『スズさん~昭和の家事と家族の物語』大墻敦(おおがき あつし)監督インタビュー

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*プロフィール*
1963年(昭和38)生まれ。桜美林大学教授。
1986年から2019年まで、NHKのディレクター・プロデューサーとして「文明の道」「新・シルクロード」「Brakeless JR福知山線脱線事故」「二重被爆」などのドキュメンタリーを製作。2018年に監督第一作となる、文化記録映画「春画と日本人」(キネマ旬報ベストテン2018年文化映画 第7位、第74回 毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画部門ノミネート)を劇場公開。現在、2022年の完成を目指して記録映画「国立西洋美術館」を製作中。

『スズさん~昭和の家事と家族の物語』
昭和26年(1951年)に建てられた木造2階建の住宅は、いま「昭和のくらし博物館」となり、当時の人々の暮らしを伝えています。館長の小泉和子さんの実家であるこの博物館には、母・スズさん(1910~2001年)の思い出がたくさんつまっています。娘によって語られる、母の人生。そこには生活の細部に工夫を凝らし、知恵を絞り、家族のために懸命に手を動かしながら生きてきた一人の女性の姿がありました。当時、当たり前に継承されていた経験や生活の知恵は、時代の変化とともに失われつつあります。母から娘へ、娘から今を生きる私たちへ。スズさんが遺してくれた3章からなる物語です。
作品紹介はこちら

監督・撮影・編集:大墻敦
プロデューサー:村山英世、山内隆治
出演:小泉和子(昭和のくらし博物館館長)
ナレーション:小林聡美
2021年/日本/86分/ドキュメンタリー/DCP/
©️映画「スズさん」製作委員会
★2021年11月6日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

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ー映画の始まりは?
私がNHKに在籍していた時代から知り合いだった”記録映画保存センター”事務局長の村山英世さんと、”資料映像バンク”の山内隆治さんが本作のプロデューサーです。たしか2019年12月、記録映画保存センターに「昭和のくらし博物館」の小泉和子先生からフィルムが寄贈されて、私が呼ばれて3人が集まり、これをどう利活用しようかと話し合いました。
ショートクリップみたいなものを作ろうか、教育的なコンテンツにしょうかとかいろんな話もしましたが、どれもあまりピンとこない。小泉先生の本「くらしの昭和史」 (朝日選書)を読んだところ、一家で横浜大空襲を生き抜いた経験談がありました。そういうところからスズさんの人物像が垣間見えて、一言でいうと素晴らしい人だなぁと思いました。
フィルムに残されているのは学術的な家事の記録なので、再構成してスズさんの一生を、横浜大空襲を踏まえて描くということが新しい形になるのかな、と思ったのが映画をつくろうと思ったきっかけです。

―その30年前の映像をご覧になって印象に残った場面はありますか?

場面でいうと、おはぎを作っているところは心温まるなぁと思いました。裁縫は自分でやらないせいもあってすごい技術だな、とは思うんですけども「How To」にはあんまり関心がもてませんでした。何に興味を持ったかというと「手の動き」ですね。お年を召されても手の動きがものすごくしっかりしていて、なおかつ美しい。そこには最初から心惹かれました。
あともうひとつ、本編の撮影後に追加で撮られた「それからのスズさん」という映像があります。寝たきりになられた後もずっと袋モノを作っていらした。見れば見るほど「自分もそうありたいなあ」と思います。人生の最後まで自分の能力を使って家族の役に立ちたいという気持ちで過ごされた姿にも心惹かれました。

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―この映画には、30年前の元々あったもの、間に挟まれるニュース映像、それと小泉先生のインタビュー映像と大まかに3種類の映像があります。この組み合わせや分量などはいつも監督とプロデューサーさんが話し合って進めたのですか?

ニュース映像は主に資料映像バンクの山内さんから提供されました。構成をつくり、その筋に沿って必要な資料映像のリストを作成しました。そして、私がたとえば「学徒出陣の映像がほしい」とか、あるいは「建物疎開や空襲の映像がほしい」というお願いをすると、山内さんが適切な資料映像を送ってくれました。それである程度編集しては、村山さんと山内さんに見ていただき意見を聞いて修正していきます。昭和30年代の子どもが遊んでいる風景を入れようとか、細かいオーダーを出しました。数十時間分、手元に集まりましたね。

―監督は全部ご覧になったんですね。

もちろん全て見ます。自分の映像製作者としての経歴を振り返るとNHKで1995年から9本シリーズで放送された「新・電子立国」というドキュメンタリー番組がありまして、そのプロジェクトに参加したことが転換点になりました。その企画者でありディレクターであった相田洋(ゆたか)さんに編集のてほどきをうけました。相田さんは、テレビドキュメンタリーの世界を代表するディレクターで文化庁芸術祭大賞をはじめとする数々の受賞歴がある方です。そのときに、自分が編集に向いていることを自覚しました。ラッシュを見る、書き起こしをつくるということになんの抵抗もないんです。

―楽しくご覧になれる?


楽しい、というよりは仕事なんです、なんていうかなぁ。

―苦にならない?

ああ、そうそう。全く苦にならない。ラッシュをみてカットごとに内容を書き出す「ラッシュ台帳」というものを作って見続けることが全然苦ではないんです。そして、編集をしてカットとインタビューとが組み合わさって、「カチャ!」とパズルがはまるみたいに「あ、うまくいった!」という瞬間がやっぱりあって、そういう瞬間をずっと求め続けるのが好きですね。

―きっと天職なんですね。

天職かどうかはわかりませんが、とても好きなのは事実です。NHKで勤務していて50代に入り制作現場を離れた頃から、自分で自分の映像作品をつくりたいと考え始めました。カメラを購入して、スチール写真に一時期凝ったりしましたけど、やはり動画作品をつくりたいな、と思いました。知人の紹介でクラシック音楽や文楽の短い尺の映像作品をつくっているうちに、前作の「春画と日本人」の撮影を始めることになりました。幸いなことに劇場公開していただき、多くの方々にご覧いただけたことを心より感謝しています。「春画と日本人」は、インタビュードキュメントのような形式の映画です。やはり、私は人の話に耳を傾けるのが好きなのだと思います。

―対象が多岐にわたっています。

テレビの仕事をしていると、どんなことにも興味をもちます。森羅万象を描くのがテレビですから。ただ、教養番組を主に制作していましたので、文化・芸術方面には特に関心があります。頭が理屈っぽいところがあって、表現の自由とか、社会がどうあるべきなのか、戦争ってなんなのか、戦争体験の記憶ってどう残したらいいだろうとか、そういう抽象度が高いテーマ設定を下敷きにした番組や映画が好きですし、目指していきたいと思っています。今、製作中の記録映画『国立西洋美術館』も、美術館の学芸員の方々の美を守る姿だけでなく、日本の美術館の将来像はどうあるべきか、という問題意識が底流にあります。

映画「スズさん」で、私が伝えたいのは「人が生きるとはどういうことなのか」。家事が大切とか、空襲が大変だったというも大切ですが、生きるということがテーマなんです。そして、充実した人生を送るためには、自分や家族の生計を支える技能が必要で、「手を動かすこと」で生計を立てられる、人を喜ばせることができるっていうのは人間にとって素晴らしいこと。それはすごく大事で、その能力は人が生きるうえで支えになるんじゃないかと思いました。
スズさんは横浜の農村の出身で、普通なら農家の奥さんになられたかもしれないですが、行儀見習いで女中奉公に出られた。そこで裁縫が得意だと自覚したんじゃないか、サラリーマン家庭の主婦になっても裁縫が家族を喜ばせる、家計を支える、という自信につながら、それが最後までスズさんの人生を支えたということではないかなと想像します。

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コロナ禍に無理矢理ひきつけるつもりはないけれども、どんなに苦しい時でも人はしっかり美しく生きていけるし、家族を支えられるんじゃないかなと思います。
私の父方の祖父母は終戦時北朝鮮にいたんです。祖父はシベリアに抑留されて帰ってこなくて、祖母は5人の子どもたち―父は中学生だった―を連れて命からがら引き揚げてきました。祖母は洋裁で子どもを育てて、みんな大学まで行かせています。なにか一芸というか、技能を持っているというのはすごいことです。そういう私のパーソナルな関心もあって、スズさんの人生は描いて伝える意味はあるはずだとの確信はありました。みなさんにご覧いただく価値のある映画になったと思います。

―我が家のことを振り返っても重なることが多くて、とても懐かしく観ました。戦争中のことを知っている人は年々少なくなっていくので、ぜひ子どもたちにも観てほしいです。

和子先生のお話のなかで、スズさんとお姑さんが、建物疎開で強制的に立ち退きにあったあと、東京から横浜に疎開するのに大八車に家財道具を積んで往復したという証言には「ほんとですか!」と聞き返しましたよ。

―30kmを往復しなきゃいけなかった。きっと必死だったんでしょうね。

戦争を直接、体験している人たちは、近年、急激に少なくなっています。戦争体験の記憶をどのように次世代に継承していくのかということは、日本社会にとった大きな課題だと思っています。先日、神奈川県の高校生に映画を観てもらう機会がありました。戦争体験者の話を聞いたことがあるのか、映画から何を感じたのか、などアンケートに答えてもらい、ディスカッションをしました。授業で観ているせいもあるかもしれないんですけど、生徒たちはとても真剣に見てくれましたし、戦争経験の記憶の継承に深い考えをもっていることがわかりました。そして、子どもたちは私たちの想像を超えて「映画」からいろいろなことを読み取るので驚きました。食料不足の大変さや学童疎開の子どもたちの心情とか。映像と音声が大きな力をもっている、映像と音声によって呼び起こされる感情には意味がある、とあらためて感じました。

―すごくわかりやすいですし、いろんな方向から見られます。過去から現在、未来にもつながると思いました。

ありがとうございます。元はテレビ屋なので、どうしてもわかりやすくする癖があって。それがときどき映画っぽくないとかいろいろ言われるんです。(笑)。

―ドキュメンタリーはわかりやすい方がいいと思いますが。

色んな考え方がありますよね。説明しすぎるのもよくないし、観客に委ねすぎるにもよくないかもしれませんし、正解はないと思っています。意識しているのは、お客様に感じてもらうことです。映画をご覧になる方々は100人いれば、100人の感じ方があるのが当たり前だと思っています。そういう意味では、私の場合は、私の伝えたいことが一直線にまっすぐに強いメッセージとして伝わるよりも、私が写し取った事象を、劇場のスクリーンから一人一人がそれぞれ感じていただくことが大事で、受け取りかたは様々で良いと思っています。
すでに、横浜大空襲の日にあわせて5月下旬に横浜シネマリンで劇場公開していただきましたが、お客様からの感想に目を通すと、さまざまな感じ方、受け取り方をされたことがわかり、この作品に関して言えば自分なりには上手く行ったかな、と思っています。
客観ナレーションではなく、小林聡美さんにスズさんの声を担当していただき、和子先生との母娘の掛け合いにしたのも効果的だったと考えています。

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ー小泉スズさんと『この世界の片隅に』のすずさん、たまたまお名前が同じで、そのせいか日本全国にスズさんみたいな人たちがいたんだなというのが、すとんと入ってきます。

あちらは漫画が原作で偶然なんですけどね。小泉スズさんは典型的な昭和の時代の日本人女性だったのかなという気はします。残念ながらお会いしたことはありませんけど、和子先生のお話を聞くと世俗的な欲のない人だったのかなあと思います。主婦としてのレベルが高くて自信がある。難しい理屈をこねるわけでもなければ、高尚なことを言うわけでもないけれども、一人の生活者としてとても立派な人だったと想像します。『男はつらいよ』のさくらみたいに、普通に毎日毎日過ごしていることが幸せにつながる、そういうことを教えてくれてるんじゃないかなって思います。そういう人たちがたくさんいた時代だったなと思います。

―そうですね。そして減っていくんですね。

減っていきます。横浜で公開したときも、90代のお母さんを息子さんが車椅子を押して連れてきていました。一方で小中学生の子どもを連れた4人家族もいて、そういうことに関心のあるご両親かな。そういう時代があった、そういう生き方をした普通の人たちがたくさんいた、ということを次の世代に伝えることになったなら良かったと思いました。

―親が説明するより、子どもに理解しやすいです。

子どもは親の話は聞かないですからね(笑)。私の親は2人ともすでに亡くなったのですが、父から引き揚げの頃のことをもっと聞いておけば良かったと痛感しています。ただ、父親も辛い話は話しにくかったのだろうとは思います。

―特に戦争のことは言いにくいでしょうね。

今回、和子先生にインタビューすることで、私が両親にできなかったことをやらせていただく、という気持ちがずっとありました。
この映画をつくろうと腰が上がったのは、和子先生にお話をうかがった際に「お母さんが大好き!」って嬉しそうにおっしゃったことが大きかったですね。いいご家族だったんだなぁ。
そこには普通のドキュメンタリーで求められる波乱万丈の物語はないけれども、静かな伝わる物語があるということを思いますね。
この映画は男性だけで作った映画なので(笑)、「主婦礼賛」に受け取られるといやだな、という話をしていました。ご覧になった人から話を聞くと、「スズさんが一日一日の暮らしを大切にしているというメッセージはちゃんと伝わってきた」とのことでした。普遍性のあるメッセージと受け取ってくださったので、安心しました。

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―横浜ではもう上映されたんですね。

4月上旬に完成試写会をしたときに横浜シネマリン支配人の八幡温子さんをご招待してご覧いただいたところ、「5月29日(横浜大空襲の日)の前後にやりましょう」とすぐに上映決定してくださったんです。夏にもアンコール上映してくださったばかりです。
空襲といえば3月10日の東京大空襲が取り上げられることが多いと思いますが、横浜大空襲も大きな被害があった割には取り上げられないですね。もちろんローカルでは、空襲を記録する会の活動などが記事として紹介されますけども。ですから、映画は、製作を始めた頃から横浜で上映できればいいなとは思っていました。実現してたいへん嬉しかったです。

―ずっと映像のお仕事を続けて来られましたが、映像はこれからまだまだ変わっていきますか?

撮影機材の発達で、プロとアマとの境界線が溶けて無くなりつつあると言えます。もちろん、作品のクオリティはプロの方が高いのですが、クオリティの高いものが必ず多くの人々に見てもらえるのか、と言えば、そうとも言えなくなっていて、アマチュアの方が撮影した映像が、YouTubeでいきなり数億回再生という世界が現れています。
将来がどうなるかは誰にもわからないと思いますが、60分とか90分の長さのコンテンツは永遠に残ると信じたいです。豊かな情報量と大きなメッセージを受け取って心がかき乱されたり、美しい記憶として心に残すためには、映画館という空間と、そこにゆっくりと浸る時間が必要だと信じています。

―今日はありがとうございました。

=大墻監督 印象に残っている最近の映画=
『たゆたえども沈まず』(テレビ岩手)
『ミナリ』
『ファーザー』
『痛くない死に方』
『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん』島田陽磨監督
『サンマ・デモクラシー』
『太陽の子』
『パンケーキを毒味する』
『ヒロシマへの誓い』
『カウラは忘れない』
『東京クルド』など


=取材を終えて=
2年前にできたばかりの新宿キャンパスへお邪魔してきました。
大墻監督が感銘を受けたというスズさんの手の動きの確かさ、無駄のなさは「身体で覚えたことは身体に残る」ということばそのままでした。繰り返した手仕事は手に残り、スズさんは最後まで気持ちよく働いたのでしょう。手抜き主婦の私は反省しきりです。私の手には何が残っているのやら。
お話をたっぷり伺った後、その足で久が原の「昭和のくらし博物館」を訪ねてきました。スズさんが丁寧に日々を送られた名残がありました。我が家にもまだある昭和の台所道具や、再現されたちゃぶ台の食事など、懐かしいものがたくさんでした。スタッフ日記はこちら
湯気の立つ食卓を大事な人たちと囲むことが、平凡だけど幸せなのだと思い出します。たとえ一人でも、温かいものを「いただきます」とお腹に入れてみましょう。身も心も温まるはず。
この映画を観ると、自分の周りの失われてしまったもの、失いたくないものに気がつきます。そういうものを大切にしようと思いました。
(取材・監督写真 白石映子)

『芸術家・今井次郎』初日舞台挨拶

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10月30日(土)
渋谷 ユーロスペース
午前10時30分からの『芸術家・今井次郎』上映後、映画出演者と青野真悟監督&大久保英樹監督によるトーク(生演奏付)あります!
ということで、本日さっそくかけつけました。
今日のゲストは元「たまのランニング」こと石川浩司さん。映画の中では「いま、いじろう…今井次郎」とギャグをかましています(笑)。

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監督お2人と今井さんの思い出を語った後に、ライブが始まりました。
「夏のお皿はよく割れる~♪」とか「道の真ん中墓建てた~♪」とか、この歌はいったいどこへ行くんだ?と聞いていると、締めの歌「ラザニア」でじーんとさせました。「不器用だった」「いじめられた」とかいろんな状態の人をたくさんあげながら、その一人一人に「産まれて良かったね」と全肯定をするのです。
「死んだ方がましだと思った 産まれて良かったね~♪」
「次郎さんも産まれて良かったね」
「お客さんも産まれたからこそ、ここで映画が観られた」…
「産まれて良かったね」
「産まれて良かったなあ~♪」

拡散可というTwitter動画はこちら
追加:公式からの動画が出ました!こちら

10月31日(日)「時々自動」より、柴田暦・高橋牧・日高和子
11月3日(水・祭日)テニスコーツ

追加が決まりました。
11月6日(土)佐藤幸雄とわたしたち
(佐藤幸雄+POP鈴木)
11月7日(日)とんぷく1/2
(近藤達郎+向島ゆり子)

作品紹介はこちら
青野監督・大久保監督インタビューはこちら

スタッフ日記に報告のつもりでしたが、せっかくなのでこちらにしました。(白)

『芸術家・今井次郎』青野真悟監督&大久保英樹監督インタビュー

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青野真悟監督、大久保英樹監督

*プロフィール*
監督/青野真悟
1963 年生まれ、愛媛県出身。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演出コース 8 期。
フリーランスのテレビディレクター。
1985 年より劇団『時々自動』に参加、1999 年まで出演や映像を担当。
今井次郎とは舞台での共演から始まり、結婚式の司会進行を任されるまで、青春のほとんど全てを共に過ごした。

監督/大久保英樹
1962 年生まれ、福岡県出身。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演出コース 7 期。
卒業後、同期の劇作家・鄭 義信氏の作・演出公演に出演したりしてぶらぶらしていたが1988 年より劇団『時々自動』に参加、2003 年まで出演や映像を担当。
今井次郎とは同じ舞台に立ち、映像と音楽で共作した作品も多数制作した。
平行して 1990 年代よりフリーランスディレクターとなり、主に地上波の情報番組等を演出。

今井次郎 1952年 東京に生まれる。
70年代後半~80年代初頭、伝説のパンク・タンゴ・バンド「PUNGO」等の活動で、東京のオルタナティヴ・ミュージック・シーンの一翼を担う。
1985年、この年結成されたパフォーマンス演劇の草分け的存在「時々自動」に参加。
以降、最期まで出演と作曲と続け、曲数は優に100曲を超える。
1990年代半ばから「JIROX」名義で美術活動を開始。
日常品やゴミ同然の素材を用いたオブジェや絵画、自作曲を駆使したパフォーマンス「JIROX DOLLS SHOW」は、多くの熱烈な支持を集めた。
2012年11月 悪性リンパ腫により逝去。

『芸術家・今井次郎』
監督・撮影・編集:青野真悟、大久保英樹
作品紹介はこちら
2021年/ 日本/カラー・一部モノクロ/94 分/ドキュメンタリー
(C)2021「芸術家・今井次郎」製作委員会
公式HP imaijiro.com
★2021年10月30日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開


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―この作品を切望していらしたディレクターの遺志を継がれたと伺いました。

大久保 桐山真二郎ディレクターは2016年の4月に亡くなりました。彼は30代の半ばにアンジェイ・ワイダを取材。1時間半のドキュメンタリーを作って大きな賞を受賞した(*)、嘱望されていた才能ある人です。
*ETV特集『アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男』( 第25 回ATP 賞グランプリ)

彼がまだ20代で早稲田の学生だったときに、劇団「時々自動」にゲストで出演したり演奏したりしたんです。今井さんや僕たちも現役で活動していたころです。その後卒業してテレビの映像制作の仕事をしたいとドキュメンタリージャパンに入ったんです。そのときはまだ橋本佳子プロデューサーのことも知らずに。
僕の自主映画で桐山君に出てもらったり、男二人でジョン・カサヴェテスとかクリント・イーストウッドの映画を観に行ったりして個人的にも仲良くしていました。それが10年15年あった中で、今井さんが亡くなって、彼もすごくショックを受けて。
どうしても今井さんの映画を作りたいと提案したら、橋本プロデューサーが20代のときに今井さんと芝居をやっていたと聞いて、なんと!と。桐山君と橋本さんが映画のためにアーカイブ映像を集めよう、とか、インタビューをしようとか言ってたんです。そしたら桐山君が、くも膜下出血で亡くなってしまいました。

青野 38歳ですよ。

―もったいないですねぇ。

青野 もったいないです、ほんとに。

大久保 今井さんの映画なら何でも手伝いますよ、とは言ってたんです。桐山ディレクターで動いていたのが立ち消えになって、この企画はもうできないかなと思っていたんです。少し時間があってドキュメンタリージャパンで桐山君の偲ぶ会をやったときに、橋本さんが「やっぱりこの企画だけは実現させたい、大久保さん引き継いでくれない?」というオファーがあったんです。そのとき僕はテレビの仕事はやっていたんですけど、映画は好きなだけに”荷が重い”感がありました。でも”実現させたい”方が勝って、「青野が一緒にやってくれるんだったらやります」と返事をし、青野君もいろいろ大変だったのに快諾してくれて、そこから再起動しました。

青野 快諾…快諾かわかんないけど。悩みましたけど、まあ断れないなぁと思って、うん。

―始めるときは悩んで、終わってみてどうですか?やって良かったと思われましたか?

青野 うーん。

大久保 僕は良かったと思います。彼(青野)は悩んだかしれないけど、とにかく今井さんっていう人を不特定多数の人に、知ってもらいたかった。
みんなが好きだとは思わないんですよ、ただ今井さんにすごく惹かれる人や励まされる人がいたり。それこそ世界中に拡げれば、ある程度は絶対いるはずという確信はあったんです。これで全部わかるんじゃなく、そのためのきっかけに。映画というメディアが、パッケージという言い方でもいいんですけど、これができた。あるのとないのでは全然違う。
これ、紆余曲折あって途中で逃げたいと思うくらい僕も悩んだんですけど(笑)。いろいろあったけど、できたっていうことに関して言えば、やって良かったと思います。

―これは企画が立ち上がっても、その時点では公開できるかどうかっていうのはわからないですよね。それも悩みの一つでしたか?

青野・大久保 そうですね。

大久保 商品になるかどうか、は誰も確信はなかったです。宣伝的な意味ではそれこそ無名ですから。

青野 でも橋本さんっていう人がプロデューサーだったから、そこのところはなんとかなるんじゃないかなという感じはありました。僕なんかが一人でやったら、公開にならないような、もっとパーソナルなものになったでしょうけど、橋本さんという視点があるので、できたと思いますね。

大久保 橋本さんは坂本龍一さんのドキュメンタリーをやってらっしゃるんですけど、いつもは社会派の方なんです。それが今回、自分が知っている今井さんについての内容なので「私は面白いと思うけど、一般の人がどう思うか客観的には観られない」と言われていますからね。それはほんと、正直なところだと思います。

―お2人は劇団「時々自動」で早くから今井さんをご存知だったわけですが、「今井次郎さん」はどんな方でしたか?

青野 僕は22くらいのときに会ったんですけど、学校出て何にもせずにフラフラしているときに、ちょっと誘われて稽古を観に行きました。僕より11歳上なので次郎さんも主催の朝比奈さんも30代。まあ、見たことない人だったんです(笑)!

―今でもそう思います(笑)。

青野 ほんとにこんな面白い人が世の中にいるんだ!っていう(笑)。芝居なんか全く興味がなかったんですけど、そこにいることがすごく面白くて。「一緒にやらない?」って言われたときに、「やりますやります」ってすぐ飛びこんだんです。それから15年くらいずっとやっていました。柴田暦さんが映画の中で言っていますけど、「次郎さんは自分の考えていることが先へ先へと進んで速いので、言葉が追い付かない」って。ほんとにそれなんですよね。頭の中でとてつもないスピードで何かが回っているというのが、わかるんですよ。一緒にいると何かブーンと音を立てて回っている、ほんっとに稀有な人だと。まあそのせいで何言ってるのかわかんなかったりするんですけど(笑)。
で、できてくる曲がとてつもなく美しかったり面白かったりする。
何の因果か知らないけれど、ものすごくラッキーだったなと今も思います。なんであんな人に僕は会えたんだろうと。

―そういう人に会えないまま人生終わっちゃうことだってありますよね。私も遅ればせながら映画で会えて「良かった!」です。

青野・大久保 ありがとうございます。

大久保 一見ワイルドな印象を受ける人も多いのですが、やはり都会の人「都市で育った人」という感じはあったと思います。とても頭の回転が早かったのは確かだけど、それがうまく伝わらないということも同時に自覚していたような気がします。お酒が好きだったのですが、やはりそれはいろいろなことから解放してくれるものだったからなんでしょうね。

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―私はこの映画で楽しみがひとつ増えました。もし入院することがあったら、病院食のミールアートやります(笑)!

大久保 どんどん発信していってください。

青野 本編では結局カットしてしまいましたが、群馬の病院の看護師さんたちもずっとSNSを観てくれて「面白いね~!」って。実は食べ切った後の写真もあるんです。
治療で毛も抜けていて帽子かぶっているんですけど、看護師さんに言わせると、(そんな状態で)「あんなに綺麗に食べられるってすごいことだ!」。

大久保 看護師さんにインタビューもしたんですよ。今回病院食を最後にしたんで、その反響というのは(映画に)入れられませんでしたが。

―焼きそばの犬とか面白いですよね。あの発想が!

青野 あれ強烈ですよね。

大久保 毎回メニューが違うので、毎回やり方を発明しているんです。

―みんな正面を向いています。子どもが描く絵みたいに。いくつか横向きがあるんですが、ほとんど正面で、今井さんは生き物や人間が好きなんだなぁと。

青野 そうなんですよね。景色でもなくて。

大久保 きっと一番興味があるのはそっちなんですよ。

―恥ずかしがりやのような感じも、人懐こい感じもします。

青野 恥ずかしがりでもないかな。
道を歩いてるとなんか考え込んで怖い顔しているんです。けっこうガタイも大きいので、みんなよけていきます(笑)。でも話し出すと、ほんとに優しい。「時々自動」に入ってくる女の子が、次郎さんふざけて大声出したりするので怖がるんですけど「大丈夫、怖くないよ」って。

―クマさんみたいですよね。

青野 そうそう。

大久保 そうですね。

青野 女性にはとてもストレートに伝わる。

―なんか可愛い。

大久保 それキーワードです。僕たちにはそういう感覚なかったんですけど。男性はやっぱり地位とか権威とか、そういうのにしばられてるんだなぁとつくづく思いますね。女性は「わー可愛い!素敵!」とすぐ反応しますね。

―このユニークな発想はどこから生まれて来たんだろうと思うんですが、型にはまらないで生きてきた人なんでしょうね。会社勤めとかサラリーマンとかはされていないんですよね。

青野 いっさいしてない。

大久保 アルバイトもあんまりしていない。とてつもなく向いていない(笑)。

青野 うまくいきっこない。だってなんか考え出すとすごい集中力で。

―テンポが回りと違って合わないんですね。

青野 難しいと思います。

大久保 社会的なものとは相いれない。けれども一種の特殊な才能がある。

―あのお母さんがいらして、奥様に出逢われて。

青野 ラッキーな人で。

大久保 本人の力でもある。

―引き寄せられるんじゃないでしょうか?

青野 いろんな人が引き寄せられたんだなって。僕は生きてるときには「次郎さん自分のことばっかり言いやがって」とか(笑)言ってたんですけど、でもほんとに好きでしたねえ。

大久保 亡くなってみるといろんなことが落ち着いて見える。生きているときは関係性の中でいろいろありましたけど。不思議なもんですね。やっぱり。

―「時々自動」では映像部にいらしたそうですが、映画の中の映像はお2人が撮られたものですか?

青野 「時々自動」は早くからミクストメディア的なことを舞台でやっていて、映像を多用するので、僕はそれらを作ることに専念してたんです。大久保くんは出演も続けながら一緒に映像を作ってた。
映画の冒頭の「棺桶に入ってる次郎さん」の映像は2011年の時々自動の公演「うたのエリア-3」という死をテーマにした舞台のために僕が撮ったんです。もうその頃は時々自動のメンバーではなかったのですが、頼まれて。呼びかけているのは朝比奈さんで、朝比奈さんも棺桶に入っていて、お互いに呼びかけると目を覚ます。目をカッと開けてそれからお芝居がスタートします。

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―映像では立っていますが、ほんとは横に寝ているんですか?

青野 ドアを開けるとあの棺桶が立っています(笑)。

―エジプトのミイラみたいに?

大久保 シュールです(笑)。

青野 あれけっこう手間かかっているんです。

―いっぱい物が入っているのによく落ちないで(笑)。

青野 貼り付けています(笑)。自分の私物とかお気に入りのものを集めて棺桶に入れて。
たまたま、そういうのを撮っていたんです。

大久保 縁起でもない(笑)。最後の舞台なんですけど、その時は病気の影も形もないです。

―”生前葬”すると長生しそうなのに、60歳で亡くなられちゃったんですねぇ。

青野 そうなんですよ。

大久保 一方で、トリビュートライブ映像はドキュメンタリージャパンの精鋭が集まって、4カメ、カメラマン4人一日で撮りました。それが2018年の映画のためのライブと銘打ったもの。

青野 もうずいぶん時間が経ってしまいました。

大久保 そのライブを柱にしました。

―そこにインタビューなどを足して。あ、女性の方々が絶賛していましたね。

大久保 僕らは近すぎてそこまでの言葉は使えないんですけど、彼女たちはほんとにそう思っているんだからと入れました。

―今井さんは他に似た人を知らないこともあって、そのしぐさやら言葉やらが残ります。

大久保 思い出話も亡くなって10年近くになるのに、つい最近のことのようにみんな話しています。

―お2人が60歳になったら、今井さんの齢を越えたって思いますね。

大久保 やっぱり一つの指標です。及ぶべくもないですけど。
こういう生き方があったっていうのはまぎれもないですから。

青野 HPの冒頭に「生きづらい世の中に、こんな人がいたという希望を伝えたい。だいじょうぶ。世界にはこういう人が、ちゃんといる」と書いて、これは映画の中の立山ひろみさんの言葉が元になっているんですが、最初の「こんな人がいた」という過去形は次郎さんのこと。あとの「ちゃんといる」という現在形は、今もどこかに次郎さんのような人がいるはずだという希望を込めたつもりなんです。

―どこかに。まだ見つからないけど。

青野 なかなか見つからないけど。だけど、ちょっと元気が出るかなと。

―人と同じじゃなくていいんだよと。

大久保 まさにそうですね。僕は映画ファンだから映画的に作品がどうかと考えがちなんですけど、これはなるべく今井さんを出したいということだけですね。実は本人の映像はあまり残ってないんです。これがいっぱいいっぱいくらいで。作品も一人一人にお願いして出していただいて。こんなに壊れやすいのを。

―みなさん大事にしてくださっているんですね。猫多いですね。飼われていましたか?

青野 飼ってないです。犬も多いですよ。ひねり犬、これは大量に作っていました。僕も持っていますけど、マネしようとしてもなかなかできないです。

―チャチャチャっと指先で作ってそうです。

青野 チャチャっとやるんですけど、プリミティブなアートとは全然違ってるんです。僕たちが追いつけないスピードで考えている人ですから、自転車で新幹線を追っかけているようなもので。実は仕上がりにはすごくこだわっています。でもそのわりに簡単に壊れちゃう(笑)。そこが次郎さんの物の特徴だと思います。

大久保 やっぱりこれは長持ちしないっていうのを本人は自覚している。

青野 自覚的だね。

大久保 劣化しているんですよ。作品そのものが変わっていくという、現代美術のある種の限界を含めている。理論的なことはほぼ言わなかった人なんだけど、間違いなく考えている。それで値段設定をいくらにするか?っていうのをすごく悩んで考えたりとか。結果的には安い値段で。個人コレクターも美術のコレクターではない。若い人がいっぱい買っていくんですよ。

―記念に買えるお値段なんですね。これ、おせんべいの缶の蓋みたい(右上)。

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大久保 そうです!そこらへんにあった(笑)。それでおせんべいの蓋シリーズみたいなのがあるんです。

―ええ~(笑)。

大久保 これはクリップではさんで、気に入ったんですよ、たぶん。ありもので作ったというけれども、これじゃなくちゃいけないというのも両方ある。

―お2人のお気に入りはありますか?

青野 僕はこれ。奥様が一番大切にしているお宝なんです。可愛いなぁと思って。JIROX DOLL SHOWでもよく使っていました。

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青野監督お気に入り

大久保 作品というより自分が使う小道具として。劇団の人なので物語性というのも同時にある。それが楽しさの一つなんじゃないですかね。僕はこのコンビニ袋の中でピンポン玉が眠っているのが。友達の間では名作となっています。
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大久保監督お気に入り

―目と口をチョンチョンとしか書いていないのに、赤ちゃんみたいで可愛いです。

大久保 なんかが伝わるんですよね。

青野 自分でも気に入ってました、相当。

大久保 この作品は、最初に今井さんの個展を開催したキュレーターの方が大事に大事にされています。

―編集はお2人で一緒になさったんですか?

大久保 そんなに深く考えずに、2人で手分けして。

青野 インタビューした対象ごとに順番に。半分こしようぜと。

大久保 同じ編集ソフトを使って。最終的にはコロナ禍になってしまったので、ほぼリモートになっていました。

青野 編集が最終段階へ進んだのはコロナのおかげもありましたね。仕事も飛ぶし、行くとこないし、うちにずっといるんで、じゃあもうやろう、と。

大久保 これも不思議な因縁ですね。

―いいこともありましたね。

青野 ちょっとだけ(笑)。

大久保 社会派的なことはツイッターでも本人の発信としてはないんですよ。
「Be Happy!」も、今コロナがあるからさらにそう思えるんですけど、「もう復興なんて言ってないでみんな仲良くする道を探そうよ、っていう社会派的な意味を込めてこの曲をやります」って言っているんです。映画では一瞬カットしていますが、youtubeにはそのまま残っています。
「幸せになることがひとつの批判なんだよ」という今井さんの唯一の(社会派的メッセージ)。

―ここだけの話♪

大久保 そう!♪ 幸せになっちゃおう♪

―いいですね、あれが最後に来て。

青野 あれがテーマなんです。どこに使うかもすごく考えたんです。冒頭においてみたりしたんですが、結局やっぱり最後に。

大久保 今後日本にとっては大事な言葉だと思います。復興とお金とかだけじゃない大事なものっていうことを、人生全てで表している人でしたからね。

―コロナ禍は世界中のことですから「Be Happy!」で終わって良かったー! お2人は今Happyですか? どんな時が幸せですか?

青野 僕はもう家で妻と晩酌してるときだけです(笑)。

大久保 僕は、なかなか幸せは感じにくいんですけど。ただ、世界は美しい。社会はほんとにひどいなと思うんですけど。たとえば春の天気が良くて日向ぼっこしているときに「あ、もう世界はこれでいいじゃん」と。そう常に思うようにしています。

―「やくにたたないたいせつなもの」とチラシにあります。お2人の役に立たないけど、大切なものは何ですか?
(しばし考えこむお2人)
青野 僕は浄水場の前に住んでいるんですけど、大きな池があって超古典的な方法で水を濾すんです。いつも水面がきらきらするのを眺めていたんです。そこを渡ってくる風も気持ち良かった。それが3年前くらいに一部使われなくなって目の前のテニスコート何枚分かの広大な池がある日、水を抜いたまま戻らなくなりました。そのときにものすごい喪失感があったんですよね。ずーっとあると思っていたのに。

―心も浄化していたんですね。

大久保 うまい!(笑)

青野 今は草が生えているんです。このごろは慣れましたけれど、しばらくはなんてこったと思って。こういうものがすごく僕を癒していたんだなと、今そう聞かれて思い出しました。

大久保 僕は震災以降、テレビの仕事をほぼ辞めたんです。時間ができたころ福岡の母親が癌になって、〈 青春18きっぷ 〉を使って実家に帰っていました。緊急のことじゃないんで、〈行って来い〉を母親が亡くなるまで4年くらい続けました。途中2泊くらいしながら、鈍行列車で気に入った風景があると降りて、スマホで写真撮ってアップして。被災地にも18きっぷで行って。コロナでやれなくなってみると、いかにそれが贅沢なことかと。

青野 この人その後もずっと青春18きっぷで、どこまでも行っちゃうんです(笑)。

大久保 もう50歳前後でしたが、人生の中ですごくみずみずしいというか、初めての体験で。金かけてないけど、なんて贅沢なことがやれてたんだろう。誰の役にも立たなかったけど、自分にとってはかけがえがないなあと思っています。また始めますよ、もうすこし落ち着いたら。

青野 詳しいですよ、18きっぷの使い方と乗り継ぎ。それにめちゃくちゃ歩くらしいですよ。

大久保 10何キロとか。被災地は電車がなかったし、バスが一日に何本かしかないようなところは歩きますね。ヘトヘトになって。

青野 カプセルホテル、じゃなくてネットカフェに泊まる。

大久保 ネットカフェはどこにでもあるんですよ。3000円くらいで泊まれたりします。そしていろんな人が泊まっていて、取材感覚ではないですけどそういうところが性に合っています。僕は元々社会の上の方に縁もない人間なので。

―今井さんのところに集まるべくして集まったお2人という気がします。

大久保 影響は受けたんじゃないですかね。やっぱり。2人とも20代からですから。

青野 むちゃくちゃ影響受けていますよ。僕は「時々自動」の2大巨頭と言われている今井次郎さん、次郎さんのことを語っている朝比奈さんとの影響を。次郎さんが亡くなったときに「僕たちの長兄が亡くなった」と書いたんですけど、そういう感じですね。ファミリー。

―そういえる関わりって有難いことですね。

青野 有難いですね。なんで僕なんだろう?って思うときありましたけど(笑)。

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―今井さんは音楽や絵の勉強をしたというわけではないですよね。

青野 特にはしてないです。

大久保 誰にも教わってません。一番好きだったのがビートルズだったんですよ。ビートルズと手塚治虫。小さいころ手塚プロに遊びに行って、手塚治虫のサインとかもらってきたりした。ビートルズは東芝EMIだったから、武道館公演のチケットが1枚だけ手に入ったんだそうです。で、お兄さんとじゃんけんして負けた。お兄さんは見たけど、今井さんは見てない。

青野 長女の和子さんは「次郎に見せてあげればよかった」と言ってました(笑)。

大久保 でもお兄さんは「いや、あれを見られなくてその悔しさで次郎がこうなった」と面白いこと言ってました(笑)。
今井さんは10代のときにビートルズがデビューしてどんどん進化する全盛期を見ているので、「一番新しくて前衛的なものが、一番売れることが普通にあることだと思ったんだよ。手塚治虫やビートルズを見てて」って言っていたのがすごく印象に残っています。
ビートルズの英語のフレーズは本当にいつも口ずさんでいましたね。

青野 子どもの頃の漫画なんかも、手塚まんまですよ。中学生のころ本気で描いた漫画の原稿が残っていて、ちゃんとペンで描いているんです。12,3歳ですけどそっくりです。

大久保 80年代のサブカルのジャンルともいろいろ繋がりがあって、田口トモロウさんとバンドやったり、マイナーな雑誌に漫画描いたりしていました。それぞれの時代を身にまとって最後ここに行きついたって感じがします。

青野 僕は次郎さんみたいなことは何にもできないけれど、次郎さんの影響は大きい。次郎さんがいたら何て言うんだろうなって考えますね。いつも考えます。

大久保 僕はちょっと離れたりしたんですけど、彼はほんとに近い。だから一緒にやってくれって頼んだんですけど。

―長編映画を公開するって初めてですよね。

青野・大久保 そうです。全く初めて。

青野 橋本さん無茶ですよね(笑)。

大久保 いやすごい大胆な人ですよ。自分がプロデューサーだったら絶対できない(笑)。

―映画は地方へ持っていけます。種を蒔くように観てもらって拡がっていくといいですね。

大久保 それはもうほんとにそうしたいです。

青野 たくさん人が入るというよりも、地方でかかるきっかけはあるといいなぁと思いますね。

大久保 きのう大林さん(ポポタム)とも話したんですけど、映画をきっかけに地方に今井さんを知った人ができたら、何年かに1回こういう展示がやれたらいいねぇ。そういうものであればいいのかなぁと。製作費の回収は必要ですから、映画の出だしはちゃんとやるとしても、これから息長く。

―いつ観なくちゃいけない、というよりいつ観ても幸せになれる映画だと思います。

青野・大久保 ありがとうございます。

青野 橋本さんが「今こんなに不要不急の映画はないんじゃない」って(笑)。

―何か作れとか、何かしろとか言われているわけじゃない。

大久保 誰にも何にも強制されていない。

―それこそ役に立たないかもしれないけど大切なものが残る映画ですよね。今井さんの押しつけない軽やかさがいいです。頑張れ!じゃない。

青野 「頑張れ!」っていう人じゃなかったですね。「好きなようにやろうぜ、やんなよ」という人。

大久保 とにかく音楽の好きな人、何かものを作りたい人に届けるというのが夢です。

―ありがとうございました。

=取材を終えて=
この映画で初めて知った今井次郎さん、生前に会えていたらどんなに楽しかったかと残念です。でも、今井さんが大切にした可愛い作品や美しい歌やミールアートなどが残っています。青野監督、大久保監督からたくさんの思い出話を伺いました。いそぎまとめましたが、今井さんの人となりをお伝えできたでしょうか? 今井さんの根底にはビートルズや手塚治虫がいた、と知りました。同世代の私にも大切な人たちです。
雨の寒い日でしたが、心ぽかぽかで帰路につきました。この記事はおすそ分け、ぜひ映画館で今井次郎さんに出逢ってください。もし抱えているものがあったら、軽くなります。Be Happy!
(取材・撮影 白石映子)

『記憶の戦争』イギル・ボラ監督インタビュー

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2021年11月6日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開!

『記憶の戦争』英題:UNTOLD 作品紹介
ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺を描く
ダナンから車で20分ほどの所にあるフォンニィ村。1964年から1973年、延べ30万人もの韓国軍兵士がベトナム戦争に参戦していたが、その軍事行動で痛ましい民間人虐殺事件がこの村であった。前作『きらめく拍手の音』で、聾唖者の両親を愛情あふれる視点で描いたイギル・ボラ監督だが、監督の祖父がベトナム戦争に参戦したことなどがこの作品を作るきっかけになった。
2018年、ソウルで開かれた市民平和法廷で、1968年にあった「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」の生存者であるベトナム人女性、グエン・ティ・タンさんは法廷に立った。8歳の時、韓国軍に家族を殺され孤児となった彼女は、あの日一体何が起こったのかその記憶を語る。
イギル・ボラ監督はベトナムに行き、他にもあの日起こった事を目撃した聾唖者のディン・コムさんに取材。彼は身振り手振りを交えて虐殺の時見たことを再現。あの日の後遺症で視力を失ったグエン・ラップさんも語ることのなかった記憶を絞り出すように語る。
一方、韓国の元軍人たちは「我々は良民は殺していない」と主張。しかし、フォンニィ村では69~79人と言われる犠牲者を50年間弔ってきた。
全員女性の映画製作チームはベトナムに何度も行き、「民間人虐殺」について当事者たちの生々しい証言を記録し、勇敢で優しいドキュメンタリーを作った。しかし、2020年現在、韓国政府、および韓国軍は、ベトナムの民間人虐殺を認めず、被害者に謝罪するに至っていない。

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(C)2018 Whale Film

『記憶の戦争』公式HP
2018年製作/韓国
原題:Untold
配給:スモモ、マンシーズエンターテインメント

イギル・ボラ監督紹介 HPより
聾者の両親のもとに生まれたことが、天賦の才を得たと感じ、語り手として自覚し文章を書いたり、映画を撮り始める。
8歳からはCODAとして聾者の通訳を始める。
成績優秀だった18歳の時、高校を中退してクラウド・ファンディングで集めた資金を手に東南アジアを旅する。その旅行記「道が学校だ」(2009)と「ロードスクーラー」(2009)を出版し話題になる。
帰国後、難関の韓国芸術総合学校に入学し映画製作を学ぶ。
自らの両親を温かい視点で描いた『きらめく拍手の音』(2014)を製作。同作は第14回山形国際ドキュメンタリー映画祭へも出品、第8回女性人権国際映画祭では観客賞を受賞した。
2019年にオランダ・フィルムアカデミーを卒業後、ベルリナーレ・タレンツ2020に選出された新プロジェクトが進行中。現在はソウルと福岡を拠点に活動している
*山形国際ドキュメンタリー映画祭2015レポートはシネマジャーナル本誌95号に掲載

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イギル・ボラ監督インタビュー
取材&写真 宮崎暁美 通訳 根本理恵さん

☆このドキュメンタリー作品を作ろうと思ったきっかけは

私はリアルタイムでベトナム戦争を知っている世代です。日本では、米軍が沖縄からベトナムに出撃したり、ベトナムへ行くための兵士たちの中継点として日本各地にアメリカ軍の基地もありました(東京でも立川などに米軍基地があった)。そういうこともあり、反戦運動がおこりました。私は高校3年の時(1969年)にべ平連(ベトナムに平和を市民連合)のデモに何回も参加しました。その反戦運動に参加したことが、今までの私の生き方に大きな影響を与えています。そういう私なので、これまでたくさんのベトナムに対する書物や映画、写真などを見て来ているのですが、韓国軍がこんなにもたくさん参戦していたとは思ってもいなかったのでびっくりしました。
*韓国軍 延べ、約30万人 アメリカ軍 延べ、約55万人

宮崎 監督のお爺さんがベトナム戦争に参戦し枯葉剤の後遺症で亡くなったり、18歳でアジア各地を放浪したことが、この映画を作ることにつながったとのことですが、具体的にはどういういきさつでこの映画を撮ることになったのでしょうか。

イギル・ボラ監督 この映画を作ることになったきっかけというのはいろいろあるのですが、まずは私の祖父がベトナム戦争に参戦した軍人だったというのがあります。祖父の家に行くと表彰状とか勲章が誇らしげに飾ってあったんですね。また、10代後半から20代前半に韓国軍によるベトナムでの‌民間人虐殺の事実を知ったというのがあります。また、中学、高校の時の現代史を学ぶ中で、ベトナム戦争に参戦することで大きな経済的な発展があったということを教わりました。
それから、先ほどおっしゃってくれたように、アジアを放浪し18歳の時ベトナムに行った経験があって、その時にベトナムと言ってもいろいろな姿があるのだと知ったのです。それまで私が知っていたベトナムの姿は一つと思っていたのにそうではなかった。どうして違う姿があるんだろうと、私の中でベトナムのことについて記憶の混在がありました。それでベトナムにおける真実が何なのか知りたいというのがスタートでした。

ー 具体的には、どういう作品にしようと思ったのですか?

監督 この映画のスタイルやコンセプトを決めるきっかけになったのは、私の祖父が枯葉剤の後遺症で肺癌と口腔癌によって亡くなったことです。祖母に聞いたところ、戦争のことを知らないというのです。ベトナムでのことについて、何があったのか、祖父は祖母に話をしていなかった。ベトナムでのことについて男たちは語らず、男たちの胸の中に収められていた。それを聞いて、どうして女たちは戦争の話をできないんだろうと思いました。祖母が戦争に行ったわけではないので知らないのはわかりますが、祖父が戦争から帰ってきてベトナムでの話を全然していないのはなぜ? 不思議に思いました。祖父がベトナム戦争に行くことになったきっかけは祖母にもあったわけで、祖父がベトナムに行っている間、祖母は家庭を守っていました。それで祖父が帰ってきて、戦争の話を一言も話していないのが気になったのです。それで、少数者や女性の視点でこの問題を語ってみようと思ったんです。祖母の経験がこの映画をつくるきっかけやコンセプトになりました。
*父方の祖父母 祖母は『きらめく拍手の音』に出てきた祖母

ー 監督の祖父は枯葉剤の後遺症で亡くなったということですが、韓国ではそういうことに対する補償はちゃんとされているのですか?

監督 枯葉剤で命を落とした場合は、国から一応補償は出ます。国家のために尽くしたということで国家有功者として証明書が出て、傷痍軍人として補償はしてくれるのですが、病院の治療代くらいです。後は多少の年金はあります。ベトナムに行き、外貨は稼いだはずなのですが、一定の金額は国が持っていってしまいますので、アメリカの帰国軍人に比べたら処遇は低いと言えます。
 
ー 昨日ネットで調べたら、枯葉剤の被害者団体の会員が14万人と載っていてびっくりしました。そんなに多いのですか。グエン・ティ・タンさんのこともニューヨーク発のニュースで載っていて、この団体の会員がこの市民法廷を襲ったと載っていました。その流れで、この映画が日本で公開される時に、従軍慰安婦や強制連行のことを否定的に考えている人たちに利用されたらいやだなと思いました。そのニュースを載せてたメディアがそちら側のメディアだったので。「韓国だってそういうこと(民間人虐殺)をしているじゃないか」という視点で語られたくないですね。
日本では中村梧郎さんという人が枯葉剤被害の写真を撮っていて写真展をやったり写真集を出しているのですが、ベトちゃんドクちゃんのことを知っていますか? 枯葉剤の影響で下半身がつながった結合双生児という形で生まれて来て、その分離手術を日本は支援しています。ベトちゃんは亡くなってしまったのですが、ドクちゃんは今も生きています。この二人がきっかけで日本でもベトナム戦争の時の枯葉剤のことはよく知られています。
*中村 梧郎 オフィシャルサイト
*参考記事 中村梧郎さん 日本の報道写真家と「戦場の枯葉剤」

監督 枯葉剤については比べられないですが、やはりベトナムにおける被害が多く、大きな問題を抱えていますね。当時、ほんとに大量の枯葉剤が撒かれていて参戦した兵士たちにも被害が及んでいます。最近、ベトナムの被害者たちが、フランスでアメリカの会社に訴訟を起こしています。 

ー フォン二ィ村の民間人虐殺で生き残った人はどのくらいいたのでしょう。50年間、毎年慰霊祭が行われてきたということは、生き残った人も結構いたのでしょうか? タンさんは最後の生き残りという風に語っていたけど、もうほとんど生き残りの人はいないのでしょうか。

監督 そうですね。村には生き残った人たちがずっと住んでいたのですが、皆さん、だんだん高齢になってきて、亡くなられた方も多くなってきました。ホーチミンなどに行った人もいます。フォン二ィ村では毎年慰霊祭が行われていて、映画の中にも出てきますが、慰霊祭の時に青や赤の服を着ている人たちが生き残りの人たちです。その人たちにとっては自分たちのこととして祭祀を行っています。あと、慰安婦の人たちの問題もそうですが、時間がたち、当事者がだんだん亡くなってしまっているというのがありますね。

☆取材の方法やエピソードなど

ー フォン二ィ村の1968年の虐殺事件により8歳で孤児になったグエン・ティ・タンさんにはどのような経緯で出会ったのですか。

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グエン・ティ・タンさん (C)2018 Whale Film

監督 ベトナム平和機構という団体がありまして、ベトナムで起こったことを伝えていこうという活動をしています。これは韓国にもベトナムにもありますが、韓国の人たちがやっています。この方たちと一緒にベトナムに行った時にお会いした中の一人でした。

ー それは何年くらい前ですか。また、ベトナムへの取材は何回くらい行っているのですか?

監督 2015年の1月か2月頃でした。それ以降は1年に1回、2月から3月にかけて行っていました。コロナ禍になるまでの2019年まで5回くらい行きました。

ー 証言者のディン・コムさん(聾唖者)やグエン・ラップさん(虐殺の後遺症で盲目に)にはどのような経緯で出会ったのですか。この方たちも含めて、このフォン二ィ村の虐殺を語るうえで、とても適切な人材だったと思います。

監督 2015年はタンおばさんにお会いしました。そのころはプリプロダクションの段階で、事前調査に行きました。2016年は映画を撮るということでカメラを持って行ったのですが、その時にディン・コムさんとグエン・ラップさんに会いました。正確には2015年にグエン・ラップさんとはちょっとお会いしています。

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ディン・コムさん (C)2018 Whale Film

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グエン・ラップさん (C)2018 Whale Film


☆市民法廷の影響

ー 2018年4月21,22日のソウルの市民法廷ですが、ここに至るまでの20年近い運動の集大成として行われた法廷だったのですか。

監督 ハンギョレ新聞のク・スジョンさんが1999年5月、週刊誌『ハンギョレ21』に書いた記事がきっかけで始まりました。韓国では2015年にこの記事を元にした本が出て、日本では今年翻訳本が発刊されました。その人たちが提起した運動がずっと続いていたわけです。その方たちのネットワークがあって、その一つとしてベトナム平和機構があり、その中で私たちが映画を撮ることになりました。

ー 市民法廷で証言したこととか、市民法廷後の運動が、タンさんが韓国政府に提訴することのきっかけにもなったのでしょうか。また、この法廷のことはマスコミでどの程度報じられたのでしょう。TVで放映されたりしましたか?

監督 はい、このドキュメンタリーは韓国のEBSというTV局で紹介されたことがあります。あとは韓国では劇場公開もされていますので、この映画について知っています。私たちの映画だけでなく、この問題については、いろいろな機会に取り上げられているので、社会的に認知されていると思います。ただ、この事案というのはすでに20年前から提起されていて、ニュースなどで放映されると、当事者にとっては「またか」という人たちがいるわけです。そういう人たちにとっては「また同じ話を繰り返ししている」と思うわけです。ただ、どうして繰り返されるのかというと、まだ解決していないからです。
法廷まで持っていく弁護士たちにとっては、政府の賠償まで繋げるためにはどうしたらいいのか、また、この問題が新鮮な形で人々に知ってもらうにはどうしたらいいかと悩んでいます。それは私たちが作った映画にとっても同じです。

ー そういう意味で、この映画の中で市民法廷のシーンがあったのは効果的だったように思います。日本でも2000年12月に「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」というのが‏開かれ、この市民法廷のように韓国、中国、インドネシア、オランダなどから慰安婦にさせられた人たちを証言者として招き行われました。私はこの時参加しましたが、この時も2018年の韓国の市民法廷のように、反対派による妨害がありました。
また、NHK教育テレビ・ETV特集で「ETV2001 問われる戦時性暴力」というタイトルで2001年に放送されたのですが、後に首相になった安倍晋三氏などの圧力によって放送前に内容が改変されたと、その後、主催者とNHK等の間で裁判になりました。

*「ETV2001 問われる戦時性暴力」改変問題 参考サイト

監督 この映画の中に出てくる市民法廷というのは、まさにその2000年の日本での市民法廷を参考にして作られたものです。その法廷が行われている時に元軍人たちがやってきて妨害してと同じようなパターンになってしまいました。

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©2018 Whale Film

ー 市民法廷というのは実効性はないかもしれないけど、アピールする手段としては効果があるのではないでしょうか。

監督 韓国でも、この虐殺事件のことが本当の法廷までまだ行っていないので、どうしたら法廷にもっていけるかということも考えるようになったんです。この市民法廷が開かれたことによって、韓国社会の中でも変化があったと思います。参戦軍人の人たちも「法廷」という厳粛な場で証言者のいうことを2日間聞いたわけです。これまでは声を荒げて「自分たちはやっていない」と叫んできたわけですが、叫んでるだけではだめと自覚するきっかけになったと思います。市民法廷が開かれ、タンさんの証言を聞いて、自分はやっていないけど誰かがやっていると、政府に真相を究明してほしいと参戦軍人の人の中にもそういう風に思う人も出てきました。

ー ニューギニアにおける慰安婦を描いた『戦場の女たち』(1989年、関口典子監督)というドキュメンタリーがあるのですが、ここでは元軍医だった人が、この作品に協力して証言や写真提供をしていて、慰安所は軍が管理していたことを証言しているのですが、日本ではごく少数ですが、こういうドキュメンタリーに協力して証言してくれる元軍人がいます。韓国でもそういう元軍人で協力してくれる人が出てきたりしていますか?
*記録映画『戦場の女たち』関口典子監督インタビュー

監督 今まで顔を出して虐殺部隊にいたと証言する人は多くはなかったのですが、最近BBCのドキュメンタリーで一人いました。この『記憶の戦争』の最後のほうに出てくるハミ村にいるタンおばさん(フォン二ィ村のタンさんとは別のタンさん)も出てきますが、韓国の参戦軍人の中で虐殺部隊にいたという人が一人登場しています。その番組では顔も出して、実名も公開してインタビューに答えています。それが最初の事例です。それ以降は「自分は虐殺部隊にいた」という人は名乗り出てはいないです。その方が唯一、勇気を出して、顔を出して証言をした方です。社会の雰囲気が変わらないと、そういう風に証言してくれる人は出てこないですね。敵対的なことがあったり、話してはいけないような雰囲気があると出てこられない。

ー あの市民法廷でも「軍人個人を非難するものではない」という発言がありましたが、それをくんで証言してくれる人がいるともっと事実がわかってくるのですがね。

監督 そうですね。

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☆次作について

ー 次回作の予定を聞かせていただけたらと思います。

監督 次の作品としては女性の体と性の自己決定権(リプロダクティブ・ライツ)についての長編ドキュメンタリーを準備しています。
*リプロダクティブ・ライツ(生殖の自己決定権)
子供を産むか産まないか、いつ・何人持つかを自分で決める権利。
妊娠、出産、中絶について十分な情報を得られ、産む自由・産まない自由を自己選択できる権利。

ー 日本でも1970年ころ始まったウーマンリブ運動の中で、このリプロダクティブ・ライツという考え方が提唱され、麻鳥澄江さんという方がその頃からこのテーマを唱えています。「女と体」ということで夏合宿をやったりしていました。
参考資料 

監督 最近、まさに日本のウーマンリブ運動をを回顧するようなドキュメンタリーをソウル女性映画祭で観ました。と、その映画の一場面をスマホの画面で見せてくれた。

ー ああ、それは知り合いの山上千恵子監督と瀬山紀子監督の『30年のシスターフッド~70年代ウーマンリブの女たち』ですね(2005年発行シネマジャーナル64号と68号に掲載)。その出演者の中に麻鳥(岩月)澄江さんもいたかもしれません。みんないろいろつながっています。
(山上千恵子監督に確認したところ、この作品に麻鳥(岩月)さんは出ていないとのこと。でも、岩月さんと優生保護法改悪反対運動の記録「女たちは元気です」を一緒に作ったそうです。また、中絶を自分の意思で選んだ女たちの短篇ビデオ「私を生きるために」で岩月さんにインタビューしていて、これはリプロダクツヘルス・ライツに関してのシリーズのひとつだそうです。岩月さんともども女たちが堂々と自分の中絶体験を語ってくれた貴重な記録ビデオとのこと。イギル・ボラ監督の次回作はリプロダクティブ・ライツをテーマにしていると伝えたら「イギル・ボラ監督に山上からエールをお伝え下さい」とメールがきました)

シネマジャーナル本誌64号 作品紹介『30年のシスターフッド~70年代ウーマンリブの女たち』
シネマジャーナル本誌68号 『30年のシスターフッド』アメリカへ 

*参考資料
山上千恵子監督や、『30年のシスターフッド』にも出ている三木草子さんは今、「シニア女性映画祭大阪」を開催していて、今年10回目です。「第10回 シニア女性映画祭・大阪2021」は、10月29日(金)、30日(土)にあります。

取材を終えて
今年(2021年)最初に観た映画がイギル・ボラ監督の『きらめく拍手の音』でした。ポレポレ東中野で短期間の上映があったのです。ボラ監督の著書「きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる」の出版記念の上映会だったようです。聾唖者の両親の話でとても暖かい気持ちにさせてくれました。
スタッフ日記
2020年最後に観た映画『越年 Lovers』と2021年最初に観た映画『きらめく拍手の音』(暁)

『きらめく拍手の音』は、2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では観ることができず、日本で公開されたことも知りませんでした。でも山形の授賞式の時に、イギル・ボラ監督の写真を何枚か撮りました。それを今回プリントしてインタビューの時にもっていったら喜んでくれました。監督はこの時、坊主頭だったのですが、「なんでこの時、坊主頭だったの?」と聞いたら、そのころやることなすことうまくいかなくてむしゃくしゃしていたので髪を切ったと言っていました(笑)。2015年はこの『記憶の戦争』にかかっていた時期だったと思うけど、この映画を作るにあたって、「若い女に、戦争の何がわかる」と元軍人の人に言われたり、いろいろ妨害もあったと言っていたから、そういう時期だったのかもしれません。
この時の通訳も根本理恵さんでした。なので「二人の出会いは2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でしたね」というところから始まりました。根本さんには1996年の『ナヌムの家』(シネマジャーナル36号の表紙にもなっている)の頃からお世話になっていたので、シネマジャーナル30周年記念の本誌100号をお渡ししました。この号は、1号から100号までの表紙と各号ごとのおおざっぱな掲載記事紹介、スタッフの映画に対する思いが掲載されていたので、シネマジャーナルを知ってもらうにはちょうどいい号なのです。
また、仙台在住のシネマジャーナルスタッフのYさんと夫のSさんは2015年の山形でイギル・ボラ監督と同じホテルになり、一緒に飲んだそうですが、Sさんは酔っぱらって、『きらめく拍手の音』のことを「すごくいい」と100回くらい言ってボラ監督に絡んだたようです(笑)。迷惑かけてすみません。Sさんはそのことを95号に書いています。
ということでイギル・ボラ監督インタビューの話が来た時、縁を感じ取材させていただきました。ちなみに今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でイギル・ボラ監督は、「アジア千波万波」部門の審査員を務めました(暁)。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2015授賞式

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『きらめく拍手の音』がアジア特別賞を受賞

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イギルボラ監督と通訳の根本理恵さん

ショーレ・ゴルパリアンさんにキアロスタミ監督の思い出を伺う

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イラン映画の巨匠アッバス・キアロスタミ監督の初期7作品のデジタル・リマスター版特集上映「そしてキアロスタミはつづく」が全国順次開催されるのを機に、キアロスタミ監督と親交の厚かったショーレ・ゴルパリアンさんにお話を伺いました。

ショーレ・ゴルパリアンさんは、1979年に初めて来日。イラン映画の字幕翻訳や映画人来日の折の通訳だけでなく、日本のドラマや映画のイランへの紹介、日本とイラン合作映画の製作など多岐にわたって日本とイランを繋いで活動されてきました。2020年には、「芸術を通じて日本とイランとの間の文化交流の促進に多大な貢献を行った」として旭日双光章を受章されています。
今年、9月1日には、『映画の旅びと イランから日本へ』を出版されました。ショーレさんの軌跡を知ることのできる1冊ですが、キアロスタミ監督やナデリ監督をはじめ、日本で馴染みのあるイランの監督たちの映画への思いも知ることができる1冊です。

『映画の旅びと イランから日本へ』
著者:ショーレ・ゴルパリアン
みすず書房
発行日 2021年9月 1日
定価 3,960円 (本体:3,600円)
頁数 272頁
ISBN 978-4-622-09033-5
Cコード C0074
https://www.msz.co.jp/book/detail/09033/
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本のカバーの写真は、表と裏で1枚の写真。ショーレさんが隠れて 『CUT』の撮影風景を見ているところを、スチール担当のカメラマンが遊びで撮ったもの。撮られたことに気がついて、カメラの方をみて笑っている写真もあったのですが、こちらを選んだそうです。広げると、撮影機材が映っているのがわかります。


「そしてキアロスタミはつづく デジタル・リマスター版特集上映」
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2021年10月16日(土)よりユーロスペースほか全国順次開催
公式サイトhttp://www.eurospace.co.jp/
シネマジャーナルhttp://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/483749826.html

★10月23日(土)12:40『風が吹くまま』上映後
ショーレ・ゴルパリアンさんによるトークショー開催!



◎ショーレ・ゴルパリアンさんインタビュー
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― この度は、『映画の旅びと イランから日本へ』(以下、自伝本)のご出版おめでとうございます。面白くて一気に読みました。40年前にショーレさんが日本にやってきた衝撃の理由も書かれていて、驚かされました。 1991年末、2度目に来日されてからのショーレさんの歩みは、まさに、日本におけるイラン映画の歴史に重なります。私自身のそのときそのときの思い出も蘇りました。

ショーレ:イランから来日したすべての監督たちにインタビューされていると思いますので、いろいろ思い出されたことと思います。

― 残念ながら、キアロスタミ監督にはインタビューしていないのです。キアロスタミ監督がインタビューを受けていらした頃には、まだ会社勤めをしていて、映画は観ていたものの機会がありませんでした。亡くなられたあとにキアロスタミ監督を追悼する映画『キアロスタミとの76分15秒』(2016年)を作られたセイフラー・サマディアン監督にキアロスタミ監督のお話を聴けたのはよかったと思っています。
今日は、「そしてキアロスタミはつづく」の特集上映を機に、キアロスタミ監督のことを中心にお話を伺いたいと思います。

◆記憶力で書いた記事 【キアロスタミ、日本の天皇に会う】
― 自伝本の中で、まず印象に残ったのが、キアロスタミ監督と黒澤監督のご自宅を訪ねた時のことです。「録音しておけばよかった」というキアロスタミ監督の言葉を聞いて、「全部覚えていますよ」と書き起こしたものが、【キアロスタミ、日本の天皇に会う】という記事になってイランの映画雑誌に掲載されたというエピソードはすごいなと思いました。

ショーレ: キアロスタミさんは、基本的に人を疑う癖があって、「覚えているなら書いてみて」と言われて、目を通してもらって、OKをいただいて、安心して記事を出しました。

― ショーレさんは、通訳されるときも、メモを取らないのに、監督たちの長い話を的確に伝えてくださって、いつもびっくりします。

ショーレ:私の通訳もイラン映画の撮影と同じです。セリフをきちんと覚えて、そのまま言わせるのではなくて、セリフを役者の身体に入れて、自分のものにして言わせるというのがイラン映画のスタイル。監督の答えを全部聴いて、自分の中に入れて話すのです。長くてなかなか終わらない監督の話は、頭の中にコードを入れます。最初は奥さんの話、次は子どもの話、最後は車の話という風に。そうすると順番に言えます。メモしたのをそのまま読むのはいやなのです。

― 自伝本の中に、キアロスタミ監督が『友だちのうちはどこ?』の個別インタビューを3日間受けている中で、前に出たのと同じ質問をされると、ショーレさんに「答えはもう知ってるでしょ」と、答えの代わりに時間つぶしに関係のないジョークをおっしゃっていたという話が可笑しかったです。

ショーレ:キアロスタミさんの取材はいっぱい入っていて、なぜかみんな同じ質問をしてきます。最初の日は、同じ質問にもちゃんと答えるけど、2日目になると、「なぜ違う質問してくれないのか。あなたがわかっているから返事して」と。でも、すぐに私から返事をするわけにいかないので、キアロスタミさんも心得ていて、別の話をしていました。

― どんな話を?

ショーレ: 結構、きわどい冗談を言ってました。笑いをこらえながら、一生懸命頑張って真面目な話を聴いている顔をして、記者の方にはちゃんと答えていました。録音もされているから、大変でした。キアロスタミさんには意地悪ばかりされていました。

― その冗談をちゃんと訳していただいて聴きたかったです。

◆『ライク・サムワン・イン・ラブ』は、『The End』だった

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(C)mk2/eurospace

― 日本で撮影された『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012年)でも、ずいぶんご苦労されたことをあらためて自伝本を読んで知りました。ナデリ監督が日本で『CUT』(2011年)を撮られて、キアロスタミ監督も日本で映画を撮りたいと思われたとも聞いています。

ショーレ:それを聞くと、キアロスタミさんは怒るかもしれません。企画は『CUT』よりずっと前から立てていました。思い通りのロータリーがなかなか見つからなくて、『CUT』が先にできてしまいました。キアロスタミさんが一番大切にするのはロケーション。時間をかけて探して、イメージ通りのロケーションを見つけたら、すぐに撮影されます。

― ショーレさんがロータリーを探して、日本だけでなく釜山にも行かれた話が自伝本に書かれていて、ほんとにキアロスタミ監督のために尽くされたことを知りました。そうやってショーレさんがキアロスタミ監督と良い関係を築かれてきたのに、『ライク・サムワン・イン・ラブ』がもとで、晩年は絶縁状態だったことにびっくりしました。この映画の製作では、ショーレさんは「監督補」という日本の映画の現場にはないイラン映画特有の役割を担っていたのに、それを理解していない日本人の方が、英語訳の「Associate Director」を「共同監督」の意味だと伝えられたことで、キアロスタミ監督が「ショーレも監督のつもりか」と誤解されて、その後、誤解を解く機会もないまま、お亡くなりになられたことに、ショーレさんが今もどんなにつらい思いでいらっしゃることかと思います。

ショーレ:すごくつらかったですね。でも、亡くなられたとき、ちょうどイランにいて、お葬式に参列することができて、皆に、日本的に「呼ばれたね、仲直りしたかったからだよ」と言われました。時間が経つと、私の性格なのですが、苦労や悪い思い出は全部デリートしてしまうので、いい思い出しか残っていません。偉大な監督のキアロスタミさんから学んだことはいっぱいありますし、すごく笑ったこともありますので、それしか頭に残ってないです。『ライク・サムワン・イン・ラブ』の苦労は、もう全部忘れました。

― ほかにも色々とご苦労されて、『ライク・サムワン・イン・ヘル(地獄)』だったと書かれていましたね。

ショーレ:実は、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は、最初、『The End』というタイトルでした。イランの新聞に出て、縁起が悪いといわれてタイトルを変えました。でも、これが長編劇映画の最後の作品になって、ほんとに「TheEnd」になってしまいました。


◆キアロスタミとナデリは、よきライバル
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― 自伝本では、キアロスタミ監督とナデリ監督の対照的な性格もよくわかって、すごく面白かったです。

ショーレ:二人はいい意味でのライバル。キアロスタミさんはカーヌーン(イラン児童青少年知育協会)のスタッフで、ナデリさんは外の人間だけど、5年間くらい、キアロスタミさんの部屋で、ぷかぷかタバコを吸いながら二人で、これ撮ろう、あれ撮ろう、あの話、この話と、いろいろ話していたそうです。
キアロスタミさんの初めての長編映画『The Experience』(1973年) は、ナデリさんが実際に味わった話。『トラベラー』(1974年)もサッカーを観に行って、始まる前に寝てしまって起きたら試合が終わっていたというナデリさんの話が元になっているけれど、「この二つの映画が僕の話から生まれたとキアロスタミさんはどこにも明かさない」とぼやいてました。初の短編『パンと裏通り』(1970年)も、ナデリさんが背中を押して、やっとキアロスタミさんが撮った映画だと言ってました。ライバル意識があったから、お互いがお互いを助けたとは言わないけれど、お互いがお互いを助けていました。


― ナデリ監督はキアロスタミ監督が亡くなられたと聞いて、これからリングにあがって誰を殴ればいいんだとおっしゃったそうですね。

ショーレ:お葬式の時に、誰かからナデリさんがすごく悲しんでいると聞きました。お互い好きだけど、表に出しません。ナデリさんに電話したら、私の声を聴いてひとこと、「これからリングの上で誰を殴ればいいんだろう。マフマルバフじゃない、ファルハーディーじゃない、誰だろう」と言って電話を切ってしまいました。いつも、キアロスタミさんが作ったから、僕も作ろうとお互いに思っていたのではないかと思います。
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― ナデリ監督は、今、コロナで映画を作れないでいるのですか?

ショーレ:ロサンジェルスにいて、脚本はたくさん書いているけれど、なかなか映画は撮れなくてイライラしています。キアロスタミさんはイランの映画の師匠でした。キアロスタミさんは、目の前にいて、ノックすれば家に入れるくらい近い存在でした。ナデリさんはイランを離れてアメリカにいて、目の前にいない師匠だったけれど、キアロスタミ師匠が亡くなってから、ナデリ師匠に注目して、映画を目指すイランの若い人たちがナデリさんに電話したり、作った映画を観てくれとお願いしたりしていて、ナデリさん、「なんで今?」と思っているのではないかと思います。


◆キアロスタミ監督が育てた二人の息子
― ショーレさんの本を読んで、キアロスタミ監督が離婚されてシングルファーザーだったことも知りました。

ショーレ:離婚して二人の息子を育てていました。ナデリさんから聞いたのですが、キアロスタミさんはカーヌーン(イラン児童青少年知育協会)のサラリーマンだったので、5時になると仕事をやめて帰って、息子の面倒をみたりご飯を作ったりしていたそうです。ナデリさんは家庭を持っていませんでしたから、ナデリさんからするとキアロスタミさんは子どもの世話をしながら映画を作っていて偉いなと。 息子たちも、家でパパが編集したりしているので、映画は身近なものでした。次男のバフマン・キアロスタミはドキュメンタリー監督になっていて、編集もうまくて、『ライク・サムワン・イン・ラブ』の編集も半分手伝っていました。長男のアフマド・キアロスタミはIT関係の仕事に就いたけれど、今は父親の映画の修復や、映画を紹介するイベントを企画しています。アフマドは母親と海外にいたこともあって、キアロスタミ監督の現場にあまりいなかったので、今、あらためて映画を観て、父はすごいなと思ったと言っています。次男のバフマンは、よく現場にいて、キアロスタミのやり方を見ていました。『桜桃の味』の最後にも映っています。

★アフマド・キアロスタミ氏(デジタル・リマスター版監修)
 動画メッセージ https://youtu.be/tfjE5dLemHo

― 2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたバフマンさんの『エクソダス』を観ましたが、全然タイプが違いますね。

ショーレ:作風が違いますね。逆にイランの若い監督がキアロスタミを真似た映画を作っているけれど、バフマンが作った映画は父親の作品に似てないです。父から学んだことはいっぱいあるし、撮り方や技術や芸術は見ていたけれど、自分の映画を作るバフマンはすごいと思います。

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2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭 アジア千波万波で上映された『エクソダス』で奨励賞を受賞したバフマン・キアロスタミ監督 (撮影:宮崎暁美)

◆宿題に苦しむ息子から生まれた映画
― 『ホームワーク』(1989年)は、息子さんが通っていた学校で撮ったそうですね。少年たちがすごく可愛かったです。
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ショーレ:息子が宿題にすごく苦しんでいて、PTAに行ったら、ほかの親も皆、宿題が大変と言っていて、そこからあの映画を作ることになったそうです。学校にカメラを持っていって、子どもたちを呼んで、宿題のことを次々聞くのですが、「友だち呼んでください」と泣き出してしまう男の子には、こちらも涙が出ました。
『ホームワーク』は、テヘランで有名な大きな映画館で公開になったのですが、すごくたくさんの人が観に行ったのを覚えています。ちょうどイランに帰っていて、観たいのになかなかチケットが入らないくらい、皆、観に行きました。特に学校の先生が観に行くべき映画でした。


― 『友だちのうちはどこ?』(1987年)でも、宿題をやっていないと怒られていましたね。
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ショーレ:私の時代も、ほんとに宿題が多かったです。同じものを10回書くなど、宿題に苦労していました。キアロスタミさんは、自分の経験したことや、身近な人が経験したことから映画を作っています。『友だちのうちはどこ?』も、先生をしている友達から、間違って持って帰ったノートに宿題をしてきた生徒の話をひとこと聞いたことから生まれたそうです。ちょっとした話から映画を作るのですね。 話を考えて、いろいろ計算して撮っているのに、そこにその話があって、監督はカメラを置いてどこかに行ったみたいな感じですね。

― 計算して作っているのが感じられないですね。扉を作る職人さんが、「鉄の扉なら一生持つから、鉄の扉に変える人が多い」という一方で、「この木の扉は40年持っている」という言葉があって、あの村の家の扉をなにげなく見せながら、人生は短いということを感じさせてくれる場面でした。

ショーレ:シンプルに語っているけれど、裏があって、奥が深くて、哲学があります。


◆映画には詩が流れている
― イランの方は詩が好きで、その詩もすごく哲学的。ひとつひとつの言葉に人生の哲学があって、特にキアロスタミの映画を観ているとそれを感じます。

ショーレ:キアロスタミさんも自分の映画は詩がベースとおっしゃっていました。ほかの監督の映画を観ていても、誰かの詩がベースだと感じるのですが、特にキアロスタミさんの映画には詩を感じますね。ご自身、俳句といってショートポエムを書いていました。映画には詩がずっと流れています。正確には詩ではないけれど、セリフが詩のようです。キアロスタミさんは、ソフラーブ・セぺフリー(1928年~)の詩を詠んだ時に、自分の世界に近いと感じたそうです。実際に会ったことはなかったけれど、友達から聞いて、性格も自分に近いと思ったそうです。『友だちのうちはどこ?』は、セペフリーの詩にある名文章です。セペフリーを尊敬していました。すべての映画には詩が流れています。『桜桃の味』の最後に出てくるおじいさんの話も詩人の話のようです。読み書きのできなかった詩人バーバー・ターヘル(11世紀の神秘主義詩人)を思い起こします。
先日、『桜桃の味』をマスタークラスのために何年かぶりに観たのですが,最後のおじいさんの話にじーんとさせられて、前に観た時と違う目で観たと思いました。字幕を付けたときには、字幕をチェックする感じで観てしまうけれど、今回は映画そのものを観て、あらためてすごい映画だなと思いました。

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― 私も先日、久しぶりに『桜桃の味』を観て、あらためて、キアロスタミ監督はすごいなと思いました。最初、大通りを走っているとアフガン難民と思われる青年たちが、仕事を求めて声をかけてきます。郊外の丘へ行って、自殺しようとしている主人公が、これはと思う人物に声をかけて車に乗せると、必ずどこの出身かを聞いています。イランにいる様々な民族の人を自然な形で登場させてイランの多様性を見せていることに気づきました。エンドロールで、最後の場面に出てきた兵士たちの名前と出身地が書かれていたことにも驚きました。

ショーレ:最後に走っていた兵士たちの名前もすべて挙げて、イランには徴兵制があることも示したのですね。キアロスタミさんは、出演した人たちやスタッフすべてを尊敬しているので、全員の名前を掲げたのだと思います。


◆観客の反応する姿に興味があったキアロスタミ
― キアロスタミ監督がイラン各地で「ターズィエ」(シーア派指導者の殉教した日の出来事を語る劇)の観客を映した映画『Looking at Tazieh』を撮られていることにも興味を惹かれました。

ショーレ:キアロスタミさんは、若い時、友だちと映画館にいくと、映画じゃなくて観ている友だちの反応を観ていたそうです。それをいつか映画にしたいと思って撮ったのが、『シーリーン』(2008年)です。12世紀の詩人ニザーミーの叙事詩に基づく悲恋物語「シーリーン」の劇(映画)を観ている女優たちの反応を撮った映画ですが、音声だけが聴こえていて、彼女たちが観ているものは映されていません。『ターズィエ』も、劇を演じている人でなく、観ている人たちが泣いたり、感極まったりしている姿を映し出しています。この映画は権利を外国が持っていて、なかなか観られないです。キアロスタミさんから聞いたのですが、イタリアで、殉教劇「ターズィエ」を上演した時に、ペルシア語なのに、イタリア人が皆、泣いていたそうです。イランと同じ反応をしていて、すごく面白かったとおっしゃっていました。言葉が通じなくても、悲しい物語なのが伝わったのはすごいと。

― 映画や演劇は言葉がわからなくても伝わるものがありますね。

ショーレ:そうですね。私たちは字幕を全部読んでも理解できないことがあるけれど、ちょっとだけ字幕を読んで映像を観れば伝わってくるという経験をしていると思います。


◆ZOOMでイランの映画人も身近に
― ショーレさんは、長年にわたってイランと日本を映画を通じて繋いでいらして、字幕や通訳だけでなく、東京藝術大学大学院映像研究科の客員教授も務められ、日本の映画人育成にもご尽力されています。今は、コロナでイランから映画人を招聘することもできないでいると思います。

ショーレ:ワークショップは、全部インターネットでやっています。この間も、『ホテルニュームーン』の脚本を書いた脚本家のナグメ・サミミと10日間、脚本ワークショップをおこないました。マスタークラスも開いています。 今まで日本に呼ばないといけなかったけれど、逆に、これからはずっとZOOMでおこなうことになるのではないかと思います。日本に招聘すると、アテンドも必要ですが、ZOOMなら、お互い、家にいてやりとりできて時間が有効に使えます。

― 生身の方に会いたいけれど、今年も映画祭は監督たちとZOOMでQ&Aですね。 自伝本には、映画祭で来日されたイランの監督たちのこともいろいろ書かれていて面白かったです。

ショーレ:私自身が経験したことや、偉大な監督たちの思い出を書きましたので、イラン映画のこともよくわかると思います。

― 映画製作の裏話も書かれていて、監督たちがこんな風に思って映画を作ったということも知ることができました。


◆キアロスタミさんは人生の先生
― ショーレさんのお仕事、大変だけど、ほんとに楽しそうですね。

ショーレ:仕事は楽しめないとやっていられません。どこかで楽しいことを見つけます。キアロスタミさんは頭がいい方で、どこで人を楽しませるかを考えていました。例えば、取材の間でも違う話をしたりしていました。学んだことはたくさんあるのですが、キアロスタミさんは、私にとって人生の先生でもあったという気がします。通訳するときに、キアロスタミさんの言葉を一回私の中に入れてから通訳しましたので、ほんとに多くのことを学びました。私にとっては 20年間のワークショップでした。二人で歩いたり、ご飯を食べたりしながら、よくしゃべりました。人生に役立つ話がたくさんありました。自伝本にも少し書きました。厳しい人でしたので、いろんな人と話はしなかったと思うのですが、人を信用すると話してくれます。信用するまで時間がかかるのですが、私は信用していただいて、プライベートな話も含めていろいろ話してくださったので、私はほんとに幸せだったと思います。ナデリさんも信用して私に話してくれて、私にとって宝です。

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2019年 山形国際ドキュメンタリー映画祭
左からショーレ・ゴルバリアンさん、アラシュ・エスハギ監督、アミール・ナデリ監督、バフマン・キアロスタミ監督
(撮影:宮崎暁美)

◆コロナ禍で疲れた心をキアロスタミの映画で癒して!
ー 最後に、今回の「そしてキアロスタミはつづく デジタル・リマスター版特集上映」にあたって、日本の観客にひとことお願いします。

ショーレ:コロナで1年半、友達にも会えなくてずっと一人で家にいた経験をした今だからこそ、今回の7本をぜひ観るべきだと思います。今、私たちが必要としている映画。今の私たちは混乱した世界にいるから、ハリウッド映画のようなごちゃごちゃしたものじゃなくて、優しい映画を観たい。ほっとする映像を観たい。個人的にユーロスペースに感謝しています。歳を取ると、全然違うところに目がいったり、違う味わい方をするので、私自身、今回の特集上映の7本を劇場で観るのが楽しみです。
『オリーブの林を抜けて』、3週間くらい癒される。
『風の吹くまま』、ほんとにほっとする。
『トラベラー』、可愛くてしょうがない・・・ 
ネットでも観られるけれど、暗い空間の中で一人の世界に入って大きな画面で観るべきだと思います。家だと気持が散ります。イマジネーションの世界に入って観るのが楽しいです。

― 今後、さらにどんな夢をお持ちでしょうか?

ショーレ:キアロスタミさんがおっしゃっていたのですが、我々は夢と現実を行ったり来たりできるから、すごく幸せだと。一人でいても夢をみて孤独にならない。神様からご褒美としてもらったのが夢。寝てみる夢じゃなくて、イマジネーション。コロナ禍が終わったら、イランにも帰って、トルコにも行って、ナデリさんの撮影現場にも行って・・・と、思いめぐらしています。私の夢は映画のトラベラーですから。

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「キアロスタミさんは人生の先生、ナデリさんは私の宝」とおっしゃるショーレさんをうらやましく思ったひと時でした。 私にとっては、ショーレさんの存在があったからこそ、数多くのイラン映画を日本で観ることができたと、感謝の思いでいっぱいです。
キアロスタミ監督にはインタビューをする機会は持てませんでしたが、何度か言葉を交わしたことはあります。初めてお会いしたのは、徳間ホール(現:スペースFS汐留)で開かれた2004年のイラン映画祭の記者会見の時でした。私のちょうど前の席にキアロスタミ監督が座っていらして、その隣に存じ上げている大阪外国語大学(現:大阪大学)ペルシア語科のラジャーブザーデ先生がいらしたので、先生にお声をかけてキアロスタミ監督をご紹介いただいたのでした。
最後にお会いしたのは、ユーロスペースの入っているビルの1階のカフェで、ショーレさんとお話されている時でした。「日本で作られる映画を楽しみに待っています」と申しあげたところ、「どうぞ待っていてください」とにっこり笑ってくださいました。
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上映後のQ&Aや、東京フィルメックスの「Next Masters Tokyo 2010」での講義(写真上)なども聴く機会がありましたが、一番印象に残っているのは、東京藝術大学でのシンポジウムです。藝術を学ぶ学生さんたちがメインの参加者だったので、高尚な質問が多く、キアロスタミ監督も、ことのほか嬉しそうでした。
今回の特集上映「そしてキアロスタミはつづく」、監督の姿を思い出しながら味わいたいと思います。

景山咲子