『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』井上淳一監督インタビュー

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*プロフィール*井上淳一 監督・脚本
1965年生まれ。愛知県犬山市出身。早稲田大学卒。在学中より若松孝二監督に師事し、若松プロダクションで助監督を務める。1990年監督デビュー。
主な脚本作品『男たちの大和』『パートナーズ』『アジアの純真』『あいときぼうのまち』『止められるか、俺たちを』『REVOLUTION+1』『福田村事件』
監督作品『戦争と一人の女』『いきもののきろく』『大地を受け継ぐ』『誰がために憲法はある』

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『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』
1980年代、若松孝二が名古屋に作ったミニシアター“シネマスコーレ”。
映画と映画館に魅せられた若者たちの青春群像劇。
http://www.wakamatsukoji.org/seishunjack/
©️若松プロダクション
作品紹介はこちら
*ほぼ書き起こし。ラストにも言及していますので気になる方は鑑賞後にお読みください。

―井上監督ずっとお忙しかったですね。飛び回っているという感じです。

それまでがヒマな人生だったので(笑)、還暦手前で少し取り戻しています。

―公式ブック(¥1000)がすごく充実していて、こんなに書いてあるのに、ほかに何を聞けばいいのか困っています。書かれていないこと…。

書いてないことは喋っちゃいけないことなんですよ(笑)。

―それはそうですね(笑)。淳一少年可愛いかったですね。

ありがとうございます。あれは杉田雷麟(らいる)くんが可愛いんです。

―井浦新さんは続投で、新しく杉田雷麟(らいる)くん、東出昌大さん、芋生悠(いもうはるか)さんといいキャスティングですよね。芋生さん演じる金本さんの存在がすごく大きいと思いました。
金本さんの元になる女性はいたんでしょうか?


いないです。単純に映画を作るときに、ジェンダーバランスとかじゃなく物語のバランスとして女性が要るじゃないですか。実名でやるときに、当時の彼女を実名で出すわけにいかない。いくらなんでも。なおかつそんなままごとみたいな恋愛は面白くない。誰か作ろうと。
厳密に言えば男社会なので、あのころはシネマスコーレのバイトすら、最初は女性いないんですよ。10年後くらいに来たのが李相美(イサンミ)さん。彼女が最初に「本名で働いていいですか」と言ったという話を聞いてて、やるなら「在日」にしようと。
いつもこうやって社会的なことをちょっと入れたがる、やりたがるんで、僕は。

―それで左翼って言われちゃうんですね。

そう、左翼って言われる(笑)。最近は反日って言われてますから。でも、荒井晴彦さん曰く、「反日は最低限のたしなみ」ですから(笑)。
で、「指紋押捺」のことを入れようと、そっちが先でした。愛知県って在日の人がわりと多いんですよ。戦時中に航空機産業が多かったから。犬山市の僕の小学校のクラスで4人くらいいて、在日も何も全然気づかないんです。通名ですし。それが中学になって大きくなると、「あいつ在日だよ」みたいなことになってきて。16歳になったら机並べていた奴があんなこと(指紋押捺)やらされているわけじゃないですか。そんなことすらも知らなかった。
指紋押捺のことを知ったときも、自分は無関心だったなと。あのころ姜尚中(カン サンジュン)さんが指紋押捺拒否闘争をしてたんですよね。フィクションの人物を作るならそういうことをやろうと。
もう一つは、僕たちは「男」だという、高~い下駄を履いていたことを、ほんとについ最近まで知らなかった。言っちゃえば「いいな、女の方が得だ」みたいに思っていたくらい。
金本という「女性」の存在で、自分を含めた男たちを相対化したい。あの頃なんて、衣裳メイク、スクリプター、編集助手くらいにしか女性はいなかったんで、それはやりたいと思った。

―金本さんがいることで広がって、深まったと思います。

この映画は金本の物語なんですよね。彼女だけが変わるし。淳一はわずかな変化(笑)。人が変わることが映画なんで、当然みんな変わる。でも、2時間くらいの物語で、人ってそんなに大きく変わらないんじゃないかと常々思っていて。今回は立ち位置が5ミリくらい変わっていたということを図らずも描けたんじゃないかと思っています。

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―金本さんと淳一くんがいて、ラブはないけど対立があります。
そして若松さんと木全さんという大人がいてくれます。新さん、見た目似ていないのにどんどん若松監督に見えてきました。


前のときは、どこかものまね感があったんですよ。それは実年齢より10歳若い若松さんだし、全員が知らない時代の若松さんってこともあった。あの若い衆とも年が10歳しか離れていない兄貴分の若松さん。はじめて若松さんを演じるプレッシャーもあっただろうし。
今回は2回目だってこともあるし、新さんが実年齢の若松さんと全く同じ、48、49。しかも新さんのあの座長体質というかね。あの感じが父と子、疑似親子になっているんで。そういうことも全部良いように作用していたんじゃないですかね。

―若松監督ってとにかく弟子希望者がいっぱいいる人なんですね。人が集まってくる。

集まってくるし、「俺が手を汚す」(若松さんの自伝)の中でとか「こんなに監督デビューさせてやったんだ」って言ってるから、なんかみんな騙されるんですよ(笑)。「あ、俺もなれるんじゃないか」って。あのころはにっかつしか助監督採用していなかったんで。
映画の中にあるように、ピンクと自主映画から才能が出て来たっていうのは実はそこしかパイがなかったから。にっかつに行ったって年に一人か二人しかデビューできない。何年かかるの?みたいな世界です。

―テレビはまた違いますしね、やっぱり映画撮りたいんですよね。
名画座をやりたい木全さんが、何度も危機に瀕しながらなんとか持ちこたえました。


ほんとですよ。今日がシネマスコーレの41周年なんです。開館記念日なんです。

―41周年!書いておかなくちゃ。2月19日。

ああやって、東京でもミニシアターができてきて、当時はまだミニシアターって言葉はなくて、単館系とか言ってたけど、地方でブロックブッキングからはみ出た映画の受け皿になったり、中国映画やインディーズの映画が上映できるようになった。

―「届けたい」と監督はおっしゃいますよね。

それが「届く人にも届かない」んですよ。残念ながら。だから”せめて”届けたい。この映画はともかく、今までの憲法とか福島の映画って、9条なくすなとか原発反対という人にしか届いてないんです。本当に届けたい人は、実は違うわけじゃないですか。本当は憲法や原発なんか興味がないって人に届けたい。届く人っていうのは届けたい人ではないんですね、これが。
この映画も、やっぱり一番にはかつての井上みたいな若い人に観てほしいけど、なかなかそういかない。ジレンマとの闘いです。どうやったら届くのか、映画を作って宣伝するたびに同じことを思いますけど。

―実在の人を描いたと知ると、このエピソードはどこまでほんとにあったんだろうと、つい思ってしまいます。

木全さんは80%ほんとと言ってますけど(笑)。「早稲田の名前をとっとけ」はほんと。新幹線も乗ったんですけど、一人ではなかった。高校の2年先輩でけっこう影響を受けた人と一緒だったんです。映像をやりたいと東京の専門学校へ行ってたのが、ちょうど夏休みで帰ってきていた。若松監督に弟子にしてくださいと言って、一緒に飯食って、これから監督は終電で東京に戻るところだと知ったら、「じゃ、今から俺も新幹線で東京に帰る」というわけですよ。それ、ズルいじゃないですか、僕が声かけて道を開いたのに2時間も一緒に乗っていくのかよって。それで、僕も一緒に付いて行こうと思った。先輩のところに泊まればいいし。

―監督は先輩が行くと言わなかったら乗らなかったんですか?

うんそれはさすがにね。どこかに気持ちはあった。弟子にしてくださいと言っても、それだけじゃそこらにいる映画青年だとは思ったんですよ。若松さんも慣れているからうまくあしらう。
乗っていって映画のフレームを手でやってくれたのは、その後若松さんにずっとつきあってても、2度とそういうことはなかった。多分サービスだったんですよ、あれは。なんかついてきちゃったしみたいな。

―弟子になる前の子ですし。若松監督優しいですね。

優しいんですよ。ついてこられたら困る、みたいなことはあったかもしれないけど。「うちは給料払えないけれども、4年ちゃんと大学に」というのは、めちゃめちゃなように見えて、全然そうじゃなかったですから。
いつも言っているけど、「父親未満師匠以上」だったんですよ。その時、入場券で入って、それで乗ったんですけど、最後は東京駅で「それで出てこれたら弟子にしてやるよ」と言って自分だけ降りていきましたけど。本当についてこられたら困ると思ったんだと思います。そこまで書いてたんですけど、キセルの話をやると、新幹線が借りられなくなるからと泣く泣くカットしたという。

―今は天国の師匠ですね。おいくつで亡くなられたんでしたっけ?

1936年生まれで2012年だから、76歳。荒井さんがこないだ喜寿の会をやって、あんなに元気だから。
若松さんまだ撮れたのに、と思いますけどね。

―監督も若松さんのお年までまだまだですよ。会えるときには「これだけ撮ったよ」って持っていかなきゃ。

ほんと。「お前、どれだけ俺で商売したんだ」って絶対言います(笑)。

―おかげ様でたくさんの人が育って、亡くなったあともこんなに力になってくれて。

なかなか幸運ですよね。毎年毎年命日には上映会やったり、実名で2本も映画作られる監督ってそうはいませんから。

―稀有な人ですね。パワーがいつまでも残っているようで。

また、僕たちが安く作るんで。普通ならこれ通らないです。たとえば大島プロとか、東映とかで何かやろうとしたら2億3億です。我々は1千万とか2千万でやりますから、それも大きいんだと思うんです。

―だから集まってくる方がいますよね、手伝わなきゃ、助けなくちゃって。

と思います。でも甘えちゃダメなんですけどね。ずっと甘えて…新さんに「甘えるのもこれが最後ですよ」って公式ブックに書かれてしまいました(笑)。

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―公式ブックのスタッフさんの対談が面白かったです。知らないうちにいろんなところで助けられていたってことですね。どうやってお返ししていきましょう?

ほんとに。
いつも大きいやつを、ちゃんとしたギャラでと思うんですけど。編集の蛭田さんなんて、ずーっと安いギャラでやり続けているんですよ。

―ご本人が楽しくて納得してやってくださるんでしょうか。作品があたって収入が入れば、バックできるんですか?

インセンティブ契約していないんで難しいことは難しいんですよ。だいたいそこまで儲からない。やれるとしたら受賞したときに分けるとか。めちゃめちゃ安くやってもらっているので、やりたいんです。『カメラを止めるな』みたいなことが起こればいいけど。
(ここでいろいろ具体的な数字が出てきて、台所事情はほんとに厳しいと知りました)

―プロデューサーをするともっとシビアにきますね。

実際今までプロデューサークレジットしてないだけで、みんなやってますからね。ただ僕は予算管理ができない。
「10万では厳しい、あと5万」とか言われると「じゃ仕方ないなあ」と言っちゃうタイプなんです。でもそれやったら我々の低予算では絶対できないんですよ。片嶋一貴(プロデューサー)がすごいのは、絶っ対に譲らないんです、そこを。だからギャラを払ったとしたって、片嶋さんに頼んだほうがいい。僕はもう一番向かないんです(笑)。

―あ、なんかわかるような気が(笑)、可愛がられてお金の心配しないで育ったぼんぼんで。

片嶋さんだってぼんぼんなんですよ~。
若松さんのお金の管理を一番学んでいるのは片嶋さんです。間違いなく。
横で聞いててひどいこと言うなって思います(笑)。

―若松監督はそんなにお金に厳しかったんですか?あ、毎日売り上げの報告していました!

厳しいもなにもお金のことしか考えてない(笑)。それが最優先。
やっぱり自分でやってわかるんですけど、僕たちはせいぜい3,4年に1本。『福田村事件』からは続きましたけど。
それを若松さんはあんな風に、年に何本もやって、人にも撮らせて。それだけお金にシビアじゃないとできないんですよ。

―監督だけやればいい、ってわけじゃなかったんですね。

そう、全部。あの人こそ全部やったんです。車だって自分で運転してますからね、現場で。監督は少しでも休みたいわけですよ。その分、映画観ないし、本読みませんが(笑)。

―若松監督の映画は自分の中から湧いてくるんでしょうか?

それこそ何か起こったときに「自分なら」という野生の勘がある。
足立さんや僕たちが言ったことをピッと「いいとこどり」するその勘はものすごい。
『トラック野郎』(鈴木則文監督)の中で、マルキ・ド・サドの「サド」のことを、星桃次郎(菅原文太)が「佐渡」だと思うシーンがあるんですけど、あれ若松さんもほんとに思ってましたからね。「佐渡」って(笑)。
僕は若松さんと出会ってから『トラック野郎』を観て、ああトラック野郎、若松さんと同じだなあと思いました(笑)。

―詳しいところと知らないところと差があるんですね。

だけど、ほんとに知らないことは知らないって言う人だったし、全然カッコつけない。僕たちになんでも聞いたし、フラットでした。

―偉ぶらない。怒鳴るけど(笑)。映画の中で、淳一くんずいぶん怒鳴られていました。

怒鳴られてました。ただ、事実かどうかを言えば、河合塾の映画のときはあんな怒鳴らずに粛々と自分で監督やっていました。何も言わずに(笑)。こないだ僕の半年後に入った助監督が、映画やめて今アイドルビデオ撮ってるんですが、観て「身につまされすぎて・・・」って。
僕は「オーライ、オーライ」って電信柱にぶつけましたけど、そいつはロケによく使われる渋谷のホテルで「オーライ、オーライ」ってやったら出て行く途中のベンツにぶつけたんです。そしたら、出て来たのは京本政樹だったという。若松さん怒った怒った。ベンツがガシャってへこんでね。
今、白石(和彌監督)がよく言ってるのは、若松さんが「原田芳雄さんに怒れないから、助監督を怒って現場をしめたり、何かを伝えようとしていたけど、それはパワハラですよね」。でも彼も僕も若松さんにされたことをたぶん一度もパワハラだと思っていないんです。この映画で一番心配しているのは、パワハラ肯定だと思われたらいやだな、ってことです。井上というサバイバーが、懐かしんでる・・・。

―私は全然そうは思いませんでした。思う人もいるかもですが。

僕も思ってない。僕たちは残っているけど、志半ばで辞めた人が大多数なわけです。経済に負けたりはしていくんだけど、怒鳴られて辞めたってことはない、たぶん。
この何年かパワハラに敏感だったじゃないですか。でも、この映画ではそう思う人は少ない。それはなんだったのかなってことを考えてもらえればと思います。
よく「パワハラかパワハラじゃないかは愛があるかないかだ」って言われるけど、僕はそういうこと言われると、ちょっと待って待って!「愛の便利使い」するなよって。
だけどやっぱりあの若松さんの何かではあるわけですよ。あの人は怒鳴るのは現場だけで、普段は、僕たちにメシとってくれたり、作ったり。人が美味しいって言ってくれるの好きだし。最上級の人たらしなんですよ。

―お料理して食べさせてくれるんですか。

するんですよ、何でも。外で食べると高いから(笑)。
その辺は徹底してる。

―木全支配人がロケのときに温かいものを食べさせたかったっていうのと通じますね。

気持ちは一緒なんですよ。安くてもちゃんと美味しくて温かいものをっていう。木全さんは作らないけど。スコーレの隣の弁当屋さんからケータリングみたいに出してもらって、みんなに食べろ食べろと言って、芋生さんと僕の分が残ってないときがあったんです。
僕が福田村のプロデューサーだったときに弁当食べていたら、普段何も言わない片嶋さんが「井上、プロデューサーは一番最後に食べるもんだ」って言ったんですよ。足りなくなるといけないからって。
木全さんはそういうところ全く関係なくて(笑)。僕も言いましたけどね、木全さんに。そしたら「ああ、わかったわかった」って。次の日、見てたら最初のほうで食べてた(笑)。

―悪気はないんですね。

ほんとに全然悪気はない(笑)。若松さんとのお金のやりとりをしてると、みんなおかしくなるんですよ。めちゃくちゃシビアだから。木全さんは30年もそれをやってきた。そういう人だからできたんですよ。
ミニシアターの支配人って意外とそういう人が多いんですよ。ぽよ~んとしている。だってお金のことにシビアになっていたらできないもの。木全さんはその一番の親分みたいな人でぼや~っとしてる(笑)。

―何度かお目にかかりましたが、いつもニコニコしていて木全さんって怒ることあるのでしょうか?

あの人が怒るときはよっぽどですよ。
それを東出さんが見事に演じてくれたので、ほんとにありがたかったです。東出さんをよく見てるとあの無防備さを含めて似ている。東出さんは優しくて無防備なのでモテちゃうんです。「福田村」も助けてもらいましたし、またもう一回がっつりとやりたかったんです。東出さんの本質みたいなものと、これは木全さんに合うんじゃないかとどこかで思っていましたね。

―ほわほわ~っとした木全さん役は、いつものカッコいい役とは違う東出さんでした。

最初は主役だったんです。自分の話をやるつもりはなかったんで。
木全さんに対立と葛藤がないので話を作れなかったんですよ。そう言うと最近文句言うんですけどね。「対立と葛藤がない」んじゃなくて、「対立しないし、葛藤しないんだ」って。若松さんといちいちバトラないので作れないんですよ。しょうがないから井上話を。

―サブのつもりだったんですね。こちらは「対立と葛藤」がある。

そしたら東出さんはだんだん主役ではなくなって、どこか「触媒」のような形になった。これはもし、事務所が入っていたら「約束が違うじゃないか」ってなったと思うんですよ。実際に東出さんが名古屋に撮影の3日前に来て、木全さんにずーっと聞き続けるわけです。「木全さんそう言いながら怒るときあるでしょう?」って。でも、木全さん、「ないよないよ、そんなこと~。時間の無駄だし」としか言わなくて、挙げ句に「こんな役やったことないでしょ~。得するよ~」みたいな。。
そんな中で、東出さんが「これはちゃんと触媒のほうをやろう」とモードチェンジしてくれたんでね。正直言うと名古屋に来て「シネマスコーレで一日働きます」って言ったのに、来なかったんですよ。そのときは東出さん降りるんじゃないかと思いましたが、でも全然そんなことはなく。
俳優部全員に「名古屋弁でやらなくていい」って言ってたんですよ。なぜかと言うと名古屋が舞台の映画『そばかす』(22)で、名古屋弁が名古屋弁に聞こえなかった。方言指導もあったと思うんですけど、イントネーションが全然違う。それだったらやめようと思って。
誰かが聞いたらしいけど「標準語で覚えてきたけど、木全さんに会ったら標準語だと木全さんにならない」と言ってたんで、たぶん来なかった一日で全部名古屋弁に入れ直したんですよ、間違いなく。
方言指導もいないし、テープもないのによくやったなと思って。

―名古屋弁をどこで勉強されたんでしょう?

もうね、不思議なんですよ。木全さんにだって、撮影3日前のそこでしか会っていなくて、『シネマスコーレを解剖する』ってドキュメンタリーしか観ていないのに、あそこまで特徴をとらえている。

―姿勢も、猫背になってて。

オーラ消して。現場に新さんと二人いるとみんな「新さんカッコいい!」になるわけです。新さんは若松さんだからオーラ全開でいってるから。だから役者ってすげぇなって。

―スイッチのON/OFF自在なんですね。新さんも若松さんでなければオーラ消すんでしょうね。

と思います。「福田村」のときはまた違う。どっちかと言えば東出さんの方がオーラ全開だった。あれはエロエロだから。それは、芋生さんと雷麟くんも、うちの地元で上映会やったときに来てくれて、スコーレのボランティアスタッフが二人を見て「えっ、こんなにオーラ全開!」ってみんなが驚いていましたから(笑)。舞台挨拶のオーラ出すモード。撮影のときは井上と金本だしオーラ消してた。すごいですよ、あの人たちは。

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―キャストが多いですね。

一個は福田村チームです。重なってる。それは福田村が非常に悲惨な現場で…悲惨だったんですよ、低予算で。最後のほうになって、僕が「新さんと東出さんと雷麟くんで(次の作品を)やる」って話が広まったら(田中)麗奈さんが「井上監督の現場見たい」と言うので、「見に来たら、出てくださいって言っちゃいますよ」って冗談めかして言っていた(笑)。コムアイさんも相応しい役がないんで「音楽やってください」「音楽はできないけど出してください」って、それで木全さんの奥さん役に。それがまず一個。
竹中(直人)さんは、夏に石井隆さんの追悼上映でシネマスコーレに行ったんですよ。木全さんに「絶対口説いてください。昔と同じ役です」。木全さんが口説いた。ただ片嶋さんがマネージャーにギャラの数字を「何かの間違いでは?」って言われたらしいですよ。

―ゼロの数が(笑)? それでも出てくださったんですね。

そう。(田口)トモロヲさんは岡留(安則)さん(噂の真相編集長)。ドラマ「不適切にもほどがある」を見てたら、いろんな小道具をちゃんと出すわけです、作りこんで。低予算の僕たちはできないので、人とか名前で行くしかない。岡留さんは、実際にあの飲み屋にいた人だったので書いた。誰にしようと思って「トモロヲさん」。事務所の社長が、高校の先輩なんですよ。しかもなんと教育実習で母校に来た時に僕は生徒だったんですよ。ちゃんと教育実習日記に書かれていて僕のクラスだったのがわかりました。その高校も撮影で使わせてもらえました。
トモロヲさんは、書いてもいいと思うんですけど木全さんがギャラをお渡ししたときに、「これ井上君にカンパだから」って。いったい俺たちの現場はどう思われているのかと。

―ベテランの方はわかるのかも。

ありがたいですね。あと、BoBA(田中要次)さんは、シネマスコーレ組なんです。僕が若松さんと一緒に忘年会に行くと「僕国鉄の職員なんですけど、俳優やりたいんです。原田芳雄さんが好きで、東京に行きたいんです」と若松さんに挨拶していました。 **国鉄分割民営化1987年

―国鉄職員だったんですか。ものわかりのいい「お父さん」役で。
(実の)お父さんは今だにものわかりよくて、ずっと応援してくれているんですよね。


はい、今だに。淳一のあの実家はうちですし、メイクルームとしても使ってるし、こないだの上映会では近所にチケット100枚近く売ってるし。あの親なくして、いまの僕はありえない。

―お父さん嬉しかったでしょうね。

いろんなところに書いてますけど、「お母さんが生きてたら」ってずっと言ってます。
お母さん役の有森(也実)さんは――うちの母親は松平健がすごく好きで、2011年に御園座で「暴れん坊将軍」をやったときに有森さんがヒロインで出ていたんです。チケットを頼んだらすごくいい席をとってくださった。終わって楽屋に伺ったら、ガウン着た有森さんにカステラやコーヒーご馳走になりました。うちの母親はいたく感激したわけですよ。しかもパンフレットに松平健のサインをもらってくれたりとか。
ちなみに母の妹、叔母はそのサインを見て「高いサインだったね」(笑)。今までこの子にかかったお金がこのサインで戻ってきたって(笑)。
母親なんて誰がやっても不満じゃないですか、どうしようかと迷って「あ、うちの母親が唯一会ったことのある人」にしよう、と有森さんに頼んだらOKでした。
『Single8』(2023/小中和哉監督)でもお母さん役でワンシーンだけ出てきます。有森さん2年続けて実在のお母さん演じているんですよ。有森さん、いいんですよね。ある種の気風の良さ、微妙な尾張弁がすごくいいんです。誰がやっても不満なんてとんでもない。有森さんにやってもらえて良かった。

―尾張弁使える方なんですか?

いやいや。尾張弁は衣装合わせのときに「井上さん吹き込んで」ってテープ渡されて僕が吹き込みました。

―犬山と名古屋のことばはちょっと違いますか?

若干違いますね。岐阜が近くなってきますから。木全さんは大学時代京都で過ごしているから(同志社大学卒)関西弁がちょっと混じっているんです。純粋な名古屋弁ではないです。でもあれが木全さんなんです。

―それを東出さんがちゃんと再現しているという。

びっくりしましたね。これもいろんなところで言っているけど、2日目くらいに木全さんになったなと思ったことがあったんですよ。木全さんに「そっくりでしょ?」って言ったら(ふり真似して)「いやいや、俺はあんなに手なんか動かしとらん」(笑)。

―やりながら(笑)。

まわりが全員「やっとるやろ」ってツッコんだ(笑)。前に「方言テープ吹き込んでよ」って言ったら「俺は名古屋弁喋っとらんて」ってめちゃめちゃ名古屋弁で。

―楽しそうで、こそっと撮影中を覗きたかったです。

面白かったですよ。新さんの若松さんなんだけど、なんか若松組みたいな雰囲気もあったし――本番中に新さんが「井上!」って言って僕が「はい!」と返事したんです(笑)。
みんな本番中なのに笑ってて、僕は「なにを笑うんだろう?」「井上さんが返事したんですよ」って。

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―そして、井浦さん本人が出てきますよね。

はい、それはやろうと思っていました。いろんなインタビューで初めて聞かれました。これ。

―え、だって聞きたいですよ。

だから、びっくり、です。なんで誰も聞かないんだろうって思ってた。
これは不思議なわけですよ。木全さんがいて東出さんがいて、僕がいて雷麟くんがいて、新さんは若松さんを演じている。これは、どっかでこの映画の「入れ子構造」をやりたいなと思って、新さんも面白がってくれて。ただやっぱりしんどいって言ってましたよ。あの日のことを思い出さなきゃいけないから。

―あれは順撮りで最後に撮ったんですか?

いや、違います。撮影は12日間しかありませんが、ケツから3日目。いや4日目。
砂丘で話すのは最終日でした。その砂丘からが大問題だったんですよ。
編集してテンカラットって新さんの事務所で、みんないる中でラッシュを見たら、ほぼほぼ全員が砂丘以降「切れ!」って言ったんですよ。細谷さんなんて「宣伝お願いします」って観たときに「切ったらやる」みたいなこと言ったんですよ。(細谷さん「切ると思います」だったと訂正)
そこまでは誰も何も言わずに、あそこを切る切らないだけが繰り返しずっとみんなで議論され続けた映画だった。
公式ブックに入ってるシナリオには書いてあるんですけど、追悼上映会で木全さんの横に若松さんが立って以降、まだあったんですよ。あそこでカットの声がかかって、そうすると撮影クルーがいるのが分かる。で、クランクアップになって、僕が若松さんと抱き合うという。撮影ではちょっとグッときちゃったんですけど、その後、シネマスコーレの表になって、みんなで記念撮影になる。と、そこにかつての淳一みたいな少女が来て「弟子にしてください」と。そうやって続いていくというシーンがあったんです。その子も良かったんですけど、さすがにそれは切りました。
でも、みんな、それだけじゃ満足しない。砂丘以降切れの声はかなり大きかったです。

―今もですか?

今も言う人は――プロほど言いますね。「やっぱり要らない」って。
ただあそこで終わるとね、もしかしたら「よくできた青春映画」と言われるかもしれない、もしくは「かなりよくできた青春映画」と言われたとしても、小品だと思う。何かそこにフックを残したいなと思ったんです。
恥ずかしいですけど、僕は猫をたくさん飼ってきて、母が死んだときに、猫たちがいっぱい死んで”喪失慣れ”してたんですよ。あれだけ可愛がったものも死んだら会えなくなる、これも恥ずかしいけど「僕が死んだら会えるね」って思ったりするじゃないですか。そこのところで、死んだ誰かがいつも見守っていると思うというか…。
この映画を若松さんだったらどう思うか、とずっと思うわけで、そういうことはちょっとやってもいいかな、と思ったの。これは実名の作品でしかできないだろうと。
だから、白石が〈映画芸術〉に書いちゃったけど、1作目のラストは亡くなった若松さんが先に亡くなっためぐみに会う。二人が歩いて行くラストだったんですけど、白石がホンの段階で「絶対やめよう!」って(笑)。で、今回は残しました。
マーベルとかがそういうことを平気でやっているから、意外とみんなが反発するものではないと思う。たくさんの人が観てくれるとあそこで泣いたと言う人もいるし。でもそれまでは反対派ばっかり。9:1で反対だったら、僕もさすがに切るけど体感では6:4。だから残すと言ったけど、ほんとは8:2だった(笑)。でも、今は3:7くらいな感じですよ。

―今日はありがとうございました。

ピンク映画について
最初に若松さんが「ピンク映画は終わりだ」って言ってるシーンから言うと。
若松さんの感覚の中では、「自分がやっていた社会的なことはできなくなったんだ」ってことだと思うんですよ。もっと言うなら、それを足立さんみたいにうまく取り入れてくれる人もいなくなっちゃったしね。それで若松さんの中では終わってたんですけど、それとは別に、廣木(隆一)さんや滝田(洋二郎)さんのような才能がぐわーって出て来た。そこしか開かれてなかったから。
AV(アダルトビデオ)でヒットした代々木忠は、ビデオ撮りのを、キネコ(フィルムに変換)にしてやってたんです。それはドラマじゃない。AVをスクリーンでやっているだけ。
にっかつも同じような道をたどって消滅するんです。ピンクはよくわかんないけどまたゆり戻す。名画座もレンタルビデオで苦しかったけれど、一番打撃を受けたのはピンクとロマンポルノと思いますよ。AVでリアルにやってるから余分なドラマ観なくて済む、みたいな。家に帰ってそこだけ早送りすればいいみたいな。そこを映画がまねしちゃったんですよ。


(取材:白石映子)

Cinema at Sea 沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバル 『ロンリー・エイティーン』トレイシー・チョイ監督インタビュー

2023年11月29日(水)那覇市内インタビュールームにて

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昨年2023年11月に開催された第1回Cinema at Sea 沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバルのコンペティション参加作品『ロンリー・エイティーン』は、ベテラン女優であるアイリーン・ワン(温碧霞)がプロデューサーを務め、彼女の指名によりマカオ出身のトレイシー・チョイ監督により映像化されました。ヒロインは、国民党兵の落人村として知られる香港・調景嶺で育ち、親友とともに貧しさから逃れるように香港芸能界に身を投じます。作中では、芸能界で遭遇する性搾取、ヒロインと国民党軍の士官であった父との確執などが描かれます。
アフタートーク付き上映の2日後11月29日に、トレイシー・チョイ監督にお時間をいただき単独インタビューを行いました。アフタートークではお聞きしきれなかったマカオのこと、業界における性搾取について現状をどうとらえているかといったお話もうかがいました。アフタートークのレポートとあわせてお読みください。

*プロフィール*
トレイシー・チョイ(徐欣羨)監督
マカオ出身。台湾の世新大学と香港演芸学院で映画を学ぶ。処女長編『姉妹関係』(2016)は2017年の大阪アジアン映画祭コンペティション部門で上映されており、マカオ国際映画祭(澳門国際影展、略称IFFAM)のコンペティション部門でマカオ観客賞を受賞したほか、香港電影金像奬にもノミネートされた。『ロンリー・エイティーン』では2022年のマカオ国際ムービー・フェスティバル(澳門国際電影節、略称MIMF)で最優秀新鋭監督賞を受賞している。

―映画祭カタログにはマカオでも撮られていると書かれてありますが、映画自体は香港の物語ですね? ヒロインの故郷の調景嶺のシーンをマカオで撮ったのでしょうか?

監督:全部香港で撮りました。撮影当時はコロナ禍真っ只中で、最初は80年代のある風景はマカオで撮る予定でした。ですが、コロナの関係でマカオと香港も自由に行き来できなくなってしまったのです。どうしてもマカオで撮る場合、我々クルー全員が14日間隔離されなければなりません。それは非現実的だったので、仕方なく全て香港で撮るというプランに変わりました。

―監督はアイリーン・ワンさんからの御指名ということでしたが、指名されてどう感じましたか?

監督:驚きがいちばん大きかったです。新人監督は、私だけではなく往々にして自分にまつわるストーリーや自分の興味関心を撮ろうという方向に行きがちです。でも、そうではない。この作品というお題を与えられ、挑戦のしがいがありました。アイリーンさんの実際の体験のなかにいかに自分を融合させていくか挑戦的でした。

―全体の何割くらいをアイリーンさんの実際のことだったと受け止めればよいでしょうか?

監督:うーん……本当に幼少期は彼女の実話に基づいているのですけど、少女が二人出てくるところからその年代を生きた女性たちの共通性を描きたかったので、彼女自身の個の体験から離れていって、結婚して旦那さんとの絡みに関しては彼女の現実的な結婚生活とは程遠いものになっていますね。ただお父さんへの思い、お父さんとの対話・交流に関しては実際の状況をかなり反映しています。

―もしかすると監督が生まれる前のことを描かれたのではないかと思いますけど、いろいろリサーチとかも必要だったのではないですか?

監督:自分が生まれていない時代のパートに関してはかなり時間を要しました。アイリーン・ワンさんの過去作はもう一度じっくり拝見しました。もちろん古い香港の映画はこれまでにも観ていましたけど、意識的に観たことはなかったのです。まず、その当時、彼女が言うように他の俳優の方々も不本意ながらもそういったセクシャルなシーンを演じないといけなかったということについて、どういった形で作品化していったのか。時代を経た今振り返って、そのクオリティや質感をチェックしたりしました。あとは、やはりアイリーンさんのお父さんが暮らす村の部分がすごく特殊な場所なので、そこに関するリサーチ、そしてドキュメンタリー映画なども観ました。フィールドリサーチは入念にしたつもりです。

―その地区は、マカオとはかなり環境が違いましたか?

監督:調景嶺というアイリーンさんのお父さんの暮らす香港のその場所は、本来は国民党と一緒に台湾に撤退する人たちが逃げ遅れて留まってしまった場所です。彼らはいつか迎えが来ると期待を抱いていました。けれど、結局いつまで経っても迎えは来ませんでした。人々(国民党)に忘れられた場所、捨てられた場所という意味ではマカオとは違う文脈の場所だと思います。

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―エンタメ業界の性搾取の問題が出てきます。そうしたことは、まだ残っていると思われますか?

監督:改善はされていると思います。香港の以前の状況は、地元のマフィアとの関係という理由がありました。当時は映画産業で働いている女性が少なく、体制や仕組みなど女優を守ってあげられる環境になかったと思うのです。今は――私も女性だからかもしれないのですが、多くの新人監督たちがそういうセクシャルなシーンを撮るときなどに気を付けているのは、やはり女優がちゃんと納得した形で進めるために事前のディスカッションで調整をして、心地よい環境で進められるよう配慮しています。以前はプロデューサーや監督が「僕はこう撮りたいからこうしなさい」とトップダウン的で、今とはかなり違うようです。そういった点は改善していると思います。
香港映画の全盛期80~90年代に、香港映画が世界で一大ブームとなったのはアクション映画、カンフー映画だったと思います。男性主導の映画が多くて、女性はどちらかというと引き立て役、中国語で花瓶と呼びます。その当時、女優が演技力を発揮できる空間がそこまでありませんでした。でも、私のここ8~10年の観察では女性を主人公にした様々な人間模様をより広く描いた作品が増えていて、そういった意味では女性に寄り添った映画が増えてきたように見ています。

―監督はマカオご出身であるので、一昨日のアフタートークでマカオには映画産業がなかったので台湾なり香港なりに映画制作の勉強に行かれたと話してらっしゃいましたけど、マカオ出身の映画人はどのくらいいるのでしょうか?

監督:2022年の金馬奨で新人監督賞のノミネートに入った「海鷗來過的房間」はマカオ出身の監督・孔慶輝です。『ロンリー・エイティーン』で脚本を担当してくれた陳雅莉(監督作「馬達·蓮娜」は2021年華鼎獎中国マカオ最優秀作品賞)、あともう一人います。今年2023年の金馬奬でプレミア上映された作品の英語のタイトルが面白くて「I Want to Be a Plastic Chair(來世還作人)」というとてもキュートな映画の監督・歐陽永鋒。同世代なので一緒に仕事をよくします。私の作品のときは手伝ってもらって、彼らの作品のときは私も関わったりします。故郷のために映画を撮りたいという仲間なので助け合っていますね。

―マカオは撮られる側だったとおっしゃっていて、たしかに香港映画に出てくるマカオを思い浮かべます。ノワールものとか、住んでらっしゃる方には不本意な形かもしれませんね。

監督:カジノが有名でカジノの煌びやかなシーンは撮るけど、でも、カジノで働いている人にフォーカスしたものってないですよね。どういう人がカジノのなかで働いているか、たとえばカードを配るディーラーだって何を背負ってどういう生き方でどういう背景なのかということはまったく描くことがありません。そういった意味では撮られるものも限られたものになっていると思います。

―これからどういうものを撮っていきたいですか?

監督:今あたためているプロジェクトはラブストーリーで、舞台が香港・マカオ・台湾です。このラブストーリーは3つの物語構成からなっていて、17歳・22歳・34歳の話。LGBTをテーマにしていて、じつは男女ではなくて女性同士のラブストーリーなのです。

―中国との関係で作品作りに不自由も出てきているのではないかと思うのですが?

監督:逆にLGBTQの映画って、中国マーケットでは上映できないからのびのびとやりたいと思います。この3つの都市はラブストーリーの舞台としてだけではなくて、自分自身がそこで住んだり求学したり生まれ育ったりしている場所なので、自分がその都市にどういう感覚を抱いてきたのかということも描きたいと考えています。それで3つの都市を登場させようと思ったのです。

―都市の対比も楽しみですね。いま脚本を書いているところですか?

監督:書き終わってブラッシュアップしているところです。

―キャスティングのイメージは?

監督:まだキャスティング中で、34歳の女性は『姉妹関係』から一緒に成長してきたようなものなのでそこはもう決まっています。次の旧正月(2024年)には撮影の準備段階に入りたいですね。

―どうもありがとうございました。

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シネマジャーナルHP 映画祭レポート
第一回Cinema at Sea 沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバル授賞式
http://cineja3filmfestival.seesaa.net/article/501913274.html

(写真・取材:台湾影視研究所・稲見公仁子)


『瞼の転校生』藤田直哉監督インタビュー

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*プロフィール*
藤田直哉(ふじたなおや)1991年北海道岩見沢市生まれ。明治大学法学部卒業。大学時代より独学で実験映画を中心に自主映画制作を始める。『stay』(2019)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020短編部門にてグランプリ受賞。2021年には短編映画でありながら、単独で都内映画館をはじめ、全国の映画館で上映。文化庁委託事業ndjc2021に選出。『LONG-TERM COFFEE BREAK』を監督し、劇場公開。2022年、文化庁「日本映画の海外展開強化事業」に選出され、ニューヨーク現地にて長編映画企画の研修を受ける。
本作は、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭の20周年、埼玉県川口市の市制施行90周年を記念して埼玉県と川口市が共同製作。藤田監督の長編映画デビュー作は、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭のオープニングを飾った。

『瞼の転校生』
旅回りの大衆演劇一座に所属する中学生の裕貴(松藤史恩)は、公演に合わせて1ヶ月ごとに転校を繰り返していた。すぐに別れるからと、友達を作ろうともせず、今まで通り誰とも話さず公演時間に合わせて早退していた。ある日、担任から頼まれ不登校なのに成績優秀な建(齋藤潤)の家に立ち寄る。
後日、ひょんなことから地下アイドルのライブに行った裕貴は、偶然に建と再会する。建はアイドルオタクだった。二人は一気に仲良くなり、建の元カノの茉耶(葉山さら)も加わって、3人で過ごす時間がだんだん増えていく。裕貴は二人に舞台に立つ自分を観てほしいと思い始めるが・・・。

公式HP https://mabuta-no-tenkousei.com/
(C)2023埼玉県/SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザ 川口市
作品紹介はこちら
★2024年3月2日(土)より全国順次公開


―明治大学法学部ご卒業、全く違う分野に来られたんですね。

実は、大学に入るまで全く映画を観ていなかったんですよ。北海道の岩見沢というところの出身だったので身近に映画館がない。ただメディア系のほうに興味があったので、大学では映画研究会に入って今回脚本の金子(鈴幸)さんと会い、そこから映画を観るようになりました。

―金子さんとは何本も一緒ですか?

学生のときの自主映画から一緒です。彼が監督をやるときは僕が撮影や製作をやったり。当時は池袋に住んでいたので、新文芸坐やシネマロサによく行きました。きっかけになった映画があって…新文芸坐で今村昌平監督の『神々の深き欲望』(1968年)という作品を観ました。すげーことやってる!と感じて「映画作ってみようかな」と。実験映画とか、個人映画とか撮っていましたが、劇映画はほぼやってはいなくて。

―それが「大衆演劇」の映画撮るんですものね。不思議~!!

大衆演劇は、お風呂が好きで、茨城県のスーパー銭湯に行ったときにこういう演劇があるんだなぁと知りました。そういうときに、たまたま親戚のおばあちゃんが元役者さんだったことがわかって、急に大衆演劇の存在が身近になった瞬間があったんです。ちょっと観に行ってみようかなというのが最初です。

―その初めての劇団を覚えていますか?

女性の座長さんで、演目が面白くて…目の見えなくなった男性とその面倒を見ることになった女性の話で、目が治って見えるようになってみたら主の偉い人で、身分差を感じて恋仲になれない、みたいな…。初めて観た人にもハードルが低いというか、話に入りやすい。面白いなと。
(劇団朱光さんで、お芝居は「かげろう笠」と判明)

―監督が企画をたてられたんですね。いつか撮りたいと温めていらした?

そうですね。今までの短編では若い子を扱ったことがなくて、十代の子でやってみたいなというのがありました。大衆演劇に出会ったら、中で若い子が頑張っている。こういう人を撮ってみたいなということです。

―ストーリーは脚本の方と話しあって、だんだんと作っていくものですか?今回は監督の想いはこの中のどなたかに重なっているんでしょうか?

だんだん作っていきました。誰に重ねたというのはなかったですね。かなり客観的に作った気持ちが強かったんです。ただ、最近インタビューなど受けているうちに思ったのは、建に自分を重ねているんじゃないかなと感じました。

―建さん…不登校の子ですね。

建は、ある種のあこがれを裕貴に持っています。それは建がまだ何者でもないから。けれども裕貴は、やりたいこと、運命を背負っているようなことをやっている。でも自分はそこにいけない、と。アウトローではいたいけれど、一歩踏み出せないでいます。社会のレールの上でしか、生きていけない建の姿はなんだか自分の十代に近いなと、そんな気が最近しました。

―「いい学校に入っておけば、選択肢が増える」とも言っていました。

今は何者でもないけど、自分はすごいことやるんだ、みたいな漠然とした思いがある。ほかの人とは違うと感じているけれど、できることはないし、なんとなく勉強ができるだけで、すごい秀でることもないし。
そういう建の姿が、かつての自分に重ねているんじゃないかなと気づきましたね。

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―3人は中学3年生で、時期は春ですか?

裕貴が中3の春に転校してきました。進路を考える時期です。

―担任の先生がちょっとあんまりでした。

ある種、この映画では悪者のキャラクターになってしまいましたが、大人は大人なりのいいわけというか、理屈があって。それぞれの理屈をちゃんと出す意識はしました。

―建くんは「お父さんお母さんが違う」というセリフがありましたが、里親の設定ですか?それで「瞼の母」の劇が登場して、もっとその話が進むのかなと思いました。

メインに描きたかったのは、親子関係でなく、若い子たちの話です。親子の話を進めると、もともと目標としていっている題材からずれるかなと思いました。そもそも親子の関係ってけっこう重いテーマなので、サブストーリー的にしました。

―数あるお芝居の中からこの長谷川伸さんの「瞼の母」を劇中劇に選んだのは?

ちょっと悩んで脚本の金子とも話していたんです。企画が進んで行って脚本を書き始めたんですけど、せっかく大衆演劇を扱うんだから、劇中劇を入れないと意味がない。僕が個人的に、『stay』 でもそうですけど「疑似家族」とか、家族、親子というのに、興味があったこともあり、そういう要素をどうにか入れられないかなと。
大衆演劇によく使われている有名な作品ですので選びました。

―ほかにも候補はありましたか?どれにしようかな、とか。

いや、ないかな(笑)。「これ!」って感じでした。

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―監督と金子さんは、大衆演劇をたくさん観に行かれたんですね?

行きましたね。特に僕は、大衆演劇がどういう世界なのかを細かく知っておく必要があると思ってました。リサーチを進めていく中で、劇団美松の小祐司座長や華丸くんに取材させていただきました。その経緯があって、今回の作品のご協力をお願いすることになりました。
劇団のみなさん忙しいので、夜の撮影になったり、お休みのない中、舞台になる篠原演芸場も終日空けていただいたりで、本当にお世話になりました。

―舞台裏がたくさん観られて、とても嬉しかったです。それでは、若いキャスト三人のお話を。

三人ともオーディションで決まりました。
一人ずつ言っていくと…。
裕貴の松藤史恩くんは、部屋に入って来た瞬間、脚本でイメージしていた裕貴だ!と思いました。演技とかコミュニケーションとってみると、彼は自分の言葉で話してくれるんです。虚勢を張るとか、カッコつけるとかなく、いい意味で朴訥としていて、直感的にこの子とやってみたいなというのがありました。同席していた金子もほぼ同じ意見でした。
建の齋藤潤くんは、まず、演技のうまさに驚きました。僕たちがオーダーしてきたことを自分でかみ砕いてすぐ体現する、その瞬発力をめちゃめちゃ感じて。コミュニケーションもスマートだし、クールさも持ち合わせている。役のバランスを見たときに裕貴とのコントラストもあるのが良かった。
葉山さらさんは、テンプレートの役、学級委員長の雰囲気があると思うんですよ。

―しずかちゃんタイプですね。

そう、しずかちゃんタイプ、ほんとに。真面目だけど、素直な部分、葉山さんのポテンシャルみたいなもの、オーディションのときの葉山さんの頑張りを直に感じたんですよ。実直な感じが役にも通底するし、単純にこの子と一緒にやったら面白いだろうなと。
3人とももちろん演技がうまいんですけど、それより重視したのは、一緒にやっていきたいかどうかというのを、すごく考えて選びました。

―撮影当時の3人はちょうど中学生ですか?

2023年の3月の撮影で、史恩くん潤くんが中学生、葉山さんが高校生でした。学校のロケはすぐそこの高校でした。お天気にも恵まれて、春休み中の短い撮影期間の中で撮り終えました。
3人は、葉山さんが面倒見のいいお姉ちゃんみたいな感じで、仲良くしていましたよ。その仲の良いのが画にも出ていると思います。

―お姉さん、クールな長男、可愛い弟ですね。この裕貴の女形のメイクは監督の意向ですか?

細かいオーダーはないです。劇団の役者さんって、一人一人メイクが違うんですよね。史恩くんに合わせて、市川華丸くんがマンツーマンでメイクの指導をやってくれました。松川さなえ太夫元、小祐司座長、華丸くんにとてもお世話になりました。

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―普段の素顔とのギャップも映画的に必要ですが、女形とても可愛いですよね。これは予想通りでしたか?

予想してなかったですね。(すっかり変わって)びっくりしました。これまで白塗りしたことがあるとは聞いていたんですけど。史恩くんは、「化粧をするとスイッチが入る」「メイクと衣装が全部整うと別人として演じられる」と言っていました。そういう子にやってもらってよかったなと思います。

―建が初めて舞台の裕貴を観たシーンが、綺麗な映像でBL好きな人も喜びそうです。

ここは奇跡的に、良いシーンになりました。本当はこのとき二人が初めて顔を合わせるというのが良かったんですけど、時間がなくてそれは実現しませんでした。『stay』ではあの古民家を撮影当日まで主人公に見せない、とやれたんですが。

―二人がとても上手だったということですね。

うますぎましたね。ちょっとびっくりです。僕の勝手なイメージですけど、子役って、もっとディティールを指示していって、演技をするものだろうなと予想していたんです。それが本読みのときから彼らはとても自由で、現場に入ってもお互いの反応でやってくれていました。なめてました、すみませんでした(笑)。
二人とも素直なんですよ。大成するって信じています。

―裕貴は旅公演に出ましたが、残った二人はこれからどうなるんでしょう。監督はどこまで考えて作られましたか?

先のことは考えてなかったですね。出会った頃からは明らかに変わっているとは思いますが、変化が持続するかどうか、実は僕はあまり信じていない。人に出会ったからといって、その人が劇的に変わるようなことは意外とないと思うんですよ。もちろん彼らは出会いによって大きな変化の体験をしたんですけど、一方で僕自身はその変化の奇跡を信じていないかも。だからこそ、こうやって映画にしているのかもしれません。どこかで実は信じたいという気持ちがあるかもですね(笑) ネタバレになりますが、彼ら3人の別れぎわもドライでさらっと悲しくないシーンにしました。裕貴にとってそれが日常ですからね。そこはこだわりました。

―大人の俳優さんについてもお聞かせください。

高島礼子さん、佐伯日菜子さん、もちろん初めてご一緒させていただいたんですけど、とてもうまかったですね。今までインデペンデントからやってきた自分からすると、ホン(脚本)の解釈から常に想像を超えてくる演技をしてくれるんです。ここはこういうイメージなんですと伝えるだけで、それをすぐ具現化してくれる。映像的に派手さが必要な場面もあるんですが、そういうオーダーもすぐ理解して臨機応変にやってくださる。経験による瞬発力をすごく感じました。さすがこの世界にずっと生きてきた人だと思いました。

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―初めての長編でご苦労されたことはありましたか?

いや、それが意外とないです。長編だからスタッフと一緒にいる時間が単純に長くなったのが楽しかったですね。特に俳優部さんと同じ時間を過ごしていて、お互いに変化していくのを感じられました。お互いのいろんなことを共有できるし、仲良くなったからこそできる画に映るものがあると思うんです。それを直に感じたことが面白かった。

―脚本家さんは以前からのお友達ですが、ほかのスタッフさんは?

アルタミラピクチャーズさんが集めてくださったんですけど、みなさん商業映画でやっている方々で、すごく勉強になりました。特にカメラマンの古屋さんとは初めてなのに、すごくやりやすかったです。お互いに一緒に作っている感覚がすごいありましたね。僕が思ってもみなかったアイディアをポンと出してくれる。
共通の話題も多くて、歳はちょっと離れているんですけど友達感覚でいられました。だけどお互いリスペクトもあります。スタッフさんに恵まれましたし、いい出会いがあったと思います。
タイトルを赤松陽構造(あかまつひこぞう)さんに書いてもらったのも嬉しかったです。

―このクルーの方々にまた次の作品で出会えるといいですね。タイトルもぜひ赤松さんで。
では、これからご覧になる方々へどうぞ「呼び込み」を。

呼び込み…「本作は大衆演劇を題材に十代の子たちの青春もの、ジュブナイルものを作りました。一方で大人もいっぱい出てきます。出てくる人たちを肯定できるような作品にしたかった、というのがありました。
特に大衆演劇に生きる中学生は、みなさんの日常には存在していないでしょう。映画内で観たときに、どう感じるか、どう受け止めるかということを大切にしていただければと思います」
けっこうまとまりましたよね(笑)。

―はい、たくさん取材されただけあります(笑)。ありがとうございました。
(取材・写真 白石映子)


=取材を終えて=
取材の前日に試写があり、藤田監督のご挨拶もありましたがすぐ下を向いてしまって、写真が撮れなかったのです。どうも恥ずかしがり屋さんらしいとお見受けしました。翌日(1月25日)はskipシティで、映画に登場する劇団美松の方々の舞台が見られるイベントがありました。劇中劇の「瞼の母」の名場面も観られました。松藤史恩くんも可愛い女形で登場しました。そのイベント後のインタビューがこちらです。
監督と同じ北海道出身の私、20年来の大衆演劇ファンでもあります。舞台となっている十条の篠原演芸場にもよく通っていました。「人前に出たり、喋ったりが苦手」とおっしゃる監督は、予想したよりたくさんお話してくださって写真も撮れました。
映画には、いつもは見られない舞台裏や楽屋も登場して、とてもお得感がありました。大衆演劇入門になりますし、ジュブナイルものファンにも楽しめます。

オーストラリア先住民映画祭 2024 『家畜追いの妻 モリー・ジョンソンの伝説』 リア・パーセル監督インタビュー

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2024年2月3日(土)ユーロスペースにて、オーストラリアの先住民の監督たちによる珠玉の5作品を上映する1日限りの映画祭が開催されました。夏のオーストラリアから来日されたリア・パーセル監督とプロデューサーのベイン・スチュワートさんにお話を伺いました。東京をとても気に入ってくださったようです。

*オーストラリアの先住民の方々は、かつてアボリジニーと呼ばれていましたが、最近は「アボリジナル・ピープル」と変わっています。文中ではこの映画祭に冠された「先住民」としました。

*プロフィール*
リア・パーセル(Leah Purcell)監督・主演
豪クイーンズランド州出身。ゴア族、グンガリ族、ワカムリ族の血を引く、オーストラリアで最も尊敬・賞賛されているアーティストの1人。一般作品、先住民作品を問わず、多くの演劇、テレビ番組、映画作品で、俳優、脚本家、監督、プロデューサーとして活躍する。25年以上にわたるキャリアにおいて関わった作品に、『Box the Pony』、『The Story of the Miracles at Cookies Table』、『Don’t Take Your Love to Town』、『Police Rescue』、『Redfern Now』、『Wentworth』、『Jindabyne』、『Somersault』、『The Proposition』など。
直近の出演作品は、2023年サンダンス映画祭にて上映された『Shayda』などがある。また、Amazonのミニシリーズ『赤の大地と失われた花』では、シガニー・ウィーバーと共演した。Sony Pictures TV USAとFoxtel Australiaによるオーストラリアの新ドラマシリーズ『High Country』では主演を務めている。賞も獲得した小説「Is That You Ruthie?」の舞台化を脚本家・監督として進めており、同作品は2023年12月に、クイーンズランド舞台芸術センター(QPAC)で上演。

『家畜追いの妻 モリー・ジョンソンの伝説』
1893年、オーストラリア奥地。モリー(リア・パーセル)は夫の帰りを待ちながら、女手一つで農場を守っている。そこに首枷をはめられた先住民脱走犯ヤダカが現れる。ふたりの間に思いがけない絆が生まれ始め、それまで秘密にされてきた、モリーの生い立ちの真実が明らかになっていく…。
◎アジア太平洋映画賞2021 審査員特別賞を受賞

―以前から語り継がれてきた物語だそうですが、これまでに映画化されていなかったのでしょうか?

監督:これは元々「家畜追いの妻」というヘンリー・ローソンの短編小説(1896年発表)でした。ヘンリー・ローソンはオーストラリアでは誰もが知っている、たいへん有名な詩人・文豪です。
原作は9ページしかない短編です。子どものころ親から語り聞かされ、私自身この話を頭の中で想像できたものでした。ローソンは白人男性の視点で、その土地に暮らしている女性についての話を書きました。
私はこの短編を40年間ずっと大切にしてきました。初めて映画を作るにあたって、私のメンターから「自分が知っていることを書きなさい」というアドバイスを受けていました。それで、この短編を元に先住民の視点から、先住民である私の家族の話を加えてこの映画を作りました。

―監督のオリジナル・ストーリーになったんですね。

監督:はい。私の家族の話になったんです。もう少し説明しますと、プロデューサーの視点から「どうやったらこの作品を多くの人々に見てもらえるだろうか」と考えたんです。ローソンの「家畜追いの妻」はオーストラリアでは、16歳から80歳の人たちまで、ほんとによく知られている作品なので、観客はたくさん来てくれるだろうとは思いました。原作に忠実に映画化された作品と思って観たら、きっとびっくりされたことでしょう(笑)。

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―観客の感想はどんなものでしたか?

監督:この映画をとても好きになってくれました。驚いて「感動した!」と言ってくれて、多くの人が「これは真実の歴史だ」と受け止めてくれたのです。

―白人と先住民では感想に違いがあったかと思いますが。

監督:この映画の中で、二つの話を同時に作ろうと考えました。先住民に向けたもの、それ以外の方に向けたものです。先住民の方について言えば、この作品を観て勇気づけられるような、力を持てるような映画にしたいと思いました。非先住民の方には、私たち先住民の先祖の苦痛が、政治的な観点からでなく、心、魂の観点からわかるように作ったつもりです。これは私の曽祖父や祖母や母たちの話ですから。

―観客の方々が喜ばれたというのが想像できます。(今回は特別な上映会ですが)先住民の方が主人公になる映画は、これまで作られてきたのでしょうか?

監督:この作品は私の映画のデビュー作品です。俳優として出演した作品、短編もありますが、私のテレビや舞台は先住民の視点を大事にしています。というのも、先住民は映画界の中であまり表現されてこなかったからです。心や魂の観点から先住民の話を取り上げ、届けていきたいと思っています。例えば、『レッド・ファーン・ナウ』『クレバー・マン』『クッキーズ・テーブル』など。
これまで、商業作品で先住民が主人公ではない作品を作ったことはありますが、映画作品で主人公にしたのはこれが初。先住民を取り上げた作品を執筆、監督するのに情熱を捧げています。

―映画の中で女性がとても弱い立場にあったとわかりましたが、当時あのように過酷な目に遭っている女性は多かったのですか?

監督:そうです。今日(こんにち)でもそうです。

―日本は女性の地位が世界でも低いことで有名になってしまいました。オーストラリアには女性監督はたくさんいらっしゃいますか?

監督:私がラッキーだったのは、ちょうど監督デビューしようとしたころ、”スクリーン・オーストラリア”のトップが女性だったのです。それもあって選定のときに、女性の新人作家に支援がいきわたるようにしてくださった、ということがあります。

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―日本の映画界では、女性監督は大体1割しかいません。オーストラリアはいかがですか?
(監督、ベインさんと話して)

監督:40%くらいです。(思わずOh~!と拍手、パーセル監督はYeah~!)

―女性は、ほかのスタッフとしてはいますが、なかなか監督にはなれないことが多いです。

監督:今、オーストラリアではたくさんの女性が映画業界に進出しつつあります。脚本を書いたり、監督したり、プロデューサーをしたりと多くなっています。

ベイン:”ジェンダー・マターズ”という大きな活動があります。女性がもっと前面に出られるように支援をするものです。

監督:多文化的な観点からもいろいろな背景の女性が活躍しつつあります。先日私が関わった映画の製作では、5つのセクションに分かれて作りました。プロダクションのチームに5人の女性監督がいましたし、部門のトップは全員女性です。私が作った二つのエピソードでは、中国人の女性脚本家と、ベンガル人の男性脚本家でした。

ベイン:『ヒア・アウト・ウェスト(Here Out West) 』という映画です。多文化的な大変すばらしい作品です。

―それは日本で観られますか?ぜひ来年の映画祭で拝見したいです。
(この映画祭の反響如何のようです)
―(宮)日本では2003年に『裸足の1500マイル』(2002/オーストラリア/フィリップ・ノイス監督)という映画が公開されています。同化政策で親から引き離されて施設に入れられた先住民の子どもが、故郷に帰ろうとする物語でした。監督のこの映画の中でも、白人の女性がモリーの子どもたちを施設に入れようとする場面が出てきました。


監督:私の祖母の物語を映画に入れたのです。祖母は「盗まれた世代(Stolen Generations)」の子どもでした。5歳のときに母親から引き離されました。それ以来、母親に2度と会えませんでした。彼女が70歳になって初めて、68歳になっていた弟に再会できたのです。この映画の中で紙が出て来て、燃やされていましたね。(先住民の親権を否定し子どもを施設に送るための文書です)
同化政策は政府の方針です。先住民やその伝統や文化、皮膚の色さえ無くして、子どもたちに白人の視点から考えさせようというものです。私たちはそんな政府の意図に反して、自分たち先住民の精神を世界に届けようとしています。

―映画の中で、警官の妻ルイーザがモリーの味方になり、モリーも心を開いて話すようになります。これは監督のオリジナルですか?

督:ルイーザとネイトの夫婦は原作の小説にはなく、私が生み出しました。非先住民の観客にどうやって私のメッセージを届けようと考えて、作ったキャラクターです。モリーが心を落ち着け、安心してルイーザと話します。ルイーザは当時の女性たちに先立って、女性が声をあげられるように新聞を通じて訴えかけていました。

―先住民と白人の二人に友情が生まれることに感動しました。オーストラリアは早くから、女性の権利を獲得する運動が始まっていたと知りました。大戦後にようやく女性の投票権を獲得した日本とはずいぶん違います。

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監督:私の本の中には、ルイーザ・クリントフをもっと詳しく取り上げた章があるんです。ルイーザの着想を得たのは、実は南オーストラリア州が、女性の権利、投票権において非常に先進的だったということがあったからです。もうひとつ、ルイーザは原作者のヘンリー・ローソンの母親の名前です。彼女は1850年代に女性の権利や家庭内暴力―彼女もそうだったのでしょうー。―男性の飲酒問題も新聞で取り上げています。「DAWN(夜明け)」というその新聞は映画に登場させています。
ローソンの小説は書き手の男性の視点から書かれていましたが、私は女性を主人公に、女性の視点から書きたかった。小説では「家畜追いの妻」とだけで名前がありません。モリー・ジョンソンという名前を与えました。

―結末はモリーにとって悲劇ですが、そこにルイーザたち女性がかけつけてくれたのにホッとしました。

監督:意図的に女性が力を持てるような終わりにしました。

―とても励みになりました。

監督:GOOD!

―私たち、女性ばかりで作った映画ミニコミが始まりなんです。
―(宮)女性映画人を応援しようと作った雑誌です。1985年ころから。
―で、みんな年をとりました(笑)。


監督:「賢くなった」って言いましょう(笑)。

―ああ、ありがとうございます。言い方(次第)ですね。
―(宮)箒で家の前を掃いていたのは、どういう理由なのでしょう?掃除には見えなかったので。

監督:理由はいくつかあります。
1つは辺境地のため、夜に動物などが家に近づいてくるので、その足あとや痕跡が砂の上に残るように。
2つ目は夫から暴力を受けていたためのPTSDです。心持を表しています。
3つ目は警官を殺してしまったので、その証拠を消すため。

―ロケーション、住まい、衣裳などについてお聞かせください。

監督:まず家についてですが、モリーの小屋は1893年当時の貧しい人の家、として作りました。家も衣装も貧しいうえ、忙しいのであちこち修繕の必要な感じにしています。ヤダカの衣装もそうですが、その土地にある樹木(スノウガム)からとった色で作っています。
小屋と警察署の牢屋は、完全なセットとして作ったものです。撮影中に山火事があって、近づいてきていたので、私たちは延焼しないように小屋を守りました(笑)。

―モリーは街から遠く離れた山の上の一軒家で、一人で家と子どもたちを守っています。ああいう環境は当時普通だったのですか?

監督:はい。「家畜追い」は牧畜業者から家畜を預かって、買い手まで送り届けるのが仕事です。その間妻は家と子どもを守らなければなりません。モリーの場合は”ジョンソンの妻”という社会的な地位は与えられていましたが、非常に危険で困難な暮らしだったと思います。夫が長い間留守なので、お金も食べ物も尽きて大変な状態でした。
今の時代でも辺境の土地に住む人にとっては、関連する話です。

ベイン:家畜追いは「カウボーイ」のような職種で、いったん家畜を移動し始めると何か月、長いときは半年も留守にします。(もう一度ベインさん力説)この映画プロジェクトの良い点は、監督の努力によって古典的なヘンリー・ローソンの原作に二つ変更を加えたことです。原作では「家畜追いの妻」と書かれていた人に“モリー・ジョンソン”という名前を与えたこと。もう一つは「黒い蛇」を男性の先住民“ヤダカ”に替えたことです。それで物語の流れを大きく変えているのです。

監督:「ヤダカ」の話は、私の曽祖父に基づいています。

―また来年この映画祭が開催されますよう願っています。ありがとうございました。

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(取材・写真・白石映子、宮﨑暁美)


『フィリピンパブ嬢の社会学』白羽弥仁監督、中島弘象さん(原作者)インタビュー

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*プロフィール*
白羽弥仁(しらは みつひと)監督
1964年、兵庫県芦屋市生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒。1993年に公開された『She’s Rain』で劇場映画の監督デビュー。その後『能登の花ヨメ』(2008)、『劇場版 神戸在住』(2015)、 『ママ、ごはんまだ?』(2016)はサンセバスチャン国際映画祭、ヴィリニュス国際映画祭に正式出品された。以降も、『みとりし』(2019)、『あしやのきゅうしょく』(2022)と精力的に映画を撮り続けている。日本映画監督協会会員。讀賣テレビ番組審議委員。

中島弘象(なかしま こうしょう)原作者 
1989年愛知県春日井市生まれ。中部大学大学院国際人間学研究科国際関係学専攻博士前期課程修了。会社員として勤務するかたわら、名古屋市のフィリピンパブを中心に、在日フィリピン人について取材。講演、執筆、テレビやラジオなどの取材協力も多数行っている。著書に『フィリピンパブ嬢の社会学』(新潮新書 2017年)『フィリンピンパブ嬢の経済学』(新潮新書 2023年)がある。

『フィリピンパブ嬢の社会学』
大学院生の中島翔太は、フィリピンパブを研究対象にし、生まれて初めてパブを訪れる。取材に通ううちに、フィリピンの家族に送金を続け明るく逞しく働くミカと仲良くなった。フィリピンの家族にも紹介され、ますますミカを大切に思う翔太は、来日するため偽装結婚していたミカの事情を知り、こわごわヤクザの元に乗り込むことになった…。
https://mabuhay.jp/
★2024年2月17日(土)より全国順次公開

―白羽監督が原作を読まれて、映画にしたいと熱望されたと伺いました。映画化が決まってクランクインされるまで、どのくらいかかりましたか?

監督 4年かかりました。2018年に原作を読んで、すぐに原作の中島さんに連絡を取って、2022年に撮影にこぎつけました。今回はこれまで組んだことのなかった三谷さんがプロデューサーです。私も(映画界に)30年いるので、三谷さんにもどこかで会っているんです。撮影とか照明とかのスタッフは、やっぱり今まで自分とやったことのある方ですね。

―前の2本は監督が脚本も書かれていましたね。今回は大河内聡さんです。

監督 はい。大河内さんと付き合いは10年以上になるのかな。名古屋にも来たもんね?(中島さんへ)
奥さんがカンボジア人なんですよ。それでどうだ?と言ったら「カンボジア人はフィリピン人より真面目です」なんて(笑)。原作を読んでいるから「(フィリピン人のように)バイタリティがあって、ガーンと来るタイプじゃないんだ」と。そういう国際結婚をしていて、いろんな苦労があるだろうから、ニュアンスは僕よりわかるだろうということで。

―中島さんは映画化のお話を聞いていかがでしたか。

中島 いろんな話はあったんですよ。ドラマとか漫画を描きたいとか、映画は白羽監督だけでした。話が来てもやらないということが多かったんで「やるんかなぁ?」って感じで。でもやるんだったらお付き合いしますよ、と監督にはお話しました。

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―「フィリピンパブ嬢の社会学」を読みました。中にドラマがいっぱい詰まっているので、これは映画にしたいだろうなと思いました。ラブストーリーにもできるし、社会派ドラマにもできるし、いい原作を見つけられましたね。で、キャストが重要ですよね。主人公のお二人は似た感じの方を探されたんですか?

監督 いや、そんなつもりは毛頭なくて、ものまねショーではないので。たとえばものすごく有名な人物の映画化だったらそれは考えなくちゃいけないけども、そういうわけではないので。映画に出てもらって絵になる動きをしてもらう、ということを前提にオーディションしました。

―前田航基さん、一宮レイゼルさんに決めたのは?

監督 前田くんについて言えば…。この映画はラブストーリーだけども、アクション映画にしたかったんですね。走ったり転んだり、あるいは階段から落ちたり、というアクションで見せていきたいなと思っていました。あの体型で女の子にバチーンと叩かれたり、転げ落ちたりするのは絵としては面白いだろうと。いろんな意味でカッコ悪いところをさらけ出したりする映画なんです。前田くんは大阪だし、ニコニコしているだけで面白そうな感じ。
映画を撮っててわかったんですけど、フィリピンパブに入って女の子がダーッといるのを見たとき、あの子の目が泳ぐんですよ(笑)。あの驚きようと目の動きはほんと良かったです。

―それは前田くんがほんとに初めてだったから自然に。

監督 おそらくそうだと思います、その素直さが出たんですね。
レイゼルさんはオーディションで、もう何百人見た中の最後の最後だった。名古屋、東京とオーディションして、みんな「帯に短し、たすきに長し」で、もうプロデューサーも助監督も「フィリピンに探しに行こうか」と言ってたところに彼女が来た。

―まあ、ドラマチック!

監督 そうなんですよ。とりあえず台本読んでやってみて、というと非常に適応能力があった。全員一致でしたね。

―レイゼルさんは映画のオーディションを初めて受けたんですね。

監督 もともとはモデルですし、東京の人でもないです。金沢から来てました。
家族ともども、10歳のときに来日した生粋のフィリピン人です。

―日本で育っているので、日本語は流ちょうですよね。金沢弁が出るくらい?

監督 そこは加減してやりました。ただね、あの人緊張するとセリフがガタガタするので、ちょうどよかった(笑)。僕は金沢や能登で映画を作っているので、金沢弁や能登弁を知っているんですけど、彼女はどうも東北っぽい訛りがあるんですよ。語尾の上り下がりが違うので、直すのが大変でした。

―中島さんは主人公役のお二人にいつ会われたんでしょう?

中島 撮影の前日ですね。初めて会ったときは僕の妻“リアル”ミカと(笑)一緒に。お見合いみたいな感じになっていましたね。監督が言われたようにものまねではないので、前田さんとレイゼルさんが自分たちの世界を作ってくれればいいと思っていました。でもやっぱり(僕たちを)元にやっていただくので、お互いになんか変な感じでした(笑)。「僕たちのことでいいんですか?」向こうも「僕たちでいいんですか?」みたいな(笑)。そこを監督はニヤニヤ笑って見ている。

―2022年のクランクインのとき、コロナのほうは?

中島 8月30日でした。

監督 まだコロナ禍中で、みんなマスクして本番のときだけ外して、またマスクして。

―ロケはほとんど春日井ですか?あとフィリピン。

監督 名古屋、春日井で2週間、フィリピン4日ですね。フィリピンのコーディネイトは行ったり来たりしてやって、事実上はこの人(中島さん)が。

中島 原作者ではなかなかいないと言われたんですが、全日程付いて行って。3日目くらいから「会社どうですか?大丈夫なんですか?」って心配されました。フィリピンでは現地の方と監督の簡単な通訳とかもやりました。

―フィリピンのロケの時に出てくる方々はご親戚…?

監督 ご親戚です。レイゼルさんのホントの親戚です。従妹だったり…

―あら~、すぐ集まるもんなんですか?

監督 すぐ集まるんです。フィリピンに行ったら気づくんですけど、普通のおうちにお邪魔しても「あんた誰だっけ?」という人がいるんですよ、必ず(笑)。遠い親戚だったりするんですが。これは関西で言う「いけいけ」、「別に、みんなファミリーじゃん?」っていう感じなんですね。だからレイゼルさんもフィリピンに帰ったのが久しぶりだったみたいで、撮影が始まる前の日に里帰りしたんですが、そのときお土産を配っちゃったんですって。映画のシーンで使うので「回収してくれ!」(笑)。カップラーメン開けないでくれてよかった。もう一度親戚の皆さんに集まっていただいて、お土産をまた配った(笑)。

―映画とおんなじなんですね。知らない人まで並んじゃったりするんでしょうか。

監督 あ、あるかもしれないですよ。あのね、撮影やっていると物売りが来るんですよ。天秤棒かついで、(中島さんへ)「あの白いの何て言うの?」

中島 「タホ」。豆腐に黒蜜をかけてあるもので、朝ごはんに食べたりします。

監督 それを現場に売りに来るんですよ。甘くておいしいんです。そういうところ非常におおらかです。

中島 日本みたいに境目がない。低い、というか。「何かやってるから行ってみよう~」って。

―敷居高いどころか、ない? 家には敷居あります?

中島 ありますよ。防犯上は日本よりすごいしっかりしていますけども、フレンドリーです。バイクタクシーの人も、その場で(撮影を)お願いして、行き帰り走ってもらいました。

監督 「トライシクル」というんですが、荷物と人間の境目がないというか、なんでも乗せる。2人が乗っているじゃないですか、僕とカメラマンはここ(その前)、4人乗って運転手さんがいるから5人。

―それでも走るんですか。すごい。
フィリピンの作品は最近映画祭などで入ってきますが、こちらから向こうに行って映画を撮るのにご苦労はなかったですか?


監督 一番困ったのは撮影許可がおりないことでした。後でわかったのは街のボスみたいな人に挨拶しておけばいいんだと、それは学習しましたね。第2弾があれば中島さんが挨拶に行ってくれるらしい(笑)。

中島 え~!(笑)

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―原作にかなり忠実でした。愛のためとはいえ、ヤクザさんと話をつけにいくのは怖いですよね。

中島 「ホンモノの人」って独特の空気があるんですよね。初めは優しそうにしていたけど、牙を見せるみたいな。あれはなんとも言えないですね。
もめごとに入っていったら、素人も何もないですよ。だけど、彼らも上がいて、上にばれたくないから自分たちで何とか解決しようと思ってやっていた、ってことに後で気づきました。

監督 そこのところを映画で説明するには、ちょっと長ったらしかった。ややこしかったんで、ああいう風にしたんです。

―私も本を読んで、こんなにややこしい話だったんだとわかりました。人がいっぱいで誰がだれやらわかんなくなりまして(笑)。

中島 あれはちょっと映画だと…

監督 原作のほうが登場人物多いんです。それこそ配信のドラマみたいに長くやれればいいんですけど。映画は人を少なくしてあります。

―わかりやすかったです。そして良かったのは、二人が途中で別れたりせずきちんと結婚して。

監督 途中で大喧嘩はいっぱいあるよね。

中島 いやもう、喧嘩しかないですよ。ふりかえってみれば。(笑)

―「感謝しかないです」じゃなく「喧嘩しかない」?(笑)

中島 いがみあってますよ。(笑)

―文化の衝突ですね。

中島 「文化の衝突」といえば聞こえはいいですけど、夫婦ってそんなもんじゃないですか。

―(話を振られて)目が泳ぐ…。

中島 いいときも悪いときもあって、「雨降って地固まる」みたいな感じですよ。

―結婚なさって何年になりましたか?

中島 2015年なので、8年くらいです。

―お子さんの写真がありました。

中島 子どもは二人で、あと6月に生まれます。まだ早いって言いながら、結婚1年で本を出して、そこから就職したり、毎年毎年常に新しいことをやってきたりで、まだ8年かという感じはあります。もっと長かったなという気がします。

―中身がつまって濃い日々だったんですね。

中島 監督とこうやって出逢って感謝しているのは「自分の知らないところに監督に連れて行ってもらえていること」。新しい発見ばかりじゃないですか。会社勤めして8年もやっていたら、大体惰性でやれることが多くなります。
監督と出逢ってからは「そんなことやるんですか!?」と思いながらも、やってみたら「あ、できますね。なんとかなるもんですね」(笑)。結婚してから8年間、ずっとこの言葉の通りです。

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―私もミカさんが「いつも笑顔でハッピーなほうに考える」のを観ていて、いいなぁと思いました。日本人って、こうポジティブに考えず、つい心配が先に立ってしまいませんか(私だけではないはず)。

監督 まだ起こってもいない悪いほうに考える。

―なんででしょうね。A型多いから?(笑)

監督 いや、社会がそうなってきましたね、この30年40年。日本がどんどん貧しくなってる証拠だと思うんですよ、それが。それこそ80年代までは浮かれてたわけですよ。もっと言うとこのままこれが続いて、日本はニューヨーク中のビルを買いあさってしまうんじゃないか!?というのが、ドーンと下がったじゃないですか。そういうのが今の日本を小さくしていると思いますね。

―はい。それに上の人のいう事をよく聞きますよね。もめごと嫌いだし(これは自分でした)。

監督 よく聞くというより他人任せ。政治にしてもなんにしても、参加しないで文句を言う。

―SNSができて匿名性が上がってからその傾向が強くなったと思います。

監督 そうですね。自分のせいじゃなく、人のせい。社会が悪い、自分が貧しいのも辛いのも社会が悪い。それは違うんじゃないの?この映画はその点では主体性を持った二人の男女が…まあこの先幸せになるかどうかは別として…

―あ、そんな。ね?(と中島さんへ)

監督 映画、「映画の中」ですよ!(中島さん爆笑)
それでもなんとかなるんじゃないの?って行くところがね、僕からの一つのメッセージです。

―中島さんもそうですか?観客に掬い取ってほしい、感じてほしいこと。

中島 そうですね、心配ごとが多いから、外国人とかに責任を押し付けたい。治安が悪いとか、そういうことで外国人はちょっと…という。そうひとくくりにする人多いじゃないですか。人間だから合う人、合わない人はいます。それを例えば「あの人はフィリピン人だから」とかいうのでなくその人を見てほしい。

―違うからわからない、だからわかろうというほうへ行くといいですね。

監督 この映画ができたこともそうなんですけど、世の中いい風には変わってきていると僕は思います。多文化に関していうと、意識はずいぶん変わってきました。ダルデンヌ兄弟の映画とか、フランスの映画とか観ると、あっちのほうが移民に対する排他意識がもっときつい。宗教が違うからなんだけども。
その点でいうと、日本は少しずつだけれども変わっています。一番は人口減少社会ということがあるから、一緒にやっていかなきゃ産業が回らない。背に腹は代えられない大前提があるにせよね。

中島 身近に外国人が増えましたね。僕の場合は家族ですが、いつも行くコンビニでも働いている人がいます。触れ合える機会が増えたっていうことじゃないですかね。監督から声かけていただいたときに、「日本映画にコンビニのシーンがあっても、店員は絶対日本人なんだよ。外国人の店員がいてもおかしくないのに。そういうところを変えたいんだ」と聞いて、そうだなと思って。

監督 東京を舞台にした映画やドラマにしても、全然そういう外国の人が出てこない。出て来ても、脇役か、そこにポンといるだけでパーソナリティはないわけです。それはもうね、何を見とるんだ、と。たとえばコンビニで働くセネガル人と、孤独な日本の女の子が恋に落ちる話があっていいはずなんです。だけど、こっち側(外国人)のパーソナリティは無視。表現の世界においては、そのへんはまだまだ。僕は今回、どうしてもそこはやりたいと思った。

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―この映画はもっと早く出て来てほしかったです。

監督 4年かかりました(笑)。ただ、この間に社会も変わったんですよ。タイムリーだったと思います。

―パブに縁はなかったですし、知らないことばかりでした。あんなに働いて手元にわずかしか残らないのも、故郷の人たちにこの苦労を知ってほしいと思いました。フィリピンで上映はしないんですか?

監督 します!しなきゃいけません。未定ですが、プロデューサーが折衝中です。

―良かった~!こっちで頑張っている人が報われると思うんです。 

監督 フィリピンに限らず、ベトナムやいろんなアジア圏でそれができればいいなと思います。

―これ、とっても勉強になりました。観客の社会学ですよね。次、経済学も待っております。

監督・中島 (笑)

―いろんなことがいっぱい詰め込まれた作品でしたが、とても繊細でもある。作るにあたって監督が気遣われたところは?

監督 原作は、全て中島さんから見た世界で、ミカさん側からではないんです。映画にするにあたってはそうでなく、ミカさん、フィリピンのみなさんから見た世界も加える、と。あるいはフィリピンのみなさんが日本でどういう風に生活しているかという部分を入れたかった。ショッピングモールで買い物したり、デートしたり、望まない妊娠の問題があったりという、原作にはない場面も入れました。 

―それはやっぱり、フィリピン人の方々にリサーチされたんですね。

監督 あのね、この人(中島さん)に連れていってもらったんです。フィリピンパブに脚本の大河内もみんなで。

―監督も初めてで? (中島さんへ)目が泳ぎました?

中島 泳いでました(笑)

監督 初めて私の横についたフィリピン人のホステスが、タブレットを持って来て「ちょっと見て、これ私の子ども」って言うんですよ。
「旦那は?」「どこにいるかわかんないです」って。

―旦那さまは日本人ですか?

監督 日本人です。赤ちゃんは「フィリピンに帰って産んで預けてきた」って言うから、それをそのまま映画の中に持ってきました。

―日本のホステスさんだったら子どもがいるとは言わないでしょうね。

監督 そう。そのくらいあけすけだったし、「その上で」っていうのもあるかもしれないけど、銀座のホステスさんとは違うパンチ力がありましたね。

中島 それがまたいい、っていう人もあるんですよ。包み隠さずに言ってくれるのは彼女たちのプライドですよね。その人が好きになって付き合うこともあるし、あとから「え!」ってこともあるとは思うんですけど。苦労しても苦労って言わないで、頑張るしかないって。

―あの心の広さ、バイタリティはすごいです。

監督 国がもっと過酷だっていうことです。そこに比べればってことです。1万円、2万円稼げば、それはフィリピンで何十倍もの価値になる。一方で、この先経済成長でどんどん変わっていくはずなんですよ。日本人が見下しているかもしれない人たちと、今度は逆になるぞと考えないと。いずれ日本人は、もうすでにそうですけど、出稼ぎに行ってるわけじゃないですか。こんな円安で。逆転する社会があるかもしれない。

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―この映画はちゃんと社会を写しているけれども、全然説教臭くない。

監督・中島 娯楽映画です。

―可哀想がってるわけでもないし、このキャラクターにすごく救われました。

監督 前田くんいいんですよ、ニコニコして。

―『奇跡』から観ているので、お兄ちゃんの前田くんを観るのが楽しみでした。ミカさんも良かったです。
お母さんが強硬に反対するので、自分だったらどうするかと思いながら観てしまいました。エンドロールにお母さんの写真が出てきますね。


中島 「経済学」のほうも読んでもらうと、母が大活躍。

監督 名古屋の劇場にも、お母さんしょっちゅう来てたね。

中島 来てましたね。

―味方になると母親は強いです。

監督 あと、それこそ孫の顔ですよね。孫の顔見たらってことです。経験ないけど(笑)。

―そうなんですか、なんでも経験ですよ(笑)、経験しないとわかんないこといっぱいありますよね。
中島さんも、大学で研究しなかったら、こちらの人生には来なかったし、奥さんに会わなかったし。

中島 そうですねぇ。出会ってわかろう、としなかったらないですね。
出会った人はいっぱいいたんですけど、一歩先へ踏み出したのは僕だけだった。

―何かに踏み出すときのお話って面白いですよね。(監督になろうと踏み出すきっかけは後述)
お二人はどのくらいお年の差がありますか?


監督 だいぶ違いますよ、僕は59です。

中島 僕は35です。父が59か60です。

監督 じゃあ親子くらいなんだ。でも僕にとっては「先生」なので。

中島 いえいえ。

―こうやって年の離れた人もお仲間になって。

監督 三谷プロデューサーもそうですけど、周りの関係者がほとんど年下になりましたね。ずっと若手だと思っていたのに、気が付けば最年長。

中島 でも僕からしてみたら大先輩の方々に学べる貴重な機会です。

―これまで関わらなかった映画の世界ですもんね。

中島 これがきっかけで将来何が起こるかわからないですよね。だから何でもやってみるっていう、できるだけ多くのいろんな世界に気づくっていうことがとても大事だなって思います。

―映画に関わったことで、ほかの映画の観方が変わりませんか?

中島 変わりますね。

監督 こんなに大変か、と。

中島 大変だとか、このシーンどのくらい撮ったんだろう。この角度もこの角度もあるとか(笑)。

―制作側の目になるわけですね。(そろそろ時間)
では最後のシメに、続編の「経済学」のほうを期待してよろしいでしょうか?

監督 どうしましょうね、春日井にお金持ちが・・・

中島 春日井以外の地域で撮っても面白いですね。

―場所を引っ越す? 芦屋どうですか?お金持ちいます。

監督 いや、芦屋じゃ成立しない、この話は(笑)。

中島 東海3県あたりで。

監督 岐阜、岐阜でやろうよ。あの美濃加茂市で。

中島 美濃加茂市長さん。

監督 この映画を激賞してくださったんです。

―それは嬉しいですね、ぜひ実現しますように。
今日はありがとうございました。


(取材・写真:白石映子)

=映画少年と大森一樹監督=

―監督が映画監督になろうと踏み出すときのお話もちょっとだけ聞かせてください。

監督 それはもうね、大学は日大なので初めっから。芸術学部演劇科でした。

―そちらに行こうと思ったきっかけは何でしたか?映画とか出会いとか。

監督 一昨年大森一樹さんが亡くなられましたね。(監督・脚本家/1952ー2022年11月12日)
僕が中2のとき、大森さんが25歳でデビューされた『オレンジロード急行』(1978)という作品があったんですよ。当時とても不遇だった鈴木清順監督(1923-2017)が、10年ぶりの映画『悲愁物語』を撮っていて、その両方に原田芳雄(1940ー2011)さんが出ているんです。僕は神戸なんですが、中学2年生のときに神戸の映画館の催しで大森一樹、鈴木清順、原田芳雄が対談するって企画があったんです。

―今考えるとすごい豪華ですね。

監督 豪華なんです。中学2年生でいそいそとそこへ行って、2本映画を観て、原田芳雄を観てすっかり吸い込まれました。それまで洋画ばっかり観ていたので、こんなに両極端な日本映画…鈴木清順のとてもわけのわからない映画、大森一樹の軽やかで洋画のタッチの映画…それを見たときに、そこへ入っていけそうな気がしたのかな。そこからですね、自分も自主製作を始めました。で、大学で16ミリ映画を撮って。

―『オレンジロード急行』と『悲愁物語』を中学生で観た。中2?中二病?(笑)

監督 ある種の「中二病」ですね。思い込みの強さで。

―幸せですね。そういうものに出会って。

監督 私はそうかもしれないけど、周りは不幸だったかもしれないですね。

―親が期待したほうに行かなかった、と。

監督 そういうことですね。まあだいたいそうでしょ? みんな「息子が映画監督?!よし、やりなさい!」なんて言う?ありますか、そんな。

―食えないだろうと思っちゃいますね。

監督 わけがわからないですよね。

―やっぱりお父さんお母さんの知らないところで、守備範囲から外れていますし。

監督 この人(中島さん)もそうですよ(笑)。

―外れた息子同士のお二人で(笑)。後もう少し続きを。

監督 大森さんが東京の映画監督でなく、神戸にいながら映画監督になったっていう、これが大きいです。東京に行って、立派な大学出て、助監督になってということではなくてもと。(京都府立医科大学に在学中から自主映画を撮り、助監督経験なしに『オレンジロード急行』で商業映画デビュー)

―大森監督は「心の師匠」みたいな?実際に師事したりは?

監督 兄貴分でした。現場についたりしたことはないですけれども、付き合いは長かった。この映画のエンドロールで「スペシャルサンクス 大森一樹」って入れているんです。

―見逃しました。も一回観ます。

監督 というのは、大森さんは大阪芸大の映像学科の学科長で、機材をこの映画のためにお借りしたんです。フィリピンのマニラでロケしているときに電話がかかってきて、こっちは撮影中でものすごく忙しいときだったんで、「はい!頑張っていまーす!」くらいで切っちゃったんですね。それが最後の電話になってしまって、それは非常に後悔しています。まさか、そんな亡くなると思わなくて。
これの前に撮った映画『あしやのきゅうしょく』のときは、大森さん「うちから一番近い撮影現場だ」って言って毎日来ていました。ちょっとうざいくらい(笑)。春休みでしたし。
「次、どこ行くんや?」って言うから、もうスケジュール渡して(笑)。

―まあ。意見を言うわけでなく、見ているんですか?

監督 言うんですよ(笑)。あれ、子どもの映画なんですが、
「あの子は目線が外れてる」。
「素人の子どもに目線とか言わないで下さいよ。意識したほうが硬くなるから」って反論しました。
そしたらもうずっとモニターの前にいるんですよ。座っているのをどけとも言えないし(笑)。

―現場が楽しかったんでしょうね。

監督 僕もそういうのがとても嬉しかったです。1978年の中学2年生がこうやって一緒に現場にいて、「やめてください!」って言ってる漫才みたいな関係がね。想像もつかなかったですね。

―なんて幸せなつながり!