『わたしの聖なるインド』 専修大学文学部「映像ジャーナリズム論」ノウシーン・ハーン監督特別講義

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【日時】4月23日(木)14:50~16:20
【会場】専修大学生田キャンパス10号館10101教室

専修大学文学部 ジャーナリズム学科 山田健太教授より、ノウシーン・ハーン監督紹介。
(学生たちは、前週の講義の時間に『わたしの聖なるインド』を鑑賞し、感想を提出済)


『わたしの聖なるインド』   原題:Land of My Dreams
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監督・撮影・編集:ノウシーン・ハーン
2019年12⽉、モディ政権はイスラム教徒を意図的に排除した市⺠権改正法(CAA)を制定。イスラム教徒の間で市⺠権を剥奪される危機感が⾼まる中、反対運動の拠点だったジャミア・ミリア・イスラミア⼤学構内に警察が乱⼊。この暴⼒的な対応と差別的な法案への抗議として、デリー南部のシャヒーン・バーグで、⼤規模な座り込みが始まる。その中⼼にいたのはムスリムの⼥性たちだった…
シネジャ作品紹介


ノウシーン・ハーン監督 特別講義
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通訳:若井真木子さん(山形国際ドキュメンタリー映画祭・東京事務局)

ドキュメンタリーを作り始めて10年。いろいろ紆余曲折がありましたが、日本で公開されることになりました。

◆自分が何をしたいかを探る
ジャミア・ミリア・イスラミア大学でマスコミニケーションで修士号。その後、ムンバイで映画製作に携わりました。最初は編集の仕事。撮影が終わった映画のポストプロダクションをする会社でした。でも、自分は映画を作ることをしたいと思い、アシスタントカメラマンとして、まず映画のメーキングを作成しました。映画製作の中で、どういう仕事があるかを学べました。次にカメラマンの助手の仕事に就きました。しばらく撮影監督の助手をしていましたが、監督の意図したものに沿って撮影するだけとわかって、自分が面白いと思うものを撮りたいと思いました。
その後、テレビのプロデューサーや、CM制作などを経験して、何が自分に向いているのかを探りました。通常、カメラマンをずっとやって、助手から監督とキャリアアップするのですが、私は違いました。

◆カシミールに拠点を置き映画のテーマを模索する
北インドのカシミールは、紛争地域という一方、美しい山岳地帯の観光地なのですが、そこに拠点を置いて、インディペンデント監督として、映画を撮り始めました。
美しい風景の陰に隠された紛争に興味を持つようになりました。いかに住民、特に女性や子どもが苦しんでいるかを知りました。2018年にドキュメンタリーを撮り始めました。2019年に法律が改正されて、カシミールの既得権が剥奪されました。ネットなどが遮断されました。いろいろなドキュメンタリーを撮って、模索しました。2年ほどテレビや映画の企画を提案していきました。現地の人たちとの信頼関係を築きながら模索しました。ジャーナリストの精神がインディペンデントで映画を作ることの原動力でした。
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◆市民権改正法へのデリーでの抗議運動を撮る
2019年、市⺠権改正法(CAA)が問題化しました。デリーに行って、ジャミア・ミリア・イスラミア大学の抗議運動を取材しました。ものすごい暴力で、抗議運動が妨害されているのに、正しく報道されないことを目の当たりにしました。記録しなければと思いました。インドの大手メディアは政府の息がかかっていることが多いので、違う視点で報じなければと思いました。ニューデリー南部のイスラム教徒居住区のシャヒーン・バーグでの座り込み抗議運動は、女性が中心。発端は、大学の図書館に警官が侵入し学生に暴行を行ったことでした。学生は、インドの未来。そんな風に扱うことに耐えられないと、母親など女性たちが立ち上がりました。 
市民権改正法についても知ることになりました。
抗議運動の中心は、ムスリマ(イスラーム教徒の女性)でした。普段、外に出ない女性たちが、表に出て声をあげたことに驚きました。インド政府に不満を持つ人たちが、彼女たちに触発されてインド全土に抗議運動が広まりました。
座り込みしていた人たちの内、100人以上が暴力によって亡くなりました。コロナでロックダウンになり抗議活動は終わってしまいました。
暴力の風が吹き荒れたのは、ムスリムが標的だったのに、ムスリムが悪いという風に報道が捻じ曲げられました。
3年、編集にかかって、最初、山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されて市民賞(観客賞)をいただきました。ようやく日本で公開されることになりました。


◎学生たちとのQ&A
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― 映画を観るまで、インドで起きていることを全く知りませんでしたので驚きました。ドキュメンタリー映画を作って、インドへの思いは変わりましたか?
(女子学生から、英語での質問でした)

監督:大学の図書館に警察が突入して暴力をふるいました。大きな痛みと怒りを感じました。証拠を記録として集めました。暴力をした側が裁かれると思っていたのに、力でもって無きものにしようとしました。すべてを記録することで、抵抗することのアーカイブにしたいと思いました。人々の希望や連帯がコロナでロックダウンになって、圧倒的に違う世界になってしまいました。何が自分の生活だったかを思い出せないくらいでした。
ロックダウン前の抗議運動を記録しておいてよかったと思いました。映画を作りながら、諦めや絶望もありましたが、作ってよかったと思っています。人々に希望も与えられればと願っています。

― 多くのメディアが政府の息がかかっているとのこと。ムスリムを迫害している側について、多数のメディアはどう報道しているのでしょうか?

監督:テレビは影響力があって、皆が見ています。今、起きている政治状況が、彼らなりの目線でマイノリティの姿を見せていて、権力を守ることに必死です。マジョリティの人たちに、ムスリムやダリットなどマイノリティが悪い影響を与えているようにストーリーを作って流していくのです。裁判所も与党が牛耳って、その時の権力者に有利な状況です。

― 製作資金についてお伺いします。

監督:実際、すべて自分で資金を調達しました。私自身、ムスリマで、ムスリムのコミュニティの映画を撮るのに、誰かから資金を貰うと隙が出来てしまいます。あとから資金源について何か言われてしまいます。自分の物語として作りたかったので、資金を誰かから貰うことはしたくありませんでした。全編、編集も自分で行い、ナレーションもスタジオを借りて自分で行いました。時間をかけて作ったので、テーマと向き合っていろいろと考えることができました。

― 体制側でないメディアはあるのですか?

監督:テレビや新聞は広告収入で成り立っているので、与党の宣伝に使われています。反政府的発言をするジャーナリストが逮捕されています。いかに沈黙させるかに躍起になっています。政府に意見するNTTVというチャンネルがあって、唯一の希望だったのですが、去年、与党支援者が買収してしまい、政府批判が出来なくなって、YouTubeから発信しています。

― 映画の中で意見を発した人が暴力を受けている場面が映っていますが、撮っている時に警察などからの圧力はありませんでしたか?

監督:撮っている時、危険は常にありました。暴力を目の当たりにしましたが、撮っている時、警察の暴力は激しさを増すばかりでした。抗議活動は暴力にさらされながら続いていました。撮影している私にも危険がおよびそうになるので、なるべく目立たないようにしていました。編集している時に感じたのは、パラノイアです。
南アフリカで上映した時には、在南アフリカのインド大使館から妨害を受けました。

山田健太教授: 学生たちはシャイでなかなか質問が出ないのではないかと心配していました。事前に提出してもらっていた学生たちの質問の中に、最後の台所のシーンについて、何を表したかったのかという質問が結構あがっていました。

監督:とてもいい質問。気づいてくださって、ありがとうございます。最後のシーンは、時系列では、最後ではないのですが。
デリーの多くのムスリムが、コロナの時に殺される事件が起こりました。その中で、希望や連帯を感じさせるものを入れたかったのです。未来を予測しているのも、その一つです。
最後の台所の場面で、入れ物に水を注いでいくうちに水が噴き出すというのは、抑圧に我慢できなくなったという比喩です。これ以上無理と、人々が立ち上がったきっかけとなったのが、市民権改正法でした、

山田教授:ムスリマに焦点をあてていますが、インドの女性が抑圧されていることや、モディ政権批判をクリアに表していました。

監督:私自身、ムスリムで女性であることを映画に反映するつもりは、最初はありませんでした。あくまでジャーナリスティックな目線で作ろうと思っていました。編集しているうちに、自分の中に沸き上がった感情が反映されていないと思いました。少し前は、自己紹介する時に、ムスリムの女性とは、あえて言いませんでした。アイデンティティを見つめなおす機会になりました。座り込みしている女性たちから、教えられました。マイノリティとしてのアイデンティティは自信に繋がるものだと。ムスリム女性の私自身も主人公であると変わっていきました。
抗議活動が内包している様々なものは、私自身が一番考えていることです。

山田教授:監督から、学生に質問をしてください。それを今日の学生たちの宿題にします。

監督:皆さんが感じている「怒り」を描写してください。その源も含めて。
メディアで働くということは、自分の直感が重要。「怒り」という入口を通して、自分自身が見えてくるのではないかと思います。自分自身の好奇心にも気が付けるのではないでしょうか。

*********

講義終了後、30分程して学生さんたちから回収した「宿題」をさっそく読む監督。時折、笑みもこぼれました。今は、スマホをかざすと手書きの日本語も寸時に英語に翻訳されるので、便利な世の中になったものです。

今回の来日中、個別インタビューの時間も設けられたのですが、出遅れて、私が申込みした時にはすでに枠がいっぱい。宣伝のリガードの西晶子さんから、この専修大学での特別講義の取材の案内をいただきました。実は、配給のきろくびとの中山和郎さんが、専修大学で講義の枠を持っていらっしゃって、その中での映画上映と監督の特別講義でした。このような機会を持てる学生さんたちを羨ましく思いました。
受講生は女性の割合が多かったとはいえ、質問はすべて女子学生からでした。頼もしいです。

講義の中で、カシミールに滞在していた時期があると語っていらしたので、『カシミールの秋』や『カシミール 冬の裏側』のアーミル・バシール監督のことを伺ったら、もちろん親交があるとのことでした。
取材:景山咲子



◆スタッフ日記
生田の森 登戸研究所、そして『わたしの聖なるインド』ノウシーン・ハーン監督特別講義 (咲)
https://cinemajournal.seesaa.net/article/520534448.html?1777203766

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2023年 山形国際ドキュンメンタリー映画祭市民賞受賞

『LOST LAND/ロストランド』藤元明緒監督インタビュー

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*藤元明緒監督プロフィール*
1988年大阪府出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪 放送・映画学科に入学し、映画制作を学ぶ。卒業後、拠点を東京に移し『僕の帰る場所』ではミャンマー人家族、『海辺の彼女たち』では日本の農漁村で働くベトナム人女性たちにフォーカス。第3弾の本作『LOST LAND/ロストランド』はベネチア国際映画祭オリゾンティ部門で審査員特別賞を日本人で初めて受賞した。

作品紹介はこちら
公式サイト https://www.lostland-movie.com/
(C)2025 E.x.N K.K.
★2026年4月24日(金)より全国順次公開

ー初めにベネチア国際映画祭での3冠おめでとうございます。
海外からお帰りになったばかりなのに、今日はありがとうございました。

シャフィが、映画の最初と最後に、1から10まで数える場面が印象的でした。
数字のいくつかが、ペルシア語と共通していて、さらに、ロヒンギャ語の英語の題にある「Watan」もペルシア語で、祖国、故郷という意味です。ロヒンギャ語のことをこれまで意識したことがなかったのですが、調べてみて、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派、インド語群に属する言語と知りました。ロヒンギャ語はベンガル語に近いとのことですが、ベンガル語にペルシア語系の単語が、1万語入っていますので、なるほどと納得しました。


そうですね。今の新しいロヒンギャ語は通じると思います。

―姉弟が「だるまさんころんだ」で遊んでいましたが、ロヒンギャ語ではなんと言っているのでしょう?

あれは韓国語なんです。Netflixシリーズの「イカゲーム」本編でなく、ミーム(SNSなどネットで大流行したパロディや部分的に模倣されて拡散したもの)が世界中で流行っていて「だるまさんころんだ」は部分的にそのままの韓国語で使われています。

ー韓国語だったんですか。
韓国語で「ムクゲの花が咲きました」(무궁화 꽃이 피었습니다ムグンファ コチ ピオッスムニダ)というのと同じですか。

訳したらそうなると思います。

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―シャフィ君とソミーラちゃんは今何歳になりましたか?

映画の撮影が一年半くらい前のことなので、6歳と11歳です。

―2人は今、勉強できる環境にありますか?

公的な滞在資格や教育には、アクセスできない状況です。ロヒンギャの子どもたちは、有志の大人たちが開校したスクールで勉強しています。

―映画祭後の反響を見ていると、この映画を作るのはほんとに大変なことだったんだなと思いました。いろんな心配があるかもしれないというのを考えられて、覚悟した上で製作されたのだと思いますが。

それは最初から考えての出演交渉でしたから。ただ僕がわかって理解していることと、彼らがどう理解し考えているかということはまた別問題だと思うので。これが出演してすぐなのか、10年20年後にどう思うのかは、やはりわかりかねます。そこの責任を取るというのは不可能です。

―これがいい記念になるといいですね。

そうですね。せめて。

―二人は完成した映画を観ていますか?どんな感想でしたか?

2回見ています。モニターと映画館での上映と2回。
基本的に僕は出演者に感想を聞かないようにしているんです。

―じゃあ反応はいかがでしたか?

反応は…笑ってました。撮影当時のことを振り返って言っていたのは「シャフィくんが重かった」ということです。お姉ちゃん疲れちゃったと。

―二人の場面が多かったですが、思ったようにいかなかったり、苦労したりはありましたか?

思ったとおりに行かなかったのは、二人がよく笑っちゃうことですね。シリアスなシーンなのに笑顔になってしまうという。船の上とか、泳いで逃げるところとか、アトラクションみたいに楽しかったらしいです。いくら言っても笑っちゃって、編集で切ったり暗くしたりしました。船のシーンをコマ送りすれば笑っているのが見えます。
事故が起きたり、いやがられたりよりは笑ってるほうがいいですけど。

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―海と船のシーンは撮影にどのくらいかけられたんでしょう?海の上って怖いですよね。

僕も大丈夫かなと思いました。周りをいろんな船で囲んで、スキューバダイビングの人も20人ほど。海の中にもいました。一番たいへんなのはクラゲです。
刺すクラゲもいますし。船の場面には10日間くらいかかっています。

―10日間。人数も多いですしね。

そうですね。船に乗ったキャストは50人~60人です。

―ほんとはもっとぎゅうぎゅう詰めですよね。難民の船はそんなイメージです。

100人200人とか。(撮影ですから)定員をオーバーしない人数です。周りには4隻くらい。着替えボート、トイレボート、プロダクションボートいろいろ。
山が映りこまない沖合まで毎朝1時間~1時間半くらいかけて出かけて、一回休憩を入れてまた戻る、時間になったら帰る、という感じでした。移動にかかるので、一日で撮れる時間は短いです。

―劇中で歌が出てきます。海の上で男性が歌うのがとても印象的でした。メロディと故郷を思う歌詞が良くて、それも途中でさえぎられて悲しさが増しました。

やっぱりロヒンギャの人々は、文化や言葉とか含めて奪われ続けてきた。それを「歌う」ことも止められる。子どもは最初に「遊ぶ」ということを止められる。この二つを序盤に置くというのは、必要な部分でした。そこから彼らの旅が始まる。
メロディ、フレーズは既存のもので、歌詞はオリジナルです。その場の心情を言葉に乗せて歌っています。子守歌も良かったです。

―今回言葉の面はいかがでしたか?

通訳は英語とロヒンギャ語の二人でした。もう言葉がわからない映画3本目なので慣れましたけどね(笑)。僕は、ロヒンギャ語で「立って」「座って」「振り向いて」とか、あと「静かにして」「ゆっくり」とか・・・簡単な指示の言葉を両手で収まるくらい(笑)。

―10個で足りるんですか!動作でもわかりますものね。
『僕の帰る場所』のカウンくんが、弟の反応を補って余りある勘の良い子でした。今回のソミーラちゃんもそうでは?と思いました。


素晴らしかったですね。カウン君と同じくらい、それ以上に。すごい似てましたね。演技の仕方が。

―監督の見る目がすごい!チョイスがドンピシャです!

それはもうそこに関しては間違ったことがないです!キャスティングだけで持っているようなもの(笑)。素晴らしい人と出逢えるんです。ほんとにありがたいですね。

―それは監督の「引き(寄せ)の強さ」があるんですね。

カタログから選ぶようなことはできないので。カウンくんの時はこの子しかいない、というところから始まったので、撮るまで知らなかったです。
今回は最初から「わかってる」状態で臨めました。

―それも最初にシャフィ君を見つけて、家に行ったらお姉ちゃんがいたという。

はい。弟だけで行くか、二人で行くというのはずっと悩んでいたんです。最初は弟だけの旅、と書いています。コンセプト上は弟が大人に守られていろんなところに行く。

―お姉ちゃんがいるといないではずいぶん違いますよね。

違います。まあ物理的に4歳でジャングルは無理だろうということになりました。

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―観客としてはこの二人のうちどちらかがいなくなるんじゃないかと、ハラハラしました。ソミーラちゃんの勘の良さはどんなところで発揮されたんでしょうか?

勘というより、演技に対する真剣さですね。自分の役割をすごいまじめに考えています。こういう素質がある子もあの年齢では少ないです。性格もあります。
自分がどこから撮影されているのか、カメラの位置をすごく良く観ていました。そこは、なんていうか、いい意味でのナルシスト。自分がどう見られているかというのを把握している、そこが勘が良いというところ。

―子どもたちが天才的に良かった! では、大人のほうは?

大人もすごかったですよ。総じて全員すごかった(笑)。
あのジャングルでの3人の青年もよくセリフを覚えて、しっかりと演じてくれました。

―夢を語る人でした!

あの人たちも素晴らしかったですよ。たぶんできるなとは思っていたんです。ミャンマー人って演技上手いんですよ。映画以外の撮影もしてきましたがうまい人が多いです。

―すごく自然ですよね。撮られているとぎこちなくなってしまう人もいるんですよね。

そうなんです。恥ずかしいですし。でもそのふるまいがみなさん素敵で。

―みな自分が出る意義をしっかり感じて出てくださったわけですね。
上映会のとき、自分が出ているのを見て、みなさんどうでしたか?


みんな(映像の)写真撮っていましたね。「出てるぞ~」とか、知り合いがブローカーに怒られているシーンのところはどっかーんと笑いが起きる。そういう感じでした。

―え~(笑)。

英語を喋れる方はほとんどいないんですが、何人かに聞いたら「観ていて辛くなった。でもロヒンギャの名前が出ること、物語を伝えることは嬉しいし、そこに期待している」と。

―責任重大ですね。これから押し出していかなければ。

他の国のロヒンギャとは反応が違いますね、シーンによっては笑いが起きたりしますが、ほかの国にいる人は、日本人のようにシリアスに観ています。

―海外での映画祭のときに観てくれた方々ですか?

映画祭とかフランスでの公開とか。

―その国で暮らしが成り立っているのですか。

暮らしは立っていないですね。そもそも国籍がないので。

―国籍がないまま外国に住めるんですか?

住めますよ。

―結局たどり着いてもその国での居住権がもらえない、

日本だったらもらえます。日本に来るというのは相当至難の業です。90年代くらいだったら、日本に来た人が群馬県とかにいます。今、難民キャンプを出てくるっていうのはかなり難しいです。国籍がないというのが、普通の難民たちとは違う。難民でも国籍があれば、できる手段はあります。

―国籍ってどうしたら取れるのでしょう?

ミャンマーの法律を変えるしかないです。

―外国に行けた人がその国の国籍を取ることはできないんですか?

先進国はできるところがあります。それでも大人数ではない。

―これを聞いていると時間がなくなっちゃうので、映画のことに戻ります。逃避行なので夜の撮影シーンがいくつもありましたが、特別気を遣うことは?

どっちかというと技術的な面です。ライティングとカメラ。
普通、映画となると、照明を当てて「夜を作る」。見える状態の夜を作るんです。
それは基本的に僕はしたくない。映らないっていうのが映画と思っているので。このご時世、暗闇って映画館でしかできないんです。明るい部屋で暗いシーンを映しちゃうと、そう見えない。暗闇の中で音、声だけが聞こえるというのは緊張感が全然違うと思うんです。ライティングには非常に気を使いました。

―それはカメラの北川さんや照明さんたちと話し合われるんですね。
姉弟の衣装が白っぽかったり、オレンジ色だったりは闇に溶けてしまわないためですか?


いや、そういうことではなく、この映画全体として、姉のソミーラの存在を観客の記憶に焼き付けるための仕掛けがあります。その一つ。

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―ロヒンギャの方からアドバイスを受けたシーンはありますか?

いろんなディティールがありますけど、記憶しているのは「国境の越え方」です。どう金網を破るのかとか細かいところです。グループはどこに潜んでいるのかとか、そういう部分です。旅のしかたのディティールですね。あと重要だったのは「お祈りの仕方」です。礼拝のタイミングとか。普通は何時と何時など決まった時間ですが、船に乗っている場合、一斉にみんなでやるのだと思っていましたがそうでもない。個人によって違う。

―一緒にやる場合もあるけどわりと個人の自由ですね。

習慣的なものを教えてもらったりしました。

―助け合いの精神などはイスラムから来ているのかなと思います。これまで過激な部分が強調されてきましたけど、自分が辛くても人を助ける精神など。

ロヒンギャの人は特に強いなと取材していて思いました。これまでずっと家族内の結びつきを描いてきたんですが、今回はそうじゃなくて、血縁関係を越えて他人でも躊躇なく、助け合うその連帯性を描きました。

―村が焼けたときにマンゴーの木が残ったというのが、心に残りました。
シャフィくんもおじさんの家にはマンゴーの木があると言っていました。


あれはめちゃくちゃ僕の完全オリジナルです。

―マンゴーの木はシンボルだからグッズの図案になったと思っていました。

木が倒れないっていうのが重要なんです。僕が提案したんですが、満場一致でマンゴーに決まりました。

―大木が出てきますが、あれはマンゴーなんですか?

いや、違います。この映画にマンゴーの木はいっさい出てきません。あれはただの木で、想像でしかマンゴーの木に出逢えない。という構造の映画です。
「わぁ!ビューティフルマンゴー!」なんて言われるんですけど。

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―これから映画を観る方へひとことどうぞ。

ロヒンギャは存在も、そう名乗ることさえも故郷では認められていません。映画を観るみなさんの眼差しが彼らを可視化し、心に刻まれていく作品です。劇場でお待ちしています。

―とても余韻の残る映画でした。今日はありがとうございました。
(取材:景山咲子、白石映子)


★シャフィとソミーラが描いたイラストと文字入りのTシャツとトートバッグを、上映会場で販売しています。利益は全額ロヒンギャの子どもたちの支援に充てられます。

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詳細は以下公式サイトを。
https://lostland-movie.filmtopics.jp/2026/04/08/0408_2/

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★取材を終えて

まさに取材を終えて、外に出たところで、一服中の藤元監督にもう一度お会いできたので、「川添ビイラルさんが助監督でしたね。監督作『WHOLE』公開の折にインタビューさせていただきました。私と同じ神戸生まれで、映画に我が家の裏山の神社が出てきてびっくりしたんです」と、取材中に話題に出しそびれたことをお伝えしました。「彼が英語の通訳をしてくれて、僕より(主演の)子どもたちにすごく慕われてたんですよ」と、ちょっと嫉妬されてました。「もちろん、すごくお世話になって感謝してます」とも。ビジュアルアーツ専門学校大阪の後輩にあたるそうです。
川添ビイラルさんは、お父さんがインド生まれのパキスタン国籍の方で、お母さんが日本人。そして、イスラーム教徒。ロヒンギャの方たちと同じ宗教ということもあって、撮影現場で、いい橋渡し役だったと察します。(咲)

藤元監督が長編を完成させるたびに取材させていただき、インタビューはこれが3回目です。海外映画祭にたくさん選ばれて取材や挨拶の場数を重ねたからか、まとう空気が違ってきた感じがします。ロヒンギャの人たちのことは、この作品でとても身近になりました。ミャンマーではアンタッチャブルというのがどうしてもピンときません。どこの為政者も最下層を作ることで国民を分断し、不満の矛先を決めているのではないかと思ってしまいます。仏教徒は慈悲深いはずです。キリスト教やイスラム教だって、互いに赦し愛し合いなさいと言っているはず。
時代の都合に教義が歪められることなく、人がみな尊厳を持って生きられるために私たちは何をすればいいのか、二人の姿を通じて考えさせられました。ともかくも一人でも多くの方に届きますように。(白)

=公開記念舞台挨拶情報=
シャフィ&ソミーラのオンラインでの登壇が決定!!
4月25日(土)12:30の回(上映後)ポレポレ東中野
        14:15の回(上映後)kino cinéma新宿

あの可愛い二人に画面越しですが会えます!もちろん藤元監督も登壇。
ほかの舞台挨拶情報は公式サイトで。
https://lostland-movie.filmtopics.jp/2026/04/17/0417/

『津田寛治に撮休はない』先行上映舞台挨拶

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開催日: 2026年1月9日(金)
会場: 新宿K's cinema
登壇者:主演 津田寛治、萱野孝幸監督、MC中村祐美子(出演・プロデューサー)

★2026年3月28日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次公開
(C)映画「津田寛治に撮休はない」製作委員会
https://satsukyu.com/
作品紹介はこちら

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津田寛治 今日は先行上映ということで、もし客席が埋まらなかったらどうしようかと思っていました。晴れて満席ということで、すごく嬉しいし、皆様に感謝しております。ほんとに寒い中、K’sシネマまで足をお運びくださいましてありがとうございます。今日は寒いけれど熱気を感じております。

萱野孝幸監督 年始の遅い時間にこれだけの方に集まっていただけてほんとに嬉しいです。今日は楽しんでいってください。

mc中村祐美子 上映前の短い時間ですがネタバレについて話していきたいと思います(笑)。

津田 本来上映前にあいさつはすべきじゃないんですよ。まっさらな気持ちで観ていただきたいんで…。

中村 上映前に聞いてもたくさん楽しんでいただける作品です。
映画企画のきっかけを教えてください。


監督 きっかけですよね あるようなないような…。端的に話しますと、「津田さんとお茶に行けるよ」ってタイミングがありまして。僕はもともと津田さんのファンで、かってに一方的にお慕い申し上げていて。
地元は大分なんですけど、津田さんが別府のブルーバード劇場のカフェにへ行くときに、僕も大分に行く。「お茶していただける」それが決まったんです。津田さんと何話そうかなぁ、津田さんに撮休はないっていうの撮ったらおもしろそうだなぁ。

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津田 まじっすか?それは「●●の撮休」のパロディですか?

監督 パロディをしようって感じではなかったんですけど、この映画の核になるアイディアがひとつありまして。これ、津田さんがご本人役で映画にしたら面白いんじゃないかなとダメ元で企画して、企画書を持っていきました。

津田 お茶をするっていうのが先行だったんですか?それは初耳でした。それから考えられた企画だったんですね。僕は数年ぐらいあたためた企画だと…衝撃を受けました。

監督 (笑)めちゃくちゃ思いつきです。

津田 すごいですね、思いつき!

strong>中村 企画聞いたときどうでした?

津田 企画書に大々的に「津田寛治に~~」となってて、これは萱野監督の大分のテレビ局かなんかのバラエティの企画?と思ったら全く違くて、映画の話。僕が撮影所を渡り歩くような話なんですと。じゃ、ちゃんと取材を受けないといけないなと「取材は別日でやりましょうね」と監督に言ったら、あっというまに台本がきたんですよ。台本用意してた?それから書いたってことなんですね?

監督 それから書きました。

津田 その台本観てびっくりしたのが「なんでこんなに俺の事知ってるんだ?!」っていうくらい
リアルな僕がそこに書かれていて、しかも全体を通してとてもタイトルの内容とは思えないくらいのハード、っていうのかな?中身の濃いストーリーだったので、これはほんとに「津田寛治でなくてもこの映画に参加したい」な気持ちになりました。

中村 嬉しいですね。ハードで内容が濃いという。新春一発のこの劇場に来たお客様は身構えてしまうかもしれない(笑)

津田 身構えてほしいですね、逆に。そのぐらいこれは一人でも多くの人に見てもらいたい映画です。

中村 実際津田さんは撮休がないという噂を方々からうかがうんですけど。

津田 俳優やっている人はわかると思うんですけど 僕ら撮休のときにセリフを覚えているんで(笑)

中村 そうですね。

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津田 ちなみに僕はだいたいカラオケボックスでセリフを覚えているんで、僕の職場の半分はからおけボックス(笑)、あとの半分は撮影現場。だからそんな感じで言えばたしかに撮休がないのかも。あえていうと、撮休といえば「娘と映画に行く」ときぐらい。娘は今年から大学で大きいんですけど、それでもまだ一緒に映画に行ってくれる。

中村 いいですね~

監督 それは津田さんが出られている映画を観るんですか?

津田 一切見ないんです(笑)。

中村 津田さんが出てない映画探すのジ結構大変かも。

津田 いやいやそんなことはない。

監督 出ているかどうかチェックして?

津田 いや邦画じたい観ないんです(笑)。娘と行くのは全部洋画です。

監督 なるほど。お父さんが出てくるおそれがない(笑)。

中村 でもついにドイツで撮影もされてますから。

津田 ああそうですね、それはなんか娘がお父さん出ていても観たいよって。

中村 監督はこの作品、特にこだわったシーンは?

監督 こだわったシーンはたくさんあるんですけど、何がネタバレにならないのか難しいところで(笑)冒頭はスタッフ一同で気合を入れて撮ったシーンです。

津田 長ーく。
  
監督 まあまあまあ(と遮って)気合を入れました。

中村 もうあと10分15分後には答え合わせができます。撮影が3年前の7月?

津田 そうですね。2年半前?けっこう頑張りましたね。

中村 暑い中頑張りました。

津田 でも僕またあの日に戻りたいくらい楽しかったです、撮影が。

監督 ほんとに戻りたいて言ってるの津田さんだけです(笑)

津田 楽じゃなかったとは思うんですけど。

監督 楽じゃない(笑)

津田 スタッフさんがみなさん役者なのにスタッフをやられていて。すごく優秀な方が多いところにお願いしたから。スタッフやプロデューさんの中にも俳優さんが紛れていた現場だった。

監督 そうですねぇ…

津田 みんな俳優の気持ちがわかる人にサポートしてもらっていたから、すごくやりやすかったし、楽しかった。チーフ助監督さんが毎日のようにスケジュール表になぞなぞを書いてる(笑)
萱野監督がすぐ1秒くらいで解いてしまう(笑)。そういう楽しいおまけもついてた。それも楽しかった。

監督 何よりでございます(笑)。

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中村 津田さんの体力がすごいんですよ。

津田 でもね、ほかの現場だとそうでもない。やっぱり楽しい現場ってめちゃくちゃエネルギーをくれるんです。休みたいって気持ちは全くなかったです。早く明日になんないかな、早く現場に行きたいって日の連続でした。物語と現実の境がほぼなかったんです。

中村 今回「ご自身役」ですものね。

津田 そうなんです。なおさら現実と虚構の境がなくなって。それは僕が俳優人生の中で一番目指していることなんです。
物語の中にすっぽり入って「覚えたセリフなんだっけ?」とかそんなこといっさい考えず、ただ気持ちのままにわーっと喋ってるみたいな。登場人物に100%なりきるみたいなのはなかなかできないんだけど、この映画は最初から終わりまでそれができたというか。できるように皆さんに準備してもらったんで、こんな俳優として幸せなことはないなぁって思いましたね。

監督 なんだか現実と虚構があいまいになった瞬間ありましたよね​?

中村 監督、カメラの反対側にいて、感じられたことがありましたか?

監督 明らかに「お芝居じゃないもの」が映ってしまっているカットが何個かある。

中村 え~~~

監督 当ててほしい(ニヤニヤ)。

中村 それは監督から皆さんへの「なぞなぞ」ということですね?

監督 そうです。どこかで答え合わせができればと思っています。お芝居を超えたというか。

中村 今日上映後も舞台挨拶します?そしたら答え合わせができます。(監督&津田さん笑)みなさん帰れなくなっちゃいます。
本人役だったので現実と虚構があいまいになったとおっしゃっていましたけど、アドリブだったところは?


津田 それがないんですよ。台本通り喋っている気持ちもないんですけど、振り返ると台本通りだったという感じではありました。

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中村 へぇ~。監督はどうやってそんなに津田さんのことを知ったんですか?

津田 そこが不思議でしょうがない。

監督 一回お会いできた、っていうのがほんとに大きくて。

津田 一番最初に言った、あんなことだけで何にもわからないんじゃ。

監督 こういう喋り方なんだ、とか。もうそれで想像で書いた。

津田 僕は娘との関係なんて言ってなかった・・・

監督 そうですね。「勘」で書きました。

津田 すごいですね!

監督 そこから調整して、津田さんご本人に近づけようと思ったんですけど、ほぼそのままでしたもんね?

津田 はい、そのまんまでしたね。

監督 すいません。なんか勝手にいろいろ。

津田 いえいえいえ、僕は嬉しかったです。

監督 あることないこと…

津田 いや、基本フィクションなんで。

監督 そうです!フィクションです。

津田 フィクションとして台本がすごい面白かったんです。そこがやっぱりめちゃくちゃ惹かれたところでもありました。この役をやることによって、自分がこれまで試したいと思っていたことをたくさん試せるなぁって。

中村 試したいというのは役者としての「技術」みたいなところですか?

津田 技術をなくしたかったんです。技術で芝居してたらもう俺終わるなっていうところがあったので。とにかくこれを捨てなきゃいけない。もう演技を捨ててカメラの前に立とうと。奇しくも僕のデビュー作『ソナチネ』で北野監督に言われたことと一緒だったんです。「芝居はしないで」って(笑)。この年になって再認識して、回帰するみたいなことがありました。

監督 はあー
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中村 思い返せばデビュー作も役名は「津田」ですね。

津田 そうなんです!同じ。あれも自己紹介をいきなり監督がやるんだって言って、「キュー出したらここから出て」って。あれ?俺役名なんかなかったよな、って(笑)。助監督さんに「あの、僕役名ないんですけど」「君、名前なんていうの?」「あ、津田です」「じゃ、津田で」。それで「津田です」っていうシーンになった。

中村 本人の名前の役のときは何かあるのかもしれないですね。

津田 あるかもしれないです。役者だから「自分とは全然違う役をやってみたい」というのはたぶん皆さんないと思うんです。どんな役をやるかというより、どんな気持ちになるのかという方がすごく大事。回ってるときにそこが撮影現場なのか物語の中なのか、どっちに居れるかで決まってくるんですよ、俳優って。この現場は常に物語の中にいれる現場だったんで、なかなかこういう経験はできないと思います。
「光石研に撮休はない」とか、「松重豊に撮休はない」とか、それぞれ作ったの観てみたいですね(笑)。

監督 シリーズで(笑)

中村 津田さんの中で、自分と同じくらい「この人撮休はない」ちという人いますか?オフレコで(笑)

津田 「ミツケン(光石研)」ですね(笑)

監督 そうですね。調べ上げましょうか(笑)勝手に。

中村 監督がずっと津田さんとお仕事ご一緒したいというの、私は伺っていて。どうですか?念願の津田さんと。

監督 いやあもう、幸せですよ。

津田 ちょっと想像と違ったな、とかはあったんじゃないですか?

監督 ああ、いやいや。普通の喋りはこんな感じなんだっていうのはありましたけど。あたりまえですけど、「お芝居うまっ!!」って思って。こういう芝居もできるし、こういう芝居もできるんだ。

津田 演出にものすごいこだわりがあって、俳優さんに対するNGの量がほかの監督の何倍もあったんですよね。

監督 すいません

津田 いえいえ、それがたとえば相米慎二監督だったら「もう一回」「もう一回」しか言わないとか「はい、もう一回。なんも出てこねぇな」みたいな。

監督 巨匠!(笑)

津田 萱野監督の「次、こんな感じでやってみましょう」「あ、そういう感じになるんですね。だったら、なし、をもう一回見せてください」っていうふうに役者と一緒に歩んでる感じがあって。
「あ、もうちょっとたぶん行けると思うんです。もう一回あのう今度はこういう感じでやってみてください」って。ここまでちゃんとゴールが見えてる監督って。今なかなかいないなと思って。

監督 嬉しい。

津田 役者って最初NGを出されると、固くなって芝居がダメになってくるケースが多いんですけど、そこから何回もNGを出すことによってその人をちゃんと導けるかどうかっていう、のが、監督の技術の一つとしてあるんですけど。そのゴールが見えない人も多いんだろうなっていう気がしてて。撮影のシステムも変わってきてるんだけど、久々にちゃんとゴールが見えてて、役者と伴走してくれる監督さんに出会えたなぁと。

監督 ほおー。

津田 そうやってあがりを観たときに、監督が何回もNGを出された俳優さんがみんなキラキラ輝いていたんですよね。特におじさん俳優たちは。それはやっぱり僕が一番嬉しかったことです。

監督 良かったです(一礼)。そう言っていただけて。

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津田 カラオケで酔っぱらってなだれ込んでくるおじさんもいるんですけど(笑)

中村 お兄さんくらいにしといてあげれば(笑)。

監督 何回か撮りましたからね。

中村 すごくいいお話をいただいている中なんですけど、もうお時間が近づいているということで、最後にお二人から皆様にひとことずついただければと思います。

津田 この映画は2年半くらい前、ものすごく暑い夏にみんなで「ほんとに良いものにしよう」と思って作った映画です。そこで一番頂点に立っていたのが、萱野監督。みんな思っていたのは萱野監督の頭の中にあるものを具現化しようと頑張って撮った映画なんです。だから誰も「俺が目立ちたい」とか「俺が仕事しやすいように」とか思ってやってた人は全くいなかったんです。
だから、この映画が上映されることというのは、僕とか監督以外にいろんな人が泣くほど嬉しいことだと思います。もし今日ご覧になってほんとに面白かったと思ったら、拡散していただけたら嬉しく思います。本日は来ていただいて有難うございました。どうぞ皆さんよろしくお願いします。(拍手)

監督 あのね、今の話で「この映画やばいね」だとか、ハードルをあげちゃったふしがあるんですけど、僕は本心から「津田さんの可愛いところがたくさん観れる、津田寛治のアイドルムービーだと思いながら撮りました。

津田 確かに裸のシーンもありましたね(笑)。

監督 そうなんです、そうなんです。濡れてるとか。

中村 待って待って、勘違いしちゃうから、もう(笑)。

監督 あんな津田さんやこんな津田さんが観れる映画はそうそうないと思うので、津田さんのチャーミングさに癒されながら、ほのぼのと観ていただけると幸いでございます。ありがとうございます。(拍手)
(まとめ・舞台挨拶写真 白石映子)

『めぐる』『エイン』ティンダン監督インタビュー

2月10日(火) アップリンク吉祥寺

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©合同会社CHAMP ASIA

*ティンダン監督プロフィール*
1984年6月29日生まれ、ミャンマー、ヤンゴン出身。
6歳で日本に家族で移住。日本で育つ。2006年日本映画学校18期卒業。卒業制作作品の『エイン』はアジア・フォーカス福岡映画祭及び伊参スタジオ映画祭に正式出品された。2017年『めぐる』を監督。ボンダンス国際映画祭最優秀短編賞、ライジングサン国際映画祭日本短編部門グランプリ、小布施短編映画祭鴻山部門 作品賞、ワッタン映画祭 審査員特別賞を受賞。
2019年ミャンマーでChamp Asia Production を設立。2021年4月ミャンマーのクーデターに遭遇し、ドキュメンタリーの撮影中に政治犯として拘束され、2年1ヶ月拘留される。現在は長編製作に向けて準備中。

『めぐる』『エイン』公式サイト https://meguruein.com/
作品紹介はこちら

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ー『エイン』の始まりをお聞かせください。

日本映画学校演出コースに入りまして、天願大介(今村昌平長男 )さんのもとで学びました。『エイン』は卒業制作です。はじめは全く違う映画を作る予定でした。1988年、ミャンマーで民主化を求めるクーデターがあり、その運動をしていた若者たちが夢破れて海外に出ていきました。日本に来た若者の10年後、30代に入った彼らが、自分の国やアイデンティティ、民主主義って何だろうと、葛藤する姿を描こうと思っていました。自分の疑問でもありました。
それを出したところ、先生に「今これを描いたら、危険な目に遭う」と言われました。2005年は軍政だったんですが、僕は日本で育ったので、そういう危機感がなかったんです。締め切りも間近だったので、最終的に自分の経験や自分の好きなロードムービーを盛りこんだ家族の物語をつくったところ、「これがいいよ」と。

ーそれで日本にやってきた兄弟が主人公に。弟のウィンタウンくんが無邪気で可愛くて、難しい年ごろの兄のアウンメインくんを知らず知らず助けていました。キャストはどのように集めたんですか?

はい。こちら、みなさん素人の方でした。ミャンマー料理屋さんや雑貨屋さんにチラシを貼って応募を募り、面談してきめました。
僕は6歳のときに両親と日本にやってきました。下の弟と妹の2人は日本生まれです。『エイン』の弟ウィンタウンに自分の経験を重ねています。アウンメインのキャラには、クラスにいた転校生の友達を重ねました。彼は日本人ですが、仲間に入りたいのになかなか溶け込めないでいました。先輩から後輩への暴力というのは当時僕も目にしました。先輩も始めは興味から話を振ったのが、だんだん変な方向にいってしまったんです。いじめを容認したくなかったのでそこの演出には気をつけました。

ー自分たちと違う人は珍しいのでかまいたくなります。でも慣れてないので方法がよくわからない。いじめかどうかは「悪意のあるなし」じゃないでしょうか。

まさにそうなんです。アウンメインはミャンマーでは人気者で、楽しく過ごしていて日本に来たくなかったんですね。実は、あの中学校は自分の通っていた母校です。お願いして夏休み中のロケに協力してもらえました。生徒さんがたくさんエキストラで出てくれました。

―喜ばれたでしょう。エキストラの経験をした子が後でスタッフになったりしますね。

田舎なので、映画の撮影なんてそうはありません。初めて映画に触れて、喜んで出てくれました。出来上がってから上映会をして観てもらえました。主人公のクラスメート役で出てくれた子が、後でお笑いの世界に入って、今も続けているんですよ。

―まあ、それは面白いですね。ロケで人生変わりました。
「笑われる」んじゃなくて「笑わすんだよ」というセリフが良かった。


ミャンマーでもお笑いは人気なんですよ。日本のお笑いをつなげてみたら面白いんじゃないかとやってみました。

ーお父さんが体調が悪いのに仕事を休めなかったり、近所の奥さんが持ってくる古着にお母さんがお礼を言ったりするのにアウンメインくんがプンプン怒りました。

お兄ちゃんはプライドが高いですから。プライドは必要ですけど、高すぎる不要なプライドは捨てたほうがいいときもあります。自分の考え方を変えてみれば周りも変わっていきます。それは僕自身も学んだことです。お笑いは解決策の一つで、この映画を観てそれぞれ考えてもらえたらと思っています。

ー今はほんとに外国の方が多くなりました。体験が増えてくれば受け入れる側もだんだん慣れて、おつきあいも楽になるはずです。近所の奥さん、無関心じゃないのは良いんですが、あの古着も差し上げ方がちょっと...。

袋に入れるんじゃなく、ちゃんとたたむとか(笑)。

ー光石研さんが出演していて、あら!とびっくりしました。デビュー作の『博多っ子純情』(1978)から観ているんです。

光石さんは業界人も大好きです。大ベテランなのに僕はどうしても出演してほしくて、ダメ元でお手紙を書きました。台本を送ったところ、なんと出演していただけることになって、本当に嬉しかったです。光石さんがいるシーンは特別です。駄菓子屋で兄弟と3人並んで座っているシーンが大好きです。海岸で何も言わずに観ているシーンも、光石さんだから出てきた風格だと思います。

ーミャンマーの人たちはすごく家族を大事にしますね。

はい、親戚も同じで、いとこたちも兄弟のように育ちました。日本は今ちょっと家族の繋がりが薄いような感じがします。ミャンマーの人たちが今たくさん日本にいます。まだ日本語がよくわからない人たちのために、会話の日本語部分にミャンマー語の字幕を入れて観てもらいたいと考えています。

ーたくさんの方が観てくださるといいですね。

2光石研、フォン・テェッキン・ウィン、ピイ・ピョオ・パイン_道.png
©日本映画大学

ー次は全くテイストの違う『めぐる』です。ここまで間があきましたね。

脚本は書いていたんですけど、作品として出来上がったのは2本だけです。
ミャンマーで取材中に逮捕される前に、完成したデータを友人に預けていたので、今回公開することができたんです。パラデータ(素材)がないので、予告編を作るのに苦労しました。

―今度は卒業制作と違って俳優さんがたくさん出演しています。

オーディションで選んで撮ることができました。脚本を気に入って集まってくださって。素敵な俳優さんたちに出演していただきました。現在活躍中の小野花梨さんも出演しています。

―脚本は『愛に乱暴』の山﨑佐保子さんです。他の人の脚本を監督するのはいかがでしたか?

面白かったです。自分が創作したのでない脚本があって、僕の演出でキャラクターに肉付けするというのは面白い行程でした。脚本を大事にしつつ、変えるときは山崎さんに許可を取り、完成したときにはお褒めの言葉をいただきました。

ー撮影日数とスタッフの数はどのくらいでしたか?

5、6日間で、スタッフは8人くらいです。脚本の山﨑も撮影(山本周平)、照明(鳥内宏二)、編集(辻田恵美)もみな映画学校の同期です。当時独り立ちしたばかりのころでしたが、できることを精一杯やりました。僕も演出をしただけでなく、お弁当を配ったり忙しかったけど、楽しかったです。

―同期ってありがたいですね。学校に行った強味ですよね。

ありがたいです。この前会って「この映画を今撮ったら、あんなこと、こんなことができる」という話になりました。拘束で僕は2年間止まったままだったのに、ミャンマーから戻ってきたらみんな先へ進んでいて、すごくいい仕事をしています。

―その空白の2年間の体験が、いつか生かせるときが来ると思います。来てほしいです。
『めぐる』は主人公の名前とも繋がっていますね。駅に走った「めぐみ」が、コーヒーカップを持った男性とぶつかるのが始まりです。「めぐる」も別の日に同じ人にぶつかります。人混みでカップを持つのはやめてほしいです。せめてペットボトルで(笑)。


自業自得(笑)。めぐみが起きられなかったのは、妹の悪夢を見ていたせいで、それはまた別の人が関わっています。言いたかったのは、僕らはちょっとした行動でも、他人に影響を与えてしまっている、めぐりめぐって影響しあっているということです。この社会も他人(ひと)が作ったんじゃなく、自分たちが作っている。今日お会いできたのも何かのめぐり合わせで。日本にはご縁という言葉がありますけど。

―ほんとに。ご縁がいい方に向いていけば嬉しいです。

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©合同会社CHAMP ASIA

―映画を目指すきっかけになった作品はありますか?

一番好きなのは『ライフ・イズ・ビューティフル』です。あのお父さんが子どものために、泣かせないように一生懸命笑わそうとするところがすごく好きでした。映画学校にいたころ観たんですが。

―映画学校に行くとものすごくたくさん観るようになりませんか?

それまで僕が観ていたのは、すごくスタンダードな作品ばかりだったんですよ。それが映画学校では映画バカ、映画マニアばっかりで「小津安二郎のあのカットがさぁ」と言われ、「なんだそれ?」、「岡本喜八がさぁ」と言われ、「なんだそれ?」(笑)。
それからいろいろ観るようになりました。ミャンマーで映画を観たことがなかった両親は、映画というものがわからなくて。映画を説明するために『青い春』を観せたら困っていました。

―『青い春』は観ていないんですが、親が観て困るような映画?(笑)青春ものですか?

青春ものです。高校生が屋上のフェンスの外で手を叩いて、回数が多い人が番長になれるんです。不良高校生の話ですが、淡々と描かれていてすごく面白かったんです。親は「こういう映画が作りたいの?」と驚いていました。
*『青い春』2002年公開/豊田利晃 監督。10代から20代の松田龍平、新井浩文、高岡蒼佑。EITA(永山瑛太)、KEE(渋川清彦)さんたちが出演

ー映画で食べていけるのかと心配されたでしょう?

されました。いまだに心配されています(笑)。

―親は、子どもが50、60でも心配するんです。そのうち親子が逆転します。
こういう監督を目指したいという目標としている方は?


北野武監督の映画には影響を受けました。でもやりたいのは山田洋次監督作品のような人情ものです。
だから『めぐる』に関しては僕の中では挑戦でした。どうしても『エイン』のように家族ものだったり、ラストもハッピーエンドになったりするものを書くことが多いので。全く違うタイプの山﨑さんの脚本を監督することで、自分の力量も試してみたかったんです。

―あれもまた別の面白さがあっていいですよね。3本目はまた違うタイプになりますか?

主人公が生き生きとして、映画を観終わった後に自分なりに周りを見る、考えるものを撮りたいなと思っています。「観たー!」「良かったー!」で終わるだけでなく、何かが心に残る映画を作っていきたいです。

―面白かった~が一番なエンタメ好きです。でも後でひっかかること、知らなかったことに気づかせてもらえると、お金と時間を使った甲斐があります。配信も多くなって1本あたり安く観られるようになりましたが。

配信は時代だと思いますけど、映画館はなくならないです。映画館で観た後の感覚ってやっぱり特別ですから。劇場では『めぐる』の後に『エイン』を上映する予定です。当時より外国人はうんと多くなっていますし、ミャンマーのことにも想いを馳せてもらえたらいいなと思います。

―今日はありがとうございました。

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取材・監督写真:白石映子


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=取材を終えて=
話が広がって、まとめるのに時間がかかりました(私の質問があちこちに飛ぶもので、すみません)。た~くさんお話をうかがえたのですが、公開前なのであまりネタバレになりそうなことはあげていません。2年間の空白についても最少限にしています。その中で印象的だったのが、「余談ですが」と話してくださった本について。
拘留中1年間本を読むことを禁じられていたのが、とても辛かったそうです。文字を目にできない間は、自分で地面に棒で文字を書いては消し、を繰り返したとか。2年目にやっと支援者から届いた本を読んだ時は嬉しくて落涙。解放されてからは、2年分の新聞を読み漁ったとか。
80年も戦後の平和が続いた日本は、世界でもとても珍しい国です。「すごいことです」とティンダン監督。
ただ、戦後生まればかりになり、すでに先人が手に入れた民主主義(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を当たり前と感じている気がします。ティンダン監督が身をもって知ったそのありがたみを、私たちはもっと大切にしなくては。最近のニュースを見ても、生命や自由がいとも簡単に奪われています。本や映画にはそんな前例がいくらでもあります。生活と政治は直結しています。無関心でいてはいけないとつくづく思いました。話が別方向にいきました。
『エイン』は故国と家族への想いで胸がいっぱいになるお話。『めぐる』は、人は見えなくともつながって世界ができていること。良いことも悪いことも巡ることを見せてくれます。観た方の胸に響くはず。(白)


『湯徳章―私は誰なのか―』 黃銘正監督、連楨惠監督インタビュー 

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左:黃銘正監督、右:連楨惠監督


『湯徳章(トゥン・テッチョン)―私は誰なのか』 映画紹介
激動の時代を生きた湯徳章
 台湾は日清戦争後、1895年(明治28年)下関条約によって、中国・清朝から日本に割譲され、日本の降伏で第二次世界大戦が終結した1945年までの50年間、日本の統治下にあった。
 1947年3月13日、台南の今では整備されたロータリーの中心にある公園で一人の男が処刑された。彼・湯徳章が生まれたのは1907年。40年の生涯だった。
 湯徳章は日本人の父・新居徳蔵(警察官)と台湾人の母・湯玉のもと台南で生まれた。8歳の時、父が殉職。湯徳章本人も1927年20歳の時に警察官になった。
 1935年、叔父・坂井又蔵の養子になり、母の「湯」姓から「坂井」姓に。1940年33歳の時日本に渡り、司法を学び弁護士資格を取得し、1943年36歳で台南に戻り、弁護士として働き始めた。
そして終戦前の1945年1月、彼は「坂井」姓から、姓を元の「湯」に戻す。
 日本の敗戦後、台湾は蒋介石率いる中華民国の統治下に置かれたが、国民党政権の抑圧や腐敗に台湾の民衆は不満と怒りを募らせ、1947年2月28日、「二二八事件」が勃発。蒋介石は徹底的に弾圧。多数の虐殺事件も起こった。湯徳章は混乱の収拾に尽力し多くの市民を守ったが、1947年3月11日、高雄から台南に進駐してきた軍に逮捕され拷問を受け、3月13日、台南市の中心部にある民生緑園(現・湯徳章記念公園)で公開処刑された。
 1949年に戒厳令が敷かれ、1987年戒厳令が解除されるまで長きに渡る言論弾圧が続いた。事件に関する事を語ることは禁じられ、台湾の記憶の奥に静かに封じられていった。湯徳章の名誉が回復されたのは、38年間続いた戒厳令が解除されてから。現在、台南には湯徳章の名を冠した公園や住宅、道路などがあるが、地元民でさえ、日本と台湾の間で生きた彼の人物像を知る人は少ない。数奇な運命をたどった彼の人生を、ジャーナリスト、彼の養子、民間の研究者など、台湾の人々が彼の足跡をたどり、「湯徳章とは誰か」をたどる。

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シネマジャーナルHPの作品紹介はこち
公式HPはこちら
劇場情報はこちら
場面写真クレジット (C)2024角子影音製作有限公司

黃銘正(ホァン・ミンチェン)監督、連楨惠(リェン・チェンフイ)監督インタビュー   
取材:景山咲子、宮崎暁美 2026年1月21日
  

*この映画を作るまで

宮崎:おふたりが作った前作『湾生回家』(2015年製作)でも黃銘正監督にインタビューさせていただきましたが、この作品でもお話を聞かせていただこうと思います。よろしくお願いします。

と前作のHPのインタビュー記事を見せると、一瞬にして顔がほころび、「その記事と一緒に記念写真を撮りましょう」といい、その写真は黃銘正監督のFacebookに掲載されました。
https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=25684666817840076&id=100001703306131&mibextid=wwXIfr&rdid=uz4lU46NyEBvtMJP#
*『湾生回家』黄銘正監督インタビュー記事はこちら

景山:私の母は、神戸生まれなので湾生ではないのですが、6歳頃から終戦までの10年ほどを台湾の基隆で暮らしていました。女学校時代の台湾人の親友が、二二八事件で基隆川も血に染まったということを話してくれたのは、戒厳令が解けて、数年経ったころのことでした。母は時々中国本土に旅行していたのですが、その話をすると、まぁ~中国に!と、あまりいい顔をされなかったそうです。
今回の映画ですが、私の父方の祖父母が、父の生まれる1922年9月直前まで、台南で暮らしていましたので、台南にこのような方がいたことに、親しみを感じました。壮絶な最期でしたが、学校の制服はお金がないから着ないと反抗したり、退学したあと、炭焼きをしていたのに、急に警官になり、さらに日本で司法科と行政科を卒業するという快挙。すごい方だなと思いました。

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ロータリーと湯徳章紀念公園


宮崎:台南にあるロータリー、かつては「民生緑園」と呼ばれていた公園が、1998年に「湯徳章記念公園」と名前が変わり、湯徳章(日本名坂井徳章)の像が立てられたとのことですか、公園や道路に名前がつけられるほど、認知されるきっかけは?

黃銘正監督:湯徳章はこのロータリーで処刑されたんです。このロータリーには7本の路がありますが、ロータリーのメインストリートは中正路。これは蒋介石の名前から由来するものです。結果として、複雑な思いを抱く人も少なくなく、この「中正路」の名前は変えるべきという人もいます(2022年、中正路の一部が「湯徳章大道」と改名された)。
70年生まれの私が受けた授業では、蒋介石は我々の民族(国家)を救った人物として教わってきました。戦後のこの部分(二二八事件)の歴史には触れるなとなっていて、二二八事件について語ることは長いことタブーでした。

『湾生回家』が公開されて、映画を観た女性から、父親が有名な新聞の編集者で、二二八事件で殺されたのでもっと触れてほしいと言われました。台湾協会の方で、私が「台湾の母」と呼んで親しくしていました。「二二八事件の資料を持っているので監督がこの事件のことを映画にするのならお見せすることが出来ます」と、アプローチされたのですが、当時、私は二二八事件について詳しくなかったし、触れたくなかったので、そのままになってしまいました。彼女には4人の子どもがいるのですが、二二八事件の資料を子どもには絶対見せないと言っていました。それくらいタブーなわけです。その方にこの映画を作ったことを報告したいと思っていたら亡くなられてしまい、残念です。『湾生回家』に出演してくださった方も、だいぶ亡くなり、今、生きている方は5、6人です。

景山: 養子の湯聡模(トゥン・ツォンボォ)さんも、2023年に亡くなられたとのこと。ぎりぎり取材が間に合ったといえますね。 

黃銘正監督:証拠として残すことができたのは有意義なことです。二二八事件の被害者の方たちはあまりに辛い記憶なので、口を閉ざしています。

宮崎:台南に住む人たちでも湯徳章さんのことを知る人が少ないようですが、昨日、台北に住む元シネジャスタッフ(日本人)に、「湯徳章」や、この映画について知っているか聞いてみました。彼女は知らなかったけど、SNSでこの作品が日本で公開されることを知ったと言っていました。彼女の夫は台湾人で弁護士をしています。なので、彼は湯徳章のことを知っていました。でもこの映画のことは知らなかったそうです。彼女たちはこの作品を観ていないので、ぜひ観てみたいと言っていました。
台湾では、いつ頃公開されたのですか? またどのような形で公開されたのでしょう。これからも自主上映活動などありますか? 

黃銘正監督:台湾での上映は終わりました。台南と台北の弁護士会で自主上映会も開きました。今後、自主上映があるかもしれません。お友達にもお伝えください。

*映画の制作過程でのエピソード

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宮崎:黃銘正さん、連楨惠さん、おふたりの役割、あるいはどういう形でこの作品を作り上げたのでしょう。

連楨惠監督:私は湯徳章の関係者の方たちを訪ねていく旅人の一人です。

宮崎:映画を観た時は連さんの顔を知らなかったのですが、記者と二人で訪ね歩くシーンで、もう一人の人が連さんかな?と思いました。

黃銘正監督:私は、映画のストーリーテーリングとかプロットとか、どういう風に形作っていくのかそういうのが得意なので、それを主動してやっています。
連さんとのエピソードを。
ドキュメンタリーの魅力はどこにあるのかをいつも考えているのですが、今、おきていることを映像として記録しておくことはすごく大事です。計算した話でなく偶然も。冨永さん(『湾生回家』に出演)のお宅を訪ねた時のことです。私がトイレに入っている時に、冨永さんが吹くハーモニカが聴こえてきて、台湾民謡の「雨夜花」という曲でした。撮らなくてはと思ったのですが、トイレの中だったので撮れませんでした。でも、連さんがちゃんと撮っていてくれました。この人は私が求めているものをわかっていて、ドキュメンタリー映画を撮るセンスを持っていると思いました。また、インタビューするときに、相手に配慮する必要がありますし、忍耐力だけでなく、こだわりも必要です。あるいは寄り添って、相手の心の扉を開けるにはどうしたらいいかということも必要です。これは連さんにしかできないと思います。素材を集めるとか、インタビューする人をみつけてくるとかの段取りは連さんのほうが上手です。特に今回、養子の湯聡模さんは、最初は語りたくなかったのですが、連さんが時間をかけてアプローチしたら、心の扉を開いて話してくれるようになったんです。だから、この映像は非常に貴重なものです。これは連さんにしかできなかったと思います。

宮崎:まさに二人三脚ですね。湯徳章さんの姪の陳銀さん(聡模さんの姉)と聡模さんの二人は封印していて、最初はしゃべらなかったけど、後半、心を開いて、語ってくれるようになったなと思ったのですが、連さんの働きがあったからですね。

黃銘正監督:でもすごく時間がかかりました。聡模さんはドキュメンタリーの撮影は経験したことがなかったのです。二二八事件の日が近づくと、いろいろ取材が来るけれど、湯聡模さんは応じてくれなかったのですが、1998年ロータリー内の公園「民生緑園」の名前が「湯徳章記念公園」に変わって、やっと姿を現してくれるようになりました。それでも、電話しても、本人が電話口で「彼はいない」と濁すのです。台南市長が電話口に出て、やっと話してくれました。でも、湯徳章の銅像ができた時のセレモニーに彼が来たかどうかは不明です。湯聡模さんのお兄さんいわく、遠くから見ていたと。セレモニーの中心には行きたくなかったのでしょう。それまでのことがあるから。次第に民主化が進んで、ようやく話せるようになった感じです。

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湯徳章紀念公園の片隅にある湯徳章さんの胸像


宮崎:莉莉青果店の店主 李文雄(リー・ブンヒョン)さんは、どういう方なのでしょう。昔、湯家の近所に住んでいて、湯さんのことをご存じの方?

黃銘正監督:莉莉青果店は、銅像のあるところから2~300m離れたところにあります。カキ氷が有名なお店で、タクシーで乗ってくる人たちが運転手に「湯徳章さんって誰?」と聞くので、運転手たちが李さんに聞いてくるのだそうです。それで、李さんは台南の歴史のことを調べて、養子の聡模さんも李さんが7~8年かけて探しだしました。

宮崎:ああ、そうでした。この莉莉青果店の前にタクシーが止まって、中から男の人が出てきた時、「誰だと思います?」というシーンがありましたが、それが湯聡模さんでした。聡模さんを探すのがミッションだったのでしょう(笑)。その後、交流があったのですね。
あの歴史家の先生も面白かったです。あの家、資料の量がすごかったですね。

黃銘正監督:私たちも扉が開かなくて、家の中に入れなくてびっくりしました。入ったら出られなくなるのではと思いました。資料の山が崩れるんじゃないかという状態でしたし、照明もなくて、暗くておばけが出そうでした(笑)。

景山:先生的には、何がどこにあるというのはわかるのですよね(笑)。
宮崎・景山:私たちの家も似たようなものです。以前住んでいた家は映画資料に埋もれて、部屋の中に資料の山がいくつも連なっていて、家の中の移動に苦労するくらいになっていました。自分にとっては大事な資料だけど、他の人にはゴミですよね。だから、先生のことがよくわかります(笑)。

黃銘正監督:李さんと先生の関係ですが、李さんの集めた資料のほとんどが日本語で、それを先生が読んでくれたという間柄です。先生は早稲田大学に留学して、日本に10数年住んでいたそうです。

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左:養子の湯聡模さん


*歴史的資料の保管について

宮崎:冒頭、「児玉源太郎」(第4代台湾総督)の像と「孫文」の像が、並んで出てきたのが印象的でした。この二つの像は、この場所にあるのですか? あるいは「児玉源太郎」の像はどこかからもってきのですか? 
また、古い資料が保管されていることに驚きました。台湾では、支配する人が変わっても歴史的なものを保存する習慣があるのかなと思いました。

黃銘正監督:そうです。児玉源太郎さんの像は、別のところからもってきて、並べて撮りました。台南市の歴史的なものを保管する場所にあります。

宮崎:あのシーン面白かったです。

連楨惠監督:台南市に文物を保管する場所があります。 焼却されたものも多いのですが、戸籍の資料があったお陰で、湯徳章の親戚を調べることができました。台湾の戸籍ではわからなかったけれど、門田さんを通じて、日本の親戚に繋がりました。門田さんが湯徳章さんのことを調べて本にしていますが、彼からもいろいろ情報をいただきました。
注)門田隆将さんのノンフィクション小説「汝、ふたつの故国に殉ず」(角川書店)
もしかしたら東京の親戚については聡模さんの娘さんから聞いたのかもしれません。宇土への取材は門田さんがコーディネートしてくれて実現しました。

*湯徳章さんの想いはどうだったのでしょう

景山:姓が何度も変わりましたが、最終的には、「湯」となり、彼にとっては、日本人の父親のルーツよりも、生まれ育った台湾への思いが強かったのかなと感じました。タイトルに、「私は誰なのか」と、付いていますが、彼のアイデンティティについての思いをどのように感じていますか?  

黃銘正監督:最後、「湯」姓に変えましたが、途中、何度も姓を変えていますね。東アジアは父系社会。父親の姓を名乗ることが多いですが、植民地時代には日本人になった方が有利でした。姓を何度も変えたということから、彼の心情的な気持ちを読み取ることができると思います。

宮崎:日本で弁護士の資格を取る時には、叔父の「坂井姓」になっていましたが、やはり、日本人名のほうが弁護士の資格を取りやすかったのでしょうか。

黃銘正監督:当時、日本では台湾名でも弁護士資格は取れました。たくさんの台湾からの留学生が弁護士の資格を取るために来ていました。映画の中に、台湾からきた留学生で司法試験に合格した人たちの集合写真が出てきましたよね。アイデンティティは、明確に線引きできるものではないと思います。条件によって変わるかもしれない。日記などが残っていれば、ある程度、心情がわかったのですが、なかったので、資料から判断するしかありません。手紙も1通も見つかっていません。二二八事件以降、燃やしてしまったのかもしれません。写真の多くは、聡模さんのお兄さんがまとめて箱に保管して、屋根裏に隠していました。

宮崎:まだ、これから写真や資料などが出てくるかもしれませんね。

黃銘正監督:まだ作業を終えていないことがたくさんあります。それに、他の人も写真を持っているかもしれません。ほかにもできることがあるかもしれませんね。

宮崎:ここで時間が来てしまいました。まだ、いろいろ聞きたいこともありましたが、再度、映画を観て確認したいと思います。激動の時代を生きた「湯徳章」さん。「二二八事件」に関する映画は、いくつか観てきましたが、このような方もいたというのを知ることができました。ぜひ、日本人にも知ってほしいと思いました。

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