『湯徳章―私は誰なのか』 黃銘正監督、連楨惠監督インタビュー 

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左:黃銘正監督、右:連楨惠監督


『湯徳章(トゥン・テッチョン)―私は誰なのか』 映画紹介
激動の時代を生きた湯徳章
 台湾は日清戦争後、1895年(明治28年)下関条約によって、中国・清朝から日本に割譲され、日本の降伏で第二次世界大戦が終結した1945年までの50年間、日本の統治下にあった。
 1947年3月13日、台南の今では整備されたロータリーの中心にある公園で一人の男が処刑された。彼・湯徳章が生まれたのは1907年。40年の生涯だった。
 湯徳章は日本人の父・新居徳蔵(警察官)と台湾人の母・湯玉のもと台南で生まれた。8歳の時、父が殉職。湯徳章本人も1927年20歳の時に警察官になった。
 1935年、叔父・坂井又蔵の養子になり、母の「湯」姓から「坂井」姓に。1940年33歳の時日本に渡り、司法を学び弁護士資格を取得し、1943年36歳で台南に戻り、弁護士として働き始めた。
そして終戦前の1945年1月、彼は「坂井」姓から、姓を元の「湯」に戻す。
 日本の敗戦後、台湾は蒋介石率いる中華民国の統治下に置かれたが、国民党政権の抑圧や腐敗に台湾の民衆は不満と怒りを募らせ、1947年2月28日、「二二八事件」が勃発。蒋介石は徹底的に弾圧。多数の虐殺事件も起こった。湯徳章は混乱の収拾に尽力し多くの市民を守ったが、1947年3月11日、高雄から台南に進駐してきた軍に逮捕され拷問を受け、3月13日、台南市の中心部にある民生緑園(現・湯徳章記念公園)で公開処刑された。
 1949年に戒厳令が敷かれ、1987年戒厳令が解除されるまで長きに渡る言論弾圧が続いた。事件に関する事を語ることは禁じられ、台湾の記憶の奥に静かに封じられていった。湯徳章の名誉が回復されたのは、38年間続いた戒厳令が解除されてから。現在、台南には湯徳章の名を冠した公園や住宅、道路などがあるが、地元民でさえ、日本と台湾の間で生きた彼の人物像を知る人は少ない。数奇な運命をたどった彼の人生を、ジャーナリスト、彼の養子、民間の研究者など、台湾の人々が彼の足跡をたどり、「湯徳章とは誰か」をたどる。

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場面写真クレジット (C)2024角子影音製作有限公司

黃銘正(ホァン・ミンチェン)監督、連楨惠(リェン・チェンフイ)監督インタビュー   
取材:景山咲子、宮崎暁美 2026年1月21日
  

*この映画を作るまで

宮崎:おふたりが作った前作『湾生回家』(2015年製作)でも黃銘正監督にインタビューさせていただきましたが、この作品でもお話を聞かせていただこうと思います。よろしくお願いします。

と前作のHPのインタビュー記事を見せると、一瞬にして顔がほころび、「その記事と一緒に記念写真を撮りましょう」といい、その写真は黃銘正監督のFacebookに掲載されました。
https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=25684666817840076&id=100001703306131&mibextid=wwXIfr&rdid=uz4lU46NyEBvtMJP#
*『湾生回家』黄銘正監督インタビュー記事はこちら

景山:私の母は、神戸生まれなので湾生ではないのですが、6歳頃から終戦までの10年ほどを台湾の基隆で暮らしていました。女学校時代の台湾人の親友が、二二八事件で基隆川も血に染まったということを話してくれたのは、戒厳令が解けて、数年経ったころのことでした。母は時々中国本土に旅行していたのですが、その話をすると、まぁ~中国に!と、あまりいい顔をされなかったそうです。
今回の映画ですが、私の父方の祖父母が、父の生まれる1922年9月直前まで、台南で暮らしていましたので、台南にこのような方がいたことに、親しみを感じました。壮絶な最期でしたが、学校の制服はお金がないから着ないと反抗したり、退学したあと、炭焼きをしていたのに、急に警官になり、さらに日本で司法科と行政科を卒業するという快挙。すごい方だなと思いました。

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ロータリーと湯徳章紀念公園


宮崎:台南にあるロータリー、かつては「民生緑園」と呼ばれていた公園が、1998年に「湯徳章記念公園」と名前が変わり、湯徳章(日本名坂井徳章)の像が立てられたとのことですか、公園や道路に名前がつけられるほど、認知されるきっかけは?

黃銘正監督:湯徳章はこのロータリーで処刑されたんです。このロータリーには7本の路がありますが、ロータリーのメインストリートは中正路。これは蒋介石の名前から由来するものです。結果として、複雑な思いを抱く人も少なくなく、この「中正路」の名前は変えるべきという人もいます(2022年、中正路の一部が「湯徳章大道」と改名された)。
70年生まれの私が受けた授業では、蒋介石は我々の民族(国家)を救った人物として教わってきました。戦後のこの部分(二二八事件)の歴史には触れるなとなっていて、二二八事件について語ることは長いことタブーでした。

『湾生回家』が公開されて、映画を観た女性から、父親が有名な新聞の編集者で、二二八事件で殺されたのでもっと触れてほしいと言われました。台湾協会の方で、私が「台湾の母」と呼んで親しくしていました。「二二八事件の資料を持っているので監督がこの事件のことを映画にするのならお見せすることが出来ます」と、アプローチされたのですが、当時、私は二二八事件について詳しくなかったし、触れたくなかったので、そのままになってしまいました。彼女には4人の子どもがいるのですが、二二八事件の資料を子どもには絶対見せないと言っていました。それくらいタブーなわけです。その方にこの映画を作ったことを報告したいと思っていたら亡くなられてしまい、残念です。『湾生回家』に出演してくださった方も、だいぶ亡くなり、今、生きている方は5、6人です。

景山: 養子の湯聡模(トゥン・ツォンボォ)さんも、2023年に亡くなられたとのこと。ぎりぎり取材が間に合ったといえますね。 

黃銘正監督:証拠として残すことができたのは有意義なことです。二二八事件の被害者の方たちはあまりに辛い記憶なので、口を閉ざしています。

宮崎:台南に住む人たちでも湯徳章さんのことを知る人が少ないようですが、昨日、台北に住む元シネジャスタッフ(日本人)に、「湯徳章」や、この映画について知っているか聞いてみました。彼女は知らなかったけど、SNSでこの作品が日本で公開されることを知ったと言っていました。彼女の夫は台湾人で弁護士をしています。なので、彼は湯徳章のことを知っていました。でもこの映画のことは知らなかったそうです。彼女たちはこの作品を観ていないので、ぜひ観てみたいと言っていました。
台湾では、いつ頃公開されたのですか? またどのような形で公開されたのでしょう。これからも自主上映活動などありますか? 

黃銘正監督:台湾での上映は終わりました。台南と台北の弁護士会で自主上映会も開きました。今後、自主上映があるかもしれません。お友達にもお伝えください。

*映画の制作過程でのエピソード

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宮崎:黃銘正さん、連楨惠さん、おふたりの役割、あるいはどういう形でこの作品を作り上げたのでしょう。

連楨惠監督:私は湯徳章の関係者の方たちを訪ねていく旅人の一人です。

宮崎:映画を観た時は連さんの顔を知らなかったのですが、記者と二人で訪ね歩くシーンで、もう一人の人が連さんかな?と思いました。

黃銘正監督:私は、映画のストーリーテーリングとかプロットとか、どういう風に形作っていくのかそういうのが得意なので、それを主動してやっています。
連さんとのエピソードを。
ドキュメンタリーの魅力はどこにあるのかをいつも考えているのですが、今、起きていることを映像として記録しておくことはすごく大事です。計算した話でなく偶然も。冨永さん(『湾生回家』に出演)のお宅を訪ねた時のことです。私がトイレに入っている時に、冨永さんが吹くハーモニカが聴こえてきて、台湾民謡の「雨夜花」という曲でした。撮らなくてはと思ったのですが、トイレの中だったので撮れませんでした。でも、連さんがちゃんと撮っていてくれました。この人は私が求めているものをわかっていて、ドキュメンタリー映画を撮るセンスを持っていると思いました。また、インタビューするときに、相手に配慮する必要がありますし、忍耐力だけでなく、こだわりも必要です。あるいは寄り添って、相手の心の扉を開けるにはどうしたらいいかということも必要です。これは連さんにしかできないと思います。素材を集めるとか、インタビューする人をみつけてくるとかの段取りは連さんのほうが上手です。特に今回、養子の湯聡模さんは、最初は語りたくなかったのですが、連さんが時間をかけてアプローチしたら、心の扉を開いて話してくれるようになったんです。だから、この映像は非常に貴重なものです。これは連さんにしかできなかったと思います。

宮崎:まさに二人三脚ですね。湯徳章さんの姪の陳銀さん(聡模さんの姉)と聡模さんの二人は封印していて、最初はしゃべらなかったけど、後半、心を開いて、語ってくれるようになったなと思ったのですが、連さんの働きがあったからですね。

黃銘正監督:でもすごく時間がかかりました。聡模さんはドキュメンタリーの撮影は経験したことがなかったのです。二二八事件の日が近づくと、いろいろ取材が来るけれど、湯聡模さんは応じてくれなかったのですが、1998年ロータリー内の公園「民生緑園」の名前が「湯徳章記念公園」に変わって、やっと姿を現してくれるようになりました。それでも、電話しても、本人が電話口で「彼はいない」と濁すのです。台南市長が電話口に出て、やっと話してくれました。でも、湯徳章の銅像ができた時のセレモニーに彼が来たかどうかは不明です。湯聡模さんのお兄さんいわく、遠くから見ていたと。セレモニーの中心には行きたくなかったのでしょう。それまでのことがあるから。次第に民主化が進んで、ようやく話せるようになった感じです。

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湯徳章紀念公園の片隅にある湯徳章さんの胸像


宮崎:莉莉青果店の店主 李文雄(リー・ブンヒョン)さんは、どういう方なのでしょう。昔、湯家の近所に住んでいて、湯さんのことをご存じの方?

黃銘正監督:莉莉青果店は、銅像のあるところから2~300m離れたところにあります。カキ氷が有名なお店で、タクシーで乗ってくる人たちが運転手に「湯徳章さんって誰?」と聞くので、運転手たちが李さんに聞いてくるのだそうです。それで、李さんは台南の歴史のことを調べて、養子の聡模さんも李さんが7~8年かけて探しだしました。

宮崎:ああ、そうでした。この莉莉青果店の前にタクシーが止まって、中から男の人が出てきた時、「誰だと思います?」というシーンがありましたが、それが湯聡模さんでした。聡模さんを探すのがミッションだったのでしょう(笑)。その後、交流があったのですね。
あの歴史家の先生も面白かったです。あの家、資料の量がすごかったですね。

黃銘正監督:私たちも扉が開かなくて、家の中に入れなくてびっくりしました。入ったら出られなくなるのではと思いました。資料の山が崩れるんじゃないかという状態でしたし、照明もなくて、暗くておばけが出そうでした(笑)。

景山:先生的には、何がどこにあるというのはわかるのですよね(笑)。
宮崎・景山:私たちの家も似たようなものです。以前住んでいた家は映画資料に埋もれて、部屋の中に資料の山がいくつも連なっていて、家の中の移動に苦労するくらいになっていました。自分にとっては大事な資料だけど、他の人にはゴミですよね。だから、先生のことがよくわかります(笑)。

黃銘正監督:李さんと先生の関係ですが、李さんの集めた資料のほとんどが日本語で、それを先生が読んでくれたという間柄です。先生は早稲田大学に留学して、日本に10数年住んでいたそうです。

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左:養子の湯聡模さん


*歴史的資料の保管について

宮崎:冒頭、「児玉源太郎」(第4代台湾総督)の像と「孫文」の像が、並んで出てきたのが印象的でした。この二つの像は、この場所にあるのですか? あるいは「児玉源太郎」の像はどこかからもってきのですか? 
また、古い資料が保管されていることに驚きました。台湾では、支配する人が変わっても歴史的なものを保存する習慣があるのかなと思いました。

黃銘正監督:そうです。児玉源太郎さんの像は、別のところからもってきて、並べて撮りました。台南市の歴史的なものを保管する場所にあります。

宮崎:あのシーン面白かったです。

連楨惠監督:台南市に文物を保管する場所があります。 焼却されたものも多いのですが、戸籍の資料があったお陰で、湯徳章の親戚を調べることができました。台湾の戸籍ではわからなかったけれど、門田さんを通じて、日本の親戚に繋がりました。門田さんが湯徳章さんのことを調べて本にしていますが、彼からもいろいろ情報をいただきました。
注)門田隆将さんのノンフィクション小説「汝、ふたつの故国に殉ず」(角川書店)
もしかしたら東京の親戚については聡模さんの娘さんから聞いたのかもしれません。宇土への取材は門田さんがコーディネートしてくれて実現しました。

*湯徳章さんの想いはどうだったのでしょう

景山:姓が何度も変わりましたが、最終的には、「湯」となり、彼にとっては、日本人の父親のルーツよりも、生まれ育った台湾への思いが強かったのかなと感じました。タイトルに、「私は誰なのか」と、付いていますが、彼のアイデンティティについての思いをどのように感じていますか?  

黃銘正監督:最後、「湯」姓に変えましたが、途中、何度も姓を変えていますね。東アジアは父系社会。父親の姓を名乗ることが多いですが、植民地時代には日本人になった方が有利でした。姓を何度も変えたということから、彼の心情的な気持ちを読み取ることができると思います。

宮崎:日本で弁護士の資格を取る時には、叔父の「坂井姓」になっていましたが、やはり、日本人名のほうが弁護士の資格を取りやすかったのでしょうか。

黃銘正監督:当時、日本では台湾名でも弁護士資格は取れました。たくさんの台湾からの留学生が弁護士の資格を取るために来ていました。映画の中に、台湾からきた留学生で司法試験に合格した人たちの集合写真が出てきましたよね。アイデンティティは、明確に線引きできるものではないと思います。条件によって変わるかもしれない。日記などが残っていれば、ある程度、心情がわかったのですが、なかったので、資料から判断するしかありません。手紙も1通も見つかっていません。二二八事件以降、燃やしてしまったのかもしれません。写真の多くは、聡模さんのお兄さんがまとめて箱に保管して、屋根裏に隠していました。

宮崎:まだ、これから写真や資料などが出てくるかもしれませんね。

黃銘正監督:まだ作業を終えていないことがたくさんあります。それに、他の人も写真を持っているかもしれません。ほかにもできることがあるかもしれませんね。

宮崎:ここで時間が来てしまいました。まだ、いろいろ聞きたいこともありましたが、再度、映画を観て確認したいと思います。激動の時代を生きた「湯徳章」さん。「二二八事件」に関する映画は、いくつか観てきましたが、このような方もいたというのを知ることができました。ぜひ、日本人にも知ってほしいと思いました。

メモ起こし 景山 まとめ・写真 宮崎

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