「沖縄戦の図」は地上戦の悲劇の永遠の証言者
河邑監督には、『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』の時にインタビューさせていただいたのですが、その折に、「この10年くらいの中で一番やろうとしたのは昭和史なんです。あの時代と、あの戦争を知っている人が減ってきた中で、ちゃんと記録して映像に残して、なんらかの形で後世に知らせないといけないというのは、この仕事をしてきた者の責任かなと思い意識しています」と語られていました。『丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図 全14部』 も、まさにそれが具現化した映画だと思いました。本作について、お話を伺う機会をいただきました。
取材:景山咲子
『丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図 全14部』
水墨画で風景画家の丸木位里(1901‐1995)と人間画家の丸木俊(1912‐2000)夫妻。二人は、「原爆の図」「南京大虐殺」「アウシュビッツ」と40年に渡り、戦後一貫して戦争の地獄図絵を描いてきた。
二人は、1982年から1987年に沖縄で取材し、「沖縄戦の図」14部(「久米島の虐殺1」 「久米島の虐殺2」 「暁の実弾射撃」 「亀甲墓」 「喜屋武岬」 「ひめゆりの塔」 「沖縄戦―自然壕」 「集団自決」 「沖縄戦の図」 「ガマ」 「沖縄戦―きやん岬」 「チビチリガマ」 「シムクガマ」 「残波大獅子」)を制作した。
その「沖縄戦の図 全14部」は、戦後米軍基地として接収されていた館長・佐喜眞道夫の先祖の土地を、交渉の末に返還させた特別な土地に建てられた佐喜眞美術館に収められている。
*さらに詳しい作品内容は、こちらでご覧ください。
公式サイト:https://okinawasennozu.com/
河邑厚徳(かわむらあつのり)プロフィール(公式サイトより)
映画監督。元NHKディレクター
1971年にNHK入局以来、40年以上、ETV特集・NHKスペシャルを中心に現代史、芸術、科学、宗教、 環境などを切り口にドキュメンタリーを制作。現代の課題に独創的な方法論で斬り込み、 テレビならではの画期的な問題提起をするスタイルが特徴。これまで制作してきた番組は、 国内外の賞で入賞するなど、その独自の手法は評価を得ている。定年後はフリーで映像制作を続ける。
【映画】
「天のしずく 辰巳芳子 “いのちのスープ”」(2012)
「3D大津波 3.11未来への記憶」(2015)
「笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」(2017)
「天地悠々 兜太・俳句の一本道」(2019)
「丸木位里 丸木俊 沖縄戦の図全14部」(2022)
「鉛筆と銃長倉洋海の眸」(2023)
◎河邑厚徳監督インタビュー
◆絵や歌が世代を越えて沖縄戦の悲劇を伝えてくれる
― 沖縄戦の図に、ただただ圧倒されました。丸木さんご夫妻の思いの伝わる素晴らしい映画をありがとうございます。
佐喜眞美術館の沖縄戦の絵の前で、若い民謡歌手の新垣成世さんが『戦場を恨む母』という歌を三線で弾き語りする場面で始まって、戦争の時代を知らない世代の方が、丸木さんご夫妻が絵で遺した庶民を巻き添えにした悲惨な沖縄戦を、歌で後世に語り継いでくださっていることをとても心強く思いました。《沖縄戦の図》14部を順番に紹介するのに、合間合間に、若い民謡歌手の新垣成世さんと、同級生で平和ガイドでもある平仲稚菜さんの二人を登場させるという構成がよかったです。
このような構成にされたのは?
監督:若い二人を入れることは、最初から考えていたわけではありませんでした。あの絵が描かれたのは1987年から6年間だけれど、戦争を考えたり平和を考えたりする、重要なアート。世代を越えて継承していくものだと思います。彼女たちは、戦争を体験した方たちから4世代目。さらに、昨年(2022年)6月23日の「沖縄全戦没者追悼式典」で、「平和の詩」を朗読した徳元穂菜さん(山内小学校2年・当時)の「こわいをしって、へいわがわかった」のスピーチのモチーフになったのも沖縄戦の図です。世代を越えて、戦争で起きたことを伝えていく意味があって、若い二人の女性を入れようと思いました。
― 彼女たちとは取材している中で知り合われたのですか?
監督:YouTubeで「すくぶん」(沖縄の言葉で「役目、役割」という意味)というチャンネルを配信されているのを観て、すごくいいなと思いました。民謡と沖縄戦というコンセプトが、今回の映画の「アートと沖縄戦」というテーマに合うと思いました。絵画も音楽もアートですので、同じコンセプトになると思いました。
― 「すくぶん」は、沖縄の言葉で発信されていて、新垣成世さんの着物や髪形も沖縄独特のものでいいですね。
監督:それが大事ですよね。
◆「沖縄戦の図」に感銘し、映画製作を提案する
― 監督は、2020年にはじめて「沖縄戦の図」の前に立たれたとプレス資料にありましたが、絵の存在は前からご存じだったのでしょうか?
監督:存在は知っていたのですが、たまたま 別件で沖縄に行っていたときに、これは一回観たいと思って観に行きました。
― そもそも、この映画の製作は佐喜眞美術館館長の佐喜眞道夫さんからの依頼で始まったわけではないのでしょうか?
監督:こちらから 「沖縄戦の絵を中心に記録映画を作りたい」とお願いしました。美術館がクライアントという形です。映画は、依頼されて作るとクライアントからの制約を感じてしまいます。 私のほうから、「映画を作れば、佐喜眞美術館のことも知ってもらえるし、平和教育で来る修学旅行生の事前学習の資料としても役立つ」とプレゼンして、製作費を出していただきました。
― 10年ちょっと前ですが、リンダ・ホーグランド監督の『ANPO』(2010)という映画の中に佐喜眞美術館が出てきて、修学旅行生が来ているのを知り、こんな美術館があるのだと思いました。こんなすごい絵があるとは知りませんでした。
佐喜眞美術館は今年開館29周年で、14作品全部を一挙公開しているとのことですが、通常はどのくらい展示されているのでしょうか?
監督:14部すべては普段展示されていないのですが、場合によって4作品だったり、6作品だったり、入れ替えて展示されています。
今年は映画も公開されるので、その機会に14枚すべて展示しています。
★2023年5月26日(金)〜2024年1月29日(月) ★3月24日(日)まで延長されました
詳細は、佐喜眞美術館のサイトで確認ください、https://sakima.jp/
◆美術館自体がメッセージを発している
― 沖縄の方たちの写真が美術館の壁一面にありましたが、沖縄戦のことを語ってくれた方たちでしょうか?
監督:あれは証言者の方たちの写真で、比嘉豊光さんという写真家があるプロジェクトの過程で撮影し たものです。美術館の考えで常設展示されています。
― 美術館の建物の屋上に階段が伸びていましたが・・・
監督;美術館の建物自体すごく考えられていて、あの白い階段をのぼると、普天間基地が見えるだけでなくて、突き当たったところに窓があって、慰霊の日である6月23日に夕陽が東シナ海に沈むときに窓の中に見えるように設計されています。これも建設家のコンセプトです。
(注:階段は、6月23日にちなみ、6段と23段)
― 6月23日に行けるといいですね。
(河邑監督が撮影された6月23日の佐喜眞美術館屋上の窓から見えた夕陽の写真を見せていただきました。俄然、行きたくなりました!)
監督:絵も展示されているのですが、美術館そのものも大きな作品としてメッセージを発しているのですね。佐喜眞家のご先祖の亀甲墓が敷地にあって、屋上からは米軍が上陸した読谷が見えます。
館長の佐喜眞道夫さんは、もともと東京で針灸師をしていて、東松山の丸木夫妻のところに治療に通っていたそうです。その時に二人からいろいろな話を聞いていて、沖縄戦の図 14枚を描き終えたところで、沖縄で展示したいと相談を受けて、あちこち探したけれど置いてくれるところが見つからなくて、佐喜眞さんが普天間基地内にあるご先祖様の土地を美術館にしたいと米軍に掛け合って、そういう事情ならばと返還させたのです。
― 絵があって美術館が出来たのですね。
監督:絵のために美術館を作ったのです。
― 米軍も絵のためならと太っ腹ですね。場所的にも返還可能だったのですね。
監督:普天間基地の端っこでしたから。滑走路の真ん中だと無理でしたね。いろいろな偶然が重なってますよね。
★米軍基地を返還させるため、約3年に及ぶ軍用地に関する条件闘争や当時の市役所、米軍の窓口になった担当者など、多くの方々との奇跡的な出会いや協力がありました。
(佐喜眞美術館)
◆生き証人に取材して戦争の真実を描いた丸木夫妻
― 母を連れて沖縄に行ったことがあって読谷の城や海軍の地下壕などにも行きました。母は戦前台湾に10年ほどいて、同級生で沖縄に引き揚げた人もいます。ひめゆり部隊と同じ世代ですので、沖縄では特に心が痛むと言ってました。父は学徒出陣で実戦にはいかずに済んだのですが、沖縄に行っても戦争の跡を感じるところはつらくて行けなかったと言ってました。私は両親から戦争体験を直接聞いている世代なのですが、今の若い方は直接聞くこともないですね。
監督:本当にもう、生の体験者の話を聞けない時代になりましたが、絵は永遠に残る生き証言のようなものですね。
― 丸木夫妻が生き証人がいるうちに沖縄で直接話を聞かれて描かれたことは大きいと思いました。
丸木夫妻にはお会いになったことはあるのでしょうか?
監督:お二人にはお目にかかっていないのです。私がNHKで仕事をしていた時代に沖縄にも行っていて、その時期にお二人は絵を描かれていたのですが・・・
― 生前のお二人に会った方たちにお話を聞くことで、間接的にお二人のことを感じられたのですね。
監督:あと、お二人の写真ですごくいいものが残っていました。本橋成一さんが読谷で二人が描かれていたときに通って撮られた写真と、石川文洋さんが丸木夫妻が首里のアトリエで描かれているときに俯瞰で撮られた大きな写真があったでしょう。あの写真があったから、もう存命されていないけれど、二人の姿を描くことができました。
― 丸木夫妻の動画や声はどのように発掘したのでしょうか。
監督:NHKの番組はアーカイブにありますが、もう一つ、シグロの読谷の記録を残した映像がとてもいい作品です。
― 丸木夫妻と読谷の人たちとの交流がとても素敵でした。
監督:丸木俊先生が「記念写真撮ってよ」と本橋さんに言っていましたが、珍しいでしょう。丸木さんたちは、想像で描いたりしないで、現場に足を運んで沖縄の人たちにちゃんと話を聞いて、モデルになってもらって描かれていました。本や文献もたくさん読まれていたようです。普通の画家がアトリエで自分のイマジネーションで描くのと違って、一種のルポルタージュ。起きたことを生かしながら描いています。描き方には二人の美意識も反映されていますが、ちゃんと事実そのものが描かれています。
◆日本兵は住民を盾にして犠牲にした
― 集団自決の跡が生々しく残る「チビチリガマ」と、「一億玉砕」の教育から離れて「民主主義」を生活の中で知っていたハワイ移民の方のお陰で全員が助かった「シムクガマ」の対比が強烈でした。ほかの映画でも、日本兵のいたガマと、いなかったガマで生死を分けたことを知りました。そういう事例はたくさんあるのでしょうか?
監督:そうですね。沖縄のあちこちで日本兵は住民を盾にしたようなところがありました。赤ん坊が泣くと黙らせるために殺させています。兵隊は自分たちが助かるために行動しています。それが戦争の真実です。最初の久米島の虐殺の絵も、村人たちが米軍のスパイではないかと疑って、日本兵が村人を虐殺したことを描いています。自分たちの保身ですよね。しかもあれは終戦後まで続いていますからね。どうしてああいうことをやるのかと思います。
― 地上戦になってしまった悲しさ、さらに戦争が終わっているはずの時ですよね。
監督:玉音放送のあとに日本兵がこういうことをするとは驚きますね。我々が聞いてきた軍の規律や、日本兵が勇敢だとかいったことは全部嘘じゃないかと感じますよね。
― 本来は国民を守るべき立場だと思うのに悲しいですね。そういうことを若い人が絵から学んで、よりよき未来を作ってくれればと思います。
監督:真実をみることが必要ですよね。一方的に与えられた知識には疑いを持って、自分で判断できるようにすることが大事ですね。
◆戦後40年経って、ようやく体験を語り始めた
― 知花昌一さんという方が丸木ご夫妻を読谷のガマに案内されていますが・・・
監督:知花さんは読谷の方で、米軍が上陸したときに住民が逃げ込んだチビチリガマとシムクガマに丸木夫妻を案内されたのですが、戦後の1948年生まれの知花さんにとって、チビチリガマが生き方の柱になったとおっしゃっています。
― 知花さんはご自身の両親などから体験をしっかり聞いておられたのでしょうか?
監督:沖縄の人は実はあまり語らなかったんですよ。知花さんも丸木さんたちを案内している段階になって、沖縄の人たちが体験したことをようやく口を開いてくれ、初めて聞いたということもあります。
★チビチリガマの惨劇は、1983年頃から下嶋哲朗さんというドキュメンタリー作家の方が読谷村で調査を行ったことを機に、約40年間、村の人びとの心のなかで深く悲しい沈黙に覆われていた出来事がようやく明るみになりました。知花さんはその頃から下嶋さんに大変協力しています。丸木夫妻が読谷村に滞在されたのは1986年末からです。
(佐喜眞美術館)
― 身内同士では話題にしたくないですよね。
監督:話したくないですよね。つらい話ですから。丸木さんたちが沖縄に行った1986年は、終戦から40年過ぎているのに基地はなくならない、ベトナム戦争は終わっているかもしれないけれど、世界には平和がやってこない。このままだとまた戦争が始まるかもしれないと沖縄の人たちが危機感を持ち始めて、過去のことを黙っていては未来のためにならない、平和を作る為、つらいけれど見たこと起きたことをちゃんと語っておきたい。そんな時期だったんですね。
― 日本に返還されたけれど基地はなくならない、ますます状況はひどくなるという中で、歳も取ってきたので、今言っておかなければという気持ちになったのでしょうね。
監督:体験した人たちはそのことをすごく考えて、子供たちにも語り継いでおきたいし、原爆の絵以来戦争のことを絵画で描かれてきた丸木さん夫妻に協力したいという思いで丸木さんたちに口を開き、一緒になって絵を作ったのだと思います。
◆平和学習として「沖縄戦の図」を観てほしい
― 先ほども触れましたが、修学旅行で沖縄を訪れることが多いのでしょうか。
監督:平和学習として沖縄は修学旅行の対象になることが多いですね。摩文仁の丘や、ひめゆりの塔には必ず行きますが、佐喜眞美術館を訪れるケースが少ないので、これからは行ってほしいですね。
― 慰霊の碑よりも、もっと戦争の現実が見られますよね。映画を通じて佐喜眞美術館に行く人が増えてくれるといいですね。
監督:日本人としては、あのような絵が14枚残されていることをぜひ知って、一度は観てほしいですね。大事なことだと思います。
― 一枚一枚が直視できないくらい凄い絵ですが、直視して考えないといけないなと思いました。
6月17日から沖縄の桜坂劇場で先行上映が始まっていますが、反応はいかがですか?
監督:沖縄の人も映画を観て、佐喜眞美術館にそういう絵があることを初めて知った人もいましたし、あの絵にはそういう意味があったのかと発見して、新たな気持ちで絵を観にいきたいという人もいました。
佐喜眞美術館に行って、一度は観てもらいたいですね。画家たちの力量がすごいので、むごたらしく描いてないですよね。一人一人の顔もきれいに描いていますしね。
― 私もぜひ佐喜眞美術館に行って、実物の沖縄戦の図を観たいと思います。
本日はありがとうございました。
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◆助監督の佐喜眞淳さんについて
(後日、文書でお伺いしました)
― 佐喜眞道夫さんのご子息である佐喜眞淳さんを助監督に起用された経緯をお聞かせください。
監督;まず佐喜眞美術館での撮影全般の協力と助手をお願いしたこと。もともと音楽関係が専門で民謡収録のミキサーを頼んだこと。それと沖縄戦の図を次世代に守り継承するために。映画の現場で様々な体験をしたので未来へのバトンタッチが出来るようにという思いでした。
― 淳さんから丸木夫妻と会った時の思い出をお聞きになっていますか?
監督:淳さんは1985年生れで二歳の時に丸木位里の膝に抱かれた写真がありますが、それ以降の接点はないので直接の記憶はないようです。
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*取材を終えて*
42年前に初めて沖縄を訪れたときに、城(グスク)を巡るツアーだったのですが、真っ先に連れていかれたのが、大きな大きな亀甲墓でした。3日間の滞在中、亀甲墓や家型のお墓をいくつも見かけて、独特の文化に興味津々でした。本作でも、佐喜眞美術館の敷地にある大きな亀甲墓が最初の方に出てきて、俄然興味を惹かれました。基地の中にも、いくつもご先祖様のお墓が残されていて、河邑監督にお伺いしたら、祖先供養のシーミー(清明祭)の時には、申請手続き後に特別許可が出て、お墓詣りができるようです。
日本で唯一、地上戦になった沖縄。地獄をみた沖縄の人たちのことを絵にして遺してくださった丸木夫妻、その絵を沖縄に展示するために奔走された佐喜眞道夫さん、そのほか様々な沖縄の方たちの思いを丁寧に紐解いてくださった河邑監督に感謝です。(咲)