*竹内洋介監督プロフィール*
1978年埼玉県生まれ。芝浦工業大学卒。一般企業に就職後2001年に退職してアメリカで航空機免許を取得、さらにハワイで滑空機の免許を取得。2002年パリに渡り、油絵を学ぶ。その後半年間アフリカを旅し、2004年に帰国。
2006年初短編『せぐつ』を発表。2016年初長編『種をまく人』を自主製作。世界各地の映画祭にノミネートされ、第57回テッサロニキ国際映画祭では最優秀監督賞、最優秀主演女優賞(竹中涼乃)を受賞。第33回LAアジア太平洋映画祭では最優秀作品賞、最優秀脚本賞、最優秀主演男優賞(岸建太朗)、ベストヤングタレント賞(竹中涼乃)の4冠に輝いた。
『種をまく人』ストーリー
高梨光雄(岸建太朗)は3年ぶりに病院から戻り、弟・裕太(足立智充)の家を訪れた。姪の知恵(竹中涼乃)やその妹でダウン症の一希(竹内一花)に迎えられ、久しぶりに団らんの温かさにひたる。知恵は光雄が聞かせてくれた被災地のひまわりの花と幼い一希の姿が重なる。知恵は一希を愛する心の優しい姉だった。翌日、光雄は知恵と一希を遊園地に連れていくことになった。ひとしきり遊んで、光雄がちょっと目を離したとき悲劇が起こってしまう。
監督・脚本:竹内 洋介
撮影監督:岸 建太朗
助監督・制作:島田 雄史
撮影・照明 : 末松 祐紀
録音・サウンドデザイン 落合 諌磨
カラリスト:星子 駿光
出演:岸建太朗(光雄)、足立智充(裕太)、中島亜梨沙(葉子)、知恵(竹中涼乃)、杉浦千鶴子、岸カヲル、鈴木宏侑、竹内一花(一希)、原扶貴子、植吉、ささき三枝、カウン・ミャッ・トゥ、高谷基史
2017/日本/カラー/ビスタ・DCP/117分
配給:ヴィンセントフィルム
©YosukeTakeuchi
http://www.sowermovie.com/
★ 2019年11月30日(土)より池袋シネマ・ロサにてロードショー
毎週水曜日・日曜日はバリアフリー用日本語字幕付き上映
―着想のきっかけは東日本大震災の被災地に咲いていたひまわりと、姪ごさんの誕生だと資料で読みました。姪ごさんはこの映画に出ていた妹の一希ちゃん役で当時3才。お姉ちゃん知恵役の竹中涼乃ちゃんが当時10才。もうずいぶん大きくなられたでしょう。
2011年の大震災の半年後に、岸さん(撮影監督兼主演)と一緒に被災地に赴いたのですが、荒れ果てた砂地に咲くひまわりを見ました。その時脳裏に走ったイメージは鮮烈でした。それから翌年の2012年に姪っ子の一花(いちか)が生まれます。撮影から4年経過したので一花はいま7才、小学2年生になりました。言葉もまだたどたどしいですが彼女なりのスピードでゆっくり成長してます。とても可愛いですね。涼乃ちゃんはもう中学3年生になっています。
―2016年に完成、海外を中心にいくつもの映画祭にノミネートされて、受賞もされました。その後生活は変わりましたか?
生活が変わった実感はまるでないです。聞くところによると、テッサロニキ国際映画祭で受賞したあとは日本では少し話題になっていたようですが。ただそのときスウェーデン(ストックホルム国際映画祭映画祭)にいたので、あんまり日本の状況がよくわかりませんでした。
―テッサロニキ国際映画祭ではコンペティション部門で最優秀監督賞と最優秀主演女優賞を受賞されましたね。テッサロニキってどこ?と調べましたら、ギリシャなんですね。
テッサロニキはギリシャ第2の都市で、テオ・アンゲロプロス監督作の撮影場所としても使われていた港町です。僕も撮影監督の岸さんもテオ・アンゲロプロスの監督作品が大好きなので、「あ、これは(永遠の一日)のラストシーンの撮影場所だ!」などと毎日興奮しながら港を歩きました。そして幸運なことに、テオ・アンゲロプロス作品のほぼ全ての撮影監督を務めたヨルゴス・アルヴァニティスさんに出会いまして、実際の撮影場所でお話しを聞かせていただくことができたんです。それは一生の宝になりました。
―映画監督になる前にも世界のあちこちに行かれていますね。放浪癖がありますか?
それはあるかもしれませんね。学生時代にサン・テグジュペリの「人間の土地」や「夜間飛行」などを読んで、その世界にのめりこむうち、彼の作品の根幹を理解するには、実際に飛行機を操縦してみないとわからないと考えて、それでアメリカへ飛行機の免許を取りに行ったんです。
―そこで飛行機に繋がるんですか。謎がとけました。ハワイにも行かれていますね。
当時、日本で自家用飛行機を飛ばすのにはかなりのコストがかかったんです。でも飛行機とグライダーが合体したモーターグライダーという航空機があって、それならば日本で比較的安く空を飛べるということを教えて頂き、ハワイでグライダーの免許も取得したんです。アメリカで取得した免許は日本で書き換えることができるので、帰国後に日本で自家用飛行機とグライダーの他に、モーターグライダーの免許も取得しました。アメリカは土地も広く、飛行機での移動も比較的一般的なのですが、日本で自家用飛行機を持っていても飛べる場所が制限されてしまいますし、飛行機の文化が日本で根付くことはないでしょうね。最近は空撮もドローンが主流ですが、でもいつか自分が乗る飛行機で空撮をして見たいと言う夢はあります。
―次は絵のためにフランスに留学されて。
幼いころからいつかフランスで絵を描きたいという漠然とした夢があって、アメリカから戻った後は、アルバイトをしてお金を貯めてフランスに行ったんです。1年半くらいパリでひたすら油絵を描いていたのですが、その過程でゴッホの絵に出会ったんです。その時の衝撃は言葉で言い表せませんが……その長年の思いが本作で結実したと言えるかも知れません。
―『種をまく人』にも繋がっているんですね。その後アフリカにも行かれました。
それもサン・テグジュペリの影響とナショナルジオグラフィックという雑誌の影響なんですが……。サン・テグジュペリの本の中に砂漠に不時着する話があって、学生時代からその世界観に惹かれていたのですが、とにかくサハラ砂漠に行きたいという思いがあって、サハラ砂漠を横断しようと思っていたんです。フランスからまず飛行機でエジプトに入って、その後スーダンから横断を予定していました。ただ当時スーダンと隣国のチャドという国が内戦状態だったのでビザが取れなかったんです。そこで方向をエチオピアに変え、エチオピアからケニアに行きました。その後、セネガルに飛び、モーリタニア、モロッコと陸路で北上して行きました。ただモロッコは交通機関が発達しすぎてつまらなかったので、現地で自転車を購入して、野宿しながら1000キロくらいひたすら自転車で旅を続けました。
―自転車で1000キロ!
本当は自転車でパリまで行く予定だったんです(笑)。でもヨーロッパの人混みの中を野宿する勇気がなくて断念しました。野宿で一番怖いのは人なんです。だからモロッコの時はなるべく町から離れた場所で野宿していました。でも自転車を盗まれる夢を毎日見るんです。それでぱっと目が覚めたら、自転車を抱いて寝ていたりしました。今思えば当時は無茶苦茶なことばかりしていましたね。常識のかけらもありませんでした。
―まあ、病気もせずに無事で何よりでした。丈夫なんですねぇ。
アフリカでは「ナイル川の水を飲んだ人は病気にならない」という逸話があって、ナイルの上流の水を飲んだ後は、本当に身体が強くなってアフリカでは一度も病気にかかりませんでしたね。日本に戻ってからは、絵を描く仕事がしたくて一度アニメーションの会社に入ったのですが、そこはすぐ辞めてしまいました。その後、当時京橋にあった映画美学校に入ったんです。当時はドキュメンタリー科とフィクション科があって、僕はフィクション科のほうへ入りました。初等科と高等科とあって最長2年受講できるのですが、初等科の1年目に16㎜のフィルムで15分の作品が、ショートショートフィルムフェスティバル(SSFF)にノミネートされました。それが初の短編映画監督作品です。
―今回の作品が初長編ですね。絵を学んだ後、映画の道に来られたのは何かきっかけになる作品があったのでしょうか?
当時はこういう映画を撮りたいというより、自分の表現を映画という形式でやってみたいと考えていたんです。学校に入ってみて思ったのは、究極的にはカメラと被写体があればとりあえず映画は撮れると言うことです。本当はそんなに簡単ではないのですが。でもそれが始まりですね。
―監督と脚本の両方をなさっていますが、監督は絵を描かれるので、脚本を書きながら絵がぱーっと浮かぶんでしょうか?たとえばこのラストシーンのひまわりみたいに。
だいたい同時ですね。シナリオを書きながら絵が浮かびます。
映画『種をまく人』の全体のストーリーができたのは2013年くらいだったと思います。フィンセント・ファン・ゴッホという画家の絵にフランスで出会い、徐々にゴッホの人生の苦悩や思想に引き込まれていき、初の長編映画を撮る時は必ずゴッホをモチーフにした作品にしようと思っていました。「ゴッホの人生を現代日本に置き換えて、もし彼が絵画という表現を持ち合わせていなかったらどう生きたか」ということを思いついて、そのイメージをもとにシナリオを執筆して行きましいた。
―ゴッホに関する実話などは盛り込まれているのですか?
いくつもありますが、その一つに、「ある町で少女のデッサンをしていたら、その子が妊娠してゴッホが疑われた」という話があったんです。結局犯人はどこかの牧師だったらしいんですが、ゴッホは風貌からも真っ先に疑われて、それでもそのことを否定せず罪を受け入れたんです。というか抵抗しようがなかったのかもしれませんが。ただ、この物語の一つのモチーフに、その逸話が大きく影響しています。
―そうでしたか。ホームページには聖書の言葉も引用されていますね。
ゴッホはプロテスタントのカルヴァン派の厳しい牧師の親の元で育って、彼自身聖職者を目指していた時期がありました。ゴッホは牧師見習い時代、ボリナージュという炭鉱の町で伝道活動をしていたんです。聖書に書いてあることを忠実に実行するために、自分の衣服やお金を貧しい人たちにすべて分け与えたそうです。自分は身なりも気にせず、納屋などで暮らしながらも愚直なまでに伝道活動に力を入れていたんです。ただその極端な行動が教会から批難されて、結局排斥されてしまいました。結局そのことで聖職者を諦めて画家を目指すんですが、絵を描き始めてからもゴッホの根底には聖書の言葉やキリストへの憧れがずっと残っていくことになります。主人公の光雄という人物は、まさにゴッホのそういう部分を受け継いでいるので、聖書と光雄は切っても切り離せないですね。それでタイトルも「種をまく人」という聖書にも書いてある一説から拝借しました。
―ひまわりとゴッホと好きなものがつながっているんですね。長い間あきらめずに大切にしてきたもの。
初長編なのでやはり色んなものが詰め込まれてますね。ゴッホはもちろん、被災地で見たひまわり、震災の翌年に生まれた姪っ子の存在。こういったものが融合して出来上がっていると思います。特に、当時3才だった姪の姿をどうしても映像として残しておきたいという気持ちがありました。
―夫婦の会話のエピソードにはモデルがいましたか?
モデルは特にいません。兄夫婦は全然逆の性格です。とても仲睦まじい夫婦なので、劇中の夫婦は僕の完全な想像です。
ただ脚本を自分で書いているので、登場人物一人一人に少しずつ自分が投影されるのは当然で、それぞれのキャラクターに少なからず何かしらの自分の性格の部分は入っていると思います。特に主人公の光雄はゴッホがモデルなので、ゴッホについてずっと考え続けてきた自分にとっては一番近い所に光雄はいますね。
―イランのアミール・ナデリ監督がこの作品を褒めていらっしゃいますね。
ナデリ監督はテッサロニキ国際映画祭の審査委員長で初日に観にきてくださったんです。審査委員長ですから、審査が終わるまでは直接話すことはできないんですけど、受賞した後はいろいろとお話する機会を頂きました。特に役者の演技について評価してくださって「自分に全ての権限があったら、役者全員に賞をあげたい」と絶賛してくださいました。
―その絶賛された役者さんのキャスティングは?
岸さんの知り合いも含まれていますが。ほぼオーディションで決めました。森さん(キャスティングディレクター)が厳選して集めてきてくれた資料から選考し、その後オーディションを数日かけて行い、演技は当然ですが、役者同士のバランスなどを見ながら時間をかけて決めていきました。森さんの言葉には随分助けられましたね。迷ったときに、いつも冷静で的確な意見を言ってくださるので。
―岸さんは俳優と撮影を兼任されています。もうおひとりカメラマンがいらしたんですね。
岸さんが登場する場面は、岸さんが撮影監督をした映画でフォーカスマンや撮影をしていた末松くんという優秀なカメラマンが撮っています。二人は、そもそも普通の俳優とカメラマンという関係じゃないんです。お二人には、撮影監督とその女房というくらいの強い信頼関係があるので、そのことが画面ににじみ出ているのかも知れません。
それで言うと、岸さんと僕にも同じことが言えますね。僕らが出会ったのは9年ほど前で、彼の監督作『未来の記録』(2011)を見たのが縁でした。映画を見たとき、あるシーンを境になぜか涙が止まらなくて、その映画に強い衝撃を受けたんです。それで岸さんに長い感想のメールを送って。それから意気投合して、シナリオを一緒に書いたり、彼の作品にもスタッフで関わったりしました。なので僕らは、この映画の作り始める段階でとても強い関係が築けていたんです。一人のスタッフや俳優と言うよりも「同志」という感じです。
ちなみに、順番で言うと撮影をお願いしたのが先です。「未来の記録」では岸さん自身が撮影もしてて、初長編映画を撮る時は、必ず岸さんにカメラをお願いしたいと決めていました。
僕らはいつの間にか映画の準備を始めていたので、いつだったかは忘れましたが、光雄役をお願いしてからは、この作品におけるカメラの意味性についていろいろ話しました。撮影監督と主演を同時にやるということについて。分かりやすく言うと、岸さんは光雄として撮影していたんです。光雄の目線で知恵を撮るということの重要性を深く考えて行きました。
―岸さんはゴッホの風貌に近づけるために一年を費やしたそうですが。
随分前から修行僧のような生活をしてましたね。三食、同じ時間に同じ量だけ食べて、1日1ページずつゴッホの書簡集を読み、それに応答する手紙を毎日書き続けたそうです。実はこの映画のラストに、光雄から弟の裕太に当てた手紙を出す予定だったのですが、どうせなら岸さん本人に書いてもらおうと思って。役作りにもなりますしね。その準備だけで半年以上かけたと思います。撮影の一週間前に手紙は出来上がって、実際撮影もしたのですが、結局、シーンとしてはカットしてしまいました。
ちなみに僕は岸さんに30キロ痩せて欲しいとお願いしいて、実際は22キロくらい減量してくれました。ある日、ほぼ骨と皮になった岸さんに「もうちょっといけますね」と言ったら、「きみは俺を殺す気か」と(笑)。この映画は40キロくらいのカメラを一日中担いでもらったりしていたので……。思えば、岸さんにはかなりの無茶を強いましたが、それが出来たのも信頼関係の強さではないかと思います。
―竹中涼乃ちゃんはどこが決め手でしたか?
オーディションに来た子はみんな事務所に所属している子たちだったんですが、子役の子達というのは入ってきた瞬間にそれぞれの性格が分かってしまうんですね。無理に明るく振る舞う子や、異常に媚びを売って来る子、事務所の教育だとは思いつつ、僕はあまりそういうのが好きになれなくて。その中で数人、自然な顔を見せるおとなしい子たちが数人いたんです。その一人が涼乃ちゃんでした。最終的には3人まで候補を絞り込んだのですが、スタッフや、すでに決まっていた大人の役者たち全員一致で涼乃ちゃんに決まりました。でも正直、彼女を最初に見た時の直感ですでに決まっていた感はありましたね。
―泣くシーンの演出はどんなふうになさったんでしょう?
ここで泣いてほしいとかは一切言いませんでした。泣きたくなければ泣かなくて良いし、言いたくない言葉があれば言わなくても良い。といった感じで、嘘はつく必要は一切ないと思ったんです。ただ彼女は本気で泣くのが特技なようで、そのようにお母さんはおっしゃってました。きっと入り込んでしまうのが持ち味なのだと思います。びっくりしたのは、かなり感情的なシーンで、何度か撮り直せざるを得ない時もあったのですが、それでも彼女は同じように本気で泣けるんです。すごい才能だと思いました。
涼乃ちゃんには前半の事故前までの台本しか渡さず、その後はその場その場で状況を説明していきました。簡単に言うと、昨日はこういうことがあったから、これからこうなるんだよ。という風に説明するのですが、シナリオ上で嘘をつくような場面でも、どうするかは涼乃ちゃんの気持ちにまかせて、嫌だったら言わなくてもいいと伝えるんです。そこで周りの大人の役者たちが協力して彼女を追い詰めて行くわけですが、だから、彼女の演技をどう引き出すか、それについて俳優たちと随分話し合いました。彼女から、最もピュアで嘘のないありのままの感情をどう引き出すのかという。感情を一番大切にしたかったので、彼女を中心にスケジュールを立ててほぼ順撮りで撮りました。ですので、涼乃ちゃんはまさに映画の中で知恵の人生をそのまま生きていたのだと思います。撮影の後半で一度すこし体調を崩したりしてしまいましたが、それでも最後まで頑張ってくれましたね。彼女を発見できたことは、本当に大きなことでした。
―子どもながらさすがにプロの役者さんなんですね。本当のことを打ち明けた娘に対するお母さんが怖かったですが、こういう台詞は言えませんとか役者さんからはないんですか?
そういったことはまったくなかったです。疑問に思ったことはちゃんと話し合って決めていきました。結果的にほぼシナリオ通りに演じています。あと全員の役者さん同士が事前に関係性を深く築く作業をしていて、撮影の合間には、家族として一花と接したりして、常に疑似家族というか、親密さを失わずに取り組めたことは、全員の演技に生かされていると思います。
―子どもがいると特に空気って大事ですね。
涼乃ちゃんも前半の段階では、すごく一花との時間を楽しく過ごして仲良くなっていたので、実際の妹のように思っていたんじゃないですかね。だから事故のシーンの後は、築き上げたその感情を抑えることが出来なかったんだと思います。
―お父さん(裕太)はお母さん(葉子)に比べると静かな役ですが、間に挟まっている立場ですね。兄のことも娘のことも信じたい。
足立智充さんの役はこの映画にとって最も重要な立ち位置です。ゴッホにとっては彼を支え続けた実弟のテオをモチーフにした役です。足立さんの役はいわゆる一見フラットなキャラクターなんですが、それでいて一番苦しいものを背負うことになる人物なんです。彼の立場になってこの映画を見ると、より辛いと思います。
―岸さんのお母さん役は、実のお母さんがなさっているんですね。
一応は面接し、ちゃんとセリフを読んでもらってオーディションのようなことをしてもらっています。その上でキャスティングしました。シナリオ上は彼女にまつわる話がいろいろあって、光雄一家のことも深く掘り下げているんです。そのエピソードも全て実際撮影しているんですけど、映画の構成上切らざるを得ませんでした。
―カウン君が出たのは、岸さん繋がりですね。(『僕の帰る場所』藤元明緒監督/岸さん撮影)
男の子役もオーディションはしたんです。でも良い子がいなくて。それでカウン君のことを思い出したんですね。「僕の帰る場所」の短い映像を一度岸さんから見せてもらっていて、その時の彼の演技の素晴らしさがずっと残っていました。ただ年齢が当時合わなかったので考えていなかったのですが、実際の年齢より大人びていて、違和感なく知恵の同級生を演じることができました。
―メイキングや撮影日記はありますか?
人がいなくてメイキングは作っていません。ふだんアイディアとかメモするんですけど。撮影日記ってみんな書くんですか?
―監督が書かなくても、どなたか。もし将来本など出すことになったら、記録は必要じゃないですかー。
じゃ2作目のときはぜひお願いします(笑)。
―この次の作品は?
脚本はつねに書いています。まだ撮影の予定はないんですけど、常に書き続けてはいます。
たぶん今回と同じように小さい規模の映画を同じように撮ろうと思っています。
―では、これから作品を観る方へメッセージを。
この映画はあまり説明が多くありません。あえて説明をなるべく排除しています。説明は様々なことを狭め、限定的に伝えてしまうことがあります。ちゃんとじっくりものごとを見てもらいたい。目の前にあるものが全てではない。そういったところを感じて、そして考えてもらえたら嬉しいです。
隣にいる友達、親とか子どもとか、身近にいる人への気遣いというか、自分が感じていることを一度疑うことも大切だと思うんです。今の人たちは安易に白黒つけたがります。そこを決めつけないで、いろんな視点で物事を見てもらいたいですね。正常とか異常とか、障がいがあるとかないとか、そういうところをはっきり線引きしたがる現実があります。でもそうじゃなくて、一人一人の本質の部分をちゃんと観ることが大切なんだということを、この映画を通して感じて、そして考えてもらえたら嬉しいです。
―はい。ありがとうございました。
=取材を終えて=
前振りがたいへん長くなってしまいましたが、外国でのエピソードがいろいろ出てきて面白くってつい聞き入ってしまいました。お話を伺ううちに、2001年9・11テロで、ワールドトレードセンターに激突したハイジャック犯も、竹内監督と同じようにロングビーチにいくつもある学校の一つで航空免許を取っていたのだと知りました。自家用機の免許でジェット機を操縦していたんですね。そのすぐ後に免許を取りに行った監督含め外国人は白い目で見られたそうです。そのせっかくの免許なのに、日本の空も砂漠の上も飛ぶ機会がないとは、ちょっともったいないです。サン・テグジュペリは、1944年に偵察機で出撃した後戻ることはありませんでした。長く行方不明のままでしたが、2003年に地中海から乗機の残骸が引き上げられて、彼のものと確認されたそうです。サン・テグジュペリとゴッホを愛する監督は、放浪癖(すみません)じゃなくて、冒険好きなロマンチストなのでしょう。
劇中、知恵のクラスで先生が読む「椋鳩十の詩」は病床での言葉を、夫人が書きとったものだそうです。飛行機で風と一体になって飛ぶ人、キャンバスに暮らしを描きとめる人、どちらの目にも似たような風景が映っていたのではないかと思うのです。この作品も同じように優しいまなざしが感じられます。
竹内監督は、また外国に行きたいそうです。蒔いたひまわりの種が芽吹くように、脚本のアイディアのメモが少しずつ増えて、いつか次の作品につながりますように。(取材・写真 白石映子)
松風になりたい
日本の村々に
人たちが
小さい小さい喜びを
おっかけて生きている
ああ美しい
夕方の家々の
窓のあかりのようだ
椋鳩十「松風の詩(うた)」より
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