『世界一と言われた映画館』佐藤広一監督インタビュー

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1月5日(土)からの公開を前に、佐藤広一監督にお時間をいただきました。2019年12月19日 アルゴピクチャーズにて

=佐藤広一監督プロフィール=
1977年山形県天童市で生まれ育つ。にいがた映画塾第3期生。高校生のころからホームビデオで自主制作を開始。東京ビデオフェスティバル、山形国際ムービーフェスティバルで受賞。スカラシップを得て製作した『隠し砦の鉄平君』(2006年)は劇場公開された。その後DVDドラマ「まちのひかり」(特定非営利活動法人 エール・フォーユー)を監督。
『無音の叫び声』(2015/原村政樹監督)、『おだやかな革命』(2017/渡辺智史監督)『YUKIGUNI』(2018/渡辺智史監督)などのドキュメンタリー作品の撮影を担当。本作は山形国際ドキュメンタリー映画祭2017で上映後、2018年4月から山形各地で公開された。

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『世界一と言われた映画館』
監督・構成・撮影:佐藤広一

「西の堺、東の酒田」と称された商人の町・山形県酒田市に、かつて映画評論家・淀川長治氏が「世界一の映画館」と評した“グリーン・ハウス”があった。1950年、老舗の酒蔵の一人息子佐藤久一(1930~1997)が、父久吉の経営していた映画館を弱冠20歳で引き継ぎ、映画愛と資金を注いで作り上げた夢の映画館。回転扉から入るとホテルのような豪華なロビーで支配人が迎え、喫茶室からは極上のコーヒーの香りがする。ベルの代わりに「ムーンライト・セレナーデ」のメロディが開幕を告げる。上映される作品も設備も雰囲気も東京にひけをとらない酒田っ子の自慢の映画館だった。
1976年10月29日、酒田大火の火元となってしまったグリーン・ハウス。おりからの強風に煽られ、火は瞬く間に風下へと拡がり街は焼け野原となった。それから40年余りが経ち、グリーン・ハウスで青春のひとときを過ごした人々がそれぞれの思いを語った。

©認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
http://sekaiichi-eigakan.com/
2019年1月5日(土)より有楽町スバル座ほかにて全国順次公開


-佐藤監督が撮影を担当された原村政樹監督の『無音の叫び声』(2015)をスタッフが取材したことがあります。佐藤監督自身の監督作を観るのはこの作品が初めてです。はじめましてということで、映画に関わるまでの経緯をお聞かせください。

映画学校ではなくて「にいがた映画塾」(1998年発足の市民団体)というところに週末だけ通っていました。このときは手塚治虫さんの息子の手塚眞監督が新潟で『白痴』(1999年公開)という映画を撮るというので、ボランティアスタッフとして照明部にもぐりこんだんです。その二つがあったので、3~4ヶ月くらい新潟に住みました。

-映画の勉強をしながら、すぐプロの現場に入られたんですね。最初の印象はいかがでした?

新潟県庁横の空き地に、昭和の建物と空襲に遭った焼け野原の二つのセットを組んでいたんです。それが相当すさまじくて、初めて見たときは衝撃でした。ほとんどそこでの撮影でしたが、プロの現場ってこんなにすごいんだと思いました。
そのときの照明のチーフが安河内央之(やすこうち ひろゆき)さんという方でした。竹中直人監督の作品に関わっていたりする有名なベテランの方です。私たちはボランティアということで、いろいろ優しく教えてもらえました。現場は、大人の人たちがぼそぼそっと話している静かな印象でしたね。
セットのスケールがべらぼうに大きかったので照明器具がたくさんありました。街の一角に照明をあてているような感じなんです。相当すごい機材をいきなり見せてもらいました。この天井くらいのフィルターが上にばーんとかかってて、ほとんど工事現場みたいでした。

-そこの撮影にはどれくらいいらしたんですか?ボランティアでも住むのと食べるのにかかりますよね。

5月から3ヶ月以上いた記憶があります。ボランティアはまったく無給なので、映画塾の人に相談したら、古い一軒家を紹介してくれて、2人・月1万円で貸してもらえました。そこは『阿賀に生きる』(1992)の佐藤真監督のスタッフたちが待機所としていた家で、暗室があったり、押入れにフィルムがたくさん入っていたりしました。
小林茂さんというカメラマン、今は監督もしていますが、その方もよく出入りしていたようです。

-いい環境ですね。映画塾に行き、ロケ現場に行き、帰宅したら映画の空気いっぱいの家!

そうですねえ(笑)。映画漬けの夏を過ごしました。

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-照明から撮影に移ってきたのは?

元々撮影がしたかったんですけど、入れるのが人手の要る照明だったんです。高校生のころからビデオカメラでの自主制作をやっていました。新潟に行く前に日本ビクターが主催した東京ビデオフェスティバルに応募して、第3位にあたるゴールド賞をもらったことがあります。それでちょっと調子に乗ってました(笑)。

-それはもちろん調子に乗っちゃいますよ(笑)。モチベーションが上がったでしょう。

認められたってことで、上がりましたね(笑)。その後も自主制作を続けて、2件くらい就職して。24~28歳の4年間は山形県映画センターというところに勤めて映写技師として回っていました。でもやっぱり自分で撮るほうが面白い。そのころ山形国際ムービーフェスティバルというのができまして、たぶん山形の作品が1つくらい入選するだろうと思って応募しました。

-読んだわけですね(笑)。

はい、読んで(笑)。まんまと4本のうちの1本に入選しました。それでスカラシップの200万円をいただいて、作った映画が『隠し砦の鉄平君』。体育館の用具室に住んでボクシングに打ち込んでいる少年と秀才がたまたま出会う青春物です。「体育館に幽霊がいる」という噂が流れて、最終的にばれて追い出されるんですけど(笑)。

-『おれは鉄兵』と『あしたのジョー』(笑)? 200万でできたんですか?『カメ止め』の300万より少ないですね(笑)。

ええ、ムリヤリ(笑)。77分の作品になりました。
今でもどこかのレンタルであるかもしれません。

-探してみます。あ、先に進まないと時間がなくなってしまいますね。ではその後はずっと山形で?

はい、先ほどの原村監督の映画に声かけていただいたりとか、山形で撮影したいという映画のカメラマンをやったりしました。

-酒田大火は1976年だから、監督が生まれる前ですよね。グリーン・ハウスのことを耳にしたのはいつ頃でしたか?

生まれたのが大火の翌年です。山形の映画関係者はよくグリーン・ハウスの話をしていたので、知らないまでも聞いてはいたんです。すごい映画館があって、しかも火事の火元になってしまったと。みんな昨日のことのように話すので、最近のことかとずっと思ってたくらいです。

-昨日のことみたいに話すということは、どの人にも印象がとても深かったんですね。
監督がこの映画に関わることになったのは?


昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭での「やまがたと映画」という企画で声をかけられたんです。普通は募集をかけるんですけど、山形美術館で上映する証言映像を20分くらいで作ってみないかということでした。いよいよグリーン・ハウスの映画を撮れるんだ!と喜んだんですが、時間がなくてちょっと慌てました。

-白羽の矢が立ったんですね!

いやぁ、こいつならなんとか間に合わせて撮れると思われたんだと(笑)、わりと早撮りなので。声かけられたのが、6月末だったんですよ。それで、7、8、9月、10月頭には上映ですから3ヶ月です。自分でも「よくやれたな」と思います。撮影している段階で、もうこれは20分で収まらないと気づいたんです。しっかり取材して「長くしますよ」とプロデューサーに言って、最終的に67分になりました。

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若き日の佐藤久一氏

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文庫本:映画公開中に劇場で販売予定。
公式オンラインショップでも発売中。
-グリーン・ハウスの支配人の佐藤久一(さとうきゅういち)さんを詳しく紹介した本「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(岡田芳郎著/講談社文庫)を読みました。この佐藤久一さんがとても面白い、魅力的な人でした。
 
そうなんですよ。すごく魅力的な人です。この映画は一応映画館をテーマにしたんですが、映画館の話を聞いているとみんな途中からだんだん佐藤久一さんの物語になっちゃうんです(笑)。そうすると、フランス料理のほうにも行ってしまうので、そこはほどほどにして、あくまでグリーン・ハウスという映画館にスポットを当てました。著者の岡田芳郎先生には製作中からずっと全面的に協力していただきました。作品中の古い写真もお借りしたものです。

-佐藤さんのお話もまとめるのが難しそうと思ったんですが、グリーン・ハウスが無くなってしまっているので、どうしても思い出話ばかりになりますよね。映画としてメリハリをつけるのに、ご苦労はなかったですか?

酒田大火の部分から始めているんですが、映画館のいいところだけじゃなくて複雑な事情のある建物だったという、そのへんのことも知ってもらってからという構成にはしています。

-運悪く強風下で燃え拡がって、沢山の被災者が出てしまったので、大火のことに触れたくない方もいらっしゃるでしょうね。

ええ、最初の段階で断られた方もいます。ただ、取材を始めるときはもっと湿っぽい話になるかな、恨みつらみも出るのかなと思っていたんですが、全然そんなことはなくて。みなさん当時の思い出を楽しげに語ってくださいました。基本的に映画が好きなんですよね。

-それだけあのグリーン・ハウスが愛されたんでしょうね。東京に負けていない、自慢の映画館ですし。

やっぱり当時の誇りだったと思うんです。それが大火で街が一夜にして焼け野原というとんでもないことになってしまって。聞くと「その日はおかしな気候だった。異常に風が強くて何か起こりそうだった」と。後でいろんなことが出てくるんですけど、都市伝説的な話とかね(笑)。
グリーン・ハウスが発行していた「グリーンイヤーズ」っていう冊子の最終号(火事が起こる前の号)が1029号で、10月29日火事が起こった日と数字が同じ。妙な符合もありました(笑)。

-うわー!(笑) 「そういえば・・・」という後付けかもしれないですけど、数字の合致は驚きますね。67分と長くなったとはいえ、たくさん撮られた中で、どうしても切らなくてはいけないところが出てくると思いますが。

長くすればいくらでも長くできるんですが、それをやっちゃうと観客が疲れてしまうので編集しました。どうしても話が重複してしまいますから、流れの中で少しずつ明かしていくようにしたり。

-私たちが原稿を編集するのと同じですね。入れたかったんだけど切って惜しかった、というシーンはありますか?

あります。グリーン・ハウスの跡地のところで、仲川先生のインタビューを撮っているところに、井山さん(久一さんの旧友。「ケルン」の現役バーテンダー、井山計一さん92歳)が自転車で近づいてきていきなりキーッと止まって「この辺はあれなんだよねぇ、火事になったんだけどさぁ、別に久(きゅう)ちゃん悪くないんだよねぇ」と言ったところですね。使いたいなと迷ったんですが、入れませんでした。

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一晩でかけ換えられたという看板。いい職人さんがいたそうです。

-2月に急逝なさった大杉漣さんがこのナレーションをなさっているのも特筆したいです。よく大杉さんを入れてくださいました。

ほんとにタイミングが凄すぎたというか。失われた映画館と亡くなられた大杉さんがダブって見えてしまいます。荒井幸博さんという東北で活動しているシネマ・パーソナリティがいらっしゃるんですが、荒井さんが昔からの知り合いでお願いしてくださったんです。山形放送の酒田大火のラジオ番組に大杉さんが出演されたり(ラジオドラマでナレーターと佐藤久一さん役)、私も映画塾の後に大杉さんとは現場で面識があったりでお願いしやすかったのもありました。

-大杉漣さんは映画好きな感じでお願いしたらやってくれそうです。

確信がありました(笑)。すぐ引き受けてくださいました。グリーンイヤーズの300回記念の特別号に佐藤久一さんが寄せてくれた文章があるんです。これは大杉さんに読んでもらうしかないと思って、お願いしました。「この映画には 生きた言葉が ありました!!」と色紙も書いてもらって。「何か一言書いてください」と渡したら「え、今?」と言いながら書いてくださった。
(宣伝さんが復刻版のグリーンイヤーズを取り出す)

-この会報いいですね。みなさん大事に残していてくれたからこそ、昔のことがわかるんですよね。映画と一緒に思い出もつまっているという感じがしました。懐かしい映画ばかりです。

私もこの映画を作ってから、古い作品を遡って観ています。

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復刻した会報「グリーンイヤーズ」を上映館で展示の予定です。

-監督が思うグリーン・ハウスの良さはどこでしょう?

まずゴージャスさと同時に、人をもてなす精神が凄まじいところですね。かゆいところに手が届くようなサービスを心がけていたんだろうなと。それって今の経済原理に照らし合わせると相反するところです。昔はそれができた時代だったのかもしれないです。
今は映画館も合理化で、スタッフも少なくなって最小の人数で運営していくようになっています。今はいろんな事情があって難しいのかもしれないですけど。当時できたんですね。その時代と佐藤久一さんという人物がうまく組み合わさった、その結晶がグリーン・ハウスだと思いますね。

-みなさんの話を聞いていると、当時グリーン・ハウスに行けた人はラッキーだったと羨ましいです。

いやー、ラッキーです。これはラッキーですよ。ほんとに行ってみたいですよ~。

-これから映画をご覧になるみなさんへひとことどうぞ。

グリーン・ハウスをご存じない方々が多いと思いますし、タイトルに「世界一」とはついていますが、自分が昔行ったそれぞれの世界一の映画館に思いを馳せながら、「ぜひ劇場で」観ていただけると嬉しいです。

-ありがとうございました。

=インタビューを終えて=
酒田大火は、その焼失面積の大きかったこと、多くの被災者が出たことから記憶に残っています。火元のグリーン・ハウスは再建されることはなく、話題にすることもためらわれる時代もあったようです。しかし、映画ファン憧れの映画館であったことは、登場する方々の懐かしそうな表情や、会報を大切に保存されているようすからわかります。
グリーン・ハウスの詳細を知るにつけ、若き支配人の久一さんはなんと先見の明があったことかと驚きます。今のシネコンにあるドリンク、グッズ販売、プレミアム席や個室などを昭和30年代に実現させています。
地方都市のため、固定客をつかみ再訪する魅力を備えた劇場にすること、特に女性客を増やすための工夫。常にお客が何を欲しているかに心を砕き、どこよりも先取りしていました。上映作品へのこだわり、東京と同時のロードショーなど枚挙に暇がありません。のちに映画館を離れてフランス料理のほうへ行かれますが、そのあたりは佐藤監督に続編を期待します。お待ちしていますよー。
高校生のころから自主映画を作ってこられた佐藤監督、子どものころの思い出の映画は天童劇場で観た『孔雀王』(1988年/日本・香港合作/三上博史、ユン・ピョウ主演)だそうです。うわ、懐かしい!
今年のベスト5、ベスト10映画を伺いたかったのですが、時間切れとなりました。またの機会に。
(取材・監督写真 白石映子)


*「世界一の映画館」大募集キャンペーン
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*作品に登場する佐藤久一さんの旧友、井山計一さんはカクテル「雪国」を創作したバーテンダーで、別作品のドキュメンタリー『YUKIGUNI』(渡辺智史監督)では主人公です。撮影を担当した佐藤監督、同じ時期に撮られたそうで、「あちらは2年半かけて、こちらはほぼ2ヵ月半(笑)」。数日早く1月2日からポレポレ東中野で公開です。

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