『緑の牢獄』黄インイク監督インタビュー

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2021年3月27日沖縄桜坂劇場先行ロードショー
2021年4月3日より ポレポレ東中野ほか全国順次公開
ポレポレ東中野公開 舞台挨拶予定

『緑の牢獄』
沖縄・八重山諸島にある西表島には1886(明治19)年頃~1960(昭和35)年頃まで石炭を採掘する炭鉱があった。炭鉱がいくつもでき、日本人だけでなく、戦前、日本の植民地だった台湾や朝鮮からも人を集めた。朝鮮人坑夫もいたけど、台湾人坑夫の方が多かったという。大正時代には、坑夫は1000人以上になった。しかし、坑夫たちは過酷な労働やマラリアにかかり、たくさんの人が亡くなった。坑夫たちは過酷な労働に耐えるため「モルヒネ」漬けになったり、借金まみれになり、「緑の牢獄」から抜け出すことができない人も多く、彼らを連れて来た親方はそういう人たちの面倒を見るような立場でもあった。次第に炭鉱はすたれ、戦後の一時期、米軍政府が石炭採掘を試みたけど長くは続かなかった。廃坑の周りはすでにジャングルに飲み込まれ、自然に戻りつつある。そして廃坑近くに住む90歳の橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)。彼女は、坑夫たちの親方だった養父に連れられ、10歳で台湾から来て人生のほとんどをこの島で過ごし、たった一人で家と墓を守っている。

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.


『緑の牢獄』HPから
沖縄を拠点として活動する黄インイク監督が7年の歳月を費やした渾身の一作『緑の牢獄』。本作は企画段階で既にベルリン国際映画祭、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭の企画部門に入選。前作『海の彼方』に続き、植民地時代の台湾から八重山諸島に移住した“越境者”たちとその現在を横断的に描く「狂山之海」シリーズの第二弾。

シネマジャーナルHP『緑の牢獄』 作品紹介
『緑の牢獄』公式HP

黄インイク監督インタビュー
取材・写真 宮崎 暁美

黄インイク(黃胤毓/ホァン・インユー)監督プロフィール 
書籍「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」より
沖縄在住、台湾出身の映画監督・プロデューサー。東京造形大学大学院映画専攻修了後、台湾と沖縄を拠点とする映画製作・配給会社「ムープロ」(台湾と日本でそれぞれ「木林電影」「株式会社ムーリンプロダクション」)を設立、映画活動を行う。長編ドキュメンタリー作品『海の彼方』(2016年)、『緑の牢獄』(2021年)。石垣島ゆがふ国際映画祭プログラムディレクターを務める。
この映画の制作過程で得たフィールドワークの調査結果や新事実を多数掲載した著書「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」を発行。

☆「八重山の台湾人」製作過程
 
編集部 西表島に炭鉱があったということは、2017年の大阪アジアン映画祭での『海の彼方』上映後のトークで黄インイク監督が話していたので知りました。黄監督は「八重山の台湾人」という作品の壮大な計画を話していました。その時に名刺交換して、それから何度か『緑の牢獄』の進行状況などのメールをいただきましたが、いつ頃公開されるのだろうと思っていたところ、今年(2021年)の大阪アジアン映画祭で上映されることを知ったのですが、今回新型コロナウイルスの影響で大阪アジアン映画祭には行けなかったので観ることができず残念に思っていたら、4月公開を知り連絡したしだいでした。
監督はいつ頃台湾から沖縄に渡った人たちのことを知り、この「八重山の台湾人」と取り組みはじめ、この『緑の牢獄』の公開にこぎつけたのでしょう。

*『海の彼方』黄インイク監督作品 2017年8月12日公開 公式HP 

黄監督 台湾にいた頃から、八重山に移住した台湾人のことは知ってはいましたが、日本に留学してから具体的に興味を持ち、2013年頃~2014年頃にリサーチし始め、八重山、沖縄、あるいは関連した場所に行き、150人くらいにインタビューしました。その後、2014年頃から撮り始めました。この作品の主人公・橋間良子(江氏緞)さんの映像は主に2015年前後に撮ったものを使っています。

― 私は1977年(43年前)に2週間くらい沖縄に行ったのですが、その時に石垣島、西表島にもそれぞれ4日くらい行きました。そのあとは沖縄には行っていないのですが、沖縄や八重山の歴史に興味を持ってきたのに、台湾からの移住者がいるということは知りませんでした。そのことを知ったのは2015年に公開された『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』によってでした。この作品と黄監督の『海の彼方』の2作品は八重山にパイナップルを伝えた台湾人の話でしたが、今回の『緑の牢獄』は、西表島に炭鉱があって、そこでたくさんの台湾人が働いていたという話ですが、どのようにまとめて行ったのですか。
*『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』2015年11月27日公開(企画・監督・ 脚本:本郷義明  原案:三木健)

監督 2013年~2014年頃、1年半くらいかけてリサーチしました。会って話を聞いて、興味を持った人たち、家族を追いかけてみようというところから始まりました。いきなりどういう話、どういう映画、誰が主人公というのは、早い段階では決められなかった。橋間良子さんには2014年から何回かあって、話を聞くところから始まりました。『海の彼方』も含めて「八重山の台湾人」をまとめる中で、いくつかの話を同時進行の形で進めました。
2014年~2015年は数か月に1回、インタビューを中心に1週間を越えない程度の訪問でした。本格的に生活のシーンも含めて撮りたいと思ったのは2016年くらいでした。知り合って2年くらいかかりました。

☆西表島の炭鉱の成り立ち

― 台湾から来た人たちは台中などからの人たちが多かったと書いてありましたが、台湾の北部も炭鉱がけっこうありましたよね? 九份とか金瓜石あたりの鉱山からも来ていたのですか?

監督 九份とか金瓜石は金山でしたので、こちらの鉱山から来た人はほとんどいませんでした。西表は石炭の炭鉱でしたから。同じ北部でも基隆あたりの炭鉱から来ている人が多かったです。人力掘りでやっていた人たちです。九州の炭鉱は当時東洋一と言われて機械掘りもありましたが、西表は人力が頼りの炭鉱でした。

― 最盛期の大正時代には1000人以上の坑夫が働いていたそうですが、良子さんのお父さんは台湾人親方として台湾人を募って連れてきたのですか?

監督 そうです。西表の炭鉱は九州の炭鉱から流れてきた人が多く、半分くらいは九州からの人たちでした。なので、九州での炭鉱の制度とか見習っていたようです。その他、台湾、朝鮮、沖縄本島からの人もいたのですが、西表とはいえ九州色が強かったようです。

― 西表島の炭鉱はどの辺にあったのでしょう。いくつもあったのですか? 白浜のまわりだけ? けっこう鉱脈のよい炭鉱だったのでしょうか?

監督 そうです。何か所もあったんです。白浜、内離島、浦内川周辺が多かったようですが、たくさんの炭鉱があり、いろいろな会社が経営していました。

― 太平洋戦争が終わって、炭鉱はなくなったのですか?

監督 戦後は米軍政府の統治下になり続けていたのですが、1960年代初めには閉山しました。

― 石炭から石油の時代に変わっていった時代でもありますね。

監督 九州、北海道、基隆も1970年代まで炭鉱はありましたが、米軍政府はそんなに積極的には進めなかったのでしょう。

*参考記事 シネマジャーナルHP 
『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー

☆橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)と家族のこと

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.

― そんな中、良子さんは親方であった養父に連れられて10歳の時に西表島に来たわけですね。
*後の連絡より おばあの養父は1936年(昭和11年)に先に西表島に来て、1937年(昭和12年)に家族全員を連れて来たそうです。おばあは10歳で来たと言いましたが、年表的には11歳が正しいようです。

監督 彼女たちは1回台湾に疎開していますし、戦後、台湾に戻ったのですが、二・二八事件の影響があって、また八重山に戻ってきました。でも、すぐには戻ってくることができなくて、だいぶ待機してから戻ってきました。それは正規には戻って来ることはできなかったからです。その当時、あのあたりは密貿易が盛んだったので闇のルートがあったのです。8年ほど住んでいた西表に戻ってきましたが、無国籍になってしまいました。

― 沖縄が日本に返還された1972年まで、台湾人の人たちは無国籍状態だったんですね。良子さんは10歳の時に親方の養女になって西表に来ましたが、実は親方の家の許嫁だった。なので後に兄と結婚することになり、戦後、やはり親方一家と共に西表に戻ってきた。そして西表に戻ってきた時にはすでに子供もいたのですね。

監督 そうなんです。だから戻って来るしかなかったんです。それで日本に70年以上暮らしていたんです。

― 良子さんの家の隣にある離れを借りて住んでいたアメリカ人の青年ルイスはどんな人なんでしょうか? 1977年に西表島に行った時、バスで島を1周しました。この映画に出てきたあたりも通ったはずなのですが、あの頃で閉山からすでに15年くらい。見覚えのあるような景色も出てきましたが、炭鉱はすでにジャングル(緑の中)に覆われていて、ちゃんと踏み込まなくはわからない状態だったのでしょう。ルイスが炭鉱跡から拾ってきたファンタのビンは、まさに私が中学校、高校時代(1960年代)に飲んでいたビンでした(笑)。

監督 ルイスの両親が日本に来て、日本育ちの青年です。始めはお父さんを訪ねて沖縄に来たのですが、西表には6年くらいいたようです。良子おばあのところにはそのうちの最後の1年くらい住んでいました。

― 戦前は台湾から八重山に移り住んだ人がいましたが、戦後、日本では1960年代以前は、そんなには旅行に行けなかったけど、60年代以降、旅行に行く人が多くなり、行ったところが気に入って住んでしまう人が増えました。私が西表島や石垣島に行った1977年頃は、都会から来て八重山に移り住んでいた人がたくさんいました。

監督 そうなんです。離島に行くと都会から移り住んだ人にたくさん会います(笑)。

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☆観光地だけでない沖縄を伝えていくこと

― 都会から地方に移り住んで、良いことと面倒なこと、両方ありますよね。この映画にも出てきましたが、繋がりや人間関係が強い分、寄付とかが断りにくかったりして良子さんも困っていましたね。
沖縄本島や八重山は、今や観光地として本州から来る人も多いですが、風光明媚な場所というだけでなく、沖縄の歴史、背負ってきたものをぜひ知ってから行きたいですね。こういう映画で観光地だけでない沖縄や八重山のことを知ってほしいです。


監督 そうですね。観光業の人の中には、沖縄の負の歴史をあまり出したくない人もいます。そういうことが、こういうことがあまり知らされていないことにつながっていると思います。島の人たちにとっても昔の歴史で、残そうという人は少ないです。これは外から来た人の歴史であって、島の人の歴史ではないから、あまり出してほしくないという人もいました。一番詳しいのは三木健さんで、長年調べています。

― でもやっぱり八重山の歴史ですよね。何十年もたたないと語られないし、やっと語れるようになったけど、でも早くしないと語れる人もいなくなってしまう。今、記録を残しておかないと。

監督 私が調査を始めた2013年に調査した時点で数人いた状態でした。良子おばあでぎりぎりでした。もっと若い人は記憶があっても若すぎて状況がわからず語れなかったでしょうね。

― 「八重山の台湾人」3部作の2作目が『緑の牢獄』ですが、3作目はどんな進行状態なんですか?

監督 はい、平行して撮っています。もう1作撮っていたのですが、あるいはもっと増えていくかも(笑)。「八重山の台湾人」というくくりですが、もっと家族の物語になるものを長いスパンで撮りたいなと思っています。このシリーズで4作になるかもしれない(笑)。『海の彼方』に出てきた「龍の舞」を踊っていた人たちを追求してみたいです。このコロナ禍が過ぎたら、また追いたいと思います。

― なかなか形にならなくて大変かと思いますが、「とっかかってしまったのでやらなきゃ」という思い、大切ですね。

監督 時間をかけて撮ってみて、この『緑の牢獄』を編集した時に思ったのですが、2014年の映像と2015年の映像の違いに気がつきました。やはり長く撮ることで、良子おばあの表情が違っていました。長く撮り続けることで、おばあとの関係が深くなり、映像が違っていました。2014年当時はわからなかったけど、2015年~2017年に撮った映像と比べるとわかりました。短時間で撮るものは関係性が薄い。時間をかけることで映像が違ってきます。ムーリンプロダクションは沖縄と台湾をつなげることができる映画を作る会社にしていきたいと思います。

2021年製作/101分/日本・台湾・フランス合作
配給:ムーリンプロダクション、シグロ

著書 :「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」
監督自身のドキュメンタリーの制作理念やアプローチなど内面をも詳細に語ったエッセーが妥協のない言葉で綴られ、映画だけでは伝えきれなかった記録の集大成となっている。
著者 : 黄インイク(コウインイク)
訳者 : 黒木 夏兒
定価 : 本体1,800円+税
体裁 : 四六版/並製/336ページ
ISBN : 978-4-909542-32-8 C0021
販売店: 書店、オンライン書店、イベント会場
発行 : 五月書房新社
URL  : https://www.gssinc.jp

●取材を終えて
「八重山の台湾人」をテーマにした壮大な作品構想。監督本人も沖縄に移住しての作品作り。並大抵のことではできません。それにしても、沖縄に対して思い入れのある私にとっても西表島にかつて炭鉱があって、日本人だけでなく、台湾や朝鮮半島からの坑夫も働いていたというのは驚きでした。パイナップルの時は、1977年に石垣島に行った時にたくさんのパイナップル畑があってわかったのですが、炭鉱に関しては全然知らず、しかも2017年に知ったというしだい。そんな歴史もあったということ。八重山に住む台湾系の人たちが今でもたくさんいることに思いをはせたいと思いました。「西表島の炭鉱は九州色が強かった」ということを聞いて、私が1970年に就職したブリヂストン小平工場(当時、従業員が4000人くらいいました)のことを思い出しました。ブリヂストンは九州・久留米が発祥の地。東京都小平市にある工場での標準語が九州弁(久留米弁?)でした。なので東京の人がわざわざ九州の言葉を覚えてしゃべっていました(笑)。ほんとに九州色の強い会社でした。
黄監督は、これからもこのテーマに繋がる作品を撮り続けていきたいと言っているので、また次の作品もぜひ観たいです。沖縄、八重山に43年前に行ったのですが、久しぶりにまた行ってみたくなりました(暁)。