『黒川の女たち』松原文枝監督インタビュー

2025年7月12日(土)からユーロスペース、新宿ピカデリー、池袋シネマ・ロサ、キノシネマ 立川髙島屋S.C.館、MOVIX昭島、CINEMA Chupki TABATAで公開 その他劇場公開情報 

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80年以上前の戦時下、国策の満蒙開拓により満州に渡った岐阜県白川の黒川開拓団員は650人余。5年満州で生活した。日本の敗戦が色濃くなる中、1945年8月9日ソ連軍が突然満洲に侵攻。守ってくれるはずの関東軍はすでに去り、満蒙開拓団は過酷な状況に。集団自決した開拓団や、避難する途中で亡くなった人も。
敗戦後はソ連兵や、抑圧してきた中国人から襲撃を受け、黒川開拓団は日本に帰るため敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは女性たちによる接待だった。差し出された女性は15人。数えで18歳以上の未婚女性が犠牲になり性の相手をさせられた。そして4人の乙女たちが亡くなった。
性接待の犠牲を払ったが、敗戦から1年、黒川開拓団の人々は451人が帰国できた。しかし、帰国した女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目、そして誹謗中傷。同情から口を塞ぐ人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。二重の苦しみに追い込まれ、故郷を離れ他の土地で酪農を始めたり、東京に行った人も。それぞれ思いを抱えていたが、その思いを口にすることなく、時に、犠牲にあった女性たちのみで集まり、涙をこぼした。
だが、黒川の女性たちは、犠牲の史実を封印させないため「なかったことにはできない」と手を携えた。2013年に満蒙開拓平和記念館で行われた「語り部の会」で、佐藤ハルエさんと安江善子さんが、満州で性暴力にあったことを公の場で語った。彼女たちの勇気ある告白に、今度は、世代を超えて女性たちが連帯した。
その後、1982年、黒川の鎮守の森に「乙女の碑」が建てられたが、お地蔵さんが鎮座するだけで説明はなかった。戦後70余年、2018年に、彼女たちの犠牲を史実として残す碑文が「乙女の碑」の脇に建てられ、その歴史が刻まれた。過去に向き合うこと、それは尊厳の回復にもつながった。

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(c)テレビ朝日(場面写真クレジット)
『黒川の女たち』公式サイト 
監督:松原文枝
語り:大竹しのぶ
製作:テレビ朝日
配給:太秦
2025/日本/99分/ドキュメンタリー

松原文枝監督プロフィール 公式HPより
1991年テレビ朝日入社。政治部・経済部記者。「ニュースステーション」、「報道ステーション」ディレクター。政治、選挙、憲法、エネルギー政策などを中心に報道。
2012年にチーフプロデューサー。経済部長を経て現在イベント戦略担当部長。2019年からイベント事業局戦略担当部長。
「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞。「黒川の女たち」のベースとなった「史実刻む」(2019)がUS国際フィルム・ビデオ祭で銀賞。
ドキュメンタリー番組「ハマのドン」(2021、22)でテレメンタリー年度最優秀賞、放送人グランプリ優秀賞、World Media Festival銀賞など。
映画『ハマのドン』がキネマ旬報文化映画ベスト・テン第3位。
著書に「ハマのドン」(集英社新書)。

松原文枝監督インタビュー 
2025年6月6日

*満蒙開拓平和記念館での「語り部」の会
編集部 これまで従軍慰安婦のドキュメンタリーの作品紹介やインタビューはしてきましたが、日本人女性の戦時性被害を扱ったドキュメンタリーについて取材するのは初めてです。
黒川の女性たちのことを知り、取材を始めたのはいつ頃ですか? また2013年の満蒙開拓平和記念館の佐藤ハルエさんと安江善子さんの「語り部」の取材には行っているのですか?

松原文枝監督 2013年の満蒙開拓平和記念館の取材には行ってないです。取材を始めたのは2018年の11月に碑文ができた時からです。それができる前の2018年8月に朝日新聞の全国版に佐藤ハルエさんのことが載っていました。岐阜市民会館で行われた戦争の証言集会というのがあり、自分の満州での体験を語られていて、それが記事になっていたんです。こんな戦時性暴力の体験をたくさんの人の前で語る人がいるんだと驚きました。その時佐藤さんは93歳でした。年を経たので語れるという人もいますけど、最後まで話さず、墓までもっていこうという人が多いわけで、たくさんの人の中で自分の体験を話すということは、ものすごく勇気もいるし、覚悟もいる。そこに写っていた写真の表情がとても印象的で、口を真一文字に結んで、ものすごく信念がある表情だったんです。それに引き込まれて「この女性、なんでここまで話せるんだろう」と思ったのが、この黒川開拓団の取材に入るきっかけでした。
公の場で話す機会はこの後ありますか?と聞いたら、「ありません」と言われて、その後、2018年11月に「乙女の碑の碑文の除幕式があり、佐藤ハルエさんも来ます」と黒川村の遺族会の方から連絡があり、その除幕式を撮ったのが映像を撮り始めた最初です。

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佐藤ハルエさん

編集部 満蒙開拓平和記念館での二人の語りの映像は、TV朝日の報道の映像ですか?

監督 2013年7月と11月の映像は、満蒙開拓平和記念館が撮っていた記録映像です。あの映像を残しておいてくれたことが次に繋がっていったので、満蒙開拓平和記念館の存在というのが、ものすごく大きかったなと思います。彼女たちが安心して話せる場所であり、それを記録した場所でもありました。

編集部 私は、2015年に山田火砂子監督の『望郷の鐘』という作品を観て、満蒙開拓平和記念館ができたことを知り、2016年の1月に長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行きました。ここは2013年4月にできていますが、彼女たちは7月と11月の「語り部の会」で証言をしているんですね。彼女たちにとって、ここができたから語れたという部分があるのかなと思いました。
(『望郷の鐘』の山本慈昭さん。長野県阿智村、長岳寺の元住職で、国民学校の先生として満蒙開拓民を募集して連れていかなくてはいけない状況で、終戦の半年前に満州に渡る。シベリアに抑留され1947(昭和22)年に引き揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれている。「満蒙開拓平和記念館」は、この長岳寺のそばに建てられています)

監督 おっしゃる通り。

編集部 ここでの話が世間に知られるきっかけだったのでしょうか? 長年、伏せられ、表には出せないできたけど、ここで発言するにあたり、黒川村の開拓団の幹部の人たちのかくしておきたい事情とのせめぎ合いとか葛藤もあったかと思います。でも、彼女たちの「なかったことにはできない」という思いから、証言になっていったのでしょう。

監督 満蒙平和記念館ができたのは2013年4月で、佐藤ハルエさんが話しをしたのが7月の語り部の会で、第2回目なんです。安江善子さんが話しをしたのは11月なんですが、やはり、その場があったということが大きかったと思います。遺族会会長の藤井宏之さん(戦後生まれ)が、そこで話しをしてほしいとお願いしたのですが、それは、別に「性接待のことを話してほしい」とは言っていないし、彼はそのことを話すとは思ってなかったんですね。彼女たちに「満州の話をしてほしい」と言ったら、その場で彼女たちは、自分たちのほうから語り始めたそうです。そこの場は、満蒙開拓のことを知りたい、考えたいと思う人たちが来るところだから話せたのだと思います。でも安江善子さんは、その後、皆さんの前では語ってはいないんですよ(2016年死去)。後に、記念館の人たちがインタビューに行った時にはしゃべらなかったそうです。
佐藤ハルエさんは、記念館ができる前から「性接待」の話をしています。わかっている人、気づいた人が来た時には話をしていたんです。新聞などにも書いてほしいと言っているシーンも、この映像の中に出てきます。
以前の黒川村の開拓団の幹部は、証拠を焼いたり、埋めたりして、なかったことにしようとしていたわけです。女性たちが出したいと思っても声をあげられなかったのです。当時の遺族会の幹部によって抑え込まれ消し去られました。会長が戦後世代の藤井さんになったから、声を上げられるようになったと思います。

*「乙女の碑」のエピソード
編集部 会長の妻の藤井湯美子さんがが出てきてきて、「夫ながらあっぱれ」と言っていましたが、私は彼女がいたことで、ここまでできたんじゃないかと思いました。

監督 この女性は「長いものには巻かれたくない、おかしなことにはおかしい」という元気がいい女性なんです。この女性の存在も大きかったです。

編集部 彼女たちがいくら声をあげたとしても、遺族会があるわけだから、会長が先頭に立っていかなければ碑文の制作にしても形にはなっていかなかったと思います。「恥になること」と言っていた開拓団帰りの男性の声もあったわけですから、彼女たちの声を消さないで拾い上げて形にしたということに拍手喝采。

監督 そういう風に観ていただいて嬉しいです。ほんとにそうですよ。共同体のリーダーって大事ですよ。彼がいたことによって碑文として残せたと思います。

編集部 「乙女の碑」そのものは1982年に作られたわけですが、碑文は2018年に建てられていますね。でも、その碑だって、戦後37年もたってから建てられているんですね。

監督 黒川開拓団は600名余りの人たちが行っていますが、200名ぐらいの方たちが現地で亡くなり、性接待を強要された女性たちの中からも4名の方が現地で亡くなっています。お参りする場を作りたいということで、安江善子さんが中心になって、彼女たちを弔うために寄付金を集めて「乙女の碑」が作られました。
1981年に遺族会の方たちが、開拓団がいた陶頼昭(とうらいしょう)に慰霊の旅をしています。訪中の後、1982年にその記念碑が作られ、そこには満蒙開拓の説明や碑文もあるのですが、同じ頃建てられた「乙女の碑」の方は何の説明もなくお地蔵さんだけだったのです。身内の人がわかっているだけという状況でした。


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*性接待の状況
編集部 映画の中にも、‎訪中慰霊団のシーンは出てきますね。松原さんが2018年から取材を始めて、TVで放映されたのはどんな番組だったのでしょう。

監督 2019年の8月に報道ステーションで特集にしたのと、テレメンタリーという30分のドキュメンタリー番組になりました。その後に、テレメンタリーで1時間の拡大版というのが11月に放送されました。

編集部 反響がすごくあったということですね。

監督 結構ありました。

編集部 戦後すぐ、ソ連兵による日本女性への「性被害」という話は、これまでもいろいろ出てきていますが、ソ連兵に守ってもらう(中国人の襲撃から)という発想を開拓団の幹部がするというのは可能だったのかなというのは、この作品で知ってびっくりしました。

監督 このような「性接待」のことは、平井和子さんという戦時性暴力を研究者の本(「占領下の女性たち」)などを読むと、女性を物のように提供して性接待をするというのは44件くらいあったようです。平井さんは、国会図書館とかで記録集を読んで調べたものがそのくらいなので、たぶん証言とかないものも含めたら、もっとあったんじゃないかなと想像されます。これはそういう時に女性を差し出すという例ですが、そうでなく一方的な性暴力はもっとたくさんありました。

編集部 何年もかかって日本に戻ってきた人たちがいた一方、この黒川開拓団は敗戦の1年後には日本に帰ってきましたが、帰還事業の初期の頃に帰れたんですね。これまで、満蒙開拓団の話や避難を描いた映画をいくつも観ていますが、ソ連国境に近いところにいた人、中央部にいた人、港に近いところに住んでいた人によって状況は違いましたよね。日本は、もとはと言えば加害者だったのに、侵略者だった日本人を、終戦後、復讐のため襲撃した中国人もいた一方、子供や女性を受け入れて、育ててくれたり保護して家族にしてくれた中国人もいたわけですから、感謝の思いがあります。避難の途中で亡くなった人や、残留孤児、残留婦人になった人もたくさんいるわけですから、その団の人たちがいた場所とか、開拓団に成人男性がどのくらい残っていたかとか、また、団の運命は団長の決断によって分かれてしまい、自決したり、その後の状況は違ったものになりましたね。

監督 ほんとにそうですよ。その時にどう判断するかで変わってきましたね。女性を性の対象に差し出すって、犯罪的行為だと思うんですよね。それが、団を守るためという論理に差し替えられている。女性をそういう対象にしか見ていなかったことの現れですよね。

編集部 満蒙開拓団で渡った人というのは次男、三男とか、口減らしのために渡った人も多かったし、日本にいたところで、その時代だったら売られた女性もいっぱいいたわけだから、そういうことに対する意識は今とは全然違うので、今の時代の見方でみるわけにはいかないですね。
性接待の状況を説明するのに、床に布団が並べられて犯されている状況に驚いたという場面がありますが、従軍慰安婦の場合もカーテンとかで仕切られた場所でそのように相手をさせられていたという証言もあるので、そういう形は当たり前のように思われていたところがあったんじゃないかと思います。

監督 そうですね。このことを誰が決めたのかということははっきりわからないんですよ。ソ連軍がもちかけたという話もありますが、黒川開拓団がいた陶頼昭というのは交通の要所にあり、関東軍の事務所にいた人がいたり、ロシア語ができる人もいたりで、そういう人たちが開拓団の幹部にもちかけたという話もあります。

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*満州からの引き揚げ

編集部 日本から、満蒙開拓で行ったのが27万人と言われていて、8万人くらいが亡くなったということですが、あの状況から考えたら意外に帰ってこられた人の数は多かったという印象があります。長い距離を歩いて、日本に帰り着くための港・葫芦島(コロ島)までたどり着くのに時間がかかった団があった一方、黒川開拓団は、早くたどりついたと思いました。やはり、彼女たちの犠牲があってのこともあるのかなと思ったりしました。

監督 いや、彼らはもっと早く帰ればよかったと言っています。関東軍は日本からの撤退の情報を開拓民に伝えず、自分たち、あるいはその家族だけを連れて、さっさと日本に帰ってしまったわけです。彼らのように情報があれば、早く帰れたわけですよ。

編集部 それを伝えもせず、関東軍は、自分たちだけが帰ってしまったという、ひどい話ですよね。

監督 ひどい話ですよ。ソ連の中枢のほうも、兵士の風紀が悪くて、性暴力の話が国際的にも問題になってきたので、取り締まりもやっていたのですが、中国から引き上げるという話になっていたようです。いずれにせよ、早く帰さなかったことが被害を大きくしたと思います。

編集部 日本は敗戦で余裕もなかったのかもしれないけど、中国に送ってしまった人たちを日本に戻すという動きは、敗戦後すぐにはできなかったということですね。(舞鶴の「引揚記念館」などに引揚の状況などの記録が残っている)

監督 今と違って情報が伝わらずで、どうしたらいいかがわからないという状況があったわけですが、「現地にとどまれ」という話もあったのですが、その話すら伝わっていなかったのです。終戦の翌年1946年(昭和21年)の5月に引き揚げ事業が始まるのですが、陶頼昭の駅で、この引き揚げの情報を聞きつけ、すぐに葫芦島に向かったようです。だから、黒川開拓団は帰ってこられましたけど、集団自決しなくてよかったなとは思いますが、女性を差し出したから400人余りの人が助かったとは、必ずしも言えないかもしれません。

編集部 今の時代の発想で考えてはいけないと思うけど、そういう意味では、無駄な犠牲になってしまい、彼女たちの人権は踏みにじられてしまったといえますね。

監督 中国人たちを支配していたから、敗戦後、襲撃にあって根こそぎ物品が取られてしまっても、命に危害は与えられなかったようです。

編集部 いずれにせよ、27万人が満蒙開拓団として渡ってしまったわけだから、日本に帰るのは大変だったわけですよね。
そういえば、佼成学園女子校の高野先生が、この黒川村の女性たちの性接待の状況を授業の中で伝えているのはすごいなと思いました。こういう活動は必要ですよね。

監督 ハルエさんのところに学校の先生たちも集団で足を運んでいたのですが、先生ばかりでなく大学生や高校生、一般の会社員なども話を聞きに来て、ハルエさんはその都度丁寧に話をしているんです。そういうことで、人の心が動かされ、伝えるという行動につながっているんですね。あの映像はたまたま学校がOKしてくれたのですが、そうじゃない学校でもそうやって教えているんです。
ハルエさんや他の女性もそうですが、顔を出して自分の言葉で語ったというのは大きくて、その勇気と覚悟に対して、心打たれて、学校の授業にまで伝わっていったというのは、女性たちが突き動かしたなと思うんですよね。


*彼女たちの絆とカミングアウト

編集部 名前と顔を出して語っていたのは、最初は佐藤ハルエさんと安江善子さんだけでした。水野たづさんや安江玲子さんは、最初は名前を出さないでいたけど、後になって顔も名前も出すようになりましたが、それは安江善子さん、佐藤ハルエさんが亡くなって、後は自分たちが伝えていかないとと覚悟を決めたのかなと思ったんですけど、どうですか。

監督 この二人の場合は、覚悟を決めたというより、周りが理解してくれたということが大きかったと思います。彼女たちのことを認めて、尊敬というか大事にしたということが、心をとかしたんじゃないかと思います。

編集部 そうですね。自分の体験を言った時に、家族からどう思われるかというのがあると思うから。それに対して、家族から理解ある反応があったからというのが一番大きいのでしょうね。孫からの手紙を、ずっと持っていた話が出たときには思わず涙が出ました。
また、仲間たちとの団結力というか、励まし合いというのが大きな力になっていたと思います。一人じゃできないけど、5,6人の人たちが支え合い、時々は集まっていたのが大きな原動力だったのだろうと思います。

監督 そう思います。彼女たちの連帯というのがものすごく大きくて、彼女たちがお互いに支え合い、かつ「なかったことにされている」ことに対して憤りを持っていましたから、碑文を残すにあたって、彼女たちの力が大きかったですよね。連帯でもあるし、お互い支え合い、それぞれの気持ちを大事にして、ずっと一緒に生きてきた時間が長かった。

編集部 ハルエさんが安江菊美さんに対して、「あなたのおかげ」と言っていましたが、安江菊美さんはそれは逆だと言っていましたね。でも、やっぱり菊美さんの存在は大きいですよね。性被害体験者本人は言いずらいけど、周りにいた人だったら言えるということはあると思います。

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安江菊美さんと佐藤ハルエさん


監督 菊美さんは、被害者たちより若い世代ですし、非常に記憶力が鮮明で当時のことをよく覚えていますし、論理的な人なので、何があったかということを道先案内人のように解説をしてくれるので、すごくよくわかりました。彼女の存在はとても大きかったです。

編集部 当時11歳くらいだったのですよね。でも、それで、あれだけ覚えているというのはすごいなと思いました。私は、その年齢の時のこと、それだけ覚えていないです。

監督 私もその年の頃は全然ぽやっとした記憶しかないのですが、菊美さんはよく覚えていたんですね。やっぱり衝撃的だったからだと思います。記憶力がいいのもありますが、語り部をしているので、資料を整理してもっているということと、写真も持っているというのが大きいと思います。また、繰り返し当時のことを言っているのもあるかと思います。

編集部 菊美さんの存在もあったので、彼女たちの体験を裏付けられたと思います。そういえば、ものすごい量の手紙が出てきましたが、あれはどういうことだったのでしょう。

監督 あれは、佐藤ハルエさんのところに、いろいろな人から来た手紙の山だったのですが、あれはほんとに一部で、もっと膨大にあったと思います(笑)。

編集部 そういうのにも、絆というか助け合いというのを感じます。そういう繋がりがあったから、語ることができたのかもしれないですね。まとめる方がいて、集まれる場所があったり、励まし合ったりすることがあって、公表することにつながったのかなと思いました。

監督 ありがとうございます。女性たちが支え合ってきたことが大きかったと思います。でもやっぱり思うに、佐藤ハルエさんが外に出したかったという思いが大きかったと思います。その信念をみんなが支えていたんだと思います。お互いに理解し合える人たちがいることが、彼女の心の安寧にもなっていたと思うんですね。

編集部 一人だったらできなかったかも。

監督 仲間がいてくれるからこそ、彼女は行動できたと思います。一方で、絶対残さなくてはいけないという強い信念を持っていたのが大きいと思います。安江善子さんは公の場で話したのは、2013年の満蒙開拓平和記念館の時だけでしたけど、その後3年後の2016年には亡くなっているので、そのあとは話す機会もなかったのかもしれないですね。

編集部 ハルエさんはこれだけ苦労して99歳まで生きたそうですが、すごいですよね。

監督 ほんとですよ。良かったなと思います。大往生で、去年亡くなるまでよく生きたと思います。99歳の人生を生き抜いて、いろいろなことを後世に残しました。

編集部 ハルエさん一人だけのことでなく、黒川開拓団だけでなく、満蒙開拓団の方たちの代弁者だったと思います。本人はどうかわからないけど、いつのまにかそういう立場になってしまったので覚悟を決めたのかもしれませんが。

監督 いや、この方は固い意志があったと思います。

編集部 そういえば、佐藤ハルエさんが満州の農業学校(女塾)で学んだ時に、先生から「女性は戦争に負けたら、こういうこと(性接待)もあるかもしれないから覚悟をしておくように」と言われたということを話していましたね。しかし、日本に戻った時には「労らわれる(ねぎらわれる)」ことなく誹謗中傷に合い、結局、他の村に行かれたわけですね。
お孫さんからの励ましの手紙を持っていた方は、玲子さんですね。この手紙をずっと持っているというエピソードに心打たれました。それまでは顔を出さずに証言していたわけですが、この手紙をもらってから、名前も顔も出すようになったのですね。

監督 玲子さんは2017年くらいから語り始めていたのですが、顔も名前も出さずにいたわけです。

編集部 水野さんはもっと後ですか。 

監督 水野さんは、2017年、2018年ごろには匿名で話はしていましたが、その後は家族の手前、取材に応じていませんでした。このため、TV放映した頃は、写真にはぼかしを入れていました。今回、映画にするにあたって、インタビューも難しいかと思いましたが、碑文も出来て社会に知られたことで、息子さんの理解も進み、顔と名前を出して応じて頂きました。また犠牲になった女性たちが皆で映ってる写真では、TVの時は3人だけしか出せなかったのですが、映画になるときには、本人や遺族に確認をして、ご了解を得て、顔を出すことが可能になったんです。やっぱり顔が出せるとリアリティがありますからね。

編集部 彼女たちの救いは、家族が理解をしてくれたということでしょうね。だからこそ、発言して残していかなくてはと思ったのかなと思いました。TV放映は、どれか1回は見ていると思うのですが、映画化しようと思ったきっかけというのはあるのですか?

監督 それは玲子さんという人が笑顔になって、変わったんですよね。私自身、見て驚きました。人間は尊厳を回復することができるんだというのを目の当たりにしたんです。もう一つ決定的だったのはハルエさんが目の前で亡くなったというのが大きくて、この女性の死に立ち会ったことで、何か残さなくてはという焦燥感にかられたんです。彼女がやってきたことに対して頭が下がる思いがあり、何か記録に残さねばと思ったのです。到着して10分後に亡くなったんですが、おふたり(安江菊美さんと藤井宏之会長)を待っていたという感じがして、安心して逝かれたんだなと思いました。

編集部 あの菊美さんの語りかけのシーン、いいですよね。

監督 ハルエさんと菊美さんはいつも話しをしていて、絆が強い二人でした。いつも満州の話をしているんですよ。

編集部 悩みごとでもなんでも話すと少し楽になるということだったのかもしれませんね。だから満州時代の同じ経験をした仲間と集まって話すことが安らぎだったのかもしれませんね。

監督 他のところで話せないので、本音とか悲しみとか率直に出せる相手だったんだと思います。

編集部 その期間(性接待)が2カ月くらいだったとはいえ、病気になったり性病を持って帰ってきたりで、身体の状態が悪いまま帰ってきた方もいたと思います。

監督 完治しないまま、日本に帰ってきて、治療をしていた方もいました。

編集部 帰国後の誹謗中傷を生んだのは、「開拓団幹部の人の発言から」というのが出てきました。藤井会長が、もしかしたら自分の父さんかもしれないと語っていましたが、その時代の、そういうことに対する認識が今と違うからだったのでしょうね。それに伏せておこうとしても噂は広がってしまったのですかね。

監督 開拓団の中で内緒にはしていたけど、村の中で多くの人が開拓団として行っていたから噂にはなりますよね。いわれなき誹謗中傷や、そういう目で見られているということがあって、彼女たちはいたたまれない気持ちにはなりました。

編集部 時間が来てしまいました。この話を興味ある方に広げたいと思います。ありがとうございました。

監督 ありがとうございます。満州から帰ってきて、戦後日本で開拓した人たちというのはたくさんいると思います。ぜひぜひ広めてください。
取材 宮崎 暁美

『星より静かに』 君塚匠(きみづかたくみ)監督インタビュー

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*プロフィール*
1964年生まれ。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。 1988 株式会社フジテレビジョンの取材ディレクターを経て株式会社テレビマンユニオン に移籍。ドキュメンタリーを中心に数々のディレクターをして実績を残した。1988年、劇場映画『喪の仕事』の脚本・監督をするために株式会社テレビマンユニオンを退 社。フリーランスの道を選び、背水の陣で映画の実現に臨んだ。
1991年に監督・脚本 した『喪の仕事』が完成し公開。その後、『ルビーフルーツ』『激しい季節』『おしまいの日』の監督を依頼されて、2000年、黒木瞳、萩本欽一出演の『月』まで5本の劇場映画の監督と脚本を手掛けてきた。一方、TVディレクターとしても、ドキュメンタリーや情報番組、テレビドラマの監督経験多数監督。TV-CM、企業VPの監督もこなし受賞歴多数。今作『星より静かに』は最新作であり企画、プロデュース、脚本、監督、出演を果たす。
同映画は第49回湯布院映画祭にて映画祭最後を飾るクロージング上映に選出された。

*ストーリー*
55歳のときにADHD(注意欠如多動性障害)と診断された君塚匠監督は、それまでの生きづらさがADHDの特性によるものだと知った。この症状がもっと知られていってほしいという思いから映画制作を決意。
映画は君塚監督の実体験を元にしたドラマ部分と、ADHDについて君塚監督自身が様々な人と出会いながら探っていくドキュメンタリー部分とがあり、この二つが分かれるのではなく、互いにミックスしながら進む構成。
ドラマ部分ではADHDの夫・はじめ(内浦純一)と彼を支える妻・朱美(蜂丸明日香)、息子・純(三嶋健太)を見守る母(渡辺真起子)、二組の暮らしを丁寧に描いている。
公式サイト https://hoshiyori-shizukani.com/
作品紹介  http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/516463115.html
(C)ステューディオスリー
★2025年6 月21日(土)より K’s cinemaほか全国順次公開

―ADHDの人が今300万人から400万人もいるそうですが、知られてきたのは、最近ですよね。
私は検査したことはありませんが、「道順を憶えるのが苦手」とか「失くしもの、忘れものが多い」とか共通点がありました。監督は55歳になってからわかったそうですが、何かきっかけがありましたか?


僕はそれが顕著に出るんです。
最初は若い時にパニック障害で通院していて、それからいろいろな精神疾患の症状が出ました。検査をしてADHDの薬を処方されたら、てきめんに良くなるんですよ。それでこれまで生きにくかったのは、ADHDだったからだなとわかったんです。

―以前はちょっと変わった人、神経質な子ども、などと言われていました。ほかと違うことで困ったり、生きづらかったりした監督の体験からADHDはこういうものですとお知らせしたいと、この映画を作ることになったんですね。

はい、そうです。

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君塚監督、施設長

―映画はインタビューなどドキュメンタリーの部分と俳優さんが演技をするドラマの部分が両方あって、それがまじりあっています。夫婦と親子、二家族分のドラマがありましたが、ドラマの俳優さんがドキュメンタリー部分に出たり入ったりして面白いと思いました。ああいう組み立ては脚本の段階からだったんですか?

ええ、最初からです。構想は1年くらい前からあって、作ろうと動き始めて6か月くらい、脚本は20回、30回と書き直して、3ヶ月くらいで書き上げました。

―キャストは脚本が書き上がってから決まったんですか?

キャスティングは、二転三転しました。最初に考えていた人たちとはがらりと変わりました。

―観ているうちにこの人は当事者なのか、俳優さんなのかわからなくなっていました。支援施設で「支援員誰々」と名前が画面に出る方は本物の方ですね。

はい。障害者の方も、支援員の方もいます。経歴もほんとです。よく全部出させてくれたと思います。普通モザイクかけたりするので。交渉がうまくいったということです。

―みなさん、顔出してお話してくださっていましたね。施設長さんから職員の方、主治医の先生・・・。

家族2組の4人(内浦純一、蜂丸明日香、三嶋健太、渡辺真起子)は俳優で、後は実際の現場の方々です。
ふつうドキュメンタリードラマというと、ドキュメンタリーとドラマ部分がはっきり分かれています。僕はそういう考えは全くなくて、ミックスさせる、混在させたかった。脚本でわからないという人もけっこういたんです。作りながら、脚本にはなかったシーンを足したり、だいぶ変えました。
たとえば最後のほうのたこ焼き食べながら、突然タケノコの話をするのは現場で足したものです。

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はじめ(内浦純一)と朱美(蜂丸明日香)

―はじめさん役の俳優(内浦純一)さんもうまくて、この方は俳優さんなのか当事者なのか?と考えました。それくらい自然でした。

プロの俳優とそうじゃない素人との差がありすぎるのは、よくないと思ったんです。そこはすごく注意深くやりました。
今おっしゃったように、どっちが役者かわからなかったというのは、それがうまくいったんだと思います。

―私の感想は、監督のねらいどおりだったんですね。20代の独身の純、40代のはじめさん、年代の違うADHDの方の両方に監督の経験が入っているわけですね。

そうですね。最初ははじめ夫婦の2人がいて、純が出る予定はなかったんです。設定もわざわざ作ったところがあるんです。純がリンゴしか食べないとか、リンゴの会社に勤めているとか。ちょっと変わったユーモラスな部分を作りました。ドキュメンタリーとドラマとのバランスが良くなるかなと考えました。

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純(三嶋健太)と母(渡辺真起子)

―帰宅した純のシャツの背中に何か書かれていました。何と書いてあったんでしょう?

あれは最初純がぶん殴られる設定だったんですが、時間がなかったので変えました。何を書いていたかと言うと、デタラメな落書きです。
*宣伝さん「監督が自分で書かれたんですよね」監督「あ、そうです」

ー監督も同じ目にあったことが?

中学生のとき、いじめの対象になったことはあります。子どもって残酷ですから。暴力が当たり前のようにあった時代で、今なら大問題になりますが、生徒同士、先生が生徒に暴力を振るうのは珍しくなかったですから。シャツに書かれたことはないです。

―学校が荒れた時代がありましたね。
街頭のインタビューでは4、5人の方が登場していました。実際は何十人にもあたられたんでしょうか?


街頭ではけっこう長時間やったんですけど、ADHDはデリケートな話なので、自分が出て間違った話をして差別になっては、と出るのを断られる方もいました。5時間粘って、顔出しを了承してもらえた方はあれだけになりました。

―きっと長い時間かかったんだろうと思っていました。カップルの方は面白かったですね(2人ともADHD。お互い認め合って仲良し)最後の方はとてもまじめに答えてくださっていました。

はい。はっきりお話して顔出しもOKしてくれて、映画としてもよかったかなと。

―撮影は全部でどのくらいかかったんでしょう?
ドラマとドキュメンタリーが混在しているので、撮影や編集はたいへんではなかったですか?


撮影はドキュメンタリー部分も含めて1週間でした。お金がないので、僕が撮影したところもあります。
編集はテレビの編集マンをお願いしました。映画は初めてですが、ドキュメンタリーを何度か一緒にやった人です。ドキュメンタリー部分にはナレーション入れたらどうか?と言われたんです。そうするとわかりやすくはなったかもしれないけど、考えてみて結局それはつけませんでした。

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お姉さま、君塚監督、森重プロデューサー

―長引くとその分お金かかりますしね。(映画の中で)家を訪ねて来ていた森重さんがプロデューサーですね。

森重さんが資金集めをしてくれて、僕も制作に入っています。森重さんの条件は、スタッフは自分で集めろ、ADHDの当事者である監督の君塚匠が出演しろというものです。
とにかくものすごく低予算だったので、メイクも衣装もいなくて全部自前でした。衣装を替えるのもハイエースの中でやって。
渡辺真起子さんは根性のある方で、どんなに低予算でも自分が納得した脚本だったら出ると。メイクだけはあとから入れました。
いろいろボランティアでやっていただきました。カメラだけは2カメで撮ったんです。僕の出ているところも2カメで。じゃないと終わらないと思った。
テレビの再現ドラマを撮るカメラマンさんに頼みました。再現ドラマを狙ったわけじゃなくて、撮影が圧倒的に速いんです。この予算でこの映画って、相当異常ですね。

―俳優さんたちは出来上がったのをご覧になってなんとおっしゃっていましたか?

湯布院映画祭にも一緒に行ったんです。できあがって喜んでもらえました。

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君塚監督、渡辺真起子さん、蜂丸明日香さん
―「クレージー」と書かれたメールが間違って監督のところに届いた件、本人に届くとは思わず仲間うちの軽口のつもりだったかもしれないですが。

信頼していた人なのでびっくりしました。2、3人相手のメールだったんですが、そんな風に思われていたのかと人間不信になりました。その件を知った会社の幹部が深く謝罪してくれて、僕の怒りも静まりました。その後も配慮してくれて。

―言葉通り受け取るので、傷つきますね。ASDやADHDの人は、自分が思ったのと違うことを言えないしできないですよね。ほかの人も同じだと思って、裏を考えたりしません。

「忌憚のない意見を」とか言われると、正直にそのまま言ってしまうし、僕は忖度(そんたく)とかできないです。相手にも自分に直接ダメだったらダメと、はっきり言ってもらいたい。

―映画の中で喧嘩する場面ありましたね。うまく自分の気持ちを伝えられなくて、ついぎりぎりまでため込んでしまったりするのでしょう(自分がそうです)。監督の体験だけでなく、ADHDの特性を少しずつ入れ込んだのですか。

ADHDの特性については、医療監修していただいています。
鍵を何度も確かめるのは、強迫神経症(強迫性障害)のようです。

―はじめさんが何種類かの薬を飲んでいました。薬剤師さんが鍵をかけた引き出しを見せてくれましたがとても厳重なんですね。

アメリカでは承認されていない薬ですが、日本では承認されていて、ああいうふうに厳重に管理されています。診断書や証明書がないと処方されません。

―薬が効くのはありがたいですが、副作用の心配はありませんか?

薬によってはすごく眠くなるものもあるんです。最初はすごくよく効いても、長く使っているうちにだんだん効かなくなるものもあります。今も道順が覚えられないという、ADHD特有の自覚はありますが、体調は悪くないです。

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―登場するお姉様、仲良しなんですね。監督のご両親は?

父は70歳で、母は91歳で亡くなりました。

―ああ、そうでしたか、いろいろご心配しながら育てられただろうなと思ってしまって。施設長さんが、「いいことと悪いこと」を挙げていましたが、いいことを目指していかなきゃいけないですね。

そうですね。四六時中いっしょに見ていられるわけではないので、施設にいる2時間、3時間だけでも有効に使って自分で努力していくってことじゃないですかね。

―服飾専門学校のシーンは、ここだけちょっとカラーが違う感じがしました。若い人たちはこんなにこだわりないよということで?

差別をする人もいるけど、差別をしない人もいるよと、対比にしたんです。僕が世の中を歩いて、探していく旅のようにしました。答えは出していません。
「差別はあるけど、仕方がない。差別するしないのは自由なんだ」と施設長さんに言ってもらえて良かった。
湯布院映画祭ではそれを「冷たい発言ですね」という人もいたんですけど。自分が「ADHDだからしょうがないでしょ」と思っているところもあったので。
この映画で僕は自分を見栄えよくしようとは思っていないです。正直に自分の気持ちを言おう、前向きにさらけだそうと思いました。

―それは成功していると思います。ADHDを知らない人にこの映画が届いて、ほんの少しでも知識を持って理解が進んでくれるといいですね。

ありがとうございます。
            
(取材・監督写真:白石映子)

君塚匠監督の著作
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*書名:「もう一度、表舞台に立つために ―ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡―」
*出版社:中央法規出版
*仕様:A5判/タテ組/並製/1色刷 約200頁
ISBN/JAN:9784824302830
*定価:2,000円(税別)
*書籍概要:55歳でADHD(注意欠如・多動症)と診断された映画監督・君塚匠は、人間関係がうまく築けず、人と同じようにできない自分に苦しんできた。本書は、自身も出演したドキュメンタリー×ドラマ映画『星より静かに』では描かれなかった君塚監督の幼少期からの生きづらさや周囲との軋轢、映画監督、テレビディレクターとしてのキャリア、自分を理解してくれる人々との交流などを、ときにユーモアを交えて著す。
*発行予定:2025年6月27日


『OKAは手ぶらでやってくる』 牧田敬祐(けいゆう)監督インタビュー

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*プロフィール*1958年生まれ。主に近畿地方の民俗行事や芸能の記録映像を監督。注力する「NPO法人映像記録」では市民活動やNGOを映像で支援している。本作はこの活動から誕生し、東京ドキュメンタリー映画祭2024でグランプリを受賞した。

*ストーリー* OKAこと栗本英世(くりもとひでよ)は、1985年から東南アジアで「ひとりNGO」として活躍した。人身売買や地雷の危険にさらされた人々を支援し、カンボジア各地に子どものための寺子屋を作り、2022年71歳で亡くなった。牧田監督は約15年にわたり、彼のそばで撮影を続けてきた。(OKAはカンボジアでチャンスの意味)

HP  https://www.haising.jp/movie-1/
(C)2024 NPO法人映像記録/ウェストサイドプロダクツ
作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/515063836.html
★2025年5月10日(土)より新宿K'sシネマにて公開中、ほか全国順次公開

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―このドキュメンタリーを観るまで、OKAさんのことを知りませんでした。誰もしなかったことを、長い間一人で続けていたのに、知らなくってごめんなさいという感じです。

あまり知られていないんです。よくマスコミに登場していたのは、2000年~2006年くらいの間です。テレビ出演などもしていました。それ以降は病気であまり顔を出していないので、見つけにくかったかもしれません。

―ネットで検索して読んだのはそのころの記事でした。監督はどういう経緯でOKAさんに出逢われたんですか?

私は「NPO法人映像記録」というのを2000年くらいからやっています。NGOや市民の方々の活動などを空いた時間を使って応援しようじゃないかというグループなんです。
OKAさんを最初に知ったのは、「キッズ・ゲルニカ」というピカソの名画ゲルニカにちなんだ活動の取材です。日本や世界各地で子どもが同じサイズの平和の絵を描き、最終的にネパールのカトマンズからヒマラヤの風に乗って世界に平和を呼びかけるプロジェクトです。その「キッズゲルニカ」で、カンボジアで子どもたちに指導したのが彼でした。初めはカメラマンだけが行って、私はその後でした。

―そのときのOKAさんの印象はいかがでしたか?

2000年ころに初めて会いましたが、想像していた「善人」とちょっと違ったんですよ。「あやしいオッサン」だったんです。いきなりタイを中心にした人身売買や臓器売買、地上げやマネーロンダリングの話などをするんですよ。まるで当事者のように次々と喋りまくる。地雷の村に寺子屋を建て、子どもたちに識字教育をしているやさしいボランティアのイメージからは程遠かったですね。普通の善人ではないなあというところが魅力でもありました。この人の心の奥には、いったい何があるんだろう?命がけなことも厭わない情熱はどこからくるんだろう?とボランティア活動のことよりそっちに興味がわいて根掘り葉掘り聞き出しました。

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―子供の頃からとてもご苦労された方のようですね。

映像の中で話していますが、極貧の家庭で育って、家族のことでとても辛い思いをしています。それで教会が心のよりどころになりました。中学を出ると牧師を志して上京しますが、幸運なことに留学の機会を得ました。千代田区にある富士見町教会の高名な島村亀鶴牧師に見出されて、台湾の大学に留学しました。ここで中国語を学んで、中国大陸にも行っています。禁止されていた本を持ち込んだりしたそうで、これはなかなか危険なことだったんですよ。

―ドラマチックな人生でご苦労もあるけれど、助けてくれる方がちゃんと現われるんですね。

帰国後は神学校に学びますが、純粋すぎる彼は学校とうまくいきません。やがて牧師になることにも教会にも背を向けてしまいます。

―イエス様はいいけれど、組織がいやになったということでしょうか。

そうですね。マザーテレサをずっと尊敬していました。1985年には一人で東南アジアに飛び出して、ミャンマー、タイ、ラオスの国境地帯をバイクで回ります。貧しさのために売られる子どもがいることに驚きます。そんな子どもたちを救いたいと奔走しますが、親が絶対的権限を持っているので、「親がいる子どもは救えない」というジレンマに苦しむことになりました。皮肉ですよね。何もできない自分を責め続けた挙げ句、一旦活動を停止し、バンコクでビジネスを立上げました。これが大成功しました。しかし、それは目指すところではないとすべて放り出して、裸一貫でラオスに入って活動を再開します。

―それは残しておいて、資金のために使えばよかったのにと思ってしまいますが。余分に持ちたくないんでしょうね。

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1996年からはカンボジアで孤児のために「子どもの家」を、1999年から地雷原の村で村人とともに地雷を掘り出し、「寺子屋」を作るという活動を各地で展開しました。ポルポト政権のときに、お寺や学校が破壊されて、知識人、先生も生徒もたくさん殺されてしまいました。ですから子どもたちの親の世代は教育の機会も場所もなくて、文字の読み書きができません。それで識字教育を始めています。

難民は生産手段がないので、困ると子どもを物乞いに出したり、売ってしまったりします。
町に公立の学校はあっても、タダではなくお金はかかから子どもを行かせられない。そういうところへOKAさんは手ぶらで行って、指笛を吹いたり歌ったりして、集まった子どもたちに寺子屋においでと誘います。

―日本でもカンボジアでも子どもたちに大人気でしたね。

子どもが喜びそうなことを見つけて練習して、なんでもやるんです。
OKAさんテキヤさんをやったことがあるんですよ。寅さんみたいに口上を言ってものを売る。西瓜売りとか。その口上がとても上手なんです。

―啖呵売’(たんかばい)ですね。それは聞いてみたかった。日本から飛び出したけれど、たまに帰られたみたいですが。

活動資金を集めるためにたびたび日本に帰ってきて、アルバイトや講演をしていました。講演会などでカンボジアの状況を話して支援をお願いする。小学校には支援者さんが作ってくださった腹話術の人形を使って子どもたちと会話して喜ばれています。そういのも習うのでなく、自分で面白くなるよう工夫するんです。すごく芸達者な人なんです。

―この寺子屋は風通しがよさそうです。人も出入りしやすいし、誰でも受け入れてくれそう。

カンボジアではお寺がコミュニティセンターです。人が集まります。OKAさんは誰でも出入りできて、勉強もできる「寺子屋」をいくつも作りました。掘っ立て小屋ですが、みんなで作ったので壊れても自分たちで直せます。お金をかけてプロの人につくってもらうと、何かあってもまたお金がかかります。
彼は子どものころ厳しい境遇で育って、教会だけが安全で安らげる場所でした。それと同じように、子どもたちを守れる、子どもたちが安心できる寺子屋=シェルターを作ったんですね。

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―寺子屋はOKAさんが蒔いた種のようなもので、今はそこが学校になって花開いたということですね。こんなに大事なことなのに行政からの公的支援はなかったんですか?

行政の支援はありません。それどころか州警察から逮捕状が出たりしていやがらせされていました。地雷がまだ埋まっている土地があちこちにあって危険なので、OKAさんたちは探知機を使って地雷を見つけては手で掘り出していたんです。逮捕状が出たのは危ないからでなく、民間人がそうやって掘り起こして地雷がなくなると、海外からの援助もなくなるからです。

―それは資料で読んだ「慈悲魔(じひま)」みたいですね。国が!?
(“慈悲魔”とは慈悲の情につけこんで入り込む魔。善悪の判断も狂わせる。金品に頼るようになり、親が子どもを痩せ細らせたり、傷つけたりして物乞いに使う)

そうなんです。OKAさんは「カンボジアという国は“慈悲魔”に陥っている」と言っていました。行政の援助もなし、組織も作らず、支援してくれる方、ボランティアの方々はたくさんいますが、基本的に一人で動いていました。

―OKAさんのいい話がいっぱいありそうです。

OKAさんって寝ないんですよ。入院したときは別にして、眠っているところを観たことがありません。いつも陽気で、動いていて、歌っているか喋っているか。ボランティアスタッフがね、OKAさんが出かけると歌本を隠すんだそうです。あると歌本の一番初めから終わりまで、知っている歌を次々と歌って止めないから。
支援者の方から伺った話です。いただいた支援金で普通は学用品などを買いますよね。OKAさんは木を買って植えました。カンボジアは暑いので、子どもたちに木陰を作ってあげたいって。その木は大きくなって子どもを日差しから守っています。

―まあ、いいお話ですね!
病気になられてからのシーンも必要ですよね。監督も撮っていて辛かったでしょう。


先に脳腫瘍が見つかり、回復したんですがその後認知症の症状も出てきました。カンボジアに行きたかったんでしょうね。いつのまにか僕の車に乗っていて、「カンボジアに行きます」と言ったことがありました。認知症が進んでからはコミュニケーションを取れなくなりましたし、入院後はそれまでのように会えなくなりました。

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牧田監督とシネジャ(宣伝さん撮影)

―ドキュメンタリーを作ることについて、何かおっしゃいましたか?

「いつでもなんでも撮っていい」と言ってくれて、いっさい要求はなかったです。映画を完成させる約束をしていましたが、間に合わなくて申し訳なかったです。撮りためていたのをときどき見せてはいました。施設にお見舞いに行ったときDVDを持っているのが映っています。あのときのOKAさんは髪の毛は真っ白になっているし、急に年取ったみたいで辛かったです。

―OKAさんを15年間も撮り続けて来られて、この作品ができました。

最初に会ったときから変わらない人でした。とっても魅力的で、知れば知るほど大好きになっていきました。OKAさんがいなくなって、肉親を亡くしたように寂しいです。
「どんな形でまとめたらええんや?」と悩んだりもしましたが、映画にOKAさんを残せて良かった。これでOKAさんを知ってもらえます。OKAさんのぬくもりが伝わっていけば、幸せです。
OKAさんの志を受け継いで現地にいるスタッフと相談して、村々を回ってこの映画の上映会をする計画があります。映画キャラバンです。向こうで上映するには吹き替えも必要ですし、移動の経費もかかります。どうぞ応援をよろしくお願いいたします。
(まとめ・撮影:白石映子)


★クラウドファンディングはこちらです。
https://motion-gallery.net/projects/okamovie

『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督オンライン・インタビュー

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第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影

世界各地の映画祭で高く評価され、感動の嵐を巻き起こした『Brotherブラザー 富都のふたり』がついに日本公開になりました。監督は、プロデューサーとして社会的弱者やアイデンティティの問題を扱ってきたマレーシアのジン・オングが務めています。身分証を持たないために社会の底辺で生きていかざるを得ない兄弟の姿を描いた感動作です。ジン・オング監督に初監督を務めることになった経緯やこの作品に籠めた思い、映画人としての思いについてオンラインでお話をうかがいました。

【あらすじ】
マレーシアの首都クアラルンプールのプドゥ地区のスラムで兄弟のように暮らすアバン(ウー・カンレン)とアディ(ジャック・タン)。耳の不自由なアバンは市場の日雇い仕事で糊口をしのぎ、アディは裏社会と繋がり危なげな日々を送っている。ふたりには身分証明書(ID)がなく、真っ当な職に就けないばかりか、公的サービスを受けることも銀行口座をつくることもできない。トランスジェンダーのマニー(タン・キムワン)が何かとふたりを気にかけ、NGOのジアエン(セレーン・リム)がID取得のため奔走している。そんなある日、ジアエンがアディの実父が見つかりID取得の道筋がついたとの知らせをもたらす。だが、アディはなぜかそれを頑なに拒否し、ジアエンを突き飛ばしてしまう。

出演
兄アバン:吳慷仁(ウー・カンレン)台湾
弟アディ:陳澤耀(ジャック・タン)マレーシア
マニー :鄧金煌(タン・キムワン)マレーシア
ジアエン:林宣妤(セレーン・リム)マレーシア

シネマジャーナルHP 作品紹介はこちら
公式HPはこちら

*監督プロフィール*王礼霖(Jin Ong)
1975年6月19日生まれ。マレーシア出身。
ムーア・エンタテインメント代表。プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」(17)、『楽園』(19)、『ミス・アンディ』(20)などを手掛けてきた。特に「分貝人生 Shuttle Life」は2017年の上海国際映画祭アジア新人賞部門で高く評価された。『Brotherブラザー 富都のふたり』は彼にとって念願の監督デビュー作となる。

◆プロデューサーから監督へ

――この映画の構想はいつくらいからあたためていたのでしょうか。
監督 2019年からです。まず監督としてマレーシアをベースにした作品を作りたい思いがありました。主人公は労働者階級で身分の低い兄弟にし、彼らがどういう状況・環境の下で生きていくのかフィールドリサーチを重ねていく中でどんどん固まっていきました。

――当初からご自身で監督しようというお気持ちだったのですね。
監督 2018年に大病を患って初めて死を近くに感じ、やり残したことはないか自問自答し、映画監督になる夢を思い出しました。そして、快復後はその夢の実現に向かって行動しようと思ったのです。

――それでプロデューサーは他の方を探されたということでしょうか。
監督 そうですね。今回プロデューサーは李心潔(リー・シンジエ)さんに依頼したのですが、もとから知り合いだったわけではなく、ただ彼女のことはマレーシア出身で中華圏でも活躍されているので名前は存じ上げていて面識はありました。彼女にその知名度を生かして生まれ故郷に貢献したい考えがあるという話を小耳にはさみ、未経験同士同じ思いで作品を作ろうということになり、プロデューサーとして加わってもらいました。

――リー・シンジエさんは、日本でも出演作が何本も公開されている女優です。出演もしてもらおうとは思いませんでしたか。
監督 最初はそういう考えがあったのですが、彼女が「プロデューサー業は初めてなので二足の草鞋ではなく職を全うしたい。(出演については)自分ではなくもっとポテンシャルのある若手にチャンスを与えたい」と。彼女は経験豊富な役者なので、現場に来たときには若手にアドバイスなどをしてくれました。

――脚本執筆段階で苦労されたことなどはありましたか。
監督 アイデアがあっても脚本化にはたいへんな専門性を要すると感じました。独善的にならないようプロデューサーからもたくさん意見をもらい、いろいろな人とディスカッションをしてブラッシュアップしていきました。映画は2時間しかないのでそこにあらゆる課題やテーマを盛り込むのは不可能。作品として成立させるため如何に取捨選択をしていくかが大変でした。

――初稿から削ぎ落した部分も多いのでしょうか。
監督 最終的なものは第3ヴァージョンで、だいぶ違う展開になりました。マレーシアのいろいろな社会問題を欠かせない背景としていて、それらはこの兄弟によって浮き彫りになります。しかし、その問題が実際に解決されているかどうか答えを出す必要はないのです。重要なのは、こういった残酷な現実世界で兄弟が互いを愛する気持ちや支え合う気持ちを諦めずに生きているということ、そこにフォーカスしていきました。

――この兄弟を支える存在としてマニーがいます。マニーをトランスジェンダーに設定した理由をお聞かせください。
監督 作中で考えてほしいテーマに身分や自己受容といったセルフ・アイデンティティの問題があります。プドゥにはさまざまな人がいて、例えば外国人労働者。その中には違法滞在の人もいますし、合法滞在でも過酷な労働環境の下でなんとか生きています。軽視されがちな存在であるトランスジェンダーもいます。実際にそういった人々が住んでいますから登場させました。そうすることで自己受容やアイデンティティについて考える枠を広げ、作品にもう少し力を与えられるのではないかと考えました。

――兄弟もマニーもすごくいいキャラクターで引き込まれますね。
監督 多くの観客が鑑賞後に涙を流してくださるのは、皆さんの心にも愛があるから残酷な状況下でも愛を諦めない人たちへの共感共鳴があるのだと思います。

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◆血の繋がりを超えた兄弟の絆

――撮影中に特に大変だったことをお聞かせください。
監督 ひとつ挙げるとしたら、やはり手話ですね。台湾とマレーシアでは手話の構成が全く違うことに後から気づきました(注:アバンを演じたウー・カンレンは台湾の俳優)。なので、兄弟役のふたりはかなり長い時間を手話の習得に費やしました。僕自身、手話が映画の中でこんなにも張力を持った言葉になるとは思いもよりませんでした。というのは、手話は往々にして我々が使用している自然言語(注:日常的に使用している話し言葉等)に比べてより簡潔になっています。如何に自然言語のように手の動きが見えるか、感情を指先に宿せるかというところでかなり役者と研究を重ねました。
あと、撮影現場で大変だったのは、カットをかける度にすべてのスタッフにティッシュを配って回らなければならなかったことですね。特に、最後の弟が兄に会うシーン、兄が自分の生活はそんな簡単ではないと強く訴えるシーン。そういった重要なシーンはカットをかける度にスタッフ全員が涙をポロポロ流していました。

――補聴器が壊れて手話だけのやり取りになるという、あそこは秀逸だと思いました。
監督 じつは、兄が自分の生活がいかに大変か訴えるシーンは最初のセリフから大幅に変わりました。撮影は順撮りで、そのシーンを撮る前に2週間の撮影があり、そこまでで積み重ねてきたものを踏まえた上でどうしたらより説得力を持たせられるか。そのことを撮影するタイミングで話し合って(セリフ等を)変えようという話は最初からしていましたが、セリフを変える度にウー・カンレンさんは手話を学び直さないといけないのでかなり苦労されたと思います。

――兄弟愛というものの、よくよく考えるとこのふたりは血の繋がった兄弟ではありません。しかし、本当に血の繋がった兄弟よりも強い絆で結ばれているという印象を受けます。そのあたりはいかがでしょうか。
監督 プロデューサーとして「分貝人生 Shuttle Life」や『ミス・アンディ』の中で血の繋がりのない人々が血縁を超えた中で如何に繋がることができるかという表現を試みました。そこからの流れと、僕自身の当事者としての経験があります。僕は1999年に一外国人労働者として台湾に行き、たったひとりで日々辛い思いをしていました。当時はフィリピンから来た外国人労働者と寝泊りをしていて、僕が人生で最も苦労したこの時期に自分を最もケアして温かさを与えてくれたのは、自分とまったく出自が違うフィリピンの人でした。そういう実体験もあります。血の繋がりを超えて互いを思いやる可能性については、引き続き探索していきたいと思っています。

――この一年間、この映画で世界各地の映画祭を回られたと思うのですが、それぞれの反応はどうでしたか。
監督 実際に回ってみて、人種を超えて兄弟の愛というものは人類共通だと感じました。欧米、特にヨーロッパですね。多くの観客が劇場を出るときに泣きながら僕をハグしてくれました。忘れられなかったのはポーランドで、父子で観に来てくれて、父親が見終わって「今年僕が観た中でもっとも美しい作品だ」と言ってくれました。また、イタリアでもあるカップルが涙をポロポロ流しながら感動したと感想をずっと話してくれました。言葉や人種を超えて共鳴共感できるものがある、そういう点では非アジア圏での印象が強く残っています。

――各地の国際映画祭では監督おひとりで登壇されたのでしょうか。
監督 宣伝で役者と一緒に行ったのは香港と厦門です。上映後のQ&Aで覚えているのはシンガポール・マレーシア・台湾ですが、特にマレーシアのQ&Aとメディアの反応は僕たちも目から鱗が落ちましたね。マレーシアは多民族国家で、特にマレー系の人々は中華系に対して必ずしも友好的ではありません。けれど、この兄弟を多くのマレー系の人々が愛すべき存在として捉えて質問してくれたり、ゆで卵を互いの頭で割るシーンを真似てくれたりしました。そういった反応を見ると、マレー系の人々もマレー人を演じた非マレー人にも民族や出自を超えたシンパシーを感じることができるのだと映画を通して実証されたように思います。

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◆マレーシアの映画人として

――監督として、またプロデューサーとしてずっと社会的弱者を扱った映画を送り出してこられました。その意義をどうとらえてらっしゃるのでしょうか。
監督 僕は中級階級の出身で、映画に出てくる兄弟よりも健康的で幸せに暮らせています。でも、自分が容易に手に入るものが異なる運命を背負った彼らの手には入らないことも目の当たりにしてきました。僕が長年仕事をしてきて思うのは、映画というのはストーリーテーリングをする上でとても有効的なメディアだということ。このメディアを介して、人々の関心が届かない市井で生きる人々――社会的弱者と言われる人々にはさまざまな生き辛さがありますが――その生き辛さをただ赤裸々に伝えるのではなく、彼らがどういった感情を抱いて生活しているのかということを、映画に携わる者として作品化していきたいと、それを信念として持っています。

――現在、特に関心を持っているテーマはありますか。
監督 マレーシア社会における難民と外国人労働者について、もう少し掘り下げていきたいと思います。もうひとつのプロジェクトとして、トランスジェンダーの人々ですね。性についても引き続き学びながら作品にできたらと思っています。

――監督のキャリアを拝見すると台湾との仕事が多いようですが、何か理由はあるのでしょうか。
監督 台湾は自分に映画作りのノウハウを教えてくれた所で、映画人としての原点であることは言うまでもありません。台湾は自由民主の地としていろいろなストーリーを描く上でほとんど制限がなく自由に作品をつくることができる得難い環境だと思っています。多くの友人がいて、台湾でプロダクションを設立したときも先輩方に手助けやご指摘をいただき、そうした温かい環境が僕を育ててくれました。今までの仕事の流れとして、台湾でインスパイアを受けたアイデアをマレーシアに持ち帰って発展させてきましたけれど、今後はもっといろいろな立ち位置でマレーシアと台湾のインターナショナルな共同作業ができるような、そういった懸け橋的なこともできたらと思っています。

――どうもありがとうございました。


(写真・取材:台湾影視研究所・稲見公仁子/写真はオンラインインタビュー時他、本邦初上映となった第1回Cinema at Sea沖縄環太平洋国際映画祭にて撮影)

台湾影視研究所の『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』ジン・オング監督記事 https://note.com/qnico_mic/n/n4ce57094ea25


『子どもたちはもう遊ばない』 モフセン・マフマルバフ監督インタビュー 

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詩と共に生きる私たちイラン人は、
2+2は4じゃないと思っています。
国民的に論理的じゃないのです。


モフセン・マフマルバフ監督の『子どもたちはもう遊ばない』 と、娘ハナ・マフマルバフ監督の『苦悩のリスト』が、2本同時公開されるのを機に、モフセン・マフマルバフ監督が来日。 お話を聞く機会をいただきました。
前回、モフセン・マフマルバフ監督が来日されたのは、『独裁者と小さな孫』の公開にした2015年10月のことでした。
『独裁者と小さな孫』インタビュー

取材:景山咲子




ヴィジョン・オブ・マフマルバフ

『子どもたちはもう遊ばない』 
監督:モフセン・マフマルバフ
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(C)Makhmalbaf Film House
エルサレムの旧市街を彷徨うモフセン・マフマルバフ監督。
長年続くイスラエルとパレスチナの紛争に解決の糸口はあるのか・・・
作品詳細は、こちら

『苦悩のリスト』
監督:ハナ・マフマルバフ
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(C)Makhmalbaf Film House
2021 年 米軍撤退~タリバン再侵攻。
恐怖政治から逃れようと空港に殺到する人たち。
ロンドンにいるマフマルバフ監督は、芸術家たちを救い出そうと奔走する・・・
作品詳細は、こちら

配給:ノンデライコ
企画:スモールトーク(ショーレ・ゴルパリアン)
公式サイト:http://vision-of-makhmalbaf.com/
★2024年12月28日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて



◎モフセン・マフマルバフ監督インタビュー 
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― ようこそまた日本にお越しくださいました。9年があっという間に過ぎました。 
映画を拝見して、エルサレムで暮らす人たちが、平穏に暮らしたいと願っているのに、それが実現しないことを監督も人々も憂いていることをずっしり感じました。
私は、1991年5月に10日間ほどイスラエルを旅したことがあって、エルサレムの町の独特な雰囲気を懐かしく思い出しました。まだ分離壁もなくて、和平が近いかもという時期でした。

◆目の前に舞い降りてきたアフリカ系パレスチナ人のアリ

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(C)Makhmalbaf Film House

― 偶然出会われたというアフリカ系パレスチナ人のアリ・ジャデさんは、私の思い描くパレスチナ人とは全く違うキャラクターでした。素敵な出会いだなと思いました。

監督:ほんとにそう思います。 アリを私の前に座らせてくださったように思います。

― 神様が贈ってくださったのですね。

監督:いろいろな人とバザールで話したのですが、アリの前に行って、しゃべっている話にびっくりしてカメラを回しました。ほんとに偶然でした。

― まさに神様の思し召しですね。アリさんには映画をご覧いただいたのでしょうか?

監督:はい、送って観ていただきました。感謝しますと、お礼を言ってきました。


◆イスラエル建国前を知る温和なユダヤ人に登場いただいた

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(C)Makhmalbaf Film House

― ユダヤ人のベンジャミン・フライデンバーグさんは、先祖代々暮らしてきた家系で、イスラエル建国前にパレスチナ人と交流してきたお祖父さんやおじさんの話を聞いて育った方です。ご自身もパレスチナ人と交流されています。そのような経歴の方を紹介していただくようにお願いしたのでしょうか?

監督:イスラエルには二つのタイプの人がいます。過激な人と、そうでない普通の人。普通の人の中でも、昔からあの地に住む人を探してもらいました。アリとのバランスも考えました。

― ベンジャミンさんはもの静かで、ユダヤ人の「鷲鼻で狡猾」というイメージとは全然違いました。

監督:以前にイスラエルで『庭師』(2012年)を撮った時に、40人位のユダヤ人と40人位のアラブ人と知り合いました。皆、静かな方で、ネタニヤフがイスラエルを代表している顔でもないし、ハマスもパレスチナを代表しているわけではないです。


◆もっと1948年のパレスチナの悲劇を知ることのできる映画を!
― 1991年にイスラエルを訪れた時、1泊目に泊まったテルアビブの海沿いのホテルの窓の下に、大きなモスクが見えて、行ってみたら、囲いがしてあって、取り壊しが決まっていることがわかりました。かつては、その大きなモスクに集まるほど大勢いたムスリムが、この地を追われたことを思いました。
イランのセイフォッラー・ダード監督が、1994年に作った『生存者』(原題:bazmandeh)という映画を数年前にみました。1948年にイスラエルが建国されて、そこに暮らしていた人たちが、かつてはユダヤ人とも交流していたのに、ムスリムもクリスチャンも追い出されたことが描かれている映画でした。ユダヤ人のホロコーストのことが描かれた映画はたくさんあって、「ユダヤ人の悲劇」が、映画を通じて私たちの心に深く刻まれています。一方、パレスチナの人たちが、住み慣れた地を追われた悲劇「ナクバ」を描いた映画は、ほんとうに少ないと感じています。 
侵略された側の人が見ると、憎悪を生むだけですが、歴史をちゃんと認識していない若いユダヤ人や、世界の人たちに見てほしいと思います。映像は力がありますから。

監督:その映画は観ていないのですが、『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』(日本公開:2025年2月21日 公式サイト:https://transformer.co.jp/m/nootherland/)では、イスラエル軍がパレスチナの人たちを突然攻撃して殺したことが描かれています。ぜひ観てください。

― 私たち日本人は小さい時からユダヤ人の悲劇を「アンネの日記」や、多くの映画で教え込まれてきたように思います。第二次世界大戦でドイツが敗戦して、ユダヤ人が強制収容所から解放され、ユダヤ人のための国を作ろうという話になった時にマダガスカルやアルゼンチンも候補にあがったそうですが、結局、パレスチナの地にイスラエルという国を作って、住んでいたパレスチナ人を追い出すことになってしまいました。イスラエル軍にやられっぱなしの今の状況を見ると、もっと歴史を学んでほしいと思います。

監督:イランはパレスチナを軍事的に救うのでなく、そういう映画をもっと作って見せれば、世界的にパレスチナのことを知ってもらえたと思います。

- イランでは、「世界コッズの日」 に、毎年、映画『生存者』がテレビで放映されていたそうです。

*注:「世界コッズの日」 (コッズは、エルサレムのこと)
ホメイニ師が、イスラエルによる占領からのパレスチナ解放のために意を表する日として、ラメザーン(断食)月の最後の金曜日を「世界コッズの日」と定めた。

監督:イラン人はパレスチナのことをよく知っているから、見せる必要はもうないでしょう。 


◆詩そのものを語らなくても、詩の香りを映画に入れる
― 最後の方でベンジャミンさんが語る「他者を思え」という詩は、有名な詩でしょうか?

監督:マフムード・ダルヴィーシュというパレスチナの詩人のものです。

*ここで配給ノンデライコの大澤さんが、この詩人の詩集の和訳も出ていることを教えてくださいました。
「パレスチナ詩集」マフムード・ダルウィーシュ 四方田犬彦訳 筑摩書房

― 映画の中でマフマルバフ監督が語っている言葉が、詩そのものではないけれど、とても詩的に感じます。
私の後輩でペルシアの詩を研究している女性から、マフマルバフ監督にぜひ伺ってほしいと質問を預かりました。

イランの女性詩人フォルーグ・ファッロフザードの詩の一節に

「耳には双子の赤いさくらんぼのイヤリング
爪にはダリアの花びらをマニキュアにして
ある路地には
わたしを愛してくれた少年達が 今も
くしゃくしゃの髪と細い首と痩せた足のまま
ある夜 風が連れ去ってしまった少女の
少女の純潔なほほえみを想っている」

というのがあって、これはマフマルバフ監督の『サイレンス』(1998年)で、主人公の面倒を見ている少女がまさにこの最初の2行を表現しているシーンがあります。
(ペルシア語でショーレさんに詩を朗読していただいたのですが、聴きながら、にっこり笑って、耳に手をあて、イヤリングがぶらさがっているさまを表すマフマルバフ監督でした)

マフマルバフ監督はフォルーグ・ファッロフザード以外にも、映画製作の上でインスピレーションを受けた詩人はいますか?

監督:大勢います。かつて家族のために映画学校を開いた時に、1か月 毎日詩について勉強したことがあります。いろんな詩人の詩を数日ずつ集中的に学びました。3日間フォルーグ・ファッロフザード、次の3日間ナーデル・ナーデルプール、また次の3日間ソフラーブ・セペフリーという風に。なぜ勉強したのか。一つの詩からイメージを作ることができるかどうかを教えていました。イランの詩は、言葉だけでなく、韻を踏んでいます。リズムがあるのをどうやって映像にできるかも教えていました。詩をそのまま映画に入れてなくても、詩を作った詩人の想いをどうやって映像に入れられるかを考えます。例えば、8分の短編『風と共に散った学校』(1997年)の中で、牛につけたベルが鳴りますが、あれが「詩の香り」です。

― 映画の中で詩そのものを語っているわけではないのに、詩的なものを感じるのは、そのためですね。 イランの人たちは存在自体が「詩」ですね。

監督:楽しい時にも詩を語るし、悲しい時にも詩を語ります。国民性です。頭がいい人なら、2+2=4ですが、私たちイラン人は、2+2は4じゃないと思っています。国民的にロジカル(論理的)じゃないのです。


◆「死」を目にして「生」を探すパレスチナの子どもたち

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(C)Makhmalbaf Film House

― パレスチナ人と書かれたTシャツで踊る10代の子供たちは、笑顔が素敵で、インティファーダで石を投げるパレスチナの子供たちのイメージとは違うものでした。
繰り返し流れるムハンマド・アッサーフの「Dammi Falastini(My Blood is Palestinian/私の血はパレスチナ人)」という曲が今も頭の中をぐるぐる回っています。ムハンマド・アッサーフは閉じ込められたガザの町から、「アラブ・アイドル」に出演して注目され、アラブ圏のスターになった人です。(映画『歌声にのった少年』に描かれた人物) あのダンスをしていた子どもたちに明るい未来が早く来るといいなと思いました。

監督:今でもあの子たちは踊っています。死を目の前で多くみると、生を探します。イラン人も大変なことが起こると、ジョークにして気持ちを吹き飛ばします。

*この取材中、時々、電話がかかってきて、「取材中、申し訳ないけれど、タジキスタンに逃れているアフガニスタンの知人から助けてほしいという電話なので」と、対応するマフマルバフ監督。
『苦悩のリスト』が、まだ続いているのです。

― 山形国際ドキュメンタリー映画祭のクロージングで上映された折に『苦悩のリスト』を拝見したのですが、小さな男の子がハナさんの息子さんだと知って驚きました。私の知っているハナさんは10代でしたので。真剣な顔で電話に出ている監督が、お孫さんがそばに来ると「おじいちゃん」の顔になっているのが微笑ましかったです。 

監督:もう、可愛くてね・・・ (と、スマホで写真を見せてくださいました)

― ハナさんにも、どうぞよろしくお伝えください。
今日はどうもありがとうございました。お会いできて、ほんとに嬉しかったです。

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