*石橋夕帆監督プロフィール*
1990年11月11日生まれ。神奈川県出身。さそり座。AB型
2012年から短編作品を制作、2015年監督作品『ぼくらのさいご』が田辺・弁慶映画祭コンペティション部門に選出され、映画.com賞を受賞、横濱HAPPY MUS!C 映画祭で音楽映像部門最優秀賞を受賞。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭、福岡インディペンデント映画祭、小田原映画祭、新人監督映画祭等の映画祭に入選。 2016年『それからのこと、これからのこと』を監督。同年6月にテアトル新宿、シネリーブル梅田で開催された田辺・弁慶映画祭セレクション2016で監督作品の特集上映を行う。 2017年、『atmosphere』『水面は遥か遠く』『いずれは消えてしまうすべてのものたちへ』『閃光』を監督。『水面は遥か遠く』がショートショートフィルムフェスティバル&アジア2017ミュージックショート部門奨励賞を受賞。
Twitter:@chan_pon11/instagram:@yuhoishibashi
Web:https://www.yuhoishibashi.com
『左様なら』
監督・脚本 石橋夕帆
原作:ごめん
出演:芋生悠、祷キララ、平井亜門、日高七海、白戸達也、大原海輝、こだまたいち
『左様なら』作品紹介はこちら
(c)2018映画「左様なら」製作委員会
★2019年9月6日(金)UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開
◎映画『左様なら』公式ファンブックを上映館で販売します。
出演者スチルをたっぷり掲載。コメントや対談、インタビュー、設定資料のほか原作者・ごめんによる書き下ろし漫画も掲載。作品の世界観を楽しめる豪華112ページ!
―初の長編ですね。
そうですね。これまでは年に1~3本のペースで作ってきていて、既存の短編作品が10本弱あります。
―思春期の男の子女の子のお話が多いようですが、それはどうしてでしょう?何か置き忘れたものがありましたか?
その思いもありますし、昔から少女漫画が好きで、そこでは学園ものが多かったんです。その影響は受けています(笑)。
―今回の原作は“ごめん”さんの漫画でしたね。出版されたものでなくネット掲載ですか?
今もネットに掲載されています。「左様なら 漫画」で検索すれば見つかると思います。ファンブックにも掲載させて頂いてるんですけど(と自主製作の公式ファンブック(*)を広げてくださる)。枠線も手描きの初期のものです。(ごめんさん初の単行本「たとえばいつかそれが愛じゃなくなったとして」KADOKAWAより8月30日発売 ブログはこちら)
最初は映画の企画と関係なく、主演の芋生悠さんがごめんさんを紹介して下さったんです。ごめんさんと「何か一緒にしたいですね」ということになって「ごめんさんの漫画を私が映画に、私の映画をごめんさんが漫画にしよう」という話になりました。
―これ(18pの漫画)が長編映画になったんですね!
ごめんさんに「(原作を)自由に解釈して大丈夫です」と仰って頂き、本当に自由に脚本を書いてしまいました(笑)。漫画ではメインの登場人物は由紀(芋生悠)・綾(祷キララ)・慶太(平井亜門)くらいのものなので人物を大幅に増やしてますし、原作では描かれていない部分も多く存在します。なので原作がありながらも、かなりオリジナル色もある作品になっています。この本の中にはそういった映画版の設定を元にごめんさんが描いてくださった漫画も入っていて、人物設定やスタッフ対談など、読み物も多めです。凝った内容にできたかな〜と思っています。ファンブック、劇場でお求めいただけますので是非(笑)。
―あ、相関図と座席表がある!生徒がたくさんいるので、自分で書こうと思ったくらいです(笑)。何人いましたか?
役名のある生徒は男子10人、女子12人、それにエキストラ的要員の子が男女2人ずつの26人です。私が学生の時は30名弱くらいでしたが、今子どもが減っているので、きっとこのくらいかなと(笑)。
―受験の話が少しだけ出てきたので、あの子たちは高校2年生かしらと思っていました。
1年生なんです。原作は中学3年生でしたが、ちょっと繰り上げました。1年でも2年でも成立する話です。芋生悠さん、祷キララさんとやりたいという思いがあったので、高校生の設定にしました。そして芋生さん・祷さん以外でいってもこの世代の役者さんとご一緒したいと思っていたので。撮影したときは下が17、8歳から上は25〜6歳くらいまでと幅がありました。
―制服を着ると多少の年の差は消えてしまいますね。生徒たちがみんな個性的で、一人一人のキャラがたっていました。あの子たち全部必要なんですよね。あんなにたくさんの俳優さんが出演するのは初めてかと思います。大変でしたでしょう?
初めてですね。でもキャスティングはあんまり迷わなかったです。メイン2人とほか数人は先にオファーして決めていて、それ以外の生徒役はみんなオーディションでした。この人数ですので、現場に入る前にそれぞれとちゃんと話す時間を設けたいなと思っていて。一人一人の設定を細かく書いた資料をキャスト全員に渡して共有していました。
これもファンブックに載ってるんですけど(笑)キャスティングが固まってから当て書きした人物設定表で、バックグラウンドとして落とし込んでいる内容は役と本人の半々なんです。ただ綾の部分だけは、綾を演じる祷さんと芋生さん、スタッフが知っているだけでほかのクラスメートには伏せていました。
―(設定を読んで)わ、ものすごく詳しい!猫の名前まで(笑)!
気持ち悪いですよね猫の名前まで書いている監督って(笑)。映画には出てこない猫です。ほかにも家が中華料理店とか、細かい設定があるけれど劇中では全然出てこないんです。
これまでの作品でも毎回ではないですけれど、こういったものを作る事が多くて。特に『左様なら』では、各々が自分のバックグラウンドを持って現場にいてくれたらな、という願いもこめて設定を作りました。これをもとに個々とか、グループごととか全体で話をしました。
―教室の座席も大事ですよね。
教室の席順はリハーサルでみんなで決めました。「この役とこの役の教室での距離感どう思う?」とか「この距離だと悪口(の台詞)言ってるの聞こえちゃうかな?」とか話しながら(笑)。
台詞も演者さんに聞きながら直しましたね。私の書いた言い回しが時代錯誤してないかどうかとか(笑)リハーサルでエチュード(即興演技)をしてもらいつつ、それを台本に反映したり。台詞を一言一句正しく読む必要はなく、現場で変わってもいいという自由度はありました。
―海あり山ありの外景はどこでしたか。
舞台は神奈川か静岡あたりであろうという、海辺の学校の雰囲気を出しているんです。沼津ロケでは漁港のすぐそばの民宿に泊まりました。男子寮、女子寮みたいにして4日間合宿です。過酷でみんな遊んでいる暇もなく、寝につくみたいな。
―過酷な修学旅行(笑)。だからあのチームワークができたんでしょうか?リアル同窓会と別に映画の中の1年D組の同窓会ができそう。
その空気をだれ一人として壊さなかったのが大きいですね。この作品をこの時期に、このタイミングでこのメンバーでできたというのは、みんなの中に残るだろうと思います。
学校ロケは沼津の廃校だったので、図書室だけ私の出身校を使っています。人気(ひとけ)のない海は小田原。ほかの屋外は通いでちょこちょこ撮影しました。自宅も使っていますし、ライブハウスは大岡山です。
撮影は7月でしたが、途中から秋にして制服を替えたかったんです。服が替わったほうが綾が死んでからの時間経過が分かりやすいかなぁと。
―私も高2のとき級友が病死しました。今までいた人がいなくなってしまうのは、とても大きな事件でした。この映画では綾の死や、由紀がハブられることが淡々と描かれています。
そうですね。かなりフラットに描いています。
―綾の死後もまるでイベントが過ぎたみたいで。
綾の死もイベントなんです。この作品の中では。
私個人で込めた思いとしては「芸能人の誰それが亡くなりました」というときに、今すごくみなさん大騒ぎするなと思って。たとえば、俳優さんとか声優さんとか、誰かしら著名な方が亡くなったとき。日頃からその人の大ファンというわけでもないけど、心底悲しんでいる様子でツイートして。その3分後には全然別のことをつぶやいていたり・・・。
そういう悲しいこととか、人が死ぬこととか、本来ならけっこう大きなトピックスのはずのものが、なんか一過性の話題だけになって流れて、どんどんいろんな話題に移り変わっていきます。ニュースやツイッターは特にそうかもしれません。それって今の時代の空気なのかなと思っていて。若い子こそ、そういうSNSが生活を大きく占めているし、たぶん生きている感覚自体もそれに近くなっている部分はあるのかなと思って。
―かけがえのない毎日なのに、消費されていく感じがします。スマホ時代になって、なかったときと全く生活が違ってしまいました。
そうですねぇ。スマホとかSNSありきの世界ですね、今。
ツイッターとか匿名だと顔の見えない相手に対してものすごくきつい。それがすごく苦手なんです。「それ、本人の目の前で言えますか?」という。生の人付き合いもその感覚に近づいちゃっているのかな、という恐怖感があります。
―教室で読まれる「左様なら」の詩がすごく印象的です。
ごめんさんがこの映画のために書き下ろして下さったんです。ごめんさん、お若いのにとんでもなく語彙力があって…落語や古典、日本の美しいことばが好きな方なんです。「さようなら」の語源が「左様なら」からだというのも本作の題名を通して初めて知りました。
―逆光の映像がきれいでした。人物の描写のあと、よく山や海のシーンが数秒間入りますね?上手だなぁと思って。
ありがとうございます。撮影監督さんと編集さんの力です(笑)。編集は週一回くらいのペースで編集さんのおうちに通いました。
どの作品でも、わりとよく景色のインサートをはさみます。室内だけで展開しているときに「こういう地域のこういう場所でこの物語が起きている」と世界観を伝える意味もありますが、あとはテンポ感も重視して、間を作りたいときに意図的にはさんでいます。
―どんなきっかけとモチベーションでここまで来られたのでしょう?
映画始めるまでそんなに映画も好きじゃなかったし見てもいなかったんです(笑)。それが大学2年くらいまで。しかも今も映画人のみなさんに追いついてないと思うんですけど・・・。
―何があったんでしょ?
いや、それが(笑)。なるべくコンパクトに話すようにします。
それまでずっと女4人でバンドをやっていたんです。私はボーカルで、ギターも一応弾いてましたがぶら下げている程度(笑)。中1から始めて、大学2年の途中くらいでバンドを解散することになったんですが、ライブが一個残っていまして。もうみんなでライブする空気でもなかったので、「一人でなんとかするね」ってその場で言って。知り合いをゲストに呼びつつ、4〜5曲を作りライブをしました。その時作った曲のイメージから物語を思いついたんです。
バンドを辞めて突然やることがなくなってしまったし、この衝動に乗っかってとりあえず映画を撮ってみよう、と思って。ど素人なので「撮りたい」って言ったら周りは「嘘でしょ、撮るわけないじゃん」って感じだったんですけど、いざ撮ると断言したら友達がみんな協力してくれて。すごく恵まれていました。その当時は大学3年で、もう完全に自己流ですね。
―バンドの映画を作ったんですか?
いえ、中味としては岩井俊二監督の『PiCNiC(ピクニック)』に影響された感じのちょっとファンタジーな映画なんです(笑)。テレビで一瞬流れた『PiCNiC(ピクニック)』の映像を観て、「映画ってこんなに自由なことができるんだ」と思いました。
映画監督になりたいのかも、この先も映画を作りたいのかもわからなかったんですけど、とりあえず1本やろうと。どうしたいのかを自分の中で整理したいと思って、翌年2013年に映画の学校、ニューシネマワークショップに半年通いました。まだ学生だったからいろんな衝動で動けたのが大きかったかも。今の10倍くらいフットワーク軽かったですね(笑)。
そのころから「年に1本は必ず撮ろう!」という自分ルールを決めて…そうしないとなあなあになって続かない気がしたんです。…って言いつつちょっと甘いところもあるんです。「撮影はこの年にしたからギリOK」とか(笑)。多い時は年に3本撮った年もあったので周りから「多作」とか言われます。
―これまでずっとぶれずにやってきたことはなんですか?
基本的に同じことを映像で表現してきたと自分では思っています。ずっと大事にしてきたのは「言葉にできない感情」や「生きている上でとるに足らないこと」なんだけれど、その尊さを描きたいという。これだけは一貫してこれたかなぁ、と。それは別に道徳的なメッセージでもなんでもなく、ただ自分にとってはそういったものが大事だっただけで。
―そういうのってあんまり大人になっちゃったら撮れない気がします。
私、心はたぶん小中学生のままかもしれないです(笑)。これ年齢重ねるごとにギャップが辛くなってくるんですけど、妙にピュアなところがありますね(笑)。
―ぜひそのまま大切になさってください。監督は今映画1本ですか? ほかのお仕事もされているんでしょうか?
映画だけでは食べていけてません。でも今年に入ってから映像の案件で監督させて頂く機会が増えました。ウェブ系のコンテンツではインディーズの俳優さんとのお仕事が多いです。そういった機会をいただけるのは大きいです。今のうちにいろいろな方と会って、先々映画でご一緒したいです。
―ご縁はどこでつながっていくかわからないですものね。スタッフや俳優さんとのご縁を大事に、たくさんの繋がりを作ってください。これからどんな映画を作っていきたいですか?
今あるものは自分の持ち味として残しつつ、ほんとはもっと違う作風も目指したい部分もあります。どういうジャンルの作品というのではなく、到達したいのは手塚治虫さんたち昔の漫画が持っているような凄みや怖さ。あの時代の漫画家さんは戦後いろんなものがない中の想像力で作られた。今のクリエイターにはあの怖さはなかなか作れないのも。でもそれはしかたのないことではあります。生きてきた背景が違うから。そういうことを私がそのまま再現できるとは思っていないけれど、今の時代を生きていく中で、別の形でそういうことができないかなぁと思っています。
―食べていけても、生きづらいのは今も変わっていませんね。ひょっとしたら昔より生きづらいかもしれません。
今また違った生きづらさがあるのかもしれませんね。『左様なら』では学校やクラスと場所で起きていることとして描きましたが、生きている上で感じる違和感やもどかしさみたいなものはいくらでもあって。それに対する100%の答えなんてきっとないんですけど、それでも考える。自分なりに腑に落ちる部分を探してみる。そういう事の繰り返しできてるよなぁと思います。
―撮影を始めるときと終わるときの掛け声はなんでしょう? 大きな声で言えるようになりましたか?
「用意、はい!」と「カット!」です。声出るようになりましたが、貫禄不足です(笑)。でも今どの部署の人ともフラットに話せるという意味では、「これはこれで良し」と思いながら(笑)。まだまだ若輩者なので、現場では技術部さんなど、経験豊富な先輩方から学ばせて頂くスタンスでいます。
―とにかく「決断して責任を取るのが監督の仕事」と伺っています。
迷っていないフリだけはしています(笑)。自信ありげに。
―それは必須ですね(笑)。
今日はありがとうございました。
=取材を終えて=
またしても最初の予定をオーバーした取材になりました。クラスメートが亡くなってしまうエピソードやいろいろな悩みに、自分の学生時代を思い出しました。柔らかい傷つきやすい年代の子たち。ひとりだけでなく、ほんのちょっとずつでいいからみんなが、人の痛みをあと少しの想像力で思いやってと、願っています。「それはオトナになったから言えること」って突っ込まれそうだけど。
ごめんさんの繊細な原作を、想像力+創造力そして妄想力で、みんなに届く長編に育てた石橋夕帆監督はとてもパワフルな方でした。石橋組の思い出は俳優さんたちの中にいつまでも残ることでしょう。
話していくうちにわかったのが、石橋監督実は小さいころから漫画家になりたかったということ。ノートにずっと漫画を描いていたのだそうです。ずっと年上の私も、手塚治虫漫画を見て育ち、漫画家に憧れた時があり、漫画話で盛り上がってしまいました。昔の漫画には今の漫画にない凄みや怖さがあった、という話になりました。この先、石橋監督がそんな作品を送り出してくださるのを楽しみにお待ちします。
(取材・写真 白石映子)
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