『けったいな医者』毛利安孝監督インタビュー

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毛利安孝(もうり やすのり)監督プロフィール
1968年生まれ。大阪府東大阪市出身。映画監督の浜野佐知に師事。数多くの助監督を担当する。主に高橋伴明・黒沢清・廣木隆一・磯村一路・塩田明彦・清水崇監督作品に付く。
2010年『おのぼり物語』で長編監督デビュー。その後『カニを喰べる。』(2015)、『羊をかぞえる。』(2016)、『天秤をゆらす。』(2016)、『逃げた魚はおよいでる。』(2017) 『探偵は今夜も憂鬱な夢をみる2』(2019) 『さそりとかゑる』(2019)
テレビドラマの演出も多数手がけNETFLIX配信『火花』、LINE LIVE配信ドラマ『僕らがセカイを終わらせる…たぶん』などを手掛ける。
今後の公開待機作に、『トラガール(仮)』がある。
映画『痛くない死に方』では助監督として参加。

『けったいな町医者』
監督・撮影・編集:毛利安孝
ナレーション:柄本佑
出演:長尾和宏

長尾和宏 1958年生まれ。365日24時間対応の在宅医として、患者のもとへ駆けつけている。1995年、病院勤務医として働いていた際に、「家に帰りたい。抗ガン剤をやめてほしい」と言った患者さんが自殺をした。それを機に、阪神淡路大震災直後、勤務医を辞めて、人情の町・尼崎の商店街で開業し、町医者となった。病院勤務医時代に1000人、在宅医となってから1500人を看取った経験を元に、多剤処方や終末期患者への過剰な延命治療に異議を唱えている。2019年末、新型コロナが猛威を振るう直前、カメラは長尾に密着して街中を駆け回った。
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★2021年2月13日(土)よりシネスイッチ銀座ほか関西地方ロードショー


―最初は助監督をなさった『痛くない死に方』DVDの特典につける映像のつもりだったそうですね。

僕は東大阪が実家で、そこから尼崎は電車で1時間くらいで行けるんです。宿泊費、メシ代含めて、コストパフォーマンス的にも安い。「1~2週間で撮って、それを特典にするくらいでどうか」というその会議のときに、撮るんならもう少し長い時間撮ったほうが、長尾先生という方が出る。納得いくまでいいですか?と言ったら、「予算の範囲内ならいい」ということだったんですけど、東京に戻ることもあったので、途中で(予算が)ショートしてしまいました。深夜バスも考えたんですが毎回はしんどい。長尾先生にこれ以上は限界ですと言ったら、「わかった、帰るときの新幹線代は出そう」と(笑)。

―長尾先生が出してくださった?!

僕の昼食代と新幹線代です。ほぼ2ヶ月間、長尾先生の週末の講演に帯同したり、先生が患者さんのところに行くときについて行ってカメラを回していましたね。

―ドキュメンタリー、映画の順で拝見しました。長尾先生ってなんてパワーのある方だろうと仰天しました。長尾先生は独身なんですか? 家族持ちであんな働き方をしていたら映画『痛くない死に方』の河田先生のように家庭が破綻してしまわないかと心配になります。観客もそこが気になるだろうと思うんですが。

僕も初期の頃、長尾先生の人となりを撮りたいとご自宅での撮影をお願いしたことがあるんですが、冗談交じりに断られました。ただ、24時間×365日「医師・長尾和宏」でいると思ったので、僕も確認していません。私人ではなく「医師・長尾和宏」を追いかけて撮ることにしました。
働き方は、心配ですよ。夜の11時に患者さんから電話がきて「今から行ってもええか?」って家へ行く。考えられませんよね。で、12時に解散して、「明日7時集合な!」って。僕が終電の中で長尾先生のブログを見たら、もう更新している。
そして「毛利君、朝日新聞に薬のこと書いたんが載るから」「それ、いつ書いたんですか?」「3日前の夜かな」って。この人大丈夫なんかなって思いますよ。

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(C)「けったいな町医者」製作委員会

―スーパーマンですね。

ほんとそうだと思います。で、ずっと胸ポケットに携帯を入れている。胸ポケットって左にあるでしょう。心臓の上なんですよ。それが寝ているときでもいつでも鳴る。するとビクッとして夜中でもバーッと起きる、心臓に悪いって。「携帯できたときから、ずっとここやから、シャツの別の場所、右ポケットでも誰か作ってほしい」って言ってましたね(笑)。

―「ビクッ」が蓄積されて良くないかもしれない。いやー、大変な仕事です。

長尾先生は覚悟を持ってやっているんです。長尾クリニックのほかの先生たちから、シフト制にしてほしいという声はあるんです。やっぱりプライベートの時間、家族との時間は医師という肩書をつけずに一個人に戻りたい、って長尾院長にいうわけです。
僕たちからみたら、それは働き方改革からして当たり前、正しいと思うんですけど。そこはイズムとして、医師というものに対しての長尾先生の根幹の部分で「なんでや」っていうのがあるんです。
在宅医療の医師になるっていうことは、意志を持てということ。一人とは言わない、連携も含めてですね。「なんで俺の言うことは若い子にはわかれへんのやろ」って車の中でぼやいていました。

―ああ、長尾先生を知って理解して集まってきたスタッフでもそう思うことがあるんですね。

ありますね。あのパワーとエネルギーに憧れて中に入ってきたけど、あの働き方、あの動き方にはついていけない。合理性も含めてですね。それは、全員が全員、長尾先生になれっていうのはしんどいことです。そこから変えていくのも大事だと思います。

―同じことをやれと言われても無理ですよね。毛利監督もそう思いました?

思いました。最初は『痛くない死に方』の撮影のときに長尾先生に出会って本も読ませていただきました。ただ、あまりにも理想的なので、「ビッグマウス、眉唾じゃないか」とも内心思っていたんです。でも考え方には賛同できる、面白いなと。実際2ヶ月ほど帯同させていただくと「有言実行」なんです。あのエネルギーを間近で見るとねえ。すごいです。

―倒れたことはないんでしょうか?

「俺は倒れない」「コロナにはかからない」とおっしゃるんです。(笑)。去年も「俺はインフルエンザにはかかったことない」って。患者さんをまわっているときに鼻グシュグシュいってるから、「風邪じゃないですか」と言うと「いや、俺は風邪なんか引いたことない」って。で、次の日マスクをしだしたんです。患者さんと接するので、その対応かなと思って「風邪ですか」というと、「風邪やない。風邪ひくなんて気のゆるみや」。
クリニックで先生おれへんな、と思ったら隣の部屋がガサゴソしてたんで、見たら先生が(自分で)注射してた。カメラ見て「やめてくれ!」って(笑)。「風邪薬ですか?」「栄養剤や、栄養剤!」(笑)。

―スーパーマンも風邪をひく。スーパーじゃないところもある。

まあ、そういうところもある。でも気持ち的にはね、「スーパーマンになろう」というか、人に元気を与える人ではありますね。

―患者さんたちが先生と会うと明るくなりますよね。

そうです。そこはもうびっくりします。中には受け付けない人も、在宅でも無反応の方もいらっしゃるんです。でも、その人たちも、毎週1回とか2回とか訪ねていくうちに、一緒のテンションになっていく。
「どうや、今日は?」「元気!」
だんだんほどけてきますよね。どんだけ病でふさぎ込んでいても、一個一個できることを言ってくれたり、何か元気になれるワードを言ったりしてくださるんで。
黙って薬の処方をするだけではない。「薬の処方はほぼいらんやろ」っていう人だから。ああいう診療の仕方というのはすごいなぁと思います。

―まず手をどこかに当てますよね。あれって「手当て」ですよね。

脈を診るっていいながら、あれはある種のスキンシップです。手当てですね。

―足りていないのはあれだと思いました。大病院の先生は特に。

患者さんの言うことを聞いてちょっと聴診器あてて「風邪です」とかね。長尾先生はそれ、ないですから。くだらない話をしつつ身体を触って、血圧が高かったらちょっと話をして落ち着いてからそこをほぐしてから測って、「あ、ほら血圧戻った。大丈夫や」って。それがすごいですね。

―監督はお身内やお友達など近い方を看取ったことは?

ないです。いまわの際、お亡くなりになる瞬間っていうのは僕の人生経験ではないです。僕が駆け付けたときには、すでに息を引き取られていたことはありましたけど。まさに命が召されていくっていう瞬間に立ち会ったのは、今回が初めてです。

―今回は2回ありました?

本編の1回目の死亡告知の映像は長尾先生が携帯電話で撮られた映像です。3、4年ぐらい前に長尾先生と話して「リビングウィル」をきっちり書かれた人です。「なにかあったら長尾クリニックに連絡して、遺体は(献体して)兵庫医大で解剖してくれ」とあったので、長尾先生が呼ばれました。そのときの映像なんです。

―あの部分だけ違うのはそういうことだったんですね。私は何か上にかけてあげてーと思っていました。

僕が立ち会ったのは最後の方で、きっと僕にとっては最初で最後の「平穏死」の体験になるでしょうね。亡くなる前に5、6回お訪ねしています。僕が東京に帰るといっていた日に亡くなられたんです。ですから本作の最後の撮影部分です。

―ドキュメンタリーは8~9割が被写体になる方の魅力、面白さで決まると思っています。その点、長尾先生はもうぴったりの方でした。監督もすごく興味を持って撮られていたんじゃないかなと思いました。

それはもう尼崎で町医者をやっている人という時点で。尼崎って関西人からいうとかなりディープなエネルギーあふれる街なんです。それは知っていましたので、そこで20何年医者をやるには、よほどのパワーがあるというか、ウソがなく真っすぐ患者さんと向き合わないと、ボロが出ると思うんですよ。特にあんな商店街のど真ん中ですから。
今はコロナで人間同士の距離感が遠くなっています。昔は町医者が確実にいて、家族ぐるみでいろいろ世話になっていて…それがここで撮れるんだろうなという予感がしていましたし、人間の魅力あふれるエネルギーのあるドラマが撮れるなと思いました。周りの人と接しているうち長尾先生の魅力がどんどん出てきました。

―長尾先生、キャラ濃いです。

キャラ濃い(笑)。長尾先生も患者さんもキャラが濃いんで。特に尼崎の人たちは日々笑って過ごそうとしています。どんなに辛くても誰かがこう「オチ」に持っていったらそれでちょっとクスリっと笑う。やっぱり根がポジティブです。みんなポジティブなエネルギーに変えようとするバイタリティが根底にあるんだと思います。あのへんの人々には。

―2ヶ月間でたくさん撮ったものの中から選ばなくちゃいけませんね。何を基本に残したり、諦めたりしたんですか?

これはもう、単純明快。尊厳死なら尊厳死。認知症なら認知症。長尾先生の患者さんは多岐にわたっているので、テーマを絞り込むのか絞り込まないのか、編集のときに一瞬考えました。
11月から1月の11日まで撮った長尾先生を一回並べてみよう、とやってみたら4、5時間あったんです。ひとつのキモとしては「ひとり紅白歌合戦」(長尾先生が、患者さんたちの楽しみになるようにとコロナの感染拡大前は毎年開催していた)があったので、そこが物語上の頂きというか目標地。八合目までは見えていたので、そこに向けて長尾和宏という人が日々在宅医療を続けている。そのモンタージュであればいいだろうと。特にどれかにフォーカスをあてるより、いろいろやっているヘンな、いや、「けったいな町医者なんですよね、この人」っていうのがわかれば。いかに患者の病気じゃなく、人と向き合おうとしているかがフォーカスされればいいなと思いました。
そうなるとますます時系列の順が見えてきて、4時間くらいに絞れたかな。長尾先生に観ていただいて、今度は長尾先生の「許可取り」が始まりました。

―映っている方々のですね。

はい。患者さんや患者さんのご家族には、長尾クリニックの記録係と紹介していただいて撮影したので。そのときは映画になるのか特典になるのかもわからなかったですが、世に出していいかどうかを伺いました。ほんとは僕も先生と一緒に行って許可をお願いしたかったんですけど、コロナで行けなくなってしまって長尾先生が一人でやってくださった。断られる方もいましたので、それでだいたい3時間くらいになりました。
次は「観やすさ」です。僕が編集して長尾先生の魅力をいかに人に伝えられるか、という作業に入っていきました。そぎ落としてこうなりました。

―すごく面白かったです!

ありがとうございます。

―いつも「これから観る方にひとこと」ってお願いするんですけど、短くひとことを。

いろいろ受け取りかたはあると思うのでなんとも言えないんですけど。ひとことでは言えないかもしれない(笑)。
こういう熱い医者がいます。正解かどうかはわからないけど、僕は正解だと思っています。これから医療従事者をめざそうという方々、一般の方々も、一度観てください!「こういうふうになりたくない」「いや、これは」「ここがいいからやってみたい」とか、いろいろあると思う。僕はこういう患者さんとの接し方は、忘れられているから浮き上がってきているんだと思う。こういう人はずーっとどこかにいらっしゃるんでしょうけれど、少なくなってきているからこの作品を観た方が「長尾先生すごいよね」「熱いよね」と言ってくださる。本来こういう人がいてくれるって大事だと思うので、望めばきっと出てくると思うんです。

―はい、望むこと。望まないと出てこない。

そうですね。長尾和宏って尼崎の街が生み出した医者だと思うんですね。あの街でもまれてたぶんそうなっていった。最初のほうで90くらいのお爺ちゃんが「先生、変わりましたな。立派になられましたな」って言っています。

―患者さんもきっと先生を育てたということですね。

そう思います。でなかったら、どっかで淘汰されると思います。

―ありがとうございました。

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―監督が映画学校に行こうと思われたきっかけの映画はなんですか?

そんなに特に映画好きだった記憶はないんです。ただ、集団で物を作るというのは、学生時代からいろいろやっていました。運動会でみんなを束ねてでかいものを作るとか、お芝居をやったとか。映像は8ミリカメラを持ってたんですけど、お金がなかったのでそんなに回せなかった。映画館の体験が大きかったかな。真っ暗な中でみんなで観ていたという、そういうのがあってたぶん映画を選択してきたと思うので、これ1本っていうのはない。
『太陽がいっぱい』で、どんでん返しってこういうことかとドカーンと衝撃を受けた。『ゴッドファーザー』もテレビで観たんですけど。
あの当時劇場は途中からでも入れたんです。小さいとき『スター・ウォーズ』をお袋と弟と観に行って、扉開けた瞬間、真っ暗な空間に宇宙船がぶわーっと飛んでいるのを観ちゃったんです。無数の星の中で宇宙船が奥に飛んでいくシーンは、いまだに頭の中にこびりついています。とてつもない世界に一瞬にして引きずり込む力、高揚感っていうのがね。

―もう『スター・ウォーズ』がこの1本になるじゃないですか。直接のきっかけじゃないかもしれないですが、そんなに強く今も残っているんですから。

いやー、どうでしょう。そういわれると何かもっと高尚な映画を言えばよかったなと(笑)。でもそうですね。

―こんな作品を作りたいというものはありますか?

あります。今回ドキュメンタリーというのが初めてだったので、自分なりの手ごたえ、こういうやり方をっていうのは見えたので、そこは探っていきたいなと思います。
それと劇映画に関しては、ヤクザ映画はまだ映画が映画足りうるひとつの武器であると。コンプライアンスとか、暴対法とかだんだん追いやられている感じがあるんですけれども、社会的弱者とかそっちじゃなく、まだ粋がっている男の任侠の世界を2時間の中で語りたい。突っ張って生きている男の友情とか、熱いものを感じさせる力をまだ信じているので、いつかやってみたいですね。


=取材を終えて=
毛利監督も熱い方でした。あの長尾先生を追っかけるには、同じくらいパワーが必要ってことなんでしょうね。締めのことばをいただいてから、続いたお話は囲みにしてあります。ヤクザ映画について熱心に語ってくださいましたので、いつか製作されたあかつきには、ぜひまた取材に伺いたいものです。
(取材・監督写真:白石映子)

●『痛くない死に方』高橋伴明監督インタビューはこちら


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