映画『人生ドライブ』城戸涼子監督インタビュー

熊本県宇土市で暮らす岸英治さんと信子さん夫婦には7男3女、10人の子どもがいます。熊本県民テレビは岸さん一家の生活を2000年頃から20年以上にわたり寄り添うように取材してきました。そのアーカイブを映画として再編集したのが映画『人生ドライブ』です。そこには10人の子どもたちへの愛情や暮らしの工夫だけでなく、夫婦の絆も映し出されています。
公開を前に城戸涼子監督にお話をうかがいました。

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――本作は熊本県民テレビの21年に及ぶ密着取材から生まれたものです。岸さん一家を取材することになったきっかけからお聞かせください。

私の入社前のことで、初代の担当ディレクターだった西原縁子さんから聞いた話になりますが、「9人の子どもを持つお母さんが家族をテーマにエッセイを書いたところ、雑誌『ESSE』で大賞を受賞した」という地元の新聞の記事を読んだ西原さんがローカルで放送している情報番組で紹介するために会いに行ったのがきっかけです。2000年頃のことでした。西原さんは信子さんとお会いして、愛情あふれる女性であることに魅了されたそうです。
その後も夏休みやクリスマス、お正月と継続して岸さん一家を取材しているうちに信子さんの妊娠がわかり、10人目の不動くんが誕生する2001年11月まで取材を続けました。
その後、西原さんは退社されましたが、ディレクターを交代しながら取材を続け、今に至っています。

――監督は何代目のディレクターなのでしょうか。

2006年に担当したときは3代目でした。2代目のディレクターが産休・育休に入ることになったのです。私も2年担当した後、職場の異動で他のディレクターに委ねました。そこから先は担当ディレクターが何人いるのか、ちゃんと把握できていませんが、延べ10人は超えています。
担当ディレクターが別の取材でいけないときは、社内で番組制作をしている別のスタッフが代わりに岸さんのところに行くなど、助け合いながらやってきました。一時期は番組制作を担当しているフロアの中で岸さんの家に行ったことがないスタッフは誰もいないようなこともありましたね。
そうやって誰かが取材に行くような形で繋いで、2019年にもう一度、私に担当が回ってきました。

――21年間に担当ディレクターがタスキを渡すように代わっていかれたとのこと。取材テーマも引き継がれてきたのでしょうか。

大家族の岸さん一家の担当だと言われたくらいで、企画のテーマを聞いた記憶は私は特になく、私も次の担当者に伝えた覚えもありません。よく言えば担当ディレクターに取材のテーマは委ねられていました。
2回目の担当が回ってきて、15、6年ぶりに岸さんの家に行ってみると、お子さんたちの多くは独立しており、岸さん一家は大家族ではなくなっていました。取材のきっかけは大家族でしたが、そこにこだわる必要はない。子どもが10人で世間一般よりも多いけれど、ベタベタな愛情を注ぐという形を取らなくても、子どもたちが毎日楽しそうに過ごしていたのは、自分が愛されていて、この家は安心できる場所だと確信できていたから。岸さん一家の根っこは英治さんと信子さんのパートナーシップにある。時間をおいてもう一度、担当になり、やっと答え合わせができた気がします。

――初めて任されたときのことは覚えていらっしゃいますか。

担当を伝えられたときはまだ若かったので、“先輩たちが脈々と受け継いできたものを引き継ぐ”ということで必死でしたね。なんと言っても、まずは10人の子どもの名前を覚えないといけない。岸さん一家担当の最初の試練です。長く通っているカメラマンに「あの子は誰で」と教えてもらいながら取材をしていました。
子どもたちは取材に来ているからといって、普段と違う動きをするわけではありません。不動くんが4歳くらいで、他の子はほぼ年子の小学生。いちばん暴れたいお年頃です。「遊ぼうよ」と言われて、後ろからガンガン蹴られることも。7割遊んで3割撮影みたいな感じでした。

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――取材を嫌がるお子さんもいらしたのではありませんか。

時期によってはあったようです。信子さんに聞いたことがあるのですが、「“また来ている”と思っていた子どもたちもいたけれど、“取材に来てほしくない”とか“取材を受けるのは止めて”と言われたことは一度もなかった」と言われました。ただ、私が最初に担当したとき、上のお子さん3人はすでに家を出ていましたし、平日の昼間に取材に行っても高校生や中学生のお子さんはいなかったのです。
とはいえ、私も最初は2年しか担当していないので、その後の状況を細かくは知りません。今もこうして取材が続いているということはお子さんの一人一人に波はあったと思いますが、受け入れてくれている証ではないかと受け取っています。

――本作は熊本県民テレビ開局 40 周年を記念し、アーカイブを再編集して映画として公開されます。なぜ映画化したのでしょうか。

テレビでは時間制約があり、短い時間で何かを伝えるためには、こちら側から説明しなければいけないことが多い。例えば、先ほどから何度も“大家族”という言葉を使っていましたが、岸さん一家には“7男3女の大家族”という枠組み以外にも、子どもと親、英治さんと信子さんという1対1の関係性がある。もっといろんなことが描けるのに、大家族という枠組みにはめてしまうことでこぼれてしまっていることがたくさんあるかもしれない。映画なら時間の制約がなく、余計な説明を加えていない映像を見ていただいて、自由に感じてもらえるのではないだろうかと考えたのです。
もともとテレビ局発のドキュメンタリー映画に関心があり、他局が制作した映画も何本も観ていたので、「一つの家族の歴史をこんなに丹念に追った映像が残っているのに、一度の地上波放送でお蔵入りさせるのはもったいない」と思っていました。

――実は本作を観た後に、NNNドキュメント21「人生は…ジグソーパズル」も拝見しました。映画と同じように不動さんが生まれる前から、現在までを写し出していましたが、夫婦や子どもたちの名前や年齢がテロップで入っていて、映画とはかなり違う印象を受けました。映画ではそういったわかりやすさを排除していますね。

登場する人物の名前と年齢の説明や字幕表記は突き詰めると絶対に必要なことではありません。観る人はそこにある映像から自分なりに繋いでいこうとする。言わなくてもいい説明は外した方が映像に集中してもらえます。こちらから情報を出し過ぎることでその能動的なものを奪いたくなかったのです。

――映画では構成・編集を佐藤幸一さんがなさっていますね。

弊社は映画を作るのが初めてだったので、映画化のノウハウを持っていませんでした。佐藤さんは2002年に岸さん一家のNNNドキュメントを放送した時にも編集に入って頂いた方でした。さらにドキュメンタリーの編集を何十年もなさっている上、映画の編集経験もあります。岸さん一家のことを元々知っていることに加え、普段、ニュースの編集ばかりやっている私たちにはない視点を持っていらっしゃるだろうということでお願いしました。

――佐藤さんの編集から学んだことはありましたか

“ナレーションではなくて映像で語る”ということですね。テレビでは時間が足りないとナレーションを入れてしまいますが、映画は時間の制約がないので、映像で分かるところはナレーションを入れずに映像だけで編集し、伝えていく。佐藤さんはそこを大事にしながら映像を選んでいました。これはテレビ放送ではなかなかできないと感じます。

――映画を経験して、テレビ番組作りに変化はありましたか。

私は普段、ニュースの現場で仕事をしています。この仕事は“わかりやすく、正確に”が大事。それでも“説明を加えた方がわかりやすいけれども、ここはあえてこちらからは説明を加えずに、画面に映っている人の表情に集中してもらった方がいいんじゃないか”などとより考えるようになりました。何でもかんでも説明していたころに比べると、何かちょっと作る幅は広がったのではないかという実感はありますね。

――映画化によって岸さん一家の取材は完了なのでしょうか。

映画にしたからといって岸さん一家の取材は終わっていません。映画用の撮影は2021年11月に終わりましたが、今年の1月に成人式を迎えた不動さんを取材して熊本のローカルで放送しました。
私は普段、ニュースの編集長として社内で仕事をしていますが、岸さん一家の取材のときだけ、シフトをやり繰りして外に出させてもらっています。カメラマンも一緒のときもありますし、私一人のときもあります。

――監督ご自身がカメラを回すときもあるのですね。

結構、撮っていますよ。がたがた震えていたり、画質がよろしくないのはデジカメで撮っている映像で、カメラマンが撮った映像ではないことが多いです(笑)。でも、映像の中にデジカメで撮ったからこそのいい距離感が生まれることもあります。

――岸さん一家を取材したことで監督ご自身の中で何か価値観が変わったことなどありましたか。

劇的な変化があったわけではありませんが、英治さんと信子を見ていて、“近しい人にこそ丁寧にあれ”ということを心に留めておくようになりました。“言わなくてもわかるでしょ”という距離感の人にこそ、「ありがとう」と伝える英治さんと信子さんのことを見習いたいと思っています。
私には子どもがいませんが、歴代のディレクターが、「自分が子どもを育てるときに、岸さんの子育てが参考になった」と言っているのを聴いたことがあります。

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――公開を前に今のお気持ちをお聞かせください。

岸さんの取材がここまで長く続けられたのは、会社としてちゃんとディレクターを引き継いできたからだと思っています。通常、継続取材はどこの放送局でもやっていますが、大抵は担当ディレクターが1人で取材を重ねるので、そのディレクターがいなくなると取材が引き継げずに途切れてしまいます。うちでも岸さん一家の取材以外はそれが理由で途切れてしまった企画があります。
21年の間には熊本地震やコロナがあり、岸さん一家の個人的なことで言えば、家が火事になったこともありました。そんなときも翌日に「行ってもいいですか」と言って撮影させてもらえる。これは先輩たちが築いてきた関係性があるからこそ。これからも引き継いでいかなくてはと思います。
(取材・文:ほりきみき)


<監督プロフィール>
城戸涼子
1979年生まれ、福岡県出身。2002年4月、熊本県民テレビに入社し報道記者としてキャリアをスタート。2005年に制作に配属が変わり、企画・撮影・編集を初めて1人で担う中で映像の奥深さを知る(まだまだ勉強中)。2006年、汚染された血液製剤でC型肝炎に感染した患者たちが国を相手に起こした「薬害肝炎訴訟」の原告を追い、ドキュメンタリー番組を初制作。「ひとの人生にふれること」に魅力を抱き、その後は災害や過疎問題のほか福祉や政治、鉄道など様々なジャンルで20本以上のドキュメンタリー番組制作に携わる。岸さん家族の取材は2006年から2年間担当したが職場異動に伴い一旦外れ、2019年に再担当。現在はローカル情報番組「てれビタevery.」のニュース編集長として日々起こる熊本の出来事と向き合う傍ら、小さなデジカメを持って岸さんの取材へ足を運ぶ日々を送っている。今回の映画が初監督作品。

『人生ドライブ』

作品紹介はこちらから
白石映子、景山咲子、宮崎暁美の3人が担当しています。

監督:城戸涼子
プロデューサー:古庄 剛  
構成・編集:佐藤幸一  
撮影・編集:緒方信昭
製作著作:KKT熊本県民テレビ
2022年/93分/DCP/16:9/日本
令和4年文部科学省選定作品
配給:太秦
(C)2022 KKT熊本県民テレビ
5月21日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次公開
4月29日(金・祝)〜[熊本] Denkikanにて先行上映中
公式サイト:https://jinsei-drive.com/


『教育と愛国』⻫加 尚代監督インタビュー

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*プロフィール*
⻫加 尚代(さいか・ひさよ)毎⽇放送報道情報局ディレクター
兵庫県宝塚市出身。1987年毎⽇放送⼊社。報道記者などを経て2015年からドキュメンタリー担当ディレクター。企画、担当した主な番組に、『映像ʼ15 なぜペンをとるのか〜沖縄の新聞記者たち』(2015年9⽉)で第 59 回⽇本ジャーナリスト会議(JCJ)賞、『映像ʼ17 沖縄 さまよう⽊霊〜基地反対運動の素顔』(2017年1⽉)で平成29年⺠間放送連盟賞テレビ報道部⾨優秀賞、第37回「地⽅の時代」映像祭優秀賞、第72回⽂化庁芸術祭優秀賞など。『映像ʼ17 教育と愛国〜教科書でいま何が起きているのか』(2017年7⽉)で第55回ギャラクシー賞テレビ部⾨⼤賞、第38回「地⽅の時代」映像祭優秀賞。『映像ʼ18 バッシング〜その発信源の背後に何が』で第39回「地⽅の時代」映像祭優秀賞など。個⼈として「放送ウーマン賞2018」を受賞。著書に『教育と愛国〜誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店)、『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』(集英社新書)。

『教育と愛国』
作品紹介はこちら 
(C)2022映画「教育と愛国」製作委員会
★2022年5月13日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか公開


―監督は大阪出身ですか?

いいえ、兵庫県の宝塚市で育って、大学は東京で過ごし、MBSに就職してずっと関西です。

―宝塚市出身、手塚治虫さんと同じですね。

実家は手塚治虫記念館から歩いて5分でした。昔の宝塚音楽学校も2,3分のところです。近所をタカラジェンヌが普通に歩いていて、私の母が子どものころは、裏の武庫川でタカラジェンヌと一緒に泳いで遊んでいたそうです(笑)。

―タカラジェンヌには憧れず、報道の世界に来られたんですね。

そうですね(笑)。宝塚はすごく好きだったんですよ。「ベルサイユのばら」も初演から見ていましたし、近所の芝居小屋に行くような感じでした。確かに宝塚は目指さなかったですね。子どものころバレエを習いたいとかは言ってましたけど。自分はどちらかというとシャイで人前に立つのが好きじゃなかったんです。だからテレビ局に入社するときもみんなはアナウンサーとか華やかなところを目指す人が多いのですが、私は最初からアナウンサーより、黒子に徹してドキュメンタリー番組を作りたいという気持ちでした。
記者をやっているときも取材は大好きなんですが、記者リポートが嫌いで。20代のときに記者リポートをしたら、先輩から「小学生が作文読んでるみたいだぞ」と叱られて、私は私なりに必死にやっていたのに(笑)。

―今はいろんなところへ行っていろんな人を取材するのがお仕事ですよね。そんなシャイな方がどこにでも行って誰とでも話せるようになったのは?回数でしょうか?

そうですねぇ。学校も嫌いな子どもだったんです。不登校にはならずに、真面目に行っていましたけれど、中学高校はとくに学校は嫌いでした。だけど、大阪の公立学校の保健室などの取材を通じて、学校っていいなぁとか、子どもたちと体当たりで関わっている先生たちの姿が魅力的で心打たれるなぁと感じて。記者になってから学校が好きになりました(笑)。

―後から。

はい、後から(笑)。こんな先生に出逢いたかったと思いましたね。

―元々はテレビ番組だったのが映画化されたそうですが、このドキュメンタリーの番組を東京で見ることはできますか?

MBSの『映像』シリーズというドキュメンタリー番組は、関西ローカル放送なので、東京では見られないんです。MBSの”動画イズム”(動画配信)の中では見ることができて、あと系列のTBSの『解放区』というドキュメンタリー枠で再放送されたりすることもあります。でも、大体テレビのドキュメンタリーは深夜なんです。みんな寝ている時間ですね。

―『映像』シリーズは1980年から始まっているんですね。すごく長い!

アーカイブは500本以上あり、その時代の社会問題をいろんなディレクターが取材して作られています。私は2015年7月からチームに加わりました。そこで制作したのが「なぜペンをとるのか〜沖縄の新聞記者たち」。琉球新報編集局を40日間密着取材した作品です。

―タイトルだけを拝見しました。時事問題の最先端のところばかりなのに、観ることができなくて残念です。映画になったら、全国で観ることができますね。ほんとに映画になって良かったです!

ありがとうございます。この映画も2017年7月に放送したテレビ番組をベースにして、新しい映像を追加して作られたものです。番組は関西エリアの深夜での放送でしたから、より訴求力のある違う取り組みをしなくてはいけないと思い、挑戦だったんですけど、映画にしてみようと考えました。

―この映像シリーズの中でほかにも映画化されたものはありますか?

3・11のときに南三陸町を舞台にした『生き抜く』という映画になったドキュメンタリーがあるので、『映像』シリーズの中では2本目です。このシリーズ以外でホール上映になった『with』がありますので、MBSでは3本目ですね。

―ご本も読ませていただきました。監督が教育に目をすえてきて30年になるとありました。

テレビ記者って何でもやらないとダメっていうか、教育だけをずっとやってきたわけではなく、様々なテーマを取材してきました。ただ自分で初めて企画して特集にしたテーマというのが、大阪の小中高校の保健室登校でした。学校に馴染めない子どもたちを先生たちがなんとか受け止めて支えようという取り組みです。それが最初にオリジナルで取材したテーマだったんです。そこからずっと学校の先生との繋がりができて、節目節目で子どもたちや先生たちとの出逢いがありました。
2011年に大阪維新の会が「教育基本条例案」という、これまでの大阪の教育を抜本的に改革するという、政治主導の教育を目指す条例を掲げました。これは政治が接近してくるぞと感じ取れたんです。当時教育委員長をされていたのは小児科医で精神科医でもあった生野照子さんで、「私は知事(橋下徹)に向かって直訴したのよ。知事がやろうとしていることは”政治”です。教育行政ではないって」。それに対して知事は「さすが、委員長」って答えたという、そんなやりとりを生野さんから聞きました。

―大阪は知事と維新の会にかき回された感じがしていました。

橋下徹さんが創設された大阪維新の会はのちの日本維新の会の母体となるんですが、その一つの政党が政治主導の改革のムーブメントに一役買ったんですね。映画の中でも安倍元総理が維新の松井一郎さんと握手する場面、2012年2月に行われた「教育再生民間タウンミーティングin大阪」の壇上ですが、お互いに協力しましょうとなったわけです。
その当時はそれほど意識していなかったんですが、取材を続けていて今回映画にまとめる段階になって、やっぱりこれは繋がっている。大阪の維新と東京の安倍さんたちが連動して作られた教育への政治介入なんだとそう強く感じるようになりました。

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―足された部分は「どうとく」の場面でしょうか? 

そうです。今回の映画の中で二つ小学校が出てくるんですが、一つは久保敬校長先生の「どうとく」の授業。久保先生は去年5月に松井一郎市長に対し、いま公教育はどうあるべきかを真剣に考える時が来ているという提言を直接出されて処分を受けた方です。「生き抜く」という教育じゃなくて「生き合う」教育が必要じゃないかと投げかける提言です。これはインターネットで探して下さったら、すぐ出てきます。今の教育は子どもたちの方を向いていないんじゃないかという問いを出されていますが、今回の授業はあえて教科書通りに進めている場面を紹介しています。
もうひとつは、この映画事業がなかなか社内で進まなかったときにずっと密着取材していた、大阪生野区の市立御幸森小学校です。ここにはコリアンルーツの子がたくさんいて、日本ルーツの先生、コリアンルーツの先生たちが一緒になって目の前の子どもたちにどんな教育が必要かと考えて実践していました。「ユネスコ憲章」の前文にのっとった平和教育、多民族が共生する・多文化の子どもたちがお互いを理解し合える教育を目指して取り組んでいました。それは時代の最先端ですばらしいと感じました。
例えば、放課後の取り組みで民族楽器の練習をする。他国の、あるいは母国の文化に触れることで、「戦争は人の心から生まれるものだから、心の中に平和のとりでを築かなければならない」という「ユネスコ憲章」前文の精神を子どもたちに先生たちがいろんな言葉で伝えていく。この地域になぜ在日韓国・朝鮮人が多いのかとか、差別もあったけれど、その中でコリアに繋がる人と日本ルーツの人はどんな協力をしてきたのかとか、その歴史を紐解いて振り返りながら子どもたちに伝えていく。すると子どもたちはこの地域は素敵な場所だと、歴史の中で自分たちが暮らしているということを実感していきます。そういう取り組みをしている学校が小規模だからと2021年3月に閉校になりました。
この映画の中で伝えようとした政治圧力とか政治介入、その一方で大事にしたい教育が失われていくのを何とかしなきゃと。子どもたちに向いた教育が崩されているのじゃないかという危機感をずっと抱えてきました。

―監督には、この映画に出てくる「慰安婦」はじめ戦争の加害を習った記憶はありますか?

ないんです。習ったという記憶がないんですよ。

―やっぱり。私もそうです。縄文時代とかずっと前から始めちゃうので、3月にはそこまでたどり着かなかったということが多かったと思うんですけど。

だと思います。だから近現代史について私自身がこういうことがあったんだ、これは学ばなくてはと思ったのは、社会人になってからです。記者になってから『映像』シリーズのドキュメンタリーで知ったり、自分で市民集会に行ったり、書籍で学んだりしてきました。しかも、高校では選択科目で、日本史を選択しなかったんです。

―私は必修でしたけど、日本がアジアで何をしてきたかというのは、学校ではなく映画で知ったんです。香港映画が好きで見ているうちに、加害の歴史ですね、それを被害に遭った国の映画で知りました。

ああ~。そうですよね。私も学校教育の中では学ばなかったと思います。それが、平井美津子先生と出逢って。平井先生と自分が中学生だったときに出逢っていたらまた違ったんじゃないかと思います。こういう先生に学びたかったなぁと実感しましたね。

―映画の中で偏向していると責められるのがすごく不思議でした。

そうなんです。平井先生の授業は面白いですよ!子どもたちのことをよく観察していて、どんな関心を持っているか考えたうえで授業を組み立てておられるから、導入で必ず子どもたちをひきつけるようなエピソードを持ってきます。例えば、中国を占領した戦争の話をするときにパンダの話から始めるんです。なぜパンダが日本に来たか、というところから。慰安婦の問題については、一番子どもたちが反応した年があって。橋下徹さんが風俗について「活用すべきだ」と発言した時があったんですね。ご本人は、誤報だと言ってますけど、戦時においては必要な制度なんだと語ったときに、それを引き合いに出したら、子どもたちの反応が全然違ったといいます。
歴史は過去の出来事だけれども、必ず今に繋げて授業をされていらっしゃるから、やっぱりすごく実力があるなと思いますね。

―バッシングに遭われて大変でしたが、今、平井先生は?

今も教壇に立っておられます。もちろん平井先生の取り組みを高く評価される方もたくさんいらっしゃるんですけど、また標的にされないように、取材をお願いするときにはご相談を重ねました。「やっぱり記録として残すことは大事なのでご協力しますよ」と言ってくださって。今回平井さんがあそこまで公にメディアで語られるのは初めてだと思います。

―大阪だからできた映画ですね。

そのとおりです。大阪を拠点に取材を続けてきたからできた映画です。大阪が政治主導の教育のけん引役というか、実験場になってきたと考えています。実際に2014年に教育委員会制度を見直す法改正がなされたとき橋下徹市長が「戦後指1本触れることのできなかった教育行政を、大阪から変えることができた」「文科省、国がやっと大阪に追いついた」と言われました。

―映画の中でびっくりしたのが、東大名誉教授の伊藤隆先生が「歴史から学ばなくていいんだ」と言われたことです。学ばないと、また間違うでしょうと思っていましたから、あそこがよくわからなくて。

伊藤隆さんはご自身が若かったときの体験から歴史学がマルクス主義史観に染まっていると感じられ、今に至っておられるようです。だから歴史学の主流は左翼なんだと。ご自身も論文の内容をめぐり個人攻撃されたことがあると。
実証主義をオーラルヒストリーとともにやってきたトップアスリートの歴史学者だと自負されておられると思います。実際そうだったと思います。素晴らしいお弟子さんをたくさん育てられた。加藤陽子さん、御厨貴さん、北岡伸一さんなど錚々たる学者を育てていらっしゃいます。学校の先生たちが自虐史観に染まっておられるということで「歴史から学ぼう!」というのに対するアンチテーゼを言っておられるんじゃないか、と感じました。

私が見ている学校と、伊藤さんが「学校はこうだ」と思っておられる学校とは全然違うんです。私が、「伊藤さんが戦前受けられた教育と今の教育の何が一番違うんでしょうか?」とお尋ねしたら、「戦前には日教組はないんだよ」って答えが返ってきた。伊藤さんだけでなく、保守の方々は日教組が学校を支配しているんだ、って。これは大阪で取材してきた私にとっては「そうではない」と言えるし、実際伊藤先生にも言いました。「今、日教組は力を失っていて、私の知っている日教組の先生は若い世代が組合活動してくれない、と困っていますよ」と言っても、「いや、少数でも力があって影響力のある先生は日教組なんだよ」とご自身のお考えから出られない。私の知っている学校現場とは全く違うんです。

―この映画に出演している方はもうご覧になっているんですか?

まだ観ていらっしゃらないです。観に行くとは言ってくださっています。伊藤さんはテレビ番組のときはDVDをお送りしましたが、感想は述べられなかったですね。

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―テレビの番組から映画化まで、5年かかっていますが、最初のころと今と比べて大きな変化は?

この5年でさらに状況は悪くなっていると思います。新型コロナウィルスの感染拡大で、いっそう学校現場の先生たちは疲弊していますし、さらにコロナ禍という理由で、安倍総理が文科省の頭越しに一斉休校を命じたり、大阪の松井市長が教育委員会に打診もせずにオンライン授業の実施をと述べてみたり。教育委員会が独立した行政機関なんだという意識さえどんどん薄められていって、政治主導が当たり前のような状況に陥っていることに一層危機感を高めてきました。2020年10月、日本学術会議推薦の6名の学者が官邸から任命拒否されるという出来事を知ったときに、教育の自由が政治主導で歪められているだけにとどまらず、学問の自由も踏みにじられる社会が目の前にやってきたんだという、その衝撃がこの映画を作らせたと言ってもいいと思います。

―任命拒否された先生やジェンダー研究の先生も登場していました。

任命拒否の前には科研費をめぐって、政治家が大学の研究者たちを攻撃する事態が起きていたわけです。そこは結びついていますよね。都合の悪い研究には金は出さない、という。

―大きい声でものを言う人たちばかりが目立ってきた気がします。なんだか戦前に戻っている、という意見もよく聞きますし、戦前は知りませんが、せっかく勝ち取ってきたいろんな自由が少しずつなくなっていってるんじゃないかと感じます。すっかりなくなって、取返しがつかなくなってからでは遅いですよね。

はい、そう思います。
そんなささいなこと、そのくらい見逃したってと思ってしまうことであっても、その積み重ねによって、とんでもない落とし穴というか断崖絶壁が待っているかもしれない。今回取材しながら小さなできごとを1本の線に繋げてみたっていう表現をしているんですけど、繋げてみたらその危機の深刻さが伝わりやすくなったんじゃないかなと思います。

―はい、そういう風に観ました。すごくわかりやすいです。
民主主義って両方の意見を聞く、違う意見に耳を傾ける、小さな声も拾うことではなかったの? 多数決が民主主義じゃないよねと思いました。


ほんとそう思います。当初は元教科書調査官のインタビューもしたいと考えて、あちこち交渉したりしたんですけど、やはりカメラの前に出ることはできないということで、断られました。でも、調査官も研究者出身の方が多いので、「イデオロギーじゃないんです。正しい歴史という人に限って学術的知見に基づいていない場合がある」ということは認識しておられて、あくまでも学術的成果に基づいて教科書は作られるべき、と言っておられたんです。ただ、公務員だから教科書検定基準というルールが作られて、決められてしまうと学術的に葛藤しつつも、「誤解される恐れがある表現」というルールに基づいた検定意見をつけなきゃいけなくなってしまうんです。

―教科書がたくさん出てきますが、図書館で観られるものなんですか?

もちろんです。必ず地域の公立図書館には教科書を観ることができるコーナーがあるはずです。

―そうなんですか!全然知りませんでした。

大阪の場合は、図書館で今使っている教科書を見ることもできるし、昔の教科書を見たいというと書庫から出してきてくれます。
教科書ばかりおいてあるセンター(教科書図書館)もあるんです。そこに行けば一日そこで過ごせるくらいの資料があります。国定教科書がどれだけ「日本すごい」って書いてあるかわかります。今の言葉でいうと、「日本ファースト」で、世界地図の真ん中に日本があって光り輝いているような。

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※教科書研究センター(附属図書館は要予約)
〒135-0015 東京都江東区千石1丁目9番28号
https://textbook-rc.or.jp/

各都道府県の教科書センター
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/center.htm#a001

―ありがとうございます。行ってみます。

道徳教育を全面否定する立場ではなくて、ただ型にはめる教育って今の時代にそぐわないな、あのお辞儀の仕方の正しさは誰が決めているのかと思うんです。あるとき、政府見解であれは不正解だということになれば、変わるのかと。

―教科になれば成績をつけるわけですよね。どうやってつけるんでしょう。

そうなんですよ。道徳の授業の場面も、良い・悪いという教科書どおりの「善悪の判断」という徳目の授業なんです。これもそんなに簡単に判断できるんだろうか?って考え込むんですね。

―考える種を蒔くのならいいけれど、正解を一つにしたら他はダメということになりませんか。

そう。だから小学校低学年の子供たちに、「上靴を隠した子どもは悪い子だ」と教えてしまうほうが、実は弊害があるんじゃないのかなぁと。
映画の中では紹介できなかったんですけど、ベテランの久保校長先生は上靴を隠した子は、実は友達とのトラブルを抱えていて、こんな出来事があったんだよ。これを知ったうえで、みんなはどう思うか、と教科書から離れた問いを子どもに投げているんです。そして子どもたちの意見も変わるというような、そういった指導もされていました。
先生によっては、もちろん教科書から離れて子どもたちに向けた授業もできるんです。けど、教科書どおりに常にスタンダードな、お決まりの授業が作られていくという流れは、政治の空気からすると危うい、と思います。

―熱心な面白い授業をする先生がバッシングを受けて、言う通りにはやるけれど、子どもに勉強の楽しさを教えられない先生ばかり残ったら学校がつまんなくなるじゃないですか。

その通りです。ルールに従うだけの従順な先生ばかりになっちゃったら、学校はつまんなくなります。道徳の授業内容を注意深く見ると、「集団や社会との関わり」に関する「規律」「協調性」などの徳目が一番多く、輪を乱さない、反抗しない子供を育てようとしているんじゃないか、と疑念が生じます。そうとしか私は感じ取れませんでした。

―先生方がそれぞれ工夫していただけるといいんですが。

その先生方も、一人一人が考える時間が持てるかというと、もう忙しすぎて。考えていると潰れかねないという方もいて、それは先生にとっても子どもにとっても不幸なことですよね。

―親にとっても。ほんとにもう、観ながらなんて問題がいっぱいあるんだ!と(笑)。

ああ、ありがとうございます。そう気づいてくださるのがとても嬉しい。

―それこそ、たくさん種をいただきました。これは本誌では『ゆめパのじかん』という川崎市にある子どもの居場所の映画と一緒に紹介します。違う方向から子どもの教育を扱っていて、両方観ていただけたら考える種がいっぱい出てきそうです。

子どもたちにとって、テストの点という物差しだけで測られるというのは、本当にとても苦痛だと思うんです。テストをなくしてもいいくらい、なかなかそこまでは公立では難しいと思いますけど、どんどん政治によってテストの点だけで学校を測るという流れになってきているから、これも政治の側が学校を意のままにする手段なのかと感じています。学校同士を競争させて、政治の意向が反映しやすいようにする「統治」という手段かもしれないなと思います。

―そういうことを監督はちゃんと映画に込めています。みなさま気づいてください。
ではこれから映画を観る方へ。メッセージをどうぞ。


プレス資料にも書いたんですけど、カタルシスも正解もない作品なんです。ですので、観終わった後にモヤモヤしてしまう方もきっといらっしゃると思います。けれども、映画のどの画面、どの部分でもひっかかったところを語ってほしい。語って来なかったことを語り出してほしいです。そういう願いを込めた作品です。
今はSNSで炎上するからとか、政治から距離をとっておかないと、とか、俳優やタレントが発信すると叩かれたりとか、あるんですけど、これは取材した沖縄の方の言葉です。
「政治的じゃないことがあるんだったら逆に教えてほしい。全ては政治的です」と。暮らしそのものが政治に結びついているんだということを仰っていて、私も教育を見つめてくる中で、一つ一つの授業の実践を大事にして、その授業を豊かなものにと思って努力しても、それが政治の力でガシャっと崩される、そんな可能性があって、その危機というのが思いのほか近くに迫って来ているという、そこを感じてくださったら嬉しいなと思います。

―今日はありがとうございました。

一監督は報道の方に行かれましたが、映画のほうはいかがですか? ご覧になる時間はありますか?

映画は大好きだったんですが、報道記者になってからは忙しすぎてあんまり見ることができてなかったですね。でも、最近観た映画では『ゲッベルスと私』『ユダヤ人の私』、この2本はすごい映画だと思いました。
出演しているのはたった一人の女性と、一人の男性なんです。この二人の語りから歴史に迫っています。今から振り返れば、ドイツのナチス政権下というのは自由も奪われて国民が抑圧されている時代でした。
『ゲッペルスと私』に出てくる高齢の秘書だった女性はそういうことをわかりながらも、「ゲッペルスはとても素敵な男性だったのよ」と語る。それがすごくリアルなんです。
私は学生時代メディア学を学んで、ナチスドイツがどんな風に大衆操作したとか、書籍で読んでいたので、ゲッペルスがどんなに巧みにラジオや映画などを利用して、ヒトラーの、今でいう「パフォーマンス」をあげていたかというのは知っていました。私が書籍で知っていたゲッペルスと、当事者の彼女が語るゲッペルスは全然違いました。だから、歴史の中に身を置いたとき見えないことがある。今の時代の人は「なぜ止めることができなかったんだ」って簡単に言いますが、自分を振り返ってどうなんだと。日本の人々が今ちゃんとできているのかというとわからないですよね。

『ユダヤ人と私』も迫害された歴史もそうなんですけど、今も「お前なんかガス室で死んでしまえ!」というようなヘイトスピーチが寄せられている。自分が被害体験を語ることで、今もヘイトスピーチが高齢の彼に向けられているという残酷な現実。テレビの人間だからこの表現、このライティング、って観ちゃうんです。ライティングが違うんですよ。『ゲッペルスと私』でも最初はすごく皺を際立たせるようなライティングで、途中からちょっとその皺が浮き立たないライティングに変わるんです。その違いで二日か三日かけてるかな、と(笑)。敬愛するカメラマンが「あのライティングは4パターンはあった」って(笑)。
その2作はすごく好きな作品です。


=取材を終えて=
私は学校が好きでした。知ること、わかること、友達と会えるのが楽しかったからです。小学校を3回転校しましたが、どの先生にも級友にもいい思い出があります。ただみんな一斉に同じことをしたり、競争したり締め切りのあることは苦手でした。宿題はイヤだからさっさと終えた覚えがあります。
今学校が辛いという子、行けない子がたくさんいるのはなぜなんだろう? 生きづらいと思う原因は何なのだろう? 答えが一つしかないと思うと、真面目な子ほど追い詰められてしまいます。子どもたちを支える大人、自分を含めた大人がいいお手本にもなれていません。
都合の悪いことは隠したり、あったことをなかったことにしたり、間違っていても謝らなかったり、人は弱いのでそうやってしまいがちです。弱い自分にも向き合って、自分と違う意見を聞き、互いに歩み寄り、もっと良くしたいと考える。それが「ちゃんとした人」じゃないでしょうか? 
監督に共感するあまり、自分の想いをこぼし過ぎて反省。それだけ、あちこちを刺激して語らずにいられなくする作品でした。日本の歴史や政治経済に詳しくなくとも、地球に住む生き物として、なんだか生きにくい、危ないことが迫っている感覚はあります。子どもや孫に大きな負債を残したくありません。
子どもたちの将来を憂える親や先生をはじめ、たくさんの大人たちに届きますように。
(取材・監督写真 白石映子)