*プロフィール*
1961 年広島県呉市生まれ。父・良則、母・文子のもとで育つ。
東京大学文学部卒業、森永製菓入社。広告部で社内コピーライターに。1986 年制作会社テレパック入社。テレビ番組制作の道へ。1995 年から制作会社フォーティーズへ。2009 年自身の闘病を記録した「おっぱいと東京タワー ~私の乳がん日記~」を発表。2010 年独立してフリーディレクターに。フジテレビでドキュメンタリー番組を多く手掛ける。北朝鮮拉致問題やひきこもり、若年性認知症などの社会的なテーマや大道芸人ギリヤーク尼ケ崎にスポットを当てた企画や草食男子の生態という文化的なテーマなど100 本近くの番組を制作。
2013 年頃から自身の父母を被写体として家庭内介護の様子を記録し始め、2016 年、17 年 に「娘が撮った母の認知症」第 1 弾、第 2 弾としてフジテレビで放送される。これが大きな反響を呼び 2017 年「ぼけますからよろしくお願いします。 ~私の撮った母の認知症1200日~」としてまとめられ BS フジで放送された。いずれも好評を博しそれが劇場公開へとつながった。2018 年に『ぼけます から、よろしくお願いします。』で長編監督デビュー。全国 99 劇場 10 万人を動員する大ヒットとなる。 令和元年の文化庁映画賞・文化記録映画大賞など数々の栄誉に輝く。本作は待望の続編。
監督:信友直子
撮影:信友直子 南幸男 河合輝久
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(C)2022「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」製作委員会
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★2022年3月25日(金)より全国順次公開
―2018年公開の第1作から間があきました。続編を作ろうと思われたきっかけは?
これは元々フジテレビのプロジェクトで、1本目の映画の後もずっと撮り続けていたんです。”Mr.サンデー”という番組のコーナーでやったり、1時間のノンフィクションとしてやったりしていました。映画にしたい、と思ったのは2本目に出てくるプロのカメラマンが撮った、母が元気なときの映像が偶然見つかったからです。それがあまりにも映画的な映像だったので、映画にして見ていただけるような作品にしようと思いました。
―それは何のために撮影された映像だったんですか?
私が乳がんになって、「おっぱいと東京タワー ~私の乳がん日記~」(2009年/フジテレビ)のために、呉の実景と父と母のインタビューを入れようということで、プロのカメラマンに来てもらったんです。
父と母のインタビューを撮るにあたって、私が聞いたのでは出さない本心みたいなものがあるかもしれない。私はただの被写体になって、後輩のディレクターに代わりに取材をしてもらいました。その後輩が気を利かせたのか、父と母の自然な暮らしぶりも撮ってくれていたんです。私は自分が撮らなかったもので、すっかり忘れていました。
コロナ禍になって、やることがないから家の掃除をしていたら(笑)押し入れの奥からテープが出て来たんです。何だろうと思って見たらそんなのが映っていて。
画角とか構図とかにこだわって撮られている映像の美しさもそうですけど、母が認知症になる前父はほんとに何もしていなかった、というのがよくわかるんです。
母は近所の人とすごく仲良しでいわゆる社交的なこと、ご近所づきあいなどは全部母がやっていました。買い物に行って食事の支度をして、父の世話も焼いて。父は何をしているかというと、ただ座って本読んでるだけ、みたいな(笑)。その雰囲気がそのまま出ていたので、これはぜひ使いたいと思いました。
もし1本目を作る前にその映像が見つかっていたら、違う作りになっていたと思うんです。このタイミング、母が亡くなった後で見つかったというのは、母が引き合わせてくれたのかな、母の置き土産かなって感じました。「あんた、こんなところにこんな映像があるの忘れとるじゃろ」という風に言ったんじゃないか、と思うくらいの「ビックリ」でした。
―インタビュー部分などは使って、プライベートな部分は使われなかったということなんですね。
そうです、そうです。母がご飯を作っているような日常生活部分などは全然使われなかった。「おっぱいと東京タワー~」の編集のときに、観たはずなんですけど忘れていました。
―お宝ですね。お元気なご両親の映像が残って。いい思い出でいい記録ですね。
プロの方が撮ったものと、娘である監督が撮ったものの違いは?
やっぱり私が撮ったものだと、娘だから遠慮なくぐいぐい撮っているので、リアルなものにはなっています。何分素人なので三脚も立てていないですし、なんかリアルドキュメント、実録ものみたいな感じになるんです(笑)。プロのカメラマンの方は映像にこだわっている人なので、動く絵画のような、そんな感じの構図にしてくれていたので、美しさが違うというか、抒情的な感じがします。光の加減もうまく計算して逆光で撮られていたり。
―ラストがそうでしたね。逆光でファンタジーっぽい。
父が「幸せな人生だった」と言った後だったから、特に父の見ている幻みたいな、ちょっと夢みたいな、フィクションみたいな。
―お父さん、お母さんの間に娘の監督がいて、なんだか嬉しいですよね。これまで、自分が撮っていらっしゃるから3人の映像はありませんでしたし。こういうのが残っていいなぁと思いました。
ほんと、そうですね。
―エンドロールに撮影の方のお名前が監督のほかにお2人あったのは、そのカメラマンさんたちなんですね。
はい、抒情的な映像のカメラマンが南さんです。河合君には、お葬式のときに撮ってもらいました。送り出すときに親族が撮ってるわけにもいかないので。
―監督がお世話しているところが映っていないのは、カメラを持つ人がいないからですよね。
そういえばそうですね。他の人が入ったのはお葬式のときだけです。骨壺を持って帰ってきたのもカメラマンが撮っています。
―ハンディカムを持って「ただいま~」から撮っているので、目線が自分と重なります。
「娘」目線です。全部自分で撮っているから。第一弾は、私の撮った絵しかないから全部そうなんですよ。
―親元から離れて暮らしている人も、親を思い出して気持ちが重ねやすいですね。
できるだけナレーションは減らして、わりと余白を持って作っているので、その余白の時間でみなさんが自分の親とか、大切な人を想ってくれる時間になればなぁと。
―で、余計泣けるわけです(笑)。泣く時間があるので。畳み込むようにドラマがあると泣いている場合じゃありません。
どんどん話が進んでいっちゃうとね。私もいろんなことをナレーションで言いたかったりするんですけど、できるだけ引き算引き算で。これはなくても伝わるな、ない方がいろんなことが伝わるなと。結局ナレーション入れちゃうとそういう風にしか思ってもらえないけど、別の解釈っていうのをしてくれる人がいるんだったら、それはその人の解釈に任せようと思って。
―それはやっぱりたくさんドキュメンタリーを作ってこられた監督だからこそ、そういう取捨選択ができるんじゃないでしょうか?
ああ、かもしれないです。若いころはやっぱり「あれも言いたい、これも言いたい」でいろんなことをナレーションで言ってたんですけど、どんどん引き算にはなってきましたね。ほんとに観方を狭めちゃうなぁと気が付いたので。
―お母様が亡くなられるときに撮るというのも辛いけれど、やっぱり残して良かったですね。
辛いのも辛いし、傍目から見ていて「この娘は何やっているんだ」と思われるんじゃないかとか、周りの目も気になるし、というものあったはあったんですけど。ここで撮らないで後から後悔するよりは、撮ったほうがいいと思って。
―コロナにもかかわらず病院で面会を許してくれて、優しい病院で。
ほんとですね。まあ、最後に療養型病院に行くにあたっては、ほんと申し訳ないけれど撮影できるところを探して。その時には呉で1本目の映画が公開されていて、わりと知られていたのでみなさんそれほど「なんでそんなの撮るんだ」みたいなのはなく、「この人だったら続きも撮るんだろうな」「最後まで撮らせてっていうのは、信友さんならしょうがないね」ってことだったと思います。
―お父さんの言葉にも泣けます。名言をたくさんおっしゃる。
そうなんですよー。
―文字として残しておいてほしいです。回想録とか、お父さん語録とか。
書いたら、っていうんですけどね。「わしゃ、恥ずかしい」とかなんとか言って(笑)。
―最近は戦争のこともお話しになるそうなので、そのへんのことも聞いておきたいですね。
そうですね。縫物も「なんでできるん?やったこともないのに」って言ったら「兵隊で鍛えられた。できないと上官に殴られるから」って。
―こう言ったらなんですけど、お父さん可愛いですよね、とっても(笑)。
どんどん可愛くなりました。母が元気だったころは社交的で、近所づきあい担当は母でしたから、周りにニコニコするのは母に任せて何にもしていなかったけど、元来はそういう人好きのする人なんだとは思います。
―お父さん、鼻歌も歌い、自分で声かけながら動きますね。
自分で「よっしゃ、頑張るぞ!」とか、言ってますよね。「やらんと何事も始まらん!」とか(笑)。
―女性は、お母さんと娘の気持ちがよくわかって肩入れできます。男性はお父さんを見習って(笑)、ぜひこういうお父さんになってほしい。
今回の続編には、介護に関わるほかの方が映っていませんね。
前回は映っていますけど、今回はありません。ほんとは第1作目にあの美容院のエピソードを入れたかったんです。ずっと引きこもりみたいな感じで鬱々としていた母が、美容院に行くと言ったらおしゃれしていました。女の人にとって「髪を綺麗にしてもらう」ことはやっぱり大事なんだなって。それは「介護サービスで社会と繋がって元気が出る」っていうのと同じメッセージになるから、入れられなくて残念だったんです。それで今回は美容院のほうを入れて、ヘルパーさんのエピソードはなしにしました。あの後も美容院には何度も出かけて、髪は綺麗に真っ白になっています。
―監督はきっとたくさん心配ごともあると思うんですけど、いつも笑顔です。お父さんもお母さんのお世話を苦にされていないように見えます。
父は淡々と「これはわしの運命じゃけえ」って(笑)。
―広島弁がまたいいです(笑)。
私も気持ちが揺れないことはなかったですけど、こういうアニメ声みたいな感じなので、声だけ聞くとあんまり参っているように聞こえないんですよ。「明るく生きんと。人生、楽しまんと損よ」というのは、ずっと母が言っていたことなんです。「今は介護中なんだから楽しむ時期じゃないです」と言っても、それがいつまで続くかわからないじゃないですか。そしたら、そう言わずにときにはデイサービスに預けて、その間は父と何かで楽しもうと思う。ですから介護サービスの人とも、ご近所の人とも介護をシェアしたような感じですね。
―あの優しいお父さんが一瞬だけ声を荒げる場面がありましたね。
お母さんも(自覚があるとき)辛いのでしょう。認知症は波がありますし、荒れたり穏やかだったりするのも、忘れてしまうのもその時の本心なんですよね。
母は自分がふがいないから、そのモヤモヤをどこにぶつけていいかわからなくて攻撃的になっちゃうんですね。私も「死にたい」というのを聞いたら、どうしてあげたらいいんだろうとすごくへこみました。でも、ずっと私が引きずっていても、向こうが忘れてケロッとしているわけだから、そこは切り替えなくてはしょうがないなと、自分が損するだけだなぁと思うようになりました。
―監督は「若年性認知症」の方の番組を作られていますから、知識はお持ちだったと思うんですが、自分の家族であれば感情はまた別ですよね。
そう、ほんとにそうです。
―自分を振り返ると、介護したからこそ家族や人との繋がりもたくさんできました。大変な中にもいいこともありましたね。
そういう風な考え方をするのは大事ですよね。私も母が認知症にならなかったら…ならないのに越したことはないですけど…なったから父の良さに私が気づけたりしたんだなぁと思うと、まあ悪いことばかりじゃなかった。そう思うほうが得じゃないですか。自分が。
―監督はインド旅行での事故や入院で3年間くらい大変な時期がありました。一生分集まったくらい。最近は大丈夫、ですね?
そうなんです。あの3年間だけでした。びっくりしました、自分でも。連鎖っていうくらいこんなに続くか、って。
インドでの事故で骨盤骨折して寝たまま帰国してすぐ入院しましたので、母が3ヶ月東京に出て来て毎日病院に通ってくれたんです。寝たきりだったので、洗濯物を洗ったり何くれとなくやってくれて、ほんとに母に救われました。
―インドでは大変なことの連続で、でもたくさんの出逢いもあって。これが本になったらいいのになと思いました。
ありがとうございます。
―お父さんお母さんもお丈夫ですよね。
そうですね。すごく健康でした。父も耳が遠いだけで。それはきっと母が健康にいい食事を作っていたからだと思うんです。それが大きいんじゃないかな。
私が乳がんになったのは無理をし続けたからだと思います。人間の病気は弱いところに出てくるって言いますね。うちは代々、母もそうですけど婦人科系が弱いので、そこに来たんだと。
仕事がすごい面白くて、寝食忘れてやっててもあんまり辛いと思わなかったんです。だけど、身体は大変で悲鳴をあげていたと思うんですね。だから乳がんになってからは、もう無理しないようにしよう、自分の食い扶持だけ稼げればいいと思って、それでフリーランスになったんです。
―フリーランスも大変ではありませんか?
不安ですよね、大変というより。好きな仕事だけしようとフリーになったのが、仕事一個断わっちゃうと次は来ないんじゃないかと思っちゃうので、仕事が来ると受けちゃうんですよね。だから、あんまり変わらなかった(笑)。
―仕事があるうちはやろう、とつい思ってしまいますね。
そうそう。声かかるうちは仕事やんなきゃと。コロナ禍の間は、もうなるようにしかならないと思って。上映会とか上映会にまつわる講演会とかが結構入っていたのが、人が集まれないのでなくなって。特に私の講演会は社会福祉協議会とか行政の主催が多いんです。コロナが増えると最初になくなってしまいます。それでなくなったものはしょうがない、とオンライントークやったり。(この時期に押し入れからビデオを見つけ出した)
―監督はしばらくこの映画の宣伝でお忙しいかと思いますが、その後の計画はありますか?
旅するとか?
旅、は行けませんよ~。父が101歳なので、元気とはいえ心配なので今は「娘」業を優先させようと思っています。テレビとかのお仕事はお断りしているんですよ。やっぱりドキュメンタリーを撮るとなると、相手のスケジュールに合わせなくちゃいけないじゃないですか。そうするとちょっと無理がある。それに今はコロナだから、密着取材もできないです。今はこちらと呉と半々ですが、呉にいる時間のほうがどんどん長くなるとは思います。
―できるだけ一緒にいたいと思いますよね。
その間にお父さんを撮り続けて、書きためるほうもぜひ。
はい、ありがとうございます。書くのもわりと好きだなということに、「ぼけますから~」の書籍化のときに自分で気がついたんです。なので、書く仕事は続けていきたいと思っています。
―お父さんは新聞や本がお好きですよね。映画は出かけないと見られないけれど、本ならいつでも手に取って見られるし、喜ばれるんじゃないですか?
そうなんですよ。父は映画ができた時よりも本ができたときの方が嬉しそうでした。
*「ぼけますから、よろしくお願いします。」
単行本/2019年/新潮社 256p 1500円
*「ぼけますから、よろしくお願いします。 おかえりお母さん」
単行本/2022年3月16日/新潮社 188p 1450円
父にとっては映画を作って良かったと思います。家の内部をこんなに出しちゃって大丈夫かしらとか、作る前は心配でしたけど。でも作ったことで近所の人とのコミニュケーションツールになったというか。父のほうからあんまり○○さん、とか声をかける人ではないので、みなさんが声をかけてくださるから。
―地域の方々が見守ってくださるのは、有難いですね。
年を取ることや、認知症について、前作も今回の続編も、この映画からはとてもたくさんのことに気づいたり、考えたりするきっかけをいただきました。今日は長時間ありがとうございました。
取材:白石映子(文・写真) 景山咲子(写真)
―監督がこれまで観た中で印象に残っている映画はなんでしょうか?
今観たらどう思うかわからないですけど、一番泣いた邦画は『砂の器』(1974年/野村芳太郎監督)で、一番泣いた洋画は『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994年/ロバート・ゼメキス監督)ですね。『フォレスト・ガンプ』は何が気に入ったのか10回くらい観ました。映画館に10回行きました(笑)。当時すごい好きで。自分の子どもがいることが分かったフォレストが恋人にいう台詞「頭はいいの(Is he smart)?」で言うんですよ。あの一言でめっちゃ泣けて。こういう風に思いながらずっと生きて来たんだなというのが。
(宣伝さんから「4Kで公開になります」と情報。3月18日からです)
『砂の器』は何回か時を置いて観ました。最後の40分くらいが全てですよね。
―思い入れのある俳優さんはいらっしゃいますか?
俳優さん…三浦春馬くんが亡くなったときに、なんで亡くなったんだろうと考えて、そこから気になるようになってコロナ禍だったのもあり、全部の作品を観ました。それもこだわっているということになるかわからないけど。ほかに全作品観たという人はいないかな。
役者さんというより作品で観ます。評判になった映画は行きます。いっぱい観客が来たというのではなく、(映画評で)★がいっぱいついているのに行きます。
60歳になって毎日安く観られるようになったんだから、ガンガン行けばいいんですよね。私一番嬉しいのはそれなんですよ。
今は配信もたくさんあって、観るものがいっぱいあって寂しくないんです。コロナになってから生活が変わりました。一日中パソコン見ていますよ。
―呉は『この世界の片隅に』(2016/片渕須直監督)ですっかり有名になりました。お父さん、お母さんもそこに加わりましたね。
うちの父や母はあのすずさん、周作さんと同年代です。母がすずさんよりちょっと年下で、父が周作さんよりちょっと年上。父が行っているスーパーはあの三ツ蔵のすぐ隣ですよ。第1段では三ツ蔵の前を歩いています。
=取材を終えて=
40代の10年間、在宅介護していました。できるだけみんなの手を借りて、時間ができたらパートに出て別の世界を作ったり、映画を観たりして遊ぶのも忘れず(笑)。思えばその日々がなければ、シネジャスタッフになることもなく、今の私はいなかったんです。
信友監督は、ご両親の娘に生まれて理解と励ましのもと、お好きな道を進んで来られました。「ぼけますから、よろしく」というお母さん、「これも運命(さだめ)じゃわい」というお父さん、娘であり、ディレクターでもある監督のカメラには、家族の愛情と信頼がたっぷり写し取られています。人生が愛おしくなる作品。(白石映子)
私の母も80歳を過ぎてアルツハイマー型認知症になり、父を残して83歳で亡くなりました。その後は私が実家に戻って一緒に暮らしていて、今、父は99歳。監督のお父様同様、布団の上げ下ろしも自分でしていて、あまりにも境遇が似ていて、つい、話が脱線してしまいました。何しろ、私も40代半ばに、虎の門病院に入院して、手術の日には母がずっと待っていてくれたということまで同じ! うらやましいのは、そのお母様の姿が動画で残っていることでした。仕事の合間に行ったインドの旅で、列車事故に遭われたことを知り、これまた詳しくお聞きしたくなった次第でした。信友監督ご自身のまわりだけでも、まだまだドラマが撮れそうです。次回作を楽しみにしています。(景山咲子)