『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』原義和監督インタビュー

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原義和監督プロフィール
1969年愛知県名古屋市生まれ。フリーTVディレクター。
2005年より沖縄を生活拠点にドキュメンタリー番組の企画制作を行う。東日本大震災の後は福島にも通って取材し、Eテレ「福島をずっと見ているTV」にディレクターとして参加。
主な制作番組は、「戦場のうた~元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史」(2013年琉球放送/2014年日本民間放送連盟賞テレビ報道番組最優秀賞)「インドネシアの戦時性暴力」(2015 年7月TBS報道特集・第53回ギャラクシー賞奨励賞)「Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生」(2016年琉球放送/第54回ギャラクシー賞優秀賞)「消された精神障害者」(2018年Eテレ ハートネットTV/貧困ジャーナリズム賞2018)など。著書に「消された精神障害者」(高文研)、編書に「画家 正子・R・サマーズの生涯」(高文研)。

『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』
私宅監置は、1900年制定の精神病者監護法に基づき精神障害者を隔離した、かつての制度。日本本土では1950年に禁止になったが、沖縄では1972年まで残った。
原監督は、1964年に沖縄で撮影された私宅監置の現場写真と出会ったことから、写真に写る人びとを探し始める。隔離や排除の社会的背景を考察し、制度の犠牲になった人びとの心に寄り添おうとするドキュメンタリー。
監督・撮影・編集:原義和
https://yoake-uta.com/
★2021年3月20日(土)より東京K’ s cinema
4月3日より沖縄桜坂劇場、4月10日より大阪シネ・ヌーヴォほか全国順次公開

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私宅監置小屋跡

―番組のための取材が始まりでしょうか?それともテーマが先にあったのでしょうか?

僕の仕事は最初から番組枠が決まっているものもありますが、多くはどこで放送できるか分かりません。けれども取材はどんどん進めます。TBS、RBC(琉球放送)、NHKなど、いろんなところで仕事をしていますが、企画書を書いてプロデューサーにプレゼンテーションしないと番組にはなりません。その時、ある程度取材して映像が撮れていないと、薄っぺらな企画書になります。僕のスタイルとしては、カメラ取材をずいぶんやってどういう風にまとめられるかが見えてきてから、プレゼンします。
10年以上前から、精神障害者の社会的入院の問題を取材し、様々な番組で放送してきました。その延長線上に、今回の映画もあります。

TBSの古い記者で吉永春子さんというドキュメンタリー界の巨匠の方が、1972年に私宅監置について取材しています。その時の映像を活用させていただきながら、そこに登場する人たちのその後を取材し、TBSの「ザ・フォーカス」という番組でも放送しました。(「生きていた座敷牢 その後」2019年4月21日放送)
吉永さんは極めて珍しい例で、映画のテーマでもある「私宅監置」については、その後、誰も掘り起こしてきませんでした。
私宅監置は、精神障害者を隔離し、「いない人」にしてしまった社会制度です。犠牲者は納得できなかったに違いありません。国の制度によって人生を台無しにされのですから。命の尊厳を傷つけ、人間として否定する、とてつもない人権侵害の制度でした。しかしながら、公的な検証や総括はされていません。闇に葬られてきたと言えます。
映画のサブタイトルは「消された沖縄の精神障害者」ですが、社会的に抹殺された存在ということです。その隔離の事実は、まるでなかったことのように歴史的にも抹消されてきました。
すべてを現代の論理で捉えることはできませんが、過去の出来事をきちんと振り返って考え直すことは必要だと考えています。ですから、ジャーナリストとしてこの取材は社会的に意味があると思って続けてきました。
僕の取材で、誰かが傷つくこともあったと思います。相手によっては、聞かれることは非常につらいことだからです。家族の傷がこじ開けられるような取材ですから。僕には逆にそうやって取材した責任がありますから、映像素材を引き出しにしまうわけにはいかないと思っています。
テレビ番組では時間枠の関係でどうしても少ししか出せません。たくさんたまった映像素材をどうすればよいかと思案しました。当初は映画という発想はありませんでした。本ならまとまった形で出せるのではと、付き合いのある出版社の方に相談しました。売れそうにないと思われたはずですが、懐の深い方で、社会的意味を考えてくださって出版できることになりました。(「消された障害者」2019年/編著:原義和/高文研)
僕は書くのは得意ではありませんし、全部カメラで撮っているわけですから、できれば映像でまとまった形で発表したいとずっと思ってきました。ある時、「映画でやってみたら」という声かけをいただき、チャンスがあるならと映画にチャレンジすることになりました。

―よかったですね。本もこれはこれで、とても意義があると思います。図書館や書店にあれば、これからずっと読んでもらえます。映画館は全県にはないですし、アーカイブにでも残らないと、上映が終わったら観られません。いろんな人に届ける意味で、いろんな媒体を利用するのは必要なことだと思います。

そうですね。出版社の人に「将来、私宅監置について文献を探す研究者が現れるかもしれない。今、売れなくても100年後に探し出してくれたら…」と言ったら、「今の本(に使っている紙)は100年もたない」と笑われました。冗談ですが。
本は電子版というものがありますけれど。今の映画の規格であるDCPが100年先にどうなっているのか僕には分かりません。
過去に学ぶことからヒントを得ていくことが大事だと思うんですね。私宅監置という社会制度としての排除の歴史。どういう苦悩や悲しみがあったかを記録することは、人類的な意味があると思っています。この映画も、100年後に隔離の歴史を調べる誰かが出会ってくれるかもしれない。時代を越え、何かのきっかけでこの映画が引っかかってくれたらと思います。

―最初拝見したときは、なんだか重い荷物を受け取った感じがしました。「私宅監置」という言葉も、ある時期まで合法であったことも、この作品で初めて知りました。つらい話でも知ってしまったら知らなかったことにはできません。
そんな中で(私宅監置されていた)金太郎さんのお孫さんが登場したのがとても嬉しかったです。


あれはマスクをしているでしょう。去年の映像なんですよ。
この映画は、いったん去年3月に完成させているんです。それがコロナ禍で映画館が閉まり、いろいろな事情で公開が延期になってしまいました。その間に金太郎さんの孫の幸恵(ゆきえ)さんから連絡をいただき、6月~7月に取材をさせてもらいました。
彼女との出会いは僕の中でも大きかったです。金太郎さんの息子は、故郷の島を出たきり帰ってこなかったという証言があります。幸恵さんの父、侑さんです。侑さんは大阪に出てきて、長らくタクシー運転手をされていたそうです。沖縄差別が色濃くあった時代です。たとえ差別的なひどい目に遭っても、故郷には戻れなかった。
「父はいろんな意味で荒れていた」と幸恵さんは話されました。娘としてはそんな父親をあまり好きにはなれなかったようです。侑さんが「荒れていた」というのは、父・金太郎さんが隔離されて受けた傷を、引き継いでしまった面があると僕は思いました。でも娘からすれば、そう簡単ではありません。屈折した複雑な思いを持ち続けています。
映画でもにじみ出ていると思いますが、金太郎さんが受けた私宅監置の傷が、実に3代に渡ってお孫さんにまで深い影を落としている。私宅監置の問題は、今も全く終わっていない、生々しい傷としてずっと刻まれ続けていると痛切に感じました。

どうすれば、そうした傷の連鎖を断ち切れるのか。それは、社会的にきちんとけじめをつけるということでしかないと思います。私宅監置というのは、金太郎さんや家族が悪いことをしたわけでは決してない。本人たちは何も悪くない。あくまでも社会の過ちです。法律に基づく制度だったのですから。
時代は変わっても、「あの私宅監置は間違った制度だったんじゃないの?」「どうすればよかったんだろう?」とみんなで考えていくことが大事だと思っています。
今回の映画は過去を追っているわけですが、幸恵さんのシーンを新たに入れたことによって、今につながる問題だとリアルに押し出せたと思います。
今、隔離監禁をやったら犯罪ですから、より見えにくくなっているかもしれませんが、形を変えた私宅監置は今もそこら中にあります。社会的に排除されている存在が、実は私たちの周りに大勢いるということに、思いをめぐらせたいと思っています。そのためにも、無理をしながら掘り起こした私宅監置の実態について、なんとかして世に出したいと思って映画をつくりました。

―そうなんです。自分のできる方法で知らせたいと思うんです。

僕は劇場で公開する映画をつくるのは初めてです。テレビドキュメンタリーというのは実に限られた世界で、最近のテレビの制作現場では「中学生にわかるように、分かりやすく」とプロデューサーがよく言います。結果、きれいにストーリーを積み上げていく、1・2・3・4…と順序立てて結論まで誘導していくスタイルが主流です。
今回は、僕は正直、映画って何だろう?というところからのスタートでした。決してテレビ的につくりたくはありませんでした。葛藤しながら行き着いたのは、映画では「ひとりの作者として何をやりたいのか」が深く問われるということです。それは僕自身の根源的なところが暴露されてしまうことでもあるということ。作者である僕は一体何者なのか。それを僕自身がつかまえないといけないのが、映画づくりではないかと思いました。
それはテレビのように一面的な表現ではなく、もっと多面的でよいということでもあると考えました。描くのも描かれるのも人間ですから。映画を見る人が考えて理解しようとする、その主体性にゆだねる面を大切にすべきだとも思いました。
と言いつつ、普段テレビの仕事でやっていることから抜け出せなかったとは思いますが、仮面の女性を登場させたり、小屋を作ったり、僕自身の世界観を追求しました。映画になったかどうかは、見る人が判断してくれると思います。

―この写真に写っている方々の視線が痛くて「何もしないの?」と言われたようで、何ができるかわからないけれど、まず監督にお会いしようと思いました。

僕にとっても、写真との出会いは非常に大きかったです。映画の芯とも言えます。写真のほとんどは、1964年に岡庭武さん(精神科医)が医療記録として撮ったものです。(写真を並べながら)

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―情(じょう)が入っていますよね。

これらの写真は奇跡的に生まれたと思います。岡庭さんは日本政府が沖縄に派遣した精神科医で、調査をしに行ったわけですが、そうでなければここまで踏み込めなかったと思います。家族も地域も患者を隠していたわけですから。また写真は単なる記録ではなく、情というか、激しい動揺や怒りなどが含まれています。結果、見る者を揺さぶります。僕自身も「お前は何をやってるんだ?」と金縛りにあったような気持ちになりました。

―当時の調査報告はどこかへ届いていますか?

岡庭さんは厚生省から派遣されましたから、報告書はおそらく書いたでしょうし、その後、論文も世に出ています。それは大きな反響があったと聞いています。沖縄で私宅監置が数多く残っていると分かり、医療支援を唱える声がたくさん上がったそうです。

僕が写真と出会ったのは2011年、社会的入院をテーマにした「隔離の現在(いま)」(RBC)という番組の取材の時です。吉川武彦さん(当時は清泉女学院大学の学長)をインタビューする中で、原版のポジフィルムを見せていただきました。吉川さんが保管していましたので。しかし彼は、「こんなもの、外に出せるわけがない」「写真を出すなら顔をぼかして下さい」と言いました。僕は言われるままに、ぼかして放送しました。深く考えずに。

その吉川先生が2015年に亡くなられたのです。その後、沖福連(沖縄県精神保健福祉会連合会)事務局長の高橋年男さんが、「あの写真を沖縄で保管したい」と、ご遺族にお願いしたのです。しかし、山積みになった遺品の中からあの写真群を探し出すことはとても出来ないと言われたそうです。それで、2011年に僕が取材した映像からキャプチャーして保管してはどうかということになりました。ですから、これら(手元)の写真はそのキャプチャーデータをプリントしたものです。ポジフィルムとはサイズなどが異なりますが、それでも記録的な意味は大きいだろうということになりました。

僕は、これらの写真をどうすべきなのか問われていると思いました。再び引き出しにしまうべきなのか?だとすれば、いつまで隠し続けるのか。隠すのではなく、世に出して問うべきではないのか。でもどうやって?…そうした葛藤が生まれました。
写真と正面から向き合う時間が始まりました。世に出すとしたら、吉川さんが言ったように顔をぼかして出すべきなのか。あるいは、ぼかさない方法はあるのか。
2011年の番組では顔をぼかして放送しました。しかし、一体誰を守っていたのだろうか?僕は当時を振り返って、問わずにはいられませんでした。写っている本人を守っているようで、実は放送する自分たちを守っていたのではないかと思うようになりました。写真の顔をぼかすことは、かつて精神障害者を隔離して世間から隠し、存在を消していったことを再び繰り返すことになりはしないか。隔離という加害の歴史を上塗りすることではないのか。そう思いました。もしそうだとしたら、違う道を選ばなければなりません。

顔をぼかさないのであれば、どうすべきか。写っている本人を探し出して公表する許可をもらうべきだろう。ですから、まずは彼らに会いたいと考え、そのあたりから、取材が始まったわけです。ポジフィルムの枠には名前と地域名が記されていましたので、それらを頼りに調査を始めました。まるで探偵のように。
那覇のような人口流動が激しい都市部では難しいですが、離島などではその家にたどりつくことができました。もちろん、会いに行って断られた人もいますが、中には話を聞かせてくださった方もいました。そうやって私宅監置の実態調査も進んでいきました。
私が調べた限り、岡庭写真に写っている当事者で生きている人はいません。ご親せきにたどり着き、写真の公開について了承をいただいた人はいます。でも、ご遺族にたどり着けなかった人がほとんどです。

50年以上も前の写真であること、徹底して本人や家族を探す努力をしていることなどを踏まえ、写真はぼかさずに公開すると決めました。これは高橋年男さんとの共犯かもしれません。ぼかさずに出しましょうと。隠されてきた歴史を社会的に明らかにすることの意味を大事にしましょうと。そして2018年4月、写真展を沖福連と協同的に行いました。(「闇から光へ」於 沖縄県立博物館美術館・県民ギャラリー)

―時代もありますし、大変だと思うんですけど、地域ぐるみで助ける方向にはいかなかったんでしょうか?

そういう風にうまくいった人もいるのかもしれませんが、私宅監置のケースでは、病状も含め、家族や地域で生じた不和などがそれだけ大変だったのだと思います。病院も少ない時代、医療らしき医療がない状況でトラブル続きだったんじゃないでしょうか。私宅監置という制度があるわけですから、それを利用した。1人を犠牲にすることで、マジョリティの安寧を保つという安直な道が選ばれることになりました。それは、今の時代における僕たちの日常的なあり方そのものだとも思っています。地続きなのです。
沖縄には「ユイマール」という言葉があって、みんなが助け合う社会、みんなで共に生きていくのが建前です。でもその輪からはじかれた人が厳然と存在していましたし、存在しています。別に沖縄だけの話ではなく、古今東西、どこにでも排除の現実はあります。

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私宅監置現場写真(1960年代)

―これはたまたま沖縄が取り残されて、ずっと後まで監置が残っていたから明らかにできたけれども、実は日本全国にかつてあった話ですね。時間が経ったから見えなくなっただけ。

もちろんです。日本中にあったことです。
沖縄も、あと20年も経つと関係者が亡くなっていきますし、今だから聞けた話です。逆に20年前だったら、生々しくて話を聞くのは難しかったかもしれません。吉川先生が「こんなもの、外に出せるわけがない」とおっしゃったように、それを許さない空気が強く、取材はもっと難航したはずです。ですから、映画は奇跡的なタイミングで生まれたとも言えます。
僕はこれらの写真とたまたまめぐり逢ったわけで、それはこの映画をつくることを“求められた”ということだろうと。クリスチャン的な言葉で言いますと…

―「神のご計画」ですか?

かもしれないです。
でも、映画も「尺」(上映時間)というものがあるので難しいですね。あれもこれも入れたいけれど、入れられない。この内容で2時間を超える映画をつくる勇気は僕にはありませんでしたから、カットしたシーンがいっぱいあるんです。実際はこんなに(手をひろげる)撮っているけど、こんなもの(手を縮める)ですよ。

―特にドキュメンタリーは脚本ないですから。
それではこれから観る方にひとことどうぞ。ひとことじゃ足りないと思いますが。


私なりに「語った」つもりです。一つは、「うた」にポイントを置いて構成しました。うたは、生きることそのものだと思うんです。なぜ、人は歌うのか?そこには理屈も何もない。生きているから、生かされているから歌う。証言を集めているうちに、隔離されてどんなにひどい目に遭っても、人は歌うのだと知りました。そこで歌われた歌は大切なことを伝えているように思います。人間って、歌う存在なんだなと思っています。

―ありがとうございました。

=取材を終えて=
周りの人に聞いても知っている人はほんのわずかでした。全く知らされなかった、こんな状況で隠されていた人がいたのだということに驚きました。国や地域、個人でも「隠したい。いないこと、なかったことにしたい」体質はそうそう変わらないでしょう。自分にもそういうところがあります。でも自分や大事な人がそんな目に遭ったら、とちょっとだけでも想像力を働かせることが、少しずつでも変えていくことにならないでしょうか?そんな中で、金太郎さんのお孫さんが登場して、後からでもお爺ちゃんを想ってくれたことで、こちらも救われた気がしました。たまたま公開延期になったので、追加できたシーンと聞いてめぐり合わせと思いました。
映画には、台湾にもあった私宅監置の証言をする方が登場します。日本だけでなく、世界中で昔も今もあることなんですね。遠く西アフリカのコートジボワールでは、精神障害者の施設で患者を診るヒーラーや広場の樹木に鎖で繋がれている患者も映し出されます。見えるところにいるせいか、患者が家族や地域で受け入れられ「ま、しょうがないか」と安心している感じがします。鎖は嫌ですが、表情が全く違うのに感心します。監督の著書「消された精神障害者」(高文研)もぜひご覧ください。

(まとめ・監督写真 白石映子)




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