若松孝二監督が1983年に創立した名古屋のミニシアター「シネマスコーレ」。木全純治支配人を追ったメ~テレ(名古屋テレビ放送)ドキュメント「メ~テレドキュメント 復館 ~シネマとコロナ~」を映画化した『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』が2022年7月2日に新宿のK's cinemaで公開されるにあたって、記念のイベント「公開決起集会」が6月10日(金)にロフト9渋谷で行われた。当日は若松孝二監督、シネマスコーレゆかりの映画人がゲストで出演し多いに盛りあがった。シネマスコーレができたきっかけ、若松孝二監督と木全純治支配人の関係、シネマスコーレと新人監督、俳優さんとの関係、インディーズ作品はシネマスコーレからなど多岐に渡って興味深い話が出た。
「ミニシアター・シネマスコーレは来年、開館40周年を迎える。今まで幾度も苦境に立たされてきたシネマスコーレだったが、コロナ禍では休業をよぎなくされた。そのコロナ禍のシネマスコーレを追ったドキュメンタリー映画『シネマスコーレを解剖する。』が7月2日よりK's cinema で公開。それに向けて、改めて若松孝二とは、若松プロとは、シネマスコーレとは何かを考えたい。なぜ若松孝二は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』以降、あれほど映画を撮り続けられたのか?」というテーマの元、集まった人たち。若松孝二没後10年、シネマスコーレ開館39年のいま、若松孝二、シネマスコーレゆかりの映画人が集合。始まる前は人がまばらだったが満員になり、さらには追加の椅子も登場した。
映画紹介
シネマジャーナルHP
作品紹介『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』
『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』HP
第一部「若松プロを解剖する」
登場者
大西信満(俳優)
足立正生(脚本家・監督)
竹藤佳世(映画監督)
木全哲(若松プロ)
木全純治(「シネマスコーレ」支配人)
司会・井上淳一(脚本家・映画監督)
左から井上淳一さん、竹藤佳世さん、足立正生さん、大西信満さん、木全純治支配人、木全哲さん
最初に若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のメイキング映像が流されたあと、登壇者が、メイキング映像をめぐって若松孝二監督のこと、撮影中の話から始まった。
撮影中の若松監督の厳しさ、今だったらパワハラで訴えられてもおかしくない「最初から最後まで、コンプライアンスに引っかかるような内容しかない」なんて発言も。若松監督の作品に何回も出演し、一番怒鳴られていただろうという大西さんは「現在であれば、まちがいなく告発していますね」とも語る。メイキングを作った竹藤さんは「旅に出て3日目くらいから、じゃまだ、あっちいけ、帰れ!」ですからねと語る。そして長年、若松監督作品の脚本を担当してきた足立正生さんは「ゴミ箱に破いて捨てた僕が書いた脚本、もう一回書けっていうんだよ」なんて話が出た。
そして、若松監督が名古屋にシネマスコーレを作り、木全純治さんに支配人を依頼した時の話。木全さんは若いころ東京池袋にあった文芸坐(現新文芸坐)で働いたあと名古屋に帰っていた。1983年、若松監督が名古屋に映画館を作るにあたって、誰か任せられる人がいないか人づてに聞き、木全さんに電話したという。木全さんは知り合いではなかった若松監督から、突然電話が来て、シネマスコーレの支配人をやらないかと言われ引き受けたといういきさつを話した。シネマスコーレが開館したあとは、毎日売り上げを電話で若松さんに報告。それが約10年続き、そのあとはファックスで1週間ごとの報告になったといっていたけど、それはどなたかの後押しがあってのことだったらしい。それまでは毎日電話だったと話していた。びっくり。その後、社長が木全さんに変わった時の話も。そして2012年に若松監督が交通事故で死去。
今回、若松プロで映画修行をしていた息子の木全哲さんも出演し、こういう場での初めての親子出演となった。息子さんは10代の頃から若松プロで働いていたという。若松プロではなかなか続く人がいなかったようだけど、司会の井上さんは5年近く働いていたそう。今でいうパワハラがすごかったらしい。そして長年若松監督と仕事をしてきた足立さんが「よくもあんなひどいやつと、29年も一緒にやってこられたな。若松監督とは対照的なほんわかした雰囲気の木全さんだからやってこられたんだろう」と愛情こめた言葉。
第二部「『シネマスコーレを解剖する。』を解剖する」
登壇者
奥田瑛二(俳優)
片岡礼子(俳優)
根矢涼香(俳優)
久保山智夏(俳優)
松浦祐也(俳優)
司会・中村祐太郎(映画監督)
左から中村祐太郎さん、根矢涼香さん、奥田瑛二さん、片岡礼子さん、根矢涼香さん、松浦祐也さん
なぜシネマスコーレは映画ファンのみならず、あれだけ多くの映画人を引き寄せるのか?シネマスコーレは映画監督ならず、俳優の人たちも多くひきつけられている。なぜシネマスコーレに引き付けられるのかを語った。
奥田瑛二さんは「こういう映画は初めてみた。コロナ前の自分とコロナが過ぎたらこれまでの自分とは違う自分を見出すだろう。明日につなげてくれる映画を撮ってくれたなと思う」と語り、片岡さんは「ものすごくパワーをもらいました」、根矢さんは「映画館の名前を言って、支配人や副支配人の顔が浮かぶ映画館はシネマスコーレしかない。唯一無二の存在」と。久保山さんは「スナッククボチカと言って、俳優自身がたこ焼きを売ったり、イベントをやらせてもらえる映画館というのはあまりない」、松浦さんは「地方の映画館もこのコロナ禍で大変な苦労をしていると思います。この映画、地方の劇場を通していろいろなことを考えられると思います」と語った。
『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』スタッフ
村瀬プロデューサー「だんだん世の中尖っていたものがそぎ取られて丸くなっているというのが気持ち悪い。若松さんの声を蘇らせるのなら今しかないだろう、なー菅原と、菅原を巻き込んで、この作品を作りました。木全さんは、若松さんとはキャラが違うんで、最初はどうなるかと思ったんだけど、撮ってきた映像を観ると、木全さんがだんだん若松さんぽく見えてきた」と語り、菅原監督は「映画を通して、今のコロナ禍で息苦しさに立ち向かおうというのが見えてきて、いまだに若松監督の反骨精神が生きていると感じました」と語っていたのが印象的だった。
スタッフ
製作総指揮:村瀬史憲
監督:菅原竜太
音楽監督:村上祐美
撮影:水野孝
編集:本地亜星 田中博昭
音楽:松本恵
MA:犬飼小波
効果: 河合亮輔 ほか
シネマジャーナルHP 作品紹介コーナーにアップした、『シネマスコーレを解剖する。~コロナなんかぶっ飛ばせ~』にも書きましたが、私が木全純治さんと知り合ったのは1994年の第三回NAGOYAアジア文化交流祭でした。それ以降1996年に始まった「あいち国際女性映画祭」から名古屋に通っていますが、木全さんは1回目からこの「あいち国際女性映画祭」のディレクターでもあります。そして、大阪アジアン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭、東京国際映画祭など、各地の映画祭でも、アジアの作品が好きな私は木全さんとよく会います。この映画では、映画祭で観る顔とは違う映画館支配人としての木全さんの姿を見ることができました。
*参照記事
・シネマジャーナル本誌30号 (1994)
「張暖忻監督に会いに名古屋のアジア文化交流祭に行く」
・シネマジャーナル本誌31号 (1994)
「第三回NAGOYAアジア文化交流祭報告」
・このイベント第一部司会の井上淳一監督には『誰がために憲法はある』の時にインタビューしています。その記事は本誌102号に掲載。また表紙にもなっています。
また、シネマジャーナルHPでも紹介しています。
『誰がために憲法はある』井上淳一監督インタビュー(2019/4/9)
記事まとめ・写真 宮崎暁美
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