『彼岸のふたり』朝比奈めいりさん、並木愛枝さんインタビュー

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*プロフィール*
朝比奈めいり| Meiri Asahina(西園オトセ役)
2002 年 2 月 6 日生まれ。大阪府出身。
SAKURA entertainment 所属。イロハサクラ/Ellis et Campanule の 2 つのアイドルグループを兼任しながら、女優活動も行う。2019 年 3 月 20 日公開の映画『手のひらに込めて』の主題歌「雨降草」 でメジャーデビュー 。2019 年 6 月「幽霊アイドル」でバズる。主な出演作に『あおざくら』(短編/18)、『手のひらに込めて』(19)。

並木愛枝| Akie Namiki(西園陽子役)
1978 年 10 月 17 日生まれ。埼玉県出身。
10 代より小劇場を中心に活動。2001 年より高橋泉・廣末哲万で結成された映像ユニット"群青いろ"に参加し、2004 年の PFF アワードでは『ある朝スウプは』(高橋泉監督/03)がグランプリ、『さよなら さようなら』(廣末哲万監督/03)が準グランプリを受賞。その時の審査員長だった若松孝二監督の目に留まり『実録・連合赤軍~あさま山荘への道程~』(07)の永田洋子役を演じる事となる。2008 年、高崎映画祭・最優秀助演女優賞受賞、アジア太平洋映画賞・最優秀女優賞にノミネートされる。

作品紹介こちら
北口監督インタビューこちら
監督・脚本・編集:北口ユースケ
脚本:前田有貴
©2022「彼岸のふたり」製作委員会 higannofutari.com
★2022年2月4日(土)より池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。

ーこの台本を初めて読んだ感想をお聞かせください。

朝比奈 台本をいただいたときにぱーっと目を通して、ストーリーの流れは初めにわかったんですけど、自分が演じるオトセちゃんの行動の意味がいまいちわからないところが何か所かありました。何でこの行動をとっちゃったの?みたいな。それが疑問だったんですけど、撮影するまでに北口監督に何回かレッスンしていただいて、行動の意味がだんだん理解できるようになりました。撮影中は、オトセちゃんを演じないと、という意識を持たずに、自然に撮影に挑むことができて。自分に通じるものがあるキャラクターなんだなと思いました。

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並木 お話をいただいた時点で「毒親の役です」っていう風に言われていたので、あ、悪い人だなっていうのは認識していました。私は結構悪い人の役を頂戴することが多くて、いつも「悪いだけの人じゃなく演じたい」というのを心がけているんです。それは観ている人もそうなんですけど、自分がその悪いことをする立場の人になってしまう可能性もあるわけだから、それを忘れないためにも「人間臭くやりたい」と思って。「悪い人なんだけど、こんなことあったんだ、可哀そうだな」と思わせるようなことや、なぜ虐待に走ってしまったのかという理由付けを演技で表現しようと決めていたんです。
実際現場に入って監督と自分の表現したいこととかをご相談しながら進めていったときに、自分の中で子供をちゃんと育てられなかった後悔だとか、もっと違えば自分もきちんと母親になれたかもしれないという気持ちだったりとか、やっぱり離れてても自分が産んだ子だから、ああ愛しいと思う瞬間が一瞬でもあったりとか。でもやっぱりお金欲しいなぁ(笑)、働きたくないからこの子お金くんないかなぁって思ったりとか、そういういろんな、ひとつ母親らしい感情だけじゃなくてズルいことを考えているのと、あ、これが私の娘かと思ったりを入れていく作業とか、非常に難しくもあり、役者冥利につきるというか。
台本には書かれていない「ここをこうしてください」を、自分でわざと課題を作って「この時にオトセと親子になってみたい」と思ったり、着物を肩にかけたときに、「成人式とか七五三とか、こんな綺麗な姿を自分がちゃんとしていれば見れたかもしれないのに」、と悲しくなったりとか、そういうのを入れたいなぁと思ってやっていたら、やり終わった後、ただただ悪い人ではなくなって一人の女性の人生の一部が残せたかなと思いました。
時間が経って、かなり役からも離れて一個人並木愛枝として観たときは、「なんて面倒くさい我儘な女なんだろう。悲劇のヒロインになりたかったんだろうな」って冷たく思ってしまいました。

―朝比奈さんは完成した映画を観ていかがでしたか?

朝比奈 撮影してから、スクリーンで観たのが長い時間をおいてからでした。こういう気持ちで撮影していたというのが、自分の身体から抜けた状態でスクリーンで観ました。演じているときはオトセちゃんって人と会話するとき、びくびくしている感じがしました。パっと来られたら引く、自分を塞いじゃう、だから弱い女の子に見えるかもしれない。
だけど、アイドルのライブのチラシやみかんをいただいて、ライブ会場まで一人で行くじゃないですか。
自分がオトセちゃんだったら、ほんとにライブに行けるかな、と観ながら思いました。人がいっぱいいるだろうし、観たこともないライブハウスって入るのもたぶん怖いだろうし、と考えるだろうと。オトセちゃんは自分で足を運んで、出待ちもして、感想も伝えられる行動力があります。
ソウジュンと喋っても―自問自答ではあると思うんですけど―ソウジュンに対して出てくる言葉がけっこう強めの言葉が多いなと思ったので、本当は根ががっちりしている女の子なのかなと、終わってから思いました。

―お二人最初に会ったとき、どんな印象でしたか?初共演ですよね。

並木・朝比奈 はい(お二人顔を見合わせてクスっと笑う)

並木 どう思った…俳優のめいりちゃんの姿も、アイドルのめいりちゃんの姿も全く知らなかったんです。なんてまっすぐこっちを見てくる女の子なんだろうというのが最初ですね。返事もすごく…なんかどこから声出たかちょっとわからないくらい…(笑)

朝比奈 はい!!

並木 っていうのが宝塚かな?ってくらいの完成された「はい!」で。

―アイドルの「はい!」なんですね。

朝比奈 教育が…(笑)

並木 ちょっとびっくりして、このタイプの人初めてだなと思って(笑)。でもあんまり仲良くなっちゃっても、作品のためにも良くないし、演技経験もないということだったので。切り替えってけっこう難しいじゃないですか、俳優さんの中でもうまいことできる人とできない人がいるくらいなので、あまり楽しくなっちゃうと切り替えがもしできなかったときに、影響が出ちゃうといけないから意識的に仲良くなりすぎないように気をつけていました。
だから、もしかして「避けられてる」って感じてた?(と朝比奈さんへ)

朝比奈 あ、全然!!(笑)

並木 ほんと? じゃ良かった!ほんと、正直、接し方がわからなかったんです。

朝比奈 それは、私いろんな方にそう言われます。

並木 そうなの? そうなんだ(笑)。年齢もあるし、なんていうんだろうな、ほんと会ったことのないタイプの人間だったので(笑)、興味のあることもわかんないしね、あんまり話さなかったよね?

朝比奈 そうですね。

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―朝比奈さん、最初に「お母さん」と会ったときは?

朝比奈 すんごく緊張しました。普段のお仕事がアイドルなので、喋る人もだいたい同じ年齢くらい。歌って踊ってアイドルやって楽屋でおしゃべりするくらい。演技をお仕事にしている人としっかり話したこともあまりなかったし、(並木さんの)役もお母さん役だったので・・・何か不思議なオーラがありますよね(と並木さんへ)。

並木 そーお(笑)?そうかなぁ?

朝比奈 ほんと緊張しました。すごく。

並木 人を緊張させてしまう? 私。でも私それよく言われるのよ、「怖い」とか。ごめんね。

朝比奈 怖くはないです!でも初めて会う人だから緊張するのとは、またなんか違った不思議な緊張でした。

並木 それは私のせい?

朝比奈 はい! 

並木 私のせいですか、そうかー(笑)。その謎解きたいですね。
私すごく人見知りなんですよ。こうやって取材していただくときだと、一回しか会わないこともあれば何回もお会いできることもあるけど、大体がその時が「初めまして」じゃないですか? それだと覚悟ができるんです。一回しか会わないかもしれないし(笑)。
でもこれから何回も会わなくきゃならないとなると、あまり嫌な悪い印象も与えたくないし、と考えちゃう。人見知りの人って「気にしい」なんですね。だからあまり人とうまく接することができなくて「どうしようどうしよう」っていうのがもしかしたら、嫌な思いさせているのかも。

朝比奈 嫌な思いじゃなかったですー!ドキドキしました。初めが写真を撮るとき(とチラシを指して)。

並木 この写真を撮ったのが、二人が初めて会ったときなんです。

―まだ心の距離が近づいてなかったときですね。

朝比奈 初めての共同作業ですね。すごい寒かったんです。

並木 季節いつだったっけ?

朝比奈 なんだかすごく寒かったと覚えています。

並木 床が冷たかっただけじゃない?

朝比奈 めちゃくちゃ寒かった・・・

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―これは母と娘の愛憎のストーリーですね。私だったら違う、また、とてもわかるというところ、忘れられないセリフがあったら教えてください。

並木 私の場合、わかるっていう風にするために、脚本に描かれている役と自分をすり合わせて私ならどうするかという役作りをしていくので、私だったら違うのにな、というところは一個もないです。そのような状態に陥っているわけではないので、実際のところはわからないですけど、想像で私がこういう表現を相手に見せるんじゃないかということでやっているので、違うなっていうのはないですね。

―残っているセリフは何でしょう?

並木 予告編でも言っている「じゃあ何であんたはここに来たの?」っていう、あれって私の中ではすごく悲しくて。セリフ自体が悲しいというのじゃなくて、あれを言っている状況が私としてはすごく悲しい。ほんとはオトセが来てくれたのが嬉しい部分もあるんですよ。だけど、陽子も陽子で「どうせあんたはお母さんに会いに来てくれたんじゃなくて、お金渡しにきただけなんでしょ」と、求められていないことに対してひねくれている気持ちもあって、だから涙も出ちゃうし。

―ここ(目尻)に涙が光るんですよね。

並木 そう(笑)。なんでこんなことになっちゃうというのを、自分のせいと感じつつ、人のせいとも思っている。ほんとにぐちゃぐちゃになってて、「じゃあ何であんたはここに来たの?」の答えが「だってお母さんに会いたいから」だったらたぶん嬉しいかもしれないけど、ひねくれてるから「なんで来たのよ」半笑いだし泣き笑いだし、しかもそれを悟られたくないから言っちゃうという。

―めんどくさいですね。

並木 そうなんですよ(笑)、ほんとめんどくさい。

―なんか迷路みたいな人で(笑)。

並木 そういう風にしたくって、細かく考えてやりました。

朝比奈 セリフでいうと、状況も込みでなんですけど、包丁を向けて「私に会えて嬉しかったですか?」って聞くところが、セリフとしても一番頭に残っています。オトセちゃんは頑張って稼いだお金渡しちゃったり、ホテルでプチ事件があってお母さんのところに行ってときも、「お母さんに会えて嬉しかった」という気持ち込みの行動。「私に会えて嬉しかったですか?」と言うことだけでもすごい勇気のいる行動だったと思っています。
打掛を着せてもらうときに、おびえちゃう、拒絶しちゃうところ。セリフじゃないんですけど、ここも撮影中も後も印象に残っています。お母さんに会えて嬉しいし、お母さんを信じたい気持ちで家に行っているのに、昔虐待を受けていたことで身体がびくっとしてしまった。私は、オトセちゃんは最後のシーンの後もトラウマは消えないまま続いていくんじゃないかな、と後から思いました。

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―チラシの写真と最後の2人のシーンは、ポーズは同じだけれど、気持ちが違うわけですね。

並木 あそこまでのクライマックスになるには、俳優も時間を過ごして感じてるわけです。この時はまだなんにも始まってない、自分たちの中であるものだけだけど。やっぱり最後は二人で完結、作った時間だものね。

朝比奈 はいっ!!

並木 また「はい!」(笑)

―「はい!は元気よく」って言われたんですね。

並木 まだびくっとするんですよ。慣れないんですよね(笑)。

―朝比奈さんはアイドルを続けてきましたが、これから俳優としても活動していきたいですか?

朝比奈 はい! 始めたころはアイドルのことしか考えられなかったんですけど、『彼岸のふたり』ではレッスンや撮影機関が普段のお仕事よりもがむしゃらというか、夢中になってすごい楽しかったので、演技のお仕事がしたいなと思っていました。

―ここにいい先輩もいらっしゃることだし。並木さん演じるお母さんの心の揺れが表れるところ、オトセを助けに入れない姿とか、思わず涙がにじんでしまうところとか、監督に演出ですか?と伺ったら違いますということで、もう感動しました。

並木 ありがとうございます。すごく考えました。
(朝比奈さんへ)私を目指さないほうがいいですよ。大変だと思う。せっかく生まれ持った美しい容姿があるんですから、それがもうすでに武器なので。あんまりこうひねくれた(笑)ちょっと核弾頭みたいな方向はやめたほうがいいと思う(笑)。

朝比奈 わかりました。

並木 まずは綺麗でいてください。

朝比奈 はい。綺麗で・・・

―綺麗と演技力と両方あったら鬼に金棒ですよ。

並木 そうですよね。なかなかそういう人いないから。

―長く続けられる俳優さんになってくださいね。今日はありがとうございました。

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*私の大切な映画*
朝比奈 『渇き。』という映画を繰り返し観ています。主演の小松菜奈さんがとても美しいのですが、ただルックスが美しいだけでは無く、劇中の菜奈さんから滲み出る女の子の不安定さや危なさとどこか儚げで美しいルックスとの化学反応に驚き、「美しい!!!」と感じ強く魅了されました。自身の中での絶妙な後味の残り方が大好きで、「最近あまり生活に刺激を感じていないな」と感じたら思い出したようにこの映画を観ます。映画を観ている最中に心拍数が上がる経験をこの映画で初めて体験したので、大切に思っている映画です。

並木 どんな部分で大切なのかによって選ぶ映画が異なるので、今回は俳優・並木愛枝の根源という意味で大切な映画を。
それは高橋泉さん脚本・監督の『ある朝スウプは』です。
廣末哲万さんとのダブル主演で、まだ彼ら「群青いろ」が少人数で、出演者がカメラや録音、衣装や音楽など、スタッフと兼任していた頃の作品です。
当時の私はまだ、演技することが全てだと思っていましたが、彼らが求めるのはカメラの前でもありのままで、自分の中に生まれた感情や衝動を素直に体現する事でした。ゴテゴテと私に貼り付いた物を極限まで削ぎ落とす作業に初めは苦戦しましたが、廣末さんに引っ張って頂きながら感覚を掴んで行きました。「群青いろ」の現場で培ったものが、今の俳優である私を形成しているのは間違いありません。お二人には生涯感謝し続けると思います。
まだ北口監督には裏をとってないですが、もしかすると私を初めて知るきっかけになった作品が『ある朝スウプは』だったのでは?と思っています。今回の『彼岸のふたり』に繋がるきっかけにもなった…であろう映画であり、今でも演技プランに悩んだ時には必ず思い出し、余計な事をしようと企んでいたら、スッと腕を掴んで引き戻してくれるような、“私の大切な映画”です。


=取材を終えて=
北口監督のインタビューに続いて、オトセ役の朝比奈めいりさん、母・陽子役の並木愛枝さんにお話を伺いました。北口監督、プロデューサー、マネージャーさん、宣伝さんも後ろに控えて、ギャラリーの多い取材でした。どんな質問にも丁寧にお答えいただいて、率直なお二人のお話に楽しい時間を過ごしました。朝比奈さんの素直な回答に、書いてはいませんが(会場笑)となったこともたびたび。
子どもの虐待から始まるストーリーですが、母親の揺れる心情を表現した並木さん、愛情を取り戻したいオトセを夢中で演じた朝比奈さん、いい作品に出会われましたよね。オトセが自転車に乗って走るラストに希望が見えました。

(取材・写真 白石映子)
 

『彼岸のふたり』北口ユースケ監督インタビュー

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*プロフィール*
北口ユースケ/Yusuke Kitaguchi 1984 年 3 月 8 日生まれ。大阪府出身。
2006 年早稲田大学在学中に映画『カミュなんて知らない』(05)で俳優としてデビュー。俳優としての活動を続けながら、2016 年からショートムービーや WEB 動画の制作を始める。
処女短編「BADTRANSLATOR」が第一回やお 80 映画祭に入選。48 時間以内に短編映画を制作する Osaka 48hour film project で脚本・監督・編集を務めた作品『ノリとサイモン』が、監督賞・作品賞 2 位・観客賞1位を受賞。翌年の Osaka 48hour film project 2017 参加作品『ベイビーインザダーク』では、最優秀作品賞と脚本賞を受賞し、48hfp の世界大会である Filmapalooza では120を超える各都市の最優秀作品の中からベスト 15 作品に選出され、2018 年カンヌ国際映画祭ショートフィルムコーナーでも上映された。Osaka 48hour film project 2018 参加作品『THAT MAN FROM THE PENINSULA』では、監督賞、作品賞 2 位を受賞し、その後ベネチアで開催されたカフォスカリ国際短編映画祭、ダラスアジアン映画祭などでも上映された。また日本における人種問題を扱ったミニドラマシリーズ「TORINAOSHI」の第3話までがパイロット版として現在 YouTube にて公開中であり、再生回数は累計 120 万回を超える。

作品紹介こちら
朝比奈めいりさん、並木愛枝さんインタビューこちら
監督・脚本・編集:北口ユースケ
脚本:前田有貴
©2022「彼岸のふたり」製作委員会 higannofutari.com
★2022年2月4日(土)より池袋シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。
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―この作品はコラボした衣装(上田安子服飾専門学校協力)を映画内で使うことが決まっていたそうですね。

シナリオも出来ていないのに、先に衣装を作るなんて前代未聞じゃないですか。こんな作り方をする映画はほかにないかもしれませんね(笑)。

―そして監督に声がかかったのは、以前48時間で短編映画を作り上げる「Osaka 48hour film project」に入賞していたので、縛りのあることの実績を見込まれたんじゃないか、と。どちらも初めて聞くことで、とても面白いと思いました。

課題を消化して作っていくのが得意なんじゃないかと思われたのかな。でもその縛りは、監督やりますと言ってからプロデューサーに後出しで言われた記憶があります(笑)

―コロナ禍中の制作ですね。誰もが大変でしたが、この映画は?

企画がスタートしたのが2019年。娘が誕生して一か月くらいのときです。その後、秋にキャストが交代したり脚本をガラッと書き換えたりして、2020年春にようやくクラインクインしました。その1週間後に緊急事態宣言が出てしまって再開できたのは、宣言が明けた7月です。2回目の宣言が出るまでのちょっとの期間で撮りました。撮影日数は、17日間です。ほんとに大変でした。

―そして可愛い娘を置いて(監督は育メンとお見うけしました)、撮影に通う毎日だったんですね。

現場にも連れていきました(笑)。ちらっとだけ出ているんです。養護施設で母役の並木さんと職員が話しているときに、庭で洗濯物を干しているのが妻で、おんぶされているのが娘です。妻も女優をやっているので、施設の子どもたちとのシーンももっとあったんですが、コロナ禍だったのでやめましょうということになってなくなりました。

―子役といえば、オトセの子ども時代を演じている徳網ゆうなちゃん(2013年生まれ)の目がとても印象的でした。朝比奈めいりさんも目が大きくて、二人とも目が決め手だったのかなと思いました。

そうですね。大きくて力強い目ですよね。やっぱり目は意識します。それだけで決めたわけではないですけど、

―この映画は辛い題材を扱っています。まだ経験の少ない俳優さんや子役への演出の際の気遣いは?

僕はもともと役者をやっていたので、感情を作り込みすぎることで精神が不安定になる危険さを学んできたし、自分自身も経験してきました。なので、そうではなくて行動から感情を作ることを心がけていましたね。
例えばバン!(両手で机を叩く)とするのは、日常では怒っているからそういう行動をするけれど、演技は逆で、先に行動をすることで気持ちを作っていきます。そうすることで自分の精神への負担が少ない状態で、観ている人に感動や影響を与えられる。そういった方法論をアメリカの演劇学校で学んでいたので、そこを徹底して作りました。どんなに辛いシーンであっても演技の楽しさは忘れてはいけないと思うので。

―子役のゆうなちゃんに、虐待シーンを詳しく説明するわけにもいかないと思いますが、具体的にどうやって演出し、撮影されたのでしょう。

あのシーンは(子どもと養父)別々に撮っているんです。ゆうなちゃんにはあんまり内面のことは言わずに、単純に視線を「こっち向けて」とか「視線の先にあるものをしっかりと見て」とか言うだけでしたね。とにかく具体的な行動だけを伝えました。

―オトセとソウジュンの名前はどこからつけられたのでしょう?

地獄大夫の本名の乙星(おとせ)と一休さんの本名からつけました。

―キャラクターの名前に多くの監督さんは悩むらしいです。

僕はけっこうテキトーです。いつも書いているときの直感でつけちゃったりしますね。登場人物に、子のつく名前が多いから別のに変えよう、とか、そのくらいです。

―並木愛枝さんのファンだったので、ラブレターを出して出演をお願いしたそうですが。

はい、そうなんです(笑)。大学生のときに『ある朝スウプは』や『14歳』を観て、こんな芝居をする人が日本にもいるんだ!とすごい衝撃を受けたのを覚えています。いつか機会があったら一緒にお仕事したいなとずっと思っていて、今回ついに夢が叶いました。

―監督作に俳優として出演はされないんですか?

実はこの作品でもワンシーンだけ出たんですけど、カットしました。別の作品になってしまいそうで(笑)。でもいずれは自分で監督・主演もやってみたいなとも思っています。

―いつか並木さんともがっちり俳優として共演したいですね。

そうですね。撮影現場でモニターを見ながら、僕も並木さんと一緒に演技をしたくて、朝比奈めいりさんや井之上チャルさんに嫉妬していました(笑)。

―僕もやりたい、と(笑)。例えばあの中だったらどの役がいいですか?ソウジュン?

あの中だったら…僕は、ソウジュンはできないと思います。とっかかりがないし、あの不思議な軽やかさみたいなのはドヰさんじゃないとできないです。よくあんなキャラクターを体現してくれたなと思います。僕がやるとしたらチャルさんに演じていただいた施設の人かなぁ。

―役の背景を詳しく考えて、俳優さんに説明されますか?

基本はお任せするんですけど、ヒントは与えたりしますね。今回の主演の朝比奈さんはほとんど演技の経験がなかったので、リハーサル以前に、演技の基礎レッスンみたいなこともみっちりやりました。基礎練の中で少しずつキャラクターを一緒に形作っていきましたね。
もう一組の親子の寺浦さんと眞砂さんも事前にリハーサルを何回か重ねて、その中でディスカッションしながら背景とかは作っていったかな。

―演じる人が納得できるように話し合って寄せていく。

俳優たちが、生理的に気持ちよく動いてくれないと、見ていて違和感が出るなと思って、基本的には現場でもカメラを置く前にまず動きをつけます。それも俳優たちが好きなように、気持ちがおもむくままにまずは動いてみましょう、という作り方をしていますね。

―オトセの父親については言及されていませんが、背景としてもいないんですね。

いないですね。特に背景も作りませんでした。

―ソウジュンが大人の男性の姿なのは、父親がいてほしいという想いが出ているのかなと思いました。
よく漫画で、頭や肩の上に天使と悪魔がいて、そそのかしたり、やめさせたりしますよね。あれにも似ています。

それに近いかも(笑)。実際オトセ自身の悩みから出たものですけど。

―自分から出たものだから、超えることはないんですよね。緊張する場面が続いて、ソウジュンが出てくるとなんだかホッとしました。
オトセの母は困った人ですが、並木さんの演技が細やかで、涙が光ったり、手が震えたりで動揺する内面が見えてきました。あれは監督が演出されたんですか?


並木さんに関してはそんなに細かいことは言わなかったかと思います。顔合わせするよりも前に、電話で1,2時間くらい色々役について話しました。並木さんからの質問はとても鋭いですし、そんな深い読み方をしているのかという驚きがたくさんありました。

―監督も監督として育ったということでしょうか

そうです。ほんとにそうですね。

―大阪で先行上映していますが、反響はいかがでしたか?

反響はよかったですね。リピーターの方もたくさんいらっしゃって。3月に凱旋上映をしますので、また地元でももっと多くの人に観てもらいたいです。せっかく舞台が堺なので堺でも上映したいですね。

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朝比奈めいりさん、並木愛枝さん、北口監督

===「北口監督」ができるまで===

僕は小さいころから映画少年だったんですよ。幼稚園のころにホラーが好きで、布団に隠れながら、怖がりながら早送りしながら(笑)よく見ていました。テレビでやってた『バタリアン』とか『13日の金曜日』とかをビデオに撮って観ていました。あのドキドキがたまらないんです。
それからだんだん色んな作品を見るようになったんですが、高校生のときに浅野忠信さんの『地雷を踏んだらサヨウナラ』(1999)を観て、こんなにかっこいい日本人がいるんだ!自分も芝居をやってみたいなと思ったのが映画を志したきっかけです。

もともとあんまり人前に出たりとか、話をしたりするのが大阪人のくせに得意ではなくて、そういうコンプレックスも強かったので、リハビリも兼ねて演劇をやってみたいなという想いもありました。それが浅野さんの映画を観てから、俳優になりたいという思いが一気に膨らんで、演劇が盛んな早稲田大学に入って、演劇部やサークルを片っ端から見学したり体験しに行ったんですが、どれもやりたいのとはちょっと違うなと思って。舞台より、もっとリアルな映画の演技をやりたかったんです。そんな時に、恩師である柳町光男監督と出会いました。僕が行ってた学部とは違う学部の授業を担当されてたんですが、潜りで通って。その授業で溝口健二の「近松物語」を1カットづつ分析して、柳町監督が解説してくださるんですが、それがめちゃくちゃ面白かったんです。俳優というよりは作り手向けの講義だったんですが、とにかく面白くて、潜りだから単位も取得できないのに、その授業を一番熱心に受けてましたね(笑)。そこで溝口や成瀬巳喜男やトリュフォーを知って、映画の見方みたいなのを教わりました。当時は監督になろうとはまだ思ってなかったんですが、柳町先生との出会いが監督になる原点になってるかと思います。

在学中にその柳町監督作の『カミュなんて知らない』(2006)で俳優としてデビューさせていただいたんですが、やっぱりちゃんと基礎を学ばないと駄目だと思って、そこから塩谷俊さんのアクターズクリニックに通うようになりました。
大学卒業してからは、アクターズクリニックとアルバイトとオーディションだけの日々でした。全然オーディションも受からないし、バイトばっかりしててこのまま社員になってしまった方がいいんじゃないかみたいなことが頭をよぎるようになって、25歳くらいだったかな、先が全く見えなくて辛い時期があったんですが、そんな時にアクターズクリニックの特別ワークショップで、ロン・バーラスというアクティング・コーチがアメリカから来日したんです。

ロンのレッスンを初めて受けたときに、「求めてたのはコレだ!」ってものすごく感銘を受けまして、もう絶対にこの先生のもとで学びたいと。もう売れるとかどうこうより、とにかくその術を学びたいと思って、ロンがいたART OF ACTING STUDIOへの留学を決めました。
ロンも一昨年亡くなられたんですが、算数を教えるみたいに論理的に単純明快に演技を教えてくださって、それ以上に人生との向き合い方というか、生き方そのものを教わったように思います。人生で一番影響を受けた人かもしれない。本当にスターウォーズのジェダイマスターのような方で、生徒達はみんな、親しみを込めてヨーダと呼んでいました(笑)

監督はいつかやりたいという想いはずっとあったんですが、帰国してからとにかくロンから学んだことを実践する場が欲しかったので、自分で演劇のプロデュースを始めたんです。大阪でヒッチコックの「三十九夜」(さんじゅうきゅうや 原題:The 39 Steps)「ダニーと紺碧の海」「アメリカン・バッファロー」と3本の戯曲を自分で翻訳してやりました。
自分で主演もしながら演出をしていたんですが、稽古を重ねて自分が変わっていくことよりも、共演者たちが自分の言葉でどんどん変わっていく姿を観るのがすごい楽しくて、そっちのほうにだんだん喜びを感じるようになって行ったんです。ちょうどその頃デジタルカメラも手頃になってきてたので、自然と遊び半分で映像を撮るようになっていきましたね。
いつかはフィルムで撮ってみたいんですよ。俳優デビューした『カミユなんて知らない』がフィルム作品だったんです。初めての現場がフィルムだったので、やっぱり。

人生で一番繰り返して観たのは『パルプフィクション』(1994)です。この映画で英語の勉強をしたので、台詞も結構覚えてます。現地でもそう言うとみんな面白がってくれてました(笑)。「パルプフィクションで英語勉強したのか?嘘だろ?」って。
砕けた英語で、Fワードばっかり。だから演劇学校でもセリフに出てくるFワードの使い方が異様に上手いって褒められてました(笑)。
影響を受けた監督は、大学の卒論でも書いたんですがジョン・カサヴェテス。あとは成瀬巳喜男、コーエン兄弟、ヒッチコックとかですかね…挙げればキリがないですが。好きな映画はコーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)です。自分が作りたい理想がたくさん詰まっているので、脚本を書く前とか書いてる途中とかに毎回見返してる気がします。

=取材を終えて=
初の長編を完成させた監督さんに取材することが多いです。北口監督も「初めまして」でしたので、いつも通り監督になるまでのことを伺いました。それが、北口監督の情熱にほだされて異例の長さになりました。「北口監督ができるまで」は囲みの予定でしたが、そうすると(見た目が)もっと長くなるので、やめました。熱を感じてくださいませ。

(取材・監督写真 白石映子)

『ジャパニーズ スタイル/Japanese Style』吉村界人さん、武田梨奈さんインタビュー

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*プロフィール*
吉村界人(よしむらかいと)
1993年生まれ。東京都出身。2014年『ポルトレ PORTRAIT』で映画主演デビュー。 第10回TAMA映画賞(18)にて最優秀新進男優賞を受賞。主な代表作に、映画『太陽を掴め』『悪魔』『ミッドナイトスワン』『神は見返りを求める』ドラマ『左ききのエレン』『列島制覇』『ケイ×ヤク-あぶない相棒-』など。今年は『遠くへ、もっと遠くへ』『人』『人間, この劇的なるもの』の主演作も公開された。
武田梨奈(たけだりな)
1991年生まれ。神奈川県出身。2009年、『ハイキック・ガール!』で映画初主演。15年日本映画プロフェッショナル大賞」にて新進女優賞をはじめ、数々の映画賞を受賞。主な出演作は映 画『デッド寿司』(13)『進撃の巨人』(15)
『世界でいちばん長い写真』(18)『いざなぎ暮れた』(19)『ナポレオンと私』(21)、ドラマは人気シリーズ「ワカコ酒」(BSテレ東)などがある。

*ストーリー*
大晦日。アメリカ留学中だった妻が死んだ。 絵描きの男(吉村界人)は、新年までに「死んだ妻の“肖像画”」を完成させなくてはならないが、「生きた“瞳”」をどうしても描けない。そんな時空港で、妻に似た女・リン(武田梨奈)と運命的な出逢いを果たす。彼女もまた、新年までに“終わらせたい”ことを抱えていた。ふたりはタイの三輪タクシー(トゥクトゥク)に惹きつけられて乗り込み、“終わらせる”ための旅に出る!
Japanese Style【ジャパニーズスタイル】は英語で『袋とじ』という意味である。旅の途中で、二人が互いに隠していた『袋とじ』も暴かれていく…!タイムリミットは年越しのカウントダウン!“終わらせたい”二人の運命はいかに?!年末にぴったりの『袋とじ』ロードムービー!!

監督:アベラヒデノブ
配給:スタジオねこ
作品紹介はこちら
(C)2020 映画「ジャパニーズスタイル」製作委員会
★2022年12月23日(金)よりユーロスペース、シネマ・ロサほか全国順次公開

★映画の内容にふれていますので、気になる方は鑑賞後にお読みください。

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―お二人が企画されたそうですが、この映画の始まりは?

武田 深夜に突然、吉村さんから電話がかかってきて、脅されたんです(笑)。
吉村 犯罪者みたいじゃん。「こいつが言いました」みたいな(笑)。
武田 アベラ監督も最初から一緒です。
吉村 最初はラフで、シリアスな感じではなかったんです。「大晦日用事がありますか?映画やりませんか?」という感じでした。こんなにみんなが関わって作るようになるとは思ってなかったですが。

―お二人の出会いはいつだったんでしょう?

武田 映画の話より前にアベラ監督に呼ばれて、紹介していただきました。居酒屋さんで、3人で会ったのが最初ですね。
吉村 超~前ですよね。6年くらい前かな。そのときは映画の話をしたわけではないですよ。
武田 たぶん6年以上前ですね。映画になるまで6年かかっていますから。

―大晦日に、二人が抱えていることを終わらせたい、結果を出したいというストーリーですが、完成までにいろいろ変わっていったんでしょうか?

吉村 けっこう何回も変わりましたね。
武田 ベースは「大晦日の二人」で、そこだけは変わっていません。最初は「Before Sunrise」シリーズのようなロードムービーにしようというところまではあって、そこからいろんなアイディアをそれぞれ出し合って作り上げていったという感じです。

―そのロードムービーにトゥクトゥクを使おうというアイディアは?

武田 最初はまったくなくて、吉村さんから突然「トゥクトゥクいいじゃん」というアイディアがありました。
吉村 「トゥクトゥク乗りたいな」と。タイで乗ったのを思い出して「どうですかね?」という話をしました。

―日本では見かけませんよね。日本の映画で初めて見ました。小さいトゥクトゥクにあの絵が載ると屋根みたいになって面白いです。吉村さんは大きな絵を持って走り回るのは大変でしたでしょう?

吉村 大変でしたよ。重かったですし。風圧がすごいんですよ。指が持っていかれそうでした(笑)。ハードでした。

―キーポイントになる絵ですが、重野(吉村さん)が眼を描けなくていつまでもうんうん唸っているので、早く描け~と思ってしまいました(笑)。絵は吉村さんが実際に描かれた?

吉村 違います、違います。

―絵に似ていると、リンに声をかけますが、武田さんの二役ということはなかったんですね。

武田 そうですね。監督からは「眼だけで探してみよう」ということだったので、そこがポイントでした。
吉村 あのこだわりはアベラ監督自身に近いところがあるのかなと思います。人がそんなに思わないようなことでも、「いやぁ・・・」って一人で考えこんだり。僕はあんなにはこだわりません。

―後半友人が登場して話が変わりますね。主演の男女はカップルになるよね、と観ていました。

武田 最初、この二人が出演するということだけは決まっていたので、そこには特にこだわっていました。男女二人になると、どうしても恋愛になりがちですが、それだけは避けようと。なので、絶妙な距離感が面白いと思います。

―袋とじを「ジャパニーズスタイル」というのを初めて知りました。タイトルの『ジャパニーズスタイル』は日本の生活様式や習慣のことをいうのかと思っていたんです。

吉村 普通はそうですよね。僕もそう思ってました(笑)。でも、そう教えてもらってからジャパニーズスタイルという言葉が真新しい言葉に感じて新鮮でしたね。言葉は意味と観念的な捉え方。の二つでもいいのかなと。

―ところどころに入る「赤い鳥居に和装のお二人」の綺麗なショットはどんな風に説明されて撮られたんですか

吉村 お正月の初詣的な、海外へわかりやすい日本的な「ジャパニーズスタイル」をやりたいからと説明をさらっと受けました。が、リハの時から監督の演出に僕は、その場で全て理解できなくとも、まず目の前の監督の言葉を信じてやってみようと思って神社に仁王立ちしました(笑)。

―リンと重野が近づきそうで近づけず、ジタバタするところが可愛かったです。あの場合、男性は困りますよね。

武田 どっちなんだ、と(笑)。
吉村 二人がけんかするところ?
武田 そう。
吉村 あれ困りますよね。アベラ監督に違う部屋に連れていかれて説明されたんだよね。「日本人ってこういうところあるじゃん」みたいな。「僕はこういう経験何回もしてるんだよ」って(笑)。監督の実体験に基づいて演出された記憶があります。

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―お二人の意見で変わったり、アドリブが入ったりしましたか?

武田 ほとんど脚本どおりです。ただ車中のシーンはカメラを設置して二人しかいない空間で、いつカットがかかったかわからず、ずっとやりとりをしていました。トゥクトゥクは両側があいていて、周りの音がすごく大きいので、よく聞こえないんです。
吉村 エンディングの、二人が前と後ろでしゃべっているところは「カット!」と言われた後に話しているのが使われていると思います。

―牽引されているのでなく、実際に運転しているんですね。

武田 そうです。かなり長距離を運転されていましたね。

―安全運転をして、セリフもしゃべるのはたいへんですね。

吉村 そうですね。でも楽しかったですけどね。監督車は後ろにいました。
武田 羽田から横浜へ、撮影もしながら片道を走りました。

―実際に年末に撮影されたので、カウントダウン花火も本物ですね。忘れられない年末になりましたね。

武田 この撮影のあった2019年から2020年は全く年末年始感がありませんでした。ずっと胸がざわついているというか。

―それは企画・制作に携わったからでしょうか? 俳優だけでいるのとは心持ちが違いましたか?

吉村 撮影中はお芝居のことしか考えていなかったんですけど、撮影が終わってから責任感みたいなのが芽生えてきたりしました。

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―このお仕事の前と後でお互いの印象は変わりましたか?

武田 変わりましたね。一緒にお仕事する前の吉村さんは“自由な少年”というイメージでした。やりたいことがちゃんとあって、それを言える素直な心を持っている方。でも、実際にお仕事をしてみると、その言葉の裏には繊細なナイーブな気持ちもあることがわかりました。

吉村 おっしゃるとおりです。(笑)

―吉村さん、武田さんの印象は?

吉村 童心といいますか、子ども心がある人です。あんまり人に頼るとか、本音を吐露するとかって今までしてこなかったのかなと。それを避けてちゃんとした人間として生きてるんだなぁと思って尊敬しています。
(武田さんへ向かって)そっちのほうが大変だろ、普通。こっちのほうが楽な生き方だと思うんだよ。辛い物食って「辛い!」っていうようなもので。辛いと思ったけど、「ん~」みたいな。「美味しいです」的な。尊敬してますけどね。
武田 吉村さん、お仕事する前は普通に下の名前で呼んでいたんですが、お仕事するようになってからは「おい、武田」と呼ばれるようになりました(笑)。だから、そんな尊敬している感じでは・・・。

―その裏には尊敬の念が。

吉村 そうなんです。尊敬の念が詰まっているんです。

―でも「武田」なんですね。

吉村 武田・・・さん。(笑)

―今度は他の心配をしないで、俳優として演技に専念できるようにお仕事できるといいですよね。今回はなかった「ちょっとお姉さんと素直な年下男子の恋愛もの」とか。「姉と弟」も似合うかもしれない。

武田 吉村さんは完全に弟タイプですね。撮影の合間にコンビニに行くと、「武田、カフェラテおごってよ」と言うので、可愛いですよ。憎たらし可愛い(笑)。
吉村 返せって言うんですよ。「後でちゃんと現金で返せ」と。

―出来上がった作品をご覧になっての感想をそれぞれ教えてください。

武田 不器用な人間たちが、大晦日に「このまま年越していいのかな」とあせります。本人たちにとってはとても大きなことなんですが、俯瞰的に見るとなんだか可愛らしかったり、人間らしいと思う部分があったりします。そういう経験って誰にもあるんじゃないかなと思うし、これから訪れる人がいるかもしれない。それはあせることではないし、一回自分を認めてあげるといいんじゃないかなと思える作品です。気楽に劇場に足を運んでいただけたら嬉しいなと思います。
吉村 今武田さんがおっしゃったことは、僕も・・・。全部言われたので(笑)、映画を楽しんでいい年を迎えてください。

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―最後に大切にしている映画を1本あげていただけますか。ぱっと思い浮かぶもので。

吉村 『クレイマー、クレイマー』(1979/ロバート・ベントン)、好きです。高校生のときに初めて観て、そのあともめっちゃ観直しました。離婚したお父さん(ダスティン・ホフマン)が慣れないことを(息子のために)真剣にやる姿、「お父さんファイト!」な感じが胸打つんですよね。僕もけっこう何やっても慣れないので、素敵だなと思っちゃいます。

武田 『グーニーズ』(1985/リチャード・ドナー監督/スティーヴン・スピルバーグ製作)です。もう年に何回観直しているかわからないくらい観ていて、映画の世界に入りたいと思うきっかけになった作品のひとつです。先ほど吉村さんが私のことを子ども心があると言っていましたが、本当に自分の中でずっとどこかにあって。映画って年を重ねて観ると観方が変わるものですが、『グーニーズ』だけは保育園のときに観たときと全く変わりません。本当に特別な、映画の世界に導いてくれた作品です。

―今日はありがとうございました。
(この後、外でトゥクトゥクと撮影)

(取材・写真 白石映子)

=取材を終えて=

吉村界人さんには「初めまして」でした。ハスキーなお声で率直に語る吉村さんは、どの映画、どのドラマに出演していても埋もれることなく、存在感を発揮しています。武田梨奈さんには『いざなぎ暮れた。』以来の取材です。このときに、『ジャパニーズ スタイル/Japanese Style』のことを次に伺いたいとお願いしていたのが叶いました。
2020年へのカウントダウンのシーンも入った、大晦日のストーリーは、ちょうど年末を控えての公開です。終わらせたい二人のジタバタを身近に感じられそうです。お二人のまたの共演も楽しみにしつつ。(白)

*小ネタ*
トゥクトゥクは軽自動車ではなく、「側車付きオートバイ」というカテゴリに分類されるそうです。ハンドルやペダルはバイクのようですが、運転には普通免許が必要です。昔よく見かけたオート3輪を思い出しましたが、まさにそのダイハツ ミゼットを母体に、タイでいろいろカスタマイズされてきたのだとか。ミゼットは軽自動車なのに、変身したトゥクトゥクは日本ではバイク扱いになるんですね。

『擬音 A FOLEY ARTIST』王婉柔(ワン・ワンロー)監督インタビュー

映画の音を作り出すフォーリーアーティストの存在を知ってほしい

雑多なモノが溢れるスタジオで、映画の登場人物の動きやシーン、雰囲気を追いながら、想像もつかないような道具と技を駆使してあらゆる生の音を作り出す職人、フォーリーアーティスト。
本作は台湾映画界で40年近く音を作り続けてきたフー・ディンイーが関わった作品を紹介しながら台湾映画史を振り返ります。
ワン・ワンロー監督に企画のきっかけや制作時の苦労話などをうかがいました。

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<フォーリーアーティストとは>
足音、ドアの開閉音、物を食べる音、食器の音、暴風、雨、物が壊れる音、刀がぶつかる音、銃撃音、怪獣の鳴き声など、スタジオで映像に合わせて生の音を付けていく職人。大画面の向こう側、観客の目に触れない陰から作品の情感を際立たせる大事な役割を担いながらも、その存在はあまり知られていない。デジタル技術で作られた効果音は豊富にあるが、ひとつひとつの動作や場面に合う音は異なるため、鋭い聴覚と思いもよらないモノを使ってリアルな効果音を生み出す想像力が必要となる。

──本作はフォーリーアーティスト(音響効果技師)にスポットを当てたドキュメンタリーですが、なぜ、フォーリーアーティストをテーマにして作品を撮ることにしたのでしょうか。きっかけからお聞かせください

映画の制作現場でどうやって音を録音するのか。収録された音はどうやって編集して使うのか。ミキシングはどうやるのか。私はよく知らないまま、監督デビュー作として詩人ルオ・フーを記録した『無岸之河』を撮っていました。その作品が完成し、次は何を撮るのかを考えていたときに、映画における音の部分を掘り下げたいと思ったのです。
ただ、フォーリーアーティストという職業は映画界でも知っている人は多くありません。そこで、元々知り合いだったフー・ディンイーさんに「フォーリーアーティストをテーマにした作品を撮ろうと思っている」と伝え、取材をさせてもらったのです。
2014年に撮影を始めましたが、助成金の申請が通らなかったので、撮影を続けるかどうか迷いました。何とか2016年に撮り終えたものの、その後のポストプロダクションも本当に大変でした。

──フー・ディンイーさんにスポットを当てた作品だと思ったのですが、フーさんの仕事そのものというよりも彼の仕事を通じて、台湾映画の変遷を浮かび上がらせていましたね

最初は私もフーさんの人生そのものを映画の物語にするつもりでした。ところが、フーさんの人生は山あり谷ありというわけではありません。映画の観点からするとドラマチックさに欠け、90分の長さを彼の人生を描くことだけに使うと物足りないかもしれないことが撮り始めてすぐにわかったのです。
そこで、自分がなぜこの映画を撮るのかを改めて考えてみました。すると映画、特に音の部分に強い関心や興味を持っていることに気がつきました。
そこでフーさんの物語を軸に、台湾映画産業の変遷をまとめることにしたのです。できれば、音の使い方を中国と西洋の映画で対比してみたかったのですが、それについては残念ながらできませんでした。
今回、私が取材した方々の中にはその後、お亡くなりになった方が何人かいます。若い人たちの映画に対する情熱もあのときだから捉えられたもの。すべては運命のようなものだと思います。

──たくさんの映画作品が紹介されています。映像も使われていましたが、版権の問題をクリアするのは大変だったのではありませんか。その辺の苦労話があったらお聞かせください

過去の作品の映像を使うための著作権処理がこの作品で最も大変なところでした。たくさんの方と連絡を取りましたが、親切な方が多かったですね。私が1人でこの作品を撮っていて、資金があまりないことを話すと無償で使わせてくださった方も少なからずいらっしゃいました。一方で、3カ月くらいかけて交渉して、高額な使用料を要求されたにも関わらず、ある日突然、「自分は権利者ではなかった」といきなり連絡が途絶えた方もいました。昔は著作権に関する考え方が曖昧だったので、こんな話が起きたのだと思います。
私は香港でとても有名なリー・ハンシャン監督の作品を使いたかったのですが、いろいろ調べたところ、監督ご自身はすでに亡くなっていました。その作品の著作権は娘さんが引き継がれていると聞き、娘さんを一生懸命に探しましたが見つかりませんでした。「仕方がない」とその作品の使用を諦めていたところ、その年の旧正月の年末に娘さんご自身から「みなさんが私を探していると聞きました」といって連絡がありました。そこで、この映画の話をしたところ、無償での使用許可をその場で出してくださったのです。この話を聞いたときは本当にうれしかったです。

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──フォーリーアーティストの仕事もデジタル化が進んでいるのがよくわかりました。フー・ディンイーさんのように音を手作りする方はどんどん減っているようですが、そのことについて監督はどう思われますか

この作品を撮ったのは6年ほど前で、当時、私もこの問題について考えていました。その頃の結論としては、フーさんのようなプロの人材は今後も育成していくべきで、それには相当規模の映画産業が不可欠ということ。業界が大きければ作品が増え、仕事も増えるので細分化する必要も出てきます。フーさんが仕事を始められた頃は台湾映画界が盛んだったので、フォーリーの仕事に専念できたのです。
今はちょっと考え方が変わってきています。フォーリーアーティストという仕事が今後どうやって存続していくのか。もし、なくなってしまうとしたらその責任はどこにあるのか。そういったことを追及するよりも、物ごとの移り変わりには原因があるので、その原因を探求した上で、将来、どのように展開していくのかを考えた方がいいと考えるようになりました。
この作品が多くの方の目に触れることによって、みなさんがこの問題について考え、何かいい解決策がでてくるかもしれません。そこにドキュメンタリー映画の役割があるのではないかと思っています。

──フー・ディンイーさんはフォーリーアーティストとして、この作品のために何か音を作っていますか。

当初はお願いするつもりでしたが、編集してみるとミキシング担当者が多少、録音して合わせたくらいで済んでしまいました。フォーリーアーティストに頼んで、音を作ってもらうという部分はほとんどなかったのです。
フーさんはお元気ですが、かなりご高齢になり、耳が衰えてきて、最近は講演会の仕事が増えているとのこと。フォーリーアーティストとはどういう仕事なのか、映画の中でどういう使い方をしているのかといったことを語って、フォーリーアーティストという仕事の普及に尽力されています。

──日本の観客に向けてメッセージをお願いします。

ようやく日本で公開することになりました。
ドキュメンタリー作品は種をまくようなもの。この作品が種になって、フォーリーアーティストという職業があることを日本の方々にも知っていただき、その現状についてどう思うのか、いろいろ考えるきっかけにしていただければと思います。さらに、ドキュメンタリー作品というジャンルが持っている価値を伝え、認識を深めることができればなおうれしいです。

(取材・文:ほりきみき)


<プロフィール>
監督 王婉柔(ワン・ワンロー)
1982年生まれ。国立清華大学を卒業後イギリスのExeter Universityで脚本を学び、2009年から映画のプロデュースや助監督、編集などを始め、様々な映画製作に関わる。2008年『殺人之夏』が優秀映画脚本賞の佳作入選。2014年に台湾の文学者たちをテーマにしたドキュメンタリーシリーズ『他們在島嶼寫作』の企画プロジェクトメンバーとして活躍、自らも詩人ルオ・フーを記録した『無岸之河』で監督デビュー。
2017年に発表したフォーリーアーティストのフー・ディンイーの半生を記録したドキュメンタリー『擬音』は東京国際映画祭でも上映され、2020年にはアジアを席巻した台湾の漫画家 チェン・ウェン(鄭問)の人生を追ったドキュメンタリー『千年一問』を発表して話題を呼んだ。

胡定一(フー・ディンイー)
1952年生まれ。台湾の国宝級音響効果技師“フォーリーアーティスト”で、1000本近い映画とドラマに携わる。1975年に当時の政府国民党が運営する中央電影公司の技術訓練班からスタートし、アシスタントを経て音響効果アーティストとして一本立ち。
ワン・トン監督の『村と爆弾』(1987)、同監督『バナナパラダイス』(1989)、チョウ・チェンズ監督『青春無悔』(1993)で金馬奨の録音賞ノミネート、ツァイ・ユエシュン監督『ハーバー・クライシス<湾岸危機>Black & White Episode1』(2012)で金馬奨の音効賞にノミネートされた。
2015年に中央電影公司の経営権の移行に伴い退職勧告を受け、フリーランスとなる。
2017年のソン・シンイン監督のアニメーション『幸福路のチー』の音効を手がけ、現在はセミ・リタイア状態にある。2017年に長年の功績を讃える金馬獎の年度台湾傑出映画製作者に選ばれるという栄誉に輝く。

『擬音 A FOLEY ARTIST』
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監督:ワン・ワンロー
出演:フー・ディンイー、台湾映画製作者たち
製作総指揮:チェン・ジュアンシン
撮影:カン・チャンリー
後援:台北駐日経済文化代表処台湾文化センター
特別協力:東京国際映画祭
2017年/台湾/カラー/DCP/ステレオ/100分
配給:太秦
ⒸWan-Jo Wang
公式サイト:https://foley-artist.jp/
2022年11月19日(土)より、K’s cinemaほか全国順次公開

なお『擬音 A FOLEY ARTIST』の作品紹介はこちらです。


『こころの通訳者たち』山田礼於監督インタビュー 

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*プロフィール*
山田礼於(やまだれお)フリーランスの映像作家。
「インド発ロンドン行直行バス」(82)、「野性のアラスカ 365日」(96)など大型TV番組で人間ドキュメントを数多く制作。その間東京大学のイタリア・ローマ遺跡発掘の記録を20年以上にわたって記録。さらに「孫のナマエ~鴎外パッパの命名騒動7日間」(14)などドキュメンタリードラマの演出も手掛ける。
映画作品は『〈片隅〉たちと生きる 監督・片渕須直の仕事』(19)、『ドキュメンタリー劇団桟敷童子~コロナとザシキワラシ』(21)。
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『こころの通訳者たち What a Wonderful World』
見えない人、聴こえない人、車いすの人、小さなお子様を連れた人、誰でも一緒に映画を楽しむことができる日本で唯一のユニバーサルシアターのシネマ・チュプキ・タバタでは、上映する全ての作品に映画音声ガイドと字幕をつけている。そんな映画館に「耳の聴こえない人にも演劇を楽しんでもらいたいと挑んだ3人の舞台手話通訳者たちの記録」を映画にしたいという話が持ち込まれた。映画館の代表の平塚千穂子をプロデューサーに、2021年9月、本作の撮影がスタートした。
この映像をどうやって見えない人に伝えられるか、聴こえない人、見えない人、どちらでもない人が入り混じり、お互いのわかるわからないを俎上にのせていく。
作品紹介はこちら
公式サイト cocorono-movie.com
© Chupki 
シネマ・チュプキ・タバタHP https://chupki.jpn.org/

★2022年10月1日(土)よりシネマ・チュプキ・タバタにて先行公開
10月22日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次ロードショー

―この作品を作ることになった経緯からお聞かせください。

映画にも出ていますけど、ドキュメンタリーを一緒にやってきた仲間で、越さんという女性ディレクターがいます。彼女が2012年2月豊橋の劇場で上演された舞台「凛然グッドバイ」の”舞台手話通訳者の記録”を撮った。これはウェブ上で見せる予定で、ほんとは5分くらいのものですが、そのためにちゃんと稽古のときから撮っていた。「こんな仕事やってる」と、それを見せてくれたんです。
短いヴァージョンは作るけれども、もう少し長いのができないかと思っているという話があって。
僕も見て「あ、面白い」と思った。
舞台手話通訳の女性たち3人がそれぞれプロの手話通訳士であったり、主婦であったりするんですが、たった一回の芝居の公演のために凝縮された充実した時間をともに過ごし、最後には抱き合う、感動するという姿が素晴らしいと思って。その時は手話そのものの細かいディティールとかは、僕自身全然わかっていなかったんです。でも何かこう、これは絶対面白いものになるだろうと思いまして、彼女たちの日常やインタビューを追加撮影して1本の映画にしたらどうだろうかと。1時間か1時間半くらいの作品はできるんじゃないかという話をしました。
で、イザやろうと思ったら、ちょうどコロナ禍でロケ取材が難しい状況になっていました。それでふと思いついたのがここ[シネマ・チュプキ・タバタ]。以前、私が『片隅たちと生きる』を作ったときにこちらでも上映させていただいて、まさにこの部屋(チュプキ会議室)で音声ガイドの字幕版を作る作業に立ち会って、「ああ、こうやって作るんだ!」って、すごくびっくりしたんですよ。

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「凛然グッドバイ」の1シーン

あと見えない人のために情景描写をするわけですが。それをどういう言葉で表現して台詞と台詞の間に入れていくかという作業でも映像の理解力というのか、深さというか、それに驚きました。
特にドキュメンタリーは構図だとか、そこにある一個一個の意味を考えながら撮るのではなく、流れの中で撮る、捕まえていくのが普通のやり方です。それを一度分解して、ここが重要だという部分を平塚さんは選んで、彼女流の言い方をするんですね。ある意味ディレクターとしては、「そこまで? そういう風に言っちゃうの?」みたいなところも正直言ってあったんです。それは勝手なことをしているのではなくって、深い理解と彼女なりのその映像に対する愛情がこもった言い方をするんだ、と納得がいきました。この人はすごいなと思っていたので、”手話通訳の舞台の映像”をここへ持ってきました。どういう返事が返ってくるかなと思ったら、わりとさらっと「いいですよ、やりましょう」と言ってくれてこちらが拍子抜けするくらいでした。
もう一つは、「映画」を作るには、お金がかかるわけです。全部がボランティアでは辛い・・・。
ちょうど文化庁のARTS for the future!(コロナ禍を乗り越えるための文化芸術活動の充実支援事業。以下Aff)というのがありまして、僕らは600万のランクに応募しました。Affは監督がやりたい、と持って行くのではダメなんです(団体や法人という規制がある)。それで、平塚さんに「ここチュプキの制作で作れないか」ともお願いしました。「年内に作り上げて映倫を通して最低3日は上映する」という制約もありました。映倫も時間がかかるので、おのずと仕上げの日程が上がってきて、その中でさらにバタバタっと(笑)。

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平塚千穂子プロデューサー

意を決してここに来て、最初に話をしたのが2021年6月の末か7月の初めだったか。
映画にできるかもしれないと思った一番のところは、「これは単に見える人、見えない人の話ではなく主人公は通訳する人だ」と思ったからなんです。
そうすると、その人がいることで単なる通訳とかその人がどんな風にやるかではなく、人と人がわかり合う、コミュニケーションについての映画ができるだろうな、というそれだけは確信みたいなのがありました。それをやってくれそうな仲間を集めてくれた。
そこから先、僕は簡単だった。毎回違う人が出てくる(笑)。どんどんふくらんでくる。この人は何をしているのか、と撮りに行く。だいたい毎週水曜日に会議をやっていましたから、その合間に館山に行って話を聞いたり。聞くとそれぞれがほんとにドラマチックな自分のストーリーがあるんですよね。

―(宮崎)観た人が勇気をもらえると思います。

そのとおりなんですけど、僕は「こっちは見えている」というのは思い上がりで、彼らはもっと見えているんですよ。よっぽど聞いているんですよね。同じ映像を見たときに、見えない分だけすごく「聴く」んです。音のニュアンスであったり、表現の間だったりをものすごく感じてくれている。僕らは見えているので、漫然と聞いちゃう、見ちゃうということをしていたんだけど、彼らはそうじゃない。
zoomで会話をする中で一人の手話通訳の方が「セリフの間合いを長~く待っていて、思わず目をつぶっちゃった」と言うけれども、そんなことも「意味がある」って思われてしまうんだって、そんなギリギリのところで手話通訳やってるんだと僕もびっくりしたし、そんな中でやってたから「できた!」って最後に抱き合えたんだなってすごく思いましたね。
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彩木香里さん

―最初に「見えない人、聞こえない人と一緒に映画を楽しみましょう」というのに大いに感激したんです。

それは平塚さんです(笑)。

―そうでした(笑)。とにかくいろんな要素が入った映画でした。初めは舞台裏をずっと見せてもらえて、メイキングフィルムのようでもあり、出る方の背景にドラマを見たり、いいもの見せてもらった!と思いました。

そうですか(笑)。

―こんなにたくさんの素材を1本の映画に編集するのは大変でしたでしょう?

それは大変でした(笑)。でも本当は思ったほど大変ではなかったです。発言内容がうすっぺらかったりするともっと説明を足さなきゃいけないんですが、むしろ「濃い内容」がありすぎていっぱい落とさなきゃならなくてその整理をするのが大変だったかな。見える人も見えない人も一つ一つの発言、言うべきことをちゃんと持っていた、それぞれの言い方をしてくれた。だからある意味編集しやすかった。

―出演者への質問は監督がなさっていたんですか?

これはテレビのスタイルと同じで、スタッフはカメラマンと僕と二人だけなんです。僕がマイク持って聞き、答えるのをカメラマンが撮っていきます。僕はヘッドホンを着けているので、とてもよく音が聞こえている。その聞こえている音、意思を持って採っている音、聞こえてしまう音、それを自分の中で選んでいるんです。撮影が終わったときに普通は全部観て聞いて、人によっては書き起こすということをします。僕は書き起こすのはあんまり好きじゃなくてしない。その場で聞いていて残るものってあるわけです。何にも見なくても、彼はこういうことを言ってたと。そういう場面は確実に毎回あるので、それを集めていきます。
書き起こして理路整然となる文章では、見ている人に伝わらないんです。全然パーフェクトじゃない、それこそ言いよどんだり、文章になっていなかったりする言い方でも、それには力があるんです。そういう部分を僕らは撮影しながら探していく、拾っていく。
手話通訳が、手話だけでなく表情があるって言ってましたけど、喋っているのも全く同じで、あのときいい顔してたなぁという表情なんですよね。それを撮っていきます。
そういうことがあったから、短い時間だったけれども選ぶことができたかなと思います。

―監督はテレビのお仕事をどのくらい続けていらっしゃるんですか?


僕は26の時から45年。最初っからフリーです。性格的に会社とかダメなんです(笑)。僕が大学のときは学生運動の時代で、大学が封鎖されたりして学校へ来るな、みたいな感じでした。
本来は映画をやりゃよかったんですが・・・映画はものすごく好きで中学生ぐらいからひたすら映画を観ていたんです。しかし、映画が好きだからこそ撮る側になって作る苦労を知りたくない。ずっと映画ファンでいたいって思っていたんです。
そんなときに芝居に出逢って。芝居は生身で、目の前にお客さんがいてという中でやっている。それはそれでドキドキすることです。今思えばいい時代で、唐十郎の赤テントとか黒テントとかそこら中でやっている。ものすごく影響受けたし、役者も演出もやったんですけれども、芝居で生きていく自信はなくて。これは絶対食えないと思って(笑)。
それで岩波映画へ。フィルム触っていられればいいやって始めたけれど、特に何をしたいということがなかったんです。ただフィルムを切ってアセトンを塗って、それができることが嬉しかった。それで、細々と生きて行ければ…。
TVと出会ったのは、大学時代テレビ朝日(当時のNET)でずっとADをやっていたんです。それが月曜から金曜までの15分の学校教育番組。いいプロデューサーがいて、若い奴をロケに連れていってくれたんです。それでこういうのは面白いな、やりたいと思っていたんですね。
岩波でフリーの助監督として何本かやっていたときに、テレビである番組が始まるという話があり、テレビ経験があるということで挑戦したんです。最初が海外取材の番組で、26歳で初めてディレクターをやったのがこれです。それから5,6年日本で取材したことはなかった。だからどこに行ってもなんとかなるんだという変な自信だけはつきました(笑)。

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劇場前での山田監督と平塚プロデューサー

―(景山)プロフィールにある「インド発ロンドン行直行バス」といえば、沢木耕太郎の「深夜特急」(1986年/新潮社)ですね。

あれはすぐにはできませんでした。5,6年経ったころかな。ドキュメンタリーはだいたいいつも日曜日の午前中か、「素晴らしいい世界旅行」とかなんとか、日曜の夜7時半から30分くらいの番組がありました。ドキュメンタリーにエンターテイメント的要素を入れて撮れるかもしれないと、日テレがナショナルドキュメンタリー特集っていう1時間の番組を始めたんです。10時から11時というわりと大人の時間帯。その企画で初めて持って行ったのが、「インド発ロンドン行直行バス」前後篇で、1本目がインドからイランの砂漠まで、2本目がそこからロンドンまで。

―その海外番組のお話だけで本が1冊できそうですね。

ちょっと酒でもあったら止まらないです(笑)。いくらでも話せますけど(笑)。
我儘な人間なので、自分が楽しいことだけやってきた。どこの会社にも属さないで、いまだにそうですけれど何とか一人でやってきた。ただ、仲間だけはいたんですよね。フリーでやっていてもひとりぼっちではないんです。毎回カメラマンであり、録音であり、仕上げのスタッフとか。どこの会社でやろうが、そのチームでやるのでかなり自由にできたんですね。だから言いたいこと言いながら、勝手なことしながらずっとやってきました。

―今回の映画作りのお仲間は?平塚さんのほかに。

最初は越さん、娘くらいの年齢なんですがたまたま大学が一緒で前から知っていた。カメラマンはいつもずーっとやっているカメラマンともう一人。録音はお金がないので自分でやって。それだけで始めました。最悪さっき言ったAff(ARTS for the future!)からお金が出なくても、自分以外の日当ギャラが払えればいいや、って感じで始めたんです。

―完成して良かったです。おめでとうございます。

ほんとに良かったです(笑)。

―後はたくさんの人に届けたいですね。このチュプキのように設備のあるところで上映するのが、一番よく伝わると思うんですが。

僕も細かいことはわからないんですが、最近はスマホで音声ガイドが聞けるんです。そういう方面はすごく進歩しています。きちんと連動させてやれば地方の小さい映画館でもある程度似たような形で音声ガイドを付けて映画を観ることができます。こういうことができるんだ、と知られるといいと思います。実際の撮影期間は15,6日。後半は撮影しながら編集もしていました。

※参考 社会福祉法人日本ライトハウス
http://www.lighthouse.or.jp/iccb/udcast/


―この映画は完成した後に字幕を入れなくてはなりませんね。

そうなんですよ。それも字幕の数が何千とある。画面にたくさんの字幕が出るので、文字の色を変えたり斜体にしたり。一つ間違うとたいへんな騒ぎです。最終はいつになるのかな。去年12月に一応みんなでお披露目の試写会をやったりしました。

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会議中の出演者(彩木香里さん、白井崇陽さん、難波創太さん、近藤尚子さん、石井健介さん)

―たくさんの方が出演されていますが、どの方も印象に残りました。監督が入れこめなかったけれど、というエピソードがあったらこそっと。

それぞれドラマを持った方たちなので、面白い話はいっぱいあってそぎ落としていくのが大変といえば大変だったんです。
難波さんは特にいろんなことをやっているので、映画に入ってはいないですけど大学で絵画の授業をするんですよ。絵画を3つくらい出して何が描いてあるか、学生に説明してと言うんです。横長のフレームに斜めに橋が描かれていて、とかの説明で自分がそれをイメージできるかどうか。それはそれですごく面白いですが、残念なのは今の学生たちが言葉を持っていない。だからとても浅いことになってしまう。イメージを湧かせるところまで、なかなかいかない。
難波さんは「るくぜん」という自分のギャラリーを持っていて、あるアーティストを呼んで、そこで作品を作ってもらう。そこへみんなが来て観るというのをやったんですよ。それは自分も面白かったですね。

―立体は触ればわかりますが、絵画をイメージするのは難しいですね。ただ難波さんには下地があるから大丈夫そうです。(武蔵野美術大卒、映像作家でデザイナーでした)

彼はすごいです。元々映像の仕事をしていて同業者みたいなところがあるから、わりとそういう話ができるんですよね。なんでもやってるんですよ。

―難波さんは何でもできるので、見えないというのを忘れてしまいます。

食べるものを作るとかアートとかいうのはわかるんですけど、合気道で投げられているじゃないですか。見えないで投げられるってどうなんだろうと。道場の方に聞いたらば、自分たちもびっくりしているって。その前からやっていたのでなく、目が見えなくなってから始めたというのが驚くほどのことで。

―館山の石井さんが、「朝、目がさめたら目がみえなくなっていた」というのに、そんなことってあるんだ!と驚きました。こんなに若いのにほんとにショックだったろうと思います。
落ち込んでいたところを小さい娘さんのひとことで、立ち直れたというのにも感じ入りました。


逆にいえば若いからこそ立ち直れたし、いろんなことをやれている。その勇気ってすごいと思いますね。みんなができるかといえば、それは難波さんだからであり、白井さんだからで、個人なんですよね。

―こういう状況でここまでやれている人がいるというのは、他の人たちの励みになります。今大丈夫でも、誰でも年を取れば耳が遠くなり、目もかすんできますし。

―(宮崎)ここチュプキができたときから気になっていたんですが、なかなか田端まで来れませんでした。今回試写がここだったのでやっと来ることができて、音声ガイドをイヤホンで聞くのも初めてだったので、興味深かったです。
スマホで聞けるというのを聞いて3年前のピースボートの経験を思い出しました。

(*船内の日本人による講座、講演などを同時通訳で英語と中国語に訳して、その言語しかわからない人たちは音声ガイドのようにスマホで聞いていた)

そういう意味ではすごい進歩しているんです。
スマホは彼らに必要なんですね。月餅づくりで(難波さんのお店に)行ったときも、喋れない人と見えない人が一緒にやるんだけど、何かのときにスマホを出して、パパっとやる。

―(景山)さっきの試写で難波さんの連れているピース(盲導犬)のそばにいたんですけど、ピースが上映中おとなしく伏せていたのに、劇中で「立って」の声がしたらパッと立ったんです(笑)。
*難波さんの声に反応した仕事熱心なピースの逸話

『こころの通訳者たち』サブ4.jpg
難波さんとピース

―(宮崎)私たちが観て、見えない人や聴こえない人を「こういうことなんだ」と理解することができます。だからいろんな人に観てほしいですよね。

全くそうです。僕は特に障害を持った人に観てほしいという気はないんです。「分け隔てなく誰でも観てください」とすごく思っています。だからそういう人たちの映画としてでなく、伝わるといいなと思っています。

―そのために何か工夫されたことはありますか?

編集しているときには映画として、ドキュメンタリーとしてどうか、ということの判断だけでしたね。逆にそこの間を埋めてくれるのが、字幕であり音声ガイドです。僕が信念として持っているのは「ドキュメンタリーというのは真実をそのまま伝えるんじゃなくて、作りものだ」ということです。しかも上質の作りものにしないと伝わりません。そうはっきり思っています。

―映画として、ドキュメンタリーとして面白く拝見しました。
今日はありがとうございました。


=取材を終えて=
出てくる方々がとても魅力的です。お一人ずつのドキュメンタリーができるのでは?と思うほど背後にはドラマが詰まっていました。気づくことがいろいろありました。演劇に手話通訳者がいる、というのも観て初めて納得がいきます。見えない方が周りの動きや気配をよく感じて、とらえているということも想像以上でした。これは説明を聞くよりも実際に観て、感じていただきたい映画です。
写真撮影をしながら山田監督の心の1本は何ですか?と伺いました。「洋画ばかり観ていたから1本は難しいな」と選んでくださったのは、ロジェ・ヴァディム監督の『血とバラ』(1960)。記憶に残っている最初の1本は、家族に連れられて観た『未知空間の恐怖 光る眼』(1960)だそうです。
★山田監督の新作は『ドキュメンタリー 劇団座敷童子~コロナとザシキワラシ~』です。ただ今、監督自ら配給・宣伝にまい進中。
こちらもまた魅力たっぷりの劇団員さんたちが登場します。コロナで大打撃を受けた興行界ですが、みなさんの不屈のエネルギーに圧倒されました。生の舞台が見たくなります。11月19日より横浜シネマリンにて公開決定!
https://sajiki-movie.com/

 
(取材:白石、景山・宮崎が同席。監督写真撮影:宮崎)