*プロフィール*
白羽弥仁(しらは みつひと)監督
1964年、兵庫県芦屋市生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒。1993年に公開された『She’s Rain』で劇場映画の監督デビュー。その後『能登の花ヨメ』(2008)、『劇場版 神戸在住』(2015)、 『ママ、ごはんまだ?』(2016)はサンセバスチャン国際映画祭、ヴィリニュス国際映画祭に正式出品された。以降も、『みとりし』(2019)、『あしやのきゅうしょく』(2022)と精力的に映画を撮り続けている。日本映画監督協会会員。讀賣テレビ番組審議委員。
中島弘象(なかしま こうしょう)原作者
1989年愛知県春日井市生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科国際関係学専攻博士前期課程修了。会社員として勤務するかたわら、名古屋市のフィリピンパブを中心に、在日フィリピン人について取材。講演、執筆、テレビやラジオなどの取材協力も多数行っている。著書に『フィリピンパブ嬢の社会学』(新潮新書 2017年)『フィリンピンパブ嬢の経済学』(新潮新書 2023年)がある。
『フィリピンパブ嬢の社会学』
大学院生の中島翔太は、フィリピンパブを研究対象にし、生まれて初めてパブを訪れる。取材に通ううちに、フィリピンの家族に送金を続け明るく逞しく働くミカと仲良くなった。フィリピンの家族にも紹介され、ますますミカを大切に思う翔太は、来日するため偽装結婚していたミカの事情を知り、こわごわヤクザの元に乗り込むことになった…。
https://mabuhay.jp/
★2024年2月17日(土)より全国順次公開
―白羽監督が原作を読まれて、映画にしたいと熱望されたと伺いました。映画化が決まってクランクインされるまで、どのくらいかかりましたか?
監督 4年かかりました。2018年に原作を読んで、すぐに原作の中島さんに連絡を取って、2022年に撮影にこぎつけました。今回はこれまで組んだことのなかった三谷さんがプロデューサーです。私も(映画界に)30年いるので、三谷さんにもどこかで会っているんです。撮影とか照明とかのスタッフは、やっぱり今まで自分とやったことのある方ですね。
―前の2本は監督が脚本も書かれていましたね。今回は大河内聡さんです。
監督 はい。大河内さんと付き合いは10年以上になるのかな。名古屋にも来たもんね?(中島さんへ)
奥さんがカンボジア人なんですよ。それでどうだ?と言ったら「カンボジア人はフィリピン人より真面目です」なんて(笑)。原作を読んでいるから「(フィリピン人のように)バイタリティがあって、ガーンと来るタイプじゃないんだ」と。そういう国際結婚をしていて、いろんな苦労があるだろうから、ニュアンスは僕よりわかるだろうということで。
―中島さんは映画化のお話を聞いていかがでしたか。
中島 いろんな話はあったんですよ。ドラマとか漫画を描きたいとか、映画は白羽監督だけでした。話が来てもやらないということが多かったんで「やるんかなぁ?」って感じで。でもやるんだったらお付き合いしますよ、と監督にはお話しました。
―「フィリピンパブ嬢の社会学」を読みました。中にドラマがいっぱい詰まっているので、これは映画にしたいだろうなと思いました。ラブストーリーにもできるし、社会派ドラマにもできるし、いい原作を見つけられましたね。で、キャストが重要ですよね。主人公のお二人は似た感じの方を探されたんですか?
監督 いや、そんなつもりは毛頭なくて、ものまねショーではないので。たとえばものすごく有名な人物の映画化だったらそれは考えなくちゃいけないけども、そういうわけではないので。映画に出てもらって絵になる動きをしてもらう、ということを前提にオーディションしました。
―前田航基さん、一宮レイゼルさんに決めたのは?
監督 前田くんについて言えば…。この映画はラブストーリーだけども、アクション映画にしたかったんですね。走ったり転んだり、あるいは階段から落ちたり、というアクションで見せていきたいなと思っていました。あの体型で女の子にバチーンと叩かれたり、転げ落ちたりするのは絵としては面白いだろうと。いろんな意味でカッコ悪いところをさらけ出したりする映画なんです。前田くんは大阪だし、ニコニコしているだけで面白そうな感じ。
映画を撮っててわかったんですけど、フィリピンパブに入って女の子がダーッといるのを見たとき、あの子の目が泳ぐんですよ(笑)。あの驚きようと目の動きはほんと良かったです。
―それは前田くんがほんとに初めてだったから自然に。
監督 おそらくそうだと思います、その素直さが出たんですね。
レイゼルさんはオーディションで、もう何百人見た中の最後の最後だった。名古屋、東京とオーディションして、みんな「帯に短し、たすきに長し」で、もうプロデューサーも助監督も「フィリピンに探しに行こうか」と言ってたところに彼女が来た。
―まあ、ドラマチック!
監督 そうなんですよ。とりあえず台本読んでやってみて、というと非常に適応能力があった。全員一致でしたね。
―レイゼルさんは映画のオーディションを初めて受けたんですね。
監督 もともとはモデルですし、東京の人でもないです。金沢から来てました。
家族ともども、10歳のときに来日した生粋のフィリピン人です。
―日本で育っているので、日本語は流ちょうですよね。金沢弁が出るくらい?
監督 そこは加減してやりました。ただね、あの人緊張するとセリフがガタガタするので、ちょうどよかった(笑)。僕は金沢や能登で映画を作っているので、金沢弁や能登弁を知っているんですけど、彼女はどうも東北っぽい訛りがあるんですよ。語尾の上り下がりが違うので、直すのが大変でした。
―中島さんは主人公役のお二人にいつ会われたんでしょう?
中島 撮影の前日ですね。初めて会ったときは僕の妻“リアル”ミカと(笑)一緒に。お見合いみたいな感じになっていましたね。監督が言われたようにものまねではないので、前田さんとレイゼルさんが自分たちの世界を作ってくれればいいと思っていました。でもやっぱり(僕たちを)元にやっていただくので、お互いになんか変な感じでした(笑)。「僕たちのことでいいんですか?」向こうも「僕たちでいいんですか?」みたいな(笑)。そこを監督はニヤニヤ笑って見ている。
―2022年のクランクインのとき、コロナのほうは?
中島 8月30日でした。
監督 まだコロナ禍中で、みんなマスクして本番のときだけ外して、またマスクして。
―ロケはほとんど春日井ですか?あとフィリピン。
監督 名古屋、春日井で2週間、フィリピン4日ですね。フィリピンのコーディネイトは行ったり来たりしてやって、事実上はこの人(中島さん)が。
中島 原作者ではなかなかいないと言われたんですが、全日程付いて行って。3日目くらいから「会社どうですか?大丈夫なんですか?」って心配されました。フィリピンでは現地の方と監督の簡単な通訳とかもやりました。
―フィリピンのロケの時に出てくる方々はご親戚…?
監督 ご親戚です。レイゼルさんのホントの親戚です。従妹だったり…
―あら~、すぐ集まるもんなんですか?
監督 すぐ集まるんです。フィリピンに行ったら気づくんですけど、普通のおうちにお邪魔しても「あんた誰だっけ?」という人がいるんですよ、必ず(笑)。遠い親戚だったりするんですが。これは関西で言う「いけいけ」、「別に、みんなファミリーじゃん?」っていう感じなんですね。だからレイゼルさんもフィリピンに帰ったのが久しぶりだったみたいで、撮影が始まる前の日に里帰りしたんですが、そのときお土産を配っちゃったんですって。映画のシーンで使うので「回収してくれ!」(笑)。カップラーメン開けないでくれてよかった。もう一度親戚の皆さんに集まっていただいて、お土産をまた配った(笑)。
―映画とおんなじなんですね。知らない人まで並んじゃったりするんでしょうか。
監督 あ、あるかもしれないですよ。あのね、撮影やっていると物売りが来るんですよ。天秤棒かついで、(中島さんへ)「あの白いの何て言うの?」
中島 「タホ」。豆腐に黒蜜をかけてあるもので、朝ごはんに食べたりします。
監督 それを現場に売りに来るんですよ。甘くておいしいんです。そういうところ非常におおらかです。
中島 日本みたいに境目がない。低い、というか。「何かやってるから行ってみよう~」って。
―敷居高いどころか、ない? 家には敷居あります?
中島 ありますよ。防犯上は日本よりすごいしっかりしていますけども、フレンドリーです。バイクタクシーの人も、その場で(撮影を)お願いして、行き帰り走ってもらいました。
監督 「トライシクル」というんですが、荷物と人間の境目がないというか、なんでも乗せる。2人が乗っているじゃないですか、僕とカメラマンはここ(その前)、4人乗って運転手さんがいるから5人。
―それでも走るんですか。すごい。
フィリピンの作品は最近映画祭などで入ってきますが、こちらから向こうに行って映画を撮るのにご苦労はなかったですか?
監督 一番困ったのは撮影許可がおりないことでした。後でわかったのは街のボスみたいな人に挨拶しておけばいいんだと、それは学習しましたね。第2弾があれば中島さんが挨拶に行ってくれるらしい(笑)。
中島 え~!(笑)
―原作にかなり忠実でした。愛のためとはいえ、ヤクザさんと話をつけにいくのは怖いですよね。
中島 「ホンモノの人」って独特の空気があるんですよね。初めは優しそうにしていたけど、牙を見せるみたいな。あれはなんとも言えないですね。
もめごとに入っていったら、素人も何もないですよ。だけど、彼らも上がいて、上にばれたくないから自分たちで何とか解決しようと思ってやっていた、ってことに後で気づきました。
監督 そこのところを映画で説明するには、ちょっと長ったらしかった。ややこしかったんで、ああいう風にしたんです。
―私も本を読んで、こんなにややこしい話だったんだとわかりました。人がいっぱいで誰がだれやらわかんなくなりまして(笑)。
中島 あれはちょっと映画だと…
監督 原作のほうが登場人物多いんです。それこそ配信のドラマみたいに長くやれればいいんですけど。映画は人を少なくしてあります。
―わかりやすかったです。そして良かったのは、二人が途中で別れたりせずきちんと結婚して。
監督 途中で大喧嘩はいっぱいあるよね。
中島 いやもう、喧嘩しかないですよ。ふりかえってみれば。(笑)
―「感謝しかないです」じゃなく「喧嘩しかない」?(笑)
中島 いがみあってますよ。(笑)
―文化の衝突ですね。
中島 「文化の衝突」といえば聞こえはいいですけど、夫婦ってそんなもんじゃないですか。
―(話を振られて)目が泳ぐ…。
中島 いいときも悪いときもあって、「雨降って地固まる」みたいな感じですよ。
―結婚なさって何年になりましたか?
中島 2015年なので、8年くらいです。
―お子さんの写真がありました。
中島 子どもは二人で、あと6月に生まれます。まだ早いって言いながら、結婚1年で本を出して、そこから就職したり、毎年毎年常に新しいことをやってきたりで、まだ8年かという感じはあります。もっと長かったなという気がします。
―中身がつまって濃い日々だったんですね。
中島 監督とこうやって出逢って感謝しているのは「自分の知らないところに監督に連れて行ってもらえていること」。新しい発見ばかりじゃないですか。会社勤めして8年もやっていたら、大体惰性でやれることが多くなります。
監督と出逢ってからは「そんなことやるんですか!?」と思いながらも、やってみたら「あ、できますね。なんとかなるもんですね」(笑)。結婚してから8年間、ずっとこの言葉の通りです。
―私もミカさんが「いつも笑顔でハッピーなほうに考える」のを観ていて、いいなぁと思いました。日本人って、こうポジティブに考えず、つい心配が先に立ってしまいませんか(私だけではないはず)。
監督 まだ起こってもいない悪いほうに考える。
―なんででしょうね。A型多いから?(笑)
監督 いや、社会がそうなってきましたね、この30年40年。日本がどんどん貧しくなってる証拠だと思うんですよ、それが。それこそ80年代までは浮かれてたわけですよ。もっと言うとこのままこれが続いて、日本はニューヨーク中のビルを買いあさってしまうんじゃないか!?というのが、ドーンと下がったじゃないですか。そういうのが今の日本を小さくしていると思いますね。
―はい。それに上の人のいう事をよく聞きますよね。もめごと嫌いだし(これは自分でした)。
監督 よく聞くというより他人任せ。政治にしてもなんにしても、参加しないで文句を言う。
―SNSができて匿名性が上がってからその傾向が強くなったと思います。
監督 そうですね。自分のせいじゃなく、人のせい。社会が悪い、自分が貧しいのも辛いのも社会が悪い。それは違うんじゃないの?この映画はその点では主体性を持った二人の男女が…まあこの先幸せになるかどうかは別として…
―あ、そんな。ね?(と中島さんへ)
監督 映画、「映画の中」ですよ!(中島さん爆笑)
それでもなんとかなるんじゃないの?って行くところがね、僕からの一つのメッセージです。
―中島さんもそうですか?観客に掬い取ってほしい、感じてほしいこと。
中島 そうですね、心配ごとが多いから、外国人とかに責任を押し付けたい。治安が悪いとか、そういうことで外国人はちょっと…という。そうひとくくりにする人多いじゃないですか。人間だから合う人、合わない人はいます。それを例えば「あの人はフィリピン人だから」とかいうのでなくその人を見てほしい。
―違うからわからない、だからわかろうというほうへ行くといいですね。
監督 この映画ができたこともそうなんですけど、世の中いい風には変わってきていると僕は思います。多文化に関していうと、意識はずいぶん変わってきました。ダルデンヌ兄弟の映画とか、フランスの映画とか観ると、あっちのほうが移民に対する排他意識がもっときつい。宗教が違うからなんだけども。
その点でいうと、日本は少しずつだけれども変わっています。一番は人口減少社会ということがあるから、一緒にやっていかなきゃ産業が回らない。背に腹は代えられない大前提があるにせよね。
中島 身近に外国人が増えましたね。僕の場合は家族ですが、いつも行くコンビニでも働いている人がいます。触れ合える機会が増えたっていうことじゃないですかね。監督から声かけていただいたときに、「日本映画にコンビニのシーンがあっても、店員は絶対日本人なんだよ。外国人の店員がいてもおかしくないのに。そういうところを変えたいんだ」と聞いて、そうだなと思って。
監督 東京を舞台にした映画やドラマにしても、全然そういう外国の人が出てこない。出て来ても、脇役か、そこにポンといるだけでパーソナリティはないわけです。それはもうね、何を見とるんだ、と。たとえばコンビニで働くセネガル人と、孤独な日本の女の子が恋に落ちる話があっていいはずなんです。だけど、こっち側(外国人)のパーソナリティは無視。表現の世界においては、そのへんはまだまだ。僕は今回、どうしてもそこはやりたいと思った。
―この映画はもっと早く出て来てほしかったです。
監督 4年かかりました(笑)。ただ、この間に社会も変わったんですよ。タイムリーだったと思います。
―パブに縁はなかったですし、知らないことばかりでした。あんなに働いて手元にわずかしか残らないのも、故郷の人たちにこの苦労を知ってほしいと思いました。フィリピンで上映はしないんですか?
監督 します!しなきゃいけません。未定ですが、プロデューサーが折衝中です。
―良かった~!こっちで頑張っている人が報われると思うんです。
監督 フィリピンに限らず、ベトナムやいろんなアジア圏でそれができればいいなと思います。
―これ、とっても勉強になりました。観客の社会学ですよね。次、経済学も待っております。
監督・中島 (笑)
―いろんなことがいっぱい詰め込まれた作品でしたが、とても繊細でもある。作るにあたって監督が気遣われたところは?
監督 原作は、全て中島さんから見た世界で、ミカさん側からではないんです。映画にするにあたってはそうでなく、ミカさん、フィリピンのみなさんから見た世界も加える、と。あるいはフィリピンのみなさんが日本でどういう風に生活しているかという部分を入れたかった。ショッピングモールで買い物したり、デートしたり、望まない妊娠の問題があったりという、原作にはない場面も入れました。
―それはやっぱり、フィリピン人の方々にリサーチされたんですね。
監督 あのね、この人(中島さん)に連れていってもらったんです。フィリピンパブに脚本の大河内もみんなで。
―監督も初めてで? (中島さんへ)目が泳ぎました?
中島 泳いでました(笑)
監督 初めて私の横についたフィリピン人のホステスが、タブレットを持って来て「ちょっと見て、これ私の子ども」って言うんですよ。
「旦那は?」「どこにいるかわかんないです」って。
―旦那さまは日本人ですか?
監督 日本人です。赤ちゃんは「フィリピンに帰って産んで預けてきた」って言うから、それをそのまま映画の中に持ってきました。
―日本のホステスさんだったら子どもがいるとは言わないでしょうね。
監督 そう。そのくらいあけすけだったし、「その上で」っていうのもあるかもしれないけど、銀座のホステスさんとは違うパンチ力がありましたね。
中島 それがまたいい、っていう人もあるんですよ。包み隠さずに言ってくれるのは彼女たちのプライドですよね。その人が好きになって付き合うこともあるし、あとから「え!」ってこともあるとは思うんですけど。苦労しても苦労って言わないで、頑張るしかないって。
―あの心の広さ、バイタリティはすごいです。
監督 国がもっと過酷だっていうことです。そこに比べればってことです。1万円、2万円稼げば、それはフィリピンで何十倍もの価値になる。一方で、この先経済成長でどんどん変わっていくはずなんですよ。日本人が見下しているかもしれない人たちと、今度は逆になるぞと考えないと。いずれ日本人は、もうすでにそうですけど、出稼ぎに行ってるわけじゃないですか。こんな円安で。逆転する社会があるかもしれない。
―この映画はちゃんと社会を写しているけれども、全然説教臭くない。
監督・中島 娯楽映画です。
―可哀想がってるわけでもないし、このキャラクターにすごく救われました。
監督 前田くんいいんですよ、ニコニコして。
―『奇跡』から観ているので、お兄ちゃんの前田くんを観るのが楽しみでした。ミカさんも良かったです。
お母さんが強硬に反対するので、自分だったらどうするかと思いながら観てしまいました。エンドロールにお母さんの写真が出てきますね。
中島 「経済学」のほうも読んでもらうと、母が大活躍。
監督 名古屋の劇場にも、お母さんしょっちゅう来てたね。
中島 来てましたね。
―味方になると母親は強いです。
監督 あと、それこそ孫の顔ですよね。孫の顔見たらってことです。経験ないけど(笑)。
―そうなんですか、なんでも経験ですよ(笑)、経験しないとわかんないこといっぱいありますよね。
中島さんも、大学で研究しなかったら、こちらの人生には来なかったし、奥さんに会わなかったし。
中島 そうですねぇ。出会ってわかろう、としなかったらないですね。
出会った人はいっぱいいたんですけど、一歩先へ踏み出したのは僕だけだった。
―何かに踏み出すときのお話って面白いですよね。(監督になろうと踏み出すきっかけは後述)
お二人はどのくらいお年の差がありますか?
監督 だいぶ違いますよ、僕は59です。
中島 僕は35です。父が59か60です。
監督 じゃあ親子くらいなんだ。でも僕にとっては「先生」なので。
中島 いえいえ。
―こうやって年の離れた人もお仲間になって。
監督 三谷プロデューサーもそうですけど、周りの関係者がほとんど年下になりましたね。ずっと若手だと思っていたのに、気が付けば最年長。
中島 でも僕からしてみたら大先輩の方々に学べる貴重な機会です。
―これまで関わらなかった映画の世界ですもんね。
中島 これがきっかけで将来何が起こるかわからないですよね。だから何でもやってみるっていう、できるだけ多くのいろんな世界に気づくっていうことがとても大事だなって思います。
―映画に関わったことで、ほかの映画の観方が変わりませんか?
中島 変わりますね。
監督 こんなに大変か、と。
中島 大変だとか、このシーンどのくらい撮ったんだろう。この角度もこの角度もあるとか(笑)。
―制作側の目になるわけですね。(そろそろ時間)
では最後のシメに、続編の「経済学」のほうを期待してよろしいでしょうか?
監督 どうしましょうね、春日井にお金持ちが・・・
中島 春日井以外の地域で撮っても面白いですね。
―場所を引っ越す? 芦屋どうですか?お金持ちいます。
監督 いや、芦屋じゃ成立しない、この話は(笑)。
中島 東海3県あたりで。
監督 岐阜、岐阜でやろうよ。あの美濃加茂市で。
中島 美濃加茂市長さん。
監督 この映画を激賞してくださったんです。
―それは嬉しいですね、ぜひ実現しますように。
今日はありがとうございました。
(取材・写真:白石映子)
=映画少年と大森一樹監督=
―監督が映画監督になろうと踏み出すときのお話もちょっとだけ聞かせてください。
監督 それはもうね、大学は日大なので初めっから。芸術学部演劇科でした。
―そちらに行こうと思ったきっかけは何でしたか?映画とか出会いとか。
監督 一昨年大森一樹さんが亡くなられましたね。(監督・脚本家/1952ー2022年11月12日)
僕が中2のとき、大森さんが25歳でデビューされた『オレンジロード急行』(1978)という作品があったんですよ。当時とても不遇だった鈴木清順監督(1923-2017)が、10年ぶりの映画『悲愁物語』を撮っていて、その両方に原田芳雄(1940ー2011)さんが出ているんです。僕は神戸なんですが、中学2年生のときに神戸の映画館の催しで大森一樹、鈴木清順、原田芳雄が対談するって企画があったんです。
―今考えるとすごい豪華ですね。
監督 豪華なんです。中学2年生でいそいそとそこへ行って、2本映画を観て、原田芳雄を観てすっかり吸い込まれました。それまで洋画ばっかり観ていたので、こんなに両極端な日本映画…鈴木清順のとてもわけのわからない映画、大森一樹の軽やかで洋画のタッチの映画…それを見たときに、そこへ入っていけそうな気がしたのかな。そこからですね、自分も自主製作を始めました。で、大学で16ミリ映画を撮って。
―『オレンジロード急行』と『悲愁物語』を中学生で観た。中2?中二病?(笑)
監督 ある種の「中二病」ですね。思い込みの強さで。
―幸せですね。そういうものに出会って。
監督 私はそうかもしれないけど、周りは不幸だったかもしれないですね。
―親が期待したほうに行かなかった、と。
監督 そういうことですね。まあだいたいそうでしょ? みんな「息子が映画監督?!よし、やりなさい!」なんて言う?ありますか、そんな。
―食えないだろうと思っちゃいますね。
監督 わけがわからないですよね。
―やっぱりお父さんお母さんの知らないところで、守備範囲から外れていますし。
監督 この人(中島さん)もそうですよ(笑)。
―外れた息子同士のお二人で(笑)。後もう少し続きを。
監督 大森さんが東京の映画監督でなく、神戸にいながら映画監督になったっていう、これが大きいです。東京に行って、立派な大学出て、助監督になってということではなくてもと。(京都府立医科大学に在学中から自主映画を撮り、助監督経験なしに『オレンジロード急行』で商業映画デビュー)
―大森監督は「心の師匠」みたいな?実際に師事したりは?
監督 兄貴分でした。現場についたりしたことはないですけれども、付き合いは長かった。この映画のエンドロールで「スペシャルサンクス 大森一樹」って入れているんです。
―見逃しました。も一回観ます。
監督 というのは、大森さんは大阪芸大の映像学科の学科長で、機材をこの映画のためにお借りしたんです。フィリピンのマニラでロケしているときに電話がかかってきて、こっちは撮影中でものすごく忙しいときだったんで、「はい!頑張っていまーす!」くらいで切っちゃったんですね。それが最後の電話になってしまって、それは非常に後悔しています。まさか、そんな亡くなると思わなくて。
これの前に撮った映画『あしやのきゅうしょく』のときは、大森さん「うちから一番近い撮影現場だ」って言って毎日来ていました。ちょっとうざいくらい(笑)。春休みでしたし。
「次、どこ行くんや?」って言うから、もうスケジュール渡して(笑)。
―まあ。意見を言うわけでなく、見ているんですか?
監督 言うんですよ(笑)。あれ、子どもの映画なんですが、
「あの子は目線が外れてる」。
「素人の子どもに目線とか言わないで下さいよ。意識したほうが硬くなるから」って反論しました。
そしたらもうずっとモニターの前にいるんですよ。座っているのをどけとも言えないし(笑)。
―現場が楽しかったんでしょうね。
監督 僕もそういうのがとても嬉しかったです。1978年の中学2年生がこうやって一緒に現場にいて、「やめてください!」って言ってる漫才みたいな関係がね。想像もつかなかったですね。
―なんて幸せなつながり!
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