大塚信一監督プロフィール
1980年生まれ。長崎県出身。日本大学文理学部哲学科卒。20代前半に長谷川和彦に師事。飲食店で働きながら『連合赤軍』のシナリオ作りの手伝いをする。『いつか読書する日』(05 緒方明監督)などの現場に制作として散発的に参加するが、映画の現場からは離れる。基本的にラーメン屋での勤務で生計を立てながら、自主映画を制作するが、完成まで至らず。今作『横須賀綺譚』ではじめて映画を完成させる。子供が生まれる前に最後の挑戦として、短編を一本撮ろうと準備を始めた企画だが、それがいつしか長編となり、息子も4才となった。制作期間に5年かかった企画である。(HPより)
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『横須賀綺譚』ストーリー
監督・脚本:大塚信一
撮影:飯岡聖英
出演:小林竜樹(戸田春樹)、しじみ(薮内知華子)、川瀬陽太(川島拓)、長内美那子(静)、湯舟すぴか(絵里)、長屋和彰(梅田)、烏丸せつこ(陽子)
2008年、東京で結婚目前だった春樹と知華子。知華子の父親が要介護になったため、故郷に戻ることになった。春樹は証券会社に勤めて多忙な生活を送っており、知華子との生活ではなく東京で仕事を続ける方を選んだ。婚約を解消した知華子は友人の絵里と荷物をまとめる。本当に別れるのかと聞く絵里に「いい人だけど、薄情なの」と言って、家を出ていく。
それから9年後。春樹は震災で亡くなったはずの知華子が生きているかもしれない、と絵里から知らされた。春樹は 半信半疑のまま、知華子がいるという横須賀へ向かう。
公式HP https://www.yokosukakitan.com/
(C)横須賀綺譚 shinichi Otsuka
★2020年7月11日(土)より新宿K'sシネマにて公開
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―長い間かかっての公開ですね。おめでとうございます。
今年で6年です。撮影は2年前の3月でした。2週間近くのロケで撮り終えてから、追加撮影をしようとしたらスタッフに反対されまして、それを説得するのに半年~1年かかりました。去年の3月に追加撮影して頭とラストを取り換えているんです。それから映画祭に応募して、2019年7月のカナザワ映画祭が初上映です。
―予告編に本編にはない映像や写真がありました。
監督 最初にラストシーンを撮ったときは、これがラストと思って僕もスタッフもキャストも力が入っている。絵としてどうしても、そちらを使いたくなる力があるんです。それで、チラシにも予告編にも、本編にない幻のシーンが使われています。
最初に入る写真はカメラマンの飯岡さんが撮影したものです。本編ではあえて震災の映像をオフにしました。Youtubeで検索する場面でも津波の映像は見せないようにしました。宣伝には逆に出していくのもいいかなと思って。
―ミステリーの「地図にない町」(フィリップ・K・ディック著)から福島が浮かんで、映画化を考えられたそうですが、撮り始めるまでに変わっていったんですね。
変わりました。最初は短編を撮る予定で、実際にゴーストタウンのようなところをロケハンしました。僕は長崎出身なので、「長崎で原爆なんか落ちてない」みたいな話、『ヒロシマ、モナムール』じゃないですけど、24時間の情事×地図にない町の現代版のような感じで、短編でやってみようかしらと(笑)。
でも福島のことを考えたら、真摯に本腰を入れて、長編でやらなくちゃいけないと思ったんです。福島をネタにSFで面白いのを撮りましたとはいかない。
結果、「これはSF映画?社会派映画?」と観客の視点が迷うような映画になってしまいました(笑)。
―福島の震災から始まって、話が横須賀に移ってから長いですが、横須賀に特に思い入れがあったのですか?
ゴーストタウンを横須賀線でずっと探していて、ロケーション的にいいなと思いました。もう一つは「あったことをなかったことにしている人たちの話」のホン(脚本)を作っていくときに、横須賀の戦争の話はプラスになるなと。
戦争に負けて日本は復興・繁栄しているけれどそれはアメリカの傘の下でのディズニーランドみたいなもの、とよく言われています。そういうメタレベルの視点も入れていける。ことさら台詞で入れているわけではないですが、感じていただけるのではないかと思いました。
―老人のグループホームが出てきました。
リサーチもしましたし、実際にグループホームでロケの予定でした。ぎりぎりまで交渉して準備もしたんですが、介護されている人もいる中で自主映画という不安定な撮影は難しいと判断しました。実地のリアリティとどちらがよかったかは今でもわかりませんが。入口のところは実際の施設で、中は鎌倉のカメラマンさんの実家で撮影しました。ホームの人たちは俳優です。
―施設の名前が「桃源郷」ですね。
そんなに深くは考えなかったんですけれど、さっきの日本がディズニーランド化されているというのを、わかりやすく屋号にしました。あの文字は助監督だった小関裕次郎さんが書かれたんです。「川瀬さんをイメージして書きました。どうですか?」って。タイトル文字は僕です。
僕は字が下手なんですよ。すっごい(とノートを見せる)。ただ祖母ちゃんが書道の先生でして、草書体のお手本見て書いたら崩し字の草書体だけがめっちゃ上手かった(笑)。どっちが祖母ちゃんのかわからんくらい。それでタイトルをこんな感じでと殴り書きしたら、デザインの人に「いいじゃないですか~」と言われまして。
―タイトルはいつ決められたんですか?
シナリオの段階では『すべては変わってしまった。のに、なにも変わらない』というタイトルで書いていました。これはなんか鼻につくので(笑)もっと映画っぽいタイトルにしようと思って、『震災綺譚』と言ったら上田君(監督補)が「僕はそんな(名前の)映画絶対観ません」と言って(笑)。それで『横須賀綺譚』に決まりました。若い世代の方にはすんなり受け入れていただいたんですけど、ゴジさん(長谷川和彦監督)とか足立正生監督とか、上の世代の方は「横須賀綺譚と言っといて、なんで米兵がキャラとして出てこないんだ」と言われました。
―このキャストはどんな風に決定しましたか?
オーディションはしないで、これと思う方にお願いしました。
主役は、もとは『岬の兄妹』(2018)の松浦祐也さんだったんです。川瀬さんのインスタかなんかで、川瀬さんと松浦さん、しじみさんの3ショットがあって、この3人でやりたいなと思ったのが最初です。脚本を書き始める前ですから4,5年くらい前。
撮影まで時間がかかったので、松浦さんの年齢が上がってきちゃってこの青年役は厳しいなと思ったときに、松浦さんの口から「小林竜樹はどう?」って話になりました。『こっぱみじん』(2013)に出ているのを僕も観ていました。撮影部がこの映画と同じ飯岡さんです。
松浦さんと川瀬さんは“やさぐれ&やさぐれ”だったので、全く違う竜樹くんで真逆にしたら面白いだろうなとホンも書き直しました。
この映画を完成させて、評論家の切通理作さんに見てもらったんですが、最初に言われたのが「監督と主演の小林さんはなんだか似ていますね」だったんです。それがすごく意外で、思ってもいなかったことだったんです。ただ、トリュフォー=レオーの系譜ではないですけど、今作のような小さな個人映画でそういうことが起こるということは、映画として強いって証左だよな、と思い、嬉しかったですね。
―しじみさんは?
彼女が役者として凄いな、と思ったのは、自転車を押しながら主人公の春樹とトンネルを歩くシーンの終わりに、春樹の方に振り返って「そんなの書いてたよね、私」と言うところです。脚本上は観客に「あれ?この人は記憶を失っているのか?」と思わせるミステリーのシーンだったんです。ホンも演出もカメラワークもそれを意図したものでした。それを台詞も芝居も変更せずに芝居のニュアンスだけで、主人公の春樹がヒロインにもう一度恋するシーンに変えちゃった。コレはすごいと思いましたね。脚本を思い返すと、コレはしじみさんの選択が正解だと思いました。しかし、演出もカメラワークもそうなっていない。だから、苦肉の策として、少し甘い音楽を流してみたんです。
川瀬さんは前からの知り合いです。川島というキャラクターをどうしようか悩んでいるときに『ハッスル&フロウ』(2005)というヒップホップの映画を見ていて、「ああ、こういうナイーブなワルとかいいな」とか思っていたら、だんだんテレンス・ハワードが川瀨さんに見えてきて……。似てませんか?川瀬さんしかいないなと思いました。
―ナイーブなワルさん、よく涙目になっていました。川瀬さん長い台詞がありましたね。
あれはもっと短かかったんですけど、川瀬さんから「台詞変えてもいいか?」と言われて本番で初めて聞いたんです。「すげーな、カット割れないな」と思ってそのまま使いました。
―バーの場面も面白かったですね。”映画館”という名前のバーでしたが、実在の店ですか?
鎌倉にあるんですよ。川島雄三組のスタッフの方がマスターやられているんです。あの場面はもっとコメディ調をイメージしていたんですけど、場所の磁場なのか、「あそこだけ松竹大船調になってたね」ってみんなが。
カウンターの前に『秋刀魚の味』(1962)の写真が飾られていてそれを見ながら撮っていました。一番リラックスして撮れましたね。喧嘩ばっかりの現場だったんですけど、あそこだけはみんな仲良く(笑)。
―喧嘩ばっかりの現場?
喧嘩というか、僕だけが素人なのでよく怒られました。撮影用語もわからないし、ひどいもんでした。
―ゴジさんこと長谷川和彦監督に師事されたとありましたけれど。
はい、4年間。現場のない監督ですから(笑)。学んだのは連合赤軍ですね。国会図書館に行っていろいろ調べて、そのシナリオをずっと。
―その経験は生きていますよね。
生きています!今回全部上手く行ったとは思わないし、失敗したなと思うこともあります。けれども、志だけは高く持ったつもりです。ゴジさんから学んだのは「こういう映画を撮る!と挙げた時の手は高く」ということです。
―いい台詞ですね! 太字にします。
脚本は自分で書かれましたから、現場で直せますね。
ガンガン変えました。具体的にどう変えたかというのが思い出せないですが。しじみさんも「こんなに変えた現場はなかった」って言っていました。
―長内美那子さんも重要な役割でした。演じられた静さんが一番不思議な人でした。ホームドラマでの綺麗で優しいお母さんのイメージが強かったので、あんなにテンションの高い長内さんを初めて見ました。
長内さんはヤバかったですね。一番色気があるんですよ。ドキっとした瞬間がありました。そしてテストのときから手を抜かないで全力でやられるんで気が気でなかったです。あの年齢で一生懸命やってくださって本当に感謝しています。
―スタッフさんはどう集められたんですか?
みんな知り合いですね。ピンク映画系の人がメインスタッフで、メイクや助監督や制作部は『カメラを止めるな』のスタッフです。上田監督と知り合ったのは、今は小説も書かれている脚本家の榎本憲男さんの「シナリオ座学」です。僕は仕事が忙しくてENBUゼミとか美学校に行けません。シナリオ座学は1ヶ月に1回4時間くらいなので行けるかなと。そこに上田君がいて、喫煙者が僕たち二人だけだったので喫煙所で話すうちに「手伝いましょうか」「ありがとう」みたいな感じで。僕の映画がクランクアップした後に、『カメラを止めるな』が公開になって、あっというまにスターダム。編集しながら唖然として見ていましたね。
―大塚監督は助監督の経験は?
ちょっとだけ。緒方明監督の『いつか読書する日』(2005)の制作部のほうにいましたが、あと言われるがままにドラマのほうにちょこちょこ行ったりです。ゴジさんの映画のクランクインを待っていたら20代が過ぎていったという感じです。
―現場で初めて監督として入ったときに不安はなかったですか?
不安はそりゃありました。衣装は揃っているのかとか、もう全てが不安というか(笑)。撮影自体は2週間くらいですが、店は1ヶ月休ませてもらって。撮影前後はげっそり痩せました。
―ご家族はなんと?
僕はあんまり仕事の話はしないんで。僕の奥さんは普通の会社員でサブカル女子とかじゃなくて、家では映画の話はあんまりしないです。ラーメン屋の話も最低限です。
―監督としての心配事を相談する人は?
脚本の相談は榎本さんに、制作的な相談は上田君にしていました。カメラマンの飯田さんがすごいベテランなので随時なんでも。映画学校とか行ってないので、同級生という横のつながりがない。そこがほかの人より苦労したところかな。
―ここよりネタバレです。
頭とラストを追撮して取り換えた件を伺っていいですか。
元々は二人が大学生という設定で、大学の図書館のシーンを始まりと終わりに持ってくる予定でした。それが自主映画で大学の図書館でロケをするのが難しい。図書館が使えないなら思い切ってラスト変えてみようかと思ったんです。それでテポドンが落ちてくる空を見上げているというラストにしました。
―ええ~!テポドン!
ただ、それをするとあまりにも90年代の映画っぽくなってしまう。「世界が終わる」みたいな。それは自分がやりたい映画と全然違うわ!
―監督が自分で書かれたんですよね?
もっと外に開かれた映画にしたかった。SFに行ったり、社会派に行ったり、リアリズムや不条理劇に行ったりふらふらしてますけど、テポドンにするとSFに振り切ってしまって、全然ダメじゃん、やっちまったなぁ俺。それだったらクランクイン直前まであったホンに戻したい、と思ったんです。
そしたら、スタッフから「夢オチって言われるのがいやだ」と言われました。僕は「これは単なる夢オチじゃないんだ。この後震災が来るってみんな知っている。チャンチャンと終わってない。オチていなくてこれから始まるんだ」ってみんなを説得しました。
あのバツン!と切れた後、(暗転後は)カメラが観客のほうを向いてるイメージなんです。
春樹は長い長い夢の後、そんなに大きな変化はないけれど知華子の小説を読んでみようか、と思うくらいの変化はあった。その長い長い「夢」を「映画」と言い換えてもいいかもしれません。僕たち(=春樹)は一本の映画を見た。一本の映画を見ても、人間そんなに変わらない。変わらないけど、近くにいる誰かのことをもう少し理解してみようか、ぐらいのことは思うかもしれない。
―あの暗転が長かったので何か問題が起きたのかと思いました。
ぶちかましてやろうと(笑)。
蓮見重彦さんは、あの春樹が横になるシーンで「ここで夢オチってわかっちゃうけど、いいの?」って(笑)。すごい、さすがだなと思いました。
―知華子が出ていくと本棚が空になってしまいました。春樹の本がありません。
本は「記憶」のメタファーなんです。春樹は正論を吐くけれども記憶を大事にしない、実は空っぽの男ということで。あの空っぽの本棚の空虚さを僕はお客さんと共有したいです。
―観客へメッセージを
この映画はもともとSF短編で撮る予定だったものを、「福島」という重いテーマで描くことにしたので、SFにも社会派、リアリズムにも振り切れない妙な映画になったと思います。それを中途半端だ、と見なす人もいるかとは思いますが、僕としては両方のおいしいところをぎゅっと詰めた映画になったと自負しています。是非、劇場でご確認ください。心よりお待ちしています。
―ありがとうございました。
=取材を終えて=
『気狂いピエロ』(1965)が映画への道に進んだきっかけだったという監督はシネフィル青年でした。初の長編作品が公開されることになって、長年の夢が一つ実現したのを応援したいと取材に行き、あれこれ話は尽きませんでした。
大塚監督のお父さんと同い年とわかって、変なおばちゃんと化した筆者は「米兵はいないけど踊る警備員さんはいましたね」とか、「静さんを見つけたとき、手分けして探している人にすぐ連絡していない」とか、いろいろ突っ込みのような質問や感想を言ってしまいました。失礼しました。
本棚の中身が気になって目を凝らしたら社会学の本や「百年の孤独」「愛しい女」などの背表紙が見えましたが、監督の自宅での撮影で監督の蔵書だそうです。
長崎に3年住んだことがありますが、2年ほど監督と同じ空の下にいたらしいです。長崎大水害(1982)のとき、監督は2歳。「(水害は)原爆よりひどかった」と言ったというお祖母ちゃんは原爆体験者で、作品中に静さんの宝物として登場した手帳はお祖母ちゃんの遺品だそうです。
このコロナ禍のときに「あったことをなかったことにしていないか」と問うこの映画が公開されるのも、何かのご縁でしょう。悩みに悩んで追撮して取り換えた幻のシーンは、後で公開するかもしれないそうで楽しみです。
(まとめ・写真 白石映子)
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