『ゆうやけ子どもクラブ!』井手洋子監督インタビュー

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ゆうやけ子どもクラブは1978年に発足。障害のある子どもの放課後や学校休業日(土曜日、夏休み・冬休み・春休みなど)の生活を豊かにする活動の草分け的な存在です。保護者や市民など、多くの関係者の力を得て発展してきました。  
特定非営利活動法人あかね会が運営する、ゆうやけ子どもクラブ・ゆうやけ第2子どもクラブ・ゆうやけ第3子どもクラブがあります。すべて、児童福祉法にもとづく放課後等デイサービスの事業所です。 小平市内に在住する、知的障害、自閉症などをもつ、小学1年生から高校3年生を対象としています。(ゆうやけ子どもクラブHPより)
https://www.yuyake-kodomo.club/index.html

*井手洋子(いで・ようこ)監督プロフィール*

1984年より映像製作の仕事を始める。羽田澄子監督の『安心して老いるために』『歌舞伎役者・片岡仁左衛門』などに助監督として参加後、フリーランスの映像ディレクターとして岩波映画製作所、桜映画社などで仕事をする。布川事件を14年間追いかけたドキュメンタリー『ショージとタカオ』(自主映画作品)は、2011年度文化庁映画賞 文化記録映画部門大賞、2010年第84回キネマ旬報ベストテン文化映画部門第1位、2011年度第66回毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞、2011年釜山国際映画祭アジア部門最優秀ドキュメンタリー賞、ドバイ国際映画祭ベストヒューマンライツ賞など国内外で高い評価を得た。著書に「ショージとタカオ」(文藝春秋社)「女性が拓くいのちのふるさと海と生きる未来」(共著 昭和堂) (HPより)

『ゆうやけ子どもクラブ!』作品紹介はこちら
監督・製作:井手洋子
撮影:中井正義、井手洋子
編集:大川景子
https://www.yuyake-kodomo-club.com/
★11月16日(土)~12月6日(金)、ポレポレ東中野にて上映中
1日1回12時からの上映です。
★11月30日(土)~12月13日(金)横浜シネマジャック&ベティ
時間はHPでお確かめください。


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―映画の始まりは?

このゆうやけ子どもクラブ代表の村岡真治さんが、前作の『ショージとタカオ』をご覧になっていて、連絡をいただきました。見てみないとわからないので一回伺いますと、2017年の6月に伺ったのが最初です。
障がいのある子どもたちの「放課後の支援」をするところでした。それまでそんなところがあることを全然知らなかったんです。もしかしてこれはとても大事なことなのではないだろうか? 私と同じように「知らない人たちに知らせる」ことができるのではと思いました。
夏休みにアシスタントの女性とカメラを持ってゆうやけ子どもクラブへ行ったんですが、そのときは何が何だか(笑)。名前もまだわからないし、走り回る子どもたちが何をするのか全く予測できないんです。お昼から半日いて、くたくたになりました。30分だと子どものつぶやきとか入らない。30分だけでなく、1時間の長いバージョンも作ったほうがいいと思いました。ちゃんと映画にして、小平という枠をとり払って、ほかの人にもこの活動を見てもらったほうがいいんじゃないかと考えました。寄付を集めてもらったりして一緒に創り上げました。2017 年冬から本格的に撮影を始めましたが、今回の撮影は体力勝負になると思ったので、私が単独で撮影するのではなく、カメラマンに参加してもらうことにしました。

ゆうやけ子どもクラブは40周年ですが、2012年に「放課後等デイサービス」という国の制度ができました。署名を集めたりした運動が実ったのはいいんですが、今度は営利事業者などもたくさん参入してきました。「作業所ですぐ役に立つような能力を開発」をアピールする事業者もいます。
ゆうやけ子どもクラブのやり方は、人とコミュニケーションが取れるようになるとか、友達と遊べるようになるとか、そういう本質的な“人として少しでも自立していけるようなことを考えた、遠くを見た支援”なんですよね。それは長年かかって少しずつできてくるものですから、即効性ではないんです。
 
撮影は、ゆうやけ子どもクラブの日常を記録して、子どもたちの成長の兆しを少しでも描くことができたらという思いで始めました。
何が大変って「主人公がいない」ってこと(笑)。ゆうやけは3ヵ所あって、第1から第3まで全部撮ってほしいと言われたんです。普通は1ヵ所で誰を撮る、と絞っていくと非常に取材しやすいんですが「わかりました」と。4~5年撮れればいいですけどそうはいかないので、短い間でも少しでも変化の兆しを撮れるようにしたいと思って、何人か紹介してもらいました。
最初にカメラを向けたのはユウトくん、公園でダンゴムシを探す男の子です。ホールに集まった子どもたちは見ているといろんなことをしている。一緒について歩いて撮るんですけど、次に何をするのか予測不能です。撮影現場自体は、子どもたちのエネルギーが溢れていて楽しいのですが、終了して帰る道すがら、「どうしよう…」と焦りが。真っ暗闇の中にポツンといて、手探りで歩いているような感じでした。

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―撮影期間はどのくらいですか?

製作費に制約があるので、トータルで30日しか行けてないんです。ゆうやけ子どもクラブの職員さんは午前中から来ているので(子どもは放課後)何をしているのかなと行きました。職員研修会という会議をしていたんですけど、それが一人の子どもの活動記録を何年分も遡って、しかもそのデティールがもう細かい細かいことなんです。それを撮っていたら、これってドキュメンタリーに似ていると思いました。映画は事実の集積、「何年何月何日あの人がこうした」というのを集めていくのがドキュメンタリーの取材と思っているから。そのときは1人で行ったんですけど、面白くって。カメラやマイクで知らないことを発見するというのが、私にとってドキュメンタリーの面白さなんです。だからもうわくわくした気持ちになって。

中学生のユウトくんを撮っていたときのこと。村岡さんから聞いた話では、ユウトくんは担当の指導員に段ボールで「アイフォン」を毎日作ってくれというんです。画面にアプリケーションの絵まで描いて、同じものを毎日毎日作らされるうちに、ユウトくんが「アイフォンの文字が消えないようにセロテープを貼って。そうしたら触っても消えないよね」と言ったそうです。それで、「あ、これは本人の発見があるな、発見があるんだったら作るの続けようか」と気づいて続けることにしたそうです。
「放課後活動ってこれだけしなさい、これだけでいいというものじゃなくて、“本人の探求をどこまでも一緒に、どこまでも飛んでいくつもりでやっていこうよ。”それだけ腹を括ってやっていかないと放課後活動はできない」という村岡さんの言葉にパーンと反応しました。その前までは正直ちょっと子どもたちを甘やかしすぎじゃない?と思っていたんですが、そうじゃないんだと。中井カメラマンに「”一緒に飛んでいく”ってキーワードをテーマにして、ずっとこっちも何か始まったら止めないで撮っていきましょうよ」と頼んで。ほんとにずーっとついて行ってたら、中井さん(カメラをかつぐので)肩壊してしまって。

―職員の方々は子どもたちにあれこれ指示するのでなく、子どもが始めるのを待って、することをじっと見守っていますよね。親はなかなか気長に待つことができないです。村岡さんのご本には、大学生のときにボランティアから始めて「子どもたちと一緒に成長した」とありました。

村岡さんはゆうやけに最初からいる方なんですが、みんなで活動を続けながらそんなふうにしていったんだと思います。
とことん子どもを理解するというのが第一にあって、理解するために、すぐ制しないで子どもの「こうしたい、ああしたい」心を全て受け止めたいということなんです。そこからどうするか。
村岡さんが前に言っていたのは「率先して遊ぶ」。自分を見て「あ、そういう風にして遊んだらいいのか」と考えてもらえる。だから自分が率先して後ろ姿を見せてきたんじゃないですかね。

―30日間通われたそうですが、撮影が終わったのはいつでしたか?

終わったのは今年の3月くらいです。使っている映像は1月くらいまでのなんですが、並行してずっと編集もして、ロングバージョンを職員さんに見せたり。一筋の光は見えたんですが、その後がなかなか難しくて。自分が職員さんと同じくらい毎日通ってずーっと見つめていないと、微妙な気持ちの揺れとかわからないんですよね。

夏休みなどの長い休みのときには、朝から夕方まで事業所を開いているので、長い時間子どもを撮影できます。それで昨年の夏休みに集中的にゆうやけ子どもクラブに行って、その期間に出会ったカンちゃんという(その頃聴覚過敏に悩まされていた)中学生の子と、前に気になっていた小学生のガクくんを撮影しました。

―ガクくんはけっこう大きいのに、散歩に出たときに指導員さんが途中でやめずにずーっとおんぶしていましたね。あの姿に感動してしまいました。自分だったら「そろそろいいかな、降りてくれる?」と言ってしまいそうです。

業界的に言うとこのくらいの年齢の子どもにおんぶはNGなんだそうです。ちゃんと歩かせる。ガクくんは気持ちの不安定な子みたいで、1年半くらい前にゆうやけ子どもクラブに入ったのですが最初は大変だったそうです。ガク君の気持ちをみんなで受け止めよう、とあえておんぶも抱っこもする。そうすることで少しずつ心が開いてきたんです。そういう実践を前に聞いていたので、(機会があったら)撮ろうと思っていたらちょうど。
おんぶしている井原さんはガクくんを担当することが多くて、二人の散歩についていきました。その間ずーっとおんぶでしょう。私はマイクを持って、中井さんはカメラ持ってずーっと。井原さんのその姿にこちらも感動したわけです。最後の最後までおんぶしていく後ろ姿をずーっと見ていて、これはすごいな、これは映画に使いたいと思いました。彼女はエネルギー溢れる人で、プロとして子どもの先を考える、その先を見ているんだと思うんですよね。近い将来はもう少し気持ちを開いてくれればいいって。

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―子どもたちの成長の兆しがちゃんととらえられていました。

ぎりぎりセーフっていうか、夏から絞り込んでガクくん、特に中学生のカンちゃんと積み木に夢中になっている小学生のヒカリくんは、何度も撮影しました。始めはどういう風に撮っていいかわからなかったんです。でも去年の秋、10か月ぶりくらいに行ったら見事に変化がみられました。たまに行く人のほうがよくわかるもので、ヒカリくんは積木の内容も変わっていましたし、これはすごい!と。さらに撮影をすすめたときに、ヒカリ君は他の子どもたちからいつも離れていて孤立しているかのように見えたのに、実はそうじゃなかったことがわかる。自ら子どもたちの輪に…。彼の成長の様子はぜひ映画で観て欲しいです。

―ヒカリ君が子どもたちの中に入って行ったときに、胸がいっぱいになりました。
あるお父さんが、ゆうやけ子どもクラブに入って子どもが変わったことを喜んでいたのと、障がいのある子どものお母さんが孤立しがちなこと、こういう活動が拡がって改善されるようになってほしいと言われたのが心にしみました。


外から見ただけではわからない障がいの場合、わかったときの周りの反応が冷たくて厳しいらしいんです。気丈なお母さんたちばかりだけれど、心が折れると言っていました。それで、この映画もお母さんたちにとっては思い切ったわけです。
最初は躊躇したらしいですが、映画のための実行委員会を作って“映画館上映をスタートにして、いろんな人にわかってもらおうよ”と人に勧めてくれています。

―聴覚過敏でイヤマフをしていたカンちゃんはとても繊細で、伝えたいことが伝わらないもどかしさを感じました。

カンちゃんの場合は、ちょうどわーっと泣いているところが初めての出会いだったんです。耳の敏感な子に初めて会ったので吸い寄せられたんです。カンちゃんどんな人?って。そのとき彼は、中学生になって環境がいっきに変って、もともとの聴覚過敏が急激に強まっていた頃でした。カンちゃんは、内面にどんな世界を持っているのだろうと。そこから彼を何度も取材しました。そうして時間がたつにつれてカンちゃんも徐々に変わる兆しが見られるようになってきた。
彼を担当する職員の女性があるとき語ってくれた「小さい頃からすると、納得してできることが増えてきた。今は音への過敏性が強まっていて、厳しい状況もあるけれど、いつかは変っていく。そう思っていたい」その言葉が私の胸に響きました。

映画を観ている人が「健常者と障がい者」じゃなくって、そうしたバリアをとりはらってもっと近しい関係で観てくれたら。世の中にはいろんな人がいるんだよね、ってそういう見方をするきっかけになったらなぁと思っています。ゆうやけ子どもクラブでは、一人ひとりの子どもの状況に応じてスタッフがじっくり向き合って、一人ひとりを大切にする環境をつくり出そうとしている。考えれば、私たちの足元だって、どうだろうかと。
私は女性で仕事をしてきたけれど、初めて一緒に仕事をすることになるスタッフの中には、女性監督という「女性」ということを意識しすぎている人たちが今でも多いことに時々気づかされます。私もそうですが、だれだって一人ひとり、自分らしく、ありのままの自分を受け入れて欲しい。男性とか女性とかが前提ではなく。井手洋子という一人の人間として。
一人ひとりが大切にされる社会、それが本来のダイバーシティなのではないのか。『ゆうやけ子どもクラブ!』の映画を観てもらって、いろんなことを考えて欲しいのです。この映画のテーマは一つではなく、複合的に様々なことがからまってゆうやけ子どもクラブが今あるのです。

=インタビューを終えて=
映画を観て、こんなふうに障害のある子どものためを一番に考える居場所があちこちにあったら、どんなにかいいだろうと思いました。子どもを気にかけながら仕事に急ぐお父さんやお母さん、迎えに行くまで安心して預かってもらえる場所がここにあります。ゆうやけ子どもクラブに来る子たちの中には、「ただいま!」と元気に飛び込んでくる子もいます。ここが大好きなことがよくわかります。とことん遊ぶ中で大事なことを身につけていきます。目に見えてわかるまでに時間がかかりますが、確実に子どもは変わっていっています。子どものしたいことに寄り添ってじっと見守る指導員さんたちの、気力・体力はどれほどあるんでしょうか。心の容量もとても大きいはずです。
ゆうやけの子どもたちの毎日を追いかけて、映像に残した井手洋子監督もまたたいへん志の高い、しかも粘り強い方でした。子どもたちの記録はいつまでも映像の中に残ります。ご両親の支えになり、同じ境遇にある方々への応援歌になるでしょう。10年後20年後ゆうやけの子どもたちがおとなになっても幸せでありますように。
(取材・写真:白石映子)



井手監督は映画少女でしたか?

小さいころから好きでしたよ。小学生のころ放送部だったんです。給食時間に「今日は音楽鑑賞の日です。いただきます」とアナウンスしたりレコードかけたりしていました(笑)。それやこれやで、放送という媒体が面白いなと思って、受験生時代は当然深夜放送を聞いていました。
音や映像で自分の内側にあるものを伝えることがすごく面白いというのが、ずっと前からあったんです。大学のころは「アナウンス研究会」で、作品も作るんです。構成して音楽を入れてというのがものすごく面白くなった。できたら放送の仕事をしたかったんですが、そのころ制作に女性が入れるかどうかわからなかったので、ラジオ局を受けたんですがだめでした。
しばらく復習塾で先生をやっていたときに映画好きの人に逢って、影響を受けてたくさん観るようになりました。そしたらやっぱり映画かな、と思って(笑)、すぐ思い込みやすいタイプなんです(笑)。映画なら絶対監督になりたい。

そのころ観たのは『木靴の樹』(1978/エルマンノ・オルミ監督)、リバイバルですけど『裸の島』(1960/新藤兼人監督)とか、そういうものに感動して映画がやりたい、できれば劇映画を。その当時は男性監督がメインで女性は全然いない。演出をやりたいので、助監督。でも全然ないんです。そのうちに岩波ホールでよく映画を観ていたので、羽田(澄子監督)さんを知って「助手をさせてください」と立候補しました。1回目はダメで、別の作品についたんです。西啓子さんというドキュメンタリーの監督で自閉症児の1年間を記録するものでした。西さんはすぐにOKしてくださって、それが映画スタッフとしての初めての仕事でした。西さんの仕事が終わってから、こういう仕事をしましたと羽田さんに手紙を出したら、ロケに助監督さんが急きょ必要になったからと羽田さんから連絡があって、(「痴呆性老人の世界」という、後に岩波ホールで大ヒットになった作品)演出助手として羽田さんのスタッフに加えてもらうことになりました。
一概には言えませんが、私があたった男性の監督は意外に「いいですよ」というんですけど、その場だけでした。女性はダメっていうのもちゃんと言ってくれて誠実だったんです。この仕事で食べていくのは大変だからやめたほうがいい、と羽田さんもはっきり言ってくださったし。お2人の女性の監督にお世話になってなんとかこの業界に入ったわけです。私はそのときに「職人」になろうと思ったんです。つまり映像作家じゃなくて、この映像を生業としてやりたい。これでご飯食べていきたいと思ったんです。そういう意味で何でもやろうと思いました。
短編業界っていうんですけど、クライアントから発注があって映像をつくる。そこで切磋琢磨して、その経験を生かして、自主製作もやりたい、と『ショージとタカオ』を作ったんです。
私映像が大好きなんです。ドキュメンタリーとか劇映画とかいう枠をとっぱらって、とにかく映像が好き、その仕事をするのが大変は大変なんですけど、もう至福なんですよね。

『テルアビブ・オン・ファイア』 サメフ・ゾアビ監督インタビュー

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昨年の東京国際映画祭で「イスラエル映画の現在2018」の一環として、コンペティション部門で上映された『テルアビブ・オン・ファイア』。
ヨルダン川西岸地区で製作中のメロドラマのヘブライ語のチェック係のパレスチナ青年。エルサレムに住むイスラエル国籍の彼が、検問所の所長に脚本家と言ったことから、毎日のようにドラマの筋に介入されるという大笑いのブラックコメディー。今やなかなかあり得ないパレスチナ人とユダヤ人との対話を描いた笑撃の作品。
ぜひ公開してほしいという願いが実現しました。
公開を前に、9月にサメフ・ゾアビ監督が来日。インタビューの時間をいただきました。

『テルアビブ・オン・ファイア』
監督・脚本:サメフ・ゾアビ
出演:カイス・ナシェフ、ルブナ・アザバル、ヤニブ・ビトン、マイサ・アブドゥ・エルハディ、ナディム・サワラ、ユーセフ・スウェイド
2018年/97分/ルクセンブルク・仏・イスラエル・ベルギー/カラー/アラビア語=ヘブライ語
配給:アット エンタテインメント  
公式サイト:http://www.at-e.co.jp/film/telavivonfire/
★2019年11月22日(金)、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
シネジャ作品紹介 

サメフ・ゾアビ
 Sameh Zoabi
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*プロフィール*
1975年、イスラエル・ナザレ近くにあるパレスチナ人の村・イクサル生まれ。98年、テルアビブ大学を卒業後、映画研究と英文学を学ぶため、NYのコロンビア大学でフルブライト奨学金を受け、M.F.A(美術学博士号)を取得。05年に、短編映画「Be Quiet」がカンヌ映画祭に出品され、翌06年、フィルムメイカー・マガジンによって、「インディーズ映画界の新しい顔のトップ25」の1人に選ばれる。本作は、ヴェネチア、トロント、ロカルノ、サンダンス、カルロヴィヴァリほか世界各国の映画祭で上映・受賞し、世界から新たな才能として注目を浴び、今後の作品も期待される映画作家である。(公式サイトより)

◎インタビュー
― 去年、東京国際映画祭で観て、とても気に入りました。
去年の記事をお見せしました)
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*右は、イスラエルの検問所の主任アッシを演じたヤニブ・ビトンさん

監督:1年前は、ずいぶんわかかったなぁ~! (と、写真に見入る監督)

◆和平への夢 ~アラブのドラマをイスラエル中で観ていた時代があった~

― 1991年にイスラエルを訪れ、監督の故郷ナザレも含め、あちこち行きました。まだ分離壁のない時代で、和平に向かっているのではと期待できる時代でした。今や、ガザは屋根のない監獄状態で悲しく思っています。

監督:以前を知っている方は、鮮烈に今の状況を感じると思います。

― イスラエルの方とパレスチナの方が映画について語り合うという、現実ではなかなかあり得ない状況を描いていて、監督のこうあればいいなという思いを感じました。

監督: (笑)過去へのノスタルジーかもしれませんね。
91年にいらした頃は、まだどこか希望が持てて、いつの日か和平がという可能性が見えたのが、今は分断されて希望すら見えない。ですから、この映画は私の願望かもしれません。かつて、金曜の夜7時からエジプトのドラマが放映されていて、イスラエルの人誰しもが見ていた時代がありました。もうそんな時代は来ないかもしれません。

― 昨年の東京国際映画祭の折のQ&Aで、お母様がエジプトのドラマが大好きで、当時チャンネルの選択権はお母様にあったとおっしゃっていました。お母様は、この映画をご覧になって、どんな感想をもたれましたか?

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(C)Samsa Film - TS Productions - Lama Films - Films From There - Artemis Productions C623

監督:ソープドラマの部分はわかったと思うけど、映画のほんとの意味は理解していないかも。

― お母さまとしては、ドラマの結末をどうしてほしいなど、おっしゃっていましたか?

監督:
それは特に・・・。私の1作目の長編の初日を家で撮影したのですが、主人公が目玉焼きを作る場面で、後ろから見ていて、もうちょっと油を入れたほうがいいわよと言ってました。そんな母です。(笑)

― お母さまは今もナザレに住んでいらっしゃるのですか? そして監督は?

監督:
はい、母はナザレで、私はニューヨークです。

◆パレスチナ人を分離するイスラエルの教育システム
― 映画の中でサラームはパレスチナ人ですがイスラエル国籍でヘブライ語のチェック係。イスラエル国籍のパレスチナ人にとって、ヘブライ語は必須。子どもたちの世代では、学校教育はヘブライ語で、アラビア語は家でしか使わなくて、ヘブライ語に馴染んで行くという状況なのでしょうか?

監督:
イスラエル国籍のパレスチナ人は、今もアラビア語を主に使っています。子どもたちも高校までアラビア語で教育を受けています。分断されていて、よっぽど混ざった町でないとアラブ人がユダヤ人の学校に行けない状況なのです。逆にいえば、イスラエル政権は教育システムを通して、分断をはかろうとしているのです。アラブ人とユダヤ人は別の学校に通っています。ヘブライ語は第二言語として小学校3年生から学びます。第三言語の英語は4年生から。大学に行きたければ、ヘブライ語しかチョイスがありません。高校までアラビア語だけで学んでいるとハンディがあります。ヘブライ語ができないと、より良い仕事につくことも難しくなるのです。

― それでいながら、イスラエル国籍だと兵役につかなければいけないのですね?

監督:パレスチナ人には兵役は義務ではありません。志願はできますが、99%は、兵役につきません。

― それを伺って、少しほっとしました。

監督:中には、よりイスラエル寄りにみせたくて行く人もいますが、ある程度教育を受けた人なら、通常は行きません、

◆米=メキシコ国境を舞台に第二弾

― とても面白くて、続編が観たいと思ったのですが、作るとしたらどのようなものを考えていますか?

監督:続編を作ろうと考えたこともあるのですが、今、アメリカとメキシコの国境を舞台にリメイクの話があって、脚本も含めて監督を依頼されています。シーズン2は、場所を変えての話になります。

― 同じような問題を抱えていますよね。本格的に考えているのですね。

監督:
ホンモスがワカモレ(アボガドベースのディップ)になります!
かなり本格的になっていて、日本に着いた日、ほんとは寝たかったのですが、アメリカとの法律的な交渉をする必要ガあって、寝れませんでした。

― 面白い話になると思うので期待しています。

◆「トマトが愛の実」も「アラブ式キス」も私の創造

― 「いちじくは愛の実」というの対し「トマトが愛の実」という言葉が出てきました。

監督:
私が創造したものです。監督の醍醐味は、勝手にものを作って、それがあたかも真実のようになることです。唇の触れないアラブ式キスも私が作ったものですが、もう一人歩きしています。

― ホンモスの話に戻します。
2週間家に閉じ込められて、缶詰のホンモスを食べていたといのは、ほんとの話ですか?

監督:私が実際に経験したのは、第二次インティファーダーの時、ヨルダン川西岸に住む友人のところに日帰りの予定で行ったのに、制圧で3日間閉じ込められたことがありました。独身男性のアパートだったので、その時にツナの缶詰しかなかったのです。その経験をもとに書きました。

― 毎日じゃいやですよね。

監督:
フレッシュじゃなくて、缶詰ですからね。

◆イスラエル資金を得たが忖度しない
― チェックポイントがあることで、ほんとに皆さん苦労していますよね。
脚本を書かれた『歌声にのった少年』も、何度もチェックポイントを通らないといけなかったですよね。

監督:ほんとは、もっと面白い展開で書いていたのですが、監督がよりドラマチックなものに変更しました。

― 今回の映画は、自分で書いて監督したので、納得ですね。
イスラエルのファンドも付いていますが、最初のタイトルから、アラビア語と英語で、ヘブライ語がなかったことが嬉しかったです。資金がついていても、忖度しなくても文句はないのですね。
もしかしたら、アカデミー国際長編映画賞の代表になるかもしれないとのことですね。

監督:選ばれるかどうかが、明日判明します。イスラエルの代表になるかのか、ルクセンブルグの代表になるのかということはあります。
(注:9月下旬に、ルクセンブルグ代表に決定しました)

◆ユダヤ人もパレスチナ人も本作に足を運びたがらないのが問題
― 映画を観たユダヤ人の反応は?

監督:パレスチナ人を映画で観たくないという意識がどこかにあると思います。
観ていただいたなら、同じところで笑うし、同じレベルで理解して、いい気持ちで劇場を出ます。足を運んでもらうのがチャレンジです。

― パレスチナ人の反応はいかがでしたか?

監督:やはりなかなか観て貰えません。パレスチナ人が題材だと、悲惨な状況を見せられるのではと思うようです。イスラエルとのことが描かれているから観たくないという風潮ですね。テーマとして飽き飽きしているということがあると思います。

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― ユダヤ人とパレスチナ人が顔を見合わせて意見を交わすという物語。両方の人にこそ観てもらいたい映画ですね。アカデミー賞の代表になれば、注目してもらえるのではないかと期待しています。

監督:まさにそうだと思います。きっと考えが変わって、観てくれると期待しています。

― 今日はありがとうございました。

取材:景山咲子


★アカデミー国際長編映画賞 ルクセンブルク代表に決定!
監督の喜びのコメントは、こちらでどうぞ!

『この星は、私の星じゃない』田中美津さん、吉峯美和監督インタビュー

2019年10月26日~11月8日 渋谷ユーロスペースにて公開
この後の上映情報は末尾に紹介

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監督:吉峯美和
出演:田中美津、米津知子、小泉らもん、古堅苗、上野千鶴子、伊藤比呂美、三澤典丈、安藤恭子、徳永理華、垣花譲二、ぐるーぷ「この子、は沖縄だ」の皆さん

作品紹介
1970年代初頭「女性解放」を唱えて始まった日本のウーマンリブ運動を牽引した田中美津さんの歩んできた道、鍼灸師として働く姿、そして沖縄辺野古に通う彼女の今を4年に渡り追ったドキュメンタリー作品。
詳細は下記で
シネマジャーナル 作品紹介 
『この星は、私の星じゃない』 公式サイト 

吉峯美和監督プロフィール(公式HPより)
1967年生まれ。フリーランスの映像ディレクターとして、民放やNHKのドキュメンタリー番組を手がける。2015年に、Eテレ特集『日本人は何をめざしてきたのか 女たちは平等をめざす』で田中美津にインタビュー。その言葉の力と人間的魅力に惚れ込み、自主製作で本作の撮影を始めた。

田中美津さん、吉峯美和監督インタビュー
2019年9月 あいち国際女性映画祭会場 ウイルあいちにて

あいち国際女性映画祭2019で上映があり、上映後Q&A、その後のインタビューです。

・インタビュアー 高野史枝 
映画監督(『厨房男子』)、シネマジャーナル執筆協力者 名古屋在住
・まとめ 宮崎暁美 シネマジャーナルスタッフ 東京在住

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*「パワフル ウィメンズ ブルース」

高野史枝 ドテカボ一座(リブセンター)が「パワフル ウィメンズ ブルース」を歌って踊っている姿を見て、名古屋で赤華(しゃっか)というグループを作ってあちこちライブしていた人たちのことを思い出しました。名古屋でもウーマンズハウスとかそういう喫茶店があったんです。もう70歳近いのですが。彼女たちはずっとあれが私の原点なんて言っていました。「パワフル ウィメンズ ブルース」は名古屋でもいろいろな人に影響を与えています。

宮崎暁美 「パワフル ウィメンズ ブルース」の曲は知っていたし、歌っていたのですが、田中美津さんの詩だとは知りませんでした。この映画で知りました。

高野 「たまたま女に生まれただけなんだよ」というのが、映画の中で最後につながっていましたよね。

田中美津さん 試写でこの映画を3回観てるんですが、もっぱら「なんでこんなズボン履いてるのよ」とか、自分の「あれまぁ!」と思うところしか見てなくて、全部をしっかり観たのは、実は今日が初めて(笑い)。観終わって隣にいた監督に、「ウン、なかなかいい映画よね」と初めて感想を言って・・・・(笑)。

高野 まあ、最初から最後まで、1時間半出づっぱりですものね。
監督にお聞きしたいのですが、映画論法でいくと、普通は周りに本人を語らせて、その人を浮かび上がらせるというやり方が、安易かもしれないけど一応客観的なアプローチだと思うのですが。上野千鶴子さんが出ているのなら、上野さんが語ったらすごいよねと思ったのですが

吉峯美和監督 上野さんや伊藤比呂美さんにもインタビューしたのですがカットしてしまいました。

高野 それはどうしてですか?

吉峯 尺の問題が大きかったです。90分に収めなきゃいけないというのがありました。取捨選択していく中で、田中さんがしゃべっている以外で評論的なものはやめようとなりました。よくTV番組では、知らない人もいるから田中さんがいかにすごい人かということを証明するために誰か識者みたいな人に持ち上げてもらう手法を使います。2015年のTVの時は実際、上野さんに田中さんを語ってもらったんですよ。田中さんの『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論』を「今は古典になっている本で、これを学生の時に読んで共感したのよ」と語っています。だけど映画では、そういう作りをしなかった。インタビューという手法じたいを少なくしたかったからです。
なぜ「この星は、私の星じゃない」と思うようになったのかということを語ってもらうために、そこの部分はしっかりお寺や公園で撮りました。また息子さんとの葛藤の話は、自宅でインタビューしているのですが、その2つ以外は、基本的には田中さんは誰かとしゃべっているとか、一人で自然としゃべり出すとか、普通に何かをやっているのを撮るというような作りにしました。本人でさえインタビューを減らしたいので、上野さんや伊藤さんへのインタビューは使わないという方針でした。

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高野 やっぱり本人が語るのが一番強いですね。今回観ていて改めて思ったのですが、言葉に対する思い入れ、才能がすごい。そのまま文章になっていくんですが、普通あまりそういうことはないですよね。きちっと伝わってくる。

吉峯
 田中さんはフェミニズムにおいて、与謝野晶子や平塚らいてうと並び称される人なのですから、それ以上持ち上げなくてもいいのではというのがあります(笑)。


*嬉野京子さんの「ひき殺された少女」の写真をめぐって

高野 自分の思いを語っている断崖のシーンも好きです。沖縄で写真*をみせながら男の人と口げんかしているシーン、これよく撮ったなと思いました。

*嬉野京子さんの「ひき殺された少女(1965年)」の写真を入れ込んだ田中さんが作ったチラシのこと。この写真を見たくない人も沖縄には多いから、こういうのを配らないでほしいといってきた男の人がいて、田中さんと口論するシーンがある。
嬉野京子さんの写真 参考サイト1
http://longrun.main.jp/okinawa1965/film.html

田中 あれはほんとはもっと激しくやりあってたのよ。あの人、東京の人で、自分の意見なのに「沖縄のおばぁが嫌がってる」と言ってクレームをつけてきた。そういうクレームのつけ方ってズルいと思うのよね。

宮崎 私はあの嬉野京子さんの写真を1970年頃見て、田中さんと同じように衝撃を受けました。だからあの写真に対して「これを見たくない」という人がいるということに驚きました。思ってもみなかった。

田中 自分が正義だと思ってる人とは、話し合っても疲れるだけ。だからあの男を相手にしてもしょうがないと思って、直接当のおばぁに写真をどう思ってるのか感想を聞いたのね。

吉峯
 「あの事故にあった少女の尊厳を考えたら、このチラシを配るのはやめろ」ということだったんです。「その少女の死をただの死に終わらせないで、この子の死が発するメッセージを伝えることも、彼女の尊厳を生かすことにつながるんだ」という田中さんの反論が良かったから使いました。しかもその後、ちゃんとおばぁに謝りに行ったところが偉い。「私はこの写真を見たことで、何かをしなくてはという思いにかられて信念を持ってやっているけど、気を悪くしたのだったらごめんなさい」と。

田中 あの少女の死を、本土の人間はほとんど知らないというそのこと自体が、あの子の尊厳を踏みにじっている根本であって、本土の人間にまず、あの写真を見てもらいたい、本土の私らは見るべきだと思って、始めた運動なのよね。

高野 そうですよね。

田中 そうしたら隣にいたおばぁが、「もうずいぶん前に見た写真だから忘れていたけど、こういうことがあったね」と思い出してくれて・・・。こういうことがいくらでもあった、と。そのことを直接聞けたから、まぁあのクレーム男も役には立った(笑)。

高野 男を面と向って敵にしたくはないけど、そういうタイプの象徴的な人が出ていたと思いました。田中さんはこういう権威的なものと闘ってきたよねと思いました。

田中 私、権威を盾にしてモノをいう人をバカにしていますから、ああいうのとは闘うより無視したいほう。

*田中さんと吉峯さんの信頼関係

高野 断崖のシーン、参道のシーンを観ると、吉峯さんと田中さんの信頼関係がしっかりと出ていましたね。ドキュメンタリーは時間が必要ですよね。知り合ってすぐという感じの映像ではないと感じられますよね。


田中 ほんとに、私のそのまんまが撮られてる。

高野 ある程度の時間をかけないと、そこまで撮れないですよね。

田中
 でも、私の場合、最初から緩んではいるんです(笑)。

吉峯 久しぶりに観たんですが、TV番組の時はやっぱり顔が厳しいですね。今と全然違いますね。

高野
 撮っている順番はわからないですが、最初の頃のきちっとしゃべろうとしている感じと、最後の頃の好きに撮ってねという感じ、雰囲気が時間の経過でずいぶん違ったと思います。やっぱり出ますよね。1ヶ月くらいで撮っていたら、顔の表情は硬いままですよね。

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*ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った

田中 顔と言えば、リブ運動をしていた時の信頼している仲間であった米津さんと会って話している時の顔が、我ながらほんとに嬉しそうな顔をしていて驚いた、

吉峯 米津さんも嬉しそうでした。

田中
 ほんとに

高野 その時のリブの話がすごく良かったです。「ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った」という話、ジーンときました。

吉峯 あれは米津さんがいたから撮れた話だったと思います。

田中 米津のところに、たまたまソファがあったから(笑)

高野 抽象的な話も必要だけど具体的な話は説得力ありますね。「ソファを買って、初めてこの星で生きていこうと思った」という言葉は、ものすごく伝わってきました。

吉峯 実感がわく言葉ですよね。

高野 それまでは仮暮らしだったけど、ソファを買ったことで、「ここで暮らしてゆく」という決心がついたというのを感じました。

田中
 あれは、年齢と関係なく通じる話よね。

高野 特に女性にはリアリティがある。

吉峯 「この星は、私の星じゃない」という言葉では思わなかったけど、同じような違和感を持っていたという人がいました。

宮崎
 『この星は、私の星じゃない』というタイトルに、最初、何だろうと思ったけど、このソファの話で「なるほど」と思って、このタイトルぴったりだなと思いました。

吉峯 私は好きなんですけど。

高野
 皆さん、ここで腑に落ちるんですよね。この作品の時制はバラバラなんですか?

吉峯 そうですね。最初のエピソードは、まあ、アバン(導入部分)みたいなもので、リブのこと、鍼灸師、沖縄のことなどが、頭18分の中に入っていないといけないと思っていました。

高野
 「こういう映画ですよ」という導入部ですね。

吉峯 その後、お寺のインタビューあたりからは、時系列通りという感じです。子供だった田中さんがいて、20代になってリブやって、メキシコに行って母になって、息子が育って鍼灸師になってというように話を続けたんです

*沖縄に通う

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@konohoshi2019


高野 沖縄の部分はまとめずに、沖縄に行って帰ってきて、東京での日常があり、また沖縄に行く、そういう日常だよという風に作っているのですね。

田中 あの、米軍の車に引かれた女の子の写真見て、すごくショックを受けて、私は沖縄のことを自分の問題として考えてこなかったと猛反省。直ちにいろんな人に呼び掛けて沖縄ツアーをやるんですが、あの時、実は岩波書店ともうひとつの出版社から本を出すことになっていたんです。それを全部打っちゃって沖縄へ、沖縄へとなってしまって・・・・。

高野 そのあと、必死に校正していましたね。

田中 必死の校正は今年になってからで、この映画の題名と同じ「この星は、私の星じゃない」という本と、この10月にインパクト出版会から出る「明日は生きてないかもしれない…とい」う自由」という本があの時に蹴飛ばされちゃった2冊なんです(笑)。

吉峯 ようやく映画の完成に合わせて出版されました。

田中 1枚のチラシから、自分は沖縄の大変さを分かったつもりでいただけなんだと知って、本のことどころじゃない、ひたすら恥ずかしかったのです。

吉峯 田中さんはツアーだけで10回くらい行っていますが、個人的に下見も行かれていますので、倍くらいは行ってますね。

田中
 久高島のよくしゃべるおばさん、あの巫女っぽい人が出てくるシーンだけど、話を聞いているフリをしながら、私、居眠りしているんですよね。わかったかしらね(笑)。

高野
 あれ居眠りですか。私は感動して頭垂れているのかと思いました(笑)

田中 あれは辺野古へのツアーの翌日で、参加者と別れて私一人で久高島に行ったんですけど、最初から疲れているのに、暑い中あちこち連れ回されて、もう、あまりに疲れ果てて思わず眠ってしまって・・・・(笑)。彼女の話がなんか神がかってて、そういうの苦手だし。

宮崎 私は久高島まで行ったんだと感動しました。

吉峯 呼ばれないと行かれない島です。私たちきっと呼ばれたんですよ。

田中 女たちの島だしね。

高野 あの美津さんを見ると、よく似合っていましたね。巫女気質あるんじゃないですか。

田中 少しはあるかもしれないけど、神がかってる人に従順だったのは、あまりにも疲れていたからよ。

*カリスマ

高野 友人から聞いてほしいと頼まれたのですが、メキシコに渡られたのは国際婦人年のメキシコ会議で行って、そのまま残ったんですか?

田中 そう、たまたま行って、たまたま居ついた。

高野 リブの中でカリスマのように持ち上げられてしまって、居心地が悪かったので日本から飛び出したということなんですか? 田中さんがいなくなってから、運動が下火になっていったということもあったのですが、田中さんはそのへん意識していたのでしょうか?

田中 私にとってリブは「1対多数の関係」で、そういう関係になってしまうカリスマって、なりたくてなるもんじゃないのよね。思いもかげずカリスマみたいな者になってしまい、いつも落ち着かなかくて。体が悪くなってメキシコに逃れたことで、いわば仕切り直しができて・・・・。鍼灸師はいい、鍼灸は1対1の関係だもの、もう、私の天職です。

高野 さます時間が必要だったんですね。

サブ・治療.jpg

@konohoshi2019


田中 「有名になりたくない」なんていうと偉そうに聞こえるかもしれないけど、なんで有名になりたくないかというと、「面白くなさそうだから」につきるのね。「有名になる」って、他人が自分をどう見るかということを常に意識する、させられるということでもあるし、そういう意味で、それって不自由になることでしょ。猫は、ただ生きているだけで猫なのに、人間ってただ生きているだけではその人にならない。自分を探しながら生きて行くんだよね。そして探してるうちに、こういう私は嫌だとかこんなのは私らしくないとかわかってくる。

高野 その意識もあったんですね。田中さんがカリスマを拒否したいという姿勢、リーダーなしで運動を進めるという考え方はリブの中で具現化しましたね。私は名古屋でワーキングウーマンというのを30年くらいやっていたんですが、リーダーも事務局も志願制というか、やりたい人がやる。一切、代表とかはなし。
 
田中 リブって、そういうことを大事にしようと努力した運動だった。

高野 そうですね。皆さん、若い頃からそういう風に活動してきたのですが、他からの問い合わせとかで、「代表はいったい誰なんですか」とか「誰か責任もって話してください」とか言われるのですが、その時に「担当が対応します」と言ってやってきたので、そういう、田中さんがおっしゃったような「1対多数」というようにはしないというのが、あの頃の運動の流れでした

田中
 理念は横一列なんだけど、動き始めると自分が中心みたいになってしまうのが、とにかく嫌だった。でも、それを個人的にどうにかしたかったら運動から離れるしかないがけど、私は離れたくなかった。それに私がそういう存在であることの意味もあったのね。できたばかりの運動だと、どこがヘソかわからないと、マスコミは取り上げてくれないから。

高野 それはそうですね。

田中 それだから頑張りすぎて体が悪くなってメキシコで暮らすようになった時には、ほっとしました。ハハハ、恋愛もできたし。

高野 お子さんも生まれたしですね。

*生活者としての田中さん

宮崎 運動家としての田中さんの姿を、いくつかのドキュメンタリーで観てきましたが、初めて生活者としての田中さんを見た作品でした。私としては安心というかほっとしました。田中さんも普通に生活して生きてきたんだなあと思いました。さっきトークの時(映画祭上映後のトーク)。「私もこうやって日々の生活を送って生きていけばいいんだなと勇気をもらいました」という人がいましたが、私もそう思いました。

田中
 そうですよ。

高野 そう思った人、たくさんいらっしゃいますよ。

吉峯 「もっとすごい人のはずなのに、どうしてこんな普通の人みたいに描いているの」って、怒られるんじゃないかと思ったんですが、そういう風に言ってくれる人がいて安心しました。

高野
 撮っていて、すごい人だというのがあるし、お話しもインパクトがあるじゃないですか。日常をこういう風に撮っていいのかなというジレンマみたいのはなかったですか?

田中
 なかったみたいよ(笑)

吉峯 ジレンマはないんですけど、最初の頃はやっぱりすごい人を撮っているという意識がありました。その人の記録を歴史として残さなくてはいけないみたいに思っていたんですが、撮り始めて2年くらいたって、そうじゃないんだとわかったんです。田中美津という人を撮っているけど、自分を見つめ直すような作業なんだなと思いました。だからテーマが変わっていったんですよね。

*「膝を抱えて泣いている少女」が意味すること

高野 一番、変わられたというのはどういう部分ですか

吉峯 2年目の時に、女子会をやったんですよ。30代の女性カメラマンと、40代の音響効果の女性、50になろうとする私と田中さんの4人で。田中さんはお酒を飲めないけど、他のメンバーはお酒を飲んで。その時、田中さんが「あなたたちが柔らかな感性を持ち続けて作品を作っていきたいのなら、自分の中にいる膝を抱えて泣いている少女の存在を忘れてはいけないんだよ」というようなことをおっしゃって。確かに私、自分の中にいる泣いていた、つまりトラウマ的なことをなかったことにして、忘れて蓋していたんです。それでなんか大人になったような気分になって、男と同じように番組をバリバリ作って、結婚もしていないし、子供もいないけど充実した日々を送っているという風に思っていたんだけど、それって、その少女に蓋して生きてきたということなんだなあ、それを言われたんだなと思ったんです。そんな痛みに蓋しているような人には、「田中美津」は捕まりませんよって言われたような気がしたんです。
それでその頃から、その蓋していた少女ってなんだろうって自分のことを一生懸命探るようになって、そういえば私「この星は私の星じゃない」と泣いていた時あったなあと思い出したんです。その少女って、結局、田中さんの中には今もいるから、そこの痛みから発するから、皆に言葉の強さが伝わるんだと思って、だから、自分の中にもいて、田中さんの中にもいる、その少女を描かなくてはいけないんだ、そこを大事にしないと、ほんとに偉人伝のようになっちゃうと思ったんです。
それが2年目くらいにわかったので、そこから撮り方も変わっていたし、これまでいっぱい撮ったけど、これもいらない、あれもいらない。少女に関係ないと思うところは全部捨てることにしました。

高野
 撮っているうちに変わるというところは、必ずありますよね。

宮崎 4年も撮ったということは、かなり撮っていますよね。

高野 もう一本映画作れそう。見るのが大変ですよね。

吉峯 そう。ぜんぶ文字起こしもしたし、それが大変でした。

高野 実は私の話なんですが、私も今『おっさんず ルネッサンス』という作品でおっさんを撮っているんです。おっさんって大嫌いで、だいたいおっさんって抑圧的じゃないですか。油断するとセクハラしようとするし、パワハラはあるし、おっさんたちに変わってほしいという作品を作ろうとやっているのですが、10年くらい付き合いのある人たちを撮っています。撮っているうちに、なんか可愛げがすごくあると思うようになりました。抑圧が取れて、社会からの足枷が取れて、むき出しの自分になって、妻との関係に悩んだり、友達ができないって悩んだりする姿があって、おっさんは意外に可愛いと思えてきました。

*『おっさんず ルネッサンス』 高野さんが今、製作している映画
愛知県大府市の施設「ミューいしがせ」で生活自立を学ぶおっさんたちのドキュメンタリー映画 
https://ossan-obu.com/

田中 フェミニストもおっさんも、好きなヤツと嫌いなヤツがいるだけじゃないかと思うのよね。。。どんな肩書きだろうと嫌いなヤツは嫌いなんです。妻子に優しく家事をやってるという男が全員好きなわけではないし。「膝を抱えて泣いていたボク」を忘れない男で、女・男の別なく付き合っていける、オープンザッマインドの男が、いいなぁ。

高野 なるほどね(笑)。その少女の心情というのが自分の中にいないと、そういのが消えてしまうと、これはうまく撮れる、これは効果的という風になってしまうかもしれませんね。

田中 「膝を抱えて泣いている少女」というのは、映画の中に出てくる言葉で使えば、「なぜ、私の頭に石が落ちてきたのか」ということへの拘りとイコールなのね。それは、「たまたま」に過ぎないんだと、散々悩んだ末に私は思い至るんだけど。ほんとにつらい何かを抱えた人って、「他の人も皆いろいろな傷を負ってるんだ」とわかっても、そういう事実に四捨五入できない自分がいるんですよ。「なんで私の頭に?」という、その問いそのものは、個人的に答えが出せるものではないし、社会的にも難しい。。。いわばそれって天に問うようなことですものね。そんな大きな事柄だから、「なぜ私のアタマに?」という問いや苦悩が宗教をもたらしたと言っても過言じゃないと思うんです。
いまはもう、石が落ちてきたのは「たまたま」なんだと知ったから、「なんで私のアタマに?」というこだわりも薄れてきましたが、でもそういうことばではないかもしれないけど、「なぜ私のアタマでなければならないの?」と悩んでいる人はたくさんいるはず。だから心細く自分を手探りしてきたことを、自分は忘れちゃいけないと思うのね、幾つになっても。その思いから多くの人とつながって行けるはずだから。


高野
 そういうのをお聞きできただけでよかったです。これから自分はどうやって生きるかというのも、少しそういう視点を忘れちゃだめということですよね。

田中
 センチメンタル過ぎるのは、モチロンいやだけど、センチメンタルがまったくなくなってもダメよね。。。人と繋がっていくのは、センチメンタルな部分もあってのことだから。

吉峯 あの海の崖のところで泣いていたのは、美津さんの少女の部分が反応してですね。

宮崎 田中さんの思いが伝わってきました。

田中 自分で言うのもナンですが、あそこ、いいですよね。

*カメラの組み合わせについて

高野 映像がクリアに撮れていますね。

吉峯 カメラはいいです(笑)。

高野 カメラいいんですか。

吉峯 私が撮っている自宅の場面は家庭用のビデオカメラだけど、外の映像とかイメージカットなどはいいカメラで撮っています。断崖で撮ったのは、南幸男さんという日本のドキュメンタリー界では5本の指に入るカメラマンです。

田中 横にカメラがあるのにゼンゼン気にしないでしゃべれたのは、やっぱカメラマンの腕がいいからでしょうね。

吉峯 ほんとですね。

田中 お蔭で、戦火に追われて人々が飛び込んだあの崖の下で話してたら、まるで自分も飛び込んだ一人になったような気がしてきて・・・・。

高野 慣れてしまったという感じでしょうね。

吉峯 あそこはシンクロしちゃって、世界に入っちゃっているんですよ。

高野 ちょうど良かったですね。小さいカメラでは家の中とか、狭いところを撮っていて。

吉峯 鍼灸院なんかも女性が裸だし、私が小さいカメラで撮っています。

高野 狭いところは機動性があるカメラ、広いところは大きなカメラで、映像にメリハリが効いていますね。色合いもいいですし。後半は外の景色が多いですしね。両方がうまく組み合わさっていますね。

吉峯 カメラマンの腕です。

高野 そういういいカメラマンを使えていいですね。

吉峯 一点豪華主義で、イメージカットや広いところの場面とか撮ってもらいました。

高野 私は大学出たてのカメラパーソンにお願いしています。京都から来てもらって撮影しています。名古屋ではそういう映画のプロカメラマンがいないので羨ましい。DVDができたらお送りします。

田中 東京でやるときは教えてください。映画は映画館で観るのが一番です。

吉峯 ほんとですよ。

*ウーマンリブとフェミニズム

宮崎 3,40代の人たちはウーマンリブの時代を知らないから、この映画を観て興味を持ってくれる人がいたらいいなあ。ウーマンリブの運動があってフェミニズムが生まれたということがわかるといいなあとも思います。ウーマンリブの運動、こういうような形であったんだなと、とても入りやすい内容です。

吉峯 そうですね。田中さんの生き方を通してリブたちの思いが伝わればいいですね。

田中
 リブとフェミニズムってちょっと違うんですね。あと、この映画ができて良かったなと思うのは、リブっていいなって思う人が、この映画で増えんじゃないかということです。

宮崎
 私もそう思います。私も運動に関わってはいたけど、カチカチの運動の記録だと、運動に関わっている人はわかるけど、そうでない人はそう思わない人もいる。


吉峯 逃げ腰になっちゃうから。

*再び「パワフル ウィメンズ ブルース」について

田中 みんなで歌って踊っている場面、いいでしょ。私、あの場面すごく好き。

高野
 すごくいい。あの時代の記録として撮れていて良かったですね。

宮崎 あんな映像が残っていたなんて思ってもみなかったので驚いたし、嬉しかったです。

田中 あれ1番と3番だけなんですけど、2番も入れてほしかった。2番はなんと原一男監督の元女房で、私たちの仲間だった人が歌っていたんですが、彼女は体から発する力が強い人で「父ちゃんみたいな男じゃいやなんだよ、母ちゃんみたいに生きたくないんだよ」って歌ってて、あれ、入れてほしかったなぁ。

宮崎
 そうでした。そうでした。それは残っていないんですか。

吉峯 1番と3番しか使ってないんです。

高野
 名古屋でも、最初に言った「赤華」ってグループが、あの歌をずっと歌っていたんです。オリジナルは直接は聴いていなかったんですが、彼女たちが歌っていて知っていましたし、彼女たちの持ち歌だと思い、それを聴いてとてもインパクトがある歌だと思っていました。

田中 みんな好きだったのよねぇ。

高野 テーマソングになっていて良かったですね。かっこいい歌になっていましたね。

田中 同じ歌詞が、カッコいい新しいメロディで歌われてて、あれでリブファンがグンと増えた感じ。

高野 「たまたま女に生まれただけなんだよ」って、いろいろしんどいことがあっても、この歌に励まされました。応援歌になっていますよね。

吉峯 「私のサイコロ私が振るよ、どんな目が出ても泣いたりしないさ」って。

田中 この映画、をマスコミがどのくらい取り上げてくれるかなぁ。なんせ男マスコミだから・・・・・。

高野 「なんだリブか」ってことにならなければいいんですけどね。

宮崎 私もかつて、そのマスコミが作り上げたリブ像のおかげで、リブのことを誤解していて、1975年まで5年の間、リブの人たちに出会わずにいました。

田中 敬遠しちゃったのね。でも今日ね、上映が終わった後、感じのいい男の人が寄ってきて、感動したと言ってしてしっかり握手を求められたんだけど、なかなか手を離してくれなかったのね。60代くらいの人だったけど、何をやっている人なのかなと凄く印象に残った。
 
吉峯 男にも伝わって良かった。その人も自分の中の少年を思い出していたんじゃないですか。

田中
 嬉しいよね。

高野 やっぱり映画ができると大きいですよね。みんなリブの影響をあちこちで受けながら細々とやっているんですよ。

田中 この映画、10月26日からまず東京で公開されるんですが、その際いろいろな方がゲストに来てくれることになっていて、上野千鶴子さんもその一人。上野さん、この映画を観てどう思うかなぁ。感想が楽しみです。

高野
 上野さんは、ちゃんと受け止めてくれますよ。

田中 フェミニズムの代表として上野さんがいるでしょ。でも自分もフェミニストなんだけど、フェミニズムはあまりシックリ来ないという人が、私のファンには多いのよね。

宮崎 そうですね。私もそうです。

高野 私もちょっと違うというのは、感覚としてよくわかります。

田中 だから上野さんがこれを観て、どう思うか知りたいのよね(笑)。 

高野
 フェミはやっぱり根っこに膝を抱えた少女が必ずいると思うんです。そして「この星は、私の星じゃない」とも思った人たちだと思うんです。

田中 私ね。上野さん的なフェミニズムを否定的に思っているのではなく、あの映画を観てから一層、私的なフェミニズムと上野さん的なフェミニズムの両方必要なんだと強く思ったのね。そのことを上野さんもわかっていると思いますが、この際生の声であの映画を観た感想聞けるのが聞けるんで。楽しみだなぁと

高野 ほんとにそうですね。興味深いです。

吉峯
 しかも初日ですよ。初日。

取材を終えて
東京でインタビューさせてもらう予定でしたがあいち国際女性映画祭で上映があるということを知り、ちょうど映画祭に行くので、今回は名古屋で取材をと考えたところ、いつもシネマジャーナルに記事を寄稿されている名古屋在住の高野史枝さんが取材申請しているというのでご一緒させてもらいました。名古屋の女性たちの運動との兼ね合いでお二人に質問していたので、名古屋のことも知ることができる記事ができました。名古屋でも「パワフル ウィメンズ ブルース」が歌われていたというのは感慨深いものがあります。
米津さんも出てきて嬉しかった。私は1980年頃、新宿の製版屋(印刷の版を作っていた)で働いていたんだけど、そこに米津さんが時々製版の依頼に来ていた。私はてっきりリブ新宿センターの仕事と思っていたんだけど、その頃はすでにリブセンターはなかったんですね。この映画のことを調べていて知りました。米津さんは大きなバイクに乗ってやってきました。あの頃、大きなバイクに乗った女の人は珍しく、さっそうとしていてかっこよかった。そんなことを思い出しました。
そして何よりも田中さんがこんなに気さくな方だとは思いませんでした。そんな田中さんの姿を4年も追い続けた吉峯監督。長い時間が紡ぎ出した田中さんの姿だと思いました。(宮崎暁美)

2019年10月26日~11月8日 渋谷ユーロスペースにて公開

連日朝10時30分より(上映時間90分)上映開始
トークショー開始 12時ごろの予定
11月2日(土)は田中美津さんによるトークの聴き手は渡辺えりさん(女優/劇作家/演出家)です!
以後のトークイベント(いずれも映画の上映終了後)‼
11月 3日(日)小川たまかさん(ライター/フェミニスト)
11月 4日(月・祝)吉峯美和さん(本作の監督)
11月 6日(水)安冨 歩さん(社会生態学者/東京大学東洋文化研究所教授)

ユーロスペースでの上映後、名古屋シネマスコーレ 横浜シネマリン、大阪シネ・ヌーヴォ 京都みなみ会館神戸元町映画館 鹿児島ガーデンズシネマ 沖縄桜坂劇場 松本シネマセレクト 他全国順次公開予定!

参考
シネマジャーナル スタッフ日記
『この星は、私の星じゃない』完成披露試写会に行ってきました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/469274783.html




『少女は夜明けに夢をみる』 メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『夜明けの夢』が、この11月2日(土)より『少女は夜明けに夢をみる』の邦題で東京・岩波ホールほか全国順次公開されるのを前に、メヘルダード・オスコウイ監督が来日。「国際人流」と2誌合同でインタビューの機会をいただきました。


『少女は夜明けに夢をみる』

原題:Royahaye Dame Sobh(夜明けの夢) 英題:Starless Dreams
監督:メヘルダード・オスコウイ
製作:オスコウイ・フィルム・プロダクション

高い塀に囲まれた女子更正施設。ここには、強盗、殺人、薬物、売春などの罪で捕らえられた少女たちが収容されている。
取材申請してから7年待ち、ようやく3ヶ月間の取材許可を得たオスコウイ監督。更正施設に通って、少女たちにマイクを向ける。
監督に同年代の娘がいることを知り、「あなたの娘は愛情を注がれ、わたしはゴミの中で生きている」と語る少女。そんな彼女たちが心を開いたのは、監督自身、15歳の時に父親が破産し、自殺をはかった経験があると知ったからだ。少女たちが語った人生は、それぞれが壮絶だ。貧困や、親族からの虐待で罪を犯してしまった少女たち。雪だるまを作り、無邪気に雪合戦に興じる姿からは、心に傷を抱えながらも、塀の中で過ごしている間は安心したように見える。
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作品紹介 

2016年/イラン/ペルシア語/76分/カラー/DCP/16:9/Dolby 5.1ch/ドキュメンタリー
配給: ノンデライコ
(C)Oskouei Film Production
公式サイト:http://www.syoujyo-yoake.com/
★2019年11月2日(土)より、東京・岩波ホールほか全国順次公開

メヘルダード・オスコウイ
 Mehrdad Oskouei
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1969年、テヘラン生まれ。映画監督・プロデューサー・写真家・研究者。「テヘラン・ユニバーシティ・オブ・アーツ」で映画の演出を学ぶ。これまで制作した25本の作品は国内外の多数の映画祭で高く評価され、イランのドキュメンタリー監督としてもっとも重要な人物の1人とされている。2010年にはその功績が認められ、オランダのプリンス・クラウス賞を受賞している。イラン各地の映画学校で教鞭を執り、Teheran Arts and Culture Association(テヘラン芸術文化協会)でも精力的に活動している。2013年にフランスで公開された『The Last Days of Winter』(11)は、批評家や観客から高く評価されている。(公式サイトより)


◎メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー

机の上には、監督が持参したペルシア柄のテーブルセンターが敷かれ、ピスタチオ入りのクッキー「ソーハーン」が置かれていました。

   K誌(「国際人流」佐藤美智代さん) 
   シネジャ(シネマジャーナル 景山咲子)

◆少年更生施設の奥の少女たちが気になった
K誌:本作はティーンエイジャーの3部作の最終章ですが、そもそも少年少女たちの映画を撮ろうと思ったきっかけを教えていただけますか?

監督:この作品だけでなく、私はいつも、声を出せない人たちや、声を出しても聞く人がいない人の言葉を皆に伝えたいと思って作っています。
3部作は、青少年の話でもありますが、刑務所の話でもあります。青少年時代の自分の体験なのですが、15歳の時に父が倒産してしまって、家族は経済的に苦しくなって、私自身、絶望して自殺しようと思ったことがありました。
革命前なのですが、父も祖父も政治的な理由で刑務所に入れられていました。ですので、子どもの時から刑務所の話を身近に聞いていました。自分の経験した15歳の時の混乱と共に、こういうテーマで撮りたいと思いました。
青少年を巡る3部作ですが、イランの映画史の中では初めてドキュメンタリー監督のカメラが刑務所に入りました。
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K誌:娘さんがちょうど生まれて女の子に興味をお持ちになった時期であったり、社会的経済的混乱の中で子どもたちの犯罪が増えたことが映画を撮るきっかけになったのでしょうか?

監督:
最初に少年施設を撮ろうと思ったのは、自分の15歳の時の経験などが影響しています。少年施設に入って撮影した時には、自分には娘がいたのですが、それがきっかけになって少女に興味を持ったわけではありません。
少年施設を撮っていたときに、少女が連れていかれるのをみて、奥に少女の施設があるのがわかりました。
カメラを持って入ってみると、自分の娘と同じ年ごろの少女たちがいて、皆、自分の娘よりも頭もよくて、大変な経験をしていて、彼女たちの将来はどうなるのか、施設の中でどういう生活をしているかに興味を持ちました。
最終的には撮影許可が下りるまで、7年待たされました。ねばって待ったのは、少年施設を撮っていた時に少女が奥に連れていかれるのをみて、すごく驚いて、絶対中を見てみたいと思ったからなのです。

◆自分の痛みを治すために映画を作っている

シネジャ: 「お父さんに仕事があればいいのに」という少女の言葉が切実でした。監督も15歳の時、お父様が破産して自殺しようと思ったとのこと。未成年の子どもにとって家庭環境が人生を左右すると、つくづく思いました。イランだけでなく、どこの国でもあることと考えさせられました。

監督:今の言葉を聞いてわかったのですが、私たちは子ども時代に経験したことを忘れてしまうのですが、大人になって同じような経験をした人の話を聞いて、自分にもそんなことがあったなぁと、ふっと思い出します。人間の気持ちを題材にして映画を作っている監督たちは、自分の内面と会話しているのだと思います。自分の中に何か問題があったり、悲しみや痛みがあるのを治そうと思って映画を作っています。私は15年間も刑務所の話を撮っているのですが、まわりの監督から、「もうその題材はやめてほかのことを撮れば」と言われても、「言いたいことが終わってない」と答えるのです。でも、終わってないのではなく、自分の中の痛みが解放されてないので、撮りながら自分を治そうとしている部分が大きいのだと思います。
作品が出来ると、皆に見せて、これから子どもたちをそういう目に合わせない方法を考えましょうと提示したいのです。皆の救いになれば、自分の痛みも癒されると思っています。


◆家族の絆が強いイラン人。外国では群れないのは、なぜ?
シネジャ:イランの人たちは家族の絆がすごく強いと思っているのですが、そんなイラン社会で、この施設にいる少女たちは施設を出て家族と会うことも拒みたいと言っています。人間関係が希薄になっている日本では、さほど感じない寂しさを、イラン社会では家族との関係が希薄なことをいっそう寂しく感じるのではないかと思います。
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監督;大事な話だと思います。文化の違いの話だと思います。2日間、いろんな方と話をしてわかったのですが、日本の施設では、入所している青少年に自己責任として反省させたり謝罪させたりしているようです。イランの施設では、施設の人たちが入所している子どもたちを守ろうとします。慰めて、皆とシェアしようとします。そこは文化の違いだと感じます。
これは私の疑問なのですが、いろんな国にイラン人が住んでいるのですが、イラン人は中国人やインド人のようにコロニーをつくりません。
イラン人は国を出ると単独で暮らす傾向があります。イランの中にいる時には、家族の絆も強いし、親戚などとよく集まるのに、これはなんだろうと。
例えば、空港でイラン人を見かけても、お互いイラン人とわかっても、知らない顔をします。外人ですという顔で前を通ったりします。国の中にいると、あんなに群れるのに。
この映画の少女たちも、家族のような気持ちになっているし、ソーシャルワーカーたちも、家族の中にいるような環境を作ってあげています。それほどイラン人は国の中ではコロニーを作るのが好きなのに、一歩、国を出ると、なぜあんなによそよそしくなるのかと思ってしまいます。
日本に来てみると、日本人は一人一人が孤独を感じているようにみえます。家族や親戚で集まることや友達のところに遊びに行くこともイランほどないと聞いています。それが一歩、日本を出ると、ヨーロッパやイランのツアーでは、皆くっついていて、旗の下で一緒に動いていてます。日本人は国の中でコロニーをつくらないので、イラン人と正反対で、なぜだろうといつも思っています。国の中で、一人一人でいるから、逆に外に出ると集団行動できるのかなと。
施設は、一つの大きな壁の中にあって、そのさらに小さな壁の中にいる十数人は、お互いをサポートして慰めあってくっついているのですが、一歩施設を出るとばらばらになります。
日本では、施設の中でばらばらで孤独。お互いに気持ちをシェアしないと聞きました。逆に質問したいのですが、日本人はなぜ自分の痛みをシェアしないのですか?

わたしたち二人:なぜなのでしょう・・・ 難しいですね。

監督:あんなに質問して、答えてあげているのだから、答えてくれなくちゃ。ドキュメンタリー監督としては、疑問を持ってカメラを動かしていて、いつも質問する側です。映画を通して大きな質問を投げかけているのに、今日はその映画について質問されるので、仕方ないから答えているんですよ。(笑)

シネジャ:日本人は、自分のことを知られたくないから、思いを明かさないのではないかと思います。

監督:
日本人は、そうやって、なぜ蓋をしようとするのですか?

シネジャ:
恥だと思うからかなと。

監督:文化的背景があるのですか?

シネジャ:
う~ん、どうでしょう。


◆壮絶な経験をした人は強くなる

監督:昨日、少女更生施設に入っていた経験のある女性の方から取材を受けました。今は成功して仕事をしていらっしゃる方です。その方は、まっすぐ私やショーレの目を見て、質問してくださいました。この2日間でいろんな方にお会いしたのですが、ほかの方は、まっすぐ私を見ずに目をそらして話すのに、とても印象的でした。
更生施設に入っていろいろな経験をして出てきたことや、今は4人子どもがいて、本も書いてと、まっすぐ自分のことを話してくださいました。すごい体験をした人は、すごく強くなっている気がしました。
私が取材した少女たちも、すごくしっかりとした意志を持っていました。先生になりたい、大学に行きたいとか、実現できるかどうかは別にして、やりたいことをはっきりと語りました。なぜ、苦労した人の方が、強くなるのかというのが、私の中の質問です。普通に社会の中で生きている人たちは、自信がなかったり、戸惑ったりしているのを感じます。
日本に来て数日ですが、いろいろな疑問が湧いてきたので、この映画が公開される時には、また来日して、日本の皆さんの声を聞いてみたいです。
この作品は、ヨーロッパやアメリカでも上映されて、観た人たちと話をして、何を感じたのか、どういうところで感動するのかなどもわかりました。
日本人がこの作品を観て、どう思ったのか、どこで感動したのか、普通の観客の人たちと話してみたいのです。私の作品の目的がちゃんと日本人に伝わるのかも知りたいのです。
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小津監督は、家族をテーマに映画を作っていて、日本の家族はこういうものということを少し学んだのですが、それから50年以上経っていて、日本の家族がどう変わったのかも知りたいと思っています。
黒澤監督の映画を観ると、スケールの大きなものを描いています。シェークスピアのハムレットのような歴史的な時代劇を作っているのですが、小津監督は、日本の小さな家族の中に入って、個々人がどんな考えを持っているのか、どんなコミュニケーションを取っているかを描いています。
私が取材した施設の子どもたちは、小さな環境の中にいるのですが、一人一人細かくみてみると、深みを感じます。ほんの数人が、イランという国の文化まで説明してくれるとわかります。今、私たちは作品を通じてイランと日本の文化まで話したではないですか。

◆権力者が絨毯の下に隠したものをはたきだして見せる
監督:昨夜、少しの時間ですが渋谷の街を歩いてみて、若者たちの姿を観察してみました。立ち方、坐り方、服装をみると、アピールしているものと中身が違っている感じがしました。
私は小津監督の『東京物語』(1953年)が好きなのですが、何十年前に作られた映画の中で、おじいさんとおばあさんが心を開いているのに、若い人たちはそれを受け止めないというジェネレーションギャップを描いています。
今の子どもたちと家族がどういう関係を持っているのかを考えると、もっと距離が離れている気がします。それがなぜなのか知りたいのです。
いろいろな文化の中で、どう人が生きているのかを私は考えてみたいと思っています。
(ここで、コップが倒れて水がこぼれました)
イランでは水が流れると明るい未来が開けるといいます。いい兆候です!
イランでは、物事を絨毯に例えて語ることが多いのですが、権力者や政府は、こういう施設のことや貧困社会のことを絨毯の下に隠します。視界に入らないようにするのですが、このような作品を作るのは少しだけ絨毯をあげて見せるためなのです。でも、また権力者は絨毯の下に隠します。私たちのような人が増えて、風で絨毯が飛んでしまえば、隠れたものが見えるようになります。


◆死刑執行の朝5時を過ぎれば、やすらかに夢がみれる
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シネジャ:少女たちが食卓を囲んでイランの新年「ノウルーズ」を迎える瞬間を映した場面がありました。イラン暦新年1394年でしょうか? 西暦2015年3月21日(土) 午前2時15分11秒(テヘラン時間)ですので、ちょうど夜明け前です。
(注:イラン暦の新年は、春分の日に迎えます。太陽が春分点を通過する時間を天文学的に正確に計算して、新年を迎える時として事前に発表されます。年によって、真昼になったり、夕方になったりと時間は様々です。)

監督:いいえ、撮影したのは、その前年、イラン暦1393年(西暦2014年)です。

シネジャ:
そうすると、新年を迎えたのは、午後8時27分7秒でしたね。

監督:タイトルを『夜明けの夢』としたのは、刑務所で死刑執行の時間が朝の5時で、彼女たちは死刑宣告を受けているわけじゃないけれど、朝の5時というのは怖い時間。5時を過ぎれば、安心して夢がみれるのです。

★監督から逆に質問攻めにあい、もう時間切れだったのですが、無理をお願いして聞いた私の意図を監督は察知して、「夜明けの夢」の意味するところを答えてくださいました。 
(注:11月6日にもう一度映画を観てみたら、新年を迎える場面、クルアーンや金魚を飾っているテーブルが出てきて、ラジオから「1393年になりました。おめでとうございます」というアナウンスが聴こえてました。失礼しました。映画でちゃんと言ってるじゃないかと冷たいことを言わない、優しい監督でした!)
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☆取材を終えて

お会いした時に、ペルシア語で挨拶したら、とても喜んでくださって、今日はペルシア語で話しましょうと冗談交じりに言われました。(もちろん、私のペルシア語が挨拶程度と見越したうえで!)
国の中では、あんなに群れるイラン人が外では群れないという監督の話に、知らないイラン人どうしでは、お互いの政治的立場などがわからないから、あえて近づかないのではないかと思いました。革命後、外国に出たイラン人は多く、ロサンジェルスやロンドンでは、ペルシア語のテレビやラジオもあって、決して群れないわけではないのです。
プレス資料のインタビューに、少女たちに接する時に、アムー(父方のおじ)だと嫌がられ、ダイー(母方のおじ)なら受け入れてくれたという話が興味深かったので、そのことも詳しく聞いてみたかったのですが、時間切れで残念でした。
精力的に話す監督に、とにかく圧倒されました。これからも絨毯の下に隠されてしまったものを大いにはたき出して衝撃的な映画を作り続けてくださることと期待しています。

取材:景山咲子




『ジョージア、ワインが生まれたところ』  エミリー・レイルズバック監督インタビュー 

ワインが人生であり文化 ジョージアを巡る旅
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11月1日からの公開を前に、シカゴ在住のエミリー・レイルズバック監督とスカイプインタビューの機会をいただきました。

『ジョージア、ワインが生まれたところ』
原題:Our Blood Is Wine
監督・撮影・編集:エミリー・レイルズバック
出演:ジェレミー・クイン、他

紀元前6000年からワインが醸造されてきたジョージア。 だが、伝統的な甕を使ったクヴェブリ製法は、ソ連時代の大量生産政策でつぶされてしまう。
シカゴのレストランでソムリエを務めていたジェレミー・クインは、シカゴでの仕事を辞め、ワインの起源を知るためにジョージアにやってきた。各地を巡り、家庭で自家用に細々と伝統的製法でワインが作られ続けてきたことを知る・・・
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作品紹介


2018年/アメリカ/78分/英語、ジョージア語/DCP/1:2.35
字幕翻訳:額賀深雪/翻訳協力:ニノ・ゴツァゼ/字幕監修:前田弘毅
配給・宣伝:アップリンク © Emily Railsback c/o Music
公式サイト: https://www.uplink.co.jp/winefes/
★2019年11月1日(金)、シネスイッチ銀座、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開


◎エミリー・レイルズバック監督インタビュー


◆伝統的製法は口伝えで細々と守られてきた

― ジョージアは、グルジアと呼ばれていたソ連時代から行ってみたかった憧れの国。映画を観て、まさにジョージアを旅しているようでした。ソ連崩壊後、ワインの生産がどのような状況にあるのかが各地方ごとによくわかり、とても興味深く拝見しました。
伝統的なクヴェヴリ製法がソ連によってつぶされた中、家庭で細々と作り続けられてきたとのこと。クヴェヴリ製法は書かれたものがなく、口伝えとのことですが、歌によって伝えられてきた面が大きいのでしょうか?

監督: 歌によっても伝えられてきた面はありますが、毎年、収穫の時期になると、人を雇うのではなく、家族や近所の人たちがやってきて、協力しあって作るという形で伝えられてきました。


◆スプラ(宴会)は男たちのもの

― ジョージアで大切にされてきたスプラという宴席ですが、スプラはもともと食卓に敷かれる布のこととのこと。 私はイラン文化を学んできたのですが、食事の布のことを「ソフレ」といいます。絨毯の上にソフレを敷いて、その上に料理を並べて、皆で囲みます。スプラとソフレ、恐らく語源が同じではないかと推測しました。ペルシアはジョージアを攻めた国ですが、お互い文化的に影響もしあっているのではないかと思いました。
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監督:その繋がりについてはわからないのですが、ジョージアのスプラのことでしたらお話できます。ジョージアは家父長制の強い文化の国で、スプラに参加するのはほとんどの場合男性だけです。私が参加させていただいたスプラも、女性は私だけか、もう一人いる程度でした。女性たちは台所にいて、料理を作ったり運んだりして、女性は女性だけで料理を囲みます。時代と共に変化していて、若い女性たちは男性たちのスプラに参加することも増えてきましたが、高齢の女性たちは男性の席に一緒に坐ることはほとんどありません。

― イランでは今はイスラーム政権でお酒は禁止ですが、それ以前は、ワインも作っていました。特にウルミエ湖の近くで見つかった数千年前の壺から葡萄の種が見つかっていて、かなり古い時代からワインが作られていたことも証明されています。壷の形も、ジョージアのクヴェヴリに似ています。

監督:ジョージア、トルコ、アルメニアといった地域には、あちこちに行く民族がいましたので、ペルシアとの繋がりもあると思います。とても興味深いですね。


◆小さな国なのに多様なジョージア

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― ソ連からの独立後、2006年~2013年にかけて、ロシアがジョージアに対してワインを出荷禁止にさせたとのこと。出荷禁止の解けた2013年に奇しくもクヴェヴリ製法がユネスコの無形文化遺産に登録されたことに興味を持ちました。

監督:
はっきりしたことはわかりませんが、映画に出て来た友人のニコラゼが当時、文化庁に勤めていて、無形文化遺産登録になんらかのかかわりがあったかもしれません。
ジョージアに居る時に、ジェレミーがブログを書いていて、古代のことなども詳しく説明していますので、ぜひお読みください。
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― 撮った映像が、170時間以上もある中、どういう点を重視して映画に取り上げたのでしょうか?  78分という比較的短い中に収めていますが、もっと長くすることもできたと思います。

監督:いくつかの違ったバージョンを作ってみました。編集は1年半かけて、私以外の人にも入ってもらってやりました。トルコやアルメニアにも行って、いろいろな映像を撮りました。馬のレースや、山あいの村でいけにえの儀式なども撮ったのですが、ワインとは関係ないのでカットしました。

― そういう場面の入ったバージョンもぜひ観てみたいです。
ところで、重いワインのところは歌が重厚、軽いワインのところは歌も明るいとのこと。地域的な特色を教えていただけますか?

監督:
ジョージアには多くの民族がいます。映画に出て来るメインキャラクターのギオルギさんは南のトルコとの国境の近くの方で、軽くてフレッシュなワイン。ペルシアの影響もみえます。東のカハティ地区では平坦な土地で、ワインはシリアス。いろんな民族に侵攻されて、血が土にしみこんでいる土地柄です。


◆案内役のジェレミーさんと映画完成後に結婚

―映画学科の学生時代にシカゴのワインバーで働いていた時、ソムリエのジェレミー・クインさんと出会われたとのこと。いつごろから公私ともにパートナーになられたのでしょうか?

監督: (ケラケラ笑って、照れながら答えてくださいました) 
映画を作り始めたころには、まだ友人というカジュアルな感じでした。映画にお金を出してもらう段になって、出資者とのミーティングの時に、出資者から二人の関係が真剣なものでないと映画がうまくいかないのではないかと指摘されました。隣に座っているジェレミーの反応が心配で顔をまともに見れなかったのですが、「私たちの関係は真剣で絶対別れることはありませんので出資してください」とお願いしました。ですので、そのミーティングの中で宣言したような形です。

― 映画がお二人の橋渡しをしたのですね。

監督:はい、映画を撮り終わって、結婚しました。(大いに照れる監督!)


◆ワインが文化であり人生であるジョージアに感銘
― ジェレミーさんは、出来上がった映画をご覧になってどのようにおっしゃっていますか?
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監督:映画を作ったことよりも、ジェレミーはジョージアという国に感銘を受けています。ワインの飲み方がアメリカとジョージアでは全然違います。彼はワインバーで長く働いていて、アメリカではワインがトレンドのようになっていて、何を飲むのがクールだとか、ワインに対するうんちくがどれくらい詳しいかといったことを気にしていることに飽き飽きしていました。ジョージアに行ってみたら、皆がワインを楽しんでいて、ワインが血になっている。ワインが文化であり、人生であることに、とてもリフレッシュして、ジョージアが大好きになりました。
今日は残念ながらここに同席できませんでしたが、何かご質問がありましたら、ぜひご連絡ください。

― 今日はありがとうございました。ジェレミーさんにも、どうぞよろしくお伝えください。



エミリー・レイルズバック
Emily Railsback
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イリノイ州シカゴを拠点に活躍するインディペンデント映画の監督、脚本家、デザイナー、撮影監督。2014年にコロンビア・カレッジ・シカゴを映画芸術科学の美術学修士(MFA)を取得して卒業。ソムリエのジェレミー・クインと共に映像制作会社、バーント・シュガー・プロダクションを設立。タッグを組んだ2人の仕事のテーマは、飲み物への理解を通しての文化やアイデンティティーに特化している。

案内役ジェレミー・クイン
Jeremy Quinn
20年近くソムリエとしてのキャリアを持つ。全米トップのソムリエ賞(『Food & Wine』誌)、最優秀ワインリスト叙情詩人賞(『Chicago Reader』誌)など受賞歴多数。ワインの調査のために24カ国以上を旅しており、この10年以上、その中の5ヵ所のブドウ園で収穫の仕事をしている。自然農法の積極的な支持者であり、彼のワインに対する見識は、ラジオやポッドキャスト、書物で目にすることができる。現在は、世界中の農園を飛び回り、ワイン醸造、ワイン文化、そして土地の特性について調査をしている。
(二人のプロフィール: 公式サイトより引用)