『紅花の守人 いのちを染める』佐藤広一監督インタビュー

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*プロフィール*
1977年山形県出身。1998年、第20回 東京ビデオフェスティバル(日本ビクター主催)にて、短編映画「たなご日和」でゴールド賞を受賞。
監督作に「隠し砦の鉄平君」(06年)、WEBドラマ「まちのひかり チェーズーベー」(20年)主演:庄司芽生(東京女子流)がある。
ドキュメンタリー映画『無音の叫び声』(16年/原村政樹監督)、『おだやかな革命』(17年/渡辺智史監督)、『YUKIGUNI』(18年/同)では撮影を担当。
監督作『世界一と言われた映画館』(ナレーション:大杉漣/プロデューサー:髙橋卓也)が2019年に全国公開。公開待機作品に、映画『丸八やたら漬 Komian』(2021年/ナレーション:田中麗奈/プロデューサー:同)がある。

〇『紅花の守人 いのちを染める』作品紹介はこちら
2022年製作/85分/日本
配給:UTNエンタテインメント
(C)映画「紅花の守人」製作委員会
★2022年9月3日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

★ラストにも言及しています。気になる方は鑑賞後にお読みください。

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―「紅花」は、いつか撮りたいと温めていたものですか?

前作の『世界一と言われた映画館』もそうなんですが、情報が入ってくるというか、みんな常に気にしているものなんです。ことあるごとに「グリーンハウスが」と言うし、紅花もシーズンになるとあちこちで「紅花まつり」をやっていて否が応でも入ってくる。
どこかのタイミングでそれを撮る時期というのがあるんだろうな、とはぼんやり頭の中で思っていました。ただご縁とか、タイミングとかがあるのでおいそれとはとりかかるわけにはいかないんですけど。
この『紅花の守人』に関しては、4年前に生産者の人たちがこれを作りたい、というのはタイミングとして最高だったんです。世界農業遺産登録のタイミングでもあり、この映画は去年完成しているんですけど、なおかつ『おもひでぽろぽろ』(1991/高畑勲監督)の公開からちょうど30年という節目だったんです。

―もう30年経ちましたか!

当時私は中学2年生でした。ナレーションをされた今井美樹さんは「え~!子どもだったんですね」と(笑)。

―その映画を作りたいとおっしゃったのが、ご夫婦で登場している長瀬正美さんとひろこさん。

はい、長瀬さんはこの映画製作委員会の会長、奥さんのひろこさんがこの『紅花の守人』というタイトルを「どうですか?」と提案してくれました。何かいい落としどころないかな、とずーっと考えていたんですよ。ぴったりでした!

―お二人はこの紅花作りを守っていく、という気持ちで続けてらっしゃるんですね。

そうですね、やっぱり相当減っているんです。今もやっているのは年配の方が多い。若い担い手から見ると紅花は経済として今殆ど成り立たないんです。
この映画の中には出していないですけど、長瀬さん夫妻は、この紅花を朝イチ4時くらいから摘むんです。朝露でとげが柔らかいうちに。その後はトマト畑へ行きます。トマトを収穫してすぐ出荷しています。ほかに米も作っているんですけど、これもあまりよくない。
でも、経済効率だけじゃなく、繋げていかなきゃならないものがあるんじゃないかって、長瀬さんは紅花をお金とは関係なく途絶えさせてはいけないと。こういうのって途絶えさせたらもう瞬間でなくなってしまうので、継続していきたいし次の世代に引き継ぎたい、という強い思いがあって映画を作りたかった。

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―映画になると残りますし、全国へ、また世界でも観てもらえますものね。どなたか紅花作りを引き継いでくれそうですか?

これは大変な作業ですし、一から始めようとするとまず畑買うところからになっちゃうので、引き継がれてきたところを繋いでいく、ということでしかないんです。

―どこの農家も後継者には苦労するのかもしれないですが。紅花は手間暇かかりますしね。

最終的にこの映画で伝えたいことは「効率だけじゃない」という部分をやんわりと描くことで「なるほど」と伝わればいいなと思っています。

―紅花はとても高価なので、作った人は使えないというのもなんだか切ないです。

生産地ですからね。やっぱりもう出荷してお金に替えるということでしかないんですよ。完成品はやっぱり京都、大阪です。後は幕府であるとか、皇室へ献上されるとかですね。一番儲かるのは紅花商人です。

―そういう歴史や紅花の流れがわかって大事な映画だなと思いました。こうやって関連付けて観たことがないので。

その土地その土地の文化をパートごとに分かれてみなさんが知っているということで、こういう風に一周するというのは今までなかったと思います。

―『おもひでぽろぽろ』で紅花作りが大変なのを知りました。紅花を知るのに大きかったですよね。

今見返すとかなり詳細に描かれています。

―京都の染色家の青木正明さんが、紅花を人に例えているのが面白かったです。

我々はあのシーンを「紅花じゃじゃ馬娘説」って言ってるんです(笑)。今井美樹さんもここを気に入ってくれて「印象に残ります」と。

―残ります。ものすごく綺麗だけど性格が悪くて手がかかる。わがままで、と(笑)。
黄色ならすぐに出るのに、あの赤を出すために別の手間がかかるわけですね。


99%が黄色で、赤は1%しか取れないということで貴重さが全然違う。黄色のももったいないので染めるのに使う人もいます。

―紅花の種まきから始まって、出荷までに一連の作業がありました。ほかに歴史を語る人、染める人、売る人、将来を考える人、とたくさんの人が登場します。長瀬さんからいろいろ吸収して、次はこれ、と組み立てていかれたのですか?

基本的にはそんなに細かく構成していたわけではないんです。長瀬さんが映画を作りたいと思った最初の段階から、ある程度「ここに行くとこういう人がいる」というのはありました。栽培地ではいっぱい摘み人がいるんですが、最後まで活用する「守人」はそんなにいない。ここまで撮れたから次はこれじゃない?という話し合いをして、繋げていきました。長瀬さんは製作委員会会長をして、出演もしていて、「出羽地区のトム・クルーズじゃないですか」と(笑)。

―ああ、なるほど(笑)。
最初に出てくるあの紅花デザインの緞帳はとても大きなものですが、紅花の染料も使われていますか?

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さすがに大きいので、一部でだけ使われています。山形県民ホールは紅花をイメージして作られているので、2000席の座席も真っ赤で、入ると圧倒されます。

山形の映画祭に行ったときに観られると嬉しいですが。催し物のチケット買って入らないとダメですね。せっかくあちこちからお客様が来る映画祭だから、機会があればいいですね。

『紅花の守人』の初上映をここでやりたいと思っていたら、県民ホールの方が共催にしましょうと言ってくださったんです。タイアップで。
2021年10月10日にお披露目をしました。緞帳が上がって、映画が始まるとオープニングがその緞帳なんですよ(笑)。バーンと出てくる。

―すごい!

上がったばかりで、また緞帳。しかもあのシーンはホールにドローンを持ち込んで撮りました。初めてらしいですけど、浮遊して緞帳に近づいていくのをオープニングにしたいなと思って。

―それは監督のアイディアですか?

髙橋プロデューサーのアイディアです。ただ撮るだけじゃなく、何かやりたいなとアイディアを出し合って。あまり細かいことは言われませんが、たまにこうしたら、という私が思いつかないようなことを言ってくれます。

―プロデューサーさんは遠くのロケにも一緒に行くものなんですか?

今回一緒に行っています。配給のUTNエンタテインメントは『よみがえりのレシピ』(2011)の渡辺智史監督がやっていて、高橋さんがプロデュースしています。渡辺監督の『おだやかな革命』(2018)、『YUKIGUNI』(2019)は私が撮影しています。『タネは誰のもの』(2020)の原村政樹監督の『無音の叫び声』(2016)でもカメラでした。全部繋がっているんです。家庭内手工業みたいにぐるぐるぐるぐる(笑)、監督したり撮影したりみんなで一緒にやってるって感じです。

―そんなに何度も一緒にできるって相性がいいんですね、きっと。手が足りないときにぱっと思い浮かぶ人がいるっていいことですよねえ。

もう10年以上、役割を代わりながら何かしらやっています。撮影しているときもちょっと手が足りない時は、渡辺監督に「ちょっとお願い」って。「画が変わらないように」カメラも同じやつを買ったんです。相談して(笑)。そうすると「2カメできるね」とか、いろいろシミュレーションもしてみんなで。

―みなさんドキュメンタリーですね。製作費を捻出するのも、回収するのもたいへんでしょう。

そうなんですよ。なかなか難しくて、とんとんになればいいよねくらいの感じで。

―プレゼンの練習風景があった世界農業遺産が決まっていれば〆にぴったりでしたね。

あれも審査が止まっているんですよ。審査員の人が現地に来られなくて。ほんとは全国公開のタイミングで「審査通りました~!」ってなれば最高だったんですけどね。

―コロナのせいですね。ラストは奈良の月ヶ瀬で昔ながらの「烏梅(うばい)」を作る中西喜久さんと健介さん。出かけたみなさんが修学旅行の生徒みたいに嬉しそうでした。

守人の人たちもほとんど行ったことがなくて、あそこに行くのが念願なんです。「一度は行ってみたい」とみんな言うので「じゃ、行きますか!?」って。憧れの聖地にやってきました、という高揚感もあり。場所もかなり遠いところで、山の中まで行くのに交通機関でポンと行けず、レンタカー借りてという世界になります。

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―「烏梅」作りは伝統的な紅花染めに必要なものですが、今1軒が残っているだけなんですね。息子さんが継承しているのにホッとしました。

化学染料のように媒染剤の代用品もあってほとんどの人がそっちを使っちゃうんですが、映画に登場するちゃんとした染めをしている方々は、これでなくてはならないんです。新田克比古さん翠さんご夫妻は京都のよしおかで修業されていて、本物を継承されています。
こういう人たちがいないと烏梅も残っていきません。

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―紅花の切り花や製品は見えますが、その前の地味な仕事、過程を支える人たちの姿は隠れています。その守人たちに光を当ててくれてとても良かった。
私は静かな映像とナレーションの作品は、よく寝落ちしてしまうんですが、この作品では一度も眠くなりませんでした。

あ、ほんとですか。良かった!
今回やっぱり「飽きさせない」っていうのも一つのテーマだったんです。こういうのってそうなりがちじゃないですか。なので、それだけは絶対にしまいと思って。良かった~(笑)。

―監督の思うつぼにハマりました(笑)。だって知らないことばっかりで。映画って知らないことを教えてもらえる楽しみもあります。

髙橋さんも私もそうですけど、知ってるようで知らないことがいっぱいありました。最初からガチガチに勉強するのでなく、なんとなくは聞いているけど毎回「教えてください!」という姿勢で。映画を観る人は初めてじゃないですか。こちらが知っている前提で話をされちゃうと、いろいろクエスチョンがたまってくるわけですよ。だからほんとに単純な質問なんですけど「これ何ですか?わからないので教えてください」って。

―監督が観客の質問を代弁してくれたということですね。私たちの取材と一緒です。監督の狙いはちゃんと伝わりました。

そういっていただけると。尺(長さ)も85分という長さなんです。自分で観てもドキュメンタリー映画が2時間近くなってくると、最後の15分は要らなくないか?みたいな(笑)、けっこう感じることがずーっとあったんですよ。それでスコーンといいところで終わる、っていうのは最初から狙いとしてありました。
昔、『ランボー』(1982)とか90分くらいでスパッと終わらせてるんです。蛇足がない。「90分内映画最強説」っていうのがあるんです(笑)。いい感じの印象を残して終わらせる。

―90分映画は観やすいですよね。興味や緊張が持続する時間なのかな?監督はちゃんと90分以内で終わらせて。いろいろと思惑当たっていますね。

ありがとうございます(笑)。

―後はお客様がたくさん入ってくれますように。県や市と相談して学校上映をさせてもらえるといいですね。

そうですね。学校上映とか特にやってほしいなと。タイアップ的なのは、やりました。栽培部分だけの短いものは何か所かで上映しました。
山形はもう先行上映をしているんですけど、やっぱり「知っているようで知らない」っていう感想がほとんどでした。観に来てくれた学校の先生で「学校で上映したい」っとおっしゃってくださった方もいました。

―それはもうぜひぜひ。全国公開と一緒に山形での再上映などは?

ぜひやれたらいいですね。

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―監督はこれまでグリーンハウスや香味庵など山形の残しておきたいものを撮られていますが、これからの予定は?

残しておきたいというか、まあ、みんな気にはなっている事柄なのかもしれません。プロデューサーが髙橋さんっていうのも大きいです。やっぱり髙橋さんのところにいろんな題材の相談が来る。「これを映画にしたらどうか」とか。なんでも映画として成立するわけではないので、そこは選んで残ったものを映画にしていくって感じですかね。

―髙橋さんと監督が自分で観てみたいと思わなくちゃダメでしょうね?

それは最初にありますね。これは物語になるというネタじゃないと、なかなかとりかかるのは難しい。

―記録として残すだけじゃなく、エンタメにもしなきゃいけませんね。

そうなんです。映画ってエンターテイメントですからね。
今井美樹さんに協力していただいたり、音楽もけっこう、ドキュメンタリーにしては多いほうという感じがします。その逆の「ナレーションなし、音楽なし」というストイックな作り方もできなくはないんですよ。そうすると一部の好きな人だけが観るみたいな感じになっちゃうんです。できれば広く観てもらいたい。

―うーん、その塩梅って難しいですよね。この作品の出来上がり具合、ご自分では?

自分では、予想以上に良くなったなという感じはしてて(笑)。今までずーっと観てくれた人で「佐藤監督の最高傑作」と言ってくれた人が何人かいました。自分で言うとちょっとあれですが(笑)。

―観た方々が言ってくれたと、ちゃんと書いておきます(笑)。

初めて観る人に寄り添ったというか、飽きさせない。ドキュメンタリーが難しいというのを覆したいなと思ったんです。

―この次に撮りたい候補はいくつかあるんですね。

そうですね。まだ準備段階ではありますが。

―楽しみにしています。ありがとうございました。

(取材・監督写真 白石映子)


=取材を終えて=
おもひでぽろぽろ』を観たのはもう30年も前だとは!佐藤監督は中2だったそうですが、私は専業主婦で、取材に立ち会っている宣伝さんはまだ産まれてもいません。あの作品で朝早く手で摘むのを知って大変なお仕事だと思ったのでした。
紅花は江戸中期から最上川流域で盛んに栽培されるようになって、その価値は米の100倍、金の10倍と言われたそうです。艶やかな紅花染は珍重されましたが、近代になって安価な化学染料にとって代わられ、急速に紅花農家が減っていきます。そんな中でも、土地が育んだ伝統を絶やすまいと守る人たちがいました。佐藤監督は、棘のある紅花を愛おしそうに摘む人たちを訪ねます。さらに、色に魅せられて研鑽を積む人、歴史を紐解く人、料理に生かす人…紅花を支える人たちにお話を聞きます。最後に月ヶ瀬に集まった守人たちの笑顔の良いこと!
紅花で繋がった人たちをめぐる1本の映画は、せかせかと生き急ぐ私にゆっくりゆっくり、と言ってくれているようでした。来年は山形へ紅花の畑を見に行くぞ~。(白)

●『世界一と言われた映画館』佐藤広一監督インタビューはこちら

「第33回 東京学生映画祭」 運営委員:宇佐美綾音さん、磯部秋斗さんに聞く

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●第33回東京学生映画祭●
2022年8月20日~21日
in渋谷・ユーロライブ

公式HP: http://tougakusai.jp
Twitter: https://twitter.com/tougakusai
Facebook: https://www.facebook.com/tougakusai/

―映画祭運営組織を簡単に教えてください。

磯部 委員は総勢27人。代表の下に進行部と広報部に分かれ、それぞれを進行部長・広報部長がまとめています。
進行部の役割は主に当日の進行業務やゲストに関連する業務、広報部の役割は主にSNSを通じての広報活動や映画祭りにご協賛いただける企業様をさがすことです。
ほかにも配信に関する業務を担う委員やデザイン全般を担う委員もいます。

―運営委員はどうやって集められるんですか?映研の人が多いんでしょうか?

宇佐美 TwitterやHPで募集をかけています。サークル活動という形でやらせていただいていますので、学生であればだれでもいいんです。

磯部 映研の人もいますけど、大体は大学のサークルとは関係なく、たまたま見つけたみたいなことも。

―大学の枠を越えて集まっているんですね。じゃあ事務局はどこに?

宇佐美 事務局はないんです。ミーティングなどはだいたい下北沢で会議室を借りてやっています。

―お二人の入った時期と今の役どころは?

宇佐美 学生映画を見たかったので去年の春ごろに入りました。今3年生です。広報部で主に映画祭の宣伝や、協賛、協力者との交渉などを行っています。

磯部 2年生です。今年の4月から新人として、応募作品から上映作品を選ぶセレクションから参加しました。映画が好きだったことと、何か新しいことをやってみたかったからです。進行部でtwitterでの宣伝を主にやっています。

―担当は自分の希望ですか?

宇佐美 毎年メンバーが違うので、その都度やり方も全然違ってくるんですけど今年はそうです。

磯部 メンバーは2年生が圧倒的に多いです。2年生いっぱい、3年生いっぱいやって映画祭が終わったら引退することが多いかな。

宇佐美 最初は作品募集のやり方、スケジュールの進め方という業務の引き継ぎがあります。まず、映画祭を開催するのかどうか、どういう映画祭にしたいのか「後は君らの代が全部自由に決めてね」っていう感じです。

―開催を決めた後、準備は何からどんな風に始めるのですか?

宇佐美 今年の軸を決めてから、会期を決めます。そして会場決めです。そのあとは作品を募集し、入選作品を委員で選んでいきます。

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『えんまさん』鈴木智貴監督

―作品はどのくらい集まりましたか?どんな風に選定していくんでしょう?

宇佐美 応募作品は204本でした。グループに分かれて手分けして全作品を観ます。第1次、第2次、最終選考まであります。今年は3月に募集を締め切って、5月まで手分けして観続けました。私は70本観ました。

磯部 僕は途中からだったけど、そんなにたくさん観たんだ!

宇佐美 それが楽しみでやっているので、楽しいです(笑)。

磯部 最終選考に残った今年の上映作品は12本で、2日間通っていただけると全部観られます。

宇佐美 配信もあります。以前の受賞作品はアーカイブから見ることができます。

―今回の映画祭の特色・見どころは?

宇佐美 今年は短編、長編、アニメーションに部門を分け、作品数も少なめにしました。
なので、少数精鋭のすべてが面白い作品であると言えると思います。

磯部 これは今年に限りませんが、やはり運営・上映作品すべて学生の手によるところが東学祭最大の特徴です。またその特色から、1年で委員のほぼ半数、2年でほぼ全員が入れ替わることから運営体制の変化が早く、自分たちでも意識しない変化や特徴が毎年あるかもしれません。

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『川凪ぐ火葬場』はるおさき監督

―ゲストもいらっしゃるんですね。

磯部 監督はご招待しています。観客席から見ていただいて、上映後に審査員(*)の方とトークの予定です。
*審査員は岩井澤健治さん、杉野希妃さん、瀬々敬久さん、細田守さん、三宅隆太さん

宇佐美 審査員の方とお話しすることが、入賞した!というモチベーションになっていただけるといいなと思います。

―運営上、大変なことは何ですか?予算、人事、作品選定‥

宇佐美 作品を選ぶことが一番楽しくもあり、難しいです。 みんな意見が違うので。
磯部 いくつかの部署で同時に進行している業務を把握することが大変です。
広報では特に宣伝をするうえで、東学祭の活動の全容を把握している必要があります。

―学生だからこそできること、あるいは難しいことは何でしょうか?

宇佐美 一般の学生がシンプルに上映したいと思ったものを選ぶ、ということがこの映画祭の一番の魅力だと思います。難しいことは、わからないことだらけなことです。メールの送り方から始まり、社会性を学ばせてもらっています。

磯部 特に上映作品のセレクションなどで、それぞれが純粋な感性を正直にぶつけ合えることで学生ならではの映画祭になっていると思います。

―映画祭には経費がかかりますが、前年度分の残高も引き継ぐんですか?

宇佐美 去年の先輩は残して下さっています。なので、今年も会場費くらいは残して引継ぎたいと思っています。チケットと企業のご協賛、クラウドファンディング(12日まで)が主な収入になります。
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『サカナ島胃袋三腸目』若林萌監督

―以前から映画が好きでしたか?

宇佐美・磯部 はい!

―最初の映画体験を覚えていますか? 作品名や誰と一緒だったか?

宇佐美 最初は覚えてないです。おそらくテレビでやっているジブリあたりが最初だったのではないかと思います。ストーリーというよりキャラクターの印象が強かったと思います。

磯部 初めて見た映画は覚えていませんが、小さなころハリポタの映画が公開されると家族で見に行ったことを覚えています。内容は子供には少し怖かったのですが、毎度楽しみにしていました。親が観たかったんだと思うんですけど、映画観てご飯食べて一日遊んだって感じです。

―ハリー・ポッターは何作もあったので、じゃあハリーたちと一緒に大きくなったんですね。

磯部 そうですね(笑)。

―宇佐美さんはジブリ作品から。自分でお金を払って観たのは何か覚えていますか?

宇佐美 ジブリやドラえもん、クレヨンしんちゃんとか子ども向けアニメ映画から入ったと思います。自分でお金を払って観たのは…中高生の頃に友達と映画館に行ったのは…おそらく少女漫画原作で、イケメン俳優が主演の映画が最初です。めちゃくちゃベタですけど。

磯部
 僕も中高生だと思うんですが、恋愛ものだったかな、あんまり覚えてないです。友達と集まってひたすらゲームしてたかもしれない(笑)。

―映画のジャンルは問わず、なんでも好きですか?

磯部 何でも…ホラーは怖いかな。驚かされる系がちょっと苦手で。

宇佐美 韓国映画は痛いしえぐいですけど、そこがいいんですよね。あとアジアの映画が好きです、韓国や香港とか。ジャンルだとヒューマンドラマが好きです。

―映画は人生に影響を及ぼしましたか?

宇佐美 影響はあると思います。東学祭に入ったこともそうですし、人生の楽しみの一つを見つけられたのは嬉しいです。

磯部 思いつかないです。すみません。

―監督、俳優で「推し」はいますか?

宇佐美 最近は女優の志田こはくさんが好きです。

磯部 俳優の滝藤賢一さんが好きです。

―今は映画を観るほうですが、作るほうに行きたくはないですか?

磯部 運営委員の中には作っている人もいますが、僕は観るほうがいいです。

―これから映画業界に打って出たいですか?

宇佐美 考え中です!

―そろそろ時間なのでアピールしたいことをどうぞ。

磯部 僕は途中からの参加ですけれど、セレクションでけっこう思い入れのある作品もあります。一人でも多くの人に観ていただければ、それが一番嬉しいです。

宇佐美 一人でも多くの人に観てもらう、ということを考えると、配信はいい方法なので増やしていく方向にはなると思います。一番はスクリーンで観ていただいて、トークは配信されないのでやはり生で観ていただきたいです。来られない方はぜひ配信をご活用ください。

―ありがとうございました。盛会となりますように!

              
(取材・写真 白石映子)


★スタッフ日記にも書いています。こちら

『時代革命』 キウィ・チョウ監督インタビュー

「ぬるま湯でカエルをゆでる」(中国の諺)
知らないうちに自由が奪われていた!

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Cheng Wai Hok


『時代革命』
原題:時代革命 Revolution of Our Times
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(C)Haven Productions Ltd.

監督:キウィ・チョウ

2019年、香港で民主化を求める大規模デモが起きた。10代の少年、若者たち、飛び交う催涙弾、ゴム弾、火炎瓶……。壮絶な運動の約180日間を、監督自らヘルメットを被って追ったドキュメンタリー。
「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、時代の革命だ)」「香港人、加油(頑張れ)」と声を上げて抗議する若者たち。中核的な組織体やリーダー不在の運動だが、SNSを駆使し、機動的に統制されている実態も明らかになる。立法会、地下鉄駅、香港中文大学、香港理工大学などの場面が積み重なり、組み合わされ、運動の大きなうねりを記録していく。

作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/490705719.html

配給:太秦
2021年/香港/カラー/DCP/5.1ch/158分
公式サイト: https://jidaikakumei.com/
Twitter @jidaikakumei
★2022年8月13日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開



キウィ・チョウ(周冠威)
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Alex Chan Tsz Yuk


2004年、香港演芸学院電影電視学院演出学科卒業。2013年、同学院で映画製作の修士課程を修了し、自身初の長編映画監督作となった『一個複雑故事(とある複雑な話)』は、第 37 回香港国際映画祭に出品。また 2014 年、芸術開発協議会新人賞を受賞。2015年には、オムニバス映画『十年』の一篇「焼身自殺者」を監督。物議を醸す映画で、中国の官報に批判したものの、35 回目の香港電影金像奨で最優秀映画賞を獲得し、現在はNetflixで配信されている。2020 年、彼の二作目となる『幻愛』(邦題:『夢の向こうに』)が香港で劇場公開。パンデミックの渦中にもかかわらず台湾金馬奨で最優秀脚色賞を受賞、39 回目の香港電影金像奨では「最優秀監督」を含め、計6つの賞にノミネートされた。



◎キウィ・チョウ監督インタビュー
2022年7月22日(金)リモートで香港にいるキウィ・チョウ監督にお話を伺いました。

◆サプライズ上映の東京フィルメックスと同じバージョン
― 東京フィルメックスで、直前に上映が発表されたのにも関わらず、すぐに売り切れとなりました。満席の観客といっしょに画面にくぎ付けになりました。今回、あらためて試写で拝見しましたが、東京フィルメックスで観たものから編集が少し変わったような気がしました。今回の日本公開にあたって、意図的に変更したところがあるのでしょうか?

監督:バージョンは同じです。特に手を加えていないと思います。字幕が若干変わって、登場人物の顔にかけたモザイクの量が増えたかもしれません。

◆気が付いたら自由を奪われていた
― 1979年に初めて香港に行き、とても気に入って、その後70回以上、訪れています。1997年7月1日の香港返還の瞬間も香港で体験しました。旅人として、返還後、徐々に変わっていく姿を見てきましたが、それは、例えば町で普通話がよく聞こえてくるようになったとか、お店で中国のお札がそのまま使えるといった程度のことです。返還後、香港の人たちは日常生活において、いつごろから、どんな点で、中国政府の影響を感じるようになったのでしょうか?

監督:「ぬるま湯でカエルをゆでる」という中国の諺があります。ぬるま湯だとカエルは火にかけられてゆでられていることがわかりません。 返還後、8~10年位は、自由が奪われていっていることに、香港の人たちは自覚がなかったと思います。『時代革命』の冒頭で、なぜ運動を起こしたのかを語っています。自由主義を求めてのことです。
英国植民地時代の香港は、経済も発展していて文明も進んでいる町でしたが、政治的な民主主義はありませんでした。1997年7月1日の返還で、1国2制度となり、自分たちで自分たちの運命を決められると思っていました。自由と民主主義は保証されると思っていたのです。ところが、中国政府は自由や民主主義を香港の人たちに与えないという態度です。香港政府も中国に合わせて、民主主義を与えないという状況です。すでに手の中にあった自由が失われていくことになったのです。
過去にいくつかの運動がおこりました。大きなものでは、2014年の雨傘運動、 2019年 時代革命です。もう1点、香港にいる人たちは、1989年の天安門事件をみて非常に衝撃を受けています。はっきりと伝わったのは、中国共産党政権は自国民も殺すということです。


―「ぬるま湯でカエルをゆでる」という諺から、気がつかない内に自由が奪われたことをずっしりと感じました。『光復香港(香港を取り戻せ)」というスローガンですが、デモに参加している若い人たちは、返還前の香港を実際に体験していません。若い人たちにとって、取り戻したい香港とは?

監督:1997年までは、香港の歴史を見ると、少しずつ進歩して自由になって幸せを感じていました。ところが返還後は、逆にどんどん後退し、自由も失われていって幸せでないのを感じるようになりました。若い人たちもそれを感じ取っていると思います。

― イギリスから返還され、行政のトップがイギリス人から香港人に代わるということで、一部の行政の人たちにとっては喜ぶべき状況になったということでしょうか?

監督:97年にイギリスから返還されて、主権が中国に移され、共同声明で国防と外交を除き高度な自治を持つことになったのが、一国二制度という形です。 その高度な自治が守られなくなったのです。

― 映画の最後に出てきた歌の「必ず夜は明ける。自由香港、栄光あれ」という歌詞が皆さんの気持ちを象徴しているように思いました。いつ作られたのでしょうか?

監督:この歌が作られたのは、2019年9月です。


◆香港警察と黒社会の密な関係
― 香港映画が大好きで、たくさん観てきたのですが、香港警察と黒社会との繋がりを描いた作品も結構ありました。今回、3番目の項目「香港警察と黒社会」で、元朗駅での黒社会の人たちによる暴力シーンを観て、今も繋がりがあるのだと実感しました。

監督:おそらく元朗駅の事件も、知らず知らずのうちに警察と黒社会の関係が密接になっていたのだろうと思います。雨傘運動の時にも、個別の事件で警察と黒社会が手を結んでいるのではないかと話していたのですが、全面的に表れたのは、元朗での事件です。2019年7月21日に起きたことなのですが、映像があるのに、警察は事実無根だとまだ認めない。警察は本来、市民を守り、治安維持に尽くさなければいけないのに、法を守るべき警察が市民を殴って黒社会と手を結ぶという皮肉な話です。それも大々的に行うということが信じられませんでした。

― 国家が何をするかわからないということですね。

監督:明らかに国家犯罪ですね。 国が罪を犯しているのです。


◆平和裏に闘争する人物も収監される
― 雨傘運動は、香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)教授の提案によって始まりましたが、タイ教授は、この映画の中でもたびたび登場し、みずから提唱した民主化の運動が平和的なものから暴力的なものになっていくのを歯がゆく思ってみていたことが伝わってきました。自らは鉄格子の中にいたとのことで、この学生たちの運動の流れを止めることができなかったようですが、香港大学教授を解任され、刑務所に入り、釈放されてから、どのような形で運動にかかわっているのでしょう、今も理論的な柱ではあるのでしょうか。

監督:残念ながら、今も刑務所の中です。2014年の雨傘運動にかかわったことで2019年に逮捕されました。時代革命の最初の数か月はまだ刑務所にいて関われませんでした。釈放されましたが、2021年に再び逮捕されました。平和的に闘っていくことを主張する人も逮捕されたという状況です。これからなにができるでしょう。何もできない状況です。とても残念なことです。
ともに傷を負って、2019年には両方の主張は若干異なっていたのですが、互いの理解が進んでいるのではないかと推察しています。
2019年に流行ったのが、「香港人の絆は傷と苦難で結ばれているよ」というものでした。



◆水面下でも動けない現状
― 2020 年 6 月 30 日、国家安全維持法が施行されて、香港の人たちを取り巻く環境が大きく変わりました。 毎年行われていた天安門事件追悼集会に、あれだけ多くの人が参加していたのに、集まることもできなくなりました。海外に移民してしまう人も多いですが、香港にとどまっている人たちは、皆、息を殺して暮らしているという状況なのでしょうか? 水面下での動きはあるのでしょうか?

監督:香港の人たち全体でしょうか? それとも私自身?

― 監督ご自身が知っている範囲で教えてください。

監督:おそらく今は水面下で何の動きもないと思います。街頭に出て何かするということができません。刑務所に放り込まれている「手足」と呼んでいる大勢の仲間たちの裁判を待っている状態です。どうやって彼らを助けることができるのかを考えている状況です。今の体制に反対するメディアの声は、まったくなくなりました。 政治的な組織だけでなく、多くの市民組織、例えば学校の教師の労働組合などもほとんどが解散させられました。国家安全維持法の取り締まりが厳しいので、そのような団体の責任者のほとんどが逮捕されてしまいました。私の知る限り水面下で何ら動きもありません。

― 映画の中で闘いながらも新年を迎えるカウントダウンを行う姿が出てきました。かつては時代広場などでカウントダウンをしたり、冬の花火を楽しんだり、ハイキングやバーベキューを楽しんだ時代があったと思います。また心から楽しめる時代がくればと願っています。

監督:私もそういう風に期待しています。 今、現実的な問題としてコロナで集まれません。
条例にもとづいて、短時間に大勢が集まってカウントダウンをしたり花火を見る許可がでません。
一方、二つのケースがあって、デモ、集会など政治的主張をする集会は厳しい規制。お祝い事についてはゆるやかで、コロナが収束すれば認められると思います。


― 香港の皆さんが自由に暮らせる時代が来ることを願っております。本日はありがとうございました。多謝。

監督:こちらこそありがとうございました。 多謝。

取材:景山咲子



なお、この個別インタビューは、前日の試写後のトーク(下記)も踏まえて行いました。


◎『時代革命』 キウィ・チョウ監督 試写後のトーク

2022年7月21日(木) 2時半からの試写後、オンラインで登壇
場所:渋谷・ユーロライブ

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撮影:宮崎暁美


太秦 代表取締役社長 小林三四郎氏より代表質問が行われました。

― この映画をなぜ作ろうと思ったのでしょうか? 

監督:香港のことについて、世界の人々に知ってほしい、曲げられた事実を知ってほしいと思いました。僕自身、私たちの家「香港」について何かできないかと考えたときに、映画作家としてドキュメンタリーを作ることにしました。僕だけでなく、香港人は皆、美しい香港を守りたいと、いろいろなことを考えています。僕自身は映画を作ることでした。
もう一点、映っている一人が、「逮捕されるところを撮影してほしい」と言いました。 撮影することが彼を守る手段でもあると思いました。事実を曲げられ逮捕されることもあります。歴史を守るため、彼の言った言葉を映画に撮ることも事実を残すことでもあると思いました。これも映画を撮った理由です。


― 抗議をした若い人たちの活力や原動力のすごさをリアルに感じました。気迫が私たちを感動させました。エネルギーの源はどこにあるのでしょう?

監督:希望も一つの原動力です。希望をなくしたくないからこそ、今でもあきらめずに進んでいます。
別の側面からいうと、「絶望」でもあります。自由を失ってしまうことは絶望につながります。絶望だからこそ見える希望も原動力になっていると考えます。


― 2019年、いろいろな形で暴動が起こりました。どのように撮影を進めたのでしょうか?

監督:撮影方法の中でもっとも重要視しているのが、ストーリーと人物です。ストーリーの中で人物との因果関係もきちんと描きました。2点目として、人物の中にリーダーがいないことで理性と感性を映し出すことができたと考えています。 たくさんの人物が必要となったのが困難なことでもありました。人物の理性を保ちながら、感性も映すことが大切でした。学者なども取材しました。

― 日本で公開することで監督ほか皆さんの安全をとても心配しています。

監督:映画のタイトルだけでも、目を付けられます。 それでも日本のメディアの方には、今まで通り発信してほしいと願っています。

― 最後に会場にいるメディアの方たちに、一言お願いします。

監督:台湾でも上映され、蔡英文総督も観てくださいました。この映画は香港だけでなく、台湾、日本、世界の映画となっています。ぜひ皆さんご覧ください。

― 監督、くれぐれも安全に気を付けてください。ありがとうございました。

監督:アリガトー

報告:景山咲子




◆キウィ・チョウ監督 合同取材
7月22日(金)個別インタビューに先立ち、3誌で行った合同取材です。
(私の質問は、個別インタビューに入れ込んであります)

Y:日本でいよいよ公開されますが、どんな思いですか?

監督:まず、日本の皆さんに感謝します。香港を描いた映画が日本で、しかも映画館で公開されるのが嬉しいです。香港では公開できないでいます。映画館で見ることが私自身できていないので、日本の観客がうらやましいです。

Y:どんなところを観てもらいたいですか?

監督:香港を応援するため、関心を寄せるために観に行きたいとよく言われます。映画の中で何を語っているかですが、自由とは何か? 努力とはどういうことなのか? そしてそれを得るために立ち向かっていく勇気です。求めているのは万国共通の普遍性や価値観です。自由・民主主義の法治社会を求める姿を描いています。 映画は決して香港のためにだけ撮ったのではなく、映画を観てくださる一人一人が感じ取って、今の世の中をどういうスタンスで見るかに関心を寄せてほしいと思います。心の部分をぜひ見ていただいて考えてほしいと思います。

K:撮影から今まで時間が経って、その間に変化があり、ウクライナ戦争も起こりました。観る観客に対して、知っておいてほしい変化は? 伝えたいことは?

監督:まず世の中の変化ですが、今、グローバルな時代。一つの国で起きたことが世界に影響します。2019年の香港の出来事が世界にある種の警鐘を鳴らしていると思います。香港は自由な法治社会でした。それが、中国が野蛮な統治社会にしようとしている。 ある種の警鐘を鳴らしたと思います。 今、ウクライナで戦争が起きていて関心が寄せられています。日本は平和。日本の方が映画を観て、どう感じてくださるか・・・ 関心をもってほしいと思います。
『時代革命』は、私が初めて手掛けたドキュメンタリー映画です。今まではずっと劇映画を作ってきました。今回、劇映画を作る準備をしていたら、運動が勃発して、ドキュメンタリーを撮りました。このドキュメンタリーを撮ったために、劇映画のための資金が集まりにくくなりました。


K:映像が様々な撮り方をされていますが、どのように撮影されたのでしょうか?

監督:映画の中でたくさんのデモに参加した人に個別インタビューしています。ターゲットにした人たちをカメラを持ってついていって撮りました。このやり方ですと、関係者と近いところで映像を撮ることができます。 カメラを通してデモに参加している人々に寄り添うように撮ると、上映するときに、私の目線に近いところからデモに参加している人を観客も見られると思いました。また、大画面ですので、ワイドショットはほかのメディアから提供してもらいました。

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Cheng Wai Hok


Y:激しいデモの中にいて、監督ご自身が経験された印象深いことは?

監督:忘れがたいことがたくさんあります。私自身、警察が発砲したゴム弾に当たったことがありました。カメラを持ってデモ参加者の後ろにいたら、突然「伏せろ!」と声がかかったのですが、伏せなかったらゴム弾が頭に当たってしまいました。 恐怖を感じ、生命の危険も感じました。幸いヘルメットをかぶっていましたので、ケガはしませんでしたが、こういった運動は命の危険と隣り合わせだと実感しました。

K:『Blue Island 憂鬱之島』のチャン・ジーウン監督にもインタビューしましたが、香港の映画の製作状況が厳しくなっていと聞きました。上映中止に追い込まれる映画もあるとのことですが・・・ 

監督:私の対応ですが、『時代革命』は私のやり方の一つです。撮影した当時もすでに製作は困難な状況でした。当時「光復香港、時代革命」というスローガンがさかんに使われていました。そのうちの「時代革命」をタイトルにしたのが、私なりの対抗です。過去2年間、「光復香港、時代革命」とネット上でいうだけでも、刑務所行きです。私は映画を撮りたい、映画を密かに撮って、香港の外で上映するという形を取りました。

K:台湾に移住して活動している人たちもいます。イランなどでも亡命して海外で映画を作っている人たちもいますが、監督はあくまで香港で撮り続けるおつもりでしょうか? 海外で撮ることも視野に入れているのでしょうか?

監督:『時代革命』を製作し終えたときには移民しようかと考えて、家族と話しました。最終的に香港に残ろうと決めました。香港にいて私の役割を果たしていきたいと思います。その決断が正しいかどうかはわかりません。語れる範囲は狭いけれど、語り続けていきたいと思っています。多数の香港で暮らしている人たちが求めたいことを、どんな対価を払っても言い続けたい。 私はキリスト教を信じていて、何も恐れることはない。唯一恐れるのは神様のみです。中国共産党を恐れることはありません。

C:ただただ、監督に当局の手が及ばないよう、ご無事を祈っています。

監督:ほんとうにどうもありがとうございます。


***★***★***


*取材を終えて*
2020年に国家安全維持法が施行されて、今や、水面下でも何もできない状況だということが、ひしひしと伝わってきました。 私の大好きだった香港は、今や変貌してしまったのだと悲しくなりました。
先日、BBCで香港の前行政長官の梁振英インタビューを観たのですが、一国二制度は非常にうまくいっているというスタンスで終始一貫発言していて、なんとも腹が立ちました。最後に「あなたは香港人ですか? 中国人ですか?」と問われて「私は香港で生まれ香港で育ちました」とだけ答えていました。うまく逃げたなと思いました。
香港人が香港人らしく暮らせる日がくることを切に願います。

香港返還25年  大雨だった1997年7月1日を思う (咲)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/489403875.html

景山咲子




『失われた時の中で Long Time Passing』坂田雅子監督インタビュー

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*プロフィール*
1948年長野県生まれ。AFS交換留学生として米国メイン州の高校に学ぶ。帰国後、京都大学文学部哲学科で社会学を専攻。京都に滞在していたグレッグ・デイビスと出会う。1976年から2008年まで写真通信社に勤務および経営。2003年、グレッグの死をきっかけに、枯葉剤についての映画製作を決意。2007年、『花はどこへいった』完成。毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞、パリ国際環境映画祭特別賞、アースビジョン審査員賞などを受賞。2011年、NHKのETV特集「枯葉剤の傷痕を見つめて~アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ」を制作、ギャラクシー賞ほか受賞。同年2作目となる『沈黙の春を生きて』発表。仏・ヴァレンシエンヌ映画祭にて批評家賞、観客賞をダブル受賞したほか、文化庁映画賞・文化記録映画部門優秀賞に選出。2011年3月に起こった福島第一原発の事故後から、核や原子力についての取材を始め、2014年に『わたしの、終わらない旅』、2018年に『モルゲン、明日』を発表している。2022年8月、ベトナムの枯葉剤被害をテーマにした最新作にして集大成となる『失われた時の中で』がポレポレ東中野ほか全国にて公開予定。

作品紹介はこちら
http://masakosakata.com/longtimepassing
©Joel Sackett
©2022 Masako Sakata
★2022年8月20日(土)より ポレポレ東中野ほか全国順次公開


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©Joel Sackett

―18年もの長い間作り続けてこられてほんとにすごい!と感心しています。モチベーションを減らさず、途中でやめることなく。

モチベーションは減っています、少しずつ(笑)。体力的なこともありますしね。
途中でやめずに続けて来られたのはよかったです、ほんとに。

―監督はグレッグさんに出逢って結婚されたことで、そして途中で亡くなられたことで映画を作る道に来られました。

そうですね。彼と一緒になったことより、彼が亡くなってからのほうが思いがけない道でしたね。
映画を作ることには、20歳のころから興味があって、夫がカメラマンだったからいつか引退したら二人で、と。私は写真を撮ったり重い機材を持つのはいやだったから、何かものを書いて彼が撮影をして、一緒に南太平洋の島に行きたいね、という話はしていました。

―ほんとによく立ち上がって前に進まれたと思います。

立ち上がるときにね、掴まるものがあった。杖になってくれるもの、それが映画作りだったわけです。ほんとにそのおかげで夫亡きあとの人生を進んでこられたんだと思います。

―グレッグさんが世界を拡げてくださったんじゃないでしょうか。

という面もありますね。ただ、一緒にいるときはそんなにべったりしたわけじゃないんです。彼は年に半分くらいは外国に行ってましたから、帰ってくると何か新しい世界を持ってきてくれるみたいな。それが楽しみでしたね。
カンボジアの内戦を取材してきた後なんかは、帰国後も2,3日はストレスがたまっていたみたいで、日常生活に戻るのに時間がかかりました。

―このベトナム戦争は私の青春時代の話なのに、その被害が解決されないで今も残っています。監督はお1人でこういう問題を考え、抱えて来られるのは辛くありませんでしたか?

そんないつも考えてはいないですけど(笑)。やっぱりね、日常生活があるでしょう。みんなそうだと思うんだけど、どんなにしかめっ面した哲学者でも日常生活があって。日常生活の中で食べて寝る、そういうことが基本なわけですよね。でもそれだけじゃやっぱり人間生きていけない―まぁ、生きていける人もいるかもしれないけど―私はそれをより膨らませていきたい。生活っていうのは、いろいろなことの上に成り立っているわけじゃないですか。どういうものの上に成り立っているのか知るためには、社会のこと、過去のこと、未来のことも知らなきゃいけないわけだから、そういう意味では日常生活の中でいろいろなことに思いを馳せます。

―グレッグさんが早く亡くなられてしまってとてももったいないです。監督のその後のご活躍を「よく頑張ったね」と褒めてくれそうな気がします。

うーん、そうですね。亡くなってほんとに残念なのは、例えばウクライナの戦争とか、彼はいろんなことにユニークな意見を持っていた人だから、今生きていたらこの戦争のことについて何と言うだろうなとよく考えます。

―何とおっしゃるか想像がつきますか?

わからない。おそらく普通のマスコミが言ってることとは逆のことを言うと思う。CNNと真反対のことをよく言ってました(笑)。必ず別の見方をしていた。「あ、そうか、そういう見方もあるんだ」と思いましたね。

―「花はどこへいった」の本の中にあった「人は死ぬとき、その人は何か違う形で生き始めるのだと思う」という監督のことばがいいなぁと思いました。(グレッグさんの偲ぶ会で)

ほんとにそう思います。20年経った今でもそう思う。

―映像と写真は似ていますが、それぞれ違いますよね。今回の映画も両方が入っていることで、とても力強くなったと感じました。

それはありがとうございます。私も映像と写真の違いをよく考えるんです。ずっと写真の仕事をしていましたし、夫がカメラマンだったので写真に触れる機会は多かったんですが、「写真って何?」っていうのがよくわからなかったんです。写真は30何年間、商売の道具だったので「この写真はどこへ持って行けば売れるかな」ということばかり考えていて。
夫はそうでなくて、もっと「写真とは何か」を理解していたと思います。彼のいう「一枚の写真には背後にストーリーがある」ということまで私は気づいていませんでした。自分で映像を撮るようになって、映像には「すでにストーリーがある」と感じるんです。一枚の写真の「奥にある」というのではなくって、「流れの中にある」。その違いというのを、映画と写真を撮ることによってよりよく理解できるようになったな、と思います。

―映像は流れていってしまうので、情報量は多いのに残るものが少なくて、写真はたくさん撮られた中から選ばれた1枚だからか、すごく記憶に残ります。

そうですね。写真は立ち止まって考える時間を与えてくれると夫が言っていました。

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―これまで4本作られて、今回が5本目ですね。作り続けられるのは、まだ語り足りない、観ていないものがある、そういうのが力になったということでしょうか。

映画を完成させると、上映が始まるころに、次のアイディアが自然に浮かんでくる。あるいは次の映画を作るような状況になってくるんです。たとえば2作目の『沈黙の春を生きて』が完成したころに、福島の原発事故が起きて。これも今まで私がやっていたことと無関係じゃないのではという意識が芽生える。じゃあ、次に私は何をしないといけないのか?そして映画の公開がひと段落ついたころにはドイツが脱原発に舵を切っていたので、どうしてなんだろう?と。流れにそって進んでいったら次の構想が出てきたって感じですかね。

―壁にあたったり人に逢ったりで、違うほうへ流れることもありますね。

そうですね。まっすぐ流れてはいきませんね。
元々何に興味があったかというと、人類学なんです。いろんな場所を旅したかった。それこそ南太平洋とか。「すばらしい世界旅行」という、未開の地にいくようなドキュメンタリー番組がありました。日立の「この木なんの木気になる木♪」っていうCMソングの。映画というよりドキュメンタリーに興味がありました。でもそれをずっと忘れていましたね。

―この映画の中の新しい映像はどれですか?

2020年のお正月に行って、フォン先生と地方の被害者を訪ねた時と、4人の子どもたちが這って移動している家族の映像、それと私はコロナで現地には行っていないけれど、フランスでの裁判の映像が最新です。

―監督が取材で心がけていること、大事にしていることがありますか?

こと、ベトナムに関しては取材という意識なしに行っているんです。最初はとにかく「知りたい」が第一の気持ちでした。後半のほうになってくるとベトナムにはそれなりに親しい人がいるので「ちょっとこれを知りたいんだけど」というと、すごくうまくアレンジしてくれるんですね。だから「好奇心を満たすため」に行くみたいな感じです。行きさえすれば撮影すべきものも自然に出てくる。心構えというのは別にないです。何が撮れるかはわからないので、そのまま行って。前もってこういう人に会いたいとか、こういうことを取材したいとは伝えておきますけどね。
『モルゲン、明日』で取材したドイツや『わたしの、終わらない旅』で取材したと国々も、最初からこうして撮ろうという計画はあまりないんです。とにかく行ってみよう、何が撮れるか見てみようという気持ちで行きます。行った先で、いい人に出逢ったり、そういうものが繋がってできた感じがします。偶然というのも大きいですね。

―人に会うのは苦にならないほうですか?

いや、わりとシャイなほうです。あんまり社交的じゃなく、内向的なほうです。でも映画を作るときに人に会うのは全然苦にならない。新しい人に会うために行くわけですから。

―監督が知りたいという気持ちと、行動力がとても大きいと思います。知りたいことは一回の取材で解決できましたか?

一回じゃすまないです。たいていのところは何回か行って、足りないと思うとこれも知りたい、こっちにも行ってみたい、となって2,3回は取材をすることになります。

―じゃあまだまだ宿題はあるということですね。

でも体力の限界をこのごろ感じますからねぇ。カメラ持って歩くのが疲れるの。私のカメラはまだ大きいですから。やっぱり以前に比べて手が震えたりしますしね。いずれ全部スマホでできるようになればいいですが。
私は戦後生まれですし、戦争とは縁がない生活でした。それが、グレッグがベトナム戦争に行っていたということと、枯葉剤の影響で亡くなったということで、自分の身近にせまってきて戦争についていろいろ考えるようになりました。
ウクライナの戦争もあるし、人類って戦争をやめられないのかと思います。冷戦が1991年に終わって、これでもう戦争はなくなると思いましたよね。とんでもない、イラン、イラク、アフガニスタンと続いています。一つの戦争って、終わったときには必ず次の戦争の芽が芽生え始めているんです。決して完全に終わるってことはない。第2次世界大戦以降ずっとそうですよね。
ベトナム戦争にしてもその後、ベトナムはカンボジアと戦争をし、中国と戦争をし、そして枯葉剤という環境破壊も残っています。

―その枯葉剤ですが、私は坂田監督の映画を見続けてきたおかげで知識を得ました。土地が汚染され、多くの人が直接間接に被害を受けましたが、撒いた側の責任やこの被害者たちへの補償など裁判で追及されたのでしょうか?

アメリカの退役軍人が1980年代に訴訟を起こして、最終的にはすごく大きな和解金を支払うことで化学薬品会社と合意したんです。それはアメリカの帰還兵が対象で、ベトナム人は関係ない。枯葉剤に起因するかもしれない病名がいくつか挙げられていた中に、グレッグのかかった肝臓がんはありませんでした。

―肝臓がんはなかったけれど、「鼻茸」は症例としてあったんでしたね。

そう。鼻茸なんて珍しい病気でしょう、だからやっぱり彼は枯葉剤だったのかなと思いました。枯葉剤のせいだと請求することもできたかもしれないけど、結局何十万というアメリカ兵が被害をうけているから、和解金がいかに高額なものであっても、一人一人に分けたら雀の涙ほどしかないわけです。それでもそういう形でアメリカ兵には認められ、ベトナムの人的被害には何も認められていません。

―直接に浴びた被害者ばかりでなく、子どもや孫にまで影響が及ぶのが怖いですよね。

化学兵器はその場で殺傷するだけじゃなくて、後に残すものの悲惨さがすごいですよね。原爆もそうですが。

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―初めてベトナムのホーチミンに行ったときに戦争証跡博物館で、これまで映画で観て来たものをこの目で見て、これだったのかと実感しました。そのときは、本作にも出てくるツーズー病院や「平和村」が近くにあったのを知らずにいたんです。行ったとしても子どもたちを見たら胸がつまって何もできそうにありませんが。

初めて平和村にいくとやっぱりショックですよね。でも何度も訪れるうちにだんだんショックはなくなってきます。「この子には前にも会ったなぁ」と親しみを感じるようになりました。

―ベトナムで枯葉剤の影響を受けた子どもたちは、まだまだ生まれてきているんですか?

生まれてきてはいますね。ただ超音波で妊娠中の異常を調べることができるようになっているので、異常がわかれば産まないという選択肢がかなりひろまってきました。

―その検査は誰でもが無料で受けられるんでしょうか?国のバックアップとか、補助はありますか?

無料かどうかなど詳しいことはわからないですが、枯葉剤の被害者については国から月にいくらかの補償はしています。ベトナムも経済発展して余裕が出てきましたから。

―世話をしている親たちが先に逝ったあとのことが心配ですね。

親たちは、自分が看られる間は自分の手で面倒をみたいんです。そういう母親の気持ちも痛いですよね。あんなに大変だったら施設に入れたほうがいいのでは…、と思ってしまうこともありますがそう簡単ではない。最初にベトナムの家族を取材したときは、辛い状況であっても家族が愛し合ってあたたかい感じがして、夫をなくしたばかりの私としてはすごく羨ましい気持ちがありました。それが今は家族がどんどん亡くなって、残されたのは老いたお母さんと障害を持った子どもたちなんです。

―平和村が閉鎖になる、と映画の中にありましたが、あの子たちはどこに行くのでしょう?

行くところがないので、まだ閉じられずにいます。「オレンジ村」(エージェント・オレンジと呼ばれる枯葉剤からとった名前)という新しい施設を作る動きはあるんですけど、資金が足りないのでまだできません。

―どうしてもお金の問題になりますね。それでも少しは進んでいるんですね。

2004年に初めて私が行ったときに比べたら、実情も知られてきているし、ベトナムの元兵士たちが作ったベトナム枯葉剤被害者の会が全国的に支援しています。それは格段に支援の輪は広がっています。被害は年と共に少しずつ減っていきます。被害者も亡くなっていきますしね。

―そんな中で監督は、子どもたちの学びをバックアップする奨学金を作られました。

「希望の種」です。少ないお金でなんの役に立つのかなと思うのですが、ほんとに少ない額でもすごく歓迎されるんですよね。それでこちらも感激して、こんなに喜ばれるんだったら頑張ろうっていう気持ちになります。

「希望の種」
坂田監督が提唱者となった奨学金基金。枯葉剤被害者の子どもやきょうだいを対象としている。ハノイのVAVA(Vietnam Association of Victims of Agent Orange/Dioxin)とともに設立。2010 年から約 10 年にわたる活動の中で、これまでに 1000 万円以上の寄付が集まり、100 人以上の子どもたちの教育を支援している。
口座名:ベトナム枯葉剤被害者の会 代表 坂田雅子
三菱 UFJ 銀行(0005)青山通り支店(084)普通:0006502
※お振込いただいた際は、masakosakata@gmail.com までご⼀報ください。

―『花はどこへいった』はベトナムの国営放送で放映されたそうですが、劇場公開もありましたか?

『花はどこへいった』、『沈黙の春を生きて』はハノイの劇場で上映されましたが、観客は主にアメリカ人などの外国人。アメリカ、フランス、キューバ、ロシア、でも上映されました。『花はどこへいった』はアメリカの大学の図書館などで100部ほど売れたので、時々心ある学生たちが見てくれているといいなと思っています。

―タイトルですが、今回の副題(英語題)「Long Time Passing」は最初の「花はどこへいった」「Where Have All the Flowers Gone?」の次の歌詞です。歌はまだまだ続くので、映画も続くと思っていいでしょうか?

この歌詞の最後は「Oh, when will they ever learn?」で「いつになったら人は学ぶのだろう?」なんです。それに対する答えは見つかるのでしょうか?
「いつになっても人は学ばない」と思うこともあるけれども、私たちはいつまでも答えを探し続けるのではないでしょうか?いろんな形で。
枯葉剤なんて、ベトナムという遠い国の遠い昔のことで、自分たちには関係ないとみなさんたぶん思っていらっしゃるでしょう。だから少しでも興味を持ってくださる方がいるということがすごく嬉しいんです。
最近話題になっているのが、日本も枯葉剤の製造に関わっていて、1960年代に除草剤として野山に撒かれていたということです。それが70年か71年に使用禁止になってあちこちに埋められて、そのままになっているらしいんです。

―埋められたんですか!廃棄されて? 埋めればいいってものじゃないですよね。

埋めればいいってものじゃないです。だからそれが洪水なんかでまた流出してくるんじゃないかって心配もあるし、沖縄でも枯葉剤が埋蔵されているとずっと追っているジャーナリストがいるんですよ。枯葉剤の影響はベトナムやアメリカの帰還兵だけじゃなくて、私たちの身近にも迫っているということが、また最近になってニュースになっています。

―枯葉剤にピンとこなくても、日本には水俣病もありましたし、福島の原発事故だって初めてのことで、これから先どんな影響があるのかはわかりませんよね。

大きな目で見ると科学技術の進歩というのは、いつも負の面を持っています。枯葉剤にしても原発にしても、第2次世界大戦中に戦争のために作られたものじゃないですか。だけど、戦争が終わってそれが役に立たなくなったかというと、平和利用という名の元に日常的に使われています。
私たちの日常生活に入り込んできている化学薬品、あるいは除草剤、形を変えて生き続けるんだなと思いますね。
モンサントのラウンドアップという除草剤は当たり前のようにスーパーに置いてあります。ヨーロッパの一部では禁止されているのに、何で日本では禁止されないのか。

―誰かが通しているんでしょうね。きっとこれもお金がらみ・・・

おそらく、そうですよね。

―戦争も誰かが儲かるから、なくならない。そういう人たちは自分が戦場に出るわけでもなく、逃れられる立場なんでしょう。

犠牲になるのは力のない弱い人たち。ウクライナもそうですものね。

―あまりに問題が大きすぎて「じゃあ私たちは何をしたらいいんでしょう?」っていうところでいつもグルグルしちゃうんです。

やっぱり声をあげることだろうと思いますね。ほんとに大きなものが目の前に立ちはだかって、立ちすくんでしまいたくなるんですけど、市民が声をあげることによって、物事は変っていく。ベトナム戦争も結局は反戦運動があったからやめられたというところがあります。

―黙っていたら賛成していることになりますね。

だから市民が今どれだけ声をあげられるかということ。声がストップしてしまったら、より悪い方向に行っちゃうんじゃないかと。

―そこへいくと、坂田監督のお母さまがすごい!偉かったと思います。(70年代に反原発のミニコミ紙を作り、配っていらした。坂田監督の3作目『わたしの、終わらない旅』に詳しい)

あの小さな町でね(笑)。
小田実(おだまこと)さんが「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)、をやってましたよね。彼の「巻き込まれつつ巻き返す」という言葉があって、私はそれがすごく好きなんです。結局私たちは社会や政治に巻き込まれながら生活しているわけですよね。会社、たとえば軍需産業に関係のある会社に勤めている人もいるかもしれない。そういうものと全て縁を切って反対運動をするのは大変だけど、その中にいながらも反対の声をあげていくことによって、いつか反対の声が大きくなっていくということ。それが市民運動の大事なところじゃないかな。
思ってるだけでもいいと思うんですね。思っているといつか行動につながるじゃない?

―今日はありがとうございました。
(取材・監督写真 白石映子)


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―監督はお1人でお住まいですか?猫とか犬とかいます?

今14歳の猫が1匹います。猫がひなたでゴロゴロしているのを見ているだけで、心が休まります。猫に救われています。猫って途切れないですよね。次から次へと。私の映画みたい(笑)。
うちのは一匹で14年間いるので、今から他の猫は飼えません。自分が猫だと思ってないかもしれない。

―監督の健康の秘訣は?

私、ジムに行ってますよ。このごろところちょっとサボってるけど。食べ物も気をつけています。全部手作りします。お料理するのが楽しみですもの。

―好きな映画はなんですか?

今Netflixにハマっています。イギリスの刑事ものが好き。今見ているのは「ピーキー・ブラインダーズ」。イギリスのバーミンガムのマフィアの話。
ダークなのが好きなんです(笑)。うまくできているし、俳優さんたちもすごいですよね。
ドラマはそんなに長いことは観ません。睡眠導入剤みたいで、30分くらいで眠くなって寝られます。

―好きな俳優さんはどなたでしょう?

ジュディ・デンチ。男優はグレゴリー・ペック。ほんとハンサムだと思う。
女性は演技がうまいかどうかで考えるのに、男の人はハンサムかどうかで考えてしまいますね(苦笑)。


=取材を終えて=
ずーっと作品を観続けてきた坂田雅子監督にようやく取材できました。お目にかかるのは『沈黙の春を生きて』(2011)に出演したベトナム帰還兵のお嬢さんヘザー・バウザーさんが来日したとき以来です。私が話をあちこちに飛ばしてしまったので、順序を入れ替えたりまとめたりしていますが、ほぼ書き起こしです。
ベトナム戦争は終わっても、残った枯葉剤は今も人を蝕んでいます。たくさんの人が亡くなり傷ついても、人は何度でも戦争を始めます。ちょうど取材したばかりの『ウクライナから平和を叫ぶ』や、ベトナム戦争のときに「アメリカはベトナムから手を引け」という反戦ゼッケンをつけて8年間通勤した金子修介監督のお父様の話も出ました。思えばどれもこれも繋がっています。
坂田監督が仰るように、思い続けることが大事です。アンテナを立てているようなもので、情報や人に繋がるから。思いから行動が生まれます。人は祈るだけでは砂粒一つ動かせません。
みんながゼッケンをつけたり表立って活動したりはできないかもしれません。それなら動いてくれている人の後押しをする、応援をするのはどうでしょう?たとえば署名や募金や、選挙を棄権せず託せる人に投票するとか、自分ができることを考える。
戦争はいったん始まったらなかなか終わりません。人が死に、国が荒れ、膨大な損失が出るのに今も止められずにいます。「人はなぜ学ばないのだろう?」「いつになったらわかるのだろう?」とコツコツと取材して映画を作ってくださった坂田監督の作品から、いくつも「知る」ことができますよ。(白)


『ウクライナから平和を叫ぶ~Peace to you All~』ユライ・ムラヴェツJr監督インタビュー

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*プロフィール*
1987年、スロバキアの小さな町、レヴィツェに生まれる。高等芸術学校で写真を学び、その後、国立ブラチスラヴァ芸術大学(VŠMU)映画テレビ学部カメラ学科で映画撮影と写真を学ぶ。
現在、フリーランスのディレクター、撮影監督、フォトグラファーとして、ドキュメンタリーを中心に活動。極限状態、戦争紛争、自然災害を、人間や社会的な側面に焦点を当てながら記録することを専門とする。これまでに数々の賞を受賞している。
スロバキアで最も優れたカメラマンが集まるスロバキア撮影監督協会のメンバーでもある。
作品紹介はこちら
監督・脚本・撮影/ユライ・ムラヴェツJr.
配給:NEGA 配給協力:ポニーキャニオン
©All4films, s.r.o, Punkchart films, s.r.o., RTVS Rozhlas a televízia Slovenska
★2022年8月6日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開

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ロシアがウクライナへ軍事侵攻を開始して5ヶ月、世界中の耳目を集めていますが停戦の話し合いも解決も進まないままです。島国の日本と違ってロシアや西欧諸国と国境を接するウクライナでは、これまでどんなことがあり住民たちはどんな思いでいたのでしょう。
7月20日、長く取材を続けて2016年にドキュメンタリーを制作したユライ・ムラヴィッツJr監督にリモートでお話を伺いました。(白石映子)
通訳:橋本Kralikova玲奈 

―この映画を作るにあたって、どんな風に準備し、取材をされましたか?

僕は元々あまりリサーチをするタイプではありません。割と行き当たりばったりで、行ってから決めることが多いんです。今回は戦争という大きな出来事が起こったので、まずはそこに行こうという気持ちがありました。先にもちろんインターネットなどで調べますし、ドネツク側の入国許可やウクライナ側の撮影許可の手配などはしましたが、場所に着いてからその場で考えて決めていく即興的な作り方をしていました。出てくる方々も現地で知り合った方々ばかりですので、特別な準備というのはしていません。

―戦争で傷ついている方々を取材されるので、とても気を使われたのではと思っています。心がけていたことがありましたら。

このような仕事をしている人間にとって「共感力」や「コミュニケーション能力」はとても大切ですし、自然に持っている人でないとこういう仕事はできないのではと思っています。
相手の状況が悪くなることがないように物事を見極めたり、自分の言葉を選んだりすることも大事です。今いるところで、これを言っていいのか悪いのかを考え、自分や周りの人にとって危険なことを口に出さないように気をつけていました。

―子どもからお年寄りまでたくさんの方が出てきました。行き当たりばったりとのことでしたが、会った人から紹介されて繋がっていくようなこともありましたか?

ほとんどの登場人物は両陣営を旅している間に偶然出会った人が多いです。僕が一番興味深かった方は、マイダン(広場)デモの後、亡くなった若者の携帯電話を預かって、かかってきた電話に応えていた女性です。映画の中では声だけの出演です。マイダンの後出版されたインタビューを集めた本で、そういう仕事があったという記述を読みました。ぜひ出演してほしいと思いましたが、女性については具体的なことが何も書かれていなかったんです。本を書いたアンドロコビッチさんと僕の友人の写真家と一緒にリサーチを始めました。半年くらい経って、ウクライナ側からその女性についての記事が見つかったと知らせがありました。記事を書いた人にコンタクトを取って、ようやく彼女を見つけました。
元々彼女が電話を通してやったことについての話だったので、映画の中でもそれを再現してみました。彼女とはいまでも連絡を取っていて、2022年の戦争の始まりの頃に会いました。とても面白い人で、現在はボランティア団体の代表をしていて、質の良い軍需品を集めて軍隊の前線へ届ける仕事を熱心に続けているそうです。

―スパイと疑われ逮捕された息子とそのお母さん、村に一人残っていた目を怪我したお婆ちゃんが泣いていたのが印象に残りました。携帯電話の女性とは2022年に会われたそうですが、他の方々とはその後会われましたか?

連絡がついたのは、手足を失った退役軍人のスラーヴァとアンナというカップルです。キエフ(キーウ)に住んでいたんですが、戦争の始まりのころに家(高層アパート)と車にロケット弾が落ち、避難して現在はイタリアに移住しています。彼らには再会できました。
他に映画には出ていませんが、ドネツクで車を運転してくれた男性から2月に連絡がありました。アル中のホームレスの男性の撮影をした教会のある地区用に、避難するために防弾チョッキを集めてほしいという依頼があり、送るためにやりとりを続けていました。撮影した中には残念ながら、もう壊滅して消えてしまった街もあり、繋がりが残っている人もない人もいます。

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―全員の方についてお聞きしたいくらい、どうしているのか気になりました。最初に乗った車のフロントガラスに「TV」と貼ってありました。これはテレビ番組として放映されたのでしょうか?反響はいかがでしたか?

自分たちは元々「メディア」という資格で、ドネツクに取材に入りました。チェックポイントなどで、一般車だと普通一日以上待たされるところでも「メディア」「テレビ」とあると早く通してもらえるんです。そういう背景もあって、あのように表示して移動していました。
チェコの映画祭では、学生の審査員が選ぶ賞をいただきましたし、チェコでもスロバキアでも高校で巡回上映されて、3万人以上が観てくれました。高校生は自分の考えが作られていく過程にありますから、そんな段階の若者に観てもらえたというのは、僕にとってもたいへん嬉しいことでした。
2月に戦争が始まる前から国営放送で放映されていて、戦争が始まってからは、スロバキアで作られた(ウクライナ戦争に関連する)数少ない映画の一つであるということで、2週間繰り返し放送されました。反響はかなり良かったと思います。

―放映されたのは、今回上映される映画と同じですか?

はい、テレビ局側に編集はしない形で放映許可を出しています。

―拝見していて、ところどころに入っている監督が撮影された写真が楔のように胸に刻まれました。編集のときに、写真の挿入箇所を決めていかれたんですか?

基本的には編集室で作り上げていく形でした。写真に現場の音をつけていくとドラマチックになるということがわかりましたので、その手法を使いました。撮影に関しては、その場所を最大限に活用することを心掛けています。普段はまず環境と、そこにいる人たちをいろいろ映像で撮ってから写真を撮りましたが、写真と映像を同時進行で撮ることもありました。その後完成版のようにコラージュのような形で編集していきました。

―監督は写真家でいらっしゃいますが、写真と映像の良いところをそれぞれ教えてください。

写真と映像はどちらも自分にとって表現するツールです。どちらも現実を記録するという意味でとらえています。写真家か映像作家かということでは、自分は“ドキュメンタリスト”であるという認識が一番強いかなと思っています。僕は写真のほうが若いときから興味があって記録写真の撮影を続け、映像はかなり後になってから始めたので、写真家のほうが近いとも感じています。

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―映画の中で「みんなへ平和を」という歌が繰り返し歌われています。あれはどこの歌で、誰が歌うものなんでしょうか?

僕にも歌の出所というか、歌がどのようなものであるかは正確にはわからないんです。劇中では、キリスト教の一派で「セブンスデー・アドベンチスト教会」の中で歌われていたのを撮影して使いました。2015年に撮影したときに手伝ってくださったボランティア団体の方が、この教会を母体に活動していたと聞いて伺ったときにこの歌に出逢いました。
何より美しい歌ですし、普通の、知性のある人間はやはり平和を求めるものですので、この歌を聞いた瞬間にタイトルにしようと思いました。映画のタイトルというのは難しくてなかなか決まらないのですが、この歌のメッセージ性に惹かれました。

―最後にスロバキアの映画事情を教えていただけると嬉しいです。

とても難しい質問ですね。スロバキアはソ連の衛星国だったので、その影響がまだ残っている面がたくさんあります。特に経済的あるいは精神的な面ですね。大衆文化以上の質の高い文化という面では、西欧のレベルまで達していないというのが現実です。それでも映画の制作を後押しする奨学金システムなどはありますし、金額は西欧諸国よりは低いですが、制作ができるのはありがたく思います。映画館に関しては、みなさん通っていたんですけれども、過去2年間はコロナの影響で離れてしまいました。これは世界的な問題です。これからどのように元に戻っていくか、というところですね。

―今日はありがとうございました。この次はぜひ新しい作品で日本においでください。

(取材・まとめ 白石映子)