2021年11月6日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開!
『記憶の戦争』英題:UNTOLD 作品紹介
ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺を描く
ダナンから車で20分ほどの所にあるフォンニィ村。1964年から1973年、延べ30万人もの韓国軍兵士がベトナム戦争に参戦していたが、その軍事行動で痛ましい民間人虐殺事件がこの村であった。前作『きらめく拍手の音』で、聾唖者の両親を愛情あふれる視点で描いたイギル・ボラ監督だが、監督の祖父がベトナム戦争に参戦したことなどがこの作品を作るきっかけになった。
2018年、ソウルで開かれた市民平和法廷で、1968年にあった「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」の生存者であるベトナム人女性、グエン・ティ・タンさんは法廷に立った。8歳の時、韓国軍に家族を殺され孤児となった彼女は、あの日一体何が起こったのかその記憶を語る。
イギル・ボラ監督はベトナムに行き、他にもあの日起こった事を目撃した聾唖者のディン・コムさんに取材。彼は身振り手振りを交えて虐殺の時見たことを再現。あの日の後遺症で視力を失ったグエン・ラップさんも語ることのなかった記憶を絞り出すように語る。
一方、韓国の元軍人たちは「我々は良民は殺していない」と主張。しかし、フォンニィ村では69~79人と言われる犠牲者を50年間弔ってきた。
全員女性の映画製作チームはベトナムに何度も行き、「民間人虐殺」について当事者たちの生々しい証言を記録し、勇敢で優しいドキュメンタリーを作った。しかし、2020年現在、韓国政府、および韓国軍は、ベトナムの民間人虐殺を認めず、被害者に謝罪するに至っていない。
『記憶の戦争』公式HP
2018年製作/韓国
原題:Untold
配給:スモモ、マンシーズエンターテインメント
イギル・ボラ監督紹介 HPより
聾者の両親のもとに生まれたことが、天賦の才を得たと感じ、語り手として自覚し文章を書いたり、映画を撮り始める。
8歳からはCODAとして聾者の通訳を始める。
成績優秀だった18歳の時、高校を中退してクラウド・ファンディングで集めた資金を手に東南アジアを旅する。その旅行記「道が学校だ」(2009)と「ロードスクーラー」(2009)を出版し話題になる。
帰国後、難関の韓国芸術総合学校に入学し映画製作を学ぶ。
自らの両親を温かい視点で描いた『きらめく拍手の音』(2014)を製作。同作は第14回山形国際ドキュメンタリー映画祭へも出品、第8回女性人権国際映画祭では観客賞を受賞した。
2019年にオランダ・フィルムアカデミーを卒業後、ベルリナーレ・タレンツ2020に選出された新プロジェクトが進行中。現在はソウルと福岡を拠点に活動している
*山形国際ドキュメンタリー映画祭2015レポートはシネマジャーナル本誌95号に掲載
イギル・ボラ監督インタビュー
取材&写真 宮崎暁美 通訳 根本理恵さん
☆このドキュメンタリー作品を作ろうと思ったきっかけは
私はリアルタイムでベトナム戦争を知っている世代です。日本では、米軍が沖縄からベトナムに出撃したり、ベトナムへ行くための兵士たちの中継点として日本各地にアメリカ軍の基地もありました(東京でも立川などに米軍基地があった)。そういうこともあり、反戦運動がおこりました。私は高校3年の時(1969年)にべ平連(ベトナムに平和を市民連合)のデモに何回も参加しました。その反戦運動に参加したことが、今までの私の生き方に大きな影響を与えています。そういう私なので、これまでたくさんのベトナムに対する書物や映画、写真などを見て来ているのですが、韓国軍がこんなにもたくさん参戦していたとは思ってもいなかったのでびっくりしました。
*韓国軍 延べ、約30万人 アメリカ軍 延べ、約55万人
宮崎 監督のお爺さんがベトナム戦争に参戦し枯葉剤の後遺症で亡くなったり、18歳でアジア各地を放浪したことが、この映画を作ることにつながったとのことですが、具体的にはどういういきさつでこの映画を撮ることになったのでしょうか。
イギル・ボラ監督 この映画を作ることになったきっかけというのはいろいろあるのですが、まずは私の祖父がベトナム戦争に参戦した軍人だったというのがあります。祖父の家に行くと表彰状とか勲章が誇らしげに飾ってあったんですね。また、10代後半から20代前半に韓国軍によるベトナムでの民間人虐殺の事実を知ったというのがあります。また、中学、高校の時の現代史を学ぶ中で、ベトナム戦争に参戦することで大きな経済的な発展があったということを教わりました。
それから、先ほどおっしゃってくれたように、アジアを放浪し18歳の時ベトナムに行った経験があって、その時にベトナムと言ってもいろいろな姿があるのだと知ったのです。それまで私が知っていたベトナムの姿は一つと思っていたのにそうではなかった。どうして違う姿があるんだろうと、私の中でベトナムのことについて記憶の混在がありました。それでベトナムにおける真実が何なのか知りたいというのがスタートでした。
ー 具体的には、どういう作品にしようと思ったのですか?
監督 この映画のスタイルやコンセプトを決めるきっかけになったのは、私の祖父が枯葉剤の後遺症で肺癌と口腔癌によって亡くなったことです。祖母に聞いたところ、戦争のことを知らないというのです。ベトナムでのことについて、何があったのか、祖父は祖母に話をしていなかった。ベトナムでのことについて男たちは語らず、男たちの胸の中に収められていた。それを聞いて、どうして女たちは戦争の話をできないんだろうと思いました。祖母が戦争に行ったわけではないので知らないのはわかりますが、祖父が戦争から帰ってきてベトナムでの話を全然していないのはなぜ? 不思議に思いました。祖父がベトナム戦争に行くことになったきっかけは祖母にもあったわけで、祖父がベトナムに行っている間、祖母は家庭を守っていました。それで祖父が帰ってきて、戦争の話を一言も話していないのが気になったのです。それで、少数者や女性の視点でこの問題を語ってみようと思ったんです。祖母の経験がこの映画をつくるきっかけやコンセプトになりました。
*父方の祖父母 祖母は『きらめく拍手の音』に出てきた祖母
ー 監督の祖父は枯葉剤の後遺症で亡くなったということですが、韓国ではそういうことに対する補償はちゃんとされているのですか?
監督 枯葉剤で命を落とした場合は、国から一応補償は出ます。国家のために尽くしたということで国家有功者として証明書が出て、傷痍軍人として補償はしてくれるのですが、病院の治療代くらいです。後は多少の年金はあります。ベトナムに行き、外貨は稼いだはずなのですが、一定の金額は国が持っていってしまいますので、アメリカの帰国軍人に比べたら処遇は低いと言えます。
ー 昨日ネットで調べたら、枯葉剤の被害者団体の会員が14万人と載っていてびっくりしました。そんなに多いのですか。グエン・ティ・タンさんのこともニューヨーク発のニュースで載っていて、この団体の会員がこの市民法廷を襲ったと載っていました。その流れで、この映画が日本で公開される時に、従軍慰安婦や強制連行のことを否定的に考えている人たちに利用されたらいやだなと思いました。そのニュースを載せてたメディアがそちら側のメディアだったので。「韓国だってそういうこと(民間人虐殺)をしているじゃないか」という視点で語られたくないですね。
日本では中村梧郎さんという人が枯葉剤被害の写真を撮っていて写真展をやったり写真集を出しているのですが、ベトちゃんドクちゃんのことを知っていますか? 枯葉剤の影響で下半身がつながった結合双生児という形で生まれて来て、その分離手術を日本は支援しています。ベトちゃんは亡くなってしまったのですが、ドクちゃんは今も生きています。この二人がきっかけで日本でもベトナム戦争の時の枯葉剤のことはよく知られています。
*中村 梧郎 オフィシャルサイト
*参考記事 中村梧郎さん 日本の報道写真家と「戦場の枯葉剤」
監督 枯葉剤については比べられないですが、やはりベトナムにおける被害が多く、大きな問題を抱えていますね。当時、ほんとに大量の枯葉剤が撒かれていて参戦した兵士たちにも被害が及んでいます。最近、ベトナムの被害者たちが、フランスでアメリカの会社に訴訟を起こしています。
ー フォン二ィ村の民間人虐殺で生き残った人はどのくらいいたのでしょう。50年間、毎年慰霊祭が行われてきたということは、生き残った人も結構いたのでしょうか? タンさんは最後の生き残りという風に語っていたけど、もうほとんど生き残りの人はいないのでしょうか。
監督 そうですね。村には生き残った人たちがずっと住んでいたのですが、皆さん、だんだん高齢になってきて、亡くなられた方も多くなってきました。ホーチミンなどに行った人もいます。フォン二ィ村では毎年慰霊祭が行われていて、映画の中にも出てきますが、慰霊祭の時に青や赤の服を着ている人たちが生き残りの人たちです。その人たちにとっては自分たちのこととして祭祀を行っています。あと、慰安婦の人たちの問題もそうですが、時間がたち、当事者がだんだん亡くなってしまっているというのがありますね。
☆取材の方法やエピソードなど
ー フォン二ィ村の1968年の虐殺事件により8歳で孤児になったグエン・ティ・タンさんにはどのような経緯で出会ったのですか。
グエン・ティ・タンさん (C)2018 Whale Film
監督 ベトナム平和機構という団体がありまして、ベトナムで起こったことを伝えていこうという活動をしています。これは韓国にもベトナムにもありますが、韓国の人たちがやっています。この方たちと一緒にベトナムに行った時にお会いした中の一人でした。
ー それは何年くらい前ですか。また、ベトナムへの取材は何回くらい行っているのですか?
監督 2015年の1月か2月頃でした。それ以降は1年に1回、2月から3月にかけて行っていました。コロナ禍になるまでの2019年まで5回くらい行きました。
ー 証言者のディン・コムさん(聾唖者)やグエン・ラップさん(虐殺の後遺症で盲目に)にはどのような経緯で出会ったのですか。この方たちも含めて、このフォン二ィ村の虐殺を語るうえで、とても適切な人材だったと思います。
監督 2015年はタンおばさんにお会いしました。そのころはプリプロダクションの段階で、事前調査に行きました。2016年は映画を撮るということでカメラを持って行ったのですが、その時にディン・コムさんとグエン・ラップさんに会いました。正確には2015年にグエン・ラップさんとはちょっとお会いしています。
☆市民法廷の影響
ー 2018年4月21,22日のソウルの市民法廷ですが、ここに至るまでの20年近い運動の集大成として行われた法廷だったのですか。
監督 ハンギョレ新聞のク・スジョンさんが1999年5月、週刊誌『ハンギョレ21』に書いた記事がきっかけで始まりました。韓国では2015年にこの記事を元にした本が出て、日本では今年翻訳本が発刊されました。その人たちが提起した運動がずっと続いていたわけです。その方たちのネットワークがあって、その一つとしてベトナム平和機構があり、その中で私たちが映画を撮ることになりました。
ー 市民法廷で証言したこととか、市民法廷後の運動が、タンさんが韓国政府に提訴することのきっかけにもなったのでしょうか。また、この法廷のことはマスコミでどの程度報じられたのでしょう。TVで放映されたりしましたか?
監督 はい、このドキュメンタリーは韓国のEBSというTV局で紹介されたことがあります。あとは韓国では劇場公開もされていますので、この映画について知っています。私たちの映画だけでなく、この問題については、いろいろな機会に取り上げられているので、社会的に認知されていると思います。ただ、この事案というのはすでに20年前から提起されていて、ニュースなどで放映されると、当事者にとっては「またか」という人たちがいるわけです。そういう人たちにとっては「また同じ話を繰り返ししている」と思うわけです。ただ、どうして繰り返されるのかというと、まだ解決していないからです。
法廷まで持っていく弁護士たちにとっては、政府の賠償まで繋げるためにはどうしたらいいのか、また、この問題が新鮮な形で人々に知ってもらうにはどうしたらいいかと悩んでいます。それは私たちが作った映画にとっても同じです。
ー そういう意味で、この映画の中で市民法廷のシーンがあったのは効果的だったように思います。日本でも2000年12月に「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」というのが開かれ、この市民法廷のように韓国、中国、インドネシア、オランダなどから慰安婦にさせられた人たちを証言者として招き行われました。私はこの時参加しましたが、この時も2018年の韓国の市民法廷のように、反対派による妨害がありました。
また、NHK教育テレビ・ETV特集で「ETV2001 問われる戦時性暴力」というタイトルで2001年に放送されたのですが、後に首相になった安倍晋三氏などの圧力によって放送前に内容が改変されたと、その後、主催者とNHK等の間で裁判になりました。
*「ETV2001 問われる戦時性暴力」改変問題 参考サイト
監督 この映画の中に出てくる市民法廷というのは、まさにその2000年の日本での市民法廷を参考にして作られたものです。その法廷が行われている時に元軍人たちがやってきて妨害してと同じようなパターンになってしまいました。
ー 市民法廷というのは実効性はないかもしれないけど、アピールする手段としては効果があるのではないでしょうか。
監督 韓国でも、この虐殺事件のことが本当の法廷までまだ行っていないので、どうしたら法廷にもっていけるかということも考えるようになったんです。この市民法廷が開かれたことによって、韓国社会の中でも変化があったと思います。参戦軍人の人たちも「法廷」という厳粛な場で証言者のいうことを2日間聞いたわけです。これまでは声を荒げて「自分たちはやっていない」と叫んできたわけですが、叫んでるだけではだめと自覚するきっかけになったと思います。市民法廷が開かれ、タンさんの証言を聞いて、自分はやっていないけど誰かがやっていると、政府に真相を究明してほしいと参戦軍人の人の中にもそういう風に思う人も出てきました。
ー ニューギニアにおける慰安婦を描いた『戦場の女たち』(1989年、関口典子監督)というドキュメンタリーがあるのですが、ここでは元軍医だった人が、この作品に協力して証言や写真提供をしていて、慰安所は軍が管理していたことを証言しているのですが、日本ではごく少数ですが、こういうドキュメンタリーに協力して証言してくれる元軍人がいます。韓国でもそういう元軍人で協力してくれる人が出てきたりしていますか?
*記録映画『戦場の女たち』関口典子監督インタビュー
監督 今まで顔を出して虐殺部隊にいたと証言する人は多くはなかったのですが、最近BBCのドキュメンタリーで一人いました。この『記憶の戦争』の最後のほうに出てくるハミ村にいるタンおばさん(フォン二ィ村のタンさんとは別のタンさん)も出てきますが、韓国の参戦軍人の中で虐殺部隊にいたという人が一人登場しています。その番組では顔も出して、実名も公開してインタビューに答えています。それが最初の事例です。それ以降は「自分は虐殺部隊にいた」という人は名乗り出てはいないです。その方が唯一、勇気を出して、顔を出して証言をした方です。社会の雰囲気が変わらないと、そういう風に証言してくれる人は出てこないですね。敵対的なことがあったり、話してはいけないような雰囲気があると出てこられない。
ー あの市民法廷でも「軍人個人を非難するものではない」という発言がありましたが、それをくんで証言してくれる人がいるともっと事実がわかってくるのですがね。
監督 そうですね。
☆次作について
ー 次回作の予定を聞かせていただけたらと思います。
監督 次の作品としては女性の体と性の自己決定権(リプロダクティブ・ライツ)についての長編ドキュメンタリーを準備しています。
*リプロダクティブ・ライツ(生殖の自己決定権)
子供を産むか産まないか、いつ・何人持つかを自分で決める権利。
妊娠、出産、中絶について十分な情報を得られ、産む自由・産まない自由を自己選択できる権利。
ー 日本でも1970年ころ始まったウーマンリブ運動の中で、このリプロダクティブ・ライツという考え方が提唱され、麻鳥澄江さんという方がその頃からこのテーマを唱えています。「女と体」ということで夏合宿をやったりしていました。
*参考資料
監督 最近、まさに日本のウーマンリブ運動をを回顧するようなドキュメンタリーをソウル女性映画祭で観ました。と、その映画の一場面をスマホの画面で見せてくれた。
ー ああ、それは知り合いの山上千恵子監督と瀬山紀子監督の『30年のシスターフッド~70年代ウーマンリブの女たち』ですね(2005年発行シネマジャーナル64号と68号に掲載)。その出演者の中に麻鳥(岩月)澄江さんもいたかもしれません。みんないろいろつながっています。
(山上千恵子監督に確認したところ、この作品に麻鳥(岩月)さんは出ていないとのこと。でも、岩月さんと優生保護法改悪反対運動の記録「女たちは元気です」を一緒に作ったそうです。また、中絶を自分の意思で選んだ女たちの短篇ビデオ「私を生きるために」で岩月さんにインタビューしていて、これはリプロダクツヘルス・ライツに関してのシリーズのひとつだそうです。岩月さんともども女たちが堂々と自分の中絶体験を語ってくれた貴重な記録ビデオとのこと。イギル・ボラ監督の次回作はリプロダクティブ・ライツをテーマにしていると伝えたら「イギル・ボラ監督に山上からエールをお伝え下さい」とメールがきました)
シネマジャーナル本誌64号 作品紹介『30年のシスターフッド~70年代ウーマンリブの女たち』
シネマジャーナル本誌68号 『30年のシスターフッド』アメリカへ
*参考資料
山上千恵子監督や、『30年のシスターフッド』にも出ている三木草子さんは今、「シニア女性映画祭大阪」を開催していて、今年10回目です。「第10回 シニア女性映画祭・大阪2021」は、10月29日(金)、30日(土)にあります。
取材を終えて
今年(2021年)最初に観た映画がイギル・ボラ監督の『きらめく拍手の音』でした。ポレポレ東中野で短期間の上映があったのです。ボラ監督の著書「きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる」の出版記念の上映会だったようです。聾唖者の両親の話でとても暖かい気持ちにさせてくれました。
*スタッフ日記
2020年最後に観た映画『越年 Lovers』と2021年最初に観た映画『きらめく拍手の音』(暁)
『きらめく拍手の音』は、2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では観ることができず、日本で公開されたことも知りませんでした。でも山形の授賞式の時に、イギル・ボラ監督の写真を何枚か撮りました。それを今回プリントしてインタビューの時にもっていったら喜んでくれました。監督はこの時、坊主頭だったのですが、「なんでこの時、坊主頭だったの?」と聞いたら、そのころやることなすことうまくいかなくてむしゃくしゃしていたので髪を切ったと言っていました(笑)。2015年はこの『記憶の戦争』にかかっていた時期だったと思うけど、この映画を作るにあたって、「若い女に、戦争の何がわかる」と元軍人の人に言われたり、いろいろ妨害もあったと言っていたから、そういう時期だったのかもしれません。
この時の通訳も根本理恵さんでした。なので「二人の出会いは2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でしたね」というところから始まりました。根本さんには1996年の『ナヌムの家』(シネマジャーナル36号の表紙にもなっている)の頃からお世話になっていたので、シネマジャーナル30周年記念の本誌100号をお渡ししました。この号は、1号から100号までの表紙と各号ごとのおおざっぱな掲載記事紹介、スタッフの映画に対する思いが掲載されていたので、シネマジャーナルを知ってもらうにはちょうどいい号なのです。
また、仙台在住のシネマジャーナルスタッフのYさんと夫のSさんは2015年の山形でイギル・ボラ監督と同じホテルになり、一緒に飲んだそうですが、Sさんは酔っぱらって、『きらめく拍手の音』のことを「すごくいい」と100回くらい言ってボラ監督に絡んだたようです(笑)。迷惑かけてすみません。Sさんはそのことを95号に書いています。
ということでイギル・ボラ監督インタビューの話が来た時、縁を感じ取材させていただきました。ちなみに今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でイギル・ボラ監督は、「アジア千波万波」部門の審査員を務めました(暁)。