青野真悟監督、大久保英樹監督
*プロフィール*
監督/青野真悟
1963 年生まれ、愛媛県出身。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演出コース 8 期。
フリーランスのテレビディレクター。
1985 年より劇団『時々自動』に参加、1999 年まで出演や映像を担当。
今井次郎とは舞台での共演から始まり、結婚式の司会進行を任されるまで、青春のほとんど全てを共に過ごした。
監督/大久保英樹
1962 年生まれ、福岡県出身。
横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演出コース 7 期。
卒業後、同期の劇作家・鄭 義信氏の作・演出公演に出演したりしてぶらぶらしていたが1988 年より劇団『時々自動』に参加、2003 年まで出演や映像を担当。
今井次郎とは同じ舞台に立ち、映像と音楽で共作した作品も多数制作した。
平行して 1990 年代よりフリーランスディレクターとなり、主に地上波の情報番組等を演出。
今井次郎 1952年 東京に生まれる。
70年代後半~80年代初頭、伝説のパンク・タンゴ・バンド「PUNGO」等の活動で、東京のオルタナティヴ・ミュージック・シーンの一翼を担う。
1985年、この年結成されたパフォーマンス演劇の草分け的存在「時々自動」に参加。
以降、最期まで出演と作曲と続け、曲数は優に100曲を超える。
1990年代半ばから「JIROX」名義で美術活動を開始。
日常品やゴミ同然の素材を用いたオブジェや絵画、自作曲を駆使したパフォーマンス「JIROX DOLLS SHOW」は、多くの熱烈な支持を集めた。
2012年11月 悪性リンパ腫により逝去。
『芸術家・今井次郎』
監督・撮影・編集:青野真悟、大久保英樹
作品紹介はこちら
2021年/ 日本/カラー・一部モノクロ/94 分/ドキュメンタリー
(C)2021「芸術家・今井次郎」製作委員会
公式HP imaijiro.com
★2021年10月30日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
―この作品を切望していらしたディレクターの遺志を継がれたと伺いました。
大久保 桐山真二郎ディレクターは2016年の4月に亡くなりました。彼は30代の半ばにアンジェイ・ワイダを取材。1時間半のドキュメンタリーを作って大きな賞を受賞した(*)、嘱望されていた才能ある人です。
*ETV特集『アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男』( 第25 回ATP 賞グランプリ)
彼がまだ20代で早稲田の学生だったときに、劇団「時々自動」にゲストで出演したり演奏したりしたんです。今井さんや僕たちも現役で活動していたころです。その後卒業してテレビの映像制作の仕事をしたいとドキュメンタリージャパンに入ったんです。そのときはまだ橋本佳子プロデューサーのことも知らずに。
僕の自主映画で桐山君に出てもらったり、男二人でジョン・カサヴェテスとかクリント・イーストウッドの映画を観に行ったりして個人的にも仲良くしていました。それが10年15年あった中で、今井さんが亡くなって、彼もすごくショックを受けて。
どうしても今井さんの映画を作りたいと提案したら、橋本プロデューサーが20代のときに今井さんと芝居をやっていたと聞いて、なんと!と。桐山君と橋本さんが映画のためにアーカイブ映像を集めよう、とか、インタビューをしようとか言ってたんです。そしたら桐山君が、くも膜下出血で亡くなってしまいました。
青野 38歳ですよ。
―もったいないですねぇ。
青野 もったいないです、ほんとに。
大久保 今井さんの映画なら何でも手伝いますよ、とは言ってたんです。桐山ディレクターで動いていたのが立ち消えになって、この企画はもうできないかなと思っていたんです。少し時間があってドキュメンタリージャパンで桐山君の偲ぶ会をやったときに、橋本さんが「やっぱりこの企画だけは実現させたい、大久保さん引き継いでくれない?」というオファーがあったんです。そのとき僕はテレビの仕事はやっていたんですけど、映画は好きなだけに”荷が重い”感がありました。でも”実現させたい”方が勝って、「青野が一緒にやってくれるんだったらやります」と返事をし、青野君もいろいろ大変だったのに快諾してくれて、そこから再起動しました。
青野 快諾…快諾かわかんないけど。悩みましたけど、まあ断れないなぁと思って、うん。
―始めるときは悩んで、終わってみてどうですか?やって良かったと思われましたか?
青野 うーん。
大久保 僕は良かったと思います。彼(青野)は悩んだかしれないけど、とにかく今井さんっていう人を不特定多数の人に、知ってもらいたかった。
みんなが好きだとは思わないんですよ、ただ今井さんにすごく惹かれる人や励まされる人がいたり。それこそ世界中に拡げれば、ある程度は絶対いるはずという確信はあったんです。これで全部わかるんじゃなく、そのためのきっかけに。映画というメディアが、パッケージという言い方でもいいんですけど、これができた。あるのとないのでは全然違う。
これ、紆余曲折あって途中で逃げたいと思うくらい僕も悩んだんですけど(笑)。いろいろあったけど、できたっていうことに関して言えば、やって良かったと思います。
―これは企画が立ち上がっても、その時点では公開できるかどうかっていうのはわからないですよね。それも悩みの一つでしたか?
青野・大久保 そうですね。
大久保 商品になるかどうか、は誰も確信はなかったです。宣伝的な意味ではそれこそ無名ですから。
青野 でも橋本さんっていう人がプロデューサーだったから、そこのところはなんとかなるんじゃないかなという感じはありました。僕なんかが一人でやったら、公開にならないような、もっとパーソナルなものになったでしょうけど、橋本さんという視点があるので、できたと思いますね。
大久保 橋本さんは坂本龍一さんのドキュメンタリーをやってらっしゃるんですけど、いつもは社会派の方なんです。それが今回、自分が知っている今井さんについての内容なので「私は面白いと思うけど、一般の人がどう思うか客観的には観られない」と言われていますからね。それはほんと、正直なところだと思います。
―お2人は劇団「時々自動」で早くから今井さんをご存知だったわけですが、「今井次郎さん」はどんな方でしたか?
青野 僕は22くらいのときに会ったんですけど、学校出て何にもせずにフラフラしているときに、ちょっと誘われて稽古を観に行きました。僕より11歳上なので次郎さんも主催の朝比奈さんも30代。まあ、見たことない人だったんです(笑)!
―今でもそう思います(笑)。
青野 ほんとにこんな面白い人が世の中にいるんだ!っていう(笑)。芝居なんか全く興味がなかったんですけど、そこにいることがすごく面白くて。「一緒にやらない?」って言われたときに、「やりますやります」ってすぐ飛びこんだんです。それから15年くらいずっとやっていました。柴田暦さんが映画の中で言っていますけど、「次郎さんは自分の考えていることが先へ先へと進んで速いので、言葉が追い付かない」って。ほんとにそれなんですよね。頭の中でとてつもないスピードで何かが回っているというのが、わかるんですよ。一緒にいると何かブーンと音を立てて回っている、ほんっとに稀有な人だと。まあそのせいで何言ってるのかわかんなかったりするんですけど(笑)。
で、できてくる曲がとてつもなく美しかったり面白かったりする。
何の因果か知らないけれど、ものすごくラッキーだったなと今も思います。なんであんな人に僕は会えたんだろうと。
―そういう人に会えないまま人生終わっちゃうことだってありますよね。私も遅ればせながら映画で会えて「良かった!」です。
青野・大久保 ありがとうございます。
大久保 一見ワイルドな印象を受ける人も多いのですが、やはり都会の人「都市で育った人」という感じはあったと思います。とても頭の回転が早かったのは確かだけど、それがうまく伝わらないということも同時に自覚していたような気がします。お酒が好きだったのですが、やはりそれはいろいろなことから解放してくれるものだったからなんでしょうね。
―私はこの映画で楽しみがひとつ増えました。もし入院することがあったら、病院食のミールアートやります(笑)!
大久保 どんどん発信していってください。
青野 本編では結局カットしてしまいましたが、群馬の病院の看護師さんたちもずっとSNSを観てくれて「面白いね~!」って。実は食べ切った後の写真もあるんです。
治療で毛も抜けていて帽子かぶっているんですけど、看護師さんに言わせると、(そんな状態で)「あんなに綺麗に食べられるってすごいことだ!」。
大久保 看護師さんにインタビューもしたんですよ。今回病院食を最後にしたんで、その反響というのは(映画に)入れられませんでしたが。
―焼きそばの犬とか面白いですよね。あの発想が!
青野 あれ強烈ですよね。
大久保 毎回メニューが違うので、毎回やり方を発明しているんです。
―みんな正面を向いています。子どもが描く絵みたいに。いくつか横向きがあるんですが、ほとんど正面で、今井さんは生き物や人間が好きなんだなぁと。
青野 そうなんですよね。景色でもなくて。
大久保 きっと一番興味があるのはそっちなんですよ。
―恥ずかしがりやのような感じも、人懐こい感じもします。
青野 恥ずかしがりでもないかな。
道を歩いてるとなんか考え込んで怖い顔しているんです。けっこうガタイも大きいので、みんなよけていきます(笑)。でも話し出すと、ほんとに優しい。「時々自動」に入ってくる女の子が、次郎さんふざけて大声出したりするので怖がるんですけど「大丈夫、怖くないよ」って。
―クマさんみたいですよね。
青野 そうそう。
大久保 そうですね。
青野 女性にはとてもストレートに伝わる。
―なんか可愛い。
大久保 それキーワードです。僕たちにはそういう感覚なかったんですけど。男性はやっぱり地位とか権威とか、そういうのにしばられてるんだなぁとつくづく思いますね。女性は「わー可愛い!素敵!」とすぐ反応しますね。
―このユニークな発想はどこから生まれて来たんだろうと思うんですが、型にはまらないで生きてきた人なんでしょうね。会社勤めとかサラリーマンとかはされていないんですよね。
青野 いっさいしてない。
大久保 アルバイトもあんまりしていない。とてつもなく向いていない(笑)。
青野 うまくいきっこない。だってなんか考え出すとすごい集中力で。
―テンポが回りと違って合わないんですね。
青野 難しいと思います。
大久保 社会的なものとは相いれない。けれども一種の特殊な才能がある。
―あのお母さんがいらして、奥様に出逢われて。
青野 ラッキーな人で。
大久保 本人の力でもある。
―引き寄せられるんじゃないでしょうか?
青野 いろんな人が引き寄せられたんだなって。僕は生きてるときには「次郎さん自分のことばっかり言いやがって」とか(笑)言ってたんですけど、でもほんとに好きでしたねえ。
大久保 亡くなってみるといろんなことが落ち着いて見える。生きているときは関係性の中でいろいろありましたけど。不思議なもんですね。やっぱり。
―「時々自動」では映像部にいらしたそうですが、映画の中の映像はお2人が撮られたものですか?
青野 「時々自動」は早くからミクストメディア的なことを舞台でやっていて、映像を多用するので、僕はそれらを作ることに専念してたんです。大久保くんは出演も続けながら一緒に映像を作ってた。
映画の冒頭の「棺桶に入ってる次郎さん」の映像は2011年の時々自動の公演「うたのエリア-3」という死をテーマにした舞台のために僕が撮ったんです。もうその頃は時々自動のメンバーではなかったのですが、頼まれて。呼びかけているのは朝比奈さんで、朝比奈さんも棺桶に入っていて、お互いに呼びかけると目を覚ます。目をカッと開けてそれからお芝居がスタートします。
―映像では立っていますが、ほんとは横に寝ているんですか?
青野 ドアを開けるとあの棺桶が立っています(笑)。
―エジプトのミイラみたいに?
大久保 シュールです(笑)。
青野 あれけっこう手間かかっているんです。
―いっぱい物が入っているのによく落ちないで(笑)。
青野 貼り付けています(笑)。自分の私物とかお気に入りのものを集めて棺桶に入れて。
たまたま、そういうのを撮っていたんです。
大久保 縁起でもない(笑)。最後の舞台なんですけど、その時は病気の影も形もないです。
―”生前葬”すると長生しそうなのに、60歳で亡くなられちゃったんですねぇ。
青野 そうなんですよ。
大久保 一方で、トリビュートライブ映像はドキュメンタリージャパンの精鋭が集まって、4カメ、カメラマン4人一日で撮りました。それが2018年の映画のためのライブと銘打ったもの。
青野 もうずいぶん時間が経ってしまいました。
大久保 そのライブを柱にしました。
―そこにインタビューなどを足して。あ、女性の方々が絶賛していましたね。
大久保 僕らは近すぎてそこまでの言葉は使えないんですけど、彼女たちはほんとにそう思っているんだからと入れました。
―今井さんは他に似た人を知らないこともあって、そのしぐさやら言葉やらが残ります。
大久保 思い出話も亡くなって10年近くになるのに、つい最近のことのようにみんな話しています。
―お2人が60歳になったら、今井さんの齢を越えたって思いますね。
大久保 やっぱり一つの指標です。及ぶべくもないですけど。
こういう生き方があったっていうのはまぎれもないですから。
青野 HPの冒頭に「生きづらい世の中に、こんな人がいたという希望を伝えたい。だいじょうぶ。世界にはこういう人が、ちゃんといる」と書いて、これは映画の中の立山ひろみさんの言葉が元になっているんですが、最初の「こんな人がいた」という過去形は次郎さんのこと。あとの「ちゃんといる」という現在形は、今もどこかに次郎さんのような人がいるはずだという希望を込めたつもりなんです。
―どこかに。まだ見つからないけど。
青野 なかなか見つからないけど。だけど、ちょっと元気が出るかなと。
―人と同じじゃなくていいんだよと。
大久保 まさにそうですね。僕は映画ファンだから映画的に作品がどうかと考えがちなんですけど、これはなるべく今井さんを出したいということだけですね。実は本人の映像はあまり残ってないんです。これがいっぱいいっぱいくらいで。作品も一人一人にお願いして出していただいて。こんなに壊れやすいのを。
―みなさん大事にしてくださっているんですね。猫多いですね。飼われていましたか?
青野 飼ってないです。犬も多いですよ。ひねり犬、これは大量に作っていました。僕も持っていますけど、マネしようとしてもなかなかできないです。
―チャチャチャっと指先で作ってそうです。
青野 チャチャっとやるんですけど、プリミティブなアートとは全然違ってるんです。僕たちが追いつけないスピードで考えている人ですから、自転車で新幹線を追っかけているようなもので。実は仕上がりにはすごくこだわっています。でもそのわりに簡単に壊れちゃう(笑)。そこが次郎さんの物の特徴だと思います。
大久保 やっぱりこれは長持ちしないっていうのを本人は自覚している。
青野 自覚的だね。
大久保 劣化しているんですよ。作品そのものが変わっていくという、現代美術のある種の限界を含めている。理論的なことはほぼ言わなかった人なんだけど、間違いなく考えている。それで値段設定をいくらにするか?っていうのをすごく悩んで考えたりとか。結果的には安い値段で。個人コレクターも美術のコレクターではない。若い人がいっぱい買っていくんですよ。
―記念に買えるお値段なんですね。これ、おせんべいの缶の蓋みたい(右上)。
大久保 そうです!そこらへんにあった(笑)。それでおせんべいの蓋シリーズみたいなのがあるんです。
―ええ~(笑)。
大久保 これはクリップではさんで、気に入ったんですよ、たぶん。ありもので作ったというけれども、これじゃなくちゃいけないというのも両方ある。
―お2人のお気に入りはありますか?
青野 僕はこれ。奥様が一番大切にしているお宝なんです。可愛いなぁと思って。JIROX DOLL SHOWでもよく使っていました。
青野監督お気に入り
大久保 作品というより自分が使う小道具として。劇団の人なので物語性というのも同時にある。それが楽しさの一つなんじゃないですかね。僕はこのコンビニ袋の中でピンポン玉が眠っているのが。友達の間では名作となっています。
大久保監督お気に入り
―目と口をチョンチョンとしか書いていないのに、赤ちゃんみたいで可愛いです。
大久保 なんかが伝わるんですよね。
青野 自分でも気に入ってました、相当。
大久保 この作品は、最初に今井さんの個展を開催したキュレーターの方が大事に大事にされています。
―編集はお2人で一緒になさったんですか?
大久保 そんなに深く考えずに、2人で手分けして。
青野 インタビューした対象ごとに順番に。半分こしようぜと。
大久保 同じ編集ソフトを使って。最終的にはコロナ禍になってしまったので、ほぼリモートになっていました。
青野 編集が最終段階へ進んだのはコロナのおかげもありましたね。仕事も飛ぶし、行くとこないし、うちにずっといるんで、じゃあもうやろう、と。
大久保 これも不思議な因縁ですね。
―いいこともありましたね。
青野 ちょっとだけ(笑)。
大久保 社会派的なことはツイッターでも本人の発信としてはないんですよ。
「Be Happy!」も、今コロナがあるからさらにそう思えるんですけど、「もう復興なんて言ってないでみんな仲良くする道を探そうよ、っていう社会派的な意味を込めてこの曲をやります」って言っているんです。映画では一瞬カットしていますが、youtubeにはそのまま残っています。
「幸せになることがひとつの批判なんだよ」という今井さんの唯一の(社会派的メッセージ)。
―ここだけの話♪
大久保 そう!♪ 幸せになっちゃおう♪
―いいですね、あれが最後に来て。
青野 あれがテーマなんです。どこに使うかもすごく考えたんです。冒頭においてみたりしたんですが、結局やっぱり最後に。
大久保 今後日本にとっては大事な言葉だと思います。復興とお金とかだけじゃない大事なものっていうことを、人生全てで表している人でしたからね。
―コロナ禍は世界中のことですから「Be Happy!」で終わって良かったー! お2人は今Happyですか? どんな時が幸せですか?
青野 僕はもう家で妻と晩酌してるときだけです(笑)。
大久保 僕は、なかなか幸せは感じにくいんですけど。ただ、世界は美しい。社会はほんとにひどいなと思うんですけど。たとえば春の天気が良くて日向ぼっこしているときに「あ、もう世界はこれでいいじゃん」と。そう常に思うようにしています。
―「やくにたたないたいせつなもの」とチラシにあります。お2人の役に立たないけど、大切なものは何ですか?
(しばし考えこむお2人)
青野 僕は浄水場の前に住んでいるんですけど、大きな池があって超古典的な方法で水を濾すんです。いつも水面がきらきらするのを眺めていたんです。そこを渡ってくる風も気持ち良かった。それが3年前くらいに一部使われなくなって目の前のテニスコート何枚分かの広大な池がある日、水を抜いたまま戻らなくなりました。そのときにものすごい喪失感があったんですよね。ずーっとあると思っていたのに。
―心も浄化していたんですね。
大久保 うまい!(笑)
青野 今は草が生えているんです。このごろは慣れましたけれど、しばらくはなんてこったと思って。こういうものがすごく僕を癒していたんだなと、今そう聞かれて思い出しました。
大久保 僕は震災以降、テレビの仕事をほぼ辞めたんです。時間ができたころ福岡の母親が癌になって、〈 青春18きっぷ 〉を使って実家に帰っていました。緊急のことじゃないんで、〈行って来い〉を母親が亡くなるまで4年くらい続けました。途中2泊くらいしながら、鈍行列車で気に入った風景があると降りて、スマホで写真撮ってアップして。被災地にも18きっぷで行って。コロナでやれなくなってみると、いかにそれが贅沢なことかと。
青野 この人その後もずっと青春18きっぷで、どこまでも行っちゃうんです(笑)。
大久保 もう50歳前後でしたが、人生の中ですごくみずみずしいというか、初めての体験で。金かけてないけど、なんて贅沢なことがやれてたんだろう。誰の役にも立たなかったけど、自分にとってはかけがえがないなあと思っています。また始めますよ、もうすこし落ち着いたら。
青野 詳しいですよ、18きっぷの使い方と乗り継ぎ。それにめちゃくちゃ歩くらしいですよ。
大久保 10何キロとか。被災地は電車がなかったし、バスが一日に何本かしかないようなところは歩きますね。ヘトヘトになって。
青野 カプセルホテル、じゃなくてネットカフェに泊まる。
大久保 ネットカフェはどこにでもあるんですよ。3000円くらいで泊まれたりします。そしていろんな人が泊まっていて、取材感覚ではないですけどそういうところが性に合っています。僕は元々社会の上の方に縁もない人間なので。
―今井さんのところに集まるべくして集まったお2人という気がします。
大久保 影響は受けたんじゃないですかね。やっぱり。2人とも20代からですから。
青野 むちゃくちゃ影響受けていますよ。僕は「時々自動」の2大巨頭と言われている今井次郎さん、次郎さんのことを語っている朝比奈さんとの影響を。次郎さんが亡くなったときに「僕たちの長兄が亡くなった」と書いたんですけど、そういう感じですね。ファミリー。
―そういえる関わりって有難いことですね。
青野 有難いですね。なんで僕なんだろう?って思うときありましたけど(笑)。
―今井さんは音楽や絵の勉強をしたというわけではないですよね。
青野 特にはしてないです。
大久保 誰にも教わってません。一番好きだったのがビートルズだったんですよ。ビートルズと手塚治虫。小さいころ手塚プロに遊びに行って、手塚治虫のサインとかもらってきたりした。ビートルズは東芝EMIだったから、武道館公演のチケットが1枚だけ手に入ったんだそうです。で、お兄さんとじゃんけんして負けた。お兄さんは見たけど、今井さんは見てない。
青野 長女の和子さんは「次郎に見せてあげればよかった」と言ってました(笑)。
大久保 でもお兄さんは「いや、あれを見られなくてその悔しさで次郎がこうなった」と面白いこと言ってました(笑)。
今井さんは10代のときにビートルズがデビューしてどんどん進化する全盛期を見ているので、「一番新しくて前衛的なものが、一番売れることが普通にあることだと思ったんだよ。手塚治虫やビートルズを見てて」って言っていたのがすごく印象に残っています。
ビートルズの英語のフレーズは本当にいつも口ずさんでいましたね。
青野 子どもの頃の漫画なんかも、手塚まんまですよ。中学生のころ本気で描いた漫画の原稿が残っていて、ちゃんとペンで描いているんです。12,3歳ですけどそっくりです。
大久保 80年代のサブカルのジャンルともいろいろ繋がりがあって、田口トモロウさんとバンドやったり、マイナーな雑誌に漫画描いたりしていました。それぞれの時代を身にまとって最後ここに行きついたって感じがします。
青野 僕は次郎さんみたいなことは何にもできないけれど、次郎さんの影響は大きい。次郎さんがいたら何て言うんだろうなって考えますね。いつも考えます。
大久保 僕はちょっと離れたりしたんですけど、彼はほんとに近い。だから一緒にやってくれって頼んだんですけど。
―長編映画を公開するって初めてですよね。
青野・大久保 そうです。全く初めて。
青野 橋本さん無茶ですよね(笑)。
大久保 いやすごい大胆な人ですよ。自分がプロデューサーだったら絶対できない(笑)。
―映画は地方へ持っていけます。種を蒔くように観てもらって拡がっていくといいですね。
大久保 それはもうほんとにそうしたいです。
青野 たくさん人が入るというよりも、地方でかかるきっかけはあるといいなぁと思いますね。
大久保 きのう大林さん(ポポタム)とも話したんですけど、映画をきっかけに地方に今井さんを知った人ができたら、何年かに1回こういう展示がやれたらいいねぇ。そういうものであればいいのかなぁと。製作費の回収は必要ですから、映画の出だしはちゃんとやるとしても、これから息長く。
―いつ観なくちゃいけない、というよりいつ観ても幸せになれる映画だと思います。
青野・大久保 ありがとうございます。
青野 橋本さんが「今こんなに不要不急の映画はないんじゃない」って(笑)。
―何か作れとか、何かしろとか言われているわけじゃない。
大久保 誰にも何にも強制されていない。
―それこそ役に立たないかもしれないけど大切なものが残る映画ですよね。今井さんの押しつけない軽やかさがいいです。頑張れ!じゃない。
青野 「頑張れ!」っていう人じゃなかったですね。「好きなようにやろうぜ、やんなよ」という人。
大久保 とにかく音楽の好きな人、何かものを作りたい人に届けるというのが夢です。
―ありがとうございました。
=取材を終えて=
この映画で初めて知った今井次郎さん、生前に会えていたらどんなに楽しかったかと残念です。でも、今井さんが大切にした可愛い作品や美しい歌やミールアートなどが残っています。青野監督、大久保監督からたくさんの思い出話を伺いました。いそぎまとめましたが、今井さんの人となりをお伝えできたでしょうか? 今井さんの根底にはビートルズや手塚治虫がいた、と知りました。同世代の私にも大切な人たちです。
雨の寒い日でしたが、心ぽかぽかで帰路につきました。この記事はおすそ分け、ぜひ映画館で今井次郎さんに出逢ってください。もし抱えているものがあったら、軽くなります。Be Happy!
(取材・撮影 白石映子)
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