求め合うがゆえに傷つけあう心の機微を綴る
アクターズ・ヴィジョンが主催した俳優ワークショップがきっかけで制作された映画『空の瞳とカタツムリ』。10代、20代の頃に感じる迷いや焦り、モラトリアムな時間と青春のおわりを繊細なタッチで映し出した作品である。主演は縄田かのん。中神円、三浦貴大、藤原隆介とともに難しい役どころにも屈せず、全身で果敢に挑んだ。映画『サンデイ ドライブ』『フレンチドレッシング』など脚本・監督と二足の草鞋で活躍する斎藤久志がメガホンをとり、テレビドラマ『深夜食堂』シリーズで脚本家デビューを果たした荒井美早が脚本を務める。
本作が初のオリジナル映画脚本となった荒井美早に作品への思いを聞いた。
<荒井美早 プロフィール>
1986年生まれ。
2011年、テレビドラマ『深夜食堂2』で脚本家デビュー。
本作『空の瞳とカタツムリ』で初の映画脚本に挑戦。
主な脚本作品
2011年:ドラマ『深夜食堂2』(第15話、第16話)
2013年:ドラマ『ソドムの林檎~ロトを殺した娘たち』
2013年:映画『共喰い』(脚本助手)
2014年:ドラマ『深夜食堂3』(第21話)
『空の瞳とカタツムリ』
<STORY>
祖母の残した古いアトリエでコラージュ作品を作りつづける夢鹿(縄田かのん)は、消えない虚無感を埋めるため、男となら誰とでも寝る生活を送っていた。一方、夢鹿の美大時代の友人である十百子(中神円)は極度の潔癖症。性を拒絶し、夢鹿にしか触れられない。そして二人の友人、貴也(三浦貴大)は、夢鹿への想いを捨てきれないまま堅実に生きようと努めていた。学生時代、とても仲の良かった三人。しかし月日が経つにつれ、少しずつバランスは崩れていった。そんな中、十百子は夢鹿に紹介されたピンク映画館でアルバイトを始めるが、行動療法のような日々に鬱屈していく。その映画館に出入りする青年、鏡一(藤原隆介)は、満たされなさを抱える十百子に心惹かれていくが……。夢鹿と十百子、永すぎたモラトリアムは終わろうとしていた。
監督:斎藤久志
脚本:荒井美早
企画:荒井晴彦
タイトル:相米慎二
出演:縄田かのん、中神円、三浦貴大、藤原隆介、利重剛、内田春菊、クノ真季子 、柄本明
製作:橋本直樹、松枝佳紀
プロデューサー:成田尚哉
製作:ウィルコ、アクターズ・ヴィジョン
制作プロダクション:ウィルコ、アルチンボルド
英題:Love Dart
2018/日本/カラー/DCP/5.1ch/120分
配給:太秦
公式サイト:http://www.sorahito.net/
©そらひとフィルムパートナーズ
★2019 年2月 23 日(土)より、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開
―この作品の脚本を書くことになったきっかけをお聞かせください。
アクターズ・ヴィジョンのワークショップで使われた父(荒井晴彦)の脚本が映画化されることになった際、プロデューサーから「タイトルは『空の瞳とカタツムリ』。監督は齋藤久志。主演は縄田かのん。女の子2人の話という点を変えなければあとは自由に書いていいから、撮影に入る秋までに仕上げてほしい」とお話をいただきました。
-『空の瞳とカタツムリ』というタイトルを聞いたときにどう感じましたか。
『空の瞳とカタツムリ』は相米慎二監督の遺作『風花』のタイトル案として最終候補まで残ったものだそうです。今となっては素敵なタイトルに思いますが、当時、あらすじも決まっていない段階ではあまりにとりとめなく、つかみどころさえわからなかったので、カタツムリについて調べることから始めました。そこで、雌雄同体のカタツムリは交尾をする時、恋矢(れんし)という生殖器官を互いに突き刺しあうこと、それは相手の寿命を著しく低下させることを知ったのです。そこに着想を得て、筆が進むようになりました。
—主人公は夢鹿(むじか)、十百子(ともこ)の2人です。名前の漢字を見たときに、読み方に迷いました。人物設定と何か関係しているのでしょうか。
岡崎夢鹿の岡崎はマンガ家の岡崎京子さんから、高野十百子の高野は同じくマンガ家の高野文子さんからいただきました。夢鹿はラテン語で音楽を意味するムジカから。クラシック音楽は一曲の中で様々な表情を見せます。一見とりとめのない言動も彼女の中では繋がっている。そんな思いから夢鹿と名付けました。潔癖症だった十百子は最後に強迫観念から解放されたことによって何でも触れるようになってしまう。彼女はいつも極端で、0か100かしかない。病気が治っても苦難は続きます。そんな意味を込めています。
私はこの作品を書くにあたって少女マンガのような作品を目指していました。マンガ家のやまだないとさんから「少女マンガとポルノグラフィは似ている」というコメントを寄せていただき、とてもうれしかったです。
―十百子は極端なほど丁寧に手を洗います。荒井さんご自身にそういう部分があったのでしょうか。
私は18歳から10年間、ひどい潔癖症でした。しかも当時はそれを周囲に隠そうとしていたので本当に生きづらかった。症状がだいぶ緩和されてからも潔癖症については一生書くまいと思っていました。潔癖症というと手を洗うイメージが強いと思いますが、その根底にあるのは「触らなければならないが触りたくない」「触りたいが触れない」という圧倒的なジレンマであり、触ったことによって自分が汚れてしまうかもしれないという根拠のない恐怖心です。世界を拒絶し、誰にも抱きしめてもらえず、誰をも抱きしめることができない。潔癖症は映像的に地味なところがあるので、ドラマや映画で扱われることは少ないですが、こういった人もいる、実は意外と多いということを知ってもらえたらと思います。
—ご自身の辛かったときのことを脚本に落とし込むのは大変だったのではありませんか。
今でも普通の人よりは手を洗っています。そのおかげかは分かりませんが周囲でどんなにインフルエンザが流行ってもいつも私だけはかかりません(笑) 絶対に書くまいと思っていた潔癖症ですが、いちばん辛かった時のことをこうして作品に残すことができて結果的に救われました。
私自身が潔癖症だった頃、父から「きれいは汚い、汚いはきれいだから、2つは同じなんだよ」と言われました。今回、潔癖症を扱うことに決めた時、主人公2人を対の存在にしようと思い、対極の設定にしました。ただ、対極でありながら、表裏一体、一心同体であり、本当にきれいなのはどちらなのか、本当に汚いのはどちらなのか、物理的な多重人格といったイメージで書いています。
―「穴」という言葉が何度も出てきます。欠落感を意味するように感じました。
穴はつまり膣のことであり、心に空いた深淵のことでもあります。そのどちらもSEXでは埋まらない。夢鹿が探しているのは「そういう雰囲気になってもSEXしない人」です。そういう存在こそが彼女の穴を埋めてくれるんだと思います。だから彼女は一度寝た男とは二度と寝ない。三浦さん演じる貴也は夢鹿の穴を埋めることが出来る可能性を持った唯一の男でしたが、貴也とも結局は体の関係になってしまった。それがまた夢鹿に途方のない欠落感を与える。穴が空いているのは体ですが、本当に埋めたいのは心の穴です。
—夢鹿と十百子は互いに特別な好意を持っていますが、穴はふさがらないのですね。
ひな鳥が最初に見たものを親鳥と思い込むように、強迫観念に支配された狭い世界に生きる十百子には夢鹿しかいませんでした。しかし、世界を狭くしている潔癖症が治っていくに従って、十百子の世界も広がっていく。その結果、見えるもの、触れるものが増えて、十百子は変わってしまう。もしくは本来の十百子に戻る。十百子自身にも、それまでの夢鹿への執着的な好意が強迫観念が見せた夢なのか、本心なのか、分からない。盲信的にではなく、十百子から愛されたかった夢鹿は十百子を試し、結果的に夢鹿のものだった十百子は巣立ってしまう。
心と体の問題もあります。夢鹿は十百子の心も体も欲しい。そのために、貴也が自分にしたようにSEXを利用してしまう。そしてやはり体は手に入ったけど、心は手に入らなかった。十百子は夢鹿の心を手に入れたかったけど、体は別に要らなかったんでしょうね。しかも十百子はずっと普通になりたいと思ってきた。相容れないところが最終的に生じてしまったのです。
—荒井さんがこだわったシーンがあったら教えてください。
夢鹿、十百子、貴也が3人でボートに乗って、早死にした有名人を言い合うシーンです。3人が唯一一緒にいるシーンなのに、現実味がない。三途の川の渡し船も3人乗りだし、自分でもいちばん好きなシーンです。あと、書き直すうちになくなってしまったシーンなのですが、貴也が死ぬシーンです。完成した映画では暴走車による事故死になっていますが、最初は赤信号に歩き出す自殺でした。死にたがっていた女2人の代わりに、一番まともに生きようとしていた男が死ぬ。2人の中から死を消し去るためかのような貴也の死が、2人に彼の遺骨を食べさせる。他にも貴也がブラックな広告代理店でパワハラを受けてるシーンとか、球体関節人形を作ってるシーンもありました。
―荒井さんは映画の脚本は初めてとのこと。テレビドラマと映画では違いがあるのでしょうか。
映像化されたのは初めてですが、以前にも書いたことはありました。初めて書いたのはシナリオは映画用です。
もともとアニメの制作会社にいたので、アニメの脚本はよく目にしていました。アニメは約15分経過するとCMが入るので、作家さんによっては「ここでCMが入る」と明確に書いてあるシナリオもあります。前半15分で起承転結の起承までやって盛り上げた後、CM明けに転結に持っていく。しっかり考えて構成されています。ドラマはアニメのように厳密ではありませんが、時間が短いので難しいです。CMのことを考えずに2時間書けるというのは映画だからこそ、ですね。
—お父さまは脚本家の荒井晴彦さんです。お父さまと同じ職業を選んだのはどうしてでしょうか。
最初は普通のOLになるつもりでした。今となっては普通のOLになれたかあやしいところではありますが(笑) 大学生のときに父に来た企画のシナリオを書く機会があり、うっかり脚本の世界に足を踏み入れてしまったのです。
私にとって父は謎の存在。書くという行為で、その謎に少しでも近づきたいという気持ちがありました。シナリオを書きながら父について模索しています。
—脚本を書くことで、お父さまのことがわかってきましたか。
私が幼い頃、父は基本的に家にいませんでした。昔から距離感のある人だったのです。自分が脚本を書くようになり、しんどい職業だということは身にしみて分かりました。家庭との両立は、悲しいことに、確かに難しい仕事ですね。
—今後はどのような脚本を書いてみたいですか。
アニメや特撮モノの脚本を書いてみたいです。子どもと一緒に“何とかレンジャー”といったスーパーヒーローモノを見ているうちに、その奥深さに気づきました。かなりはまっています。
—これから作品をご覧になる方にひとことお願いいたします。
青春は終わってしまったけれど、人生はこれから始まるという希望を描きました。ご覧になって受け入れがたいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、広い世界の片隅にはこういう人たちもいるのだと、広い映画界にこんな映画が1本あってもいいのではないかと、愛していただけると嬉しいです。
(インタビュー:堀木三紀)
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