『教育と愛国』⻫加 尚代監督インタビュー

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*プロフィール*
⻫加 尚代(さいか・ひさよ)毎⽇放送報道情報局ディレクター
兵庫県宝塚市出身。1987年毎⽇放送⼊社。報道記者などを経て2015年からドキュメンタリー担当ディレクター。企画、担当した主な番組に、『映像ʼ15 なぜペンをとるのか〜沖縄の新聞記者たち』(2015年9⽉)で第 59 回⽇本ジャーナリスト会議(JCJ)賞、『映像ʼ17 沖縄 さまよう⽊霊〜基地反対運動の素顔』(2017年1⽉)で平成29年⺠間放送連盟賞テレビ報道部⾨優秀賞、第37回「地⽅の時代」映像祭優秀賞、第72回⽂化庁芸術祭優秀賞など。『映像ʼ17 教育と愛国〜教科書でいま何が起きているのか』(2017年7⽉)で第55回ギャラクシー賞テレビ部⾨⼤賞、第38回「地⽅の時代」映像祭優秀賞。『映像ʼ18 バッシング〜その発信源の背後に何が』で第39回「地⽅の時代」映像祭優秀賞など。個⼈として「放送ウーマン賞2018」を受賞。著書に『教育と愛国〜誰が教室を窒息させるのか』(岩波書店)、『何が記者を殺すのか 大阪発ドキュメンタリーの現場から』(集英社新書)。

『教育と愛国』
作品紹介はこちら 
(C)2022映画「教育と愛国」製作委員会
★2022年5月13日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか公開


―監督は大阪出身ですか?

いいえ、兵庫県の宝塚市で育って、大学は東京で過ごし、MBSに就職してずっと関西です。

―宝塚市出身、手塚治虫さんと同じですね。

実家は手塚治虫記念館から歩いて5分でした。昔の宝塚音楽学校も2,3分のところです。近所をタカラジェンヌが普通に歩いていて、私の母が子どものころは、裏の武庫川でタカラジェンヌと一緒に泳いで遊んでいたそうです(笑)。

―タカラジェンヌには憧れず、報道の世界に来られたんですね。

そうですね(笑)。宝塚はすごく好きだったんですよ。「ベルサイユのばら」も初演から見ていましたし、近所の芝居小屋に行くような感じでした。確かに宝塚は目指さなかったですね。子どものころバレエを習いたいとかは言ってましたけど。自分はどちらかというとシャイで人前に立つのが好きじゃなかったんです。だからテレビ局に入社するときもみんなはアナウンサーとか華やかなところを目指す人が多いのですが、私は最初からアナウンサーより、黒子に徹してドキュメンタリー番組を作りたいという気持ちでした。
記者をやっているときも取材は大好きなんですが、記者リポートが嫌いで。20代のときに記者リポートをしたら、先輩から「小学生が作文読んでるみたいだぞ」と叱られて、私は私なりに必死にやっていたのに(笑)。

―今はいろんなところへ行っていろんな人を取材するのがお仕事ですよね。そんなシャイな方がどこにでも行って誰とでも話せるようになったのは?回数でしょうか?

そうですねぇ。学校も嫌いな子どもだったんです。不登校にはならずに、真面目に行っていましたけれど、中学高校はとくに学校は嫌いでした。だけど、大阪の公立学校の保健室などの取材を通じて、学校っていいなぁとか、子どもたちと体当たりで関わっている先生たちの姿が魅力的で心打たれるなぁと感じて。記者になってから学校が好きになりました(笑)。

―後から。

はい、後から(笑)。こんな先生に出逢いたかったと思いましたね。

―元々はテレビ番組だったのが映画化されたそうですが、このドキュメンタリーの番組を東京で見ることはできますか?

MBSの『映像』シリーズというドキュメンタリー番組は、関西ローカル放送なので、東京では見られないんです。MBSの”動画イズム”(動画配信)の中では見ることができて、あと系列のTBSの『解放区』というドキュメンタリー枠で再放送されたりすることもあります。でも、大体テレビのドキュメンタリーは深夜なんです。みんな寝ている時間ですね。

―『映像』シリーズは1980年から始まっているんですね。すごく長い!

アーカイブは500本以上あり、その時代の社会問題をいろんなディレクターが取材して作られています。私は2015年7月からチームに加わりました。そこで制作したのが「なぜペンをとるのか〜沖縄の新聞記者たち」。琉球新報編集局を40日間密着取材した作品です。

―タイトルだけを拝見しました。時事問題の最先端のところばかりなのに、観ることができなくて残念です。映画になったら、全国で観ることができますね。ほんとに映画になって良かったです!

ありがとうございます。この映画も2017年7月に放送したテレビ番組をベースにして、新しい映像を追加して作られたものです。番組は関西エリアの深夜での放送でしたから、より訴求力のある違う取り組みをしなくてはいけないと思い、挑戦だったんですけど、映画にしてみようと考えました。

―この映像シリーズの中でほかにも映画化されたものはありますか?

3・11のときに南三陸町を舞台にした『生き抜く』という映画になったドキュメンタリーがあるので、『映像』シリーズの中では2本目です。このシリーズ以外でホール上映になった『with』がありますので、MBSでは3本目ですね。

―ご本も読ませていただきました。監督が教育に目をすえてきて30年になるとありました。

テレビ記者って何でもやらないとダメっていうか、教育だけをずっとやってきたわけではなく、様々なテーマを取材してきました。ただ自分で初めて企画して特集にしたテーマというのが、大阪の小中高校の保健室登校でした。学校に馴染めない子どもたちを先生たちがなんとか受け止めて支えようという取り組みです。それが最初にオリジナルで取材したテーマだったんです。そこからずっと学校の先生との繋がりができて、節目節目で子どもたちや先生たちとの出逢いがありました。
2011年に大阪維新の会が「教育基本条例案」という、これまでの大阪の教育を抜本的に改革するという、政治主導の教育を目指す条例を掲げました。これは政治が接近してくるぞと感じ取れたんです。当時教育委員長をされていたのは小児科医で精神科医でもあった生野照子さんで、「私は知事(橋下徹)に向かって直訴したのよ。知事がやろうとしていることは”政治”です。教育行政ではないって」。それに対して知事は「さすが、委員長」って答えたという、そんなやりとりを生野さんから聞きました。

―大阪は知事と維新の会にかき回された感じがしていました。

橋下徹さんが創設された大阪維新の会はのちの日本維新の会の母体となるんですが、その一つの政党が政治主導の改革のムーブメントに一役買ったんですね。映画の中でも安倍元総理が維新の松井一郎さんと握手する場面、2012年2月に行われた「教育再生民間タウンミーティングin大阪」の壇上ですが、お互いに協力しましょうとなったわけです。
その当時はそれほど意識していなかったんですが、取材を続けていて今回映画にまとめる段階になって、やっぱりこれは繋がっている。大阪の維新と東京の安倍さんたちが連動して作られた教育への政治介入なんだとそう強く感じるようになりました。

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―足された部分は「どうとく」の場面でしょうか? 

そうです。今回の映画の中で二つ小学校が出てくるんですが、一つは久保敬校長先生の「どうとく」の授業。久保先生は去年5月に松井一郎市長に対し、いま公教育はどうあるべきかを真剣に考える時が来ているという提言を直接出されて処分を受けた方です。「生き抜く」という教育じゃなくて「生き合う」教育が必要じゃないかと投げかける提言です。これはインターネットで探して下さったら、すぐ出てきます。今の教育は子どもたちの方を向いていないんじゃないかという問いを出されていますが、今回の授業はあえて教科書通りに進めている場面を紹介しています。
もうひとつは、この映画事業がなかなか社内で進まなかったときにずっと密着取材していた、大阪生野区の市立御幸森小学校です。ここにはコリアンルーツの子がたくさんいて、日本ルーツの先生、コリアンルーツの先生たちが一緒になって目の前の子どもたちにどんな教育が必要かと考えて実践していました。「ユネスコ憲章」の前文にのっとった平和教育、多民族が共生する・多文化の子どもたちがお互いを理解し合える教育を目指して取り組んでいました。それは時代の最先端ですばらしいと感じました。
例えば、放課後の取り組みで民族楽器の練習をする。他国の、あるいは母国の文化に触れることで、「戦争は人の心から生まれるものだから、心の中に平和のとりでを築かなければならない」という「ユネスコ憲章」前文の精神を子どもたちに先生たちがいろんな言葉で伝えていく。この地域になぜ在日韓国・朝鮮人が多いのかとか、差別もあったけれど、その中でコリアに繋がる人と日本ルーツの人はどんな協力をしてきたのかとか、その歴史を紐解いて振り返りながら子どもたちに伝えていく。すると子どもたちはこの地域は素敵な場所だと、歴史の中で自分たちが暮らしているということを実感していきます。そういう取り組みをしている学校が小規模だからと2021年3月に閉校になりました。
この映画の中で伝えようとした政治圧力とか政治介入、その一方で大事にしたい教育が失われていくのを何とかしなきゃと。子どもたちに向いた教育が崩されているのじゃないかという危機感をずっと抱えてきました。

―監督には、この映画に出てくる「慰安婦」はじめ戦争の加害を習った記憶はありますか?

ないんです。習ったという記憶がないんですよ。

―やっぱり。私もそうです。縄文時代とかずっと前から始めちゃうので、3月にはそこまでたどり着かなかったということが多かったと思うんですけど。

だと思います。だから近現代史について私自身がこういうことがあったんだ、これは学ばなくてはと思ったのは、社会人になってからです。記者になってから『映像』シリーズのドキュメンタリーで知ったり、自分で市民集会に行ったり、書籍で学んだりしてきました。しかも、高校では選択科目で、日本史を選択しなかったんです。

―私は必修でしたけど、日本がアジアで何をしてきたかというのは、学校ではなく映画で知ったんです。香港映画が好きで見ているうちに、加害の歴史ですね、それを被害に遭った国の映画で知りました。

ああ~。そうですよね。私も学校教育の中では学ばなかったと思います。それが、平井美津子先生と出逢って。平井先生と自分が中学生だったときに出逢っていたらまた違ったんじゃないかと思います。こういう先生に学びたかったなぁと実感しましたね。

―映画の中で偏向していると責められるのがすごく不思議でした。

そうなんです。平井先生の授業は面白いですよ!子どもたちのことをよく観察していて、どんな関心を持っているか考えたうえで授業を組み立てておられるから、導入で必ず子どもたちをひきつけるようなエピソードを持ってきます。例えば、中国を占領した戦争の話をするときにパンダの話から始めるんです。なぜパンダが日本に来たか、というところから。慰安婦の問題については、一番子どもたちが反応した年があって。橋下徹さんが風俗について「活用すべきだ」と発言した時があったんですね。ご本人は、誤報だと言ってますけど、戦時においては必要な制度なんだと語ったときに、それを引き合いに出したら、子どもたちの反応が全然違ったといいます。
歴史は過去の出来事だけれども、必ず今に繋げて授業をされていらっしゃるから、やっぱりすごく実力があるなと思いますね。

―バッシングに遭われて大変でしたが、今、平井先生は?

今も教壇に立っておられます。もちろん平井先生の取り組みを高く評価される方もたくさんいらっしゃるんですけど、また標的にされないように、取材をお願いするときにはご相談を重ねました。「やっぱり記録として残すことは大事なのでご協力しますよ」と言ってくださって。今回平井さんがあそこまで公にメディアで語られるのは初めてだと思います。

―大阪だからできた映画ですね。

そのとおりです。大阪を拠点に取材を続けてきたからできた映画です。大阪が政治主導の教育のけん引役というか、実験場になってきたと考えています。実際に2014年に教育委員会制度を見直す法改正がなされたとき橋下徹市長が「戦後指1本触れることのできなかった教育行政を、大阪から変えることができた」「文科省、国がやっと大阪に追いついた」と言われました。

―映画の中でびっくりしたのが、東大名誉教授の伊藤隆先生が「歴史から学ばなくていいんだ」と言われたことです。学ばないと、また間違うでしょうと思っていましたから、あそこがよくわからなくて。

伊藤隆さんはご自身が若かったときの体験から歴史学がマルクス主義史観に染まっていると感じられ、今に至っておられるようです。だから歴史学の主流は左翼なんだと。ご自身も論文の内容をめぐり個人攻撃されたことがあると。
実証主義をオーラルヒストリーとともにやってきたトップアスリートの歴史学者だと自負されておられると思います。実際そうだったと思います。素晴らしいお弟子さんをたくさん育てられた。加藤陽子さん、御厨貴さん、北岡伸一さんなど錚々たる学者を育てていらっしゃいます。学校の先生たちが自虐史観に染まっておられるということで「歴史から学ぼう!」というのに対するアンチテーゼを言っておられるんじゃないか、と感じました。

私が見ている学校と、伊藤さんが「学校はこうだ」と思っておられる学校とは全然違うんです。私が、「伊藤さんが戦前受けられた教育と今の教育の何が一番違うんでしょうか?」とお尋ねしたら、「戦前には日教組はないんだよ」って答えが返ってきた。伊藤さんだけでなく、保守の方々は日教組が学校を支配しているんだ、って。これは大阪で取材してきた私にとっては「そうではない」と言えるし、実際伊藤先生にも言いました。「今、日教組は力を失っていて、私の知っている日教組の先生は若い世代が組合活動してくれない、と困っていますよ」と言っても、「いや、少数でも力があって影響力のある先生は日教組なんだよ」とご自身のお考えから出られない。私の知っている学校現場とは全く違うんです。

―この映画に出演している方はもうご覧になっているんですか?

まだ観ていらっしゃらないです。観に行くとは言ってくださっています。伊藤さんはテレビ番組のときはDVDをお送りしましたが、感想は述べられなかったですね。

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―テレビの番組から映画化まで、5年かかっていますが、最初のころと今と比べて大きな変化は?

この5年でさらに状況は悪くなっていると思います。新型コロナウィルスの感染拡大で、いっそう学校現場の先生たちは疲弊していますし、さらにコロナ禍という理由で、安倍総理が文科省の頭越しに一斉休校を命じたり、大阪の松井市長が教育委員会に打診もせずにオンライン授業の実施をと述べてみたり。教育委員会が独立した行政機関なんだという意識さえどんどん薄められていって、政治主導が当たり前のような状況に陥っていることに一層危機感を高めてきました。2020年10月、日本学術会議推薦の6名の学者が官邸から任命拒否されるという出来事を知ったときに、教育の自由が政治主導で歪められているだけにとどまらず、学問の自由も踏みにじられる社会が目の前にやってきたんだという、その衝撃がこの映画を作らせたと言ってもいいと思います。

―任命拒否された先生やジェンダー研究の先生も登場していました。

任命拒否の前には科研費をめぐって、政治家が大学の研究者たちを攻撃する事態が起きていたわけです。そこは結びついていますよね。都合の悪い研究には金は出さない、という。

―大きい声でものを言う人たちばかりが目立ってきた気がします。なんだか戦前に戻っている、という意見もよく聞きますし、戦前は知りませんが、せっかく勝ち取ってきたいろんな自由が少しずつなくなっていってるんじゃないかと感じます。すっかりなくなって、取返しがつかなくなってからでは遅いですよね。

はい、そう思います。
そんなささいなこと、そのくらい見逃したってと思ってしまうことであっても、その積み重ねによって、とんでもない落とし穴というか断崖絶壁が待っているかもしれない。今回取材しながら小さなできごとを1本の線に繋げてみたっていう表現をしているんですけど、繋げてみたらその危機の深刻さが伝わりやすくなったんじゃないかなと思います。

―はい、そういう風に観ました。すごくわかりやすいです。
民主主義って両方の意見を聞く、違う意見に耳を傾ける、小さな声も拾うことではなかったの? 多数決が民主主義じゃないよねと思いました。


ほんとそう思います。当初は元教科書調査官のインタビューもしたいと考えて、あちこち交渉したりしたんですけど、やはりカメラの前に出ることはできないということで、断られました。でも、調査官も研究者出身の方が多いので、「イデオロギーじゃないんです。正しい歴史という人に限って学術的知見に基づいていない場合がある」ということは認識しておられて、あくまでも学術的成果に基づいて教科書は作られるべき、と言っておられたんです。ただ、公務員だから教科書検定基準というルールが作られて、決められてしまうと学術的に葛藤しつつも、「誤解される恐れがある表現」というルールに基づいた検定意見をつけなきゃいけなくなってしまうんです。

―教科書がたくさん出てきますが、図書館で観られるものなんですか?

もちろんです。必ず地域の公立図書館には教科書を観ることができるコーナーがあるはずです。

―そうなんですか!全然知りませんでした。

大阪の場合は、図書館で今使っている教科書を見ることもできるし、昔の教科書を見たいというと書庫から出してきてくれます。
教科書ばかりおいてあるセンター(教科書図書館)もあるんです。そこに行けば一日そこで過ごせるくらいの資料があります。国定教科書がどれだけ「日本すごい」って書いてあるかわかります。今の言葉でいうと、「日本ファースト」で、世界地図の真ん中に日本があって光り輝いているような。

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※教科書研究センター(附属図書館は要予約)
〒135-0015 東京都江東区千石1丁目9番28号
https://textbook-rc.or.jp/

各都道府県の教科書センター
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/center.htm#a001

―ありがとうございます。行ってみます。

道徳教育を全面否定する立場ではなくて、ただ型にはめる教育って今の時代にそぐわないな、あのお辞儀の仕方の正しさは誰が決めているのかと思うんです。あるとき、政府見解であれは不正解だということになれば、変わるのかと。

―教科になれば成績をつけるわけですよね。どうやってつけるんでしょう。

そうなんですよ。道徳の授業の場面も、良い・悪いという教科書どおりの「善悪の判断」という徳目の授業なんです。これもそんなに簡単に判断できるんだろうか?って考え込むんですね。

―考える種を蒔くのならいいけれど、正解を一つにしたら他はダメということになりませんか。

そう。だから小学校低学年の子供たちに、「上靴を隠した子どもは悪い子だ」と教えてしまうほうが、実は弊害があるんじゃないのかなぁと。
映画の中では紹介できなかったんですけど、ベテランの久保校長先生は上靴を隠した子は、実は友達とのトラブルを抱えていて、こんな出来事があったんだよ。これを知ったうえで、みんなはどう思うか、と教科書から離れた問いを子どもに投げているんです。そして子どもたちの意見も変わるというような、そういった指導もされていました。
先生によっては、もちろん教科書から離れて子どもたちに向けた授業もできるんです。けど、教科書どおりに常にスタンダードな、お決まりの授業が作られていくという流れは、政治の空気からすると危うい、と思います。

―熱心な面白い授業をする先生がバッシングを受けて、言う通りにはやるけれど、子どもに勉強の楽しさを教えられない先生ばかり残ったら学校がつまんなくなるじゃないですか。

その通りです。ルールに従うだけの従順な先生ばかりになっちゃったら、学校はつまんなくなります。道徳の授業内容を注意深く見ると、「集団や社会との関わり」に関する「規律」「協調性」などの徳目が一番多く、輪を乱さない、反抗しない子供を育てようとしているんじゃないか、と疑念が生じます。そうとしか私は感じ取れませんでした。

―先生方がそれぞれ工夫していただけるといいんですが。

その先生方も、一人一人が考える時間が持てるかというと、もう忙しすぎて。考えていると潰れかねないという方もいて、それは先生にとっても子どもにとっても不幸なことですよね。

―親にとっても。ほんとにもう、観ながらなんて問題がいっぱいあるんだ!と(笑)。

ああ、ありがとうございます。そう気づいてくださるのがとても嬉しい。

―それこそ、たくさん種をいただきました。これは本誌では『ゆめパのじかん』という川崎市にある子どもの居場所の映画と一緒に紹介します。違う方向から子どもの教育を扱っていて、両方観ていただけたら考える種がいっぱい出てきそうです。

子どもたちにとって、テストの点という物差しだけで測られるというのは、本当にとても苦痛だと思うんです。テストをなくしてもいいくらい、なかなかそこまでは公立では難しいと思いますけど、どんどん政治によってテストの点だけで学校を測るという流れになってきているから、これも政治の側が学校を意のままにする手段なのかと感じています。学校同士を競争させて、政治の意向が反映しやすいようにする「統治」という手段かもしれないなと思います。

―そういうことを監督はちゃんと映画に込めています。みなさま気づいてください。
ではこれから映画を観る方へ。メッセージをどうぞ。


プレス資料にも書いたんですけど、カタルシスも正解もない作品なんです。ですので、観終わった後にモヤモヤしてしまう方もきっといらっしゃると思います。けれども、映画のどの画面、どの部分でもひっかかったところを語ってほしい。語って来なかったことを語り出してほしいです。そういう願いを込めた作品です。
今はSNSで炎上するからとか、政治から距離をとっておかないと、とか、俳優やタレントが発信すると叩かれたりとか、あるんですけど、これは取材した沖縄の方の言葉です。
「政治的じゃないことがあるんだったら逆に教えてほしい。全ては政治的です」と。暮らしそのものが政治に結びついているんだということを仰っていて、私も教育を見つめてくる中で、一つ一つの授業の実践を大事にして、その授業を豊かなものにと思って努力しても、それが政治の力でガシャっと崩される、そんな可能性があって、その危機というのが思いのほか近くに迫って来ているという、そこを感じてくださったら嬉しいなと思います。

―今日はありがとうございました。

一監督は報道の方に行かれましたが、映画のほうはいかがですか? ご覧になる時間はありますか?

映画は大好きだったんですが、報道記者になってからは忙しすぎてあんまり見ることができてなかったですね。でも、最近観た映画では『ゲッベルスと私』『ユダヤ人の私』、この2本はすごい映画だと思いました。
出演しているのはたった一人の女性と、一人の男性なんです。この二人の語りから歴史に迫っています。今から振り返れば、ドイツのナチス政権下というのは自由も奪われて国民が抑圧されている時代でした。
『ゲッペルスと私』に出てくる高齢の秘書だった女性はそういうことをわかりながらも、「ゲッペルスはとても素敵な男性だったのよ」と語る。それがすごくリアルなんです。
私は学生時代メディア学を学んで、ナチスドイツがどんな風に大衆操作したとか、書籍で読んでいたので、ゲッペルスがどんなに巧みにラジオや映画などを利用して、ヒトラーの、今でいう「パフォーマンス」をあげていたかというのは知っていました。私が書籍で知っていたゲッペルスと、当事者の彼女が語るゲッペルスは全然違いました。だから、歴史の中に身を置いたとき見えないことがある。今の時代の人は「なぜ止めることができなかったんだ」って簡単に言いますが、自分を振り返ってどうなんだと。日本の人々が今ちゃんとできているのかというとわからないですよね。

『ユダヤ人と私』も迫害された歴史もそうなんですけど、今も「お前なんかガス室で死んでしまえ!」というようなヘイトスピーチが寄せられている。自分が被害体験を語ることで、今もヘイトスピーチが高齢の彼に向けられているという残酷な現実。テレビの人間だからこの表現、このライティング、って観ちゃうんです。ライティングが違うんですよ。『ゲッペルスと私』でも最初はすごく皺を際立たせるようなライティングで、途中からちょっとその皺が浮き立たないライティングに変わるんです。その違いで二日か三日かけてるかな、と(笑)。敬愛するカメラマンが「あのライティングは4パターンはあった」って(笑)。
その2作はすごく好きな作品です。


=取材を終えて=
私は学校が好きでした。知ること、わかること、友達と会えるのが楽しかったからです。小学校を3回転校しましたが、どの先生にも級友にもいい思い出があります。ただみんな一斉に同じことをしたり、競争したり締め切りのあることは苦手でした。宿題はイヤだからさっさと終えた覚えがあります。
今学校が辛いという子、行けない子がたくさんいるのはなぜなんだろう? 生きづらいと思う原因は何なのだろう? 答えが一つしかないと思うと、真面目な子ほど追い詰められてしまいます。子どもたちを支える大人、自分を含めた大人がいいお手本にもなれていません。
都合の悪いことは隠したり、あったことをなかったことにしたり、間違っていても謝らなかったり、人は弱いのでそうやってしまいがちです。弱い自分にも向き合って、自分と違う意見を聞き、互いに歩み寄り、もっと良くしたいと考える。それが「ちゃんとした人」じゃないでしょうか? 
監督に共感するあまり、自分の想いをこぼし過ぎて反省。それだけ、あちこちを刺激して語らずにいられなくする作品でした。日本の歴史や政治経済に詳しくなくとも、地球に住む生き物として、なんだか生きにくい、危ないことが迫っている感覚はあります。子どもや孫に大きな負債を残したくありません。
子どもたちの将来を憂える親や先生をはじめ、たくさんの大人たちに届きますように。
(取材・監督写真 白石映子)

『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』 信友直子監督インタビュー

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*プロフィール*
1961 年広島県呉市生まれ。父・良則、母・文子のもとで育つ。
東京大学文学部卒業、森永製菓入社。広告部で社内コピーライターに。1986 年制作会社テレパック入社。テレビ番組制作の道へ。1995 年から制作会社フォーティーズへ。2009 年自身の闘病を記録した「おっぱいと東京タワー ~私の乳がん日記~」を発表。2010 年独立してフリーディレクターに。フジテレビでドキュメンタリー番組を多く手掛ける。北朝鮮拉致問題やひきこもり、若年性認知症などの社会的なテーマや大道芸人ギリヤーク尼ケ崎にスポットを当てた企画や草食男子の生態という文化的なテーマなど100 本近くの番組を制作。
2013 年頃から自身の父母を被写体として家庭内介護の様子を記録し始め、2016 年、17 年 に「娘が撮った母の認知症」第 1 弾、第 2 弾としてフジテレビで放送される。これが大きな反響を呼び 2017 年「ぼけますからよろしくお願いします。 ~私の撮った母の認知症1200日~」としてまとめられ BS フジで放送された。いずれも好評を博しそれが劇場公開へとつながった。2018 年に『ぼけます から、よろしくお願いします。』で長編監督デビュー。全国 99 劇場 10 万人を動員する大ヒットとなる。 令和元年の文化庁映画賞・文化記録映画大賞など数々の栄誉に輝く。本作は待望の続編。

監督:信友直子
撮影:信友直子 南幸男 河合輝久
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ゆきえの”集まれシネフィル!”作品紹介はこちら

(C)2022「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」製作委員会
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★2022年3月25日(金)より全国順次公開

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―2018年公開の第1作から間があきました。続編を作ろうと思われたきっかけは?

これは元々フジテレビのプロジェクトで、1本目の映画の後もずっと撮り続けていたんです。”Mr.サンデー”という番組のコーナーでやったり、1時間のノンフィクションとしてやったりしていました。映画にしたい、と思ったのは2本目に出てくるプロのカメラマンが撮った、母が元気なときの映像が偶然見つかったからです。それがあまりにも映画的な映像だったので、映画にして見ていただけるような作品にしようと思いました。

―それは何のために撮影された映像だったんですか?

私が乳がんになって、「おっぱいと東京タワー ~私の乳がん日記~」(2009年/フジテレビ)のために、呉の実景と父と母のインタビューを入れようということで、プロのカメラマンに来てもらったんです。
父と母のインタビューを撮るにあたって、私が聞いたのでは出さない本心みたいなものがあるかもしれない。私はただの被写体になって、後輩のディレクターに代わりに取材をしてもらいました。その後輩が気を利かせたのか、父と母の自然な暮らしぶりも撮ってくれていたんです。私は自分が撮らなかったもので、すっかり忘れていました。
コロナ禍になって、やることがないから家の掃除をしていたら(笑)押し入れの奥からテープが出て来たんです。何だろうと思って見たらそんなのが映っていて。
画角とか構図とかにこだわって撮られている映像の美しさもそうですけど、母が認知症になる前父はほんとに何もしていなかった、というのがよくわかるんです。
母は近所の人とすごく仲良しでいわゆる社交的なこと、ご近所づきあいなどは全部母がやっていました。買い物に行って食事の支度をして、父の世話も焼いて。父は何をしているかというと、ただ座って本読んでるだけ、みたいな(笑)。その雰囲気がそのまま出ていたので、これはぜひ使いたいと思いました。
もし1本目を作る前にその映像が見つかっていたら、違う作りになっていたと思うんです。このタイミング、母が亡くなった後で見つかったというのは、母が引き合わせてくれたのかな、母の置き土産かなって感じました。「あんた、こんなところにこんな映像があるの忘れとるじゃろ」という風に言ったんじゃないか、と思うくらいの「ビックリ」でした。

―インタビュー部分などは使って、プライベートな部分は使われなかったということなんですね。

そうです、そうです。母がご飯を作っているような日常生活部分などは全然使われなかった。「おっぱいと東京タワー~」の編集のときに、観たはずなんですけど忘れていました。

―お宝ですね。お元気なご両親の映像が残って。いい思い出でいい記録ですね。
プロの方が撮ったものと、娘である監督が撮ったものの違いは?


やっぱり私が撮ったものだと、娘だから遠慮なくぐいぐい撮っているので、リアルなものにはなっています。何分素人なので三脚も立てていないですし、なんかリアルドキュメント、実録ものみたいな感じになるんです(笑)。プロのカメラマンの方は映像にこだわっている人なので、動く絵画のような、そんな感じの構図にしてくれていたので、美しさが違うというか、抒情的な感じがします。光の加減もうまく計算して逆光で撮られていたり。

―ラストがそうでしたね。逆光でファンタジーっぽい。

父が「幸せな人生だった」と言った後だったから、特に父の見ている幻みたいな、ちょっと夢みたいな、フィクションみたいな。

―お父さん、お母さんの間に娘の監督がいて、なんだか嬉しいですよね。これまで、自分が撮っていらっしゃるから3人の映像はありませんでしたし。こういうのが残っていいなぁと思いました。

ほんと、そうですね。

―エンドロールに撮影の方のお名前が監督のほかにお2人あったのは、そのカメラマンさんたちなんですね。

はい、抒情的な映像のカメラマンが南さんです。河合君には、お葬式のときに撮ってもらいました。送り出すときに親族が撮ってるわけにもいかないので。

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―監督がお世話しているところが映っていないのは、カメラを持つ人がいないからですよね。

そういえばそうですね。他の人が入ったのはお葬式のときだけです。骨壺を持って帰ってきたのもカメラマンが撮っています。

―ハンディカムを持って「ただいま~」から撮っているので、目線が自分と重なります。

「娘」目線です。全部自分で撮っているから。第一弾は、私の撮った絵しかないから全部そうなんですよ。

―親元から離れて暮らしている人も、親を思い出して気持ちが重ねやすいですね。

できるだけナレーションは減らして、わりと余白を持って作っているので、その余白の時間でみなさんが自分の親とか、大切な人を想ってくれる時間になればなぁと。

―で、余計泣けるわけです(笑)。泣く時間があるので。畳み込むようにドラマがあると泣いている場合じゃありません。

どんどん話が進んでいっちゃうとね。私もいろんなことをナレーションで言いたかったりするんですけど、できるだけ引き算引き算で。これはなくても伝わるな、ない方がいろんなことが伝わるなと。結局ナレーション入れちゃうとそういう風にしか思ってもらえないけど、別の解釈っていうのをしてくれる人がいるんだったら、それはその人の解釈に任せようと思って。

―それはやっぱりたくさんドキュメンタリーを作ってこられた監督だからこそ、そういう取捨選択ができるんじゃないでしょうか?

ああ、かもしれないです。若いころはやっぱり「あれも言いたい、これも言いたい」でいろんなことをナレーションで言ってたんですけど、どんどん引き算にはなってきましたね。ほんとに観方を狭めちゃうなぁと気が付いたので。

―お母様が亡くなられるときに撮るというのも辛いけれど、やっぱり残して良かったですね。

辛いのも辛いし、傍目から見ていて「この娘は何やっているんだ」と思われるんじゃないかとか、周りの目も気になるし、というものあったはあったんですけど。ここで撮らないで後から後悔するよりは、撮ったほうがいいと思って。

―コロナにもかかわらず病院で面会を許してくれて、優しい病院で。

ほんとですね。まあ、最後に療養型病院に行くにあたっては、ほんと申し訳ないけれど撮影できるところを探して。その時には呉で1本目の映画が公開されていて、わりと知られていたのでみなさんそれほど「なんでそんなの撮るんだ」みたいなのはなく、「この人だったら続きも撮るんだろうな」「最後まで撮らせてっていうのは、信友さんならしょうがないね」ってことだったと思います。

―お父さんの言葉にも泣けます。名言をたくさんおっしゃる。

そうなんですよー。

―文字として残しておいてほしいです。回想録とか、お父さん語録とか。

書いたら、っていうんですけどね。「わしゃ、恥ずかしい」とかなんとか言って(笑)。

―最近は戦争のこともお話しになるそうなので、そのへんのことも聞いておきたいですね。

そうですね。縫物も「なんでできるん?やったこともないのに」って言ったら「兵隊で鍛えられた。できないと上官に殴られるから」って。

―こう言ったらなんですけど、お父さん可愛いですよね、とっても(笑)。

どんどん可愛くなりました。母が元気だったころは社交的で、近所づきあい担当は母でしたから、周りにニコニコするのは母に任せて何にもしていなかったけど、元来はそういう人好きのする人なんだとは思います。

―お父さん、鼻歌も歌い、自分で声かけながら動きますね。

自分で「よっしゃ、頑張るぞ!」とか、言ってますよね。「やらんと何事も始まらん!」とか(笑)。

―女性は、お母さんと娘の気持ちがよくわかって肩入れできます。男性はお父さんを見習って(笑)、ぜひこういうお父さんになってほしい。
今回の続編には、介護に関わるほかの方が映っていませんね。


前回は映っていますけど、今回はありません。ほんとは第1作目にあの美容院のエピソードを入れたかったんです。ずっと引きこもりみたいな感じで鬱々としていた母が、美容院に行くと言ったらおしゃれしていました。女の人にとって「髪を綺麗にしてもらう」ことはやっぱり大事なんだなって。それは「介護サービスで社会と繋がって元気が出る」っていうのと同じメッセージになるから、入れられなくて残念だったんです。それで今回は美容院のほうを入れて、ヘルパーさんのエピソードはなしにしました。あの後も美容院には何度も出かけて、髪は綺麗に真っ白になっています。

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―監督はきっとたくさん心配ごともあると思うんですけど、いつも笑顔です。お父さんもお母さんのお世話を苦にされていないように見えます。

父は淡々と「これはわしの運命じゃけえ」って(笑)。

―広島弁がまたいいです(笑)。

私も気持ちが揺れないことはなかったですけど、こういうアニメ声みたいな感じなので、声だけ聞くとあんまり参っているように聞こえないんですよ。「明るく生きんと。人生、楽しまんと損よ」というのは、ずっと母が言っていたことなんです。「今は介護中なんだから楽しむ時期じゃないです」と言っても、それがいつまで続くかわからないじゃないですか。そしたら、そう言わずにときにはデイサービスに預けて、その間は父と何かで楽しもうと思う。ですから介護サービスの人とも、ご近所の人とも介護をシェアしたような感じですね。

―あの優しいお父さんが一瞬だけ声を荒げる場面がありましたね。
お母さんも(自覚があるとき)辛いのでしょう。認知症は波がありますし、荒れたり穏やかだったりするのも、忘れてしまうのもその時の本心なんですよね。


母は自分がふがいないから、そのモヤモヤをどこにぶつけていいかわからなくて攻撃的になっちゃうんですね。私も「死にたい」というのを聞いたら、どうしてあげたらいいんだろうとすごくへこみました。でも、ずっと私が引きずっていても、向こうが忘れてケロッとしているわけだから、そこは切り替えなくてはしょうがないなと、自分が損するだけだなぁと思うようになりました。

―監督は「若年性認知症」の方の番組を作られていますから、知識はお持ちだったと思うんですが、自分の家族であれば感情はまた別ですよね。

そう、ほんとにそうです。

―自分を振り返ると、介護したからこそ家族や人との繋がりもたくさんできました。大変な中にもいいこともありましたね。

そういう風な考え方をするのは大事ですよね。私も母が認知症にならなかったら…ならないのに越したことはないですけど…なったから父の良さに私が気づけたりしたんだなぁと思うと、まあ悪いことばかりじゃなかった。そう思うほうが得じゃないですか。自分が。

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―監督はインド旅行での事故や入院で3年間くらい大変な時期がありました。一生分集まったくらい。最近は大丈夫、ですね?

そうなんです。あの3年間だけでした。びっくりしました、自分でも。連鎖っていうくらいこんなに続くか、って。
インドでの事故で骨盤骨折して寝たまま帰国してすぐ入院しましたので、母が3ヶ月東京に出て来て毎日病院に通ってくれたんです。寝たきりだったので、洗濯物を洗ったり何くれとなくやってくれて、ほんとに母に救われました。

―インドでは大変なことの連続で、でもたくさんの出逢いもあって。これが本になったらいいのになと思いました。

ありがとうございます。

―お父さんお母さんもお丈夫ですよね。

そうですね。すごく健康でした。父も耳が遠いだけで。それはきっと母が健康にいい食事を作っていたからだと思うんです。それが大きいんじゃないかな。
私が乳がんになったのは無理をし続けたからだと思います。人間の病気は弱いところに出てくるって言いますね。うちは代々、母もそうですけど婦人科系が弱いので、そこに来たんだと。
仕事がすごい面白くて、寝食忘れてやっててもあんまり辛いと思わなかったんです。だけど、身体は大変で悲鳴をあげていたと思うんですね。だから乳がんになってからは、もう無理しないようにしよう、自分の食い扶持だけ稼げればいいと思って、それでフリーランスになったんです。

―フリーランスも大変ではありませんか?

不安ですよね、大変というより。好きな仕事だけしようとフリーになったのが、仕事一個断わっちゃうと次は来ないんじゃないかと思っちゃうので、仕事が来ると受けちゃうんですよね。だから、あんまり変わらなかった(笑)。

―仕事があるうちはやろう、とつい思ってしまいますね。

そうそう。声かかるうちは仕事やんなきゃと。コロナ禍の間は、もうなるようにしかならないと思って。上映会とか上映会にまつわる講演会とかが結構入っていたのが、人が集まれないのでなくなって。特に私の講演会は社会福祉協議会とか行政の主催が多いんです。コロナが増えると最初になくなってしまいます。それでなくなったものはしょうがない、とオンライントークやったり。(この時期に押し入れからビデオを見つけ出した)

―監督はしばらくこの映画の宣伝でお忙しいかと思いますが、その後の計画はありますか?
旅するとか?


旅、は行けませんよ~。父が101歳なので、元気とはいえ心配なので今は「娘」業を優先させようと思っています。テレビとかのお仕事はお断りしているんですよ。やっぱりドキュメンタリーを撮るとなると、相手のスケジュールに合わせなくちゃいけないじゃないですか。そうするとちょっと無理がある。それに今はコロナだから、密着取材もできないです。今はこちらと呉と半々ですが、呉にいる時間のほうがどんどん長くなるとは思います。

―できるだけ一緒にいたいと思いますよね。
その間にお父さんを撮り続けて、書きためるほうもぜひ。


はい、ありがとうございます。書くのもわりと好きだなということに、「ぼけますから~」の書籍化のときに自分で気がついたんです。なので、書く仕事は続けていきたいと思っています。

―お父さんは新聞や本がお好きですよね。映画は出かけないと見られないけれど、本ならいつでも手に取って見られるし、喜ばれるんじゃないですか?

そうなんですよ。父は映画ができた時よりも本ができたときの方が嬉しそうでした。
*「ぼけますから、よろしくお願いします。」
単行本/2019年/新潮社 256p 1500円
*「ぼけますから、よろしくお願いします。 おかえりお母さん」
単行本/2022年3月16日/新潮社 188p 1450円

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父にとっては映画を作って良かったと思います。家の内部をこんなに出しちゃって大丈夫かしらとか、作る前は心配でしたけど。でも作ったことで近所の人とのコミニュケーションツールになったというか。父のほうからあんまり○○さん、とか声をかける人ではないので、みなさんが声をかけてくださるから。

―地域の方々が見守ってくださるのは、有難いですね。
年を取ることや、認知症について、前作も今回の続編も、この映画からはとてもたくさんのことに気づいたり、考えたりするきっかけをいただきました。今日は長時間ありがとうございました。


取材:白石映子(文・写真) 景山咲子(写真)

―監督がこれまで観た中で印象に残っている映画はなんでしょうか? 

今観たらどう思うかわからないですけど、一番泣いた邦画は『砂の器』(1974年/野村芳太郎監督)で、一番泣いた洋画は『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994年/ロバート・ゼメキス監督)ですね。『フォレスト・ガンプ』は何が気に入ったのか10回くらい観ました。映画館に10回行きました(笑)。当時すごい好きで。自分の子どもがいることが分かったフォレストが恋人にいう台詞「頭はいいの(Is he smart)?」で言うんですよ。あの一言でめっちゃ泣けて。こういう風に思いながらずっと生きて来たんだなというのが。
(宣伝さんから「4Kで公開になります」と情報。3月18日からです)
『砂の器』は何回か時を置いて観ました。最後の40分くらいが全てですよね。

―思い入れのある俳優さんはいらっしゃいますか?

俳優さん…三浦春馬くんが亡くなったときに、なんで亡くなったんだろうと考えて、そこから気になるようになってコロナ禍だったのもあり、全部の作品を観ました。それもこだわっているということになるかわからないけど。ほかに全作品観たという人はいないかな。
役者さんというより作品で観ます。評判になった映画は行きます。いっぱい観客が来たというのではなく、(映画評で)★がいっぱいついているのに行きます。
60歳になって毎日安く観られるようになったんだから、ガンガン行けばいいんですよね。私一番嬉しいのはそれなんですよ。
今は配信もたくさんあって、観るものがいっぱいあって寂しくないんです。コロナになってから生活が変わりました。一日中パソコン見ていますよ。

―呉は『この世界の片隅に』(2016/片渕須直監督)ですっかり有名になりました。お父さん、お母さんもそこに加わりましたね。

うちの父や母はあのすずさん、周作さんと同年代です。母がすずさんよりちょっと年下で、父が周作さんよりちょっと年上。父が行っているスーパーはあの三ツ蔵のすぐ隣ですよ。第1段では三ツ蔵の前を歩いています。


=取材を終えて=
40代の10年間、在宅介護していました。できるだけみんなの手を借りて、時間ができたらパートに出て別の世界を作ったり、映画を観たりして遊ぶのも忘れず(笑)。思えばその日々がなければ、シネジャスタッフになることもなく、今の私はいなかったんです。
信友監督は、ご両親の娘に生まれて理解と励ましのもと、お好きな道を進んで来られました。「ぼけますから、よろしく」というお母さん、「これも運命(さだめ)じゃわい」というお父さん、娘であり、ディレクターでもある監督のカメラには、家族の愛情と信頼がたっぷり写し取られています。人生が愛おしくなる作品。(白石映子)

私の母も80歳を過ぎてアルツハイマー型認知症になり、父を残して83歳で亡くなりました。その後は私が実家に戻って一緒に暮らしていて、今、父は99歳。監督のお父様同様、布団の上げ下ろしも自分でしていて、あまりにも境遇が似ていて、つい、話が脱線してしまいました。何しろ、私も40代半ばに、虎の門病院に入院して、手術の日には母がずっと待っていてくれたということまで同じ! うらやましいのは、そのお母様の姿が動画で残っていることでした。仕事の合間に行ったインドの旅で、列車事故に遭われたことを知り、これまた詳しくお聞きしたくなった次第でした。信友監督ご自身のまわりだけでも、まだまだドラマが撮れそうです。次回作を楽しみにしています。(景山咲子)

『中村屋酒店の兄弟』白磯大知監督インタビュー

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*プロフィール*
白磯大知(しらいそ だいち)1996 年、東京都出身。17歳から俳優活動を開始。役者業の一方独学で脚本を書き始める。『中村屋酒店の兄弟』が初監督作品で、数々の賞を受賞。「第30回 東京学生映画祭」グランプリ、「第2回 門真国際映画祭」作品賞・最優秀 J:COM 賞、「第11回 下北沢映画祭」観客賞。

『中村屋酒店の兄弟』
監督・脚本:白磯大知
出演:藤原季節、長尾琢磨
https://nakamurayasaketennokyoudai.com/
©『中村屋酒店の兄弟』
★2022年3月4日(金)より渋谷シネクイントにてレイトショー先行公開
3月18日(金)より全国順次公開
作品紹介はこちら 
藤原季節さん、長尾卓磨さんインタビューはこちらhttp://cineja-film-report.seesaa.net/article/485701701.html

―初監督作品の公開おめでとうございます。
こんなに若い監督さんが作られたというのが意外でした。


脚本は独学でずっと書いていて、どこに出すという目的があるわけでもなく、ただ好きで短編や長編を書いていました。この『中村屋酒店の兄弟』が書き上がったときに、これは撮りたい!と今まで感じなかった衝動にかられたんです。
映像化してみたいと純粋に思って、相談できる方に話したら「じゃ、撮っちゃいなよ」って。たぶんその方も僕が本気だとはそんなに思ってなかったんでしょうけど。「ほんとに撮りますからね」と、スタッフを紹介していただいて、そこから動き出しました。

―「撮っちゃいなよ」の方はプロデューサーさんになられたんでしょうか?

製作で入っていただきました。第一線のCM監督さんで映画に精通しているわけではないんですけど、映画を撮りたいという気持ちがあって。僕の映画作りに参加して協力していただけました。

―映画製作にはそれなりの人や時間が要りますね。何から手を付けられましたか?

それはもう、手探りの状態から始まりました。まず、紹介していただいたスタッフの中でカメラマン(光岡兵庫)さんと一番話をしました。台本上だとドラマがたくさんあるわけではないので、じゃあまずロケ地が大事だねとか、どこで撮影するか大事だねとか、この作品で一番大事にしたいものをカメラマンさんと共有しました。絵コンテも何度か描きました。
細かいことでいうと、実際にある映画の雰囲気の中で、近いものを自分たちの中で模索しながらこういう雰囲気があるといいねと出し合い、いろいろ探っていった感じです。

―自主映画でほんとによく作られましたね。田辺弁慶映画祭は新人監督のいい作品が集まる印象があります。応募するときのお気持ちは?

無我夢中だったっていうのが正直なところです。なんとかこの作品をいろんな人に観ていただきたい。そのときは自分のためというより、いろいろ手伝っていただいた有志の方々、限られた時間とお金の中協力していただいたので、その方々のためにもこれは出さないと、という気持ちが強かったです。映画祭の締め切り時間を気にしながらずっと編集していて「なんとかできた!もう送る!」って。切羽詰まりながらやっていました。

―それでTBSラジオ賞をいただいた。

はい。そのときにTBSの方から「せっかくなのでラジオドラマにしてみませんか」と提案を受けて作ったんです。

―本編で応募したのが受賞してラジオドラマが後からできたんですか。それで前のことを補うような内容なんですね。

元々同時上映しようと考えて作ったわけではないんですが、本編の前にラジオドラマを聞いて、シーンを想像していただけたら、本編を観た時に回想のように蘇ったら、より本編を楽しめるんじゃないかな、という気持ちが大きくて。

―私のように慌てる人が出ないように(笑)上映前にラジオドラマ、本編の順とお知らせを。ドキュメンタリーも続けて上映ですか?

ドキュメンタリーはイベント的な感じで別に。いろんな方に意見を伺うと、映画の世界観というか流れる時間軸に浸りたいという方もいらっしゃって。作品はすごく思い入れがありますし、僕も好きで素晴らしいと言っていただけたんですけど、急にリアルな世界に行くよりは、何か別の形でと考えています。

―映画のラスト余韻残りますものね。
そのドキュメンタリーのほうは、長く店を続けてきたご夫婦でしたが、映画を兄弟の話にしたのは、監督が創造しやすいということでしょうか?


僕が男3兄弟の真ん中の子なんです。兄が真面目で、僕からすると硬いんじゃない?って考え方を持っているんです。僕はどっちかというと「和馬」を自分に重ねることが多くて。

―次男だけど、下にもいるのでお兄ちゃんでもある。今回は長尾卓磨さんの弘文と年の離れた弟の和馬の藤原季節さんという組み合わせですが、監督の思いもいっぱい入っているわけですね。

2人の立ち姿から兄弟らしさを感じました。今回の映画で大事にしたのは、距離が近くなればなるほど、なかなか言葉で伝えられなかったり、伝えようとしてない、伝わってほしくないのに伝わってしまったり。難しい距離感というか、人間の中で生まれるそういうものが出ていればいいなと思って脚本を書きました。
酒屋さんを選んだのは、家の近くの酒屋さんが「閉店します」とあって、その後更地になってしまったんです。小さい頃に親父に連れられてよく行って、ビール1本買うくらいなんですけどなんだかすごく強い思いが残っています。酒屋さん独特のあたたかさ、懐かしさが僕のイメージとマッチしていたので東京から郊外までいろんなところを探して見つけました。

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―ロケ地はどこでしたか? 山の風景もありましたが。

ロケに使わせていただいた中村屋酒店は赤羽にありました。家の中とそれ以外は山梨です。僕のお婆ちゃんの家がありまして、(映画の)和馬の部屋は元々僕のお母さんの部屋だったんです。

―あら、ほんとに思い出の部屋なんですね。

毎年遊びに行ってました(笑)。

―兄弟2人だと台詞が少な目ですが、ト書きはたくさん書かれたんでしょうか?

その当時はできるだけシンプルにと考えました。それは僕が役者のこともあるかもしれないんですけど。なんかこう明確に感情が書かれていたり、動きが書かれたりしていると役者さんを制限しちゃうんじゃないかなって気持ちがあります。できるだけ動き、行動だけを書いて、その中で自然に生まれる感情、細かい動作を役者さんが現場で感じるようにやっていただけたらいいなと。

―役者・白磯大知が演出された経験が、監督として役立ちましたか?

役者さんに対して基本的にリスペクトがある中で監督をさせていただいて、何ていうんですかね、人によるんですけど僕は何かを制限して追い詰めていくタイプではないと思うので、出していただくものを調整していました。「すいません、もうちょっと抑えて」とか、「もうちょっと出しちゃって大丈夫です」とかそんなことをしていましたね。僕も初めてで試行錯誤しながら。
僕は「本読み」をすごく大事にしたいなという気持ちがあって、現場に入る前に本読みでお伝えできることは全部お伝えします。何回か”頭からケツ(最初から最後)”までやって、僕の意図とかこのシーンはこういうことをやりたいとか。現場ではそこに持ってきていただいたものを、形にしていったって感じです。

―藤原さん、長尾さんとの現場はいかがでしたか?

お2人ともお芝居魅力的なので、やりとりの中で自然に生まれたものをちょこちょこっと、調整しました。現場ではお2人に支えられて…僕のことを「末っ子」と言ってくれているような環境でできたので…すごくタイトなスケジュールだったのに、季節くんや長尾さんの言葉に支えられたのが大きいです。

―どれくらいタイトだったんですか?ロケが山梨と東京と、あと電車内とかありますが。

撮影期間が山梨で2日、東京で2日、全部で4日でした。

―え!それは本当にすごいタイトです。夜中までやらないと間に合わないでしょう?

そうですねぇ。できるだけいろんなスタッフの方に協力していただいて。それこそ知り合いの役者さんや演出家とか、全然別業種の方とか、ほんとにみんなの手を借りてできた映画なんです。今思うとほんとによく4日で撮ったなって(笑)。

―お母さん役の女優さんはどういう方ですか?なんだかぎこちない認知症の感じと、「和くん」に気づいてふわっと嬉しい顔になる場面が印象的でした。

知り合いの方に相談して何枚か資料をいただいて、直接会ってから決めました。そう言っていただけることが多くてよかったなと思っています。

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―さっき藤原さん、長尾さんお2人のお話を伺っていて、映画の中村兄弟、和くんとお兄ちゃんみたいと何度も思ったんです。すごくいいトリオでまたこの3人の映画が観たいです。

ははは。そうですね。

―初めて送り出す作品です。観客へひとことどうぞ。

中村屋酒店で撮った意味がすごくあると思うし、人間と人間の距離感、家族・兄弟の距離感の難しさを感じてもらえたらなと思います。

―ありがとうございました。
(取材・写真 白石映子)


=取材を終えて=
このたびも20代の若い監督さん取材でした。白磯大知監督はこの映画の撮影当時22歳だったそうです。家族の描き方を見て、もっと年のいった方が作られたのかと思っていました。短い中に、口に出せないそれぞれの想いがぎゅっと詰まって、無駄なシーンがありません。
試写のときに、冒頭にラジオドラマが入ると知らなかったので「音声」だけが続くのに驚いたのでした(プレスには書いてあったんですが読んでいなかった)。まず音だけで想像してみてくださいね。しばらくしたら映像がちゃんと出てきます。
俳優・白磯大知として『虹が落ちる前に』に「竜彦」役で出演しています。このインタビューとは全く違う表情を見せているのにびっくり。俳優さんってこういうところすごいし、面白いですね。主演の守山龍之介さんにお話を伺っていますので、こちらもどうぞお読みください。

『ワイキキ・ブラザース』韓国公開から21年  JAIHO配信にあたり、イム・スルレ監督に思いを聞く

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『私たちの生涯最高の瞬間』(2008)、『リトル・フォレスト 春夏秋冬』(2019)などのイム・スルレ監督が2001年に発表した長編監督2作目の『ワイキキ・ブラザース』(2001年)が、 JAIHOプレミア作品(日本初公開*映画祭を除く)として3/14(月)に配信されることになりました。
【配信期間:2022年3月14日~4月12日】
JAIHOとは

『ワイキキ・ブラザース』 作品紹介  
原題 와이키키 브라더스
公式HP

監督・脚本:イム・スルレ
撮影:チェ・ジヨル
音楽:チェ・スンシク、キム・ミヌ
出演:イ・オル、パク・ウォンサン、ファン・ジョンミン、リュ・スンボム、パク・ヘイル
製作2001年 韓国

高校時代に7人で結成したバンド「ワイキキ・ブラザース」。学校を卒業してもバンドを続けるミュージシャンたちだが、なかなか芽が出ず、一人抜け、二人抜け、ついには4人になってしまった。そんな彼らの生き様を韓国で大ヒットした名曲と共に描く哀愁に満ちた物語。現在、韓国映画界の様々な分野で活躍する名優やバイプレイヤーが数多く出演している。第38回百想芸術大賞で作品賞を受賞した他、第22回青龍映画賞では助演女優賞(オ・ジヘ)、技術賞など数多くの賞を受賞。日本では第2回東京フィルメックス2001のコンペティション部門で上映された。韓国公開版で日本独占初配信される。

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「ワイキキ・ブラザース」は高校を卒業して4人で音楽活動を続けていた。ソンウ(イ・オル)はリーダーとして仕事を続けていたが、来る仕事といえば場末のクラブのダンスホールやイベントの伴奏ばかり。不景気のあおりを受け生演奏の仕事は激減、なかなか成功することができず各地を転々としていた。さらにひとり去り3人になってしまった。そして、バンドは故郷水安堡(スアンボ)にあるワイキキ・ホテルのナイトクラブで仕事をすることになった。10年ぶりに故郷に戻ったソンウは、高校時代、共にバンドをしていた仲間や恩師、初恋の女性イニと再会するが、彼らは皆、音楽をあきらめ生きていた。
主演のソンウを演じるイ・オルをはじめ、パク・ウォンサン、ファン・ジョンミン、リュ・スンボム、パク・ヘイルなど、今や韓国映画界で活躍する俳優たちが多数出演。
夢をもちバンド活動をしていた高校生時代。10数年たち、音楽は続けているものの夢破れ、生活を続けるのもやっとの中年になった自分たち。アイロニーに満ちた作品だが、最後は少し希望が持てる状況に変わっていくのかもしれないというところで終わる。

イム・スルレ監督プロフィール 任順禮 임순례 
1960年インチョン(仁川)生まれ
1987年ハニャン(漢陽)大学校 大学院演劇映画科終了
1992年フランス パリ第8大学 映画視聴覚専攻
1994年『雨中散策』短編 監督・脚本・制作      
1996年『三人の友達』長編 監督デビュー作
2001年『ワイキキ・ブラザース』監督・脚本
2001年『美しい生存-女性映画関係者が話す映画』監督
2003年『もし、あなたなら ~6つの視線』中、「彼女の重さ」の監督・脚本
2007年『私たちの生涯最高の瞬間』監督・脚色
2009年『飛べ、ペンギン』監督・脚本
2010年『牛と一緒に7泊8日』監督・脚本
2012年『南へ走れ』監督
2014年『提報者 ~ES細胞捏造事件~』監督
2018年『リトル・フォレスト 春夏秋冬』監督
2021年『交渉』監督

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イム・スルレ監督オンラインインタビュー 
2022年2月28日 取材・まとめ:宮崎 暁美 文字起こし:景山咲子

編集部:これまでシネマジャーナルではイム・スルレ監督の作品は、本誌で『美しい生存-女性映画関係者が話す映画』『ワイキキ・ブラザース』『もし,あなたなら ~6つの視線』『私たちの生涯最高の瞬間』『牛と一緒に7泊8日』『リトル・フォレスト 春夏秋冬』などを紹介させていただきました。また、2010年2月に中野のポレポレ東中野で開催された「真!韓国映画祭」の時、『飛べ、ペンギン』でイム・スルレ監督にインタビューさせていただきましたが、今回、『ワイキキ・ブラザース』がネット配信されるにあたって、またインタビューする機会をいただきました。よろしくお願いします。

*参照 シネマジャーナルHP 特別記事
真!韓国映画祭『飛べ、ペンギン』イム・スルレ監督インタビュー

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●21年前の作品が日本でネット配信されるにあたって

― この21年前の作品(2001年)がネット配信されることになりましたが、自分の初期の頃の作品を日本の映画ファンに観てもらうことについての感想、メッセージを。

イム・スルレ監督:20年ちょっと経って、また日本で紹介されることになりました。コロナ禍の難しい厳しい時期にネット配信いただけることになってほんとうに感謝しています。最近、以前に比べると日本と韓国の関係が、政治家によってあまりよくない状態に置かれていますが、両国がお互いに交流できるのは、まず最初に映画を通してお互いのことを理解することから親善関係が始まると思います。
今回は日本の観客の皆さんに韓国の平凡な人たちの生きる姿を見ていただいて、韓国という国、そして韓国の人に対して理解を深めていただければと思います。

― 監督も見直されたと思うけれど、見直してみた感想は?

監督:去年11月に公開20周年記念として韓国で上映の機会があって、ファンの方たちや出演した中ではパク・ヘイルさん、パク・ウォンサンさんも劇場に来てくれました。私も久しぶりに映画館で観ました。20~30代の若い人たちは『ワイキキ・ブラザース』を知らない人たち。今とは生活の様式も違いますし、昔の映画なのでダサいとか、理解できないと言われたらどうしようと思っていましたが、皆さんとても気に入ってくださって、時代を超えて通じる感性があると知って、とてもいい時間を過ごすことができました。

●作品を作ったいきさつ


― 『ワイキキ・ブラザース』というタイトルから受ける軽やかなイミージと違って、厳しい現実が切なく迫る映画でした。青春の夢や輝きと、年齢を経ての現実。そういう葛藤が、時代背景、地方の小都市の光景、学生時代の仲間との関係など、うまく表現されていると思いました。この作品を作ったいきさつなどを聞かせてください。また、カラオケに押されて、生バンドでは生計が立てられなくなった時代ということが、映画の中で語られていましたが、この時代の社会背景をあらためて教えてください。

監督:韓国では飲み屋などで生の演奏をして生計を立てていた人たちがカラオケが出てきて仕事がなくなってきた時期でした。韓国社会で古いものがなくなって、新しいものにどんどん入れ替わる時代でした。『ワイキキ・ブラザース』を撮った経緯は、友人の監督の経験談に基づいているのですが、自分で撮るより私が撮った方がいいのが撮れるだろうと提案してくれました。実際に飲み屋でバンドをやっている人たちにインタビューをして内容を練っていきました。バンドマスターの人たちの仕事が終わるのが朝方。それからお酒を飲みながら話を聞いていました。という次第で、その時期は毎晩ナイトクラブに出勤していました(笑)。

― 田舎町の光景から現代が1980年代~90年代という感じがしたのですが、携帯電話が出てきてびっくりしました。この時代背景は携帯電話が出てきたところからみて、撮影された2001年頃なのですか?

監督:韓国で携帯電話が出始めたのは、90年代前半から半ばと記憶しています。映画の中の高校時代は80年代。成人してからの現代は2001年頃です。

●出演者のこと

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― ファン・ジョンミンやパク・ヘイル、パク・ウォンサンなど、今、映画やTVドラマなどで活躍している方たちが何人か出ていますが、まだ駆け出しだった頃の俳優さんたちを観ることができてうれしかったです。この時のキャスティングとか、俳優さんたちとの当時の思い出は? ファン・ジョンミンはこの時も振られ役だったのかと思わず笑いました。

監督:そうですね。この映画に出演した時には、皆、初めて映画に出るとか新人で、あまり知られていませんでした。パク・ウォンサン、ファン・ジョンミン、リュ・スンボム、パク・ヘイル 皆そうでした。パク・ヘイルさんは映画初出演。演劇の舞台を見て、周りの人たちに推薦してもらって決めました。ファン・ジョンミンさんはオーディションを受けてもらって決めました。パク・ウォンサンさんは私の前作『三人の友達』に端役で出ていただいていた縁がありました。リュ・スンボムさんは、お兄さんのリュ・スンワンさんが監督をしていて、監督作『ダイ・バッド ~死ぬか,もしくは悪(ワル)になるか~』に出ているのを見て決めました。皆さん無名の新人だったのですが、冗談で、今、このキャストを選んだら、出演料だけで数十億ウォンの費用になりますねとよく言ってます。

― バンドのメンバー、皆さん演奏、歌など上手でしたが、もともとそういう素質を持った人を選んだのですか? あるいは練習によってあそこまでうまくなったのですか?

監督:日本の俳優さんたちの事情はわからないのですが、韓国の俳優さんたちは、基本的に歌が上手いので、練習すれば大丈夫と思って、ほとんど本人に歌ってもらいました。ただ唯一、一番たくさん歌ってもらわないといけない主人公を演じたイ・オルさんだけは音痴だったんですよ。本人も音痴と言っていたのですが(笑)。練習すれば大丈夫と思ったら、音痴に加えてリズム音痴で、ギターを弾きながら歌わないといけないので無理でアフレコにしました。

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●新作について

― 最近の映画製作状況は? 

監督:新作は『交渉』という作品を撮り終えているのですが、コロナ禍で劇場公開が難しくて、公開できるのを待っているところです。今、コロナで劇場公開が難しいので、ネット配信のシリーズ物を撮っている監督も多いです。私も仕方なくシリーズ物を作ることになりそうです。

― 時間がきてしまって残念です。またお会いしましょう。


他にもいろいろ聞きたいことがあったのですが、時間切れになってしまいました。下記のようなことを聞けたらと思っていました。

●ソンウの高校時代の音楽の先生の話。
朝鮮戦争時、北から逃げてくる時に母親と離れ離れになったと話していましたが、先生はそのことをあまり人に話したことがないようでした。長い年月が経ち、離散家族については話題にしにくくなったのでしょうか。

●イム・スルレ監督の作品は、社会情勢や人権などの問題を取り入れ、ヒューマンな作品が多いですが、アカデミー賞を受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』では貧富の差というのが伏線に描かれていましたし、韓国では光州事件など、社会派的なものを伏線に入れたりテーマにしながらエンターティメント作品に仕上げ、見ごたえのある作品が結構ありますが、日本映画はなかなかそういう商業作品が少なくて残念に思っています。韓国ではそういう作品に対して制約とか忖度とかそういうのはあまりないのでしょうか。あるいは観客の力、好みが効いているのだと思いますか?

●日本では映画界もコロナで大打撃を受け、ミニシアターの草分けである岩波ホールが7月に閉館するなど大きな影響が出ていますが、韓国ではどうですか? また、コロナの影響を受け配信が盛んになってきましたが、韓国でもそうですか? そのことで大きなスクリーンで観るのが前提の映画の作り方が変わってきそうですか?


取材を終えて

私は2001年の東京フィルメックスでこの作品を観ていますが、もう21年も前のことで、その時はここに出演している俳優さんたちの名前は知りませんでした。今、観る人は、現在、活躍している人たちの若い頃の姿を見ることができ、それはまた、お得な映画の楽しみ方になるかと思います。それにしても、今や韓国映画界で活躍している人たちが、こんなにも出演していたんだと、見直してみてびっくりしました。
イム・スルレ監督が日本に来た時には、だいたい監督の映画を観に行っているので、何回かお会いしたことがあるのですが、インタビューは2回目です。オンラインでのインタビューというのは初めての経験でしたが、このコロナ禍、新たな取材の方法として浸透するのでしょうか。私はやはり、直接お会いして話ができたらと思いました。早くコロナの影響がなくなり、直接お会いできたらと思います。
新作の『交渉』は、中東地域で拉致された韓国人人質を救うため、命を賭けて孤軍奮闘する外交官と国家情報院要員を描いた作品とのこと。ファン・ジョンミンが韓国外交官、ヒョンビンが国家情報院要員を演じているので、きっと日本でも公開されることでしょう。楽しみにしています。それにしても、今や大物スターをキャスティングして、しかも社会的な事件を元に映画を撮るというスタンスは変わらないという心意気はやはりイム・スルレ監督ならではのもの。あっぱれ。

参照
イム・スルレ監督作品、シネマジャーナル本誌掲載号
『美しい生存-女性映画関係者が話す映画』(2001)54号
『ワイキキ・ブラザース』(2001)54号、55号
『もし、あなたなら ~6つの視線』(2003)
『私たちの生涯最高の瞬間』(2007)
『牛と一緒に7泊8日』(2010)
『リトル・フォレスト 春夏秋冬』(2018)



『虹が落ちる前に』主演 守山龍之介さんインタビュー

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*プロフィール*
1994年6月3日生まれ。兵庫県出身。
映画出演作
2017年『⼆者択⼀』名倉健郎監督/主演:昌毅役/マイアミ映画祭ノミネート作品
2018年『春待つ僕ら』平川雄⼀朗監督/清凌バスケット部員役
2019年『スカーフ』的場政⾏監督/菊池遙役/SKIPシティ国際Dシネマ映画祭⼊選作品
2020年『追い⾵』安楽涼監督/新郎友⼈役/MOOSIC LAB 2019 ⼊選作
2020年「RED』三島由紀⼦監督/バーテンダー役
『虹が落ちる前に』は2021年門真国際映画祭で最優秀作品賞、最優秀男優賞、優秀助演女優賞、優秀助演男優賞を受賞。
ほかテレビ「東京男子図鑑」脇田役、CM、MVなど

*ストーリー*
風間公平(守山龍之介)は、現状に満足できないまま売れないバンドを続けている。周りにいる仲間や彼女の珠江(畔田ひとみ)に甘え、それが当たり前の毎日を過ごしていた。心のどこかでは、それがいつか無くなってしまうのではと感じていたが、気付かないフリをしながら...。そしてあるきっかけでその全てを無くしてしまう。もう取り戻せない事が分かってはいるが前に進む決断をし、曲を作り始める。
監督・脚本・音楽・衣装:Koji Uehara
出演:守山龍之介、畔田ひとみ、白磯大知、末松暢茂
https://www.nijiochi.com/
(C)2021「虹が落ちる前に」製作委員会
★2022年3月19日(土)よりK's cinema、UPLINK吉祥寺ほか全国順次公開
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―初めてお目にかかると、まず「なぜ俳優さんになられたのか」と伺っています。守山さんは仮面ライダーに憧れていたと知りました。

はい、なりたいものが「政治家と仮面ライダー」で(笑)。それは小学校の卒業文集にも書いてあります。昔から憧れていて、今でも仮面ライダーやりたいです。

―今も。初志貫徹・初心忘れずでエライ!

エライですか(笑)。

―では『虹が落ちる前に』のお話を。この守山さん演じる風間公平くんについてどう感じられましたか?

なよなよした感じはあるんですけど、内側にしっかり芯がある人だなぁと思いました。現状を楽しみたいという気持ちもある中で、今のままじゃダメだというのもしっかり感じて考えていた役だと思ったので、内側に芯がある人としてやりたいと思いました。

―ちょっと気弱というか腰引けたところありますよね。穏やかで人と争いたくないんでしょうね。

ああ、公平そういうところありますね(笑)。

―そこを補ってくれるのが、白磯さん演じる竜彦で。

公平は大切にしたいものに一番弱いタイプだと思います。竜彦はそれにしっかり向き合う。そこが二極化しているかな。公平は大切にしたいからこそ、争わない。それが逆にマイナスに行っちゃっている。

―公平は正義感が強くて負けるとわかっていてもいきますね(笑)。そこはいいところなんですが、彼女との問題を先送りしてしまう。そういうところ、どう思いますか?

正直自分と似ているなぁと。(笑)
だからこそ公平の思うことがわかるんですよ。逃げているんじゃないんです。面倒くさいとかやりたくないからやらないんじゃなくて、先のことまで考えちゃって。ある意味どう手を出したらいいのかがわからない。

―考えてグルグルしちゃうんですね。

そう。グルグルしちゃうのが手に取るようにわかる。追い込まれればやるタイプだとは思っています。なにかきっかけ、兆しが見えればズンズン進んでいくタイプ。
だからこそ、こういう系の男はどう思いますか?と聞かれたら、逃げますね(笑)。見ていてちょっと腹が立ちます。

―なるべく穏やかにおさめたいですよね。おさまるものなら(笑)。

はい、おさまるものなら(笑)。

―おさまらないところへ竜彦が出てきて解決しちゃうという。いい役ですね、竜彦って。

竜彦はもう、女性の方たちがモニターに食いつくような男前っぷりで、ちょっと羨ましかったです(笑)。

―守山さんは「誰かのヒーローになりたかった」とおっしゃっていた記事が印象に残っています。今回、主役の守山さんは座長でヒーローでもあるわけです。この作品で気を配ったことは?

僕は相手の役者さんをその都度その都度しっかり見ていようと思いました。カットがかかる、かからない関係なく。この映画ちょっと特殊なんですよ。監督の家にメンズたちは全員寝泊まりをして、ほんとに合宿みたいな感じで。そのおかげでずっといい関係が作れたと思います。
その時に、役のために話しかけない方もいましたし、話しかけてくるメンバーもいたし、そういうの全然気にしないメンバーもいたし。僕からその壁をぶち破ることは絶対にしないでおこうと思っていましたね。

―メンバーの気持ちを大事にされたんですね。

あとは、コミュニケーションは会話以外でもとれるものだと思っていたので。信頼関係だとか、何か通ずるもので会話ができたらなとそのときは考えていました。主演をさせていただいたので、主演の仕事はうまく芝居をすることだけじゃない。この作品をみんなのベストのものになるように尽力しなきゃと思いながら毎日過ごしていました。

―舞台の主演もなさっていましたね。舞台と映画はどんな風に違いますか?生の舞台と撮り直しができる映画との違いはわかりますが、俳優さんとしての心構えなどは?

舞台は、僕は苦手意識がまだありますね。ただ勉強になることはいっぱいあります。舞台の凄みっていうのは、感情の切り替えの速さだと思うんですよ。受けてから返すまでの間(ま)が、たぶん普段話すときよりももっとクイックなもの。観ている方がよりのめり込んでくれるように、もっとスピード感を持ってやっていくものだと思うので感情の動きもやっぱり速い。そこは勉強になる+難しい。舞台の良さでもあると思っています。

―舞台はカメラのようなズームもなしで、観客の視線をひきつけないといけませんよね。

そうなんです。だからといって一人だけ目立ってはいけない。そこは結局、舞台も映像もチームで作っているということは一緒なのかもしれないです。

―舞台は準備期間のわりに公演日数が少ないですね。この映画は先ほどの合宿から始まって、クランクアップまではどのくらいの期間だったんでしょうか?

僕の場合は1ヶ月半弱くらい。間も空いていたり夜だけの撮影もあったりで、ゆっくりする時間が意外にあったんです。

―その間モチベーションを保つには?ずっと役の公平でいたんでしょうか?

僕がそれをしなくても、みんながそうさせてくれました。僕を「公平でいさせてくれた」という感じがありましたね。

―男の子いっぱいいましたよね。危ない人やら怖い人やら(笑)。バンドマンの話かと思ったら、「ヤの人」も出てきて、エピソードがいろいろありました。公平は後から加わるんですが痛い場面もありましたね。

あの(怖い)方々は僕が出てないシーンもあって、一緒だったのは一瞬でした。痛い場面ではほんとに(吐き気がして)戻しちゃって。ご飯食べてなかったので吐くものもなかったんですが。

―まあ、なんと繊細な。あのシーンはそれだけ真に迫っていたってことですね。

そうなんです。

―Uehara監督は監督・脚本・音楽・衣装と八面六臂のスーパーマンのような方ですけど、どういう風に演出されるんですか?

僕らには全くと言っていいほど演出はなかったです。基本的に僕らに任せてくださって。
僕はクランクインして最初のカットで、「もう少しだけ間(ま)を大事にして」と言われた以外、ないですね。こう動いて、という指示もなくて、それは僕たちを信頼してくださっている部分だと思います。その代わり、こういう背景とかロケ地をめぐって決めるまでほんとにこだわられたんだと思います。

―それまでいろいろなことなさって注目されていた方ですし、映画は初めてでも、いろんなノウハウやスキルをたくさんお持ちの方なんですね。

そうですね。クリエイティブに生きて来られた方だと思います。

―最初の方にレストランバーで働く公平が出てきます。あの動きなどは練習されたんですか?

僕は大阪で、元々飲食店でバイトした経験があって、野菜を切ったりとかフライパンさばきとかはある程度できていました。僕はお芝居をするときに、何かロケーションがあって「自分の家」「働くバイト先」とかがあれば、いつもちょっとだけお時間をいただいています。
ちょっと動いたり触らせてもらったりします。見る人は見ていると思うし、僕自身が”邪魔になってしまう部分”だと思っているんです。「あ、違うわ」とか無駄ですし、そういうのがないように。

―ちゃんとキッチンに馴染んで、働いていましたよ。

ほんとですか。その日はみんなと喋りながらも動きを止めずにやっていられたと思うんです。よく見ていただいてありがとうございます。

―練習つながりで、楽器のお話を。ボーカルだけじゃなく楽器もありましたね。

ギターです。趣味程度にはやっていたんですけど、僕はどっちかという”アルペジオ”(1音ずつ)で弾くほうが好きだったので。あれは”バレーコード”(指1本で複数の弦を押さえる)で弾くバンドだったので、初めて練習しました。監督の家で寝泊まりしていたので、誰かがギターやベースを持ったりすれば、みんなその部屋に集まってほんとにバンドマンの一日みたいな流れができていました。

―映画の中では仲間から外れる人が一人いましたけど(笑)、合宿ではみんな仲良しなんですね。

はい、ほんとに仲良かったです。

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―守山さんの動画を探して何本か見ました。「熱血チャンネル」面白かったです。「ももたろう」の一人何役のお芝居とか、無茶ぶりの(笑)。

あれはほんと「無茶ぶり」で、困ったもんだと思いながらやりました(笑)。

―MVにも出ていらっしゃるでしょう?

僕はバンド好きですし、広告も撮りたいですけど、MVに出たいんですよね。

―こういう俳優さんになりたいと目標にする方がいらっしゃいますか。

海外の俳優ならエディ・レッドメインさん。『リリーのすべて』(2015/トム・フーパー監督)がほんとに好きで。ここまで表現したいなぁと思える役者さんです。で、国内でいうと大泉洋さんがすごく好きなんです。大泉洋さんは地元にも愛されながら、面白いお芝居も暖かい人間味にあふれたお芝居もします。かと思えば、実写化のような作品にも出ていたりとか振り幅がすごくあって、この方のようにいろんなお芝居ができると、きっと観ている方も楽しんでもらえると思うし、自分もやっていて楽しいだろうなと。

―エディ・レッドメインと大泉洋さんという組み合わせが面白いです。映画ではどういう作品に出てみたいですか?

インパクトのある映画というよりは、静かな日常が流れるような映画に出たくて。その中でも人間は心を動かしていて、そちらのほうがグサッとくるものがあったり、何気ない一言が意外と相手に突き刺さっていたり、ということがいっぱいあります。だから人って生きるのが難しい。そういうのを僕は伝えていきたいなぁと思いますし、僕がいることで豊かになってくれればと思うんですよね。たとえば李相日監督とか、坂元裕二さんの脚本とか、出たいなぁと思っています。

―言っとくとどこかで繋がるかもしれないので、なるべく希望は口に出しておくといいですよ。

そうですよね(笑)。坂元裕二さんのドラマには一度出させていただいたことがあるんです。「スイッチ」で名前があるだけなんですけど、すごく嬉しかったですね。こうやって関わりを持っていきたかったですし、一歩一歩つかんでいきたいと思っています。

―元気で続けていればきっと巡ってきますよ。元気でいるためにしていることは?

えー、僕元気なのかなあ? 元気ですけど(笑)。
たぶん自分のしたいように生きていると思います。「これしたくないなぁ」と思うものはしないようにしますし、食べたいものは食べて、変なところで自分に「圧」を与えないように、抑制もしないというか。

―それはお母さんの薫陶でしょうか?

いや、どうですかね。母親はどっちかというとルールに厳しい。「こうでありなさい」とか厳しいほうだとは思うんですけど、だからと言って強要はしてこなかったのはすごく有難い。この人に育ててもらって良かったなと感じました。

―だって「仮面ライダーになっていい?」って聞いたら「いいよ」って言ってくださったんですもんね。いいお母さんですよね。

はい(笑)、いい母親です。
大学に入って20歳にもなってたのに「ダメでしょ。何考えてんの、あんたは」って言わなかった。「やりなさい、自分の人生なんだから」って言うのがすごいなと。

―大阪のお母さんみんなが、そんなに物分かりいいわけじゃないですよね?

僕の周りでは反対されている人も多かったですねぇ。信じてくれているんだなと思いました。
結果も見せていかないと。

―仮面ライダーのほかに、「この1本」という映画がありましたら。

『ペイ・フォワード 可能の王国』(2000/ミミ・レダー)です。見返します。残酷でもあるなと思ったんです。結果が見えるのは自分が死んでからなのか、結末としてはいいけれど本人としては絶対いやだよな、と。いい映画ですけど。

―善意を他人へ渡していく映画でしたよね。見直してみます。
今日はありがとうございました。


(取材・写真 白石映子)


=取材を終えて=
守山龍之介さん、質問をしっかり考えて答えてくださる好青年でした。政治学科で勉強していたのが、もう一つの夢だった俳優の道に来られたのは、「話せば長くなりそう」だそうなのでまたこの次に(実現しますように)。森山未來さんとちょっと似た感じがして、光も影も併せ持つ幅の広いタイプの俳優さんに成長されるといいなぁと思います。
撮影しながらお話を続けていたら、お婆ちゃんっ子だと判明。たくさん愛情を受けて大きくなった守山さん、今度はお好きだという映画『ペイ・フォワード 可能の王国』のように、受けた愛情をほかの方々やお仕事に注いでいくはず。そしたらまた新しい愛やら善意が入ってきますよね。元気で俳優の道を進まれますように。(白)