本作は沖縄を拠点として活動する写真家、石川真生さんを追った自伝的なドキュメンタリー。昨年「Cinema at Sea- 沖縄環太平洋国際映画祭」のオープニング映画にもなりました。今年2月に沖縄出身の写真家として初の文部科学大臣賞を受賞、3月には土門拳賞を受賞しています。
自身の初期作品を見ながら当時の様子を語る。写真家としての石川真生のルーツを辿りながらファインダーを通して語られた「愛」、作品の背景となった歴史、政治、人種差別、それらを乗り越えるパワーが写真とともに映し出される。
映画内容
1971年11月10日、米軍基地を残したまま、日本復帰を取り決めた沖縄返還協定を巡り、沖縄の世論は過熱していた。ストライキを起こした労働者と機動隊の衝突は、警察官一人が亡くなる事件に発展。当時、10代だった真生さんは、この現場を間近で目撃。「なんで沖縄にはこんなに基地が多くて、いろいろな事件や事故が多いんだろう」。同じ沖縄の人間同士の衝突がきっかけとなり、浮かんできた疑問が写真家の道に進ませた。
1975年、米兵を撮るために、真生さんは友人を頼り、コザ・照屋の黒人向けのバーで働き始める。バーで働く女性たちや、黒人たちと共に時間を過ごしながら、日記をつけるように写真を撮り続けた。
当時の生活が収められた3冊の写真集「熱き日々 in キャンプハンセン!!」(1982)、「熱き日々 in オキナワ」(2013)、「赤花 アカバナー 沖縄の女」(2017)を手に、およそ半世紀が経った今、当時の記憶を回想する。真生さん自身が「最も大事にしてる写真」と語る作品、そこに納められた人々との物語が語られていく。写真家、石川真生による自由な生き方を肯定する「人間賛歌」。
early elephant film + 3E Ider © 2023
以下HPより
石川真生さん プロフィール、活動など
1953年、沖縄県大宜味村生まれ。1971年、11.10ゼネストを機に、写真家になることを決意する。1974年、WORKSHOP写真学校「東松照明教室」で写真を学ぶ。1975年、黒人兵向けのバーで働きながら、黒人兵とバーで働く女性たちを撮り始める。半世紀に渡り、沖縄を拠点に制作活動を続け、沖縄に関係する人物を中心に、人々と時間を共にしながら写真を撮り続けている。2011年、『FENCES, OKINAWA』で、さがみはら写真賞を受賞。2014年から沖縄の歴史を再現した創作写真シリーズ「大琉球写真絵巻」を開催。2019年に日本写真協会賞作家賞、2024年には土門拳賞、文科大臣賞を受賞。東川賞、沖縄タイムス賞を受賞。
early elephant film + 3E Ider © 2023
写真集 (全ての写真は石川真生が撮影したものです)
「熱き日々 in キャンプハンセン」石川真生・比嘉豊光 (あ〜まん出版 1982)
「熱き日々 in オキナワ」石川真生 (FOIL 2013)
「赤花 アカバナー 沖縄の女」石川真生 (Session Press 2017)
© MaoIshikawa
砂入博史監督プロフィール
1972年広島で生まれ、ニューヨークを拠点に活動する。1990年に渡米し、ニューヨーク州立大学現代美術科卒業。欧米、日本の美術館、ギャラリーにてパフォーマンス、写真、彫刻、インスタレーションなど様々なジャンルの創作を手掛けている。近年は、チベットや福島、広島の原爆等をテーマにした実験ドキュメンタリーを制作。2018年、袴田巌をインタビューした『48 years – 沈黙の独裁者』で同年熱海国際映画祭長編コンペで特別賞受賞。2001年からニューヨーク大学芸術学科で教鞭も執る。現在は広島在住。
監督のコメント
オキナワの写真家石川真生は、体当たりで写真を撮る、作品にオキナワの複雑な歴史、政治、アイデンティティを反映させ、進化させ、体現する。石川の実証的でありながら詩的な言葉は、写真と同じくらい印象的だ。写真と言葉は影響し合い、互いをより力強いものにする。私が気をつけたかったことは、被写体を植民地化しないこと、日本人としてオキナワを語らないこと、女性をオブジェクティファイしないこと、石川真生を説明しないこと。彼女の言葉を、映像やリサーチでイシュー順に構成し、オキナワ人であり、女性であり、写真家である石川真生が、可能な限り透明で複雑なオーガニズム、スーパー真生として生成する。
作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/504504591.html
公式ホームページ:https://okinawayoriaiwokomete.com/
予告編: https://youtu.be/cu_ot-S-GiE
砂入博史監督インタビュー
取材 宮崎 暁美
●ニューヨークでの出会い
宮崎 私は石川真生さんよりひとつ年上です。彼女と同じ時代に生きているから、時代の影響というのは似ているところがあると思います。私は高校3年の1969年にベトナム戦争反対のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加したのがきっかけで、報道写真に興味を持ち、真生さんと同じ1970年ころから写真を始めました。でも、報道写真の分野には進めなかったけど、写真関係の仕事をしてきました。
そんな中で写真展には数多く行きました。1977年の石川真生さんの写真展、「金武(きん)の女たち」も行きました。その後、真生さんの写真展には1,2回は行ったと思います。でも、だんだんに写真展に行かなくなり、彼女のその後の活動については知りませんでした。
今回、監督にインタビューするにあたり、石川真生さんの活動を調べてみましたが、その後も沖縄を撮り続け、昨年は東京初台の東京オペラシティ アートギャラリーで「石川真生 私に何ができるか」という写真展をやっていたことを知りました。それに行けなかったのは残念でした。
同時代を生きてきた石川真生さんのことを知りたいと思い、砂入博史監督にインタビューをお願いしました。
監督 1977年の写真展に行ったのですか。それは貴重ですね。去年の写真展は彼女の回顧展です。その図版はありますよ。
宮崎 そうですか。後で見てみたいと思います。
石川真生さんは1974年に東松照明さんのワークショップに入り写真をやり始めました。監督は1972年生まれで石川さんが写真を始めた頃生まれたわけですから、20年近く若いですよね。石川真生さんを知ったきっかけとか、彼女を撮ろうと思ったわけなどを教えてください。
監督 まず最初に彼女に会ったのは2004年。ニューヨーク(クイーンズにあるPS1)で写真展があり、それに出品するためニューヨークに来られた。米軍を扱った写真展で、韓国や沖縄での米軍を扱ったグループ展でした。その時に学芸員をやっている友人が「面白い人が沖縄から来ているよ」と言って紹介されました。それまではまるっきり知らなくて、その時、初めて石川真生さんのことを知りました。
その頃、ニューヨーク大学で教えていたんですが、学生ギャラリーの運営をしていて、「じゃあ見にいく」と真生さんが来て、少し話をする機会がありました。その時は初めてだったので、まったく真生さんのことを知らなくて、米軍の基地を撮っている人かなぐらいに思っていました。
その後、2017年の「赤花 アカバナー 沖縄の女」という写真集がニューヨークで出版された時(「熱き日々 in キャンプハンセン」1982年写真集が再構成され、このタイトルで出版された)、出版記念のイベントみたいのがあって、真生さんが「ニューヨークに行くよ」とFacebookで言っていたので、「じゃあ、行きます」と、行きました。それで初めて、この「アカバナー~」というか、「熱き日々 in キャンプハンセン」のことを知ったんです。それで、こんな写真を撮っていた人なんだとびっくりしました。
宮崎 そうなんですよ。彼女の写真が初めて出て来た頃は1977年頃で、衝撃的でした。その頃、女性の写真家が少しづつ出てきましたが、当時、米兵の写真を撮っていた女性は、真生さん以外には石内都さんがいました。彼女は横須賀で米兵を撮っていました。
監督 石内都さんも米兵の写真を撮っていたのですか。
宮崎 石内さんは「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年個展)の中で米兵も撮っていました。偶然、二人とも1977年に写真展をやっていますね。私の中では、その二人の写真に強烈な印象が残っています。
米兵ではないけど、70年代~90年代にベトナムやカンボジア、中東など戦場や紛争地を撮っている女性もいました(大石芳野さん、南條直子さん、古居みずえさんなど)。もちろん男性はたくさんいましたが、女性は少なかった。その方たちも含めて、アート系や商業写真系ではなく、報道、ドキュメンタリー系写真分野で活躍し始めた女性が出てきた時期だったと思います。
監督 そうだったんですね。
宮崎 真生さんが昔の自分の写真集を見ながら、その時の気持ちや状況を語っていますが、彼女はかなり怒りながらこの女性たちを侮辱するのは許さないと言っていました。当時、彼女の写真を見て「売春婦が売春婦を撮った」とか、そんなひどいことをいうような人たちがいたとはびっくりしました。激しく憤っていましたが、私は、彼女の写真に対してそういう言い方をしたメディアがあったということを当時は知らず、この映画で知りました。たぶん、週刊誌や男性誌、スポーツ紙などがそういう風に書いたのだと思いますが、それで真生さんはきっと本土のメディアや男性に対して不信感や嫌悪感を持ったのじゃないかと思います。「本土のメディアは信用していない」なんて言ってますしね。
監督 彼女はすごく傷ついて、トラウマになっていたみたいです。アラーキーや東松照明さんに推薦されて華々しくデビューしたから、その上でのメディアの扱い方というのがあったと思います。
宮崎 そんなふうに言っている真生さんが、本土の男性である砂入監督の映画製作にスムーズにOKが出たのはどうしてかと思ったのですが、ニューヨークでこのような出会いがあって、このドキュメンタリーを撮ることになったのですね。
監督 2017年に彼女の写真集が出版された時にニューヨーク大学で、彼女の作品と沖縄についてのシンポジウムが開かれ、彼女はそれに呼ばれたんですね。その時に、沖縄の米軍を撮ろうと思ったきっかけの話をされました。子供の頃に、米軍(米兵)によるレイプとか人殺しとかの犯罪とかがあっても、琉球警察は何もすることができなかったという状況を話したのですが、それが当たり前のようにあった少女時代の話をしました。その話が生々しくて、かなり怒りを露わにして話されたんです。そこから米軍ってなんなんだという感じで、写真を撮ろうと思った話をしたんです。あとは映画の内容と同じですが、黒人専用のバーで働き始め、付き合っているうちにいい人、悪い人がわかるようになって、米軍ではなく一人の人間として見えてきて理解したという話になったんです。ちょうど2017年頃、ニューヨークではブラック・ライブズ・マター(黒人の命、人生も大切)の運動が盛んだった時だったんです。
宮崎 私、中学校の頃(1960年代)、人種差別、黒人差別の問題を知り、アメリカの人種差別反対運動関係や、ジェームス・ボールドウィンなどの本を読んでいました。なので、私が社会の問題に興味を持ったきっかけは黒人への人種差別問題でした。
監督 そういう運動が60年代から行われていたのですが、やはりまだまだ改善されていなくて、現代も差別はあるわけです。その頃、黒人が警察官に殺されたりした問題もあり、運動が起こりました。
黒人だけではなく、ラテン系の人たちも加わって、アメリカ各地でプロテストの運動が起こっていたんです。ニューヨークではすごく大きな運動が起こっていて、ブルックリンからマンハッタンに来る橋がブラック・ライブズ・マターの人たちが通行止めにして大きなプロテストをしたりとか、そういうことが起こっている時期でした。
そんな中で、メディアも白人の人たちも黒人問題に言及することに、かなりの緊張感をもたないといけないような状態だったのです。
そういう時に、彼女の偏見ばりばりのしゃべり方、黒人はみんな同じに見えたとか、でも最後は人間として彼らを理解していったという言説に感動して、久々にこんなに率直な黒人やレイシズムに対する意見を聞いたなとフレッシュに感じたんです。なぜかというと、白人が黒人はみんな同じように見えるとか言ってはいけないんです。大きな問題になります。でも沖縄の女性からの発言だったのでびっくりしました。こんな素晴らしい言葉、今のアメリカ人は聞くべきだなと思って、彼女のドキュメンタリーを作ろうと思いました。写真も素晴らしかったし。
宮崎 そうだったんですね。
監督 それと、2017年に新たな癌がみつかって、ニューヨークに来ているときは手術前だったんです。シンポジウムの時、苦しそうにしていたので、その危機感もありました。こんな素晴らしい言葉を今残しておかないとと思ったので、今、作り始めるしかないなと思いました。
宮崎 本土のマスコミや男の人に対して、かなり反発があるようだったので、ドキュメンタリーを撮るときに、最初は断られたのかなと思っていたのですが、こういう形で知り合った上でのことだったのでスムーズだったんですね。
監督 レクチャーが終わったあとに、真生さんのところに行って「あなたのドキュメンタリーを作ります」って言ったら、真生さんは「はい、わかりました」って(笑)。知り合ってからではなく、日本からいきなり「砂入と言いますがドキュメンタリーを撮らせてください」という形だったら断られたでしょうね。
宮崎 そういう意味ではいい出会いでしたね。TBSのドキュメンタリーでも真生さんを3年位追っているようですね。
監督 金平茂紀さんの番組ですね。NHKでも撮っています。
宮崎 TBSのは見たことないけど、NHKのほうは見たことがあります。
車いすに乗っている姿をみましたが、手術の後だったんですね。
監督それもありますが、この2,3年で足腰が弱くなってしまったので、最近は車いすでイベントとかに出ていますね。
●真生さんが使っていたカメラ
early elephant film + 3E Ider © 2023
宮崎 撮影は3年くらいとありましたが、何年頃ですか。
監督 2017年から2019年頃です。
宮崎 辺野古で、舟に乗って写真を撮っているシーンがありましたね。あれは何年頃ですか?
監督 2019年です。牧志治さんという辺野古の海の写真を撮っている方が、抗議行動と写真を撮るために舟を出しているんです。その舟を出す時に乗せていただきました。彼自身も大琉球絵巻に出演しているんです。
宮崎 あの時、ペンタックス6×7(フィルムの中型機)で撮っていたのでびっくりしました。彼女は今もフィルムカメラで撮っているのですか?
監督 そうだと思います。彼女はフィルム派の人みたいで、フィルムで撮ってスキャンしているみたいです。
宮崎 実は、私もペンタックス6×7を使っていたのでわかりますが、かなり重いです。舟のように揺れるものの上で写真を撮るのはかなり大変なのに、重いカメラで撮影しているってすごいですね。私はもう使っていないので、彼女がペンタックス6×7必要ならあげたい(笑)。
監督 海だししぶきがかかるだろうし、普通ならスナップショットを持っていったりするんですけどね。
宮崎 車いすに乗っているのに、ペンタックス6×7を使っているという彼女の心意気、すごいと思いました。
監督 そうですよね。しびれますよね。
*と、しばしペンタックス6×7の話で盛り上がりましたが、さすがに今は、デジタルカメラを使っているようです。そしてペンタックス6×7は砂入監督が引き取ってくれました。
●撮影場所について
宮崎 石川真生さんの写真はなぜ黒人兵ばかりなんだろうと思っていたけど、この作品を観て、コザの黒人兵が集まる店に勤めながらの撮影だったということを知りました。コザの街で、黒人街と白人街が分かれていたというのは全然知らなかったので、それもびっくりしました。
監督 たぶん外からだったらわからないでしょうね。
宮崎 今年(2024)、47年ぶりに沖縄に行ったのですが、コザには行けませんでした。この作品を観て、行っておけばよかったとちょっと後悔しています。真生さんは、かつて自分が働いたところを何か所か歩いたりしていますが、最後に訪ね歩いていたのはコザですか?
監督 いえ、あれは金武(キン)です。彼女は最初、コザで働いていましたが、そのあとは金武に行ったのです。でも、かつての街は変わってしまっていて、勤めていたところとか探し出せないくらいでした。
宮崎 そういえば、最初の写真展のタイトルは「金武の女たち」でしたね。彼女は米兵たちが訪れるバーで働きましたが、最初から取材ということではなく、働いて仲良くなってから写真を撮っていたのですね?
監督 思うに、彼女はそこまで前提を考えずに、撮影スタイルも確立されていないまま飛び込んでいったのではないかな。それで、状況に慣れながら写真を撮れる機会をみつけて撮っていき、そのスタイルが定着して行ったんじゃないかと思います。最初から取材をしに行こうというコンセプトで撮っていたんじゃないと思います。
宮崎 そういうスタイルだったからこそ、自然な写真が撮れたということしょうね。
監督 写真家としてそこにいるのではなく、いる人たちの中の一人として、自分も当事者としていたのでしょう、
宮崎 彼女がコザや金武にいた数年というのは、写真のためにというよりは、自分が体当たりで入っていって、体験していったのでしょうね。
監督 そうでしょうね。1日にいっぱい撮るのではなく、ゆっくりと撮っていたって言っていました。ちょこちょこと日記のように撮ったと言っていました。
宮崎 その頃、私も毎日カメラを持って通勤していましたけど、そういう人はけっこういました。彼女も働いている人や米兵とも仲良くなって写真を撮り、その撮りため写真で写真展をしたんですね。写真を発表するにあたって、肖像権などのトラブルはなかったのでしょうか。
監督 その中で、何人かは問題視して、文句言ってきた人もいたようです。女性の側からだけでした。米兵の人たちは見る機会もなかったですからね。
宮崎 40数年くらい前から肖像権について厳しくなりました。私もメーデーの写真や、女子マラソンの写真、登山の写真などを撮っていたんですが、雑誌などに載せる時は、肖像権について載せてOKという許可を取ってないとダメになってきましたね。肖像権が厳しくなってきてからは、知らない人を正面から撮ったり、アップの写真は撮りにくくなりました。顔がわからないように撮るとか、後から撮るとかそういう写真の撮り方しかできなくなり、表情豊かな写真が撮りにくくなりました。
監督 つまらない時代になっちゃいましたね。
●写真家のドキュメンタリー
宮崎 去年は、アフガニスタンなどを撮ってきた長倉洋海さんを撮った『鉛筆と銃 長倉洋海の眸(め)』(河邑厚徳監督)が公開されましたが、ここ数年、毎年のように写真家のドキュメンタリー映画が公開されています。『ひろしま 石内都・遺されたものたち』という石内さんのドキュメンタリーも公開されました。リンダ・ホーグランド監督の作品ですが、砂入監督もご存じではないですか。
監督 リンダさん知っています。ジャパンソサエティ(ニューヨーク)などでの上映の時に翻訳や通訳をしていました。
宮崎 石川文洋さんのドキュメンタリー『石川文洋を旅する』の時には、石川文洋さん本人にもインタビューしました。
監督 ベトナム戦争を撮っていた方ですね。米軍に従軍して撮っていたんですよね。僕も何冊か写真集を持っています。
宮崎 ベトナム戦争の時は、写真は自由に撮れたんです。その時は沖縄の基地からもベトナムに飛び立っていっていたわけですが、ベトナム戦争が終わった後も、基地は残り、アメリカ軍の日本基地の70%くらいが沖縄にあるという状態ですよね。
監督 でも基地はグァムに移るということになっているんですけどね。
宮崎 エ~! そうなんですか。それなら、なぜ辺野古に基地を作ろうとしているのでしょう。
監督 そこがよくわからないところですが、60%移るということが決まっているようです。それだけ減るのなら、もう作らなくていいということになるじゃないですか。でも、工事を続けている。皆憶測で言っているのですが、もしかしたら自衛隊用に使うために作っているんじゃないかという人もいます。
宮崎 わざわざ埋め立てて造っているのに、基地は減る予定って、どうなっているのですかね。でも、そういうことは報道されていないような気がします。それでいいのかしら。八重山の自衛隊基地がどんどんできていることも、メディアではほとんど報道されてないですよね。
監督 真生さんは、そのことも大琉球写真絵巻で描いていますね。
去年の写真展は天野太郎というオペラシティの学芸員の方がプロデュースしています。
宮崎 70年代から80年代は、まめに写真を撮り、写真展も行ってたのですが、その後、写真展なども行かなくなってしまったし、カメラ雑誌なども見なくなってしまったので、何十年もの間、彼女の活動を知りませんでしたが、この映画がきっかけで、去年東京で写真展があったりとか、今年(2024)文部科学大臣賞や土門拳賞を受賞したことを知りました。しかし、写真やアートなどに興味ある人以外にはなかなか知られていないので、この映画を観ていただき、たくさんの人に石川真生さんのことを知っていただきたいですね。