『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  タラ・ハディド監督インタビュー (アップリンク提供)

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アトラス山脈の四季折々の自然風景と、モロッコの山奥で暮らすアマズィーグ人の姉妹の慎ましくも美しい日々の営みを記録した映画『ハウス・イン・ザ・フィールズ』。
2020年公開予定でしたがコロナ禍で延期になり、2020年5月にオンライン配信で緊急公開されました。この度、ようやく劇場公開が決まりました。
★2021年4月9日(金)よりアップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

劇場公開にあたり、世界的建築家ザハ・ハディドを叔母に持ち、写真家としても活躍するタラ・ハディド監督のインタビューが、配給のアップリンク様から届きました。

また、公開に併せて、アマズィーグ語の文字ティフナグをあしらったロゴTシャツ、トートバッグ、そしてハディド監督によるフォトTシャツなど、オリジナルグッズも発売されますので、あわせてご紹介します。

作品詳細は、下記もあわせてごらんください。

★シネジャ 作品紹介 


★シネジャ スタッフ日記 2020年5月17日
モロッコ、アマズィーグ族の姉妹『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  ★オンライン公開中  (咲)




☆タラ・ハディド 監督インタビュー☆

ーーなぜこの作品を作ろうと思ったのでしょうか
20年ほど前初めてこの村を訪れた時、圧倒されました。マラケシュから10時間以上かかる場所で、たどり着くのが非常に大変なのですが、荘厳な風景や、そこに住む人々に魅了され、数年後にまた訪れました。数百年前から変わらないコミュニティの、失われつつある生活様式を記録し、彼らのクロニクルを撮りたいと思いました。人里離れて、閉鎖された山間部に暮らす特定の家族、特定の女の子たちを撮ろうと思ったのです。
7年かけて、彼女たちの生活に入っていって、カメラも一緒に生活を共にし、たくさんの映像を撮りました。撮影し終わってフッテージを見た際、彼女たちの痛みがどれほど強いのか、私はやっと理解しました。自分の気持ちをはっきり表明しない人たちなので一緒に生活している時にはわからなかったのですが、カメラが彼女たちの内面を捉えていたんです。

ーー モロッコの女性の地位
15年ぐらい前にモロッコ政府は、女性の地位を根本的に上げる、革命的といっていい家族法を作りました。離婚したら財産は半分に分ける、就業の自由などが書かれているわけですが、法案が通っても実際にそれを適用しないと意味がない。男性たちがそれに応じて動かないといけない。とくに田舎では、まだまだ時間がかかる。
ただ、実際に生活を共にして見えてきたことは、女性が犠牲になっているだけではなく、男性も犠牲になっていたということ。つまり、このコミュニティが、犠牲のうえで成り立っている。伝統があまりにも強く存在しているので、そこを破るわけにはいかない。個人のためではなく、共同体のため。個人の犠牲によって共同体が今まで生き延びてきたのです。
とはいえ、男の子のほうが少し特権的な立場にあることは確かです。自分がやりたいことを主張できる立場にはあるからです。女の子が「大学に行きたい」というのはタブーですが、男の子だとそれほどタブーではありません。

ーー 彼女たちのその後は?
ハディージャはとても活発で頭のいい子です。家族法が変わったことにより、今までになかった権利が女性に大きく与えられた、それを知って彼女は弁護士になりたいと思ったようです。ですが、夢を追いかけるために共同体を離れるということは、とても大変なことです。私はハディージャのご両親に「彼女を大学に行かせてあげてください」と懇願したことがあります。でも、それは行き過ぎたお願いだったようです。お母さんに「彼女がいなくなったら誰が畑仕事を手伝ってくれるの?動物の世話をするの?」と言われました。

村の人たちも「教育は必要ない」と考えているわけではありません。しかし子供たちが学校に行くと、仕事を手伝う人間がいなくなる。「村を出たい」という願望を持つ若者たちも多いと思いますが、実際には、彼らは村の一部であり、山の一部なのです。山間の暮らしに愛憎を抱きながら、その一部として生きている。ここは、外部の人間が立ち入ることのできない、白黒ではない難しい問題です。

わたしは教育が大切だと考えています。ただ、あの村をとても尊敬し敬意をもっていますので、彼らのルールを尊重したいとも思っている。コミュニティの価値観を変えるというのは、とても長いプロセスが必要で、政府とかNGOとか、いろんな人が関わって根本から変えていかなくてはいけない。

今、彼女は結婚して、夫と息子と幸せに暮らしています。でも、まだ全然遅くないと思うのです。彼女はまだ19歳です。マラケシュの郊外に住んでいるので時々会いますが、いつも言っています。「まだまだあなたは若いし、遅すぎるということはないのだから、また勉強したらいいんじゃない?」と。


【監督プロフィール】
タラ・ハディド Tala Hadid
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脚本家、監督、プロデューサー。建築家のザハ・ハディドは叔母にあたる。
1996 年に『Sacred Poet on Pier Paolo Pasolini』で監督デビュー。何本かの短編を監督した後『Tes Cheveux Noirs Ihsan』(2005)で学生アカデミー賞を受賞し、ベルリン国際映画祭パノラマ部門最優秀短編映画作品賞に輝いた。
2014 年、『Itarr el Layl』 (英語タイトル:The Narrow Frame of Midnight)を完成。この作品は、トロント国際映画祭でプレミア上映された後、ニューヨークのリンカーン・センター、ローマ国際映画祭、ロンドン国際映画祭、 ウォーカー・アート・センターなど世界中の数多くの映画祭や映画イベントで上映された。
ニューヨークの売春宿を撮り続けた写真ドキュメントのプロジェクト“Heterotopia”や、2芸術写真の出版を手がけるスターン出版から、新進の写真家を紹介する “Stern Fotografie Portfolio” シリーズでハディドの写真を特集した本が出版されるなど写真家としても活躍している。


★オリジナルグッズ※4月9日(金)発売
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『ハウス・イン・ザ・フィールズ』タラ・ハディド フォトTシャツ 人物
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』タラ・ハディド フォトTシャツ 風景
カラー:ホワイト
サイズ:M、L
販売価格:3,500円(税抜)

写真家としても活躍するタラ・ハディド監督によるフォトTシャツ。
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』ロゴ Tシャツ
カラー:ホワイト、ブラック、ライトピンク、ライトイエロー
サイズ:M、L
販売価格:2,800円(税抜)

『ハウス・イン・ザ・フィールズ』ロゴ トートバッグ
カラー:ナチュラル、ブラック、レッド、スカイブルー
販売価格:1,800円(税抜)

▼お取扱店舗▼
◎ アップリンク渋谷
https://shibuya.uplink.co.jp/
◎ アップリンク吉祥寺
https://joji.uplink.co.jp/
◎ アップリンク京都
https://kyoto.uplink.co.jp/
◎アップリンク・オンライン・マーケット
https://uplink-co.square.site/


【作品概要】
『ハウス・イン・ザ・フィールズ』  原題:TIGMI N IGREN
監督・撮影:タラ・ハディド
出演:ハディージャ・エルグナド、ファーティマ・エルグナドほか

弁護士になりたい妹と、結婚のため学校を辞める姉。
モロッコの山奥、圧倒的な自然風景とアマズィーグ人の姉妹の日々の営みとゆれる心を繊細に描く。
弁護士を夢見る少女ハディージャとその姉のファーティマは、モロッコの山奥で暮らすアマズィーグ人の姉妹。ある日、ファーティマが学校を辞めて結婚することになる。「結婚するのが怖い。だけど義務だから」と胸のうちを語るファーティマ。ハディージャは、大好きな姉と離ればなれになってしまう寂しさ、そして自分も姉のように学校を卒業できないかもしれないという不安を募らせていく。2人の揺れ動く想いをよそに、その日はやって来て……。

アフリカ北西部に広大に走るアトラス山脈の一部、モロッコの高アトラス南西地域。そこに住むアマズィーグ人は、信心深く、伝統を重んじ、自然の恩恵を受け、数百年もの間ほとんど変わらない生活を送っている。世界的建築家ザハ・ハディドを叔母に持ち、写真家としても活躍するタラ・ハディド監督は、本作の製作にあたり、7年にわたって現地に通い、彼らと寝食をともにしたという。雄大なアトラス山脈の四季折々の自然の中で、被写体に寄り添った親密な映像は、失われつつある生活様式や文化を記録しながら、人々の内なる想いをも紡いでいく

モロッコ、カタール/2017年/86分/1:1.85/アマズィーグ語
字幕翻訳:松岡葉子 
配給・宣伝:アップリンク
■公式サイト https://www.uplink.co.jp/fields/
■公式Twitter https://twitter.com/intheFieldsJP
■公式facebook https://www.facebook.com/113411273686745/
★2021年4月9日(金)アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

▼予告編 YouTube▼
https://youtu.be/dVunYbRl2hA

『緑の牢獄』黄インイク監督インタビュー

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2021年3月27日沖縄桜坂劇場先行ロードショー
2021年4月3日より ポレポレ東中野ほか全国順次公開
ポレポレ東中野公開 舞台挨拶予定

『緑の牢獄』
沖縄・八重山諸島にある西表島には1886(明治19)年頃~1960(昭和35)年頃まで石炭を採掘する炭鉱があった。炭鉱がいくつもでき、日本人だけでなく、戦前、日本の植民地だった台湾や朝鮮からも人を集めた。朝鮮人坑夫もいたけど、台湾人坑夫の方が多かったという。大正時代には、坑夫は1000人以上になった。しかし、坑夫たちは過酷な労働やマラリアにかかり、たくさんの人が亡くなった。坑夫たちは過酷な労働に耐えるため「モルヒネ」漬けになったり、借金まみれになり、「緑の牢獄」から抜け出すことができない人も多く、彼らを連れて来た親方はそういう人たちの面倒を見るような立場でもあった。次第に炭鉱はすたれ、戦後の一時期、米軍政府が石炭採掘を試みたけど長くは続かなかった。廃坑の周りはすでにジャングルに飲み込まれ、自然に戻りつつある。そして廃坑近くに住む90歳の橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)。彼女は、坑夫たちの親方だった養父に連れられ、10歳で台湾から来て人生のほとんどをこの島で過ごし、たった一人で家と墓を守っている。

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.


『緑の牢獄』HPから
沖縄を拠点として活動する黄インイク監督が7年の歳月を費やした渾身の一作『緑の牢獄』。本作は企画段階で既にベルリン国際映画祭、ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭の企画部門に入選。前作『海の彼方』に続き、植民地時代の台湾から八重山諸島に移住した“越境者”たちとその現在を横断的に描く「狂山之海」シリーズの第二弾。

シネマジャーナルHP『緑の牢獄』 作品紹介
『緑の牢獄』公式HP

黄インイク監督インタビュー
取材・写真 宮崎 暁美

黄インイク(黃胤毓/ホァン・インユー)監督プロフィール 
書籍「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」より
沖縄在住、台湾出身の映画監督・プロデューサー。東京造形大学大学院映画専攻修了後、台湾と沖縄を拠点とする映画製作・配給会社「ムープロ」(台湾と日本でそれぞれ「木林電影」「株式会社ムーリンプロダクション」)を設立、映画活動を行う。長編ドキュメンタリー作品『海の彼方』(2016年)、『緑の牢獄』(2021年)。石垣島ゆがふ国際映画祭プログラムディレクターを務める。
この映画の制作過程で得たフィールドワークの調査結果や新事実を多数掲載した著書「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」を発行。

☆「八重山の台湾人」製作過程
 
編集部 西表島に炭鉱があったということは、2017年の大阪アジアン映画祭での『海の彼方』上映後のトークで黄インイク監督が話していたので知りました。黄監督は「八重山の台湾人」という作品の壮大な計画を話していました。その時に名刺交換して、それから何度か『緑の牢獄』の進行状況などのメールをいただきましたが、いつ頃公開されるのだろうと思っていたところ、今年(2021年)の大阪アジアン映画祭で上映されることを知ったのですが、今回新型コロナウイルスの影響で大阪アジアン映画祭には行けなかったので観ることができず残念に思っていたら、4月公開を知り連絡したしだいでした。
監督はいつ頃台湾から沖縄に渡った人たちのことを知り、この「八重山の台湾人」と取り組みはじめ、この『緑の牢獄』の公開にこぎつけたのでしょう。

*『海の彼方』黄インイク監督作品 2017年8月12日公開 公式HP 

黄監督 台湾にいた頃から、八重山に移住した台湾人のことは知ってはいましたが、日本に留学してから具体的に興味を持ち、2013年頃~2014年頃にリサーチし始め、八重山、沖縄、あるいは関連した場所に行き、150人くらいにインタビューしました。その後、2014年頃から撮り始めました。この作品の主人公・橋間良子(江氏緞)さんの映像は主に2015年前後に撮ったものを使っています。

― 私は1977年(43年前)に2週間くらい沖縄に行ったのですが、その時に石垣島、西表島にもそれぞれ4日くらい行きました。そのあとは沖縄には行っていないのですが、沖縄や八重山の歴史に興味を持ってきたのに、台湾からの移住者がいるということは知りませんでした。そのことを知ったのは2015年に公開された『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』によってでした。この作品と黄監督の『海の彼方』の2作品は八重山にパイナップルを伝えた台湾人の話でしたが、今回の『緑の牢獄』は、西表島に炭鉱があって、そこでたくさんの台湾人が働いていたという話ですが、どのようにまとめて行ったのですか。
*『はるかなるオンライ山~八重山・沖縄パイン渡来記~』2015年11月27日公開(企画・監督・ 脚本:本郷義明  原案:三木健)

監督 2013年~2014年頃、1年半くらいかけてリサーチしました。会って話を聞いて、興味を持った人たち、家族を追いかけてみようというところから始まりました。いきなりどういう話、どういう映画、誰が主人公というのは、早い段階では決められなかった。橋間良子さんには2014年から何回かあって、話を聞くところから始まりました。『海の彼方』も含めて「八重山の台湾人」をまとめる中で、いくつかの話を同時進行の形で進めました。
2014年~2015年は数か月に1回、インタビューを中心に1週間を越えない程度の訪問でした。本格的に生活のシーンも含めて撮りたいと思ったのは2016年くらいでした。知り合って2年くらいかかりました。

☆西表島の炭鉱の成り立ち

― 台湾から来た人たちは台中などからの人たちが多かったと書いてありましたが、台湾の北部も炭鉱がけっこうありましたよね? 九份とか金瓜石あたりの鉱山からも来ていたのですか?

監督 九份とか金瓜石は金山でしたので、こちらの鉱山から来た人はほとんどいませんでした。西表は石炭の炭鉱でしたから。同じ北部でも基隆あたりの炭鉱から来ている人が多かったです。人力掘りでやっていた人たちです。九州の炭鉱は当時東洋一と言われて機械掘りもありましたが、西表は人力が頼りの炭鉱でした。

― 最盛期の大正時代には1000人以上の坑夫が働いていたそうですが、良子さんのお父さんは台湾人親方として台湾人を募って連れてきたのですか?

監督 そうです。西表の炭鉱は九州の炭鉱から流れてきた人が多く、半分くらいは九州からの人たちでした。なので、九州での炭鉱の制度とか見習っていたようです。その他、台湾、朝鮮、沖縄本島からの人もいたのですが、西表とはいえ九州色が強かったようです。

― 西表島の炭鉱はどの辺にあったのでしょう。いくつもあったのですか? 白浜のまわりだけ? けっこう鉱脈のよい炭鉱だったのでしょうか?

監督 そうです。何か所もあったんです。白浜、内離島、浦内川周辺が多かったようですが、たくさんの炭鉱があり、いろいろな会社が経営していました。

― 太平洋戦争が終わって、炭鉱はなくなったのですか?

監督 戦後は米軍政府の統治下になり続けていたのですが、1960年代初めには閉山しました。

― 石炭から石油の時代に変わっていった時代でもありますね。

監督 九州、北海道、基隆も1970年代まで炭鉱はありましたが、米軍政府はそんなに積極的には進めなかったのでしょう。

*参考記事 シネマジャーナルHP 
『作兵衛さんと日本を掘る』 熊谷博子監督インタビュー

☆橋間良子さん(旧名・江氏緞さん)と家族のこと

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(C)2021 Moolin Films, Ltd. & Moolin Production, Co., Ltd.

― そんな中、良子さんは親方であった養父に連れられて10歳の時に西表島に来たわけですね。
*後の連絡より おばあの養父は1936年(昭和11年)に先に西表島に来て、1937年(昭和12年)に家族全員を連れて来たそうです。おばあは10歳で来たと言いましたが、年表的には11歳が正しいようです。

監督 彼女たちは1回台湾に疎開していますし、戦後、台湾に戻ったのですが、二・二八事件の影響があって、また八重山に戻ってきました。でも、すぐには戻ってくることができなくて、だいぶ待機してから戻ってきました。それは正規には戻って来ることはできなかったからです。その当時、あのあたりは密貿易が盛んだったので闇のルートがあったのです。8年ほど住んでいた西表に戻ってきましたが、無国籍になってしまいました。

― 沖縄が日本に返還された1972年まで、台湾人の人たちは無国籍状態だったんですね。良子さんは10歳の時に親方の養女になって西表に来ましたが、実は親方の家の許嫁だった。なので後に兄と結婚することになり、戦後、やはり親方一家と共に西表に戻ってきた。そして西表に戻ってきた時にはすでに子供もいたのですね。

監督 そうなんです。だから戻って来るしかなかったんです。それで日本に70年以上暮らしていたんです。

― 良子さんの家の隣にある離れを借りて住んでいたアメリカ人の青年ルイスはどんな人なんでしょうか? 1977年に西表島に行った時、バスで島を1周しました。この映画に出てきたあたりも通ったはずなのですが、あの頃で閉山からすでに15年くらい。見覚えのあるような景色も出てきましたが、炭鉱はすでにジャングル(緑の中)に覆われていて、ちゃんと踏み込まなくはわからない状態だったのでしょう。ルイスが炭鉱跡から拾ってきたファンタのビンは、まさに私が中学校、高校時代(1960年代)に飲んでいたビンでした(笑)。

監督 ルイスの両親が日本に来て、日本育ちの青年です。始めはお父さんを訪ねて沖縄に来たのですが、西表には6年くらいいたようです。良子おばあのところにはそのうちの最後の1年くらい住んでいました。

― 戦前は台湾から八重山に移り住んだ人がいましたが、戦後、日本では1960年代以前は、そんなには旅行に行けなかったけど、60年代以降、旅行に行く人が多くなり、行ったところが気に入って住んでしまう人が増えました。私が西表島や石垣島に行った1977年頃は、都会から来て八重山に移り住んでいた人がたくさんいました。

監督 そうなんです。離島に行くと都会から移り住んだ人にたくさん会います(笑)。

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☆観光地だけでない沖縄を伝えていくこと

― 都会から地方に移り住んで、良いことと面倒なこと、両方ありますよね。この映画にも出てきましたが、繋がりや人間関係が強い分、寄付とかが断りにくかったりして良子さんも困っていましたね。
沖縄本島や八重山は、今や観光地として本州から来る人も多いですが、風光明媚な場所というだけでなく、沖縄の歴史、背負ってきたものをぜひ知ってから行きたいですね。こういう映画で観光地だけでない沖縄や八重山のことを知ってほしいです。


監督 そうですね。観光業の人の中には、沖縄の負の歴史をあまり出したくない人もいます。そういうことが、こういうことがあまり知らされていないことにつながっていると思います。島の人たちにとっても昔の歴史で、残そうという人は少ないです。これは外から来た人の歴史であって、島の人の歴史ではないから、あまり出してほしくないという人もいました。一番詳しいのは三木健さんで、長年調べています。

― でもやっぱり八重山の歴史ですよね。何十年もたたないと語られないし、やっと語れるようになったけど、でも早くしないと語れる人もいなくなってしまう。今、記録を残しておかないと。

監督 私が調査を始めた2013年に調査した時点で数人いた状態でした。良子おばあでぎりぎりでした。もっと若い人は記憶があっても若すぎて状況がわからず語れなかったでしょうね。

― 「八重山の台湾人」3部作の2作目が『緑の牢獄』ですが、3作目はどんな進行状態なんですか?

監督 はい、平行して撮っています。もう1作撮っていたのですが、あるいはもっと増えていくかも(笑)。「八重山の台湾人」というくくりですが、もっと家族の物語になるものを長いスパンで撮りたいなと思っています。このシリーズで4作になるかもしれない(笑)。『海の彼方』に出てきた「龍の舞」を踊っていた人たちを追求してみたいです。このコロナ禍が過ぎたら、また追いたいと思います。

― なかなか形にならなくて大変かと思いますが、「とっかかってしまったのでやらなきゃ」という思い、大切ですね。

監督 時間をかけて撮ってみて、この『緑の牢獄』を編集した時に思ったのですが、2014年の映像と2015年の映像の違いに気がつきました。やはり長く撮ることで、良子おばあの表情が違っていました。長く撮り続けることで、おばあとの関係が深くなり、映像が違っていました。2014年当時はわからなかったけど、2015年~2017年に撮った映像と比べるとわかりました。短時間で撮るものは関係性が薄い。時間をかけることで映像が違ってきます。ムーリンプロダクションは沖縄と台湾をつなげることができる映画を作る会社にしていきたいと思います。

2021年製作/101分/日本・台湾・フランス合作
配給:ムーリンプロダクション、シグロ

著書 :「緑の牢獄~沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶」
監督自身のドキュメンタリーの制作理念やアプローチなど内面をも詳細に語ったエッセーが妥協のない言葉で綴られ、映画だけでは伝えきれなかった記録の集大成となっている。
著者 : 黄インイク(コウインイク)
訳者 : 黒木 夏兒
定価 : 本体1,800円+税
体裁 : 四六版/並製/336ページ
ISBN : 978-4-909542-32-8 C0021
販売店: 書店、オンライン書店、イベント会場
発行 : 五月書房新社
URL  : https://www.gssinc.jp

●取材を終えて
「八重山の台湾人」をテーマにした壮大な作品構想。監督本人も沖縄に移住しての作品作り。並大抵のことではできません。それにしても、沖縄に対して思い入れのある私にとっても西表島にかつて炭鉱があって、日本人だけでなく、台湾や朝鮮半島からの坑夫も働いていたというのは驚きでした。パイナップルの時は、1977年に石垣島に行った時にたくさんのパイナップル畑があってわかったのですが、炭鉱に関しては全然知らず、しかも2017年に知ったというしだい。そんな歴史もあったということ。八重山に住む台湾系の人たちが今でもたくさんいることに思いをはせたいと思いました。「西表島の炭鉱は九州色が強かった」ということを聞いて、私が1970年に就職したブリヂストン小平工場(当時、従業員が4000人くらいいました)のことを思い出しました。ブリヂストンは九州・久留米が発祥の地。東京都小平市にある工場での標準語が九州弁(久留米弁?)でした。なので東京の人がわざわざ九州の言葉を覚えてしゃべっていました(笑)。ほんとに九州色の強い会社でした。
黄監督は、これからもこのテーマに繋がる作品を撮り続けていきたいと言っているので、また次の作品もぜひ観たいです。沖縄、八重山に43年前に行ったのですが、久しぶりにまた行ってみたくなりました(暁)。

『凱歌』坂口香津美監督Q&A

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坂口香津美監督プロフィール
1955年鹿児島県種子島生まれ。早稲田大学社会科学部中退。芸能通信社の記者を経て、1984年、TBSの朝の報道番組の企画・リポーターからテレビの世界へ。以来、家族や思春期の若者を主なテーマに約200本のTVドキュメンタリー番組を制作。2000年、制作プロダクション、株式会社スーパーサウルスを設立。
2015年度文化庁映画賞受賞のドキュメンタリー映画『抱擁』など、これまで劇映画6本(2022年春公開予定の『海の音』を含めて)、ドキュメンタリー映画3本(本作を含む)を監督し、劇場公開。著書に小説「閉ざされた劇場」(1994年/読売新聞社刊)

『凱歌』
東村山市にある「国立療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)」には、らい予防法廃止(1996年)後も、ハンセン病の元患者(回復者)の方々が今も暮らしている。すでにみな高齢となっており、後遺症による重い身体障害を持っている人や、また、未だに社会における偏見・差別が残っていることなどもあって、療養所の外で暮らすことに不安があり、安心して退所することができず、やむなく留まるしかなかったのが理由だった。
22歳で入所した山内きみ江さんは、かつて院内で同じハンセン病患者の男性と出会いますが、結婚の条件は※ワゼクトミー(輸精管切除術)と呼ばれる断種だった。(※ワゼクトミー(vasketomie):輸精管を約1cm切除し睾丸において造られる精子の排出路を絶つこと) 
ハンセン病の療養所の所長には警察権が与えられ、その結果、療養所は名ばかりの強制収容施設で、終身隔離政策という人権破壊、非人道的な誤った国策の下、長い間、ハンセン病の患者たちは想像を絶する艱苦の日々を強いられて来た。
『凱歌』は、その凄絶な実相と隠された暗闇に光を当て、ハンセン病の元患者たちが自らの手で勝ち取った人生の誇りと実りを描く。

監督・撮影・編集:坂口香津美
出演:山内きみ江 山内定 中村賢一 斉藤くるみ 中島萌絵 佐川修
2020年製作/90分/日本
配給:スーパーサウルス
https://supersaurus.jp/gaika/
2020年11月28日より全国順次公開中
●シネ・ヌーヴォ大阪 2021年3月27日(土)〜
●アップリンク吉祥寺 4月2日(金)〜4月8日(木)
●刈谷日劇 4月9日(金)〜4月15日(木)
作品紹介はこちらです。

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Q.全生園を取材するきっかけはどんなことからですか?
1998年秋、企画構成演出を担当したフジテレビ特番「家族再生~家族の絆を見つめる母と子の旅」(60分/1999年4月放送)の取材のため、番組に出演することになった東村山市に住む少年の自宅を訪問しました。少年の自宅は多磨全生園の広大な敷地(森)と隣接していました。多磨全生園で職員として勤務する少年の両親から、ハンセン病に罹患し、多磨全生園に入所、わずか3年で夭折した小説家北條民雄のことを聞きました。今思えば、この番組と、この小説家が、僕を多磨全生園へと導いてくれました。その日から10年後の2009年11月、多磨全生園にて『凱歌』の撮影がスタートしました。

Q. 映画にしよう、映画になると感じられたのはいつ、どんなときからでしょう? 具体的なお話を伺ってからですか?
手応えを感じたのは、映画の冒頭から登場するハンセン病の元患者、中村賢一さんと出会ってからですね。取材をすすめていくうちに、「これはかならず映画にしなくては」、そして、「映画になる」と確信しました。

Q. ハンセン病については、撮影の前からどれくらいご存知でしたか?映像を撮る前にいろいろな本や映像をご覧になりましたか?
いえ。撮影の前は、「いのちの初夜」の北條民雄の小説や随筆、北條の師匠だった川端康成の愛弟子(北條民雄)の葬儀の日をノンフィクションのように冷徹な眼差しで描いた小説「寒風」や随筆を読んだぐらいでした。2009年5月、僕は初めて多磨全生園に足を踏み入れました。
ちなみに、松本清張にハンセン病をテーマにした長編推理小説『砂の器』があります。1974年映画化され、話題になったこともあり、19歳の僕も劇場で観ました。今回、『凱歌』の公開を機に、小説「砂の器」に目を通すと、ハンセン病について医学的、社会的な考察は皆無で、解説者が「あとがき」でほんの少し触れている程度、今から50年も前の1961年に出版されたとはいえ、これには違和感を覚えました。

Q.撮影を始めるにあたり、多磨全生園で最初にどなたに声をかけられましたか?
多磨全生園の敷地内には当時、そこが強制隔離施設であったことを示す負の遺産はところどころに残ってはいるものの、当然ながら今や、社会に開放され、門は存在しますが、門衛はいない、出入りは24時間、完全に自由です。僕たちが忘れてはならないのは、ハンセン病の患者がこの自由を獲得するまでには、無数の患者たちの血が流されたという事実です。
ところで、実際に多磨全生園で、ハンセン病の元患者さんに声をかけようとしましたが、なぜか声をかけられません。その日は帰宅し、また、しばらくしてから再訪し、声をかけようとしますが、やはりどうしても話しかけられません。
その時、園内に「入所者自治会」の看板があることに気づきました。そこで自分の無知さも含めて正直に事情を話して、アドバイスを求めたのです。
結果として、同書記室を通じて、元患者の方々に僕が書いた映画の企画書をみてもらうことになりました。  
しばらくたって、入所者自治会書記室から連絡が入りました。「映画出演を希望される方がおられる」というのです。その方が、映画の冒頭に出て来る中村賢一さんでした。

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Q.なぜ、なかなか声をかけられなかったのでしょうか?
なぜ、ハンセン病の撮影をしたいのかという根幹が、私のなかで曖昧なまま、思いや行動だけが先走っていたのだと思います

Q.中村賢一さん、山内定さんご夫婦……、メインになる取材対象者は自然に決まっていったのですか?
はい。すべては中村賢一さんと出会ったことで川は流れ始めました。その流れのなかで、自然に山内きみ江さんご夫妻とも出会いました。最初のうちは、中村賢一さんが船頭役でしたが、後半は山内きみ江さん夫妻が先導役になっていきました。「自分の役目は終わった、あとは山内さん夫妻に任せた(笑)」という感じで、中村賢一さんはそのうち本当にカメラの前に立つのを拒絶するようになりました。
中村賢一さんは、厳しい施設での生活とともに闘った来た親友として療友として山内定さんを信頼し、愛し、また山内きみ江さんの明るさと行動力に、ハンセン病に対する新しい価値観を打ち立てる役割を託したのだと思います。

2019年8月21日、国立ハンセン病資料館の会議室で、『凱歌』の出演者限定の初の試写会を行いました。映画を見終わった後の、中村賢一さん、山内きみ江さんの顔が忘れられません。「映画にしてくれてありがとう」と二人から言われ、嬉しかったのを昨日のように覚えています。
残念だったのは、そこには映画に出演された山内定さん、佐川修さん(前全生園自治会会長)のお二人が、すでに鬼籍に入られ、出席が叶わなかったことですが、あの世で観て下さっていると思います。

山内きみ江さんは『凱歌』の公開中の今も毎日、自室のパソコンを開いて、『凱歌』のFacebookをチェックして、映画の感想を見るのを楽しみにしているとのこと。中村賢一さんは元もと穏やかな性格で、平穏な日常を送ってはいますが、胸の中では、誤った国策によってハンセン病患者がいかに人生をゆがめられ、苦しめられて来たか、自身の体験を含めてそのことへの怒りや哀しみや憤りがいささかも消えず、それどころか今も沸々と煮えたぎっているように思えます。その思いを伝えていく責務が、『凱歌』にはあると思っています。

Q.出演者のみなさんが、坂口監督によく心を開いているように感じます。 
そうでしょうか。そうだとしたらありがたいですね。去年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで映画を観た人からも、同じように言われました。「出演者の方は、坂口さんに自然に心を開いていますね」と。そして、「坂口さん、『抱擁』を見せましたか?」と言われましたので、「そう言えば、中村賢一さんと山内きみ江さんに、何年か前に『抱擁』のDVDを差し上げました」と言うと、「それですよ、坂口さんのお母さんのあのドキュメンタリー(『抱擁』)を一度でも見たら、坂口さんの事がよくわかるから」と。 
ちなみに、きみ江さんは1934年(昭和9年)生まれで現在86歳。僕の亡くなった母より4歳年下です。山内きみ江さんにお子さんんがいたら、僕ぐらいの年齢なのかもしれません。

Q.出演者のみなさんの印象的なエピソードがありましたらご紹介ください。
そういえば、中村賢一さん、山内きみ江さんにそれぞれ別日に、お会いしたとき、二人から同じ言葉が返ってきました。「ぼくはこの歳になるまで、独身で……」と僕が言った言葉に対してです。「結婚しないなんてもったいない!」と。「子どももいないんですが」と言うと、二人とも、「それももったいないね」と。それ以上は、二人ともその事情については一切、僕に聞きません。今も、驚きの声をあげる二人のお顔を、僕は思い出すことができます。子どもを作ることを禁じられるという恐ろしくも残酷な国策の犠牲者であれば、子どもを作れる状況なら作って欲しい、と素直に願ってのことだったと思います。

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Q.中村賢一さん、山内きみ江さん、お二人とも結婚をされたことによって、それぞれの人生にどのような変化がもたらされたと思いますか?
本作で描いているように、堕胎や断種が日常的に行われ、自殺者が出る強制施設は人権無視の異常な世界。そこでパートナーを得て、結婚をされた山内きみ江さん御夫妻にとって、お互いの存在こそが、いうまでもなく生きる希望であり、生きる根幹であり続けたと思います。
あるとき、僕は山内きみ江さんに次のような質問をしたことがあります。「数多(あまた)いる若い患者たちのなかから、医師から余命4か月を宣告されていた8歳上の定さんを結婚相手に選んだ理由は?」と。
「あの頃、私は定さんを信頼し、好意を抱いていましたし、お互いがお互いを必要としていることがわかったからです。そして、何より相性がぴったり合っていたことですね。どんなに厳しい状況でも冗談を言い合いながら、人生を楽しみ、支え合うことができたのも結婚してパートナーがいたからです」
中村賢一さん、山内定さん、きみ江さんの三人ともに、家族の愛に包まれたなかで育ったことで、根幹に自分を愛し、他者を愛するという豊かな感性が育まれたように思えます。それが、強制隔離という人間の尊厳を根底から揺るがす事態にも、絶望せずに様々な困難に打ち克ち、乗り越える原動力になったのではないでしょうか。

Q.映画のテーマ、核になるものは最初から? それとも撮影していくうちに決まっていくものですか?
劇映画の場合は、撮影の前に、テーマも物語の核も、シナリオの段階である程度、決めます。そうでないと、キャスティングができませんから。ドキュメンタリー映画の場合は、撮影前に、テーマは大きく決めてあります。本作の場合は、「多磨全生園を舞台に、ハンセン病の元患者の生きる姿を通して、人間の本質を描く」というぐらいですが。しかし、その時点ではまだ、映画の「核」が何であるか、いつ出会えるかは霧の中の状態でした。『凱歌』の時は、核と出会うのに9年かかりました。『凱歌』で僕が考える核というのは、映画の主人公の山内きみ江さんが、ハンセン病を罹患したからこそつかみ得た生き方や哲学を、ハンセン病とは直接関係のない若い世代に伝えることで、山内きみ江さん自身も変容し、人生に新たな意味を見出すこと、それがラストシーンにつながるものだと思います。

Q.映画で紹介されるみなさんの人生の、ほんの一部を知っただけでも、過酷な日々であったことが想像できます。重い口を開いてお話してくださった方々が、観客に望むことはなんでしょうか? 
みずからの強い意志で、『凱歌』に出演された方々は、おそらく次のようなことを今、望まれているのではと思います。
ハンセン病を発症し、家族と離れ、第二の人生を送ることを余儀なくされた自分が、これまで経験した事実と真実を明らかにすること。それを、映画を通して観客のみなさんと共有すること。ハンセン病に罹患したというただそれだけの理由で人権を破壊されるほどの残酷な行いが国策として平然と行われていた、この悲劇を未来永劫、繰り返してはならないという強い一念があると思います。

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Q.撮影の開始からアップまで9年間かかったとのことですが、その間に変わっていったこと、変わらなかったことはなんでしょう?
変わったことで、一番大きかったことは、ご出演されたお二人(佐川修さん、山内定さん)がお亡くなりになられたことですね。あと、山内さんご夫妻がお住まいになられていた住居が壊されて、更地に変わったことです。
変わらなかったことは、映画で出演された中村賢一さんも山内きみ江さんも、今も多磨全生園で生活をされているということです。

Q.坂口監督の作品は、重いテーマのものが多い気がします。監督自身がそのテーマにひきつけられるのか。あるいは、テーマから呼ばれたように感じることはありませんか。
僕自身、自分の方から撮影するテーマを探したことはありません。テーマは自分の前に不意に、あるいは徐々に姿を現すという感じです。自分がテーマにひきつけられているように感じることもありますし、またテーマから呼ばれているように感じることもあります。ぼくにとって映画のテーマは1つの森のようなイメージです。テーマと出会ったときはすでに、その森の入り口に立っています。カフカの小説の多くはテーマに「到着」の場面から始まります。「城」も、主人公はすでに城を見上げる町に到着しています。僕の映画も気づいた時にはそのテーマを抱く森の入り口に立っていて、そこからカメラをかついで森のなかに入っていくというイメージです。森に入るや、引き返す道はすでに消えています。進むしかなく、暗い森の奥へ導かれるように、どんどん、どんどん入っていきます。底なし沼のような森のなかを……、何度も迷子になりながら、そんな感じですかね、僕の映画作りは。劇映画も、ドキュメンタリーも。

Q.映画制作で大切にしていることはなんですか?
なにものにも「阿(おもね)らない」ということ。映画にも、観客にも、自分自身にも。すべてのものから、完全に自由であるということ。

Q.ほかの作品も並行して撮り続けていたことになりますね。違う作品を撮ることは気分転換になりますか? 普段、充電のために何をされるのでしょう?
僕の作る映画は、メジャーの映画会社のプログラムピクチャーではないし、納期が決まっている製作委員会の映画でもありません。誰かから求められて映画を作るわけでもありません。というわけで、気分転換とか、充電とかいう意識は特にありませんが、日常のなかでゆったりと心身を浸す時間を作るということを心がけています。料理を作ったり、ベランダで植物を栽培したり、近場の鎌倉近辺の寺や周辺の森や浜辺を散策したり。また、絵を描いたり、Youtubeで、古い外国の映画を渉猟したりするのも楽しいですが、つまるところ読書以上の充電、快楽はないように思います。

Q.去年からコロナ禍で、映画界も大変でした。『凱歌』を送り出して、上映を続けるほかにこれからの予定や計画は?
今から5年前、コロナなんて想像だにしなかった2016年の夏、郷里の種子島で撮影した『海の音』という劇映画があります。命の時間が少ない子どもたちがひと夏を過ごす海辺の子どもホスピスが舞台です。3人の少女たちが一人の少年を好きになる、という、ただそれだけの映画です。この映画を2022年に公開する予定です。ティーンエイジャーが出演する映画は撮っていて楽しいですね。

―気になっている映画―
2020年12月、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、『凱歌』を観たという方から一通のメールが届きました。「『凱歌』はとても美しい映画でした。ふと昔観た、同じハンセン病を扱った『小島の春』という映画を思い出しました。あの映画も、とても美しい映画でした」と書かれていました。
気になり、ネットで『小島の春』を検索すると、1940年の公開で、第17回キネマ旬報ベストワン映画とあります。
その夜、僕は『小島の春』(88分)をふるえながら見ました。ふるえたのは、この映画の持つ恐ろしさにふるえたのです。『凱歌』を撮っていなければ、その恐ろしさに気づかなかったでしょう。映画は、一隻の舟から白衣の女医が島に降り立つ場面から始まります。数日後、女医は島で見つけたひとりのハンセン病患者を伴い、療養所をめざして舟で島を離れる、という物語です。
この劇映画の何が恐ろしいのか。二点あります。一点は、映画の内容で、「療養所にいくと病気の治療が出来、何不自由なく暮らせる」という国の政策を女医に語らせ、療養所がまるでハンセン病の患者にとって「天国」であるかのような印象を持たせます。その主張は、映画の全編をつらぬいています。ならば、ハンセン病を罹患した父親のこれから生きる場所は、女医が示す療養所以外にあろうはずはなく、小島の片隅で家族とひっそり暮らしたいと父親が願ったとしても、それは周囲からして許さないことは自明です。
1930年代から1960年代にかけて、全国の県内からすべてのらい患者を療養所に隔離・強制収容させるという「無らい県運動」に『小島の春』は少なくない貢献をしたと推察されます。
『小島の春』の公開から17年後の1957年、22歳の山内きみ江さんはハンセン病を発症し、全生病院(現国立療養所 多磨全生園)に入所します。『小島の春』の主人公のように、愛する家族と永訣し、終生、この療養所で過ごす道を選択するしか道はありませんでした。
1940年は、新聞とラジオと、そして最も国民に影響を及ぼしていたメディアは映画でした。ここにメディアとして映画自体の孕(はら)んでいる脆(もろ)さと危(あや)うさがあると思います。
『小島の春』のラストシーン、家族を残し、女医とともに島を離れるハンセン病の父親を乗せた小舟、その後を追い、見えなくなるまで手をふる少年。この映画のような家族との冷酷な永訣が、全国で無数に行われていたということだと思います。
ハンセン病の患者が連れて行かれた療養所が、『小島の春』の主人公の美しい女医がとうとうとして語る天国などでは決してなく、ハンセン病患者を撲滅する監獄のような強制収容所であったことを、その実相と真実を80年後の今、入所者の実体験から発せられた証言によって真実を露見させたのが、本作『凱歌』ということになるのだと思います。


=取材を終えて=
お目にかかってのインタビューでなく、メールで質問をお送りして回答していただく「Q&A」に変更になりました。坂口監督には丁寧なご回答を書いていただき、大変お手数おかけしました。ありがとうございました。
先日ご紹介した『夜明けのうた ~消された沖縄の障害者~』も国策によって隔離された人たちにフォーカスしたものでした。自分では知りえないことに目を開かせてもらいました。
今コロナ禍でどなたもいろんな影響を受けています。自分のことだけでいっぱいの日々でも、気になる言葉や人に出会ったら、あとちょっとだけ想像力を働かせたらもっと世の中が潤いそうです。
坂口監督の『曙光』(2018)公開前に試写&トークに参加しましたのに、そのときは記事にできませんでした。今回またご縁があって、別の形でお約束が果たせた気がします。文中にあります坂口監督の『抱擁』(2015)の記者会見記事もごらんくださいませ。

(質問・まとめ:白石映子 写真:坂口監督提供)

『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』原義和監督インタビュー

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原義和監督プロフィール
1969年愛知県名古屋市生まれ。フリーTVディレクター。
2005年より沖縄を生活拠点にドキュメンタリー番組の企画制作を行う。東日本大震災の後は福島にも通って取材し、Eテレ「福島をずっと見ているTV」にディレクターとして参加。
主な制作番組は、「戦場のうた~元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史」(2013年琉球放送/2014年日本民間放送連盟賞テレビ報道番組最優秀賞)「インドネシアの戦時性暴力」(2015 年7月TBS報道特集・第53回ギャラクシー賞奨励賞)「Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生」(2016年琉球放送/第54回ギャラクシー賞優秀賞)「消された精神障害者」(2018年Eテレ ハートネットTV/貧困ジャーナリズム賞2018)など。著書に「消された精神障害者」(高文研)、編書に「画家 正子・R・サマーズの生涯」(高文研)。

『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』
私宅監置は、1900年制定の精神病者監護法に基づき精神障害者を隔離した、かつての制度。日本本土では1950年に禁止になったが、沖縄では1972年まで残った。
原監督は、1964年に沖縄で撮影された私宅監置の現場写真と出会ったことから、写真に写る人びとを探し始める。隔離や排除の社会的背景を考察し、制度の犠牲になった人びとの心に寄り添おうとするドキュメンタリー。
監督・撮影・編集:原義和
https://yoake-uta.com/
★2021年3月20日(土)より東京K’ s cinema
4月3日より沖縄桜坂劇場、4月10日より大阪シネ・ヌーヴォほか全国順次公開

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私宅監置小屋跡

―番組のための取材が始まりでしょうか?それともテーマが先にあったのでしょうか?

僕の仕事は最初から番組枠が決まっているものもありますが、多くはどこで放送できるか分かりません。けれども取材はどんどん進めます。TBS、RBC(琉球放送)、NHKなど、いろんなところで仕事をしていますが、企画書を書いてプロデューサーにプレゼンテーションしないと番組にはなりません。その時、ある程度取材して映像が撮れていないと、薄っぺらな企画書になります。僕のスタイルとしては、カメラ取材をずいぶんやってどういう風にまとめられるかが見えてきてから、プレゼンします。
10年以上前から、精神障害者の社会的入院の問題を取材し、様々な番組で放送してきました。その延長線上に、今回の映画もあります。

TBSの古い記者で吉永春子さんというドキュメンタリー界の巨匠の方が、1972年に私宅監置について取材しています。その時の映像を活用させていただきながら、そこに登場する人たちのその後を取材し、TBSの「ザ・フォーカス」という番組でも放送しました。(「生きていた座敷牢 その後」2019年4月21日放送)
吉永さんは極めて珍しい例で、映画のテーマでもある「私宅監置」については、その後、誰も掘り起こしてきませんでした。
私宅監置は、精神障害者を隔離し、「いない人」にしてしまった社会制度です。犠牲者は納得できなかったに違いありません。国の制度によって人生を台無しにされのですから。命の尊厳を傷つけ、人間として否定する、とてつもない人権侵害の制度でした。しかしながら、公的な検証や総括はされていません。闇に葬られてきたと言えます。
映画のサブタイトルは「消された沖縄の精神障害者」ですが、社会的に抹殺された存在ということです。その隔離の事実は、まるでなかったことのように歴史的にも抹消されてきました。
すべてを現代の論理で捉えることはできませんが、過去の出来事をきちんと振り返って考え直すことは必要だと考えています。ですから、ジャーナリストとしてこの取材は社会的に意味があると思って続けてきました。
僕の取材で、誰かが傷つくこともあったと思います。相手によっては、聞かれることは非常につらいことだからです。家族の傷がこじ開けられるような取材ですから。僕には逆にそうやって取材した責任がありますから、映像素材を引き出しにしまうわけにはいかないと思っています。
テレビ番組では時間枠の関係でどうしても少ししか出せません。たくさんたまった映像素材をどうすればよいかと思案しました。当初は映画という発想はありませんでした。本ならまとまった形で出せるのではと、付き合いのある出版社の方に相談しました。売れそうにないと思われたはずですが、懐の深い方で、社会的意味を考えてくださって出版できることになりました。(「消された障害者」2019年/編著:原義和/高文研)
僕は書くのは得意ではありませんし、全部カメラで撮っているわけですから、できれば映像でまとまった形で発表したいとずっと思ってきました。ある時、「映画でやってみたら」という声かけをいただき、チャンスがあるならと映画にチャレンジすることになりました。

―よかったですね。本もこれはこれで、とても意義があると思います。図書館や書店にあれば、これからずっと読んでもらえます。映画館は全県にはないですし、アーカイブにでも残らないと、上映が終わったら観られません。いろんな人に届ける意味で、いろんな媒体を利用するのは必要なことだと思います。

そうですね。出版社の人に「将来、私宅監置について文献を探す研究者が現れるかもしれない。今、売れなくても100年後に探し出してくれたら…」と言ったら、「今の本(に使っている紙)は100年もたない」と笑われました。冗談ですが。
本は電子版というものがありますけれど。今の映画の規格であるDCPが100年先にどうなっているのか僕には分かりません。
過去に学ぶことからヒントを得ていくことが大事だと思うんですね。私宅監置という社会制度としての排除の歴史。どういう苦悩や悲しみがあったかを記録することは、人類的な意味があると思っています。この映画も、100年後に隔離の歴史を調べる誰かが出会ってくれるかもしれない。時代を越え、何かのきっかけでこの映画が引っかかってくれたらと思います。

―最初拝見したときは、なんだか重い荷物を受け取った感じがしました。「私宅監置」という言葉も、ある時期まで合法であったことも、この作品で初めて知りました。つらい話でも知ってしまったら知らなかったことにはできません。
そんな中で(私宅監置されていた)金太郎さんのお孫さんが登場したのがとても嬉しかったです。


あれはマスクをしているでしょう。去年の映像なんですよ。
この映画は、いったん去年3月に完成させているんです。それがコロナ禍で映画館が閉まり、いろいろな事情で公開が延期になってしまいました。その間に金太郎さんの孫の幸恵(ゆきえ)さんから連絡をいただき、6月~7月に取材をさせてもらいました。
彼女との出会いは僕の中でも大きかったです。金太郎さんの息子は、故郷の島を出たきり帰ってこなかったという証言があります。幸恵さんの父、進さんです。進さんは大阪に出てきて、長らくタクシー運転手をされていたそうです。沖縄差別が色濃くあった時代です。たとえ差別的なひどい目に遭っても、故郷には戻れなかった。
「父はいろんな意味で荒れていた」と幸恵さんは話されました。娘としてはそんな父親をあまり好きにはなれなかったようです。進さんが「荒れていた」というのは、父・金太郎さんが隔離されて受けた傷を、引き継いでしまった面があると僕は思いました。でも娘からすれば、そう簡単ではありません。屈折した複雑な思いを持ち続けています。
映画でもにじみ出ていると思いますが、金太郎さんが受けた私宅監置の傷が、実に3代に渡ってお孫さんにまで深い影を落としている。私宅監置の問題は、今も全く終わっていない、生々しい傷としてずっと刻まれ続けていると痛切に感じました。

どうすれば、そうした傷の連鎖を断ち切れるのか。それは、社会的にきちんとけじめをつけるということでしかないと思います。私宅監置というのは、金太郎さんや家族が悪いことをしたわけでは決してない。本人たちは何も悪くない。あくまでも社会の過ちです。法律に基づく制度だったのですから。
時代は変わっても、「あの私宅監置は間違った制度だったんじゃないの?」「どうすればよかったんだろう?」とみんなで考えていくことが大事だと思っています。
今回の映画は過去を追っているわけですが、幸恵さんのシーンを新たに入れたことによって、今につながる問題だとリアルに押し出せたと思います。
今、隔離監禁をやったら犯罪ですから、より見えにくくなっているかもしれませんが、形を変えた私宅監置は今もそこら中にあります。社会的に排除されている存在が、実は私たちの周りに大勢いるということに、思いをめぐらせたいと思っています。そのためにも、無理をしながら掘り起こした私宅監置の実態について、なんとかして世に出したいと思って映画をつくりました。

―そうなんです。自分のできる方法で知らせたいと思うんです。

僕は劇場で公開する映画をつくるのは初めてです。テレビドキュメンタリーというのは実に限られた世界で、最近のテレビの制作現場では「中学生にわかるように、分かりやすく」とプロデューサーがよく言います。結果、きれいにストーリーを積み上げていく、1・2・3・4…と順序立てて結論まで誘導していくスタイルが主流です。
今回は、僕は正直、映画って何だろう?というところからのスタートでした。決してテレビ的につくりたくはありませんでした。葛藤しながら行き着いたのは、映画では「ひとりの作者として何をやりたいのか」が深く問われるということです。それは僕自身の根源的なところが暴露されてしまうことでもあるということ。作者である僕は一体何者なのか。それを僕自身がつかまえないといけないのが、映画づくりではないかと思いました。
それはテレビのように一面的な表現ではなく、もっと多面的でよいということでもあると考えました。描くのも描かれるのも人間ですから。映画を見る人が考えて理解しようとする、その主体性にゆだねる面を大切にすべきだとも思いました。
と言いつつ、普段テレビの仕事でやっていることから抜け出せなかったとは思いますが、仮面の女性を登場させたり、小屋を作ったり、僕自身の世界観を追求しました。映画になったかどうかは、見る人が判断してくれると思います。

―この写真に写っている方々の視線が痛くて「何もしないの?」と言われたようで、何ができるかわからないけれど、まず監督にお会いしようと思いました。

僕にとっても、写真との出会いは非常に大きかったです。映画の芯とも言えます。写真のほとんどは、1964年に岡庭武さん(精神科医)が医療記録として撮ったものです。(写真を並べながら)

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―情(じょう)が入っていますよね。

これらの写真は奇跡的に生まれたと思います。岡庭さんは日本政府が沖縄に派遣した精神科医で、調査をしに行ったわけですが、そうでなければここまで踏み込めなかったと思います。家族も地域も患者を隠していたわけですから。また写真は単なる記録ではなく、情というか、激しい動揺や怒りなどが含まれています。結果、見る者を揺さぶります。僕自身も「お前は何をやってるんだ?」と金縛りにあったような気持ちになりました。

―当時の調査報告はどこかへ届いていますか?

岡庭さんは厚生省から派遣されましたから、報告書はおそらく書いたでしょうし、その後、論文も世に出ています。それは大きな反響があったと聞いています。沖縄で私宅監置が数多く残っていると分かり、医療支援を唱える声がたくさん上がったそうです。

僕が写真と出会ったのは2011年、社会的入院をテーマにした「隔離の現在(いま)」(RBC)という番組の取材の時です。吉川武彦さん(当時は清泉女学院大学の学長)をインタビューする中で、原版のポジフィルムを見せていただきました。吉川さんが保管していましたので。しかし彼は、「こんなもの、外に出せるわけがない」「写真を出すなら顔をぼかして下さい」と言いました。僕は言われるままに、ぼかして放送しました。深く考えずに。

その吉川先生が2015年に亡くなられたのです。その後、沖福連(沖縄県精神保健福祉会連合会)事務局長の高橋年男さんが、「あの写真を沖縄で保管したい」と、ご遺族にお願いしたのです。しかし、山積みになった遺品の中からあの写真群を探し出すことはとても出来ないと言われたそうです。それで、2011年に僕が取材した映像からキャプチャーして保管してはどうかということになりました。ですから、これら(手元)の写真はそのキャプチャーデータをプリントしたものです。ポジフィルムとはサイズなどが異なりますが、それでも記録的な意味は大きいだろうということになりました。

僕は、これらの写真をどうすべきなのか問われていると思いました。再び引き出しにしまうべきなのか?だとすれば、いつまで隠し続けるのか。隠すのではなく、世に出して問うべきではないのか。でもどうやって?…そうした葛藤が生まれました。
写真と正面から向き合う時間が始まりました。世に出すとしたら、吉川さんが言ったように顔をぼかして出すべきなのか。あるいは、ぼかさない方法はあるのか。
2011年の番組では顔をぼかして放送しました。しかし、一体誰を守っていたのだろうか?僕は当時を振り返って、問わずにはいられませんでした。写っている本人を守っているようで、実は放送する自分たちを守っていたのではないかと思うようになりました。写真の顔をぼかすことは、かつて精神障害者を隔離して世間から隠し、存在を消していったことを再び繰り返すことになりはしないか。隔離という加害の歴史を上塗りすることではないのか。そう思いました。もしそうだとしたら、違う道を選ばなければなりません。

顔をぼかさないのであれば、どうすべきか。写っている本人を探し出して公表する許可をもらうべきだろう。ですから、まずは彼らに会いたいと考え、そのあたりから、取材が始まったわけです。ポジフィルムの枠には名前と地域名が記されていましたので、それらを頼りに調査を始めました。まるで探偵のように。
那覇のような人口流動が激しい都市部では難しいですが、離島などではその家にたどりつくことができました。もちろん、会いに行って断られた人もいますが、中には話を聞かせてくださった方もいました。そうやって私宅監置の実態調査も進んでいきました。
私が調べた限り、岡庭写真に写っている当事者で生きている人はいません。ご親せきにたどり着き、写真の公開について了承をいただいた人はいます。でも、ご遺族にたどり着けなかった人がほとんどです。

50年以上も前の写真であること、徹底して本人や家族を探す努力をしていることなどを踏まえ、写真はぼかさずに公開すると決めました。これは高橋年男さんとの共犯かもしれません。ぼかさずに出しましょうと。隠されてきた歴史を社会的に明らかにすることの意味を大事にしましょうと。そして2018年4月、写真展を沖福連と協同的に行いました。(「闇から光へ」於 沖縄県立博物館美術館・県民ギャラリー)

―時代もありますし、大変だと思うんですけど、地域ぐるみで助ける方向にはいかなかったんでしょうか?

そういう風にうまくいった人もいるのかもしれませんが、私宅監置のケースでは、病状も含め、家族や地域で生じた不和などがそれだけ大変だったのだと思います。病院も少ない時代、医療らしき医療がない状況でトラブル続きだったんじゃないでしょうか。私宅監置という制度があるわけですから、それを利用した。1人を犠牲にすることで、マジョリティの安寧を保つという安直な道が選ばれることになりました。それは、今の時代における僕たちの日常的なあり方そのものだとも思っています。地続きなのです。
沖縄には「ユイマール」という言葉があって、みんなが助け合う社会、みんなで共に生きていくのが建前です。でもその輪からはじかれた人が厳然と存在していましたし、存在しています。別に沖縄だけの話ではなく、古今東西、どこにでも排除の現実はあります。

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私宅監置現場写真(1960年代)

―これはたまたま沖縄が取り残されて、ずっと後まで監置が残っていたから明らかにできたけれども、実は日本全国にかつてあった話ですね。時間が経ったから見えなくなっただけ。

もちろんです。日本中にあったことです。
沖縄も、あと20年も経つと関係者が亡くなっていきますし、今だから聞けた話です。逆に20年前だったら、生々しくて話を聞くのは難しかったかもしれません。吉川先生が「こんなもの、外に出せるわけがない」とおっしゃったように、それを許さない空気が強く、取材はもっと難航したはずです。ですから、映画は奇跡的なタイミングで生まれたとも言えます。
僕はこれらの写真とたまたまめぐり逢ったわけで、それはこの映画をつくることを“求められた”ということだろうと。クリスチャン的な言葉で言いますと…

―「神のご計画」ですか?

かもしれないです。
でも、映画も「尺」(上映時間)というものがあるので難しいですね。あれもこれも入れたいけれど、入れられない。この内容で2時間を超える映画をつくる勇気は僕にはありませんでしたから、カットしたシーンがいっぱいあるんです。実際はこんなに(手をひろげる)撮っているけど、こんなもの(手を縮める)ですよ。

―特にドキュメンタリーは脚本ないですから。
それではこれから観る方にひとことどうぞ。ひとことじゃ足りないと思いますが。


私なりに「語った」つもりです。一つは、「うた」にポイントを置いて構成しました。うたは、生きることそのものだと思うんです。なぜ、人は歌うのか?そこには理屈も何もない。生きているから、生かされているから歌う。証言を集めているうちに、隔離されてどんなにひどい目に遭っても、人は歌うのだと知りました。そこで歌われた歌は大切なことを伝えているように思います。人間って、歌う存在なんだなと思っています。

―ありがとうございました。

=取材を終えて=
周りの人に聞いても知っている人はほんのわずかでした。全く知らされなかった、こんな状況で隠されていた人がいたのだということに驚きました。国や地域、個人でも「隠したい。いないこと、なかったことにしたい」体質はそうそう変わらないでしょう。自分にもそういうところがあります。でも自分や大事な人がそんな目に遭ったら、とちょっとだけでも想像力を働かせることが、少しずつでも変えていくことにならないでしょうか?そんな中で、金太郎さんのお孫さんが登場して、後からでもお爺ちゃんを想ってくれたことで、こちらも救われた気がしました。たまたま公開延期になったので、追加できたシーンと聞いてめぐり合わせと思いました。
映画には、台湾にもあった私宅監置の証言をする方が登場します。日本だけでなく、世界中で昔も今もあることなんですね。遠く西アフリカのコートジボワールでは、精神障害者の施設で患者を診るヒーラーや広場の樹木に鎖で繋がれている患者も映し出されます。見えるところにいるせいか、患者が家族や地域で受け入れられ「ま、しょうがないか」と安心している感じがします。鎖は嫌ですが、表情が全く違うのに感心します。監督の著書「消された精神障害者」(高文研)もぜひご覧ください。

(まとめ・監督写真 白石映子)




『きこえなかったあの日』今村彩子監督インタビュー

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今村彩子監督プロフィール
1979年生まれ。大学在籍中に米国に留学し、映画制作を学ぶ。劇場公開作品に『珈琲とエンピツ』(2011)『架け橋 きこえなかった3.11』(2013)、自転車ロードムービー『Start Line(スタートライン)』(2016)がある。また、映像教材として、ろうLGBTを取材した『11歳の君へ ~いろんなカタチの好き~』(2018/DVD/文科省選定作品)や、『手話と字幕で分かるHIV/エイズ予防啓発動画』(2018/無料公開中)などをも手がける。

『きこえなかったあの日』
東日本大震災直後に宮城県に向かった今村彩子監督は「耳のきこえない人たち」の置かれている状況を知る。避難所や仮設住宅で、きこえない人たちがどうしているのか知ってほしいと何度も通っている。この10年の間に西日本豪雨、熊本地震、コロナ禍と思いがけない災害が続き、現地で耳のきこえない人たちに出逢い、その姿を記録し続けてきた。今、どの人にも情報は届いているのだろうか?
監督・撮影・編集:今村彩子
作品紹介はこちらです。
(C)studioAYA2020
http://studioaya-movie.com/anohi/
★2021年2月27日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次公開
全国一斉インターネット配信開始

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―この作品は2013年の『架け橋 きこえなかった3.11』の続編になるのですか?

『架け橋 きこえなかった3.11』は2011年〜2013年に撮影したものです。その映像も使ってはいますが、続編ではなく「新作」です。東北を取材することになったきっかけはCS放送の「目で聴くテレビ」からの依頼でした。「目で聴くテレビ」は阪神淡路大震災を機に始まった、手話と字幕で伝える放送局です。私自身も現地のきこえないひとたちがどんなことに困っているのかを知りたくて、震災から11日後に現地入りしました。

―その『架け橋 きこえなかった3.11』の反響はいかがでしたか?

東日本大震災を扱った映画で、耳のきこえない人の現状を伝える作品はほとんどなかったので、すごく注目されました。映画館にもたくさんの方に来ていただいて、満席で入れないくらいでした。大震災の影響があった地域ほど、反響は大きかったです。

―2011年に初めて被災地に行ったときの印象は?

やっぱりテレビなどで見るのとは全く違いました。自分の足でその場に行って、自分の目で見るというのは本当に違う。埃っぽいし、瓦礫や泥のにおいもある。あまりの悲惨な風景にどんな感情を持てばいいのかわからない。どう思っていいのか、戸惑いました。

―この作品には、西日本の豪雨や熊本地震の被災地の取材分も入っています。

熊本地震も「目で聴くテレビ」の依頼があったんです。訪れた福祉避難所では、手話ができるスタッフやボランティアがいて、24時間、目から情報を得られる環境となっていました。こんな避難所だったら信子さんも安心して過ごせたんじゃないかなと思いましたね。

西日本豪雨は個人として取材に行きました。きこえない人たちが困っていることを記録しようと思っていたのですが、広島では、ろう・難聴者がボランティア活動をしていました。被災したろう者宅だけでなく、一般の家にも支援に行っていて驚きました。汗を流して作業しているろう・難聴者たちの姿に「きこえない人は助けてもらう立場」と考えてしまっていた自分の刷り込みに気づきましたし、同じような思い込みをして、自分は耳がきこえないからとあきらめてしまっている人たちにぜひ知ってもらいたいと思いました。

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―特に印象に残っているのはどなたでしょう?

やっぱり宮城県で会った加藤さんです。それと信子さんも。

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―信子さんが監督と抱き合って泣くところでもらい泣きしそうでした。
初めて会った他人でなく、叔母さんと姪みたいに見えました。


信子さんは、初めは名古屋から来た私に、「遠くからわざわざありがとう」と言ってくれてたんですけど、今では会ってすぐに「次はいつ来る?」と聞かれます(笑)。毎年毎年、宮城に通って顔を合わせているので、ほんとに親戚みたいです。
いつもマフラーやキーホルダーなど信子さんが作ったものを持たせてくれるので、「ありがとう」っていただいてきます。

―以前の作品は聞こえる人と今村監督のコミュニケーションに焦点があたっていました。
今回は被災地へ出かけて、被災した方々中心になっています。これまでと作り方は違いましたか?


最初は、きこえない人はどんなことで困っているのかなとか、必要な支援はなんなのかなと知りたくて、取材をしていました。避難所から仮設住宅に移れば、困りごとも変わります。環境が変われば、問題も変わるので。私は仮設住宅での暮らしで困っていることを取材するつもりでいたのですが、逆に信子さんや加藤さんはそこで楽しんでいました。(笑)
困っていることもあるんですけど、それ以上に仮設住宅の人との繋がりを作って、楽しんで暮らしている。私にとっては、それがすごく印象に残っているんです。

―お二人とも明るいですよね。

その「明るさ」が当時の私にはなかった。10年前の私は、人に対して自分の心を閉ざしていたんです。だから信子さんと加藤さんを、すごくいいなぁ、羨ましいなぁと思いました。

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―ああ、『Start Line』の前ですものね。その2011年のまだコミュニケーションの苦手な自分と、いろんなことがあった後の自分を比べてどうですか?

人に対する見方、考え方がすごく変わったと思います。前は耳のきこえる人を「きこえる人」とラベルをつけて、ひとまとめにして見ていました。その中の人は、ほんとは一人ずつ違うんだけど、それを見ようとしなかった。興味を持とうとしなかった。でも今はほんとに一人一人違うんだなというのを感じています。きこえる人は、きこえていてもコミュニケーションに悩んでいたりする。そういうのを知ると、ああ!って親しみを感じます。なんでも完璧にできる人ではないんだなって。そのあたりがすごく変わりました。

―人に出会うのは大事ですよね。今回今村監督が会ったのは、年上の方々が多いですね。でも上手にお付き合いされていて、あれ、監督コュミニケーション上手!と思いましたよ。

私もやっぱり宮城のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行くみたいな感じです。行くたびに喜んでくれるので、私も嬉しくなって元気をもらっています。

―時間をかけて映画を作るたびに、監督も成長し続けているんですね。

(笑)ありがとうございます。

―映画の中に手話言語条例ができているとありました。でも東京都が入ってないのを知らなかったです。なんで入ってないんでしょう?こんなに人がいるのに。

なぜでしょうね?逆に多すぎて難しいのかも…。

―コロナやオリンピックやと問題山積みだからかな?(でも担当部署は違う) このごろ字幕を出せるようになっているテレビ番組もありますよね。リモコンで選んで。

リモコンのボタンで選べば、ニュースや生放送の番組でも字幕がつくことがあります。生中継なので、字幕が遅れて表示されますが、それでもすごくありがたいです。

―きこえない人ばかりでなく、きこえにくくなった高齢者のためにも字幕はありがたいんです。日本映画やドラマでも、早口で何を言っているのかわからない時もありますし。
今村監督から見て、きこえない方々へ私たちができることって何でしょう?「こういうことをわかってくれたらいいのに」と思うことはありませんか?


まず、耳のきこえない人がいるんだなってことを知ってほしいです。以前はきこえないとわかると、相手が「手話ができません」とあたふたすることがありました。だけど、今はお店や駅でも、身振り手振りや、書いてもらえます。そういう変化はすごく感じています。

―では、少しは進んでいるんですね。

はい、進んでいます。駅で落とし物をしたかなと困ったときに駅員さんに「きこえない」と知らせたら、普通に筆談で対応してくれました。公共施設などでは「聞こえない人がいる」ということが浸透していて、当たり前のように接してくれるのがすごく嬉しいです。
駅の切符売り場やみどりの窓口に「耳マーク」もあるので、筆談も頼みやすくなっています。「きこえない」ことを隠すわけではないけれど、積極的に知らせたいわけでもない、でも困っているときは自分から言わないといけないので、こういうマーク一つでお願いする時のハードルがすごく下がります。

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―この映画は先に東北で公開ですか?

いえ、東京公開が最初です。
宮城での上映も決まったので、出演者の方たちと一緒に劇場で挨拶できたらいいなと思っています。

―登場した方々は映画を観るのを楽しみにされているでしょう。熊本や広島はどうですか?

広島での上映は決まっています。熊本は未定ですが、でももし映画が上映されることになったら足を運びたいと思っています。

―上映されるといいですね。『うたのはじまり』の齋藤陽道(さいとうはるみち)さんも熊本に引っ越されましたよ。映画が行ったらきっと観てくださると思います。

齋藤陽道さんはこの映画のパンフレットにコメントも書いてくださったんです。前作の『架け橋 きこえなかった3.11』を毎年見返してくださっているそうで。だから、熊本上映が決まったら劇場で一緒にトークができたらいいなと思っています。
前回の取材時に、齋藤さんの本をいただいてよかったです。ありがとうございました。

―あら、いい繋がりができて。お役に立てたなら嬉しいです!
これから、この映画を観る人にひとことどうぞ。


映画の登場人物を「耳のきこえない人」として観始めると思うんですが、観終わるころには「加藤さん」だったり、「信子さん」だったり、一人の「人」として、その人柄が心に残ってくれると嬉しいなと思います。

―しっかり残りました。今日はありがとうございました。

ありがとうございます。

=取材を終えて=
今村監督の取材は自転車で日本を縦走した『Start Line』(2016)、『友達やめた。』(2020)についで3回目です。まめに試写のときの挨拶に上京されるので、もっとお目にかかっています。そのたびに手話を覚えたいと思うのですが、ちっとも進みません。日本の行政に文句を言ってる場合ではありません。まず自分でした。
今村監督は本当に身軽にカメラを持って被災地にもかけつけます。その行動力と共感力!「コミュニケーション苦手なあやちゃん」がちゃんと変わっていっています。『友達やめた。』のまあちゃんは今も協力してくれているし、写真家の齋藤陽道さんとも繋がったそうです。
私も手話の挨拶ができるように、そして忘れない(これが問題)ようにしなくちゃ。
せっかく完成した作品、山形国際ドキュメンタリー映画祭に応募してはどうですか、と監督にお勧めしました。選ばれるかどうかはともかく、こういう作品があるということを知ってもらえます。
きこえない方のほかにも見えない方、手助けの必要な方がいることを覚えておいて、自分のできることを考えませんか?想像と体験は違うけれど、何もしないよりずっといいはずです。

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これが「耳マーク」(樹木じゃありません)です。(耳マークは自分が聞こえないことを知らせるためにも使うことができるようです)
https://www.zennancho.or.jp/mimimark/mimimark/

(取材・まとめ:白石映子 監督写真:宮崎暁美)