『OKAは手ぶらでやってくる』 牧田敬祐(けいゆう)監督インタビュー

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*プロフィール*1958年生まれ。主に近畿地方の民俗行事や芸能の記録映像を監督。注力する「NPO法人映像記録」では市民活動やNGOを映像で支援している。本作はこの活動から誕生し、東京ドキュメンタリー映画祭2024でグランプリを受賞した。

*ストーリー* OKAこと栗本英世(くりもとひでよ)は、1985年から東南アジアで「ひとりNGO」として活躍した。人身売買や地雷の危険にさらされた人々を支援し、カンボジア各地に子どものための寺子屋を作り、2022年71歳で亡くなった。牧田監督は約15年にわたり、彼のそばで撮影を続けてきた。(OKAはカンボジアでチャンスの意味)

HP  https://www.haising.jp/movie-1/
(C)2024 NPO法人映像記録/ウェストサイドプロダクツ
作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/515063836.html
★2025年5月10日(土)より新宿K'sシネマにて公開中、ほか全国順次公開

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―このドキュメンタリーを観るまで、OKAさんのことを知りませんでした。誰もしなかったことを、長い間一人で続けていたのに、知らなくってごめんなさいという感じです。

あまり知られていないんです。よくマスコミに登場していたのは、2000年~2006年くらいの間です。テレビ出演などもしていました。それ以降は病気であまり顔を出していないので、見つけにくかったかもしれません。

―ネットで検索して読んだのはそのころの記事でした。監督はどういう経緯でOKAさんに出逢われたんですか?

私は「NPO法人映像記録」というのを2000年くらいからやっています。NGOや市民の方々の活動などを空いた時間を使って応援しようじゃないかというグループなんです。
OKAさんを最初に知ったのは、「キッズ・ゲルニカ」というピカソの名画ゲルニカにちなんだ活動の取材です。日本や世界各地で子どもが同じサイズの平和の絵を描き、最終的にネパールのカトマンズからヒマラヤの風に乗って世界に平和を呼びかけるプロジェクトです。その「キッズゲルニカ」で、カンボジアで子どもたちに指導したのが彼でした。初めはカメラマンだけが行って、私はその後でした。

―そのときのOKAさんの印象はいかがでしたか?

2000年ころに初めて会いましたが、想像していた「善人」とちょっと違ったんですよ。「あやしいオッサン」だったんです。いきなりタイを中心にした人身売買や臓器売買、地上げやマネーロンダリングの話などをするんですよ。まるで当事者のように次々と喋りまくる。地雷の村に寺子屋を建て、子どもたちに識字教育をしているやさしいボランティアのイメージからは程遠かったですね。普通の善人ではないなあというところが魅力でもありました。この人の心の奥には、いったい何があるんだろう?命がけなことも厭わない情熱はどこからくるんだろう?とボランティア活動のことよりそっちに興味がわいて根掘り葉掘り聞き出しました。

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―子供の頃からとてもご苦労された方のようですね。

映像の中で話していますが、極貧の家庭で育って、家族のことでとても辛い思いをしています。それで教会が心のよりどころになりました。中学を出ると牧師を志して上京しますが、幸運なことに留学の機会を得ました。千代田区にある富士見町教会の高名な島村亀鶴牧師に見出されて、台湾の大学に留学しました。ここで中国語を学んで、中国大陸にも行っています。禁止されていた本を持ち込んだりしたそうで、これはなかなか危険なことだったんですよ。

―ドラマチックな人生でご苦労もあるけれど、助けてくれる方がちゃんと現われるんですね。

帰国後は神学校に学びますが、純粋すぎる彼は学校とうまくいきません。やがて牧師になることにも教会にも背を向けてしまいます。

―イエス様はいいけれど、組織がいやになったということでしょうか。

そうですね。マザーテレサをずっと尊敬していました。1985年には一人で東南アジアに飛び出して、ミャンマー、タイ、ラオスの国境地帯をバイクで回ります。貧しさのために売られる子どもがいることに驚きます。そんな子どもたちを救いたいと奔走しますが、親が絶対的権限を持っているので、「親がいる子どもは救えない」というジレンマに苦しむことになりました。皮肉ですよね。何もできない自分を責め続けた挙げ句、一旦活動を停止し、バンコクでビジネスを立上げました。これが大成功しました。しかし、それは目指すところではないとすべて放り出して、裸一貫でラオスに入って活動を再開します。

―それは残しておいて、資金のために使えばよかったのにと思ってしまいますが。余分に持ちたくないんでしょうね。

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1996年からはカンボジアで孤児のために「子どもの家」を、1999年から地雷原の村で村人とともに地雷を掘り出し、「寺子屋」を作るという活動を各地で展開しました。ポルポト政権のときに、お寺や学校が破壊されて、知識人、先生も生徒もたくさん殺されてしまいました。ですから子どもたちの親の世代は教育の機会も場所もなくて、文字の読み書きができません。それで識字教育を始めています。

難民は生産手段がないので、困ると子どもを物乞いに出したり、売ってしまったりします。
町に公立の学校はあっても、タダではなくお金はかかから子どもを行かせられない。そういうところへOKAさんは手ぶらで行って、指笛を吹いたり歌ったりして、集まった子どもたちに寺子屋においでと誘います。

―日本でもカンボジアでも子どもたちに大人気でしたね。

子どもが喜びそうなことを見つけて練習して、なんでもやるんです。
OKAさんテキヤさんをやったことがあるんですよ。寅さんみたいに口上を言ってものを売る。西瓜売りとか。その口上がとても上手なんです。

―啖呵売’(たんかばい)ですね。それは聞いてみたかった。日本から飛び出したけれど、たまに帰られたみたいですが。

活動資金を集めるためにたびたび日本に帰ってきて、アルバイトや講演をしていました。講演会などでカンボジアの状況を話して支援をお願いする。小学校には支援者さんが作ってくださった腹話術の人形を使って子どもたちと会話して喜ばれています。そういのも習うのでなく、自分で面白くなるよう工夫するんです。すごく芸達者な人なんです。

―この寺子屋は風通しがよさそうです。人も出入りしやすいし、誰でも受け入れてくれそう。

カンボジアではお寺がコミュニティセンターです。人が集まります。OKAさんは誰でも出入りできて、勉強もできる「寺子屋」をいくつも作りました。掘っ立て小屋ですが、みんなで作ったので壊れても自分たちで直せます。お金をかけてプロの人につくってもらうと、何かあってもまたお金がかかります。
彼は子どものころ厳しい境遇で育って、教会だけが安全で安らげる場所でした。それと同じように、子どもたちを守れる、子どもたちが安心できる寺子屋=シェルターを作ったんですね。

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―寺子屋はOKAさんが蒔いた種のようなもので、今はそこが学校になって花開いたということですね。こんなに大事なことなのに行政からの公的支援はなかったんですか?

行政の支援はありません。それどころか州警察から逮捕状が出たりしていやがらせされていました。地雷がまだ埋まっている土地があちこちにあって危険なので、OKAさんたちは探知機を使って地雷を見つけては手で掘り出していたんです。逮捕状が出たのは危ないからでなく、民間人がそうやって掘り起こして地雷がなくなると、海外からの援助もなくなるからです。

―それは資料で読んだ「慈悲魔(じひま)」みたいですね。国が!?
(“慈悲魔”とは慈悲の情につけこんで入り込む魔。善悪の判断も狂わせる。金品に頼るようになり、親が子どもを痩せ細らせたり、傷つけたりして物乞いに使う)

そうなんです。OKAさんは「カンボジアという国は“慈悲魔”に陥っている」と言っていました。行政の援助もなし、組織も作らず、支援してくれる方、ボランティアの方々はたくさんいますが、基本的に一人で動いていました。

―OKAさんのいい話がいっぱいありそうです。

OKAさんって寝ないんですよ。入院したときは別にして、眠っているところを観たことがありません。いつも陽気で、動いていて、歌っているか喋っているか。ボランティアスタッフがね、OKAさんが出かけると歌本を隠すんだそうです。あると歌本の一番初めから終わりまで、知っている歌を次々と歌って止めないから。
支援者の方から伺った話ですいただいた支援金で普通は学用品などを買いますよね。OKAさんは木を買って植えました。カンボジアは暑いので、子どもたちに木陰を作ってあげたいって。その木は大きくなって子どもを日差しから守っています。

―まあ、いいお話ですね!
病気になられてからのシーンも必要ですよね。監督も撮っていて辛かったでしょう。


先に脳腫瘍が見つかり、回復したんですがその後認知症の症状も出てきました。カンボジアに行きたかったんでしょうね。いつのまにか僕の車に乗っていて、「カンボジアに行きます」と言ったことがありました。認知症が進んでからはコミュニケーションを取れなくなりましたし、入院後はそれまでのように会えなくなりました。

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牧田監督とシネジャ(宣伝さん撮影)

―ドキュメンタリーを作ることについて、何かおっしゃいましたか?

「いつでもなんでも撮っていい」と言ってくれて、いっさい要求はなかったです。映画を完成させる約束をしていましたが、間に合わなくて申し訳なかったです。撮りためていたのをときどき見せてはいました。施設にお見舞いに行ったときDVDを持っているのが映っています。あのときのOKAさんは髪の毛は真っ白になっているし、急に年取ったみたいで辛かったです。

―OKAさんを15年間も撮り続けて来られて、この作品ができました。

最初に会ったときから変わらない人でした。とっても魅力的で、知れば知るほど大好きになっていきました。OKAさんがいなくなって、肉親を亡くしたように寂しいです。
「どんな形でまとめたらええんや?」と悩んだりもしましたが、映画にOKAさんを残せて良かった。これでOKAさんを知ってもらえます。OKAさんのぬくもりが伝わっていけば、幸せです。
OKAさんの志を受け継いで現地にいるスタッフと相談して、村々を回ってこの映画の上映会をする計画があります。映画キャラバンです。向こうで上映するには吹き替えも必要ですし、移動の経費もかかります。どうぞ応援をよろしくお願いいたします。
(まとめ・撮影:白石映子)


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