港ニュースという形だと衝突シーンとかが主体になってしまい、それだけ観ていたら若者たちは暴徒としかみえないけど、長い映像になれば歌が生まれたりとかいろいろなシーンがあり、深く掘り下げています。理工大学の占拠のシーンなどは警察と真正面から対峙するというようなシーンもありました。結果的には警察にかなうわけがない。でも、そのすぐ後の2019年11月の区議会選挙では、これまでの香港では考えられないような70%の投票率で、民主化を掲げる人たちが80%を占め圧勝するわけです。これまでの香港では考えられないような数字です。これでいくらなんでも香港政府も中国共産党も耳傾けるだろうなと思ったのが2019年だったわけです。
これでいい方向に向かうのではないかなと思ったのですが、まずコロナで抗議活動が抑え込まれます。そして2020年6月に国家安全維持法の導入があり、ジミー・ライさんや周庭さんなどが逮捕されてしまった。これまで香港には高度な自治が認められていたのに、今年に入って全国人民代表者会議で香港の選挙制度が変えられてしまい、愛国人が香港を治めるという言い方で、香港の高度な自治が変わってしまった。香港にあった自由の質が変わってしまった。価値観が変わっていくのを感じていると危機感を語った。私の駐在時代、人生で一番楽しかった。自由というよりは、あそこは国家というのを意識しないで済む土地だった。昔のカイタック空港(啓徳空港)は、あんな狭い空港で分刻みで飛行機の発着があり、活気に満ちた街だった。
タイやミャンマーのデモ活動を見ると香港の若者たちの行動の影響を強く感じる。2014年の行動は「雨傘運動」と呼ばれているが、2019年の行動には名前がない。2019年からの抗議活動はまだ終わっていないのでまだ名前がついていない。今はまだ光が見えないけど、これからも香港を見ていきたい。『香港2019—あの時、何があったのか―』では香港の若者の姿を描いた。これに続く作品を作る時は、また違う世代を主役に描くかもしれないと、日下部監督は次回作への思いを語った。
倉田教授:これはわずか2年前の出来事です。香港研究を20年以上続けてきたけど、この2年で予想もしないような大きな抗議活動が起こりました。そしてコロナ禍、国家安全維持法の施行と、若い人達の命がけの姿を大きな画面で観せていただきました。
これまで香港の区議会選挙というのは生活問題を扱うことがほとんどで、投票率も40%程度。地元の有力者を選びましょうというような形の選挙でした。でも2019年11月の選挙はこれまでとはまったく違う形の選挙になりました。あの時の区議会の選挙は単純に一種のデモなんですよね。民意をを数字でわかる形で出そうと。投票した人が300万人を越え、その中で民主派が200万人を越え、投票所に長い行列を作って投票をするという香港の人々を見て、これこ民主主義を求め、人々が立ち上がった選挙だと思い、これこそ民主化運動だと思いました。と香港にとっての2019年の意味を語った。しかし、2020年6月の国家安全維持法の施行により、政権に歯向かうことや、外国との連携が恣意的に禁止され、抗議活動ができなくなってしまい、さらに先日の全国人民代表者会議では香港の選挙制度を変える決定が推し進められ、国家の安全という言い方で中国政府のお墨付きの人しか選挙に出られないしくみを作ってしまった。中国政府はもともとそういうことを狙っていたかもしれないけど、香港返還以来30年ははっきりとは出してきてなかったから、香港はその中で夢を見てきていたのにそれが全部打ち消され、香港にとって不幸な時代になってきてしまった。逃亡犯条例、国案法、選挙制度の変更と中国という巨大な権力が、今後どうなっていくのか想像もつかない。それを知るためにも香港を注視する必要があると語っていた。
伯川星矢さん:この特別編のデモの現場の映像を観て、もう2年たったんだという思いと、今の現状を考えるとありえないことが日常になってしまっているという思いがおこりました。本来であれば、自由の都市香港の人たちが街に出てきてデモをしている。そうして今は街に出られなくなってしまった。どうしてこうなってしまったんだろうと、香港人の一人として改めてそう思わざるを得なかった。
2019年の区議会選挙では、私も香港人の一人として投票しに行きました。これまで地元の親中派の人たちに有利だったんですが、2019年の選挙では若い人たちが多く当選し、これまでの選挙を覆しました。そこに希望を感じた瞬間でもありました。その時、警察に封鎖された香港理工大学に新人議員たちが入ろうとしたが入れなかった。しかし若い人たちが香港の民意に答えようと香港全体の議題について考え、動いたのは新しい動きだったと、2019年の区議会選挙のあとの香港について語った。
去年12月に香港に入ったけど静かでした。政治的な影響というより、コロナの影響で店舗がなくなってしまっていた。実家の近くに警察の寮があるけど、そこの塀が高くなっていて、監視カメラも多くなり、電気もこうこうとつけるようになっていました。市民が襲ってくるのを恐れているのかと思いました。
自由を売りにしていた香港が、不自由な場所となって自ら光を消すような場所になってしまうのかと思った。中国のようであって中国でない、国のようであって国ではない。そんな香港の立場がどうなっていくのか。経済都市である香港の価値が下がってしまえば、中国にとってもマイナスだし、香港人としてのアイデンティティも揺れている。
“今日の香港、明日の台湾”といわれているが、香港人は香港の姿を世界に知ってもらうことで、中国式統治はこういう形なんだと示しているのかもしれない。台湾に1国2制度を導入したらこうなると、自分たちの姿を通して暗示しているとも思う。今、希望は見えない。どうなっていくかわからない。でも香港人は賢く生きていけるかも。海外にいる香港人も、各々の活動を通して違う風景をもたらすこともあるかと期待していると語った。
*参照
シネマジャーナルHP、香港雨傘運動、香港民主化運動を扱った、作品・監督インタビューなどの記事
・『革命まで』 2015年 香港
山形国際ドキュメンタリー映画祭2015にて
郭達俊(クォック・タッチュン)監督&江瓊珠(コン・キンチュー)監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2016/kakumeimade/index.html
・『乱世備忘 ― 僕らの雨傘運動』 香港/2016年
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017にて
アジア千波万波 小川紳介賞受賞
陳梓桓(チャン・ジーウン)監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2018/yellowing/index.html
・『乱世備忘-僕らの雨傘運動』立教大学での先行特別試写会に陳梓桓(チャン・ジーウン)監督登壇 2018年07月15日
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/460534957.html
・『乱世備忘 僕らの雨傘運動』 陳梓桓(チャン・ジーウン)監督インタビュー(公開時)2018年07月22日
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/460641864.html
・香港・日本合作ドキュメンタリー映画 「BlueIsland 憂鬱之島」 クラウドファンディング
陳梓桓監督 最新作完成のため
http://cinemajournal.seesaa.net/article/480944683.html
後半
『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』
3月6日(土)沖縄・桜坂劇場の先行公開で、大ヒットスタートだった佐古忠彦監督の最新作『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』の予告編が上映され、佐古忠彦監督と、引き続き日下部監督が登壇し、後半のトークイベントが始まった。
*沖縄の戦後史に取り組んだ『米軍(アメリカ)が最も恐れた男その名は、カメジロー』『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』の2部作を作った佐古忠彦監督の最新作が『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』
「住民側から戦争を描いた作品は数多くあるが、『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』は権力側の人間から見た戦争を描いている。
日下部監督の賛否両論あるけどという問いかけからトークは始まった。
佐古忠彦監督:内地、本土から行政官として戦前、戦中最後の沖縄県知事として権力側の人間として批判される立場ではあるけど、権力側にいた人間も個人としての姿、人間の姿があるはず。どういう立場でもって何をなした人なのか。昔話かもしれないけど、今日的なテーマも含まれている。
そして現代にも通じる“リーダー論“というテーマもあるんだろうなと思います。官僚はいかにあるべきかという視点もあります。
主人公の島田叡は写真数点が残るのみで、本作で使用されている映像資料は全てアメリカが撮影した資料(1フィート運動によって集められた)。数点の写真しか残されていない中で、どう島田叡という人物を描き出すか。それが自分の挑戦だと思った。沖縄戦の経過は陸軍や海軍の電文などによって戦況がわかるように描いている。今回牛島司令官が島田知事にあてた手紙の写しなども出てきます。そういうところに歴史の謎を解く鍵が含まれています。歴史の評価というのも描いています。住民にとっての戦争も描いていますが、官僚から描いたというのは珍しいと思います。摩文仁の丘の慰霊の塔に、この島田叡さんの名前も彫られています。あの戦争直後の日本軍や日本政府に対する沖縄の人達の感情からすると、ここに厳しい目を向けられるべき本土の人間なのに(内務省から指令を受けて沖縄を統治する県知事として沖縄に来た)、ここに名前が残されているということにどんな意味があるかに着目。島田叡という人は軍の権力の前で抗っていたということだと思います。
沖縄の人たちは戦場になり右往左往させられたわけだし、生きるということ。命と向きあった人たちの物語ともなっています。迷い苦しみ、なんのために生きるのか。現代にも通じる命の大切さを伝えたい。22人の方の証言を入れているのですが、その中の一人が少年兵として沖縄戦を戦った元沖縄県知事の大田昌秀さんです。軍と県の関係で悩んだ島田さんですが、大田さんも時を越えて、その問題に苦しんだと思います。
沖縄戦というのは、問い返すべきものがたくさんある。命に向き合った人々の話は、必ずや皆さんの心の中に何かを残してくれると思います。多くの人にご覧いただきたいと思っていますと佐古監督が本作にかける思いを語り、会場は大きな拍手に包まれた。
日下部監督:沖縄と香港、台湾、朝鮮は境遇が似ている。同じ国の中にいるけど、自分たちとは違うという意味で近いところがあると思う。またそういう意味で戦前戦中に体制の側にいた人については厳しいまなざしを持たないといけないけど、体制側の人間と決めつけてしまうと見えなくなってしまこともある。行政官の中には、内地でがんじがらめだったので、台湾や満州などでは自分の行政官としての理想を追っていた人も数少ないけどいた。こういう人もいると紹介すると、日本は植民地でいいこともしたじゃないかと言う人に利用されるのは怖いけど、でもそういう事実も提示していかないとと思います。
沖縄の人たちに対して私たちはどれだけの重荷を負わせてしまっているか。沖縄の地上戦というけど、あれも軍の判断ミスですよ。軍はフィリピンの次は台湾だと、軍の資材を沖縄から台湾に移してしまって、それで沖縄の悲惨な地上戦になってしまったわけですから。そして多くの沖縄の人たちが犠牲になったその責任は誰も取っていない。歴史を知るには様々な視点から見ることが大切と示してくれるような作品と語った。
TBSドキュメンタリー映画祭は、3月18日から4日間、渋谷のユーロライブで行われ、『香港2019—あの時、何があったのか―』は21日に、『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』は18日に上映されます。また20日からユーロスペースで公開されています。
・シネマジャーナルHP 特別記事
『米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
佐古忠彦監督インタビューはこちら
『凱歌』坂口香津美監督Q&A
坂口香津美監督プロフィール
1955年鹿児島県種子島生まれ。早稲田大学社会科学部中退。芸能通信社の記者を経て、1984年、TBSの朝の報道番組の企画・リポーターからテレビの世界へ。以来、家族や思春期の若者を主なテーマに約200本のTVドキュメンタリー番組を制作。2000年、制作プロダクション、株式会社スーパーサウルスを設立。
2015年度文化庁映画賞受賞のドキュメンタリー映画『抱擁』など、これまで劇映画6本(2022年春公開予定の『海の音』を含めて)、ドキュメンタリー映画3本(本作を含む)を監督し、劇場公開。著書に小説「閉ざされた劇場」(1994年/読売新聞社刊)
『凱歌』
東村山市にある「国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)」には、らい予防法廃止(1996年)後も、ハンセン病の元患者(回復者)の方々が今も暮らしている。すでにみな高齢となっており、後遺症による重い身体障害を持っている人や、また、未だに社会における偏見・差別が残っていることなどもあって、療養所の外で暮らすことに不安があり、安心して退所することができず、やむなく留まるしかなかったのが理由だった。
22歳で入所した山内きみ江さんは、かつて院内で同じハンセン病患者の男性と出会いますが、結婚の条件は※ワゼクトミー(輸精管切除術)と呼ばれる断種だった。(※ワゼクトミー(vasketomie):輸精管を約1cm切除し睾丸において造られる精子の排出路を絶つこと)
ハンセン病の療養所の所長には警察権が与えられ、その結果、療養所は名ばかりの強制収容施設で、終身隔離政策という人権破壊、非人道的な誤った国策の下、長い間、ハンセン病の患者たちは想像を絶する艱苦の日々を強いられて来た。
『凱歌』は、その凄絶な実相と隠された暗闇に光を当て、ハンセン病の元患者たちが自らの手で勝ち取った人生の誇りと実りを描く。
監督・撮影・編集:坂口香津美
出演:山内きみ江 山内定 中村賢一 斉藤くるみ 中島萌絵 佐川修
2020年製作/90分/日本
配給:スーパーサウルス
https://supersaurus.jp/gaika/
2020年11月28日より全国順次公開中
●シネ・ヌーヴォ大阪 2021年3月27日(土)〜
●アップリンク吉祥寺 4月2日(金)〜4月8日(木)
●刈谷日劇 4月9日(金)〜4月15日(木)
作品紹介はこちらです。
Q.全生園を取材するきっかけはどんなことからですか?
1998年秋、企画構成演出を担当したフジテレビ特番「家族再生~家族の絆を見つめる母と子の旅」(60分/1999年4月放送)の取材のため、番組に出演することになった東村山市に住む少年の自宅を訪問しました。少年の自宅は多磨全生園の広大な敷地(森)と隣接していました。多磨全生園で職員として勤務する少年の両親から、ハンセン病に罹患し、多磨全生園に入所、わずか3年で夭折した小説家北條民雄のことを聞きました。今思えば、この番組と、この小説家が、僕を多磨全生園へと導いてくれました。その日から10年後の2009年11月、多磨全生園にて『凱歌』の撮影がスタートしました。
Q. 映画にしよう、映画になると感じられたのはいつ、どんなときからでしょう? 具体的なお話を伺ってからですか?
手応えを感じたのは、映画の冒頭から登場するハンセン病の元患者、中村賢一さんと出会ってからですね。取材をすすめていくうちに、「これはかならず映画にしなくては」、そして、「映画になる」と確信しました。
Q. ハンセン病については、撮影の前からどれくらいご存知でしたか?映像を撮る前にいろいろな本や映像をご覧になりましたか?
いえ。撮影の前は、「いのちの初夜」の北條民雄の小説や随筆、北條の師匠だった川端康成の愛弟子(北條民雄)の葬儀の日をノンフィクションのように冷徹な眼差しで描いた小説「寒風」や随筆を読んだぐらいでした。2009年5月、僕は初めて多磨全生園に足を踏み入れました。
ちなみに、松本清張にハンセン病をテーマにした長編推理小説『砂の器』があります。1974年映画化され、話題になったこともあり、19歳の僕も劇場で観ました。今回、『凱歌』の公開を機に、小説「砂の器」に目を通すと、ハンセン病について医学的、社会的な考察は皆無で、解説者が「あとがき」でほんの少し触れている程度、今から50年も前の1961年に出版されたとはいえ、これには違和感を覚えました。
Q.撮影を始めるにあたり、多磨全生園で最初にどなたに声をかけられましたか?
多磨全生園の敷地内には当時、そこが強制隔離施設であったことを示す負の遺産はところどころに残ってはいるものの、当然ながら今や、社会に開放され、門は存在しますが、門衛はいない、出入りは24時間、完全に自由です。僕たちが忘れてはならないのは、ハンセン病の患者がこの自由を獲得するまでには、無数の患者たちの血が流されたという事実です。
ところで、実際に多磨全生園で、ハンセン病の元患者さんに声をかけようとしましたが、なぜか声をかけられません。その日は帰宅し、また、しばらくしてから再訪し、声をかけようとしますが、やはりどうしても話しかけられません。
その時、園内に「入所者自治会」の看板があることに気づきました。そこで自分の無知さも含めて正直に事情を話して、アドバイスを求めたのです。
結果として、同書記室を通じて、元患者の方々に僕が書いた映画の企画書をみてもらうことになりました。
しばらくたって、入所者自治会書記室から連絡が入りました。「映画出演を希望される方がおられる」というのです。その方が、映画の冒頭に出て来る中村賢一さんでした。
Q.なぜ、なかなか声をかけられなかったのでしょうか?
なぜ、ハンセン病の撮影をしたいのかという根幹が、私のなかで曖昧なまま、思いや行動だけが先走っていたのだと思います
Q.中村賢一さん、山内定さんご夫婦……、メインになる取材対象者は自然に決まっていったのですか?
はい。すべては中村賢一さんと出会ったことで川は流れ始めました。その流れのなかで、自然に山内きみ江さんご夫妻とも出会いました。最初のうちは、中村賢一さんが船頭役でしたが、後半は山内きみ江さん夫妻が先導役になっていきました。「自分の役目は終わった、あとは山内さん夫妻に任せた(笑)」という感じで、中村賢一さんはそのうち本当にカメラの前に立つのを拒絶するようになりました。
中村賢一さんは、厳しい施設での生活とともに闘った来た親友として療友として山内定さんを信頼し、愛し、また山内きみ江さんの明るさと行動力に、ハンセン病に対する新しい価値観を打ち立てる役割を託したのだと思います。
2019年8月21日、国立ハンセン病資料館の会議室で、『凱歌』の出演者限定の初の試写会を行いました。映画を見終わった後の、中村賢一さん、山内きみ江さんの顔が忘れられません。「映画にしてくれてありがとう」と二人から言われ、嬉しかったのを昨日のように覚えています。
残念だったのは、そこには映画に出演された山内定さん、佐川修さん(前全生園自治会会長)のお二人が、すでに鬼籍に入られ、出席が叶わなかったことですが、あの世で観て下さっていると思います。
山内きみ江さんは『凱歌』の公開中の今も毎日、自室のパソコンを開いて、『凱歌』のFacebookをチェックして、映画の感想を見るのを楽しみにしているとのこと。中村賢一さんは元もと穏やかな性格で、平穏な日常を送ってはいますが、胸の中では、誤った国策によってハンセン病患者がいかに人生をゆがめられ、苦しめられて来たか、自身の体験を含めてそのことへの怒りや哀しみや憤りがいささかも消えず、それどころか今も沸々と煮えたぎっているように思えます。その思いを伝えていく責務が、『凱歌』にはあると思っています。
Q.出演者のみなさんが、坂口監督によく心を開いているように感じます。
そうでしょうか。そうだとしたらありがたいですね。去年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで映画を観た人からも、同じように言われました。「出演者の方は、坂口さんに自然に心を開いていますね」と。そして、「坂口さん、『抱擁』を見せましたか?」と言われましたので、「そう言えば、中村賢一さんと山内きみ江さんに、何年か前に『抱擁』のDVDを差し上げました」と言うと、「それですよ、坂口さんのお母さんのあのドキュメンタリー(『抱擁』)を一度でも見たら、坂口さんの事がよくわかるから」と。
ちなみに、きみ江さんは1934年(昭和9年)生まれで現在86歳。僕の亡くなった母より4歳年下です。山内きみ江さんにお子さんんがいたら、僕ぐらいの年齢なのかもしれません。
Q.出演者のみなさんの印象的なエピソードがありましたらご紹介ください。
そういえば、中村賢一さん、山内きみ江さんにそれぞれ別日に、お会いしたとき、二人から同じ言葉が返ってきました。「ぼくはこの歳になるまで、独身で……」と僕が言った言葉に対してです。「結婚しないなんてもったいない!」と。「子どももいないんですが」と言うと、二人とも、「それももったいないね」と。それ以上は、二人ともその事情については一切、僕に聞きません。今も、驚きの声をあげる二人のお顔を、僕は思い出すことができます。子どもを作ることを禁じられるという恐ろしくも残酷な国策の犠牲者であれば、子どもを作れる状況なら作って欲しい、と素直に願ってのことだったと思います。
Q.中村賢一さん、山内きみ江さん、お二人とも結婚をされたことによって、それぞれの人生にどのような変化がもたらされたと思いますか?
本作で描いているように、堕胎や断種が日常的に行われ、自殺者が出る強制施設は人権無視の異常な世界。そこでパートナーを得て、結婚をされた山内きみ江さん御夫妻にとって、お互いの存在こそが、いうまでもなく生きる希望であり、生きる根幹であり続けたと思います。
あるとき、僕は山内きみ江さんに次のような質問をしたことがあります。「数多(あまた)いる若い患者たちのなかから、医師から余命4か月を宣告されていた8歳上の定さんを結婚相手に選んだ理由は?」と。
「あの頃、私は定さんを信頼し、好意を抱いていましたし、お互いがお互いを必要としていることがわかったからです。そして、何より相性がぴったり合っていたことですね。どんなに厳しい状況でも冗談を言い合いながら、人生を楽しみ、支え合うことができたのも結婚してパートナーがいたからです」
中村賢一さん、山内定さん、きみ江さんの三人ともに、家族の愛に包まれたなかで育ったことで、根幹に自分を愛し、他者を愛するという豊かな感性が育まれたように思えます。それが、強制隔離という人間の尊厳を根底から揺るがす事態にも、絶望せずに様々な困難に打ち克ち、乗り越える原動力になったのではないでしょうか。
Q.映画のテーマ、核になるものは最初から? それとも撮影していくうちに決まっていくものですか?
劇映画の場合は、撮影の前に、テーマも物語の核も、シナリオの段階である程度、決めます。そうでないと、キャスティングができませんから。ドキュメンタリー映画の場合は、撮影前に、テーマは大きく決めてあります。本作の場合は、「多磨全生園を舞台に、ハンセン病の元患者の生きる姿を通して、人間の本質を描く」というぐらいですが。しかし、その時点ではまだ、映画の「核」が何であるか、いつ出会えるかは霧の中の状態でした。『凱歌』の時は、核と出会うのに9年かかりました。『凱歌』で僕が考える核というのは、映画の主人公の山内きみ江さんが、ハンセン病を罹患したからこそつかみ得た生き方や哲学を、ハンセン病とは直接関係のない若い世代に伝えることで、山内きみ江さん自身も変容し、人生に新たな意味を見出すこと、それがラストシーンにつながるものだと思います。
Q.映画で紹介されるみなさんの人生の、ほんの一部を知っただけでも、過酷な日々であったことが想像できます。重い口を開いてお話してくださった方々が、観客に望むことはなんでしょうか?
みずからの強い意志で、『凱歌』に出演された方々は、おそらく次のようなことを今、望まれているのではと思います。
ハンセン病を発症し、家族と離れ、第二の人生を送ることを余儀なくされた自分が、これまで経験した事実と真実を明らかにすること。それを、映画を通して観客のみなさんと共有すること。ハンセン病に罹患したというただそれだけの理由で人権を破壊されるほどの残酷な行いが国策として平然と行われていた、この悲劇を未来永劫、繰り返してはならないという強い一念があると思います。
Q.撮影の開始からアップまで9年間かかったとのことですが、その間に変わっていったこと、変わらなかったことはなんでしょう?
変わったことで、一番大きかったことは、ご出演されたお二人(佐川修さん、山内定さん)がお亡くなりになられたことですね。あと、山内さんご夫妻がお住まいになられていた住居が壊されて、更地に変わったことです。
変わらなかったことは、映画で出演された中村賢一さんも山内きみ江さんも、今も多磨全生園で生活をされているということです。
Q.坂口監督の作品は、重いテーマのものが多い気がします。監督自身がそのテーマにひきつけられるのか。あるいは、テーマから呼ばれたように感じることはありませんか。
僕自身、自分の方から撮影するテーマを探したことはありません。テーマは自分の前に不意に、あるいは徐々に姿を現すという感じです。自分がテーマにひきつけられているように感じることもありますし、またテーマから呼ばれているように感じることもあります。ぼくにとって映画のテーマは1つの森のようなイメージです。テーマと出会ったときはすでに、その森の入り口に立っています。カフカの小説の多くはテーマに「到着」の場面から始まります。「城」も、主人公はすでに城を見上げる町に到着しています。僕の映画も気づいた時にはそのテーマを抱く森の入り口に立っていて、そこからカメラをかついで森のなかに入っていくというイメージです。森に入るや、引き返す道はすでに消えています。進むしかなく、暗い森の奥へ導かれるように、どんどん、どんどん入っていきます。底なし沼のような森のなかを……、何度も迷子になりながら、そんな感じですかね、僕の映画作りは。劇映画も、ドキュメンタリーも。
Q.映画制作で大切にしていることはなんですか?
なにものにも「阿(おもね)らない」ということ。映画にも、観客にも、自分自身にも。すべてのものから、完全に自由であるということ。
Q.ほかの作品も並行して撮り続けていたことになりますね。違う作品を撮ることは気分転換になりますか? 普段、充電のために何をされるのでしょう?
僕の作る映画は、メジャーの映画会社のプログラムピクチャーではないし、納期が決まっている製作委員会の映画でもありません。誰かから求められて映画を作るわけでもありません。というわけで、気分転換とか、充電とかいう意識は特にありませんが、日常のなかでゆったりと心身を浸す時間を作るということを心がけています。料理を作ったり、ベランダで植物を栽培したり、近場の鎌倉近辺の寺や周辺の森や浜辺を散策したり。また、絵を描いたり、Youtubeで、古い外国の映画を渉猟したりするのも楽しいですが、つまるところ読書以上の充電、快楽はないように思います。
Q.去年からコロナ禍で、映画界も大変でした。『凱歌』を送り出して、上映を続けるほかにこれからの予定や計画は?
今から5年前、コロナなんて想像だにしなかった2016年の夏、郷里の種子島で撮影した『海の音』という劇映画があります。命の時間が少ない子どもたちがひと夏を過ごす海辺の子どもホスピスが舞台です。3人の少女たちが一人の少年を好きになる、という、ただそれだけの映画です。この映画を2022年に公開する予定です。ティーンエイジャーが出演する映画は撮っていて楽しいですね。
―気になっている映画―
2020年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、『凱歌』を観たという方から一通のメールが届きました。「『凱歌』はとても美しい映画でした。ふと昔観た、同じハンセン病を扱った『小島の春』という映画を思い出しました。あの映画も、とても美しい映画でした」と書かれていました。
気になり、ネットで『小島の春』を検索すると、1940年の公開で、第17回キネマ旬報ベストワン映画とあります。
その夜、僕は『小島の春』(88分)をふるえながら見ました。ふるえたのは、この映画の持つ恐ろしさにふるえたのです。『凱歌』を撮っていなければ、その恐ろしさに気づかなかったでしょう。映画は、一隻の舟から白衣の女医が島に降り立つ場面から始まります。数日後、女医は島で見つけたひとりのハンセン病患者を伴い、療養所をめざして舟で島を離れる、という物語です。
この劇映画の何が恐ろしいのか。二点あります。一点は、映画の内容で、「療養所にいくと病気の治療が出来、何不自由なく暮らせる」という国の政策を女医に語らせ、療養所がまるでハンセン病の患者にとって「天国」であるかのような印象を持たせます。その主張は、映画の全編をつらぬいています。ならば、ハンセン病を罹患した父親のこれから生きる場所は、女医が示す療養所以外にあろうはずはなく、小島の片隅で家族とひっそり暮らしたいと父親が願ったとしても、それは周囲からして許さないことは自明です。
1930年代から1960年代にかけて、全国の県内からすべてのらい患者を療養所に隔離・強制収容させるという「無らい県運動」に『小島の春』は少なくない貢献をしたと推察されます。
『小島の春』の公開から17年後の1957年、22歳の山内きみ江さんはハンセン病を発症し、全生病院(現国立療養所 多磨全生園)に入所します。『小島の春』の主人公のように、愛する家族と永訣し、終生、この療養所で過ごす道を選択するしか道はありませんでした。
1940年は、新聞とラジオと、そして最も国民に影響を及ぼしていたメディアは映画でした。ここにメディアとして映画自体の孕(はら)んでいる脆(もろ)さと危(あや)うさがあると思います。
『小島の春』のラストシーン、家族を残し、女医とともに島を離れるハンセン病の父親を乗せた小舟、その後を追い、見えなくなるまで手をふる少年。この映画のような家族との冷酷な永訣が、全国で無数に行われていたということだと思います。
ハンセン病の患者が連れて行かれた療養所が、『小島の春』の主人公の美しい女医がとうとうとして語る天国などでは決してなく、ハンセン病患者を撲滅する監獄のような強制収容所であったことを、その実相と真実を80年後の今、入所者の実体験から発せられた証言によって真実を露見させたのが、本作『凱歌』ということになるのだと思います。
=取材を終えて=
お目にかかってのインタビューでなく、メールで質問をお送りして回答していただく「Q&A」に変更になりました。坂口監督には丁寧なご回答を書いていただき、大変お手数おかけしました。ありがとうございました。
先日ご紹介した『夜明けのうた ~消された沖縄の障害者~』も国策によって隔離された人たちにフォーカスしたものでした。自分では知りえないことに目を開かせてもらいました。
今コロナ禍でどなたもいろんな影響を受けています。自分のことだけでいっぱいの日々でも、気になる言葉や人に出会ったら、あとちょっとだけ想像力を働かせたらもっと世の中が潤いそうです。
坂口監督の『曙光』(2018)公開前に試写&トークに参加しましたのに、そのときは記事にできませんでした。今回またご縁があって、別の形でお約束が果たせた気がします。文中にあります坂口監督の『抱擁』(2015)の記者会見記事もごらんくださいませ。
(質問・まとめ:白石映子 写真:坂口監督提供)