『黒川の女たち』松原文枝監督インタビュー

2025年7月12日(土)からユーロスペース、新宿ピカデリー、池袋シネマ・ロサ、キノシネマ 立川髙島屋S.C.館、MOVIX昭島、CINEMA Chupki TABATAで公開 その他劇場公開情報 

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80年以上前の戦時下、国策の満蒙開拓により満州に渡った岐阜県白川の黒川開拓団員は650人余。5年満州で生活した。日本の敗戦が色濃くなる中、1945年8月9日ソ連軍が突然満洲に侵攻。守ってくれるはずの関東軍はすでに去り、満蒙開拓団は過酷な状況に。集団自決した開拓団や、避難する途中で亡くなった人も。
敗戦後はソ連兵や、抑圧してきた中国人から襲撃を受け、黒川開拓団は日本に帰るため敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは女性たちによる接待だった。差し出された女性は15人。数えで18歳以上の未婚女性が犠牲になり性の相手をさせられた。そして4人の乙女たちが亡くなった。
性接待の犠牲を払ったが、敗戦から1年、黒川開拓団の人々は451人が帰国できた。しかし、帰国した女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目、そして誹謗中傷。同情から口を塞ぐ人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。二重の苦しみに追い込まれ、故郷を離れ他の土地で酪農を始めたり、東京に行った人も。それぞれ思いを抱えていたが、その思いを口にすることなく、時に、犠牲にあった女性たちのみで集まり、涙をこぼした。
だが、黒川の女性たちは、犠牲の史実を封印させないため「なかったことにはできない」と手を携えた。2013年に満蒙開拓平和記念館で行われた「語り部の会」で、佐藤ハルエさんと安江善子さんが、満州で性暴力にあったことを公の場で語った。彼女たちの勇気ある告白に、今度は、世代を超えて女性たちが連帯した。
その後、1982年、黒川の鎮守の森に「乙女の碑」が建てられたが、お地蔵さんが鎮座するだけで説明はなかった。戦後70余年、2018年に、彼女たちの犠牲を史実として残す碑文が「乙女の碑」の脇に建てられ、その歴史が刻まれた。過去に向き合うこと、それは尊厳の回復にもつながった。

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(c)テレビ朝日(場面写真クレジット)
『黒川の女たち』公式サイト 
監督:松原文枝
語り:大竹しのぶ
製作:テレビ朝日
配給:太秦
2025/日本/99分/ドキュメンタリー

松原文枝監督プロフィール 公式HPより
1991年テレビ朝日入社。政治部・経済部記者。「ニュースステーション」、「報道ステーション」ディレクター。政治、選挙、憲法、エネルギー政策などを中心に報道。
2012年にチーフプロデューサー。経済部長を経て現在イベント戦略担当部長。2019年からイベント事業局戦略担当部長。
「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞。「黒川の女たち」のベースとなった「史実刻む」(2019)がUS国際フィルム・ビデオ祭で銀賞。
ドキュメンタリー番組「ハマのドン」(2021、22)でテレメンタリー年度最優秀賞、放送人グランプリ優秀賞、World Media Festival銀賞など。
映画『ハマのドン』がキネマ旬報文化映画ベスト・テン第3位。
著書に「ハマのドン」(集英社新書)。

松原文枝監督インタビュー 
2025年6月6日

*満蒙開拓平和記念館での「語り部」の会
編集部 これまで従軍慰安婦のドキュメンタリーの作品紹介やインタビューはしてきましたが、日本人女性の戦時性被害を扱ったドキュメンタリーについて取材するのは初めてです。
黒川の女性たちのことを知り、取材を始めたのはいつ頃ですか? また2013年の満蒙開拓平和記念館の佐藤ハルエさんと安江善子さんの「語り部」の取材には行っているのですか?

松原文枝監督 2013年の満蒙開拓平和記念館の取材には行ってないです。取材を始めたのは2018年の11月に碑文ができた時からです。それができる前の2018年8月に朝日新聞の全国版に佐藤ハルエさんのことが載っていました。岐阜市民会館で行われた戦争の証言集会というのがあり、自分の満州での体験を語られていて、それが記事になっていたんです。こんな戦時性暴力の体験をたくさんの人の前で語る人がいるんだと驚きました。その時佐藤さんは93歳でした。年を経たので語れるという人もいますけど、最後まで話さず、墓までもっていこうという人が多いわけで、たくさんの人の中で自分の体験を話すということは、ものすごく勇気もいるし、覚悟もいる。そこに写っていた写真の表情がとても印象的で、口を真一文字に結んで、ものすごく信念がある表情だったんです。それに引き込まれて「この女性、なんでここまで話せるんだろう」と思ったのが、この黒川開拓団の取材に入るきっかけでした。
公の場で話す機会はこの後ありますか?と聞いたら、「ありません」と言われて、その後、2018年11月に「乙女の碑の碑文の除幕式があり、佐藤ハルエさんも来ます」と黒川村の遺族会の方から連絡があり、その除幕式を撮ったのが映像を撮り始めた最初です。

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佐藤ハルエさん

編集部 満蒙開拓平和記念館での二人の語りの映像は、TV朝日の報道の映像ですか?

監督 2013年7月と11月の映像は、満蒙開拓平和記念館が撮っていた記録映像です。あの映像を残しておいてくれたことが次に繋がっていったので、満蒙開拓平和記念館の存在というのが、ものすごく大きかったなと思います。彼女たちが安心して話せる場所であり、それを記録した場所でもありました。

編集部 私は、2015年に山田火砂子監督の『望郷の鐘』という作品を観て、満蒙開拓平和記念館ができたことを知り、2016年の1月に長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行きました。ここは2013年4月にできていますが、彼女たちは7月と11月の「語り部の会」で証言をしているんですね。彼女たちにとって、ここができたから語れたという部分があるのかなと思いました。
(『望郷の鐘』の山本慈昭さん。長野県阿智村、長岳寺の元住職で、国民学校の先生として満蒙開拓民を募集して連れていかなくてはいけない状況で、終戦の半年前に満州に渡る。シベリアに抑留され1947(昭和22)年に引き揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれている。「満蒙開拓平和記念館」は、この長岳寺のそばに建てられています)

監督 おっしゃる通り。

編集部 ここでの話が世間に知られるきっかけだったのでしょうか? 長年、伏せられ、表には出せないできたけど、ここで発言するにあたり、黒川村の開拓団の幹部の人たちのかくしておきたい事情とのせめぎ合いとか葛藤もあったかと思います。でも、彼女たちの「なかったことにはできない」という思いから、証言になっていったのでしょう。

監督 満蒙平和記念館ができたのは2013年4月で、佐藤ハルエさんが話しをしたのが7月の語り部の会で、第2回目なんです。安江善子さんが話しをしたのは11月なんですが、やはり、その場があったということが大きかったと思います。遺族会会長の藤井宏之さん(戦後生まれ)が、そこで話しをしてほしいとお願いしたのですが、それは、別に「性接待のことを話してほしい」とは言っていないし、彼はそのことを話すとは思ってなかったんですね。彼女たちに「満州の話をしてほしい」と言ったら、その場で彼女たちは、自分たちのほうから語り始めたそうです。そこの場は、満蒙開拓のことを知りたい、考えたいと思う人たちが来るところだから話せたのだと思います。でも安江善子さんは、その後、皆さんの前では語ってはいないんですよ(2016年死去)。後に、記念館の人たちがインタビューに行った時にはしゃべらなかったそうです。
佐藤ハルエさんは、記念館ができる前から「性接待」の話をしています。わかっている人、気づいた人が来た時には話をしていたんです。新聞などにも書いてほしいと言っているシーンも、この映像の中に出てきます。
以前の黒川村の開拓団の幹部は、証拠を焼いたり、埋めたりして、なかったことにしようとしていたわけです。女性たちが出したいと思っても声をあげられなかったのです。当時の遺族会の幹部によって抑え込まれ消し去られました。会長が戦後世代の藤井さんになったから、声を上げられるようになったと思います。

*「乙女の碑」のエピソード
編集部 会長の妻の藤井湯美子さんがが出てきてきて、「夫ながらあっぱれ」と言っていましたが、私は彼女がいたことで、ここまでできたんじゃないかと思いました。

監督 この女性は「長いものには巻かれたくない、おかしなことにはおかしい」という元気がいい女性なんです。この女性の存在も大きかったです。

編集部 彼女たちがいくら声をあげたとしても、遺族会があるわけだから、会長が先頭に立っていかなければ碑文の制作にしても形にはなっていかなかったと思います。「恥になること」と言っていた開拓団帰りの男性の声もあったわけですから、彼女たちの声を消さないで拾い上げて形にしたということに拍手喝采。

監督 そういう風に観ていただいて嬉しいです。ほんとにそうですよ。共同体のリーダーって大事ですよ。彼がいたことによって碑文として残せたと思います。

編集部 「乙女の碑」そのものは1982年に作られたわけですが、碑文は2018年に建てられていますね。でも、その碑だって、戦後37年もたってから建てられているんですね。

監督 黒川開拓団は600名余りの人たちが行っていますが、200名ぐらいの方たちが現地で亡くなり、性接待を強要された女性たちの中からも4名の方が現地で亡くなっています。お参りする場を作りたいということで、安江善子さんが中心になって、彼女たちを弔うために寄付金を集めて「乙女の碑」が作られました。
1981年に遺族会の方たちが、開拓団がいた陶頼昭(とうらいしょう)に慰霊の旅をしています。訪中の後、1982年にその記念碑が作られ、そこには満蒙開拓の説明や碑文もあるのですが、同じ頃建てられた「乙女の碑」の方は何の説明もなくお地蔵さんだけだったのです。身内の人がわかっているだけという状況でした。


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*性接待の状況
編集部 映画の中にも、‎訪中慰霊団のシーンは出てきますね。松原さんが2018年から取材を始めて、TVで放映されたのはどんな番組だったのでしょう。

監督 2019年の8月に報道ステーションで特集にしたのと、テレメンタリーという30分のドキュメンタリー番組になりました。その後に、テレメンタリーで1時間の拡大版というのが11月に放送されました。

編集部 反響がすごくあったということですね。

監督 結構ありました。

編集部 戦後すぐ、ソ連兵による日本女性への「性被害」という話は、これまでもいろいろ出てきていますが、ソ連兵に守ってもらう(中国人の襲撃から)という発想を開拓団の幹部がするというのは可能だったのかなというのは、この作品で知ってびっくりしました。

監督 このような「性接待」のことは、平井和子さんという戦時性暴力を研究者の本(「占領下の女性たち」)などを読むと、女性を物のように提供して性接待をするというのは44件くらいあったようです。平井さんは、国会図書館とかで記録集を読んで調べたものがそのくらいなので、たぶん証言とかないものも含めたら、もっとあったんじゃないかなと想像されます。これはそういう時に女性を差し出すという例ですが、そうでなく一方的な性暴力はもっとたくさんありました。

編集部 何年もかかって日本に戻ってきた人たちがいた一方、この黒川開拓団は敗戦の1年後には日本に帰ってきましたが、帰還事業の初期の頃に帰れたんですね。これまで、満蒙開拓団の話や避難を描いた映画をいくつも観ていますが、ソ連国境に近いところにいた人、中央部にいた人、港に近いところに住んでいた人によって状況は違いましたよね。日本は、もとはと言えば加害者だったのに、侵略者だった日本人を、終戦後、復讐のため襲撃した中国人もいた一方、子供や女性を受け入れて、育ててくれたり保護して家族にしてくれた中国人もいたわけですから、感謝の思いがあります。避難の途中で亡くなった人や、残留孤児、残留婦人になった人もたくさんいるわけですから、その団の人たちがいた場所とか、開拓団に成人男性がどのくらい残っていたかとか、また、団の運命は団長の決断によって分かれてしまい、自決したり、その後の状況は違ったものになりましたね。

監督 ほんとにそうですよ。その時にどう判断するかで変わってきましたね。女性を性の対象に差し出すって、犯罪的行為だと思うんですよね。それが、団を守るためという論理に差し替えられている。女性をそういう対象にしか見ていなかったことの現れですよね。

編集部 満蒙開拓団で渡った人というのは次男、三男とか、口減らしのために渡った人も多かったし、日本にいたところで、その時代だったら売られた女性もいっぱいいたわけだから、そういうことに対する意識は今とは全然違うので、今の時代の見方でみるわけにはいかないですね。
性接待の状況を説明するのに、床に布団が並べられて犯されている状況に驚いたという場面がありますが、従軍慰安婦の場合もカーテンとかで仕切られた場所でそのように相手をさせられていたという証言もあるので、そういう形は当たり前のように思われていたところがあったんじゃないかと思います。

監督 そうですね。このことを誰が決めたのかということははっきりわからないんですよ。ソ連軍がもちかけたという話もありますが、黒川開拓団がいた陶頼昭というのは交通の要所にあり、関東軍の事務所にいた人がいたり、ロシア語ができる人もいたりで、そういう人たちが開拓団の幹部にもちかけたという話もあります。

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*満州からの引き揚げ

編集部 日本から、満蒙開拓で行ったのが27万人と言われていて、8万人くらいが亡くなったということですが、あの状況から考えたら意外に帰ってこられた人の数は多かったという印象があります。長い距離を歩いて、日本に帰り着くための港・葫芦島(コロ島)までたどり着くのに時間がかかった団があった一方、黒川開拓団は、早くたどりついたと思いました。やはり、彼女たちの犠牲があってのこともあるのかなと思ったりしました。

監督 いや、彼らはもっと早く帰ればよかったと言っています。関東軍は日本からの撤退の情報を開拓民に伝えず、自分たち、あるいはその家族だけを連れて、さっさと日本に帰ってしまったわけです。彼らのように情報があれば、早く帰れたわけですよ。

編集部 それを伝えもせず、関東軍は、自分たちだけが帰ってしまったという、ひどい話ですよね。

監督 ひどい話ですよ。ソ連の中枢のほうも、兵士の風紀が悪くて、性暴力の話が国際的にも問題になってきたので、取り締まりもやっていたのですが、中国から引き上げるという話になっていたようです。いずれにせよ、早く帰さなかったことが被害を大きくしたと思います。

編集部 日本は敗戦で余裕もなかったのかもしれないけど、中国に送ってしまった人たちを日本に戻すという動きは、敗戦後すぐにはできなかったということですね。(舞鶴の「引揚記念館」などに引揚の状況などの記録が残っている)

監督 今と違って情報が伝わらずで、どうしたらいいかがわからないという状況があったわけですが、「現地にとどまれ」という話もあったのですが、その話すら伝わっていなかったのです。終戦の翌年1946年(昭和21年)の5月に引き揚げ事業が始まるのですが、陶頼昭の駅で、この引き揚げの情報を聞きつけ、すぐに葫芦島に向かったようです。だから、黒川開拓団は帰ってこられましたけど、集団自決しなくてよかったなとは思いますが、女性を差し出したから400人余りの人が助かったとは、必ずしも言えないかもしれません。

編集部 今の時代の発想で考えてはいけないと思うけど、そういう意味では、無駄な犠牲になってしまい、彼女たちの人権は踏みにじられてしまったといえますね。

監督 中国人たちを支配していたから、敗戦後、襲撃にあって根こそぎ物品が取られてしまっても、命に危害は与えられなかったようです。

編集部 いずれにせよ、27万人が満蒙開拓団として渡ってしまったわけだから、日本に帰るのは大変だったわけですよね。
そういえば、佼成学園女子校の高野先生が、この黒川村の女性たちの性接待の状況を授業の中で伝えているのはすごいなと思いました。こういう活動は必要ですよね。

監督 ハルエさんのところに学校の先生たちも集団で足を運んでいたのですが、先生ばかりでなく大学生や高校生、一般の会社員なども話を聞きに来て、ハルエさんはその都度丁寧に話をしているんです。そういうことで、人の心が動かされ、伝えるという行動につながっているんですね。あの映像はたまたま学校がOKしてくれたのですが、そうじゃない学校でもそうやって教えているんです。
ハルエさんや他の女性もそうですが、顔を出して自分の言葉で語ったというのは大きくて、その勇気と覚悟に対して、心打たれて、学校の授業にまで伝わっていったというのは、女性たちが突き動かしたなと思うんですよね。


*彼女たちの絆とカミングアウト

編集部 名前と顔を出して語っていたのは、最初は佐藤ハルエさんと安江善子さんだけでした。水野たづさんや安江玲子さんは、最初は名前を出さないでいたけど、後になって顔も名前も出すようになりましたが、それは安江善子さん、佐藤ハルエさんが亡くなって、後は自分たちが伝えていかないとと覚悟を決めたのかなと思ったんですけど、どうですか。

監督 この二人の場合は、覚悟を決めたというより、周りが理解してくれたということが大きかったと思います。彼女たちのことを認めて、尊敬というか大事にしたということが、心をとかしたんじゃないかと思います。

編集部 そうですね。自分の体験を言った時に、家族からどう思われるかというのがあると思うから。それに対して、家族から理解ある反応があったからというのが一番大きいのでしょうね。孫からの手紙を、ずっと持っていた話が出たときには思わず涙が出ました。
また、仲間たちとの団結力というか、励まし合いというのが大きな力になっていたと思います。一人じゃできないけど、5,6人の人たちが支え合い、時々は集まっていたのが大きな原動力だったのだろうと思います。

監督 そう思います。彼女たちの連帯というのがものすごく大きくて、彼女たちがお互いに支え合い、かつ「なかったことにされている」ことに対して憤りを持っていましたから、碑文を残すにあたって、彼女たちの力が大きかったですよね。連帯でもあるし、お互い支え合い、それぞれの気持ちを大事にして、ずっと一緒に生きてきた時間が長かった。

編集部 ハルエさんが安江菊美さんに対して、「あなたのおかげ」と言っていましたが、安江菊美さんはそれは逆だと言っていましたね。でも、やっぱり菊美さんの存在は大きいですよね。性被害体験者本人は言いずらいけど、周りにいた人だったら言えるということはあると思います。

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安江菊美さんと佐藤ハルエさん


監督 菊美さんは、被害者たちより若い世代ですし、非常に記憶力が鮮明で当時のことをよく覚えていますし、論理的な人なので、何があったかということを道先案内人のように解説をしてくれるので、すごくよくわかりました。彼女の存在はとても大きかったです。

編集部 当時11歳くらいだったのですよね。でも、それで、あれだけ覚えているというのはすごいなと思いました。私は、その年齢の時のこと、それだけ覚えていないです。

監督 私もその年の頃は全然ぽやっとした記憶しかないのですが、菊美さんはよく覚えていたんですね。やっぱり衝撃的だったからだと思います。記憶力がいいのもありますが、語り部をしているので、資料を整理してもっているということと、写真も持っているというのが大きいと思います。また、繰り返し当時のことを言っているのもあるかと思います。

編集部 菊美さんの存在もあったので、彼女たちの体験を裏付けられたと思います。そういえば、ものすごい量の手紙が出てきましたが、あれはどういうことだったのでしょう。

監督 あれは、佐藤ハルエさんのところに、いろいろな人から来た手紙の山だったのですが、あれはほんとに一部で、もっと膨大にあったと思います(笑)。

編集部 そういうのにも、絆というか助け合いというのを感じます。そういう繋がりがあったから、語ることができたのかもしれないですね。まとめる方がいて、集まれる場所があったり、励まし合ったりすることがあって、公表することにつながったのかなと思いました。

監督 ありがとうございます。女性たちが支え合ってきたことが大きかったと思います。でもやっぱり思うに、佐藤ハルエさんが外に出したかったという思いが大きかったと思います。その信念をみんなが支えていたんだと思います。お互いに理解し合える人たちがいることが、彼女の心の安寧にもなっていたと思うんですね。

編集部 一人だったらできなかったかも。

監督 仲間がいてくれるからこそ、彼女は行動できたと思います。一方で、絶対残さなくてはいけないという強い信念を持っていたのが大きいと思います。安江善子さんは公の場で話したのは、2013年の満蒙開拓平和記念館の時だけでしたけど、その後3年後の2016年には亡くなっているので、そのあとは話す機会もなかったのかもしれないですね。

編集部 ハルエさんはこれだけ苦労して99歳まで生きたそうですが、すごいですよね。

監督 ほんとですよ。良かったなと思います。大往生で、去年亡くなるまでよく生きたと思います。99歳の人生を生き抜いて、いろいろなことを後世に残しました。

編集部 ハルエさん一人だけのことでなく、黒川開拓団だけでなく、満蒙開拓団の方たちの代弁者だったと思います。本人はどうかわからないけど、いつのまにかそういう立場になってしまったので覚悟を決めたのかもしれませんが。

監督 いや、この方は固い意志があったと思います。

編集部 そういえば、佐藤ハルエさんが満州の農業学校(女塾)で学んだ時に、先生から「女性は戦争に負けたら、こういうこと(性接待)もあるかもしれないから覚悟をしておくように」と言われたということを話していましたね。しかし、日本に戻った時には「労らわれる(ねぎらわれる)」ことなく誹謗中傷に合い、結局、他の村に行かれたわけですね。
お孫さんからの励ましの手紙を持っていた方は、玲子さんですね。この手紙をずっと持っているというエピソードに心打たれました。それまでは顔を出さずに証言していたわけですが、この手紙をもらってから、名前も顔も出すようになったのですね。

監督 玲子さんは2017年くらいから語り始めていたのですが、顔も名前も出さずにいたわけです。

編集部 水野さんはもっと後ですか。 

監督 水野さんは、2017年、2018年ごろには匿名で話はしていましたが、その後は家族の手前、取材に応じていませんでした。このため、TV放映した頃は、写真にはぼかしを入れていました。今回、映画にするにあたって、インタビューも難しいかと思いましたが、碑文も出来て社会に知られたことで、息子さんの理解も進み、顔と名前を出して応じて頂きました。また犠牲になった女性たちが皆で映ってる写真では、TVの時は3人だけしか出せなかったのですが、映画になるときには、本人や遺族に確認をして、ご了解を得て、顔を出すことが可能になったんです。やっぱり顔が出せるとリアリティがありますからね。

編集部 彼女たちの救いは、家族が理解をしてくれたということでしょうね。だからこそ、発言して残していかなくてはと思ったのかなと思いました。TV放映は、どれか1回は見ていると思うのですが、映画化しようと思ったきっかけというのはあるのですか?

監督 それは玲子さんという人が笑顔になって、変わったんですよね。私自身、見て驚きました。人間は尊厳を回復することができるんだというのを目の当たりにしたんです。もう一つ決定的だったのはハルエさんが目の前で亡くなったというのが大きくて、この女性の死に立ち会ったことで、何か残さなくてはという焦燥感にかられたんです。彼女がやってきたことに対して頭が下がる思いがあり、何か記録に残さねばと思ったのです。到着して10分後に亡くなったんですが、おふたり(安江菊美さんと藤井宏之会長)を待っていたという感じがして、安心して逝かれたんだなと思いました。

編集部 あの菊美さんの語りかけのシーン、いいですよね。

監督 ハルエさんと菊美さんはいつも話しをしていて、絆が強い二人でした。いつも満州の話をしているんですよ。

編集部 悩みごとでもなんでも話すと少し楽になるということだったのかもしれませんね。だから満州時代の同じ経験をした仲間と集まって話すことが安らぎだったのかもしれませんね。

監督 他のところで話せないので、本音とか悲しみとか率直に出せる相手だったんだと思います。

編集部 その期間(性接待)が2カ月くらいだったとはいえ、病気になったり性病を持って帰ってきたりで、身体の状態が悪いまま帰ってきた方もいたと思います。

監督 完治しないまま、日本に帰ってきて、治療をしていた方もいました。

編集部 帰国後の誹謗中傷を生んだのは、「開拓団幹部の人の発言から」というのが出てきました。藤井会長が、もしかしたら自分の父さんかもしれないと語っていましたが、その時代の、そういうことに対する認識が今と違うからだったのでしょうね。それに伏せておこうとしても噂は広がってしまったのですかね。

監督 開拓団の中で内緒にはしていたけど、村の中で多くの人が開拓団として行っていたから噂にはなりますよね。いわれなき誹謗中傷や、そういう目で見られているということがあって、彼女たちはいたたまれない気持ちにはなりました。

編集部 時間が来てしまいました。この話を興味ある方に広げたいと思います。ありがとうございました。

監督 ありがとうございます。満州から帰ってきて、戦後日本で開拓した人たちというのはたくさんいると思います。ぜひぜひ広めてください。
取材 宮崎 暁美

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