『あの日々の話』玉田真也監督インタビュー

映画作りは撮影後の編集でいかようにもなり、そこに醍醐味がある

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玉田真也監督が主宰する劇団・玉田企画による舞台が同じタイトルの『あの日々の話』として映画化された。オールをした朝に店を出るときの「なんて無駄なことをしたんだ…」という徒労感と、いつも通りの日常に戻っていく少しの諦めを伴った爽やかさを描いた作品である。
クラウドファンディング・プラットフォームを運営する株式会社MOTION GALLERYの映像製作レーベル『MOTION GALLERY STUDIO』の第一弾長編映画として製作され、映画では舞台版キャストに加えて、太賀と村上虹郎をゲストに迎えた。第31回東京国際映画祭・日本映画スプラッシュ部門に正式出品されている。
公開を前に、映画化のきっかけや映画表現の難しさ、醍醐味について玉田監督に話を聞いた。

<プロフィール>
玉田真也
1986年、石川県出身
青年団演出部所属。玉田企画主宰・作・演出。玉田企画を2012年に旗揚げし、以降すべての作品で脚本・演出を担当。日常の中にある、「変な空気」を精緻でリアルな口語体で再現する。観る者の、痛々しい思い出として封印している感覚をほじくり出し、その「痛さ」を俯瞰して笑いに変える作風が特徴。
映画『シェアハウス』脚本(監督:内田英治)、テレビ東京『下北沢ダイハード エピソード0 記憶をなくした男』脚本、NHK『ちょいドラ/ロボカトー中島と花沢さん』脚本、『JOKER×FACE(ジョーカー・フェイス)』(フジテレビ)脚本など

『あの日々の話』

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<story>
とある大学のあるサークル、代表選挙が行われた日の二次会のカラオケボックス。当初和やかに進んでいた会が、思わぬきっかけから若者たちの裏切りと騙し合いの泥沼に発展する。

原作・監督・脚本:玉田真也
出演:山科圭太、近藤強、木下崇祥、野田慈伸、前原瑞樹、森岡望、高田郁恵、菊池真琴、⻑井短 / 太賀 / 村上虹郎
企画:玉田真也、山科圭太
製作:映画「あの日々の話」製作委員会(MOTION GALLERY STUDIO、レトル、ENBU ゼミナール)
制作:MOTION GALLERY STUDIO
配給:SPOTTED PRODUCTIONS
宣伝協力:アニモプロデュース
© 2018『あの日々の話』製作委員会
2018 年/日本/ステレオ/シネマスコープ/カラー/100分
公式サイト:https://anohibi.com/

★4月27日(土)、渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー

―本作はオールをしている大学生の話です。監督ご自身の経験がベースになっているのでしょうか。

僕は大学時代、演劇サークルに所属していましたが、そのサークルでは毎年6月くらいに新人公演をするのです。1年生だけが出演して、上級生はスタッフをする。千秋楽当日に打ち上げをして、二次会で大学のそばにあるカラオケボックスに行くのが恒例でした。いつも3部屋あるフロアを貸し切って、一つはメインの部屋として、みんなで歌ったりして騒ぐ。もう一つは荷物置き場。残りの一つは疲れた人が休めるような寝部屋として使っていました。
公演まで1ヶ月間くらいは毎日稽古をして、本番1週間前くらいになると授業をサボって、公演だけをやっている非日常みたいな時間が流れます。かなり密な時間を過ごしていることもあり、千秋楽の日は朝までにだいたい2組くらいのカップルができていました。上級生はそれをいじったノリで盛り上がります。そして、朝5時くらいになると「授業だぁ」と言いながら、いつもの生活に戻っていく。
オールって、最初は楽しくて、一次会だけでは物足りないから、二次会にも行く。しかし、終電が過ぎたくらいになると、グダグダになってきて、みんなもテンションが下がってくるので、終電があるうちに帰ればよかったと後悔し始める。それが朝5時くらいになると、なぜか人恋しさが生まれてきます。すぐに帰ればいいのに、作中のセリフにもありますが「松屋に行く?」とかちょっとだけ延長しようとしながらも、やんわりと日常に着地していく。この時間は特殊で面白い。一本の作品になるかもしれないと思いました。

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―もともとは2016年7月に上演した演劇でした。それをなぜ映画化しようと思ったのでしょうか。

映画は子どもの頃からずっと好きでした。でも、作る側として映画に関わりたいとは思っていなくて、単純に映画ファンとして好きでした。
演劇は大学のサークルに入って初めて見ました。その流れで、大学を卒業してからもずっと演劇をやっていましたが、あるとき、「あの日々の話」の初演のメンバーである近藤強さんが「玉田くん、映画撮ろうよ。楽しそうじゃん」と言い出したのです。それがきっかけとなって、「あの日々の話」を映画化することになりました。ただ、その話は一旦、そのまま立ち消えたのですが、しばらくして山科くんが、「あの映画の話どうなった?」と興味を持ち、仲間を集めてくれたのです。そこから少しずつ仲間が増えていき、今日を迎えました。

―映画の脚本は演劇の脚本を映画向けに翻案したのでしょうか。

基本的には同じです。尺の都合で、100分以内にしたかったので、映画用に冒頭のシーンを少し加えた分、ちょっとずつカットするシーンがあったくらいです。

—脚本協力として、細川役の山科圭太さんの名前がエンドロールにありました。

携帯の画面を見るカットがありますが、これは映画だからできる。ほかにも演劇ではできない、映画ならではのカットを山科くんが提案してくれました。

―演劇と映画では、監督の演出や俳優の演技に違いはあるのでしょうか。

映画にしたときにいちばん変わるのは動線です。演劇のとき、お客さんは客席からしか見ていません。それを意識して役者の動きを演出しますが、映画ではお客さんを意識しない動きに変えないと不自然です。誰がどこでどちらに背中を向けるかを意識しました。
また、演劇よりも動きがないと持たない気がして、映画では動きを多くしました。ただ話しているだけのシーンでも、演劇なら役者が目の前に存在するという力がある。その空気が伝わるので、時間も持ちます。しかし、同じことを映画でしても、間が持たないという気がしたのです。自然な範囲で動きを足していった方がカメラも動けます。それによってカメラが映画の中に入り込んでいる感じが増してきます。演出において、映画の方が役者の動線に苦労しました。

—役者の動線は監督が撮影前に考えたのでしょうか。

リハーサルをしながら、役者に相談しながら決めていきました。舞台を踏んでから時間が経っている人も大分いたので、リハーサルを長めにとって、1週間近く稽古をしてから撮影に臨みました。だからできたこと。現場ですぐにスタートだったら、とてもここまでできませんでした。

—役者の動線を考えるにあたり、いちばん苦労したのはどのシーンでしょうか。

寝部屋の女性3人のシーンですね。あそこは会話の内容的になかなか動けない。3人が固まって話す方が自然です。役者の生理としては、「ここで動いて」といわれると、「何のために動くんだろうか」ということになります。そこを何とか動かすために生理作りをしないといけない。ほかのシーンに比べて、それが強かったのです。

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―今回、新たに太賀さん、村上虹郎さんがキャストに加わっています。この2人を迎えたのはどうしてでしょうか。

虹郎くんは映画で共演したことがあり、舞台を見に来てくれました。それで誘ってみたいと思ったのです。
太賀さんは再演したときに見に来てくれました。初対面でしたが、打ち上げにも来てくれて、無理と思いつつ、オファーをしたところ、出たいですと言っていただきました。

—再演の段階で、すでに映画化の話はあったのですね。

むしろ、映画化を決めてから、再演することにしました。作品を振り返るためもありますが、映画化にあたってクラウドファウンディングをすると決めていたので、その前に再演すれば、見にきてくれたお客さんがクラウドファウンディングに参加してくれるかもしれないと思ったのです。実際、多くの方が参加してくれました。

—太賀さんや虹郎さんの役を演劇のときはどなたが演じたのでしょうか。

太賀さんの役は僕がやっていました。虹郎さんの役は映画で追加したものです。

—太賀さんが演じることで、演劇のときと比べて、何か変化はありましたか。

僕と太賀さんでは、演技のトーンがかなり違います。太賀さんはラストのシーンをドラマとして落とし込んでくれたので、僕のときと比べて、映画を締めてくれた気がします。このシーンに関して、僕から太賀さんに何もいっていませんでしたが、太賀さんなりに求められている役割を解釈してくれたのでしょう。その結果、ほかの役者の演技も変わっていきました。僕のときは軽い感じだったので、「なんか変なやつ入ってきたな」といった目で店員を見ていましたが、太賀さんのときは特別な時間が日常に戻っていく感じがより強く出ていました。演劇のときより、よくなった気がします。

―会話のズレが何度も出てくるのを感じましたが、男性陣はズレたことでその人をいじる。女性陣は必死に話を合わせる。この会話の回し方の違いは監督が考える男女の違いでしょうか。

今、言葉にしていただいて、そんな感じがしました。確かに女性のコミュニケーションは共有しようとするというか、本当はズレていても、「そうだよね」と無理やり共有しようとするコミュニケーションが多い。それを「本当はズレているな」とお客さんが分かりながら俯瞰して見ていると緊張感が出てきます。
男性の場合は共有しようとする瞬間もあるのですが、それよりも、ズレたときのいじりやそれ込みのホモソーシャルな感じがある気がします。

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―今回、映画を撮ってみて、演劇にはない、映画ならではの魅力はありましたか。

カット割りがあることですね。10人くらいでしゃべっているシーンで、演劇の場合は「この人、どういう顔をしているんだろう」と10人がそれぞれ別のリアクションをしているのを自分で選んで見ることができる。演劇はお客さんが自分でカット割りをするのです。
映画の場合は編集でカットを決めたら、そこに映っているもの以外は見られません。たくさんあるカットの中からどのカットを選んで、どう繋ぐのか。映画は撮影が終わった後の編集で、どういう映画なのかを決めていくという感じがしました。どのカットを選ぶのかを決めるのは大変ですが、映画作りの醍醐味でもあります。

―今後はまた演劇をメインにやっていくのでしょうか。それとも、これをきっかけに映画をもっと撮ってみたいと思っているのでしょうか。

今回は演劇をそのまま映画にしたので、演劇で培ってきた感覚のようなものがダイレクトに出ています。それは今後、ほかの映像作品をやった場合にも僕の武器になるはず。その感覚を失わないためにも、演劇はライフワークとして、これからもやっていくつもりです。そこで培ってきたものを映画に持っていく。もちろん映画で精進することもあるのですが、演劇と映画をバランスよくやれたらいいなと思っています。

―これからご覧になる方にひとことお願いします。

滑稽で無様な青春群像劇で、10人の人物が登場します。その人たちの痛々しい様を見るエンターテインメントに作りました。見ていただく方の世代に関わらず、「こいつ、身の回りにいるな」という人物が1人か2人はいると思います。自分の忘れたい過去を思い出すかもしれません。痛いことを楽しんでください。どれだけ痛々しいかによって面白さが決まる映画です。

(取材:堀木三紀)

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