*プロフィール*
1973年9月14日 京都市伏見区生まれ。
映像制作を学びフリーのディレクターとして、吉本興業芸人(主に幼なじみであるブラックマヨネーズ 吉田 敬)の劇場用VTRやコントなどを制作する。
ブラックマヨネーズ 吉田 敬と共同制作した自主制作映画『ドラゴンマーケット』で初監督、第3回インディーズ・ムービー・フェスティバルで審査員特別賞を受賞。ロックバンド“騒音寺”のPVを手掛けるなど、関東で商業ディレクターとして活動した後、関西へ活動拠点を戻す。
2005年、映画『秋桜残香』でデビュー。
2012年には長編映画『傘の下』を公開、プロデューサー/監督を務めた。
西成に実在する中学校をモデルにした、『かば』は足掛け7年にわたっている。
2014年から2年間の取材活動ののち、制作中止の危機を迎えるなど紆余曲折を経るも、支援者の輪が広がり、2017年には趣旨に賛同したスタッフ、俳優が集まり、パイロット版が完成する。前作『傘の下』同様、「人と人が向き合い理解する大切さ」を描くこの作品は、未来を変える力があると信じ、日本全国を周って上映会や講演を行なってきた。満を持して7月に公開。
『かば』
制作総指揮・原作・脚本・監督:川本貴弘
2021年製作/135分/日本
配給:「かば」製作委員会
(C)「かば」製作委員会
https://kaba-cinema.com/
作品紹介はこちらです
2021年7月24日(土)より新宿 K’s cinemaほか全国順次公開
東京の試写と宣伝活動のために上京された川本貴弘監督にお話を伺いました。ネタバレ部分もありますので、避けたい方はご注意ください。
―映像の世界に来られたのは?僕は監督しようと思ってたわけではないんです。映画学校とか大学とか行ってないんで、高校も行ってなくて中卒で働いていました。家が京都で、叔母が京都東映の撮影所の勝組のスクリプターをしていたんです。それで俳優になりたいなぁみたいな。ぼや~っと(笑)。何もやってないですけど。
その当時、僕らが20代のころは自主製作映画と商業映画がはっきり分かれてました。友達同士でカメラ買ってきて、遊びで撮っていたのがきっかけです。それが20代前半。最初は自分が出たいから始めたんですが、監督をする人が誰もいない。しかたないから言い出しっぺの僕が監督をすることになったんですが、そしたら監督のほうが面白くなってきて。みんな言うこと聞くんで(笑)。僕の場合はそういう志が低いところから入っているという。
―『竜二』(1983)がお好きだと知ったんですが、そのころご覧になったんですか?好きですね。観たのは20代の初めころですね。友達からこんなのがある言うて『仁義なき戦い』(1973)とかヤクザ映画を観ました。『竜二』にはめちゃくちゃハマった。自主映画とあったので、自主映画でもやっていけるんや、とそこからですね。
―こういう映画が作りたいと思われた?いやー、ヤクザ映画はないかな(笑)。ヤクザ映画は好きだけど、ヤクザが好きなわけではないんで。まあでも、そういう人間ドラマは撮りたいなと思っていました。ただそのころ脚本もうまく書けなかったし、別にどこかで学んだわけでもないし、誰かのお弟子についたわけでもなくて見様見真似でやっていただけ。
『かば』は7年前、41歳になったころから始めたんです。年齢的にこれは最後になるやろなぁと思ったんで、しっかり取材してしっかりした人間ドラマを作ろうと思ったんが『かば』が最初っちゃ最初です。
―蒲先生のことを知ったのは?「蒲先生の伝記映画を撮ってくれませんか」という話があってそれで初めて蒲先生のことを知りました。そのときもう蒲先生は亡くなってはったから「どういう先生なん?」て聞いたら、お葬式に何百人も集まってと。「ふーん、すごい先生がいたんだ」くらい。取材してみようかとなって、蒲先生が西成の先生だったと知って、それから同僚だった先生方に出会うことになるんです。そこからかな、具体的に動き出して来たんは。同僚の先生方と、人権教育、被差別部落について、在日差別についてとか、勉強…勉強させられましたというほうがいい(笑)。まだ全然知らなかったんで。ま、元教師ですからね。本を何十冊も読まされました。映画作りについては何も言わないんですけど、人権教育のほうはね。毎回飲んでましたね。先生方もう退職してヒマやから(笑)。
僕の親父くらいの、60代後半から70代初めくらいの。蒲先生ご存命だったら、68,9です。
―舞台をピンポイントで1985年にしたのはなぜでしょう?蒲先生が79年から89年は西成にいたという話やったんです。85年にしたのは、単純に阪神タイガースが優勝した年だから(笑)。優勝は一回だけなんで一番わかりやすいかな思って。バブル全盛期やって、世の中浮かれてるときに、そういうしんどい思いをしてる子もいるんだよ、っていいたくてその辺にした。
―タイガースの優勝は私でも覚えています。85年って字幕で書くよりはね。これ今じゃないんだとわかる。
―今じゃない時代を舞台にすると、ロケーションとか時代考証とか大変じゃないですか? 現地の映像はCGで消したりされたんですか?けっこう消してますよ。ビルが建っているからね。これはないやろとビルは全部消しましたね。
バスのシーンでも…バスは借りていますけど、余計な文字は全部消してます。
―経費が余計にかかりますね。自主映画と聞いていたので、大変だったろうなと。めちゃめちゃかかりました(笑)。予算は4000万以上集めました。かき集めたというか。撮影現場には2500万くらい、それなりにはかけてるんですけど、まあまあまあ、もうちょっとあったらもっと完璧にできていたかなみたいな。やれるところまではやりました。
―出来上がるまでに7年かかったそうですが、やはり製作費集めるのに時間がかかったということですか?一番の理由はそこですね。
―まず蒲先生がいて、同僚、生徒、その親や家族、卒業生。蒲先生を中心にいろんな人を描くというのが最初からのテーマでしたか?そうです。蒲先生の自伝映画を撮る気はなくて、蒲先生、当時の先生方、生徒、親御さんも含む群像劇ならやってもええかなと考えたんで、初めっからそういう風にするつもりでした。
―主役がいっぱいいる映画だなぁ、蒲先生はタイトルですが、どっちかというと狂言回しのようなみんなを繋ぐ役割だなぁと見ていました。そうですねぇ。タイトルの『かば』は仮だったんです。みんなにも言われたんですよ。僕が一番思ってたのは『チャンソリ』です。僕の地元で不良どもがシンナーのことをそう言ってたんですよ。
―朝鮮語=韓国語ですか?アンパンじゃなくて。「アンパン」はもっと上の先輩が言ってたんです。僕のときは「チャンソリ」。後で聞いたら「チャンソリ」は韓国、朝鮮の言葉で「たわごと」とかいう意味って。そしたら『パッチギ!』と似てると却下されました。いろんな案が出たんですけど、結局なんかピンとこないなとなって、『かば』でええか!(笑) 蒲先生から始まったことでもあるし。
(*後でググったらシンナーのことを関西では「チャンソリ」、主に関東で「アンパン」と呼んでいたようです)―インパクトあっていいですよ。覚えやすいです。今となっては、良かったと思ってます。「なんで”かば”?」「蒲先生っていたんだ」とそこから話も拡がりますし。
―監督の話されてる言葉は京都弁ですか?僕はちょっと大阪弁入ってますね。京都でも南のほうなんですよ。伏見区言うて。ちょっと大阪寄りっちゃ大阪寄り。やっぱり京都弁っぽくないってよく言われます。(笑)
―あの時代だから携帯持っている姿がないのが良かった(笑)。道路許可とっていますけど、ゲリラ撮影です。どうしても人が映ります。携帯持って歩いてる人が入ったらすぐカメラ止めて「カットカット!」。それだけは徹底しました。スマホだけはあったら絶対言うてくれ、て。
―未来人になっちゃいますよね。
舞台になるところで(時代的に)要らないものを消して、あと撮影で気を遣ったのは何ですか?撮影で気を遣ったのはいっぱいあるんですけど、子どもたちの芝居かな。経験の少ない者ばっかりやったんで。ま、当たり前なんですけど。半年くらいリハーサルしたんかな。週3回か4回。
―生徒さん役は役者さんでなくて、監督が発掘したんですか?いいえ、プロダクションの子たちです。素人はいない。
裕子ちゃんの妹いるでしょ。ちいちゃい。あの子ですら一応舞台女優です。お母さんお父さんが役者なんです。何度か舞台に出ている。
―みなさんオーディションですか?
もう脚本があって、裕子ちゃん、由貴さん・・・と、イメージで決めていかれましたか?「やる気」ですね。そうやってイメージ作っちゃうと探さなダメなんで。写真を選ぶようになるじゃないですか。ちゃんと決めずに話をして、こいつやる気あるかな?とか。これはたぶん長くかかるので、途中でほっぽられると困るし、「とことんやります」くらいの奴じゃないとダメ。イメージよりは「やる気」ですね。
―いつごろのことですか?キャスティングは2019年4月くらいです。撮影は11月。コロナ前です。
脚本は完全にできあがっていて、4月から11月まで7カ月くらいの間に徹底的にリハーサルしたので、NGなかったです。子どもたちはね(笑)。
―子どもたちはオーディションで。大人の俳優さんたちは?元々知ってる人たち。東京にも長く住んでいたんで、たとえば石川雄也くんとか、牛丸亮や木村知貴とか昔から知っている飲み友達。「俺、これが最後になるかもしれんからやってみる?」言うて。主人公の山中アラタくんだけが紹介でした。彼はパイロット版から撮ってるんですけど、2017年かな。決めたポイントは「たたずまい」。タッパ(身長)もあったし、立っているだけでいい。演技力とかいうよりも雰囲気ですね。彼が主人公の『コントロールオブバイオレンス』も見させてもらって。たしかそれも大阪西成が舞台だったはず。元々大阪なんで関西弁もいいし、即決しましたね。
―ではヒロインのちゃー子さん(加藤先生)は?彼女の決め手はね。最後のノックのシーンね、子どもたちに必要以上にノックする。あそこをどうしてもやりたかったから、”しっかりバットを振れるかどうか”で決めました。
―学生時代ソフトボール選手で4番という設定でした。バット持ったこともなかったんですよ。「2ヶ月間だけ猶予を与える」と。バットを買い与えて、「2ヶ月経って腰が引けてたらクビ!」。そしたら手ぇマメだらけにして必死にやってきましたよ。
―えー!追い詰めたんですね。追い詰めましたね。「どうしてもこの役がほしかったら、バット思い切り振ってこい」って。だからルックスよりも、演技力よりも、いかにバットが振れるか(笑)。
―ほんとに当たってました。ノックはほんまにやってますよ。ホームランはさすがに…ですが(笑)。
―ノック難しいですよね。けっこう難しいですよ。僕は野球経験者なんですけど、経験者でもなかなかしっかり当たらないんですからね。
―もともと素質や経験があったのかと思っていました。妹さんがソフトボールやってて、お父さんも野球やったことがある。それで家族に教えてもらったらしいです。だからラッキーやったですね、彼女。
―繁君の頭に当たったとき心配しちゃいました。中学は硬球じゃないので。ゴムですから大丈夫です。
―部員の子どもたちは野球やったことがあったんですか?いや、特にあの繁、ピッチャー役の。野球やってないです。
―やっぱりやらせましたか?やらせました。演技力よりもそっち(笑)。ピッチャーがへなちょこやったらねぇ。ただ、あの子たちは弱い、それを加藤先生が鍛えるという設定やったんで、多少下手でもええけど、やったことないみたいなのはわかんぞ、みたいな。
繁役には「できひんかったら、お前違う役やぞ」って。だからイメージ作らなかったんですよ。「誰が番長役やってもええし、野球できひんかったら後ろのほうに回すぞ」。だから役を取りに来てましたね。
―なるほどー。撮影始まる前にそれぞれ特訓していたんですね。それをやらないとなめてくるんで(笑)。自分が主役取った!みたいな感じになるので「お前たち最後までわからんぞ」て言うとく。子どもたちどうやって奮い立たせるかって。
―監督はそういうのをどこで培ってこられたんですか? え、わかんない。なんでやろ? 先輩に言われてきたんかな(笑)。学んだことではないですけどね。
―人を動かすのって才能じゃないですか。うーん、みんな子どもくらいの年齢なんですけど、ほとんど子ども扱いはしなかった。友達のように付き合って、最初は僕のことびびってたけど、最後の方は懐いてきてたし。まあ叱るとこは叱るし、手えあげたりはしないけど、教育するとこはするし、ほめるとこはほめるし。
―あ、それ蒲先生と生徒の関係みたいです。そう、そうなんですよね。自然とそういう感じでやってましたね。
僕も若い人好きやし、ご飯に連れて行ったし。僕は独身で子どももいないんで、だから子ども好きなんかもしれないですね。自分に子どもあったら、もっと子ども扱いしたかもしれない。僕が大人になりきってないんで(笑)。
―蒲先生の役をやるのにあたって何か?特訓というよりも、「主人公だからと言ってあんまり前に出てこないで受けでいけ」と。タイトルが名前なわけだから、前に出てきたくなるじゃないですか。でもそこは本人も理解してくれて「わかってる」と、気をつけてやっていましたね。
―蒲先生とマッコリを飲む叔父貴さんが、すごく存在感がありました。趙博(チョウ・バク)さんね。あの人はね、モデルになった学校の卒業生なんですよ。バリバリの西成の人で「まんまやんけ」とみんなに言われてました。
―映画の中にはタバコとお酒がたくさん出てきます。あの当時、喫煙はそんなにうるさくなかったですね、ビールを美味しそうに飲む場面も多いです。当時の先生に聞いたら、職員室でも飲んだらしいですよ。放課後になったら冷蔵庫から出して。さすがにそれを映画でやるのはやめたんですが、タバコはリアリティを出すのにやったほうがええで、ということで。酒とタバコはキーワードですね。
蒲先生の周りの先生らは、ご飯いっしょに食べなあかん、酒も飲まなあかんて言うてましたね。家庭を覗かないとなぜ子どもたちが荒れてるのかわからん、とにかく家庭訪問を何回もする。行ったら親御さんに「飯食うて行け」とか言われる。酒とタバコは意識して出しましたね。
―食事やお酒は心を開くのに役立ちますね。西成はもめごとも起こるらしいんですけど、もめてへんのは飯食うてるときだけ、って(笑)。
―由貴さんが抱える問題は、今もそう変わってないように思えます。表立って見えてないんです。今は町も整備されていて、見た目は変っていますが。差別って言うのは、見えなくなっているときのほうが危ないです。「寝た子を起こすな」とか「なかったことにしよう」とする人もいるし、逆に「それじゃダメなんだ。歴史はありのままを未来に残すんだ」という人も。僕はそっち側だったんで、差別用語も書いたんです。
―今の学校は差別についてどう教えているんでしょう?あんまり生徒は知らないみたいです。先生も教えていないんで。他は知らないですけど、大阪は特にね。でも知らないほうが問題。卒業したら絶対わかってしまう。どっちが正しいかは僕もわからないし、難しいですけど、教えるなら中途半端でなく。
あるのはありますからね。就職差別、結婚差別…今でも。
―そういう題材が入っていることで、映画制作の障害になったりしましたか?そうならないように、色々な団体の方々に何回も何回も話しにいきました。そういうのにも時間がかりました。いわゆるその外堀から埋めていかなあかんと。最初は無理やったですね。でもだんだん、だんだん打ち解けて行って。僕が西成に住んで、毎日挨拶したりしていたんで違ってきました。
―蒲先生みたいに日参したんですね。
生徒さんたちが生き生きしてみんな可愛かったです。あの迫力ある良太役の辻笙(つじしょう)君もオーディションですか?いや、あの子はオーディションでなく、紹介です。お父さんお母さんが役者です。さっきの裕子の妹役の子が実の妹で、全員が出ています。
子どもたちに役作りはまかせたんです。その当時、お父さんお母さんの年代やから自分で取材しい言うて。それはやっぱり自分で調べる気持ちがあれば、今はネットとかもあるし、ちゃんと興味を持ちなさい。当時のことを演じるならねと。
―それは辻くんに限らず、全員への宿題だったんですね。そうそう、半年の間に演技の練習もしたけど、自分が3年間取材してきたようにお前たちも取材しろと。差別のことも調べさせました。
当時流行ってた『ビー・パップ・ハイスクール』(1985)、『竜二』も見せましたよ。今の若い子ってあんまり映画観ないから。映画俳優なりたいて言うてんのに。やっぱり観ないとダメだと80年代の映画を観させました。そん中で「自分はこうしたい」「髪型はこう」と言うと「ええんちやう」。
―じゃあ良太のあの髪型も?こっちが指示するとお金出さなあかん(笑)。役作りは自分でやるもんぞ、って自分で決めたんなら美容院代とか自分で払わなあかんよ。「わかりましたー!」って(笑)。
―素直なんですねえ(笑)。裕子ちゃんのお父さんがいつ死んでしまうのかと心配しました。
思いました?
―思いました!お父さん気弱そうなので親子心中したりしないでくれーってハラハラしました。もちろんモデルがいるんです。映画の中で自殺って断定して描くのもしんどいかなと思ったんで、どっちかな?という感じでお客さんの想像に任せる形にしたんです。
あくまで、取材で聞いた話ですけど、西成の人は悪いのでなく、気が弱い人が多いという事です。日雇いだと仕事があったりなかったりで暇つぶしにギャンブルや酒にいってしまう。昔はもっとそうだったと聞きました。生活がそうなると悪循環で、子どもたちにも影響がいくと。
―お父さんがそうだと、お母さんが生活のために水商売に行くことになってという裕子ちゃんの家庭の事情もわかるんですが。お母さんのエピソードは当初なかったんです。追加しました。
蒲先生の同僚の先生方からね、「あのお母さんにもああなった理由があるから、最後はえぇ感じでやったってくれ」と言われた(笑)。
―あのシーンのおかげで救われます。お母さん役の女優さんがそういうエピソードを教えてくれて「それめちゃいいやんけ!」って書いた。お母さんが家庭の味を忘れてないってことで、娘がこの後どうなるかわからないですけど、この親子がなんとか修復していくんとちやうかなぁって思わしたいなあというのがあったんで。それで最後に笑顔で走っていくというのをやりたかった。悪い人間をわざわざ描く必要はないな、と。
―生活が破綻してしまった人にも原因がありますが、それは本人の責任だけじゃないですよね。今はやたらに自己責任と言われますけど。そうですよね。社会の責任もあるし。自分の心が弱いのもあるけれど、やっぱり人間関係っていうのはね。そういうところで向き合っていかなあかんのかなと思います。
今の時代だからこそ、こういう映画は必要なのかなって。希薄やし。自己責任とはちやうやろいう話で。それもあるやろうけど、人は支え合っていきたい。
―監督には振り返って思い出に残る先生がいますか?全くなかったです(笑)。ないっていうか、僕は第2次ベビーブームで、クラス40人で16クラスもありましたからね。すごいでしょ。ちょっとやそっとじゃ先生と(交流なんか)ない。
―監督にも思い出の先生がいてほしかったです。(笑)自分の子どもの頃は学校にも先生にも興味はなかったけど、蒲先生の同僚の先生方と何年も会って話してから、「先生ってええなぁ」と思った。先生って子どもに必要だなぁって。親も必要なんだけど。学校も勉強するだけじゃなく、先生に出会うところ。
―子どもが親以外に長い時間一緒にいる大人です。この映画をしっかり撮ろうと思ったんは、「学校の先生は必要な仕事である」ってことを訴えたかった。
先生だけに押し付けるのではなく、周りの大人たちがもっと協力してやらなあかんし、もっと先生に給料払ったれや、残業代がないって聞いて残業代出したらんかいって。先生に対してもっとリスペクトしてあげてほしいなと、撮ってからですけど思いましたね。
―そうですねえ、子どもの心が柔らかい時代に会う人ですから、一人くらい心に残る人がいてほしいなと思います。うん、子どもにとってね。
―さきほどキャストについて伺いましたが、ロケ場所についてはいかがですか?キャストの顔云々は思い浮かべないですが、ロケハンは徹底的にするタイプなんです。2年、3年くらいかかったかな。こういう川がええなぁとか、こういう道路ないかなぁとか、徹底的に探すんです。見つけるまで。川出てくるでしょ。
僕の大阪のイメージは川です。生まれ育った京都の綺麗な川じゃなくて、運河というか工業地帯の川、西成と大正の間を流れている川がそうなんですけど、いっぱい出したいなと言うのがあって。
実際聞いた話で、由貴の台詞にあるんですけど「橋一本むこうに生まれてたら、こんなな差別にあれへんかったのに」。ええ台詞と言ったらあかんねんけど、ぐっとくる台詞やなぁと思って映画に生かしている。川と橋にはそういうのもあったから。
ポンポン船で渡っていくでしょ、あれタダ、無料なんです。橋が遠いからあれに乗るんですけど、あんなん京都にはないですから。川にこだわるっていうか、川ばっかり探してましたね。
―由貴さんの台詞も取材した中から出てきたんですね。そうです。あの映画に出てくる台詞はほとんど取材です。僕が想像で書いたのはバスのシーンだけなんです。
―そうなんですか! それは7年かけた甲斐がありましたね。徹底的な取材とロケハンとですね。お金集めるのに時間かかったんやろと言われますが、それもありますけど、やっぱり自主製作のいいところは納期も別にないんで、お金がないなら時間かけようと思ったんです。
ゆっくり徹底的に丁寧に取材して、脚本もいろんな人、うちの親や素人にも見てもらって、構成も時間をかけて…3年くらいかけた。だから脚本のこと「いい話書くなぁ」「うまいことまとめるなぁ」って言われたらすごい嬉しいんですよ。時間かけてよかったと思って(笑)。
―ここに原作・脚本とありますけど、本が出ているんですか?いや、手書きで書いてそこから脚本に起こしただけ。小説にはなってないです。ノベライズは今一応書いてますよ。ひょっとしたら売れるんとちやうかなと(笑)。
―ノベライズいいですね。漫画も合いそうな気がします。絵があるといいと思う。「じゃりン子チエ」みたいに。そうですね。ちょっとやろうやって言ってくれる人もいます。面白いと思います。
―監督はカメラマンさんや編集さんとはどういう風にすり合わせされるんですか?絵コンテは書きましたけど、現場に行ったらカメラマンにお任せで、僕は演出しかしない。「ああ撮って、こう撮って」というのはよほどじゃないかぎりやらないです。
編集も違う人。自分ではどうしても切れなくなっちゃうから、脚本のとおりシーンを変えたりとかしないで繋げてってだけ。脚本で計算して構成してますから。
―もう信頼関係ができあがって。僕との信頼関係っていうよりも…ホン(脚本)ですね、ホン!
―ホンとの信頼関係? 脚本は監督が書いていますよね。僕です(笑)。人間同士はもめるけど、ホンでみんな集まったんで。僕を助けようとして集まっただけじゃなくて、「このホンはちょっと残さなあかんのや」ってなったから。
―それはそれで嬉しいですね。そうなんですよ、だからいい映画になったんじゃないかなって勝手に思ってるんですけどね。
役者たちも技術屋さんも脚本を忠実に描こうとした。脚本が先生たちの言葉だったんで、それが僕の想像だったとしたら逆に欠けてたかもしれん。
―言葉が生きてるわけですから。そうそう。だから感動したしね。
―カメラは任せても、監督がカットやOKを出しますね。OKとOKじゃないの境目ってどこでしょう?基本、OKなんです。よほど噛まないかぎり。多少噛んでもリアリティがあるのでOK。あんまりNGはなかったです。特に子どもたちは殆どなかった。
役者が悩んでたら、「何悩んでんねん?じゃあ、ああした方が、こうした方が」くらい。要するに、脚本を大分前から仕上げているんでね。学校の先生の役は特殊な役でもないし。「読んだらわかるやろ。自分にも学校の先生いたやろ。そのままやったらええねん」て。
例えばこれが宇宙人の役とか言うたら、見たことのないものやし監督の頭の中にしかないけど。学校の先生なら好きにやってもらって、それが自分の先生像ならばOKって話です。
子どもたちには徹底して「差別というのはどういうものなのか」を教えました。だから撮影のときには完全に自分の中に入れてきてたんで、もう何も言うことはなかった。
―資料に裕子ちゃん役のさくらさんが「知らなかったことをたくさん勉強しました」とあったんです。リハーサルのほかにそういう勉強もしていたんですね。させたんです。僕が先生方に言われてやったように。だから僕も彼らも勉強になった。
ただ、彼らがこれから商業映画に出るときに「こんなに丁寧にやってくれる監督おらへん」て言うときました。「俺だけやで」って(笑)。
―「最後かもしれない」とおっしゃる、この映画の後の展望は?この映画を持って全国の公民館で上映するのが僕の夢です。映画館だけじゃなく。
映画館ほとんどないところ多いんで。DVD化やネットに流す気もないし、自分で作品とまわるのが僕のスタイルなんで。7年かかったんで後14,5年はそれをやるつもり。今機材も車も買ったし、公民館借りてやったり学校へ行ってやったりとか。
ただDVD配るだけじゃなく、僕が行って上映して、そして問題に対して議論するっていう。
―すぐ反応がありますしね。はい、それが目的やったんで。もちろんかかったもんを回収せなあかんというのもありますけど。「これが最後」っていうのはこれから自分からやることはないっていうこと。この映画をどうやって広めていくかが大事。自分がプロデューサーでもあるんで、長い時間かけてやっていきたいですね。
―これは今観ても、10年後、20年後に観てもいい作品と思います。そうですよね。普遍的な物語でもあるし、人間関係がある限りはこの中にいろんなヒントがある。この映画を止めたらダメだなって。僕くらいはこの映画とずっと一緒にいてもいいかなと思っています。この興行収入で食べていきますから。
―あら、ほかの仕事なしですか?もちろん、もちろん!この映画をまず親に見せたんですけど、納得していましたね。「これはやらなあかん!」て。毎日毎日上映して、活動費と返さなあかんお金と、それくらいは10年かければなんとかなるやろと思てるんで。
―あの「2万人の人が待ってる」っていうその人たちはクラファンの?違います。パイロット版で全国回ってるんですよ。その会場に来てくれた人たちが2万人くらいなんです。だからネットの数じゃない。パイロット版はネットでも流したので、それを入れたらもっとだと思います。
―わぁ、それはすごいです!そのパイロット版を観てくれた人のところに完成した本編を持って行くんですね。そう!だからまわるんです。田舎の人ばっかりやから映画館まで来れないんですわ。そうなると観られない。
―移動映画館ですね。出張映画館(笑)。だから映画館上映も拡がってほしいけど、そこに住んでないと来れないし。パイロット版はけっこう全国まわったので(本編を)毎日やったとしても4年くらいかかる。だからもう、『かば』で一生食べていきます、僕は(笑)。それくらいの気構えでやっています。
勝負はこれからですよ(笑)。家族いたらできないです。僕は独りもんで、子どももいないんで、この映画が子どもと思ってやっていきます。僕が死んでもこの映画がひとりで動くようになるまで浸透させたい。そのくらい威力のある映画だと思てるんで。
―『竜二』もいまだにファンの方いますしね。湯布院映画祭(2021年8月26日~29日)に入って嬉しかったのは、湯布院映画祭で『竜二』がパーッと評判になった。その『竜二』と一緒や!て。
―監督が映画を作るにあたって大事にしていることは?『かば』だけじゃなく? 「取材」ですね。徹底的な取材です。たとえそれがフィクションであっても。
―苦手なこと、得意なことは?ひとつずつ。苦手も得意も一緒になるんですけど。僕人間好きなんで「人間関係」作るのうまいんですけど、けっこうもめるんで下手なのかなと最近思てる(笑)。
―もめるっていうのは、深く入っていって?そうなんですよ、たぶん。僕軽くつきあえない、熱くなるタイプやから、けっこうもめることも多くて、だから得意なんやけど、苦手なのかな。
―そういうときはどうしますか?へこんで、いったん距離置きますね。冷静になってから会ったりはするけど、時間が解決することもあるじゃないですか。
―映画の中の良太と繁みたいに、反目した後仲良くなることもありますね。ああいうのが好きなんで。共通の敵と戦って。
認め合うこともあったし、みんなとみんな合うこともないし。
―そうですね、人生短くて一度だけですし、どうしても合わない人に悩む時間もったいない(笑)。
あ、もう一つ、好きな映画を1本あげてください。『ロッキー』です。『ロッキー1』!!
―長時間ありがとうございました!=取材を終えて=
1時間余りたっぷりお話をうかがいました。川本監督の関西弁もできるだけそのまま書き起こしています。とても熱い心と志を持った方でした。長いですが、二つにわけませんでした。一気に読んでいただければ、熱さと勢いがダイレクトに届くと思います。
難産の末生まれた映画です。川本監督はこの作品を我が子と思って、一生連れて全国めぐるそうです。映画館のないところの皆様、川本監督に声かけてください。公民館や体育館でも上映できます。(取材・写真:白石映子)