『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督オンライン・インタビュー

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第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影

世界各地の映画祭で高く評価され、感動の嵐を巻き起こした『Brotherブラザー 富都のふたり』がついに日本公開になりました。監督は、プロデューサーとして社会的弱者やアイデンティティの問題を扱ってきたマレーシアのジン・オングが務めています。身分証を持たないために社会の底辺で生きていかざるを得ない兄弟の姿を描いた感動作です。ジン・オング監督に初監督を務めることになった経緯やこの作品に籠めた思い、映画人としての思いについてオンラインでお話をうかがいました。

【あらすじ】
マレーシアの首都クアラルンプールのプドゥ地区のスラムで兄弟のように暮らすアバン(ウー・カンレン)とアディ(ジャック・タン)。耳の不自由なアバンは市場の日雇い仕事で糊口をしのぎ、アディは裏社会と繋がり危なげな日々を送っている。ふたりには身分証明書(ID)がなく、真っ当な職に就けないばかりか、公的サービスを受けることも銀行口座をつくることもできない。トランスジェンダーのマニー(タン・キムワン)が何かとふたりを気にかけ、NGOのジアエン(セレーン・リム)がID取得のため奔走している。そんなある日、ジアエンがアディの実父が見つかりID取得の道筋がついたとの知らせをもたらす。だが、アディはなぜかそれを頑なに拒否し、ジアエンを突き飛ばしてしまう。

出演
兄アバン:吳慷仁(ウー・カンレン)台湾
弟アディ:陳澤耀(ジャック・タン)マレーシア
マニー :鄧金煌(タン・キムワン)マレーシア
ジアエン:林宣妤(セレーン・リム)マレーシア

シネマジャーナルHP 作品紹介はこちら
公式HPはこちら

*監督プロフィール*王礼霖(Jin Ong)
1975年6月19日生まれ。マレーシア出身。
ムーア・エンタテインメント代表。プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」(17)、『楽園』(19)、『ミス・アンディ』(20)などを手掛けてきた。特に「分貝人生 Shuttle Life」は2017年の上海国際映画祭アジア新人賞部門で高く評価された。『Brotherブラザー 富都のふたり』は彼にとって念願の監督デビュー作となる。

◆プロデューサーから監督へ

――この映画の構想はいつくらいからあたためていたのでしょうか。
監督 2019年からです。まず監督としてマレーシアをベースにした作品を作りたい思いがありました。主人公は労働者階級で身分の低い兄弟にし、彼らがどういう状況・環境の下で生きていくのかフィールドリサーチを重ねていく中でどんどん固まっていきました。

――当初からご自身で監督しようというお気持ちだったのですね。
監督 2018年に大病を患って初めて死を近くに感じ、やり残したことはないか自問自答し、映画監督になる夢を思い出しました。そして、快復後はその夢の実現に向かって行動しようと思ったのです。

――それでプロデューサーは他の方を探されたということでしょうか。
監督 そうですね。今回プロデューサーは李心潔(リー・シンジエ)さんに依頼したのですが、もとから知り合いだったわけではなく、ただ彼女のことはマレーシア出身で中華圏でも活躍されているので名前は存じ上げていて面識はありました。彼女にその知名度を生かして生まれ故郷に貢献したい考えがあるという話を小耳にはさみ、未経験同士同じ思いで作品を作ろうということになり、プロデューサーとして加わってもらいました。

――リー・シンジエさんは、日本でも出演作が何本も公開されている女優です。出演もしてもらおうとは思いませんでしたか。
監督 最初はそういう考えがあったのですが、彼女が「プロデューサー業は初めてなので二足の草鞋ではなく職を全うしたい。(出演については)自分ではなくもっとポテンシャルのある若手にチャンスを与えたい」と。彼女は経験豊富な役者なので、現場に来たときには若手にアドバイスなどをしてくれました。

――脚本執筆段階で苦労されたことなどはありましたか。
監督 アイデアがあっても脚本化にはたいへんな専門性を要すると感じました。独善的にならないようプロデューサーからもたくさん意見をもらい、いろいろな人とディスカッションをしてブラッシュアップしていきました。映画は2時間しかないのでそこにあらゆる課題やテーマを盛り込むのは不可能。作品として成立させるため如何に取捨選択をしていくかが大変でした。

――初稿から削ぎ落した部分も多いのでしょうか。
監督 最終的なものは第3ヴァージョンで、だいぶ違う展開になりました。マレーシアのいろいろな社会問題を欠かせない背景としていて、それらはこの兄弟によって浮き彫りになります。しかし、その問題が実際に解決されているかどうか答えを出す必要はないのです。重要なのは、こういった残酷な現実世界で兄弟が互いを愛する気持ちや支え合う気持ちを諦めずに生きているということ、そこにフォーカスしていきました。

――この兄弟を支える存在としてマニーがいます。マニーをトランスジェンダーに設定した理由をお聞かせください。
監督 作中で考えてほしいテーマに身分や自己受容といったセルフ・アイデンティティの問題があります。プドゥにはさまざまな人がいて、例えば外国人労働者。その中には違法滞在の人もいますし、合法滞在でも過酷な労働環境の下でなんとか生きています。軽視されがちな存在であるトランスジェンダーもいます。実際にそういった人々が住んでいますから登場させました。そうすることで自己受容やアイデンティティについて考える枠を広げ、作品にもう少し力を与えられるのではないかと考えました。

――兄弟もマニーもすごくいいキャラクターで引き込まれますね。
監督 多くの観客が鑑賞後に涙を流してくださるのは、皆さんの心にも愛があるから残酷な状況下でも愛を諦めない人たちへの共感共鳴があるのだと思います。

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◆血の繋がりを超えた兄弟の絆

――撮影中に特に大変だったことをお聞かせください。
監督 ひとつ挙げるとしたら、やはり手話ですね。台湾とマレーシアでは手話の構成が全く違うことに後から気づきました(注:アバンを演じたウー・カンレンは台湾の俳優)。なので、兄弟役のふたりはかなり長い時間を手話の習得に費やしました。僕自身、手話が映画の中でこんなにも張力を持った言葉になるとは思いもよりませんでした。というのは、手話は往々にして我々が使用している自然言語(注:日常的に使用している話し言葉等)に比べてより簡潔になっています。如何に自然言語のように手の動きが見えるか、感情を指先に宿せるかというところでかなり役者と研究を重ねました。
あと、撮影現場で大変だったのは、カットをかける度にすべてのスタッフにティッシュを配って回らなければならなかったことですね。特に、最後の弟が兄に会うシーン、兄が自分の生活はそんな簡単ではないと強く訴えるシーン。そういった重要なシーンはカットをかける度にスタッフ全員が涙をポロポロ流していました。

――補聴器が壊れて手話だけのやり取りになるという、あそこは秀逸だと思いました。
監督 じつは、兄が自分の生活がいかに大変か訴えるシーンは最初のセリフから大幅に変わりました。撮影は順撮りで、そのシーンを撮る前に2週間の撮影があり、そこまでで積み重ねてきたものを踏まえた上でどうしたらより説得力を持たせられるか。そのことを撮影するタイミングで話し合って(セリフ等を)変えようという話は最初からしていましたが、セリフを変える度にウー・カンレンさんは手話を学び直さないといけないのでかなり苦労されたと思います。

――兄弟愛というものの、よくよく考えるとこのふたりは血の繋がった兄弟ではありません。しかし、本当に血の繋がった兄弟よりも強い絆で結ばれているという印象を受けます。そのあたりはいかがでしょうか。
監督 プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」や『ミス・アンディ』の中で血の繋がりのない人々が血縁を超えた中で如何に繋がることができるかという表現を試みました。そこからの流れと、僕自身の当事者としての経験があります。僕は1999年に一外国人労働者として台湾に行き、たったひとりで日々辛い思いをしていました。当時はフィリピンから来た外国人労働者と寝泊りをしていて、僕が人生で最も苦労したこの時期に自分を最もケアして温かさを与えてくれたのは、自分とまったく出自が違うフィリピンの人でした。そういう実体験もあります。血の繋がりを超えて互いを思いやる可能性については、引き続き探索していきたいと思っています。

――この一年間、この映画で世界各地の映画祭を回られたと思うのですが、それぞれの反応はどうでしたか。
監督 実際に回ってみて、人種を超えて兄弟の愛というものは人類共通だと感じました。欧米、特にヨーロッパですね。多くの観客が劇場を出るときに泣きながら僕をハグしてくれました。忘れられなかったのはポーランドで、父子で観に来てくれて、父親が見終わって「今年僕が観た中でもっとも美しい作品だ」と言ってくれました。また、イタリアでもあるカップルが涙をポロポロ流しながら感動したと感想をずっと話してくれました。言葉や人種を超えて共鳴共感できるものがある、そういう点では非アジア圏での印象が強く残っています。

――各地の国際映画祭では監督おひとりで登壇されたのでしょうか。
監督 宣伝で役者と一緒に行ったのは香港と厦門です。上映後のQ&Aで覚えているのはシンガポール・マレーシア・台湾ですが、特にマレーシアのQ&Aとメディアの反応は僕たちも目から鱗が落ちましたね。マレーシアは多民族国家で、特にマレー系の人々は中華系に対して必ずしも友好的ではありません。けれど、この兄弟を多くのマレー系の人々が愛すべき存在として捉えて質問してくれたり、ゆで卵を互いの頭で割るシーンを真似てくれたりしました。そういった反応を見ると、マレー系の人々もマレー人を演じた非マレー人にも民族や出自を超えたシンパシーを感じることができるのだと映画を通して実証されたように思います。

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◆マレーシアの映画人として

――監督として、またプロデューサーとしてずっと社会的弱者を扱った映画を送り出してこられました。その意義をどうとらえてらっしゃるのでしょうか。
監督 僕は中級階級の出身で、映画に出てくる兄弟よりも健康的で幸せに暮らせています。でも、自分が容易に手に入るものが異なる運命を背負った彼らの手には入らないことも目の当たりにしてきました。僕が長年仕事をしてきて思うのは、映画というのはストーリーテーリングをする上でとても有効的なメディアだということ。このメディアを介して、人々の関心が届かない市井で生きる人々――社会的弱者と言われる人々にはさまざまな生き辛さがありますが――その生き辛さをただ赤裸々に伝えるのではなく、彼らがどういった感情を抱いて生活しているのかということを、映画に携わる者として作品化していきたいと、それを信念として持っています。

――現在、特に関心を持っているテーマはありますか。
監督 マレーシア社会における難民と外国人労働者について、もう少し掘り下げていきたいと思います。もうひとつのプロジェクトとして、トランスジェンダーの人々ですね。性についても引き続き学びながら作品にできたらと思っています。

――監督のキャリアを拝見すると台湾との仕事が多いようですが、何か理由はあるのでしょうか。
監督 台湾は自分に映画作りのノウハウを教えてくれた所で、映画人としての原点であることは言うまでもありません。台湾は自由民主の地としていろいろなストーリーを描く上でほとんど制限がなく自由に作品をつくることができる得難い環境だと思っています。多くの友人がいて、台湾でプロダクションを設立したときも先輩方に手助けやご指摘をいただき、そうした温かい環境が僕を育ててくれました。今までの仕事の流れとして、台湾でインスパイアを受けたアイデアをマレーシアに持ち帰って発展させてきましたけれど、今後はもっといろいろな立ち位置でマレーシアと台湾のインターナショナルな共同作業ができるような、そういった懸け橋的なこともできたらと思っています。

――どうもありがとうございました。


(写真・取材:台湾影視研究所・稲見公仁子/写真はオンラインインタビュー時他、本邦初上映となった第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影)

台湾影視研究所の『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督記事 https://note.com/qnico_mic/n/n4ce57094ea25


『子どもたちはもう遊ばない』 モフセン・マフマルバフ監督インタビュー 

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詩と共に生きる私たちイラン人は、
2+2は4じゃないと思っています。
国民的に論理的じゃないのです。


モフセン・マフマルバフ監督の『子どもたちはもう遊ばない』 と、娘ハナ・マフマルバフ監督の『苦悩のリスト』が、2本同時公開されるのを機に、モフセン・マフマルバフ監督が来日。 お話を聞く機会をいただきました。
前回、モフセン・マフマルバフ監督が来日されたのは、『独裁者と小さな孫』の公開にした2015年10月のことでした。
『独裁者と小さな孫』インタビュー

取材:景山咲子




ヴィジョン・オブ・マフマルバフ

『子どもたちはもう遊ばない』 
監督:モフセン・マフマルバフ
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(C)Makhmalbaf Film House
エルサレムの旧市街を彷徨うモフセン・マフマルバフ監督。
長年続くイスラエルとパレスチナの紛争に解決の糸口はあるのか・・・
作品詳細は、こちら

『苦悩のリスト』
監督:ハナ・マフマルバフ
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(C)Makhmalbaf Film House
2021 年 米軍撤退~タリバン再侵攻。
恐怖政治から逃れようと空港に殺到する人たち。
ロンドンにいるマフマルバフ監督は、芸術家たちを救い出そうと奔走する・・・
作品詳細は、こちら

配給:ノンデライコ
企画:スモールトーク(ショーレ・ゴルパリアン)
公式サイト:http://vision-of-makhmalbaf.com/
★2024年12月28日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて



◎モフセン・マフマルバフ監督インタビュー 
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― ようこそまた日本にお越しくださいました。9年があっという間に過ぎました。 
映画を拝見して、エルサレムで暮らす人たちが、平穏に暮らしたいと願っているのに、それが実現しないことを監督も人々も憂いていることをずっしり感じました。
私は、1991年5月に10日間ほどイスラエルを旅したことがあって、エルサレムの町の独特な雰囲気を懐かしく思い出しました。まだ分離壁もなくて、和平が近いかもという時期でした。

◆目の前に舞い降りてきたアフリカ系パレスチナ人のアリ

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(C)Makhmalbaf Film House

― 偶然出会われたというアフリカ系パレスチナ人のアリ・ジャデさんは、私の思い描くパレスチナ人とは全く違うキャラクターでした。素敵な出会いだなと思いました。

監督:ほんとにそう思います。 アリを私の前に座らせてくださったように思います。

― 神様が贈ってくださったのですね。

監督:いろいろな人とバザールで話したのですが、アリの前に行って、しゃべっている話にびっくりしてカメラを回しました。ほんとに偶然でした。

― まさに神様の思し召しですね。アリさんには映画をご覧いただいたのでしょうか?

監督:はい、送って観ていただきました。感謝しますと、お礼を言ってきました。


◆イスラエル建国前を知る温和なユダヤ人に登場いただいた

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(C)Makhmalbaf Film House

― ユダヤ人のベンジャミン・フライデンバーグさんは、先祖代々暮らしてきた家系で、イスラエル建国前にパレスチナ人と交流してきたお祖父さんやおじさんの話を聞いて育った方です。ご自身もパレスチナ人と交流されています。そのような経歴の方を紹介していただくようにお願いしたのでしょうか?

監督:イスラエルには二つのタイプの人がいます。過激な人と、そうでない普通の人。普通の人の中でも、昔からあの地に住む人を探してもらいました。アリとのバランスも考えました。

― ベンジャミンさんはもの静かで、ユダヤ人の「鷲鼻で狡猾」というイメージとは全然違いました。

監督:以前にイスラエルで『庭師』(2012年)を撮った時に、40人位のユダヤ人と40人位のアラブ人と知り合いました。皆、静かな方で、ネタニヤフがイスラエルを代表している顔でもないし、ハマスもパレスチナを代表しているわけではないです。


◆もっと1948年のパレスチナの悲劇を知ることのできる映画を!
― 1991年にイスラエルを訪れた時、1泊目に泊まったテルアビブの海沿いのホテルの窓の下に、大きなモスクが見えて、行ってみたら、囲いがしてあって、取り壊しが決まっていることがわかりました。かつては、その大きなモスクに集まるほど大勢いたムスリムが、この地を追われたことを思いました。
イランのセイフォッラー・ダード監督が、1994年に作った『生存者』(原題:bazmandeh)という映画を数年前にみました。1948年にイスラエルが建国されて、そこに暮らしていた人たちが、かつてはユダヤ人とも交流していたのに、ムスリムもクリスチャンも追い出されたことが描かれている映画でした。ユダヤ人のホロコーストのことが描かれた映画はたくさんあって、「ユダヤ人の悲劇」が、映画を通じて私たちの心に深く刻まれています。一方、パレスチナの人たちが、住み慣れた地を追われた悲劇「ナクバ」を描いた映画は、ほんとうに少ないと感じています。 
侵略された側の人が見ると、憎悪を生むだけですが、歴史をちゃんと認識していない若いユダヤ人や、世界の人たちに見てほしいと思います。映像は力がありますから。

監督:その映画は観ていないのですが、『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』(日本公開:2025年2月21日 公式サイト:https://transformer.co.jp/m/nootherland/)では、イスラエル軍がパレスチナの人たちを突然攻撃して殺したことが描かれています。ぜひ観てください。

― 私たち日本人は小さい時からユダヤ人の悲劇を「アンネの日記」や、多くの映画で教え込まれてきたように思います。第二次世界大戦でドイツが敗戦して、ユダヤ人が強制収容所から解放され、ユダヤ人のための国を作ろうという話になった時にマダガスカルやアルゼンチンも候補にあがったそうですが、結局、パレスチナの地にイスラエルという国を作って、住んでいたパレスチナ人を追い出すことになってしまいました。イスラエル軍にやられっぱなしの今の状況を見ると、もっと歴史を学んでほしいと思います。

監督:イランはパレスチナを軍事的に救うのでなく、そういう映画をもっと作って見せれば、世界的にパレスチナのことを知ってもらえたと思います。

- イランでは、「世界コッズの日」 に、毎年、映画『生存者』がテレビで放映されていたそうです。

*注:「世界コッズの日」 (コッズは、エルサレムのこと)
ホメイニ師が、イスラエルによる占領からのパレスチナ解放のために意を表する日として、ラメザーン(断食)月の最後の金曜日を「世界コッズの日」と定めた。

監督:イラン人はパレスチナのことをよく知っているから、見せる必要はもうないでしょう。 


◆詩そのものを語らなくても、詩の香りを映画に入れる
― 最後の方でベンジャミンさんが語る「他者を思え」という詩は、有名な詩でしょうか?

監督:マフムード・ダルヴィーシュというパレスチナの詩人のものです。

*ここで配給ノンデライコの大澤さんが、この詩人の詩集の和訳も出ていることを教えてくださいました。
「パレスチナ詩集」マフムード・ダルウィーシュ 四方田犬彦訳 筑摩書房

― 映画の中でマフマルバフ監督が語っている言葉が、詩そのものではないけれど、とても詩的に感じます。
私の後輩でペルシアの詩を研究している女性から、マフマルバフ監督にぜひ伺ってほしいと質問を預かりました。

イランの女性詩人フォルーグ・ファッロフザードの詩の一節に

「耳には双子の赤いさくらんぼのイヤリング
爪にはダリアの花びらをマニキュアにして
ある路地には
わたしを愛してくれた少年達が 今も
くしゃくしゃの髪と細い首と痩せた足のまま
ある夜 風が連れ去ってしまった少女の
少女の純潔なほほえみを想っている」

というのがあって、これはマフマルバフ監督の『サイレンス』(1998年)で、主人公の面倒を見ている少女がまさにこの最初の2行を表現しているシーンがあります。
(ペルシア語でショーレさんに詩を朗読していただいたのですが、聴きながら、にっこり笑って、耳に手をあて、イヤリングがぶらさがっているさまを表すマフマルバフ監督でした)

マフマルバフ監督はフォルーグ・ファッロフザード以外にも、映画製作の上でインスピレーションを受けた詩人はいますか?

監督:大勢います。かつて家族のために映画学校を開いた時に、1か月 毎日詩について勉強したことがあります。いろんな詩人の詩を数日ずつ集中的に学びました。3日間フォルーグ・ファッロフザード、次の3日間ナーデル・ナーデルプール、また次の3日間ソフラーブ・セペフリーという風に。なぜ勉強したのか。一つの詩からイメージを作ることができるかどうかを教えていました。イランの詩は、言葉だけでなく、韻を踏んでいます。リズムがあるのをどうやって映像にできるかも教えていました。詩をそのまま映画に入れてなくても、詩を作った詩人の想いをどうやって映像に入れられるかを考えます。例えば、8分の短編『風と共に散った学校』(1997年)の中で、牛につけたベルが鳴りますが、あれが「詩の香り」です。

― 映画の中で詩そのものを語っているわけではないのに、詩的なものを感じるのは、そのためですね。 イランの人たちは存在自体が「詩」ですね。

監督:楽しい時にも詩を語るし、悲しい時にも詩を語ります。国民性です。頭がいい人なら、2+2=4ですが、私たちイラン人は、2+2は4じゃないと思っています。国民的にロジカル(論理的)じゃないのです。


◆「死」を目にして「生」を探すパレスチナの子どもたち

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(C)Makhmalbaf Film House

― パレスチナ人と書かれたTシャツで踊る10代の子供たちは、笑顔が素敵で、インティファーダで石を投げるパレスチナの子供たちのイメージとは違うものでした。
繰り返し流れるムハンマド・アッサーフの「Dammi Falastini(My Blood is Palestinian/私の血はパレスチナ人)」という曲が今も頭の中をぐるぐる回っています。ムハンマド・アッサーフは閉じ込められたガザの町から、「アラブ・アイドル」に出演して注目され、アラブ圏のスターになった人です。(映画『歌声にのった少年』に描かれた人物) あのダンスをしていた子どもたちに明るい未来が早く来るといいなと思いました。

監督:今でもあの子たちは踊っています。死を目の前で多くみると、生を探します。イラン人も大変なことが起こると、ジョークにして気持ちを吹き飛ばします。

*この取材中、時々、電話がかかってきて、「取材中、申し訳ないけれど、タジキスタンに逃れているアフガニスタンの知人から助けてほしいという電話なので」と、対応するマフマルバフ監督。
『苦悩のリスト』が、まだ続いているのです。

― 山形国際ドキュメンタリー映画祭のクロージングで上映された折に『苦悩のリスト』を拝見したのですが、小さな男の子がハナさんの息子さんだと知って驚きました。私の知っているハナさんは10代でしたので。真剣な顔で電話に出ている監督が、お孫さんがそばに来ると「おじいちゃん」の顔になっているのが微笑ましかったです。 

監督:もう、可愛くてね・・・ (と、スマホで写真を見せてくださいました)

― ハナさんにも、どうぞよろしくお伝えください。
今日はどうもありがとうございました。お会いできて、ほんとに嬉しかったです。

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写真家石川真生を追ったドキュメンタリー 『オキナワより愛を込めて』 砂入博史監督インタビュー

8月24日(土)より沖縄・桜坂劇場での先行上映を皮切りに、8月31日(土)から東京・シアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー

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本作は沖縄を拠点として活動する写真家、石川真生さんを追った自伝的なドキュメンタリー。昨年「Cinema at Sea- 沖縄環太平洋国際映画祭」のオープニング映画にもなりました。今年2月に沖縄出身の写真家として初の文部科学大臣賞を受賞、3月には土門拳賞を受賞しています。
自身の初期作品を見ながら当時の様子を語る。写真家としての石川真生のルーツを辿りながらファインダーを通して語られた「愛」、作品の背景となった歴史、政治、人種差別、それらを乗り越えるパワーが写真とともに映し出される。

映画内容
1971年11月10日、米軍基地を残したまま、日本復帰を取り決めた沖縄返還協定を巡り、沖縄の世論は過熱していた。ストライキを起こした労働者と機動隊の衝突は、警察官一人が亡くなる事件に発展。当時、10代だった真生さんは、この現場を間近で目撃。「なんで沖縄にはこんなに基地が多くて、いろいろな事件や事故が多いんだろう」。同じ沖縄の人間同士の衝突がきっかけとなり、浮かんできた疑問が写真家の道に進ませた。

1975年、米兵を撮るために、真生さんは友人を頼り、コザ・照屋の黒人向けのバーで働き始める。バーで働く女性たちや、黒人たちと共に時間を過ごしながら、日記をつけるように写真を撮り続けた。
当時の生活が収められた3冊の写真集「熱き日々 in キャンプハンセン!!」(1982)、「熱き日々 in オキナワ」(2013)、「赤花 アカバナー 沖縄の女」(2017)を手に、およそ半世紀が経った今、当時の記憶を回想する。真生さん自身が「最も大事にしてる写真」と語る作品、そこに納められた人々との物語が語られていく。写真家、石川真生による自由な生き方を肯定する「人間賛歌」。

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以下HPより

石川真生さん プロフィール、活動など
1953年、沖縄県大宜味村生まれ。1971年、11.10ゼネストを機に、写真家になることを決意する。1974年、WORKSHOP写真学校「東松照明教室」で写真を学ぶ。1975年、黒人兵向けのバーで働きながら、黒人兵とバーで働く女性たちを撮り始める。半世紀に渡り、沖縄を拠点に制作活動を続け、沖縄に関係する人物を中心に、人々と時間を共にしながら写真を撮り続けている。2011年、『FENCES, OKINAWA』で、さがみはら写真賞を受賞。2014年から沖縄の歴史を再現した創作写真シリーズ「大琉球写真絵巻」を開催。2019年に日本写真協会賞作家賞、2024年には土門拳賞、文科大臣賞を受賞。東川賞、沖縄タイムス賞を受賞。

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写真集 (全ての写真は石川真生が撮影したものです)
「熱き日々 in キャンプハンセン」石川真生・比嘉豊光 (あ〜まん出版 1982)
「熱き日々 in オキナワ」石川真生 (FOIL 2013)
「赤花 アカバナー 沖縄の女」石川真生 (Session Press 2017)
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砂入博史監督プロフィール
1972年広島で生まれ、ニューヨークを拠点に活動する。1990年に渡米し、ニューヨーク州立大学現代美術科卒業。欧米、日本の美術館、ギャラリーにてパフォーマンス、写真、彫刻、インスタレーションなど様々なジャンルの創作を手掛けている。近年は、チベットや福島、広島の原爆等をテーマにした実験ドキュメンタリーを制作。2018年、袴田巌をインタビューした『48 years – 沈黙の独裁者』で同年熱海国際映画祭長編コンペで特別賞受賞。2001年からニューヨーク大学芸術学科で教鞭も執る。現在は広島在住。
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監督のコメント
オキナワの写真家石川真生は、体当たりで写真を撮る、作品にオキナワの複雑な歴史、政治、アイデンティティを反映させ、進化させ、体現する。石川の実証的でありながら詩的な言葉は、写真と同じくらい印象的だ。写真と言葉は影響し合い、互いをより力強いものにする。私が気をつけたかったことは、被写体を植民地化しないこと、日本人としてオキナワを語らないこと、女性をオブジェクティファイしないこと、石川真生を説明しないこと。彼女の言葉を、映像やリサーチでイシュー順に構成し、オキナワ人であり、女性であり、写真家である石川真生が、可能な限り透明で複雑なオーガニズム、スーパー真生として生成する。

作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/504504591.html
公式ホームページ:https://okinawayoriaiwokomete.com/
予告編: https://youtu.be/cu_ot-S-GiE

砂入博史監督インタビュー  
取材 宮崎 暁美

●ニューヨークでの出会い
宮崎 私は石川真生さんよりひとつ年上です。彼女と同じ時代に生きているから、時代の影響というのは似ているところがあると思います。私は高校3年の1969年にベトナム戦争反対のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加したのがきっかけで、報道写真に興味を持ち、真生さんと同じ1970年ころから写真を始めました。でも、報道写真の分野には進めなかったけど、写真関係の仕事をしてきました。
そんな中で写真展には数多く行きました。1977年の石川真生さんの写真展、「金武(きん)の女たち」も行きました。その後、真生さんの写真展には1,2回は行ったと思います。でも、だんだんに写真展に行かなくなり、彼女のその後の活動については知りませんでした。
今回、監督にインタビューするにあたり、石川真生さんの活動を調べてみましたが、その後も沖縄を撮り続け、昨年は東京初台の東京オペラシティ アートギャラリーで「石川真生 私に何ができるか」という写真展をやっていたことを知りました。それに行けなかったのは残念でした。
同時代を生きてきた石川真生さんのことを知りたいと思い、砂入博史監督にインタビューをお願いしました。

監督 1977年の写真展に行ったのですか。それは貴重ですね。去年の写真展は彼女の回顧展です。その図版はありますよ。

宮崎 そうですか。後で見てみたいと思います。
石川真生さんは1974年に東松照明さんのワークショップに入り写真をやり始めました。監督は1972年生まれで石川さんが写真を始めた頃生まれたわけですから、20年近く若いですよね。石川真生さんを知ったきっかけとか、彼女を撮ろうと思ったわけなどを教えてください。

監督 まず最初に彼女に会ったのは2004年。ニューヨーク(クイーンズにあるPS1)で写真展があり、それに出品するためニューヨークに来られた。米軍を扱った写真展で、韓国や沖縄での米軍を扱ったグループ展でした。その時に学芸員をやっている友人が「面白い人が沖縄から来ているよ」と言って紹介されました。それまではまるっきり知らなくて、その時、初めて石川真生さんのことを知りました。
その頃、ニューヨーク大学で教えていたんですが、学生ギャラリーの運営をしていて、「じゃあ見にいく」と真生さんが来て、少し話をする機会がありました。その時は初めてだったので、まったく真生さんのことを知らなくて、米軍の基地を撮っている人かなぐらいに思っていました。
その後、2017年の「赤花 アカバナー 沖縄の女」という写真集がニューヨークで出版された時(「熱き日々 in キャンプハンセン」1982年写真集が再構成され、このタイトルで出版された)、出版記念のイベントみたいのがあって、真生さんが「ニューヨークに行くよ」とFacebookで言っていたので、「じゃあ、行きます」と、行きました。それで初めて、この「アカバナー~」というか、「熱き日々 in キャンプハンセン」のことを知ったんです。それで、こんな写真を撮っていた人なんだとびっくりしました。

宮崎 そうなんですよ。彼女の写真が初めて出て来た頃は1977年頃で、衝撃的でした。その頃、女性の写真家が少しづつ出てきましたが、当時、米兵の写真を撮っていた女性は、真生さん以外には石内都さんがいました。彼女は横須賀で米兵を撮っていました。

監督 石内都さんも米兵の写真を撮っていたのですか。

宮崎 石内さんは「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年個展)の中で米兵も撮っていました。偶然、二人とも1977年に写真展をやっていますね。私の中では、その二人の写真に強烈な印象が残っています。
米兵ではないけど、70年代~90年代にベトナムやカンボジア、中東など戦場や紛争地を撮っている女性もいました(大石芳野さん、南條直子さん、古居みずえさんなど)。もちろん男性はたくさんいましたが、女性は少なかった。その方たちも含めて、アート系や商業写真系ではなく、報道、ドキュメンタリー系写真分野で活躍し始めた女性が出てきた時期だったと思います。

監督 そうだったんですね。

宮崎 真生さんが昔の自分の写真集を見ながら、その時の気持ちや状況を語っていますが、彼女はかなり怒りながらこの女性たちを侮辱するのは許さないと言っていました。当時、彼女の写真を見て「売春婦が売春婦を撮った」とか、そんなひどいことをいうような人たちがいたとはびっくりしました。激しく憤っていましたが、私は、彼女の写真に対してそういう言い方をしたメディアがあったということを当時は知らず、この映画で知りました。たぶん、週刊誌や男性誌、スポーツ紙などがそういう風に書いたのだと思いますが、それで真生さんはきっと本土のメディアや男性に対して不信感や嫌悪感を持ったのじゃないかと思います。「本土のメディアは信用していない」なんて言ってますしね。

監督 彼女はすごく傷ついて、トラウマになっていたみたいです。アラーキーや東松照明さんに推薦されて華々しくデビューしたから、その上でのメディアの扱い方というのがあったと思います。

宮崎 そんなふうに言っている真生さんが、本土の男性である砂入監督の映画製作にスムーズにOKが出たのはどうしてかと思ったのですが、ニューヨークでこのような出会いがあって、このドキュメンタリーを撮ることになったのですね。

監督 2017年に彼女の写真集が出版された時にニューヨーク大学で、彼女の作品と沖縄についてのシンポジウムが開かれ、彼女はそれに呼ばれたんですね。その時に、沖縄の米軍を撮ろうと思ったきっかけの話をされました。子供の頃に、米軍(米兵)によるレイプとか人殺しとかの犯罪とかがあっても、琉球警察は何もすることができなかったという状況を話したのですが、それが当たり前のようにあった少女時代の話をしました。その話が生々しくて、かなり怒りを露わにして話されたんです。そこから米軍ってなんなんだという感じで、写真を撮ろうと思った話をしたんです。あとは映画の内容と同じですが、黒人専用のバーで働き始め、付き合っているうちにいい人、悪い人がわかるようになって、米軍ではなく一人の人間として見えてきて理解したという話になったんです。ちょうど2017年頃、ニューヨークではブラック・ライブズ・マター(黒人の命、人生も大切)の運動が盛んだった時だったんです。

宮崎 私、中学校の頃(1960年代)、人種差別、黒人差別の問題を知り、アメリカの人種差別反対運動関係や、ジェームス・ボールドウィンなどの本を読んでいました。なので、私が社会の問題に興味を持ったきっかけは黒人への人種差別問題でした。
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監督 そういう運動が60年代から行われていたのですが、やはりまだまだ改善されていなくて、現代も差別はあるわけです。その頃、黒人が警察官に殺されたりした問題もあり、運動が起こりました。
黒人だけではなく、ラテン系の人たちも加わって、アメリカ各地でプロテストの運動が起こっていたんです。ニューヨークではすごく大きな運動が起こっていて、ブルックリンからマンハッタンに来る橋がブラック・ライブズ・マターの人たちが通行止めにして大きなプロテストをしたりとか、そういうことが起こっている時期でした。
そんな中で、メディアも白人の人たちも黒人問題に言及することに、かなりの緊張感をもたないといけないような状態だったのです。
そういう時に、彼女の偏見ばりばりのしゃべり方、黒人はみんな同じに見えたとか、でも最後は人間として彼らを理解していったという言説に感動して、久々にこんなに率直な黒人やレイシズムに対する意見を聞いたなとフレッシュに感じたんです。なぜかというと、白人が黒人はみんな同じように見えるとか言ってはいけないんです。大きな問題になります。でも沖縄の女性からの発言だったのでびっくりしました。こんな素晴らしい言葉、今のアメリカ人は聞くべきだなと思って、彼女のドキュメンタリーを作ろうと思いました。写真も素晴らしかったし。

宮崎 そうだったんですね。

監督 それと、2017年に新たな癌がみつかって、ニューヨークに来ているときは手術前だったんです。シンポジウムの時、苦しそうにしていたので、その危機感もありました。こんな素晴らしい言葉を今残しておかないとと思ったので、今、作り始めるしかないなと思いました。

宮崎 本土のマスコミや男の人に対して、かなり反発があるようだったので、ドキュメンタリーを撮るときに、最初は断られたのかなと思っていたのですが、こういう形で知り合った上でのことだったのでスムーズだったんですね。

監督 レクチャーが終わったあとに、真生さんのところに行って「あなたのドキュメンタリーを作ります」って言ったら、真生さんは「はい、わかりました」って(笑)。知り合ってからではなく、日本からいきなり「砂入と言いますがドキュメンタリーを撮らせてください」という形だったら断られたでしょうね。

宮崎 そういう意味ではいい出会いでしたね。TBSのドキュメンタリーでも真生さんを3年位追っているようですね。

監督 金平茂紀さんの番組ですね。NHKでも撮っています。

宮崎 TBSのは見たことないけど、NHKのほうは見たことがあります。
車いすに乗っている姿をみましたが、手術の後だったんですね。

監督それもありますが、この2,3年で足腰が弱くなってしまったので、最近は車いすでイベントとかに出ていますね。

●真生さんが使っていたカメラ

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early elephant film + 3E Ider © 2023

宮崎 撮影は3年くらいとありましたが、何年頃ですか。

監督
 2017年から2019年頃です。


宮崎 辺野古で、舟に乗って写真を撮っているシーンがありましたね。あれは何年頃ですか?

監督
 2019年です。牧志治さんという辺野古の海の写真を撮っている方が、抗議行動と写真を撮るために舟を出しているんです。その舟を出す時に乗せていただきました。彼自身も大琉球絵巻に出演しているんです。


宮崎 あの時、ペンタックス6×7(フィルムの中型機)で撮っていたのでびっくりしました。彼女は今もフィルムカメラで撮っているのですか?

監督 そうだと思います。彼女はフィルム派の人みたいで、フィルムで撮ってスキャンしているみたいです。

宮崎 実は、私もペンタックス6×7を使っていたのでわかりますが、かなり重いです。舟のように揺れるものの上で写真を撮るのはかなり大変なのに、重いカメラで撮影しているってすごいですね。私はもう使っていないので、彼女がペンタックス6×7必要ならあげたい(笑)。

監督 海だししぶきがかかるだろうし、普通ならスナップショットを持っていったりするんですけどね。

宮崎 車いすに乗っているのに、ペンタックス6×7を使っているという彼女の心意気、すごいと思いました。

監督 そうですよね。しびれますよね。 

*と、しばしペンタックス6×7の話で盛り上がりましたが、さすがに今は、デジタルカメラを使っているようです。そしてペンタックス6×7は砂入監督が引き取ってくれました。

●撮影場所について

宮崎 石川真生さんの写真はなぜ黒人兵ばかりなんだろうと思っていたけど、この作品を観て、コザの黒人兵が集まる店に勤めながらの撮影だったということを知りました。コザの街で、黒人街と白人街が分かれていたというのは全然知らなかったので、それもびっくりしました。

監督 たぶん外からだったらわからないでしょうね。

宮崎 今年(2024)、47年ぶりに沖縄に行ったのですが、コザには行けませんでした。この作品を観て、行っておけばよかったとちょっと後悔しています。真生さんは、かつて自分が働いたところを何か所か歩いたりしていますが、最後に訪ね歩いていたのはコザですか?
*参照記事 シネマジャーナルHP スタッフ日記
佐喜眞美術館に行きたくて沖縄へ
http://cinemajournal.seesaa.net/article/503300142.html
7年ぶりに沖縄に行きました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/503301098.html

監督 いえ、あれは金武(キン)です。彼女は最初、コザで働いていましたが、そのあとは金武に行ったのです。でも、かつての街は変わってしまっていて、勤めていたところとか探し出せないくらいでした。

宮崎 そういえば、最初の写真展のタイトルは「金武の女たち」でしたね。彼女は米兵たちが訪れるバーで働きましたが、最初から取材ということではなく、働いて仲良くなってから写真を撮っていたのですね?

監督 思うに、彼女はそこまで前提を考えずに、撮影スタイルも確立されていないまま飛び込んでいったのではないかな。それで、状況に慣れながら写真を撮れる機会をみつけて撮っていき、そのスタイルが定着して行ったんじゃないかと思います。最初から取材をしに行こうというコンセプトで撮っていたんじゃないと思います。

宮崎 そういうスタイルだったからこそ、自然な写真が撮れたということしょうね。

監督 写真家としてそこにいるのではなく、いる人たちの中の一人として、自分も当事者としていたのでしょう、

宮崎 彼女がコザや金武にいた数年というのは、写真のためにというよりは、自分が体当たりで入っていって、体験していったのでしょうね。

監督 そうでしょうね。1日にいっぱい撮るのではなく、ゆっくりと撮っていたって言っていました。ちょこちょこと日記のように撮ったと言っていました。

宮崎 その頃、私も毎日カメラを持って通勤していましたけど、そういう人はけっこういました。彼女も働いている人や米兵とも仲良くなって写真を撮り、その撮りため写真で写真展をしたんですね。写真を発表するにあたって、肖像権などのトラブルはなかったのでしょうか。

監督 その中で、何人かは問題視して、文句言ってきた人もいたようです。女性の側からだけでした。米兵の人たちは見る機会もなかったですからね。

宮崎 40数年くらい前から肖像権について厳しくなりました。私も、メーデーや、女性解放運動、女子マラソン、登山、祭りなどの写真を撮っていたんですが、雑誌などに載せる時は、肖像権について載せてOKという許可を取ってないとダメになってきましたね。肖像権が厳しくなってきてからは、知らない人を正面から撮ったり、アップの写真は撮りにくくなりました。顔がわからないように撮るとか、後から撮るとかそういう写真の撮り方しかできなくなり、表情豊かな写真が撮りにくくなりました。

監督 つまらない時代になっちゃいましたね。 

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●写真家のドキュメンタリー

宮崎 去年は、アフガニスタンなどを撮ってきた長倉洋海さんを撮った『鉛筆と銃 長倉洋海の眸(め)』(河邑厚徳監督)が公開されましたが、ここ数年、毎年のように写真家のドキュメンタリー映画が公開されています。『ひろしま 石内都・遺されたものたち』という石内さんのドキュメンタリーも公開されました。リンダ・ホーグランド監督の作品ですが、砂入監督もご存じではないですか。

監督 リンダさん知っています。ジャパンソサエティ(ニューヨーク)などでの上映の時に翻訳や通訳をしていました。

宮崎 石川文洋さんのドキュメンタリー『石川文洋を旅する』の時には、石川文洋さん本人にもインタビューしました。

監督 ベトナム戦争を撮っていた方ですね。米軍に従軍して撮っていたんですよね。僕も何冊か写真集を持っています。

宮崎 ベトナム戦争の時は、写真は自由に撮れたんです。その時は沖縄の基地からもベトナムに飛び立っていっていたわけですが、ベトナム戦争が終わった後も、基地は残り、アメリカ軍の日本基地の70%くらいが沖縄にあるという状態ですよね。

監督 でも基地はグァムに移るということになっているんですけどね。

宮崎 エ~! そうなんですか。それなら、なぜ辺野古に基地を作ろうとしているのでしょう。

監督 そこがよくわからないところですが、60%移るということが決まっているようです。それだけ減るのなら、もう作らなくていいということになるじゃないですか。でも、工事を続けている。皆憶測で言っているのですが、もしかしたら自衛隊用に使うために作っているんじゃないかという人もいます。

宮崎 わざわざ埋め立てて造っているのに、基地は減る予定って、どうなっているのですかね。でも、そういうことは報道されていないような気がします。それでいいのかしら。八重山の自衛隊基地がどんどんできていることも、メディアではほとんど報道されてないですよね。

監督 真生さんは、そのことも大琉球写真絵巻で描いていますね。
去年の写真展は天野太郎というオペラシティの学芸員の方がプロデュースしています。

宮崎 70年代から80年代は、まめに写真を撮り、写真展も行ってたのですが、その後、写真展なども行かなくなってしまったし、カメラ雑誌なども見なくなってしまったので、何十年もの間、彼女の活動を知りませんでしたが、この映画がきっかけで、去年東京で写真展があったりとか、今年(2024)文部科学大臣賞や土門拳賞を受賞したことを知りました。しかし、写真やアートなどに興味ある人以外にはなかなか知られていないので、この映画を観ていただき、たくさんの人に石川真生さんのことを知っていただきたいですね。

『ヴァタ ~箱あるいは体~』亀井岳監督インタビュー

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マダガスカルの音楽と死生観に魅せられた亀井岳監督が、全編マダガスカルで撮影したロードムービー

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022で、国内コンペティション作品でありながら、全編マダガスカルで撮影した映画として注目を集め、みごと観客賞を受賞。 
高校時代からマダガスカルの音楽に魅せられてきた亀井監督。旅と音楽をテーマに、ドキュメンタリーとドラマを融合させるスタイルで映画を製作してきた亀井監督は、2014年、2作目の『ギターマダガスカル』を完成させるも、撮影時にマダガスカルの南部で偶然出会った、遺骨を入れた箱を長距離に渡り徒歩で運ぶ人々のことが忘れられず、初の全編劇映画となる監督3作目もマダガスカルで製作することを決意。音楽によって祖先と交わってきたマダガスカルの死生観を元に、家族を失った人々がその悲しみをどう乗り越えていくかという普遍的なテーマの映画を全編マダガスカルロケで、マダガスカル人のキャストのみで製作されました。
この度、公開を前に、亀井岳監督にお話を聴く機会をいただきました。マダガスカルでの撮影のこと、音楽や食文化のことなど、未知の国マダガスカルのことをお伺いしました。


『ヴァタ ~箱あるいは体~』

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© FLYING IMAGE

監督・脚本・編集:亀井岳
撮影:小野里昌哉 音楽:高橋琢哉
録音:ライヨ トキ
出演:フィ、ラドゥ、アルバン、オンジェニ、レマニンジ、サミー

マダガスカル南東部の小さな村。
この地では、亡くなった故人の遺骨を、故郷の村人が生まれ育った場所に持ち帰らなくてはいけない。長老が男たちを集め、出稼ぎの地で亡くなった少女ニリナの遺骨を持ち帰って来るよう伝える。その命を受け、ニリナの弟タンテリとザカ、スル、そして離れ小屋の親父の4人は、楽器を片手に片道2、3日かかる村へ旅に出る。
4人は途中、出稼ぎに行ったまま行方知れずの家族の消息を求めて旅するルカンガの名手・レマニンジに遭遇。
果たして4人は、無事ニリナの遺骨を故郷に持ち帰り、ニリナは“祖先”となれるのか。レマニンジは、家族を見つけ、長い旅を終えられるのか。
作品紹介

2022/日本、マダガスカル/85分/カラー/アメリカン・ビスタ/ステレオ
製作:亀井岳 櫻井文 スアスア
配給:FLYING IMAGE
公式サイト:https://vata-movie.com/
公式X: https://www.twitter.com/vatamovie
公式Facebook: https://www.facebook.com/VataMadagascar
公式Instagram:https://www.instagram.com/vata_movie
★2024年8月3日(土)より渋谷ユーロスペース、8月24日(土)より大阪・第七藝術劇場ほか、全国順次公開



亀井岳 (Takeshi Kamei)
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1969年9月3日生まれ。大阪府出身。
大阪芸術大学美術学科卒業、金沢美術工芸大学大学院修了。2001年、造形から映像制作へと転身。旅と音楽をテーマに、ドキュメンタリーとドラマを融合させるスタイルで映画を監督。監督デビュー作はモンゴルの喉歌をテーマにした『チャンドマニ 〜モンゴル ホーミーの源流へ〜』(09)。マダガスカルの人々の営みと音楽を主題にした2作目『ギターマダガスカル』(14)は、2016年にマダガスカルの首都アンタナナリヴでも上映された。本作は、監督3作目となる。


◎亀井岳監督インタビュー
【取材】 撮影:宮崎暁美(M)、まとめ:景山咲子(K)


K:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022での観客賞受賞おめでとうございました。 文化人類的なことに関心がありますので、とても興味深く拝見しました。
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2022の折の公式インタビューに、お聞きしたいことは、ほとんど網羅されていたのですが、それを踏まえてお伺いしたいと思います。

日本から遠いマダガスカルですが、死後もラザナ Razana(祖先)として永遠に生き続けているという考え方は、日本人にも通じるところがありますね。マダガスカルの改葬儀礼「ファマディハナ」 は、沖縄で数年後に洗骨する風習と似ていると思いました。今回出てきたマダガスカルの方たちの信じる宗教は?

監督:土着の宗教とキリスト教が半々です。敬虔なクリスチャンの人もいる一方、そうでもない人もいます。
ムスリムは北部にはいて前作の『ギターマダガスカル』には出てきていて、お酒を飲まない方もいるのですが、『ヴァタ』の舞台である南部ではムスリムは少ないです。


◆どんな環境の中で生まれた音楽なのかに興味
K:浪人生だった30年くらい前に、ワールドミュージックのブームの中で、大阪の輸入レコード屋さんでマダガスカルの音楽に偶然出会って惹かれたとのことですが、その後、実際にマダガスカルに初めて行かれたのは、いつ頃ですか?  

監督:2014年に初めてマダガスカルに行きました。

K:その時には映画を撮るつもりではなかったのでしょうか?

監督:いえ、撮ろうかなと思って一度行ってみようと思いました。

K:1作目でモンゴルの音楽を題材にされて、次にはマダガスカルの音楽という思いがあったのでしょうか?

監督:ありましたね。1作目の『チャンドマニ 〜モンゴル ホーミーの源流へ〜』を撮ったときに、モンゴルのホーミー(モンゴルの伝統的歌唱法)が長い間遊牧されてきた方たちが生活の中から生み出したものだと知りました。自分の好きなマダガスカル音楽は、マダガスカルの人たちがどういう環境で営みを続けてきた中でできたのか興味が沸いたので、行ってみようと思いました。

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© FLYING IMAGE

M:そうして作られたのが前作『ギターマダガスカル』ですが、その中で子供たちが歌っているところで、ホーミーの唸り声のような歌が聴こえて、モンゴルと繋がっているのかなと思いました。

監督:あれは実は私が後ろでホーミーの練習をしていたのですよ!(笑) まさか気づいてくれる人がいるとは!

◆偶然出会った「骨を運ぶ人々」をテーマに脚本を書いた
K:前作の撮影時に出会った「骨を運ぶ人々」が忘れられなくて、ファンタスティックな劇映画として作り上げたとのことですが、『ヴァタ ~箱あるいは体~』では、マダガスカルの人たちの死生観にも踏み込んでいます。かなりのリサーチを経て、脚本を書かれたことと思います。

監督:リサーチには2回行きました。2回目の時には、脚本もほぼ出来ていて、キャスティングも行いました。
やろうと決めてから数年で撮影に入りました。


K:日本語で書いた脚本を、マダガスカル在住のコーディネーター・櫻井文さんがマダガスカル語に訳し、それをさらに、マダガスカル人のスアスアさんが納得のいくものにしたとのことですね。出演したマダガスカルの方たちにも、すんなり受け入れられたのでしょうか?

監督:ものすごくたくさん台詞があるわけじゃないし、見たらわかるように絵コンテも描きました。

K:出演者が皆、とても魅力的でした。

監督:村の長老に遺骨を運ぶよう命じられるタンテリとザカとスルの三人組は、『ギターマダガスカル』の出演者・トミノの一族の3人。 離れ小屋のオヤジを演じたサミーは首都アンタナナリヴで活躍するミュージシャンで、僕が20歳位の時にすごく好きで聞いていたバンド「タリカ・サミー」のサミー。タバコ屋のレマニンジは南西部の大きな町チュレアールの有名人でアンタンルイ族です。

K:皆さんの楽器は手作りですね。

監督:自分で作ったり、楽器作りの得意な人に作ってもらったりしています。プロで音楽をやっている人は安定感がある既製品のギターを使うこともあります。

M:手製の楽器は味があっていいですね。楽器を買うだけの金力のある人は少ないのでしょうね。

監督:地方では、現金収入がなかなかありませんし、物が出回ってないので、手作りのものが多いですね。

M:遺体を故郷に戻すという映画は観たことがあるけれど、骨を故郷に戻すのは初めて観ました。日本だけでなく、死んだら遺体を故郷に戻すという映画は、中国、韓国、南米、トルコなどのものを観ていますが、この映画では、マダガスカルで土を掘り起こして骨を持って帰るということがあると知りました。

K:沖縄では何年か経って洗骨の風習がありますよね。

監督:今はその風習も無くなっていると思います。骨は白くて永遠に残ります。肉は腐るので不浄のものという考えがあると思います。我々も遺骨を大切にしますので、その感覚は近いと思います。 

M:遺体を布で包んであるのを包みなおしていましたが・・・

監督:ぐずぐずになっているので、4~5年に1度、お墓から先祖の亡骸を出して、新しい布で綺麗に包みなおします。「ファマディハナ」といいます。それがちゃんと出来るのはある程度お金を持っている人だけです。

K:お墓はどんな形ですか?

監督:地域差があります。石を積んだり、生前好きだったものが描かれているもの、山の斜面だったり。地方によって特徴はあると思いますが、決まった形はありません。

K:お墓というと町外れにあるイメージですが。

監督:確かに生活圏の中でなく町外れでみましたね。

M:お姉さんが隣村に出稼ぎに行って亡くなったとありましたが・・・

監督:産業が何もないところなので、家事手伝いくらいしか仕事がないのです。
マダガスカルの南部は飢饉もひどくて、食べるものもなくて大変です。
撮影隊もダニに襲われました。彼らは地元の人は襲いません。移動している外国人などが狙われます。

K:木の上でコーヒーの実を取っている人が印象的でした。

監督:祖先の世界と今を行き来する、その間にいる存在です。彼はイタコではないです。地上と天上の間の木の上にいる設定です。彼とはたまたま出会いました。南東部の河の河口が広くて、渡し船で渡るのですが、エンジン付きの船が動かない時には、丸太船を漕いで渡ったり、泳いでいく人もいます。
船着き場の傍らで用足ししていたときに、目の前でごそごそ動いている人がいて、声をかけられたという出会いでした。


M:幽霊のような存在がありましたが。

監督:「ルル」というのですが、日本の幽霊の概念に似ているところもあります。成仏していません。


◆タイトル「ヴァタ(箱)」に込めた思い

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K:マダガスカル語で「ヴァタ」は[箱]、映画の舞台の南部では[体]を意味する単語でもあると聞きました。遺骨を入れるのも箱ですし、ギターも箱に見えました。タイトルに込めた思いをお聞かせください。

監督:「箱」は非常にキーになっています。 骨を入れる箱と楽器の箱。肉体が腐って骨になったという身体性があります。
マダガスカルに住む人たちは、諸説ありますが、約1500年位前に東南アジアから来られた人たちが祖先なのですが、持ってきた中に楽器もあったと思います。竹の中に弦を張ったヴァリハという弦楽器から始まっています。おなじような楽器がインドネシアやフィリピンなどにもあります。「箱」はマダガスカルのルーツである楽器ヴァリハのイメージでもあります。 今回の映画にはヴァリハは出てないですが。


K:マダガスカルは島ですし、アフリカ大陸とも違う文化ですね。

監督:全然違いますね。大陸との間に、モザンビーク海峡があって、50kmくらいなので、頑張れば泳いで渡れそうですが、流れが急らしいです。

K:インドやアラブ、東南アジアなど、海を渡ってきた文化がマダガスカルにはあって、面白いですね。
マダガスカルといえば、バオバブの木が思い浮かぶのですが、特に強調されていなかったように思います。

監督:この映画には、マダガスカルの動植物として有名なバオバブもカメレオンも出てきません。バオバブは西の方の乾燥した地域にあります。1本くらいあれば使いたいと思ったのですが、南のほうにはありませんでした。

M:帽子を家の中でもかぶっていたのが印象的でした。

監督:家の中でかぶっていたのはたまたまだと思うのですが、帽子は民族によって違います。四角、丸、とんがっている帽子や印がついているものなど、いろいろあります。


◆前作はフランス文化センターで上映会
K:マダガスカルには映画産業がほとんどないのだそうですね。

監督:今は映画館も出来たと聞いているのですが、映画館にかけるような映画を作っているかどうかは知らないです。今はYouTubeの時代で、YouTubeで流すインデペンデント映画を盛んに作って、稼いでいるみたいです。

K:『ギターマダガスカル』と『ヴァタ ~箱あるいは体~』は、マダガスカルの人たちに観てもらう機会はあったのでしょうか? どんな感想をいただきましたか?  出演者の方、一般の方、それぞれの感想は?

監督:『ギターマダガスカル』は、2016年に現地で大使館が企画して、フランス文化センターで上映会を開いてくれました。当時、マダガスカルで唯一映画が上映できたホールです。現地の方も喜んでくれました。楽しんでもらったと思います。
『ヴァタ ~箱あるいは体~』は、まだ現地で上映会を開いていませんが、スタッフには観てもらいました。



◆味付けは、どんな食材もトマトソースで!
K:骨を運ぶ人たちに南東部で会ったので、本作は南東部で撮影されたけれど、不便な場所で大変だったそうですね。

監督:あとで考えたら、あんなに遠くまで行く必要はなかったのですが・・・ 首都アンタナナリボからちゃんとした四駆の車で行っても3日かかります。クルーの大半は飛行機で行って、そこから車で移動したのですが、現地で車も必要なので、首都から車で行ってもらったスタッフもいます。外のロケが多い映画なので、雨が降ったら全然撮影できませんでした。

K:撮影隊の人数は少なかったのですか?

監督:クルーは25人で、日本からは4人。ドライバーや料理をする人も含めての人数です。テントや小屋で寝泊まりしました。長編の劇映画は初めて監督したので面白かったです。

K:料理はどんな感じですか? お米をよく食べるそうですが。

監督:三食お米です。でんぷん質の高くない痩せているお米。いっぱい食べてもそんなに腹持ちがよくないです。

K:味付けが気になります。

監督:小さな缶詰のトマトソースがあって、なんでもそれで味付けします。肉でも魚でも海老でもなんでも、トマトソースと塩。どれも味が似ています。
冒頭に出てきた船は、伊勢海老取りの船です。小ぶりの伊勢海老は売り物にならないので、それを買ったのですが1匹 50円くらい。「トマトソースは入れないで」とお願いして、ゆでたり、焼いたりしてもらいました(笑)。


K:辛くはないのですか?

監督:辛い薬味はあります。美味しいと思います。フランスの植民地だったので、フランス料理も安く食べられます。田舎に行ったら、昔のフランスの影響でパンを炭火で焼いていて、めちゃくちゃ美味しいです。ホウシャガメも食べます。ハリネズミ、ホロホロ鳥、コウモリも美味しい。鰻も川で取れます。輪切りにしてトマト煮(笑)。繊細な料理はできません。

M:テレビでマダガスカルを観ることはありますが、トマトソース味の料理は観たことがなかったです。

監督:テレビクルーは、マダガスカルのコーディネーターが連れていくので、報道で観れるものは同じ。パターンが決まっています。

M:そういう意味で、この映画で観たマダガスカルの文化は新鮮でした。


◆『スターウォーズ』そして『宇宙からのメッセージ』の衝撃
K:高校時代にすでに映画部に入っていたのに、それも忘れていたとか。
小さい時に観た映画でこれはという映画は?

監督:『スターウォーズ』ですね。小学校2年生の時に観て、衝撃的でした。凄すぎて!
1978年の『宇宙からのメッセージ』という日本映画が、『スターウォーズ』の半年後くらいにできたものですが、まるで『スターウォーズ』。ショックを受けて愕然としました。真田広之さんが出ています。


K:『宇宙からのメッセージ』、ぜひ観てみたいです。 監督の次の作品も楽しみにしています。
本日はありがとうございました。

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★取材を終えて
アフリカには子供のころから興味があって(60年以上も前です)、小中学校の頃にはアフリカを舞台にした動物ものや冒険もの、20世紀の新発見というような本をよく読んでいました。
ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」を読んで、いつか世界一周の旅に出たいと思っていたので、2018年にピースボートで世界一周の旅に出たのですが、その時にマダガスカルにも行く予定でした。ところがインド洋のまんなかで右肩を脱臼してしまい、マダガスカルの手前のモーリシャス諸島から日本に帰ることになり、マダガスカルには行けませんでした。子供の頃からマダガスカルのバオバブの樹に興味があったので、マダガスカルにとても行きたかったのですが、そういうわけでマダガスカルにたどり着けず、とても残念でした。
そのマダガスカルと音楽に高校生の頃から興味があったという亀井監督。その頃からの好きが高じて、マダガスカルに行き、しかもマダガスカルを舞台に映画を作ってしまったという。とてもすてきな話だなと思いました。そして、できた映画では、これまでTV番組で伝えられてきたマダガスカルとは違う光景や文化を知ることができました。しかも、死んだ人の魂や骨を故郷の土地に戻すという風習は、この国にもあるらしい。とても興味深かった(暁)。

私も若い頃から民族音楽に惹かれましたが、ただただ聴くだけでした。亀井監督は、各地の音楽が、人々がどういう営みをしてきた中から生まれたものかを追求されて、映画まで作ってしまいました。さらに、本作は現地で偶然出会った箱に入った骨を運ぶ人をテーマに、ご自身で脚本まで書いて、現地の方たちに演じてもらったという稀有な映画。次のターゲットはどこなのか、とても楽しみです。
そして、今回のインタビューの中で、一番印象に残ったのは、食べ物のこと。どんな素材も同じトマトソースで味付けしてしまうという話が面白かったです。トマト味は大好きですが、伊勢海老は、私も単純に茹でるか焼くかでいただきたいです。(咲)


『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』井上淳一監督インタビュー

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*プロフィール*井上淳一 監督・脚本
1965年生まれ。愛知県犬山市出身。早稲田大学卒。在学中より若松孝二監督に師事し、若松プロダクションで助監督を務める。1990年監督デビュー。
主な脚本作品『男たちの大和』『パートナーズ』『アジアの純真』『あいときぼうのまち』『止められるか、俺たちを』『REVOLUTION+1』『福田村事件』
監督作品『戦争と一人の女』『いきもののきろく』『大地を受け継ぐ』『誰がために憲法はある』

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『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』
1980年代、若松孝二が名古屋に作ったミニシアター“シネマスコーレ”。
映画と映画館に魅せられた若者たちの青春群像劇。
http://www.wakamatsukoji.org/seishunjack/
©️若松プロダクション
作品紹介はこちら
*ほぼ書き起こし。ラストにも言及していますので気になる方は鑑賞後にお読みください。

―井上監督ずっとお忙しかったですね。飛び回っているという感じです。

それまでがヒマな人生だったので(笑)、還暦手前で少し取り戻しています。

―公式ブック(¥1000)がすごく充実していて、こんなに書いてあるのに、ほかに何を聞けばいいのか困っています。書かれていないこと…。

書いてないことは喋っちゃいけないことなんですよ(笑)。

―それはそうですね(笑)。淳一少年可愛いかったですね。

ありがとうございます。あれは杉田雷麟(らいる)くんが可愛いんです。

―井浦新さんは続投で、新しく杉田雷麟(らいる)くん、東出昌大さん、芋生悠(いもうはるか)さんといいキャスティングですよね。芋生さん演じる金本さんの存在がすごく大きいと思いました。
金本さんの元になる女性はいたんでしょうか?


いないです。単純に映画を作るときに、ジェンダーバランスとかじゃなく物語のバランスとして女性が要るじゃないですか。実名でやるときに、当時の彼女を実名で出すわけにいかない。いくらなんでも。なおかつそんなままごとみたいな恋愛は面白くない。誰か作ろうと。
厳密に言えば男社会なので、あのころはシネマスコーレのバイトすら、最初は女性いないんですよ。10年後くらいに来たのが李相美(イサンミ)さん。彼女が最初に「本名で働いていいですか」と言ったという話を聞いてて、やるなら「在日」にしようと。
いつもこうやって社会的なことをちょっと入れたがる、やりたがるんで、僕は。

―それで左翼って言われちゃうんですね。

そう、左翼って言われる(笑)。最近は反日って言われてますから。でも、荒井晴彦さん曰く、「反日は最低限のたしなみ」ですから(笑)。
で、「指紋押捺」のことを入れようと、そっちが先でした。愛知県って在日の人がわりと多いんですよ。戦時中に航空機産業が多かったから。犬山市の僕の小学校のクラスで4人くらいいて、在日も何も全然気づかないんです。通名ですし。それが中学になって大きくなると、「あいつ在日だよ」みたいなことになってきて。16歳になったら机並べていた奴があんなこと(指紋押捺)やらされているわけじゃないですか。そんなことすらも知らなかった。
指紋押捺のことを知ったときも、自分は無関心だったなと。あのころ姜尚中(カン サンジュン)さんが指紋押捺拒否闘争をしてたんですよね。フィクションの人物を作るならそういうことをやろうと。
もう一つは、僕たちは「男」だという、高~い下駄を履いていたことを、ほんとについ最近まで知らなかった。言っちゃえば「いいな、女の方が得だ」みたいに思っていたくらい。
金本という「女性」の存在で、自分を含めた男たちを相対化したい。あの頃なんて、衣裳メイク、スクリプター、編集助手くらいにしか女性はいなかったんで、それはやりたいと思った。

―金本さんがいることで広がって、深まったと思います。

この映画は金本の物語なんですよね。彼女だけが変わるし。淳一はわずかな変化(笑)。人が変わることが映画なんで、当然みんな変わる。でも、2時間くらいの物語で、人ってそんなに大きく変わらないんじゃないかと常々思っていて。今回は立ち位置が5ミリくらい変わっていたということを図らずも描けたんじゃないかと思っています。

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―金本さんと淳一くんがいて、ラブはないけど対立があります。
そして若松さんと木全さんという大人がいてくれます。新さん、見た目似ていないのにどんどん若松監督に見えてきました。


前のときは、どこかものまね感があったんですよ。それは実年齢より10歳若い若松さんだし、全員が知らない時代の若松さんってこともあった。あの若い衆とも年が10歳しか離れていない兄貴分の若松さん。はじめて若松さんを演じるプレッシャーもあっただろうし。
今回は2回目だってこともあるし、新さんが実年齢の若松さんと全く同じ、48、49。しかも新さんのあの座長体質というかね。あの感じが父と子、疑似親子になっているんで。そういうことも全部良いように作用していたんじゃないですかね。

―若松監督ってとにかく弟子希望者がいっぱいいる人なんですね。人が集まってくる。

集まってくるし、「俺が手を汚す」(若松さんの自伝)の中でとか「こんなに監督デビューさせてやったんだ」って言ってるから、なんかみんな騙されるんですよ(笑)。「あ、俺もなれるんじゃないか」って。あのころはにっかつしか助監督採用していなかったんで。
映画の中にあるように、ピンクと自主映画から才能が出て来たっていうのは実はそこしかパイがなかったから。にっかつに行ったって年に一人か二人しかデビューできない。何年かかるの?みたいな世界です。

―テレビはまた違いますしね、やっぱり映画撮りたいんですよね。
名画座をやりたい木全さんが、何度も危機に瀕しながらなんとか持ちこたえました。


ほんとですよ。今日がシネマスコーレの41周年なんです。開館記念日なんです。

―41周年!書いておかなくちゃ。2月19日。

ああやって、東京でもミニシアターができてきて、当時はまだミニシアターって言葉はなくて、単館系とか言ってたけど、地方でブロックブッキングからはみ出た映画の受け皿になったり、中国映画やインディーズの映画が上映できるようになった。

―「届けたい」と監督はおっしゃいますよね。

それが「届く人にも届かない」んですよ。残念ながら。だから”せめて”届けたい。この映画はともかく、今までの憲法とか福島の映画って、9条なくすなとか原発反対という人にしか届いてないんです。本当に届けたい人は、実は違うわけじゃないですか。本当は憲法や原発なんか興味がないって人に届けたい。届く人っていうのは届けたい人ではないんですね、これが。
この映画も、やっぱり一番にはかつての井上みたいな若い人に観てほしいけど、なかなかそういかない。ジレンマとの闘いです。どうやったら届くのか、映画を作って宣伝するたびに同じことを思いますけど。

―実在の人を描いたと知ると、このエピソードはどこまでほんとにあったんだろうと、つい思ってしまいます。

木全さんは80%ほんとと言ってますけど(笑)。「早稲田の名前をとっとけ」はほんと。新幹線も乗ったんですけど、一人ではなかった。高校の2年先輩でけっこう影響を受けた人と一緒だったんです。映像をやりたいと東京の専門学校へ行ってたのが、ちょうど夏休みで帰ってきていた。若松監督に弟子にしてくださいと言って、一緒に飯食って、これから監督は終電で東京に戻るところだと知ったら、「じゃ、今から俺も新幹線で東京に帰る」というわけですよ。それ、ズルいじゃないですか、僕が声かけて道を開いたのに2時間も一緒に乗っていくのかよって。それで、僕も一緒に付いて行こうと思った。先輩のところに泊まればいいし。

―監督は先輩が行くと言わなかったら乗らなかったんですか?

うんそれはさすがにね。どこかに気持ちはあった。弟子にしてくださいと言っても、それだけじゃそこらにいる映画青年だとは思ったんですよ。若松さんも慣れているからうまくあしらう。
乗っていって映画のフレームを手でやってくれたのは、その後若松さんにずっとつきあってても、2度とそういうことはなかった。多分サービスだったんですよ、あれは。なんかついてきちゃったしみたいな。

―弟子になる前の子ですし。若松監督優しいですね。

優しいんですよ。ついてこられたら困る、みたいなことはあったかもしれないけど。「うちは給料払えないけれども、4年ちゃんと大学に」というのは、めちゃめちゃなように見えて、全然そうじゃなかったですから。
いつも言っているけど、「父親未満師匠以上」だったんですよ。その時、入場券で入って、それで乗ったんですけど、最後は東京駅で「それで出てこれたら弟子にしてやるよ」と言って自分だけ降りていきましたけど。本当についてこられたら困ると思ったんだと思います。そこまで書いてたんですけど、キセルの話をやると、新幹線が借りられなくなるからと泣く泣くカットしたという。

―今は天国の師匠ですね。おいくつで亡くなられたんでしたっけ?

1936年生まれで2012年だから、76歳。荒井さんがこないだ喜寿の会をやって、あんなに元気だから。
若松さんまだ撮れたのに、と思いますけどね。

―監督も若松さんのお年までまだまだですよ。会えるときには「これだけ撮ったよ」って持っていかなきゃ。

ほんと。「お前、どれだけ俺で商売したんだ」って絶対言います(笑)。

―おかげ様でたくさんの人が育って、亡くなったあともこんなに力になってくれて。

なかなか幸運ですよね。毎年毎年命日には上映会やったり、実名で2本も映画作られる監督ってそうはいませんから。

―稀有な人ですね。パワーがいつまでも残っているようで。

また、僕たちが安く作るんで。普通ならこれ通らないです。たとえば大島プロとか、東映とかで何かやろうとしたら2億3億です。我々は1千万とか2千万でやりますから、それも大きいんだと思うんです。

―だから集まってくる方がいますよね、手伝わなきゃ、助けなくちゃって。

と思います。でも甘えちゃダメなんですけどね。ずっと甘えて…新さんに「甘えるのもこれが最後ですよ」って公式ブックに書かれてしまいました(笑)。

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―公式ブックのスタッフさんの対談が面白かったです。知らないうちにいろんなところで助けられていたってことですね。どうやってお返ししていきましょう?

ほんとに。
いつも大きいやつを、ちゃんとしたギャラでと思うんですけど。編集の蛭田さんなんて、ずーっと安いギャラでやり続けているんですよ。

―ご本人が楽しくて納得してやってくださるんでしょうか。作品があたって収入が入れば、バックできるんですか?

インセンティブ契約していないんで難しいことは難しいんですよ。だいたいそこまで儲からない。やれるとしたら受賞したときに分けるとか。めちゃめちゃ安くやってもらっているので、やりたいんです。『カメラを止めるな』みたいなことが起こればいいけど。
(ここでいろいろ具体的な数字が出てきて、台所事情はほんとに厳しいと知りました)

―プロデューサーをするともっとシビアにきますね。

実際今までプロデューサークレジットしてないだけで、みんなやってますからね。ただ僕は予算管理ができない。
「10万では厳しい、あと5万」とか言われると「じゃ仕方ないなあ」と言っちゃうタイプなんです。でもそれやったら我々の低予算では絶対できないんですよ。片嶋一貴(プロデューサー)がすごいのは、絶っ対に譲らないんです、そこを。だからギャラを払ったとしたって、片嶋さんに頼んだほうがいい。僕はもう一番向かないんです(笑)。

―あ、なんかわかるような気が(笑)、可愛がられてお金の心配しないで育ったぼんぼんで。

片嶋さんだってぼんぼんなんですよ~。
若松さんのお金の管理を一番学んでいるのは片嶋さんです。間違いなく。
横で聞いててひどいこと言うなって思います(笑)。

―若松監督はそんなにお金に厳しかったんですか?あ、毎日売り上げの報告していました!

厳しいもなにもお金のことしか考えてない(笑)。それが最優先。
やっぱり自分でやってわかるんですけど、僕たちはせいぜい3,4年に1本。『福田村事件』からは続きましたけど。
それを若松さんはあんな風に、年に何本もやって、人にも撮らせて。それだけお金にシビアじゃないとできないんですよ。

―監督だけやればいい、ってわけじゃなかったんですね。

そう、全部。あの人こそ全部やったんです。車だって自分で運転してますからね、現場で。監督は少しでも休みたいわけですよ。その分、映画観ないし、本読みませんが(笑)。

―若松監督の映画は自分の中から湧いてくるんでしょうか?

それこそ何か起こったときに「自分なら」という野生の勘がある。
足立さんや僕たちが言ったことをピッと「いいとこどり」するその勘はものすごい。
『トラック野郎』(鈴木則文監督)の中で、マルキ・ド・サドの「サド」のことを、星桃次郎(菅原文太)が「佐渡」だと思うシーンがあるんですけど、あれ若松さんもほんとに思ってましたからね。「佐渡」って(笑)。
僕は若松さんと出会ってから『トラック野郎』を観て、ああトラック野郎、若松さんと同じだなあと思いました(笑)。

―詳しいところと知らないところと差があるんですね。

だけど、ほんとに知らないことは知らないって言う人だったし、全然カッコつけない。僕たちになんでも聞いたし、フラットでした。

―偉ぶらない。怒鳴るけど(笑)。映画の中で、淳一くんずいぶん怒鳴られていました。

怒鳴られてました。ただ、事実かどうかを言えば、河合塾の映画のときはあんな怒鳴らずに粛々と自分で監督やっていました。何も言わずに(笑)。こないだ僕の半年後に入った助監督が、映画やめて今アイドルビデオ撮ってるんですが、観て「身につまされすぎて・・・」って。
僕は「オーライ、オーライ」って電信柱にぶつけましたけど、そいつはロケによく使われる渋谷のホテルで「オーライ、オーライ」ってやったら出て行く途中のベンツにぶつけたんです。そしたら、出て来たのは京本政樹だったという。若松さん怒った怒った。ベンツがガシャってへこんでね。
今、白石(和彌監督)がよく言ってるのは、若松さんが「原田芳雄さんに怒れないから、助監督を怒って現場をしめたり、何かを伝えようとしていたけど、それはパワハラですよね」。でも彼も僕も若松さんにされたことをたぶん一度もパワハラだと思っていないんです。この映画で一番心配しているのは、パワハラ肯定だと思われたらいやだな、ってことです。井上というサバイバーが、懐かしんでる・・・。

―私は全然そうは思いませんでした。思う人もいるかもですが。

僕も思ってない。僕たちは残っているけど、志半ばで辞めた人が大多数なわけです。経済に負けたりはしていくんだけど、怒鳴られて辞めたってことはない、たぶん。
この何年かパワハラに敏感だったじゃないですか。でも、この映画ではそう思う人は少ない。それはなんだったのかなってことを考えてもらえればと思います。
よく「パワハラかパワハラじゃないかは愛があるかないかだ」って言われるけど、僕はそういうこと言われると、ちょっと待って待って!「愛の便利使い」するなよって。
だけどやっぱりあの若松さんの何かではあるわけですよ。あの人は怒鳴るのは現場だけで、普段は、僕たちにメシとってくれたり、作ったり。人が美味しいって言ってくれるの好きだし。最上級の人たらしなんですよ。

―お料理して食べさせてくれるんですか。

するんですよ、何でも。外で食べると高いから(笑)。
その辺は徹底してる。

―木全支配人がロケのときに温かいものを食べさせたかったっていうのと通じますね。

気持ちは一緒なんですよ。安くてもちゃんと美味しくて温かいものをっていう。木全さんは作らないけど。スコーレの隣の弁当屋さんからケータリングみたいに出してもらって、みんなに食べろ食べろと言って、芋生さんと僕の分が残ってないときがあったんです。
僕が福田村のプロデューサーだったときに弁当食べていたら、普段何も言わない片嶋さんが「井上、プロデューサーは一番最後に食べるもんだ」って言ったんですよ。足りなくなるといけないからって。
木全さんはそういうところ全く関係なくて(笑)。僕も言いましたけどね、木全さんに。そしたら「ああ、わかったわかった」って。次の日、見てたら最初のほうで食べてた(笑)。

―悪気はないんですね。

ほんとに全然悪気はない(笑)。若松さんとのお金のやりとりをしてると、みんなおかしくなるんですよ。めちゃくちゃシビアだから。木全さんは30年もそれをやってきた。そういう人だからできたんですよ。
ミニシアターの支配人って意外とそういう人が多いんですよ。ぽよ~んとしている。だってお金のことにシビアになっていたらできないもの。木全さんはその一番の親分みたいな人でぼや~っとしてる(笑)。

―何度かお目にかかりましたが、いつもニコニコしていて木全さんって怒ることあるのでしょうか?

あの人が怒るときはよっぽどですよ。
それを東出さんが見事に演じてくれたので、ほんとにありがたかったです。東出さんをよく見てるとあの無防備さを含めて似ている。東出さんは優しくて無防備なのでモテちゃうんです。「福田村」も助けてもらいましたし、またもう一回がっつりとやりたかったんです。東出さんの本質みたいなものと、これは木全さんに合うんじゃないかとどこかで思っていましたね。

―ほわほわ~っとした木全さん役は、いつものカッコいい役とは違う東出さんでした。

最初は主役だったんです。自分の話をやるつもりはなかったんで。
木全さんに対立と葛藤がないので話を作れなかったんですよ。そう言うと最近文句言うんですけどね。「対立と葛藤がない」んじゃなくて、「対立しないし、葛藤しないんだ」って。若松さんといちいちバトラないので作れないんですよ。しょうがないから井上話を。

―サブのつもりだったんですね。こちらは「対立と葛藤」がある。

そしたら東出さんはだんだん主役ではなくなって、どこか「触媒」のような形になった。これはもし、事務所が入っていたら「約束が違うじゃないか」ってなったと思うんですよ。実際に東出さんが名古屋に撮影の3日前に来て、木全さんにずーっと聞き続けるわけです。「木全さんそう言いながら怒るときあるでしょう?」って。でも、木全さん、「ないよないよ、そんなこと~。時間の無駄だし」としか言わなくて、挙げ句に「こんな役やったことないでしょ~。得するよ~」みたいな。。
そんな中で、東出さんが「これはちゃんと触媒のほうをやろう」とモードチェンジしてくれたんでね。正直言うと名古屋に来て「シネマスコーレで一日働きます」って言ったのに、来なかったんですよ。そのときは東出さん降りるんじゃないかと思いましたが、でも全然そんなことはなく。
俳優部全員に「名古屋弁でやらなくていい」って言ってたんですよ。なぜかと言うと名古屋が舞台の映画『そばかす』(22)で、名古屋弁が名古屋弁に聞こえなかった。方言指導もあったと思うんですけど、イントネーションが全然違う。それだったらやめようと思って。
誰かが聞いたらしいけど「標準語で覚えてきたけど、木全さんに会ったら標準語だと木全さんにならない」と言ってたんで、たぶん来なかった一日で全部名古屋弁に入れ直したんですよ、間違いなく。
方言指導もいないし、テープもないのによくやったなと思って。

―名古屋弁をどこで勉強されたんでしょう?

もうね、不思議なんですよ。木全さんにだって、撮影3日前のそこでしか会っていなくて、『シネマスコーレを解剖する』ってドキュメンタリーしか観ていないのに、あそこまで特徴をとらえている。

―姿勢も、猫背になってて。

オーラ消して。現場に新さんと二人いるとみんな「新さんカッコいい!」になるわけです。新さんは若松さんだからオーラ全開でいってるから。だから役者ってすげぇなって。

―スイッチのON/OFF自在なんですね。新さんも若松さんでなければオーラ消すんでしょうね。

と思います。「福田村」のときはまた違う。どっちかと言えば東出さんの方がオーラ全開だった。あれはエロエロだから。それは、芋生さんと雷麟くんも、うちの地元で上映会やったときに来てくれて、スコーレのボランティアスタッフが二人を見て「えっ、こんなにオーラ全開!」ってみんなが驚いていましたから(笑)。舞台挨拶のオーラ出すモード。撮影のときは井上と金本だしオーラ消してた。すごいですよ、あの人たちは。

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―キャストが多いですね。

一個は福田村チームです。重なってる。それは福田村が非常に悲惨な現場で…悲惨だったんですよ、低予算で。最後のほうになって、僕が「新さんと東出さんと雷麟くんで(次の作品を)やる」って話が広まったら(田中)麗奈さんが「井上監督の現場見たい」と言うので、「見に来たら、出てくださいって言っちゃいますよ」って冗談めかして言っていた(笑)。コムアイさんも相応しい役がないんで「音楽やってください」「音楽はできないけど出してください」って、それで木全さんの奥さん役に。それがまず一個。
竹中(直人)さんは、夏に石井隆さんの追悼上映でシネマスコーレに行ったんですよ。木全さんに「絶対口説いてください。昔と同じ役です」。木全さんが口説いた。ただ片嶋さんがマネージャーにギャラの数字を「何かの間違いでは?」って言われたらしいですよ。

―ゼロの数が(笑)? それでも出てくださったんですね。

そう。(田口)トモロヲさんは岡留(安則)さん(噂の真相編集長)。ドラマ「不適切にもほどがある」を見てたら、いろんな小道具をちゃんと出すわけです、作りこんで。低予算の僕たちはできないので、人とか名前で行くしかない。岡留さんは、実際にあの飲み屋にいた人だったので書いた。誰にしようと思って「トモロヲさん」。事務所の社長が、高校の先輩なんですよ。しかもなんと教育実習で母校に来た時に僕は生徒だったんですよ。ちゃんと教育実習日記に書かれていて僕のクラスだったのがわかりました。その高校も撮影で使わせてもらえました。
トモロヲさんは、書いてもいいと思うんですけど木全さんがギャラをお渡ししたときに、「これ井上君にカンパだから」って。いったい俺たちの現場はどう思われているのかと。

―ベテランの方はわかるのかも。

ありがたいですね。あと、BoBA(田中要次)さんは、シネマスコーレ組なんです。僕が若松さんと一緒に忘年会に行くと「僕国鉄の職員なんですけど、俳優やりたいんです。原田芳雄さんが好きで、東京に行きたいんです」と若松さんに挨拶していました。 **国鉄分割民営化1987年

―国鉄職員だったんですか。ものわかりのいい「お父さん」役で。
(実の)お父さんは今だにものわかりよくて、ずっと応援してくれているんですよね。


はい、今だに。淳一のあの実家はうちですし、メイクルームとしても使ってるし、こないだの上映会では近所にチケット100枚近く売ってるし。あの親なくして、いまの僕はありえない。

―お父さん嬉しかったでしょうね。

いろんなところに書いてますけど、「お母さんが生きてたら」ってずっと言ってます。
お母さん役の有森(也実)さんは――うちの母親は松平健がすごく好きで、2011年に御園座で「暴れん坊将軍」をやったときに有森さんがヒロインで出ていたんです。チケットを頼んだらすごくいい席をとってくださった。終わって楽屋に伺ったら、ガウン着た有森さんにカステラやコーヒーご馳走になりました。うちの母親はいたく感激したわけですよ。しかもパンフレットに松平健のサインをもらってくれたりとか。
ちなみに母の妹、叔母はそのサインを見て「高いサインだったね」(笑)。今までこの子にかかったお金がこのサインで戻ってきたって(笑)。
母親なんて誰がやっても不満じゃないですか、どうしようかと迷って「あ、うちの母親が唯一会ったことのある人」にしよう、と有森さんに頼んだらOKでした。
『Single8』(2023/小中和哉監督)でもお母さん役でワンシーンだけ出てきます。有森さん2年続けて実在のお母さん演じているんですよ。有森さん、いいんですよね。ある種の気風の良さ、微妙な尾張弁がすごくいいんです。誰がやっても不満なんてとんでもない。有森さんにやってもらえて良かった。

―尾張弁使える方なんですか?

いやいや。尾張弁は衣装合わせのときに「井上さん吹き込んで」ってテープ渡されて僕が吹き込みました。

―犬山と名古屋のことばはちょっと違いますか?

若干違いますね。岐阜が近くなってきますから。木全さんは大学時代京都で過ごしているから(同志社大学卒)関西弁がちょっと混じっているんです。純粋な名古屋弁ではないです。でもあれが木全さんなんです。

―それを東出さんがちゃんと再現しているという。

びっくりしましたね。これもいろんなところで言っているけど、2日目くらいに木全さんになったなと思ったことがあったんですよ。木全さんに「そっくりでしょ?」って言ったら(ふり真似して)「いやいや、俺はあんなに手なんか動かしとらん」(笑)。

―やりながら(笑)。

まわりが全員「やっとるやろ」ってツッコんだ(笑)。前に「方言テープ吹き込んでよ」って言ったら「俺は名古屋弁喋っとらんて」ってめちゃめちゃ名古屋弁で。

―楽しそうで、こそっと撮影中を覗きたかったです。

面白かったですよ。新さんの若松さんなんだけど、なんか若松組みたいな雰囲気もあったし――本番中に新さんが「井上!」って言って僕が「はい!」と返事したんです(笑)。
みんな本番中なのに笑ってて、僕は「なにを笑うんだろう?」「井上さんが返事したんですよ」って。

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―そして、井浦さん本人が出てきますよね。

はい、それはやろうと思っていました。いろんなインタビューで初めて聞かれました。これ。

―え、だって聞きたいですよ。

だから、びっくり、です。なんで誰も聞かないんだろうって思ってた。
これは不思議なわけですよ。木全さんがいて東出さんがいて、僕がいて雷麟くんがいて、新さんは若松さんを演じている。これは、どっかでこの映画の「入れ子構造」をやりたいなと思って、新さんも面白がってくれて。ただやっぱりしんどいって言ってましたよ。あの日のことを思い出さなきゃいけないから。

―あれは順撮りで最後に撮ったんですか?

いや、違います。撮影は12日間しかありませんが、ケツから3日目。いや4日目。
砂丘で話すのは最終日でした。その砂丘からが大問題だったんですよ。
編集してテンカラットって新さんの事務所で、みんないる中でラッシュを見たら、ほぼほぼ全員が砂丘以降「切れ!」って言ったんですよ。細谷さんなんて「宣伝お願いします」って観たときに「切ったらやる」みたいなこと言ったんですよ。(細谷さん「切ると思います」だったと訂正)
そこまでは誰も何も言わずに、あそこを切る切らないだけが繰り返しずっとみんなで議論され続けた映画だった。
公式ブックに入ってるシナリオには書いてあるんですけど、追悼上映会で木全さんの横に若松さんが立って以降、まだあったんですよ。あそこでカットの声がかかって、そうすると撮影クルーがいるのが分かる。で、クランクアップになって、僕が若松さんと抱き合うという。撮影ではちょっとグッときちゃったんですけど、その後、シネマスコーレの表になって、みんなで記念撮影になる。と、そこにかつての淳一みたいな少女が来て「弟子にしてください」と。そうやって続いていくというシーンがあったんです。その子も良かったんですけど、さすがにそれは切りました。
でも、みんな、それだけじゃ満足しない。砂丘以降切れの声はかなり大きかったです。

―今もですか?

今も言う人は――プロほど言いますね。「やっぱり要らない」って。
ただあそこで終わるとね、もしかしたら「よくできた青春映画」と言われるかもしれない、もしくは「かなりよくできた青春映画」と言われたとしても、小品だと思う。何かそこにフックを残したいなと思ったんです。
恥ずかしいですけど、僕は猫をたくさん飼ってきて、母が死んだときに、猫たちがいっぱい死んで”喪失慣れ”してたんですよ。あれだけ可愛がったものも死んだら会えなくなる、これも恥ずかしいけど「僕が死んだら会えるね」って思ったりするじゃないですか。そこのところで、死んだ誰かがいつも見守っていると思うというか…。
この映画を若松さんだったらどう思うか、とずっと思うわけで、そういうことはちょっとやってもいいかな、と思ったの。これは実名の作品でしかできないだろうと。
だから、白石が〈映画芸術〉に書いちゃったけど、1作目のラストは亡くなった若松さんが先に亡くなっためぐみに会う。二人が歩いて行くラストだったんですけど、白石がホンの段階で「絶対やめよう!」って(笑)。で、今回は残しました。
マーベルとかがそういうことを平気でやっているから、意外とみんなが反発するものではないと思う。たくさんの人が観てくれるとあそこで泣いたと言う人もいるし。でもそれまでは反対派ばっかり。9:1で反対だったら、僕もさすがに切るけど体感では6:4。だから残すと言ったけど、ほんとは8:2だった(笑)。でも、今は3:7くらいな感じですよ。

―今日はありがとうございました。

ピンク映画について
最初に若松さんが「ピンク映画は終わりだ」って言ってるシーンから言うと。
若松さんの感覚の中では、「自分がやっていた社会的なことはできなくなったんだ」ってことだと思うんですよ。もっと言うなら、それを足立さんみたいにうまく取り入れてくれる人もいなくなっちゃったしね。それで若松さんの中では終わってたんですけど、それとは別に、廣木(隆一)さんや滝田(洋二郎)さんのような才能がぐわーって出て来た。そこしか開かれてなかったから。
AV(アダルトビデオ)でヒットした代々木忠は、ビデオ撮りのを、キネコ(フィルムに変換)にしてやってたんです。それはドラマじゃない。AVをスクリーンでやっているだけ。
にっかつも同じような道をたどって消滅するんです。ピンクはよくわかんないけどまたゆり戻す。名画座もレンタルビデオで苦しかったけれど、一番打撃を受けたのはピンクとロマンポルノと思いますよ。AVでリアルにやってるから余分なドラマ観なくて済む、みたいな。家に帰ってそこだけ早送りすればいいみたいな。そこを映画がまねしちゃったんですよ。


(取材:白石映子)