『海辺の彼女たち』藤元明緒監督インタビュー(後編)

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藤元明緒監督、渡邉一孝プロデューサー


前編はこちら
作品紹介はこちら

©2020 E.x.N K.K. / ever rolling films
★2021年5月1日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開


―この映画のためのリサーチは、どのくらいの間、どんなことをされたんでしょう?

監督 撮ると決めた一年間、こういう(宮崎がテーブルに出した)記事を読んだり、その記事の方に会いに行ってお話を聞かせてもらったり。基本的には実習生を支援している日本の方に聞くというのが多かったです。後は、妻からミャンマー人側からの情報、ベトナムだけじゃなくて。

―この映画を観た後、テレビのドキュメンタリーを観たり、いろいろ記事などを集めたりするようになったんです。映画の影響はあるかも、と思いました。

渡邉p そんなことはないと思う(笑)。

監督 けっこうNHKさんが力を入れてやられています。僕もタオル工場の番組は観ました。

―豚が盗まれる事件があったりして、それで興味がなかった人にも境遇そのものが注目されました。
そういう事件は残念ですけど、きっかけにはなったかなと。


監督 映画を観ただけだとわからないと思うんです。でもこうやって(新聞記事に)出ていると(知られてくる)。
前の僕の映画は、めちゃくちゃ調べないと事情がわからないんです。知られていなくて。
今回の場合は、映画を観た後にこっちのこういう情報にもコミットできるので、そこはうまく橋渡しになればいいなと思います。

―日本人として何ができるんだろうとは思ったし、でも一般人としては何もできないのがジレンマです。民間のブローカーが間に入って儲けて、彼女たちが借金をしてきていわば騙されてきているというのもあまり知られていないんじゃないか。国の機関がもっと受け入れに関わってちゃんとしていればいいのにと思います。

監督 韓国はわりと国がちゃんとやっているようです。

―送り出すほうの窓口になっているのはどういうところですか?

監督 ブローカーとは言ってなくて、ビザの申請とか日本にちゃんと行けるように、日本語スクールがやっているのが多いです。日本語を勉強してもらって日本と連携して送り出しもできますよ、っていう。

―三分の一くらいまではドキュメンタリーかと思って観ていて、途中で「あれ?」と思いました(笑)。

監督 あー、たぶん普段観たことのない役者が出ているからかな。俳優の匿名性が強い。

―そういうのもありますし、街中で普通に撮っているように見えたので。

監督 あれはたぶん岸さん(カメラマン)じゃないとできないんです。

渡邉p 大胆さがね。

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―漁港の人たちが協力してくださったんですね?

渡邉p 協力してもらっています。実際の仕事をしているところを撮らせていただいたり、漁に連れて行っていただいたりもしました。

―漁港の仕事を3人に世話するブローカーのダーさんですが、最初は通訳の予定だったそうですね。俳優さんかと思いました。

監督 ダーさんは小学校くらいから日本に来てずっと青森に住んでいるんです。むしろベトナム語が喋れなかったんですが、20歳すぎくらいに、ベトナム語を頑張って覚えたそうです。

―難民の子どもですか?親がボートピープルの世代ですか?

監督 聞かなかったですけど、年代的には2代目くらいかな?

渡邉p 現場でベトナム語の言い回しを女優たちに聞いて、チェックしていましたね。

―女優さんたちは3人だけで来られたんですか?

監督 ベトナムのプロデューサーが2人ついてきました。来日する前、実習生は日本語スクールに行ってから来ることが多いので、同じように日本語スクールに行って、今から日本に行くんだというワクワク感も含めて体感してもらってきました。

―監督は3人の女優さんとどうやってコミュニケーションをとっていたんでしょう?

監督 ベトナム語と日本語の通訳を2名現場に呼びました。撮影通訳と、同時編集仕込みの通訳です。台詞を間違えずに言っているかというデータ素材をチェックする通訳。終わってからでなく、撮影と同時にやるんです。

渡邉p 前回それをやってないので、今回は初めて。

―導入していかがでしたか?

渡邉p ものすごく違った。

監督 前回はなんでこれをなしにしたのか、よくわからない(笑)。

渡邉p 少ない人数でやってましたから、訳が追い付かない。

監督 いつも脚本書くんですけど、すごいわかっているわけじゃなくて、やっぱり現場でやってみて気づく部分が多々あって。後戻りできるように、撮った素材全部にその日のうちに字幕をつける。そこで見て、どうしてもというところだけは「もう一回(撮り直し)。ごめんなさい」と。僕もベトナム語はわからないので、撮影しながら全部を通訳するというのは不可能なんです。そこのこぼれているものとか、何か設定間違いのことを言っているとか。けっこうびっしり脚本書くんですが、それぞれに言ってもらってるわけではないので、アドリブがどんどん出てくるのもわからない。

渡邉p 通訳の人も朝から晩までやってたら、けっこう体力のある人だったんですけど、どっか抜けてきますよね。どんどん。

―どうしても簡潔にするとどこか省くことになりますよね。一字一句じゃなく。

渡邊p 無理無理。

監督 絶対どこかぎゅっとしています。そこがほんとに難しかったです。ダーさんも通常業務があるので、毎日はいないんです。

―別のブローカー(人でなく、農業機械など)でしたね(笑)。

監督 そうそう(笑)。

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渡邊p 現場では英語とベトナム語と日本語がとびかっていました。

―3ヵ国語がとびかう現場で、俳優さんたちにどう演出されたのでしょう。

監督 ベトナム語の通訳を通して、演出していました。脚本は書きましたが役者には渡さずに、大枠の物語が記された構成表だけを渡して現場で演技のディテールを作っていきました。

―3人の背景については、それぞれ話し合って作り上げたのですか?

監督 あらかじめ決まっていた背景はありました。その上に、それぞれの実世界の人物背景を役のキャラクターに生かしています。役名も本名のままです。

―あのラストもあらかじめ決まっていたんですか?

監督 ラストシーンは一応脚本に書いていましたが、完成版とは全然違うシーンでした。僕、いつも映画のクライマックスからラストまでが撮影前に分からないんです。前作の「僕の帰る場所」もそうでした。
終盤の撮影に入る前にスタッフで「ラストをどうするのか」大会議が開かれ、チーム全体で決定しました。スタッフそれぞれがラストについてどうするべきなのか、発言してくれるんです。日々の撮影を自分事として参加でいている証拠です。

―作品はどこで「完成!」となるのでしょう? 完成してからも手を入れたくなりますか?

監督  正直わかりません。制作中僕は10回くらい「これで完成した!」と言うので、だんだんスタッフは信じてくれないようになってきたと思います(笑)。観客の誰かが再編集したものを僕が観客として観たい欲望もあります。映画は記憶みたいなもので永久に完成しないんじゃないでしょうか。だからこれまで続いてきてるのかも。

―ミャンマー、ベトナムとアジアの方の映画が続きました。日本と外国の人の繋がりになるのは理由がありますか? 次はどんな映画になりますか?

監督 映画を着想・企画する際に、自分の人生に入り込んだ身近な事柄からはじめます。いわゆる「半径5m以内のことしか描けない」というやつです。外国人との共生について考え・学ぶことは、自分の家族の人生で起きる困難を乗り越えることにも関わるので、映画以前に僕が着目しているテーマの一つです。引き続き、同様のテーマでも映画を作っていきたいです。まだ一度も日本人が主演で長編を撮った事がないので、「主言語が日本語」で演出したいとも最近感じています(笑)。

―藤元監督は実際にミャンマーに住んでいらっしゃいました。よその国に住む外国人だったわけですね。住んだからこそ気づいたことはなんですか?その体験は作品にどう反映されているのでしょう?

監督 異国の地で人と接していく際、当初は「同じ人間だから分かり合える」という単純な思考で生きていましたが、”国”の影響で形成された思想や文化など様々な隔りは意外に分厚いんだなぁと感じました。ミャンマーで暮らしていた時に、この隔たりを緩和し、人と人を結びつけることが映画作家としての役目の一つなのかとも思いました。

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―映画制作を振り返ってパッと思い出すこと、忘れられないことはなんですか?

監督 ベトナム人キャストやクルーを日本に招致したときに、皆を渋谷に連れていったんです。外国からきた人って渋谷に行くと「日本に来た!」と言って喜んでもらえるので。でも主演のフォンさんだけは一切車から降りてこないし、あんまり興味がなさそうな感じでした。青森に行って雪を初めて見た時も一人だけ遊ばず何も反応してなかったんです。
はしゃいでいるベトナムチームを他所にじっと一人でいるフォンさんが印象的でした。この映画のフォンさんはある事を誰にも相談できずに、孤独感に苛まれている役柄なのですが、もしかして来日した瞬間から役が入っていたのか? いつか聞いてみたいです。

渡邉p その土地の話でもなく、地元の特産を映すでもない映画にも関わらず、今回本当に地元の方々にお世話になったんです。クランクアップ直後には、町長や役場の方々、ロケ地の提供者、ボランティアスタッフやエキストラなどの関係者、両国スタッフとキャスト一同を集めてささやかな打ち上げをしました。その時に、 その場にいる皆さんが映画の完成を望んでいるのが分かったし、国籍だけでなく様々な立場の人が一同に会しているその雰囲気が、物語とは裏腹にとても温かく、なんとも言えなかったのを覚えています。

―ありがとうございました。

=取材を終えて=
お二人に会うのは『僕の帰る場所』取材以来です。つい話があちこちに飛び、長くなりましたので記事を2回に分け、ネタバレは避けてまとめました。あちこち口調が違いますが(笑)そのままにしています。
作品は普段目に留まりにくい技能実習生にフォーカスしています。最初の勤め先から逃げ出して、パスポートも身分証もない彼女たちには後がありません。怒鳴られて「ごめんなさい」「すみません」とくりかえす3人。「家族が恋しい」と涙するニュー、「家族に喜んでもらおう」と慰めるアン、雪降る町を1人で彷徨うフォン。海辺だけでなく、日本中に彼女たちはいます。コロナの先行きも見えないこんな時期ですが、予防をした上でぜひ劇場でご覧ください。
この取材は2月半ばに上映館のポレポレ東中野のカフェで行いました。ミャンマーで政変があって、藤元監督(奥様がミャンマーの方です)がご心痛のころでした。今はASEAN、中国、アメリカとの協議が調整されているようです。どうか良い方向に行きますように。
※トリビア:病院のシーンに藤元監督の奥様と坊や、渡辺プロデューサーのお子さんも登場しています。わかりにくいですが。(白)

私も『僕の帰る場所』に続き、この『海辺の彼女たち』でも藤元監督、渡邉プロデューサーの取材に参加させていただきました。2作品とも、これまで育ってきた国から離れ、異文化の中で暮らす人たちの葛藤を描いた作品ということで興味を持ったからです。今回は特に、私の人生にとって、とても影響を与えた国であるベトナムから日本に来た人たちを描いているのでよけい話を聞いてみたいと思いました。ベトナム戦争の頃(1969年頃)高校生で、戦争に反対する集会に参加していました。ベトナム戦争後はボートピープルという難民としてベトナムから日本に来た人たちがいました。そして今は「技能実習生」という名の労働力として日本に来ているベトナムの若者たち。その実態を描いた監督の気持ちや映画を作ることになった話をぜひ聞いてみたいというのがありました。根底には「日本人として何ができるんだろう」というのがありました。きっとそれは、この映画を作っている人たちの原動力でもあると感じました。ミャンマーの事情はこの取材の時からさらに悪化していて、監督の家族や親戚の方たちの安否も気になるこのごろです。こちらのほうの情報も注視していこうと思います。

このインタビュー記事では載せていませんが、「最近映画を観ましたか?印象に残っている作品は何でしょう?」という質問に対して、藤元監督が「直近では黄インイク監督の『緑の牢獄』を観ました。面白い面白くないとかの次元で語れない、映画が存在する重要性・必然性に満ちた作品でした。自社チームでの製作〜配給を一貫して行っている事にもシンパシーを感じています」と、答えていたのが印象的でした。私も同じ思いでした。ポレポレ東中野で『海辺の彼女たち』の前、4月に公開されていた作品です。この作品の黄監督にもインタビューしています。よかったらぜひこちらの黄監督インタビュー記事も見ていただけたらと思います(暁)。

『緑の牢獄』黄インイク監督インタビュー記事
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/480829168.html

(取材:白石映子、宮崎暁美、監督写真:宮崎暁美)


外国から働きに来る方のおかげで、私たちはいろいろ享受しています。状況が知られていけば是正されていきますよね。
参考になるサイトいくつか

d's JOURNAL(ディーズジャーナル)(2020/11/4)
【最新版】外国人労働者の受け入れ数はどう変化した?
グラフで読み解く日本の現状と課題
https://www.dodadsj.com/content/201104_foreign-workers/

シロフネ
外国人労働者問題とは?今起きている5つの問題と解決策を解説
https://shirofune.jellyfish-g.co.jp/visa/foreign_labor_issues_5points_solution

一般社団法人 在日ベトナム仏教信者会
〒367-0224埼玉県本庄市児玉町高柳668-2 大恩寺
住職 ティック・タム・チー
https://mobile.twitter.com/NsVCdd5QrgeL9Pa
支援の詳細はこちら


『海辺の彼女たち』藤元明緒監督インタビュー(前編)

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藤元明緒監督プロフィール
1988年生まれ、大阪府出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪で映像制作を学ぶ。日本に住むあるミャンマー人家族の物語を描いた長編初監督作『僕の帰る場所』(2018/日本=ミャンマー) が、第30回東京国際映画祭「アジアの未来」部門2冠など受賞を重ね、33の国際映画祭で上映される。長編2本目となる『海辺の彼女たち』(2020/日本=ベトナム)が、国際的な登竜門として知られる第68回サンセバスチャン国際映画祭の新人監督部門に選出された。現在、アジアを中心に劇映画やドキュメンタリーなどの制作活動を行っている。
『僕の帰る場所』インタビューはこちら

『海辺の彼女たち』
ベトナムから来た3人の女性、アン、ニュー、フォン。彼女たちは日本で技能実習生として働いていたが、ある夜、過酷な職場からの脱走を図った。ブローカーを頼りに、辿り着いたのは雪深い港町。不法就労という状況に怯えながらも、故郷にいる家族のため、幸せな未来のために懸命に働き始めたが……。 より良い生活を求めて来日したベトナム人女性たちを主人公に、未来を夢見ながら過酷な現実と闘う姿を描く。

作品紹介はこちらです。

脚本・監督・編集:藤元明緒
撮影監督:岸建太朗
プロデューサー:渡邉一孝、ジョシュ・レビィ、ヌエン・ル・ハン
出演:ホアン・フォン、フィン・トゥエ・アン、クィン・ニュー他
2020/日本=ベトナム/カラー/88分/ベトナム語・日本語
©2020 E.x.N K.K. / ever rolling films
★2021年5月1日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

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―この映画を作るきっかけはなんでしたか?

監督 2016年に地方に住んでいるミャンマー人技能実習生の女性から連絡がありました。「職場がちゃんとお金を払ってくれない、契約にない仕事ばかりさせられる、助けてほしい」ということでした。全然面識もない方でしたが、そのころ妻と二人facebookでミャンマー人向けに日本の観光地やビザの情報などを発信していたので、そこにメッセージが届きました。「周りのみんなは全員逃げてしまって、会社の寮に一人でいる。逃げるのも怖いし、このまま働くのも辛いし、なんとか助けてほしい」と。
そういうケースは初めてだったので、あちこちへ相談しましたが全然うまくいかず、1~2週間経ってしまいました。彼女は待ちきれずに、どこかへ出ていってしまいました。そのままではたぶん不法滞在になってしまうんですが、何もできなかった。その体験がとても強烈でした。
それが『僕の帰る場所』を編集しているときです。なんだかすごく頭に残っていて、いつかその実習生のことを題材にした映画を撮りたいな。その女性を追いかけようかなとふっと考えたりしました。

―その後の消息はわかりましたか?

監督 もう全然わからなくなりました。もし僕に言ってしまうとそこから漏れたりするかもしれない、とそういう心配もあったと思うんです。

―映画は3人ですが、その方はたった1人で。

監督 たぶんほかのミャンマー人を頼っているんじゃないかと思います。そのときは東京に行くと言っていました。

―製作がスタートしたのはいつですか?

監督 2019年の1月ころです。そのころ、妻が妊娠してどこで子ども育てようか、帰ろうか、とちょうど『僕の帰る場所』みたいな(笑)。日本に戻ろうとしていたところでした。もうあと数年いる予定だったんですけど。

―映画を地でいってます。

監督 ほんとですね。自分に還ってくることがあるんだと思いました(笑)。
そのときにあの技能実習生のことを思い出して、実習生が(来日して)うまくいかなくなったその後のことを僕たちは知らないですよね。実習生ということば自体もあまり知られていませんが。

―興味がある人じゃないと。あと何か事件があってニュースになって初めて知ることもありますね。

監督 実習生のその先、どっちかというとルールの外へ出てしまった人が、どういう場所でどういう思いでいるのか、というところを描きたいなと思いました。そこのパーソナルな要因も。

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渡邉プロデューサー、藤元監督

―3人の女優さんを決めるときのお話を。
キャスティングのときはすでに脚本は出来上がっていたんですか?


監督 ロングプロットが5月にできていました。今の内容とは全然違うんですけど(笑)。

―前の『僕の帰る場所』もそうでした(笑)。

監督 初稿では農業だったんです。海じゃなかった。
3人の女性で、ということでベトナムの現地のオーディションに行ったんです。日本に暮らしている方はたぶん忙しいし。前は演技をしたことのない人、一般の人に出てもらいましたので、次は女優さんもしくは演技をやってみたい人たちとやりたいなぁというのがあって。
僕と渡邉さんと、カメラマンの岸さんと3人で渡航したのが6月です。
ハノイとホーチミン、2都市で開催しました。元々主演のあたりはつけていったんです。
着いたら、その方が「数日前に女優やめました」「ええ~!」ってなって(笑)。じゃもう一から探していこうということに。出だしから大変だったんです。

―あてにした人じゃない方たちに決まったんですね。

監督 3人ってすごい難しいんですよ。2人はなんか組みやすいんです。3人って一人が突出して良くてもダメ。ビジュアルとかもそうなんですけど、それが3人セットで成立するのがなかなか。それがオーディションの一番の壁でしたね。
この人がいいなと思ったら身長がめちゃくちゃ高くて並んだときにバランスが悪い(笑)。

―あの3人の方々とてもよかったですよ。

監督 フォンさんがハノイで、もう二人がホーチミンの方です。100人くらいオーディションして、中には元々実習生で日本に行っていましたっていう人もいて。「日本にいたときはすごく幸せで、最後もちゃんと見送ってくれて、今思い出しても泣きそうです」と急に泣き出して…。「いい職場だった」という方もけっこういらっしゃるんです。

―いい職場もあったと聞くとホッとします。オーディションに来た方からも情報がいただけた。

監督 そうです。オーディションといいながら「本物の方々」に会えました。

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―3人の決め手はどこでしたか? お化粧を全然していないので、みんな姉妹のように似て見えます。

監督 最初にハノイでフォンさんが決まったんです。ファーストインパクトが彼女の「オーラ」でした。直観的に、なんかすごいいい人が来た!と思って。本職はテレビキャスターなんです。ニュースとかお天気とか、報道ステーションみたいな。写真見てもわからないかも。

(渡邉プロデューサーが、フォンさんがキャスターをしている画像を出して見せてくださる)
渡邉P そんなに大きなテレビ局じゃなくて。キャスターだと忙しくて休みが取れないと困るなと思ったんですが、事前に言ったら大丈夫でした。

監督 アンさんとニューさんには、ホーチミンで会いました。アンさんは3人の中でもリーダーシップというか、みんなを引っ張っていくようなキャラクターです。日常からそういう精神を持っている人がいいなぁと思っていました。アンさんと会ったときに、「姉が台湾に出稼ぎに行っていて、国外に出て家族を養う気持ちはすごくわかる」と。彼女は自分でシェアハウスを持って経営していて、すごくしっかりしているんです。オーディションでも唯一英語が喋れました。

―そうでしたね。(オンライントークで見ました)

監督 割とインデペンデントフィルムに出ていて経験がある。女優としての経験もあるというのが、3人の中で引っ張ってくれる要素なのかなと。そういう日常が、映画で僕が想定していたようなアン役にマッチしたので決めました。
ニューさんは初めてオーディションに来てくれたんです。「今までオーディションに来たことはなかったけれど、女優をやりたいんです」と。広告のモデルの仕事をやっていたんです。
フォンさんとアンさんを中和してくれるようなホンワカした人がいい、というのがありました。
みんなに即興芝居をやらせたんです。理由を言わないで「今泣いてください」と。するとみんな「今集中します」としばらく何か準備があるんですが、あの子だけ「わかりました。やります」って言った瞬間にばーっと泣き出して。他にもいろいろ即興芝居で試したんですけど、言った数秒後にパッとできる。できちゃう。岸さんとも、何人だろうとなかなかこの天才には会えないねと話しました。

―それまで俳優をしないでモデルさんだったとは。もったいない。

監督 俳優しないで(笑)。鏡の前で練習していると言ってました。ダイヤモンドを見つけてしまいました。

渡邉P こんなのです(モデルの写真をスマホで)。

―可愛い~。3人ともお化粧したら美人ですね。よくあの疲れた顔になり切ってくれて(笑)。

監督 よくみなさんすっぴんで出てくれたなと。

渡邉p オーディションではすっぴんが見たいから、と「すっぴんで」オーダーかけていたんです。これ共同制作なので、現地の会社がコーディネイトして人集めしてくれて。メイクなしという監督のオーダーを無視する人もいる(笑)。関係が悪くなるからこれ以上言えない。でも彼女たちは(お化粧を)とったりしてくれたよね。

―とってくれないとほんとの雰囲気がわかんないですよね。

渡邉p そういう題材ですからね。

監督 日本で働いているから化粧する暇もない、というその姿が見たかった。

―どういう映画かは説明していないんですか?

監督 すごく大まかに、2行くらい(笑)。日本で働いて最初の職場を逃げ出した3人の女の子という。

―どの役がふられるかもわからない?

監督 あんまり物語を説明してきて合わせてきてもらっても困るので。普段のその子たちの服装や空気感を見たかったんです。

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―撮影はどのくらいかかりましたか?

監督 1ヶ月間です。

―撮影は主に青森ですが、その前に地下鉄など乗り物の場面がありますね。

監督 あれは映画の中でどことは特定していないですが、横浜で撮りました。

渡邉p 特定されないようにしたんです。

ーすごく至近距離のあのシーンはどうやって撮ったんだろうと思っていました。

監督 小さいカメラでコソコソじゃなく、あまりにも大きいカメラでやっているから、(周りの人も)きっと「許容を越えた」んじゃないかな。絶対に見ない日常(笑)。岸さん音声さんアシスタントや・・・5人でした。

渡邉p みんなデカイんです。それで囲んだ(笑)。

―何度もテイク撮れないですよね。

監督 テイクというよりずーっと撮っているんです。1時間弱とかずっと地下鉄を移動していて。
そのうちの一つのカットです。「カットを割らずに使えるシーン」なんです。

渡邉p 東京から撮り始めたので時間はそんなに経っていない。だから(女優さん3人に)長期的な疲れはないです。それをちょっと心配したんですよ。映画ではすごい疲れているはずだから顔に出ないかなって。

監督 基本的に脚本の順番通りに撮っていったかな。順撮りですね。

―フェリーに乗り換えた3人がいったいどこまで行くんだろう?と観ていると、着いたところが青森でした。

渡邉p 実は青森も特定していないんです(ロケ地は青森の外ヶ浜)。雪が降っているどこか。

監督 「都市部」と「地方」というアイコンだけは出てほしかったんです。雪景色を想定していたんですが、その年は暖冬で。行ってみたら、雪が全然なかった(笑)。

前編ここまで。後編はこちら。

『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  タラ・ハディド監督インタビュー (アップリンク提供)

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アトラス山脈の四季折々の自然風景と、モロッコの山奥で暮らすアマズィーグ人の姉妹の慎ましくも美しい日々の営みを記録した映画『ハウス・イン・ザ・フィールズ』。
2020年公開予定でしたがコロナ禍で延期になり、2020年5月にオンライン配信で緊急公開されました。この度、ようやく劇場公開が決まりました。
★2021年4月9日(金)よりアップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

劇場公開にあたり、世界的建築家ザハ・ハディドを叔母に持ち、写真家としても活躍するタラ・ハディド監督のインタビューが、配給のアップリンク様から届きました。

また、公開に併せて、アマズィーグ語の文字ティフナグをあしらったロゴTシャツ、トートバッグ、そしてハディド監督によるフォトTシャツなど、オリジナルグッズも発売されますので、あわせてご紹介します。

作品詳細は、下記もあわせてごらんください。

★シネジャ 作品紹介 


★シネジャ スタッフ日記 2020年5月17日
モロッコ、アマズィーグ族の姉妹『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  ★オンライン公開中  (咲)




☆タラ・ハディド 監督インタビュー☆

ーーなぜこの作品を作ろうと思ったのでしょうか
20年ほど前初めてこの村を訪れた時、圧倒されました。マラケシュから10時間以上かかる場所で、たどり着くのが非常に大変なのですが、荘厳な風景や、そこに住む人々に魅了され、数年後にまた訪れました。数百年前から変わらないコミュニティの、失われつつある生活様式を記録し、彼らのクロニクルを撮りたいと思いました。人里離れて、閉鎖された山間部に暮らす特定の家族、特定の女の子たちを撮ろうと思ったのです。
7年かけて、彼女たちの生活に入っていって、カメラも一緒に生活を共にし、たくさんの映像を撮りました。撮影し終わってフッテージを見た際、彼女たちの痛みがどれほど強いのか、私はやっと理解しました。自分の気持ちをはっきり表明しない人たちなので一緒に生活している時にはわからなかったのですが、カメラが彼女たちの内面を捉えていたんです。

ーー モロッコの女性の地位
15年ぐらい前にモロッコ政府は、女性の地位を根本的に上げる、革命的といっていい家族法を作りました。離婚したら財産は半分に分ける、就業の自由などが書かれているわけですが、法案が通っても実際にそれを適用しないと意味がない。男性たちがそれに応じて動かないといけない。とくに田舎では、まだまだ時間がかかる。
ただ、実際に生活を共にして見えてきたことは、女性が犠牲になっているだけではなく、男性も犠牲になっていたということ。つまり、このコミュニティが、犠牲のうえで成り立っている。伝統があまりにも強く存在しているので、そこを破るわけにはいかない。個人のためではなく、共同体のため。個人の犠牲によって共同体が今まで生き延びてきたのです。
とはいえ、男の子のほうが少し特権的な立場にあることは確かです。自分がやりたいことを主張できる立場にはあるからです。女の子が「大学に行きたい」というのはタブーですが、男の子だとそれほどタブーではありません。

ーー 彼女たちのその後は?
ハディージャはとても活発で頭のいい子です。家族法が変わったことにより、今までになかった権利が女性に大きく与えられた、それを知って彼女は弁護士になりたいと思ったようです。ですが、夢を追いかけるために共同体を離れるということは、とても大変なことです。私はハディージャのご両親に「彼女を大学に行かせてあげてください」と懇願したことがあります。でも、それは行き過ぎたお願いだったようです。お母さんに「彼女がいなくなったら誰が畑仕事を手伝ってくれるの?動物の世話をするの?」と言われました。

村の人たちも「教育は必要ない」と考えているわけではありません。しかし子供たちが学校に行くと、仕事を手伝う人間がいなくなる。「村を出たい」という願望を持つ若者たちも多いと思いますが、実際には、彼らは村の一部であり、山の一部なのです。山間の暮らしに愛憎を抱きながら、その一部として生きている。ここは、外部の人間が立ち入ることのできない、白黒ではない難しい問題です。

わたしは教育が大切だと考えています。ただ、あの村をとても尊敬し敬意をもっていますので、彼らのルールを尊重したいとも思っている。コミュニティの価値観を変えるというのは、とても長いプロセスが必要で、政府とかNGOとか、いろんな人が関わって根本から変えていかなくてはいけない。

今、彼女は結婚して、夫と息子と幸せに暮らしています。でも、まだ全然遅くないと思うのです。彼女はまだ19歳です。マラケシュの郊外に住んでいるので時々会いますが、いつも言っています。「まだまだあなたは若いし、遅すぎるということはないのだから、また勉強したらいいんじゃない?」と。


【監督プロフィール】
タラ・ハディド Tala Hadid
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脚本家、監督、プロデューサー。建築家のザハ・ハディドは叔母にあたる。
1996 年に『Sacred Poet on Pier Paolo Pasolini』で監督デビュー。何本かの短編を監督した後『Tes Cheveux Noirs Ihsan』(2005)で学生アカデミー賞を受賞し、ベルリン国際映画祭パノラマ部門最優秀短編映画作品賞に輝いた。
2014 年、『Itarr el Layl』 (英語タイトル:The Narrow Frame of Midnight)を完成。この作品は、トロント国際映画祭でプレミア上映された後、ニューヨークのリンカーン・センター、ローマ国際映画祭、ロンドン国際映画祭、 ウォーカー・アート・センターなど世界中の数多くの映画祭や映画イベントで上映された。
ニューヨークの売春宿を撮り続けた写真ドキュメントのプロジェクト“Heterotopia”や、2芸術写真の出版を手がけるスターン出版から、新進の写真家を紹介する “Stern Fotografie Portfolio” シリーズでハディドの写真を特集した本が出版されるなど写真家としても活躍している。


★オリジナルグッズ※4月9日(金)発売
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『ハウス・イン・ザ・フィールズ』タラ・ハディド フォトTシャツ 人物
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』タラ・ハディド フォトTシャツ 風景
カラー:ホワイト
サイズ:M、L
販売価格:3,500円(税抜)

写真家としても活躍するタラ・ハディド監督によるフォトTシャツ。
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』ロゴ Tシャツ
カラー:ホワイト、ブラック、ライトピンク、ライトイエロー
サイズ:M、L
販売価格:2,800円(税抜)

『ハウス・イン・ザ・フィールズ』ロゴ トートバッグ
カラー:ナチュラル、ブラック、レッド、スカイブルー
販売価格:1,800円(税抜)

▼お取扱店舗▼
◎ アップリンク渋谷
https://shibuya.uplink.co.jp/
◎ アップリンク吉祥寺
https://joji.uplink.co.jp/
◎ アップリンク京都
https://kyoto.uplink.co.jp/
◎アップリンク・オンライン・マーケット
https://uplink-co.square.site/


【作品概要】
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  原題:TIGMI N IGREN
監督・撮影:タラ・ハディド
出演:ハディージャ・エルグナド、ファーティマ・エルグナドほか

弁護士になりたい妹と、結婚のため学校を辞める姉。
モロッコの山奥、圧倒的な自然風景とアマズィーグ人の姉妹の日々の営みとゆれる心を繊細に描く。
弁護士を夢見る少女ハディージャとその姉のファーティマは、モロッコの山奥で暮らすアマズィーグ人の姉妹。ある日、ファーティマが学校を辞めて結婚することになる。「結婚するのが怖い。だけど義務だから」と胸のうちを語るファーティマ。ハディージャは、大好きな姉と離ればなれになってしまう寂しさ、そして自分も姉のように学校を卒業できないかもしれないという不安を募らせていく。2人の揺れ動く想いをよそに、その日はやって来て……。

アフリカ北西部に広大に走るアトラス山脈の一部、モロッコの高アトラス南西地域。そこに住むアマズィーグ人は、信心深く、伝統を重んじ、自然の恩恵を受け、数百年もの間ほとんど変わらない生活を送っている。世界的建築家ザハ・ハディドを叔母に持ち、写真家としても活躍するタラ・ハディド監督は、本作の製作にあたり、7年にわたって現地に通い、彼らと寝食をともにしたという。雄大なアトラス山脈の四季折々の自然の中で、被写体に寄り添った親密な映像は、失われつつある生活様式や文化を記録しながら、人々の内なる想いをも紡いでいく

モロッコ、カタール/2017年/86分/1:1.85/アマズィーグ語
字幕翻訳:松岡葉子 
配給・宣伝:アップリンク
■公式サイト https://www.uplink.co.jp/fields/
■公式Twitter https://twitter.com/intheFieldsJP
■公式facebook https://www.facebook.com/113411273686745/
★2021年4月9日(金)アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

▼予告編 YouTube▼
https://youtu.be/dVunYbRl2hA

『緑の牢獄』黄インイク監督インタビュー

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2021年3月27日沖縄桜坂劇場先行ロードショー
2021年4月3日より ポレポレ東中野ほか全国順次公開
ポレポレ東中野公開 舞台挨拶予定

『緑の牢獄』
沖縄・八重山諸島にある西表島には1886(明治19)年頃~1960(昭和35)年頃まで石炭を採掘する炭鉱があった。炭鉱がいくつもでき、日本人だけでなく、戦前、日本の植民地だった台湾や朝鮮からも人を集めた。朝鮮人坑夫もいたけど、台湾人坑夫の方が多かったという。大正時代には、坑夫は1000人以上になった。しかし、坑夫たちは過酷な労働やマラリアにかかり、たくさんの人が亡くなった。坑夫たちは過酷な労働に耐えるため「モルヒネ」漬けになったり、借金まみれになり、「緑の牢獄」から抜け出すことができない人も多く、彼らを連れて来た親方はそういう人たちの面倒を見るような立場でもあった。次第に炭鉱はすたれ、戦後の一時期、米軍政府が石炭採掘を試みたけど長くは続かなかった。廃坑の周りはすでにジャングルに飲み込まれ、自然に戻りつつある。そして廃坑近くに住む90歳の橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)。彼女は、坑夫たちの親方だった養父に連れられ、10歳で台湾から来て人生のほとんどをこの島で過ごし、たった一人で家と墓を守っている。

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.


『緑の牢獄』HPから
沖縄を拠点として活動する黄インイク監督が7年の歳月を費やした渾身の一作『緑の牢獄』。本作は企画段階で既にベルリン国際映画祭、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭の企画部門に入選。前作『海の彼方』に続き、植民地時代の台湾から八重山諸島に移住した“越境者”たちとその現在を横断的に描く「狂山之海」シリーズの第二弾。

シネマジャーナルHP『緑の牢獄』 作品紹介
『緑の牢獄』公式HP

黄インイク監督インタビュー
取材・写真 宮崎 暁美

黄インイク(黃胤毓/ホァン・インユー)監督プロフィール 
書籍「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」より
沖縄在住、台湾出身の映画監督・プロデューサー。東京造形大学大学院映画専攻修了後、台湾と沖縄を拠点とする映画製作・配給会社「ムープロ」(台湾と日本でそれぞれ「木林電影」「株式会社ムーリンプロダクション」)を設立、映画活動を行う。長編ドキュメンタリー作品『海の彼方』(2016年)、『緑の牢獄』(2021年)。石垣島ゆがふ国際映画祭プログラムディレクターを務める。
この映画の制作過程で得たフィールドワークの調査結果や新事実を多数掲載した著書「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」を発行。

☆「八重山の台湾人」製作過程
 
編集部 西表島に炭鉱があったということは、2017年の大阪アジアン映画祭での『海の彼方』上映後のトークで黄インイク監督が話していたので知りました。黄監督は「八重山の台湾人」という作品の壮大な計画を話していました。その時に名刺交換して、それから何度か『緑の牢獄』の進行状況などのメールをいただきましたが、いつ頃公開されるのだろうと思っていたところ、今年(2021年)の大阪アジアン映画祭で上映されることを知ったのですが、今回新型コロナウイルスの影響で大阪アジアン映画祭には行けなかったので観ることができず残念に思っていたら、4月公開を知り連絡したしだいでした。
監督はいつ頃台湾から沖縄に渡った人たちのことを知り、この「八重山の台湾人」と取り組みはじめ、この『緑の牢獄』の公開にこぎつけたのでしょう。

*『海の彼方』黄インイク監督作品 2017年8月12日公開 公式HP 

黄監督 台湾にいた頃から、八重山に移住した台湾人のことは知ってはいましたが、日本に留学してから具体的に興味を持ち、2013年頃~2014年頃にリサーチし始め、八重山、沖縄、あるいは関連した場所に行き、150人くらいにインタビューしました。その後、2014年頃から撮り始めました。この作品の主人公・橋間良子(江氏緞)さんの映像は主に2015年前後に撮ったものを使っています。

― 私は1977年(43年前)に2週間くらい沖縄に行ったのですが、その時に石垣島、西表島にもそれぞれ4日くらい行きました。そのあとは沖縄には行っていないのですが、沖縄や八重山の歴史に興味を持ってきたのに、台湾からの移住者がいるということは知りませんでした。そのことを知ったのは2015年に公開された『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』によってでした。この作品と黄監督の『海の彼方』の2作品は八重山にパイナップルを伝えた台湾人の話でしたが、今回の『緑の牢獄』は、西表島に炭鉱があって、そこでたくさんの台湾人が働いていたという話ですが、どのようにまとめて行ったのですか。
*『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』2015年11月27日公開(企画・監督・ 脚本:本郷義明  原案:三木健)

監督 2013年~2014年頃、1年半くらいかけてリサーチしました。会って話を聞いて、興味を持った人たち、家族を追いかけてみようというところから始まりました。いきなりどういう話、どういう映画、誰が主人公というのは、早い段階では決められなかった。橋間良子さんには2014年から何回かあって、話を聞くところから始まりました。『海の彼方』も含めて「八重山の台湾人」をまとめる中で、いくつかの話を同時進行の形で進めました。
2014年~2015年は数か月に1回、インタビューを中心に1週間を越えない程度の訪問でした。本格的に生活のシーンも含めて撮りたいと思ったのは2016年くらいでした。知り合って2年くらいかかりました。

☆西表島の炭鉱の成り立ち

― 台湾から来た人たちは台中などからの人たちが多かったと書いてありましたが、台湾の北部も炭鉱がけっこうありましたよね? 九份とか金瓜石あたりの鉱山からも来ていたのですか?
*参考記事
台湾ロケ地めぐり 平渓線沿線『台北に舞う雪』公開記念
http://www.cinemajournal.net/special/2010/pingxi/index.html

監督 九份とか金瓜石は金山でしたので、こちらの鉱山から来た人はほとんどいませんでした。西表は石炭の炭鉱でしたから。同じ北部でも基隆あたりの炭鉱から来ている人が多かったです。人力掘りでやっていた人たちです。九州の炭鉱は当時東洋一と言われて機械掘りもありましたが、西表は人力が頼りの炭鉱でした。

― 最盛期の大正時代には1000人以上の坑夫が働いていたそうですが、良子さんのお父さんは台湾人親方として台湾人を募って連れてきたのですか?

監督 そうです。西表の炭鉱は九州の炭鉱から流れてきた人が多く、半分くらいは九州からの人たちでした。なので、九州での炭鉱の制度とか見習っていたようです。その他、台湾、朝鮮、沖縄本島からの人もいたのですが、西表とはいえ九州色が強かったようです。

― 西表島の炭鉱はどの辺にあったのでしょう。いくつもあったのですか? 白浜のまわりだけ? けっこう鉱脈のよい炭鉱だったのでしょうか?

監督 そうです。何か所もあったんです。白浜、内離島、浦内川周辺が多かったようですが、たくさんの炭鉱があり、いろいろな会社が経営していました。

― 太平洋戦争が終わって、炭鉱はなくなったのですか?

監督 戦後は米軍政府の統治下になり続けていたのですが、1960年代初めには閉山しました。

― 石炭から石油の時代に変わっていった時代でもありますね。

監督 九州、北海道、基隆も1970年代まで炭鉱はありましたが、米軍政府はそんなに積極的には進めなかったのでしょう。

*参考記事 シネマジャーナルHP 
『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー

☆橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)と家族のこと

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.

― そんな中、良子さんは親方であった養父に連れられて10歳の時に西表島に来たわけですね。
*後の連絡より おばあの養父は1936年(昭和11年)に先に西表島に来て、1937年(昭和12年)に家族全員を連れて来たそうです。おばあは10歳で来たと言いましたが、年表的には11歳が正しいようです。

監督 彼女たちは1回台湾に疎開していますし、戦後、台湾に戻ったのですが、二・二八事件の影響があって、また八重山に戻ってきました。でも、すぐには戻ってくることができなくて、だいぶ待機してから戻ってきました。それは正規には戻って来ることはできなかったからです。その当時、あのあたりは密貿易が盛んだったので闇のルートがあったのです。8年ほど住んでいた西表に戻ってきましたが、無国籍になってしまいました。

― 沖縄が日本に返還された1972年まで、台湾人の人たちは無国籍状態だったんですね。良子さんは10歳の時に親方の養女になって西表に来ましたが、実は親方の家の許嫁だった。なので後に兄と結婚することになり、戦後、やはり親方一家と共に西表に戻ってきた。そして西表に戻ってきた時にはすでに子供もいたのですね。

監督 そうなんです。だから戻って来るしかなかったんです。それで日本に70年以上暮らしていたんです。

― 良子さんの家の隣にある離れを借りて住んでいたアメリカ人の青年ルイスはどんな人なんでしょうか? 1977年に西表島に行った時、バスで島を1周しました。この映画に出てきたあたりも通ったはずなのですが、あの頃で閉山からすでに15年くらい。見覚えのあるような景色も出てきましたが、炭鉱はすでにジャングル(緑の中)に覆われていて、ちゃんと踏み込まなくはわからない状態だったのでしょう。ルイスが炭鉱跡から拾ってきたファンタのビンは、まさに私が中学校、高校時代(1960年代)に飲んでいたビンでした(笑)。

監督 ルイスの両親が日本に来て、日本育ちの青年です。始めはお父さんを訪ねて沖縄に来たのですが、西表には6年くらいいたようです。良子おばあのところにはそのうちの最後の1年くらい住んでいました。

― 戦前は台湾から八重山に移り住んだ人がいましたが、戦後、日本では1960年代以前は、そんなには旅行に行けなかったけど、60年代以降、旅行に行く人が多くなり、行ったところが気に入って住んでしまう人が増えました。私が西表島や石垣島に行った1977年頃は、都会から来て八重山に移り住んでいた人がたくさんいました。

監督 そうなんです。離島に行くと都会から移り住んだ人にたくさん会います(笑)。

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☆観光地だけでない沖縄を伝えていくこと

― 都会から地方に移り住んで、良いことと面倒なこと、両方ありますよね。この映画にも出てきましたが、繋がりや人間関係が強い分、寄付とかが断りにくかったりして良子さんも困っていましたね。
沖縄本島や八重山は、今や観光地として本州から来る人も多いですが、風光明媚な場所というだけでなく、沖縄の歴史、背負ってきたものをぜひ知ってから行きたいですね。こういう映画で観光地だけでない沖縄や八重山のことを知ってほしいです。


監督 そうですね。観光業の人の中には、沖縄の負の歴史をあまり出したくない人もいます。そういうことが、こういうことがあまり知らされていないことにつながっていると思います。島の人たちにとっても昔の歴史で、残そうという人は少ないです。これは外から来た人の歴史であって、島の人の歴史ではないから、あまり出してほしくないという人もいました。一番詳しいのは三木健さんで、長年調べています。

― でもやっぱり八重山の歴史ですよね。何十年もたたないと語られないし、やっと語れるようになったけど、でも早くしないと語れる人もいなくなってしまう。今、記録を残しておかないと。

監督 私が調査を始めた2013年に調査した時点で数人いた状態でした。良子おばあでぎりぎりでした。もっと若い人は記憶があっても若すぎて状況がわからず語れなかったでしょうね。

― 「八重山の台湾人」3部作の2作目が『緑の牢獄』ですが、3作目はどんな進行状態なんですか?

監督 はい、平行して撮っています。もう1作撮っていたのですが、あるいはもっと増えていくかも(笑)。「八重山の台湾人」というくくりですが、もっと家族の物語になるものを長いスパンで撮りたいなと思っています。このシリーズで4作になるかもしれない(笑)。『海の彼方』に出てきた「龍の舞」を踊っていた人たちを追求してみたいです。このコロナ禍が過ぎたら、また追いたいと思います。

― なかなか形にならなくて大変かと思いますが、「とっかかってしまったのでやらなきゃ」という思い、大切ですね。

監督 時間をかけて撮ってみて、この『緑の牢獄』を編集した時に思ったのですが、2014年の映像と2015年の映像の違いに気がつきました。やはり長く撮ることで、良子おばあの表情が違っていました。長く撮り続けることで、おばあとの関係が深くなり、映像が違っていました。2014年当時はわからなかったけど、2015年~2017年に撮った映像と比べるとわかりました。短時間で撮るものは関係性が薄い。時間をかけることで映像が違ってきます。ムーリンプロダクションは沖縄と台湾をつなげることができる映画を作る会社にしていきたいと思います。

2021年製作/101分/日本・台湾・フランス合作
配給:ムーリンプロダクション、シグロ

著書 :「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」
監督自身のドキュメンタリーの制作理念やアプローチなど内面をも詳細に語ったエッセーが妥協のない言葉で綴られ、映画だけでは伝えきれなかった記録の集大成となっている。
著者 : 黄インイク(コウインイク)
訳者 : 黒木 夏兒
定価 : 本体1,800円+税
体裁 : 四六版/並製/336ページ
ISBN : 978-4-909542-32-8 C0021
販売店: 書店、オンライン書店、イベント会場
発行 : 五月書房新社
URL  : https://www.gssinc.jp

●取材を終えて
「八重山の台湾人」をテーマにした壮大な作品構想。監督本人も沖縄に移住しての作品作り。並大抵のことではできません。それにしても、沖縄に対して思い入れのある私にとっても西表島にかつて炭鉱があって、日本人だけでなく、台湾や朝鮮半島からの坑夫も働いていたというのは驚きでした。パイナップルの時は、1977年に石垣島に行った時にたくさんのパイナップル畑があってわかったのですが、炭鉱に関しては全然知らず、しかも2017年に知ったというしだい。そんな歴史もあったということ。八重山に住む台湾系の人たちが今でもたくさんいることに思いをはせたいと思いました。「西表島の炭鉱は九州色が強かった」ということを聞いて、私が1970年に就職したブリヂストン小平工場(当時、従業員が4000人くらいいました)のことを思い出しました。ブリヂストンは九州・久留米が発祥の地。東京都小平市にある工場での標準語が九州弁(久留米弁?)でした。なので東京の人がわざわざ九州の言葉を覚えてしゃべっていました(笑)。ほんとに九州色の強い会社でした。
黄監督は、これからもこのテーマに繋がる作品を撮り続けていきたいと言っているので、また次の作品もぜひ観たいです。沖縄、八重山に43年前に行ったのですが、久しぶりにまた行ってみたくなりました(暁)。