『LOST LAND/ロストランド』藤元明緒監督インタビュー

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*藤元明緒監督プロフィール*
1988年大阪府出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪 放送・映画学科に入学し、映画制作を学ぶ。卒業後、拠点を東京に移し『僕の帰る場所』ではミャンマー人家族、『海辺の彼女たち』では日本の農漁村で働くベトナム人女性たちにフォーカス。第3弾の本作『LOST LAND/ロストランド』はベネチア国際映画祭オリゾンティ部門で審査員特別賞を日本人で初めて受賞した。

作品紹介はこちら
公式サイト https://www.lostland-movie.com/
(C)2025 E.x.N K.K.
★2026年4月24日(金)より全国順次公開

ー初めにベネチア国際映画祭での3冠おめでとうございます。
海外からお帰りになったばかりなのに、今日はありがとうございました。

シャフィが、映画の最初と最後に、1から10まで数える場面が印象的でした。
数字のいくつかが、ペルシア語と共通していて、さらに、ロヒンギャ語の英語の題にある「Watan」もペルシア語で、祖国、故郷という意味です。ロヒンギャ語のことをこれまで意識したことがなかったのですが、調べてみて、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派、インド語群に属する言語と知りました。ロヒンギャ語はベンガル語に近いとのことですが、ベンガル語にペルシア語系の単語が、1万語入っていますので、なるほどと納得しました。


そうですね。今の新しいロヒンギャ語は通じると思います。

―姉弟が「だるまさんころんだ」で遊んでいましたが、ロヒンギャ語ではなんと言っているのでしょう?

あれは韓国語なんです。Netflixシリーズの「イカゲーム」本編でなく、ミーム(SNSなどネットで大流行したパロディや部分的に模倣されて拡散したもの)が世界中で流行っていて「だるまさんころんだ」は部分的にそのままの韓国語で使われています。

ー韓国語だったんですか。
韓国語で「ムクゲの花が咲きました」(무궁화 꽃이 피었습니다ムグンファ コチ ピオッスムニダ)というのと同じですか。

訳したらそうなると思います。

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―シャフィ君とソミーラちゃんは今何歳になりましたか?

映画の撮影が一年半くらい前のことなので、6歳と11歳です。

―2人は今、勉強できる環境にありますか?

公的な滞在資格や教育には、アクセスできない状況です。ロヒンギャの子どもたちは、有志の大人たちが開校したスクールで勉強しています。

―映画祭後の反響を見ていると、この映画を作るのはほんとに大変なことだったんだなと思いました。いろんな心配があるかもしれないというのを考えられて、覚悟した上で製作されたのだと思いますが。

それは最初から考えての出演交渉でしたから。ただ僕がわかって理解していることと、彼らがどう理解し考えているかということはまた別問題だと思うので。これが出演してすぐなのか、10年20年後にどう思うのかは、やはりわかりかねます。そこの責任を取るというのは不可能です。

―これがいい記念になるといいですね。

そうですね。せめて。

―二人は完成した映画を観ていますか?どんな感想でしたか?

2回見ています。モニターと映画館での上映と2回。
基本的に僕は出演者に感想を聞かないようにしているんです。

―じゃあ反応はいかがでしたか?

反応は…笑ってました。撮影当時のことを振り返って言っていたのは「シャフィくんが重かった」ということです。お姉ちゃん疲れちゃったと。

―二人の場面が多かったですが、思ったようにいかなかったり、苦労したりはありましたか?

思ったとおりに行かなかったのは、二人がよく笑っちゃうことですね。シリアスなシーンなのに笑顔になってしまうという。船の上とか、泳いで逃げるところとか、アトラクションみたいに楽しかったらしいです。いくら言っても笑っちゃって、編集で切ったり暗くしたりしました。船のシーンをコマ送りすれば笑っているのが見えます。
事故が起きたり、いやがられたりよりは笑ってるほうがいいですけど。

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―海と船のシーンは撮影にどのくらいかけられたんでしょう?海の上って怖いですよね。

僕も大丈夫かなと思いました。周りをいろんな船で囲んで、スキューバダイビングの人も20人ほど。海の中にもいました。一番たいへんなのはクラゲです。
刺すクラゲもいますし。船の場面には10日間くらいかかっています。

―10日間。人数も多いですしね。

そうですね。船に乗ったキャストは50人~60人です。

―ほんとはもっとぎゅうぎゅう詰めですよね。難民の船はそんなイメージです。

100人200人とか。(撮影ですから)定員をオーバーしない人数です。周りには4隻くらい。着替えボート、トイレボート、プロダクションボートいろいろ。
山が映りこまない沖合まで毎朝1時間~1時間半くらいかけて出かけて、一回休憩を入れてまた戻る、時間になったら帰る、という感じでした。移動にかかるので、一日で撮れる時間は短いです。

―劇中で歌が出てきます。海の上で男性が歌うのがとても印象的でした。メロディと故郷を思う歌詞が良くて、それも途中でさえぎられて悲しさが増しました。

やっぱりロヒンギャの人々は、文化や言葉とか含めて奪われ続けてきた。それを「歌う」ことも止められる。子どもは最初に「遊ぶ」ということを止められる。この二つを序盤に置くというのは、必要な部分でした。そこから彼らの旅が始まる。
メロディ、フレーズは既存のもので、歌詞はオリジナルです。その場の心情を言葉に乗せて歌っています。子守歌も良かったです。

―今回言葉の面はいかがでしたか?

通訳は英語とロヒンギャ語の二人でした。もう言葉がわからない映画3本目なので慣れましたけどね(笑)。僕は、ロヒンギャ語で「立って」「座って」「振り向いて」とか、あと「静かにして」「ゆっくり」とか・・・簡単な指示の言葉を両手で収まるくらい(笑)。

―10個で足りるんですか!動作でもわかりますものね。
『僕の帰る場所』のカウンくんが、弟の反応を補って余りある勘の良い子でした。今回のソミーラちゃんもそうでは?と思いました。


素晴らしかったですね。カウン君と同じくらい、それ以上に。すごい似てましたね。演技の仕方が。

―監督の見る目がすごい!チョイスがドンピシャです!

それはもうそこに関しては間違ったことがないです!キャスティングだけで持っているようなもの(笑)。素晴らしい人と出逢えるんです。ほんとにありがたいですね。

―それは監督の「引き(寄せ)の強さ」があるんですね。

カタログから選ぶようなことはできないので。カウンくんの時はこの子しかいない、というところから始まったので、撮るまで知らなかったです。
今回は最初から「わかってる」状態で臨めました。

―それも最初にシャフィ君を見つけて、家に行ったらお姉ちゃんがいたという。

はい。弟だけで行くか、二人で行くというのはずっと悩んでいたんです。最初は弟だけの旅、と書いています。コンセプト上は弟が大人に守られていろんなところに行く。

―お姉ちゃんがいるといないではずいぶん違いますよね。

違います。まあ物理的に4歳でジャングルは無理だろうということになりました。

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―観客としてはこの二人のうちどちらかがいなくなるんじゃないかと、ハラハラしました。ソミーラちゃんの勘の良さはどんなところで発揮されたんでしょうか?

勘というより、演技に対する真剣さですね。自分の役割をすごいまじめに考えています。こういう素質がある子もあの年齢では少ないです。性格もあります。
自分がどこから撮影されているのか、カメラの位置をすごく良く観ていました。そこは、なんていうか、いい意味でのナルシスト。自分がどう見られているかというのを把握している、そこが勘が良いというところ。

―子どもたちが天才的に良かった! では、大人のほうは?

大人もすごかったですよ。総じて全員すごかった(笑)。
あのジャングルでの3人の青年もよくセリフを覚えて、しっかりと演じてくれました。

―夢を語る人でした!

あの人たちも素晴らしかったですよ。たぶんできるなとは思っていたんです。ミャンマー人って演技上手いんですよ。映画以外の撮影もしてきましたがうまい人が多いです。

―すごく自然ですよね。撮られているとぎこちなくなってしまう人もいるんですよね。

そうなんです。恥ずかしいですし。でもそのふるまいがみなさん素敵で。

―みな自分が出る意義をしっかり感じて出てくださったわけですね。
上映会のとき、自分が出ているのを見て、みなさんどうでしたか?


みんな(映像の)写真撮っていましたね。「出てるぞ~」とか、知り合いがブローカーに怒られているシーンのところはどっかーんと笑いが起きる。そういう感じでした。

―え~(笑)。

英語を喋れる方はほとんどいないんですが、何人かに聞いたら「観ていて辛くなった。でもロヒンギャの名前が出ること、物語を伝えることは嬉しいし、そこに期待している」と。

―責任重大ですね。これから押し出していかなければ。

他の国のロヒンギャとは反応が違いますね、シーンによっては笑いが起きたりしますが、ほかの国にいる人は、日本人のようにシリアスに観ています。

―海外での映画祭のときに観てくれた方々ですか?

映画祭とかフランスでの公開とか。

―その国で暮らしが成り立っているのですか。

暮らしは立っていないですね。そもそも国籍がないので。

―国籍がないまま外国に住めるんですか?

住めますよ。

―結局たどり着いてもその国での居住権がもらえない、

日本だったらもらえます。日本に来るというのは相当至難の業です。90年代くらいだったら、日本に来た人が群馬県とかにいます。今、難民キャンプを出てくるっていうのはかなり難しいです。国籍がないというのが、普通の難民たちとは違う。難民でも国籍があれば、できる手段はあります。

―国籍ってどうしたら取れるのでしょう?

ミャンマーの法律を変えるしかないです。

―外国に行けた人がその国の国籍を取ることはできないんですか?

先進国はできるところがあります。それでも大人数ではない。

―これを聞いていると時間がなくなっちゃうので、映画のことに戻ります。逃避行なので夜の撮影シーンがいくつもありましたが、特別気を遣うことは?

どっちかというと技術的な面です。ライティングとカメラ。
普通、映画となると、照明を当てて「夜を作る」。見える状態の夜を作るんです。
それは基本的に僕はしたくない。映らないっていうのが映画と思っているので。このご時世、暗闇って映画館でしかできないんです。明るい部屋で暗いシーンを映しちゃうと、そう見えない。暗闇の中で音、声だけが聞こえるというのは緊張感が全然違うと思うんです。ライティングには非常に気を使いました。

―それはカメラの北川さんや照明さんたちと話し合われるんですね。
姉弟の衣装が白っぽかったり、オレンジ色だったりは闇に溶けてしまわないためですか?


いや、そういうことではなく、この映画全体として、姉のソミーラの存在を観客の記憶に焼き付けるための仕掛けがあります。その一つ。

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―ロヒンギャの方からアドバイスを受けたシーンはありますか?

いろんなディティールがありますけど、記憶しているのは「国境の越え方」です。どう金網を破るのかとか細かいところです。グループはどこに潜んでいるのかとか、そういう部分です。旅のしかたのディティールですね。あと重要だったのは「お祈りの仕方」です。礼拝のタイミングとか。普通は何時と何時など決まった時間ですが、船に乗っている場合、一斉にみんなでやるのだと思っていましたがそうでもない。個人によって違う。

―一緒にやる場合もあるけどわりと個人の自由ですね。

習慣的なものを教えてもらったりしました。

―助け合いの精神などはイスラムから来ているのかなと思います。これまで過激な部分が強調されてきましたけど、自分が辛くても人を助ける精神など。

ロヒンギャの人は特に強いなと取材していて思いました。これまでずっと家族内の結びつきを描いてきたんですが、今回はそうじゃなくて、血縁関係を越えて他人でも躊躇なく、助け合うその連帯性を描きました。

―村が焼けたときにマンゴーの木が残ったというのが、心に残りました。
シャフィくんもおじさんの家にはマンゴーの木があると言っていました。


あれはめちゃくちゃ僕の完全オリジナルです。

―マンゴーの木はシンボルだからグッズの図案になったと思っていました。

木が倒れないっていうのが重要なんです。僕が提案したんですが、満場一致でマンゴーに決まりました。

―大木が出てきますが、あれはマンゴーなんですか?

いや、違います。この映画にマンゴーの木はいっさい出てきません。あれはただの木で、想像でしかマンゴーの木に出逢えない。という構造の映画です。
「わぁ!ビューティフルマンゴー!」なんて言われるんですけど。

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―これから映画を観る方へひとことどうぞ。

ロヒンギャは存在も、そう名乗ることさえも故郷では認められていません。映画を観るみなさんの眼差しが彼らを可視化し、心に刻まれていく作品です。劇場でお待ちしています。

―とても余韻の残る映画でした。今日はありがとうございました。
(取材:景山咲子、白石映子)


★シャフィとソミーラが描いたイラストと文字入りのTシャツとトートバッグを、上映会場で販売しています。利益は全額ロヒンギャの子どもたちの支援に充てられます。

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詳細は以下公式サイトを。
https://lostland-movie.filmtopics.jp/2026/04/08/0408_2/

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★取材を終えて

まさに取材を終えて、外に出たところで、一服中の藤元監督にもう一度お会いできたので、「川添ビイラルさんが助監督でしたね。監督作『WHOLE』公開の折にインタビューさせていただきました。私と同じ神戸生まれで、映画に我が家の裏山の神社が出てきてびっくりしたんです」と、取材中に話題に出しそびれたことをお伝えしました。「彼が英語の通訳をしてくれて、僕より(主演の)子どもたちにすごく慕われてたんですよ」と、ちょっと嫉妬されてました。「もちろん、すごくお世話になって感謝してます」とも。ビジュアルアーツ専門学校大阪の後輩にあたるそうです。
川添ビイラルさんは、お父さんがインド生まれのパキスタン国籍の方で、お母さんが日本人。そして、イスラーム教徒。ロヒンギャの方たちと同じ宗教ということもあって、撮影現場で、いい橋渡し役だったと察します。(咲)

藤元監督が長編を完成させるたびに取材させていただき、インタビューはこれが3回目です。海外映画祭にたくさん選ばれて取材や挨拶の場数を重ねたからか、まとう空気が違ってきた感じがします。ロヒンギャの人たちのことは、この作品でとても身近になりました。ミャンマーではアンタッチャブルというのがどうしてもピンときません。どこの為政者も最下層を作ることで国民を分断し、不満の矛先を決めているのではないかと思ってしまいます。仏教徒は慈悲深いはずです。キリスト教やイスラム教だって、互いに赦し愛し合いなさいと言っているはず。
時代の都合に教義が歪められることなく、人がみな尊厳を持って生きられるために私たちは何をすればいいのか、二人の姿を通じて考えさせられました。ともかくも一人でも多くの方に届きますように。(白)

=公開記念舞台挨拶情報=
シャフィ&ソミーラのオンラインでの登壇が決定!!
4月25日(土)12:30の回(上映後)ポレポレ東中野
        14:15の回(上映後)kino cinéma新宿

あの可愛い二人に画面越しですが会えます!もちろん藤元監督も登壇。
ほかの舞台挨拶情報は公式サイトで。
https://lostland-movie.filmtopics.jp/2026/04/17/0417/

『めぐる』『エイン』ティンダン監督インタビュー

2月10日(火) アップリンク吉祥寺

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©合同会社CHAMP ASIA

*ティンダン監督プロフィール*
1984年6月29日生まれ、ミャンマー、ヤンゴン出身。
6歳で日本に家族で移住。日本で育つ。2006年日本映画学校18期卒業。卒業制作作品の『エイン』はアジア・フォーカス福岡映画祭及び伊参スタジオ映画祭に正式出品された。2017年『めぐる』を監督。ボンダンス国際映画祭最優秀短編賞、ライジングサン国際映画祭日本短編部門グランプリ、小布施短編映画祭鴻山部門 作品賞、ワッタン映画祭 審査員特別賞を受賞。
2019年ミャンマーでChamp Asia Production を設立。2021年4月ミャンマーのクーデターに遭遇し、ドキュメンタリーの撮影中に政治犯として拘束され、2年1ヶ月拘留される。現在は長編製作に向けて準備中。

『めぐる』『エイン』公式サイト https://meguruein.com/
作品紹介はこちら

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ー『エイン』の始まりをお聞かせください。

日本映画学校演出コースに入りまして、天願大介(今村昌平長男 )さんのもとで学びました。『エイン』は卒業制作です。はじめは全く違う映画を作る予定でした。1988年、ミャンマーで民主化を求めるクーデターがあり、その運動をしていた若者たちが夢破れて海外に出ていきました。日本に来た若者の10年後、30代に入った彼らが、自分の国やアイデンティティ、民主主義って何だろうと、葛藤する姿を描こうと思っていました。自分の疑問でもありました。
それを出したところ、先生に「今これを描いたら、危険な目に遭う」と言われました。2005年は軍政だったんですが、僕は日本で育ったので、そういう危機感がなかったんです。締め切りも間近だったので、最終的に自分の経験や自分の好きなロードムービーを盛りこんだ家族の物語をつくったところ、「これがいいよ」と。

ーそれで日本にやってきた兄弟が主人公に。弟のウィンタウンくんが無邪気で可愛くて、難しい年ごろの兄のアウンメインくんを知らず知らず助けていました。キャストはどのように集めたんですか?

はい。こちら、みなさん素人の方でした。ミャンマー料理屋さんや雑貨屋さんにチラシを貼って応募を募り、面談してきめました。
僕は6歳のときに両親と日本にやってきました。下の弟と妹の2人は日本生まれです。『エイン』の弟ウィンタウンに自分の経験を重ねています。アウンメインのキャラには、クラスにいた転校生の友達を重ねました。彼は日本人ですが、仲間に入りたいのになかなか溶け込めないでいました。先輩から後輩への暴力というのは当時僕も目にしました。先輩も始めは興味から話を振ったのが、だんだん変な方向にいってしまったんです。いじめを容認したくなかったのでそこの演出には気をつけました。

ー自分たちと違う人は珍しいのでかまいたくなります。でも慣れてないので方法がよくわからない。いじめかどうかは「悪意のあるなし」じゃないでしょうか。

まさにそうなんです。アウンメインはミャンマーでは人気者で、楽しく過ごしていて日本に来たくなかったんですね。実は、あの中学校は自分の通っていた母校です。お願いして夏休み中のロケに協力してもらえました。生徒さんがたくさんエキストラで出てくれました。

―喜ばれたでしょう。エキストラの経験をした子が後でスタッフになったりしますね。

田舎なので、映画の撮影なんてそうはありません。初めて映画に触れて、喜んで出てくれました。出来上がってから上映会をして観てもらえました。主人公のクラスメート役で出てくれた子が、後でお笑いの世界に入って、今も続けているんですよ。

―まあ、それは面白いですね。ロケで人生変わりました。
「笑われる」んじゃなくて「笑わすんだよ」というセリフが良かった。


ミャンマーでもお笑いは人気なんですよ。日本のお笑いをつなげてみたら面白いんじゃないかとやってみました。

ーお父さんが体調が悪いのに仕事を休めなかったり、近所の奥さんが持ってくる古着にお母さんがお礼を言ったりするのにアウンメインくんがプンプン怒りました。

お兄ちゃんはプライドが高いですから。プライドは必要ですけど、高すぎる不要なプライドは捨てたほうがいいときもあります。自分の考え方を変えてみれば周りも変わっていきます。それは僕自身も学んだことです。お笑いは解決策の一つで、この映画を観てそれぞれ考えてもらえたらと思っています。

ー今はほんとに外国の方が多くなりました。体験が増えてくれば受け入れる側もだんだん慣れて、おつきあいも楽になるはずです。近所の奥さん、無関心じゃないのは良いんですが、あの古着も差し上げ方がちょっと...。

袋に入れるんじゃなく、ちゃんとたたむとか(笑)。

ー光石研さんが出演していて、あら!とびっくりしました。デビュー作の『博多っ子純情』(1978)から観ているんです。

光石さんは業界人も大好きです。大ベテランなのに僕はどうしても出演してほしくて、ダメ元でお手紙を書きました。台本を送ったところ、なんと出演していただけることになって、本当に嬉しかったです。光石さんがいるシーンは特別です。駄菓子屋で兄弟と3人並んで座っているシーンが大好きです。海岸で何も言わずに観ているシーンも、光石さんだから出てきた風格だと思います。

ーミャンマーの人たちはすごく家族を大事にしますね。

はい、親戚も同じで、いとこたちも兄弟のように育ちました。日本は今ちょっと家族の繋がりが薄いような感じがします。ミャンマーの人たちが今たくさん日本にいます。まだ日本語がよくわからない人たちのために、会話の日本語部分にミャンマー語の字幕を入れて観てもらいたいと考えています。

ーたくさんの方が観てくださるといいですね。

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©日本映画大学

ー次は全くテイストの違う『めぐる』です。ここまで間があきましたね。

脚本は書いていたんですけど、作品として出来上がったのは2本だけです。
ミャンマーで取材中に逮捕される前に、完成したデータを友人に預けていたので、今回公開することができたんです。パラデータ(素材)がないので、予告編を作るのに苦労しました。

―今度は卒業制作と違って俳優さんがたくさん出演しています。

オーディションで選んで撮ることができました。脚本を気に入って集まってくださって。素敵な俳優さんたちに出演していただきました。現在活躍中の小野花梨さんも出演しています。

―脚本は『愛に乱暴』の山﨑佐保子さんです。他の人の脚本を監督するのはいかがでしたか?

面白かったです。自分が創作したのでない脚本があって、僕の演出でキャラクターに肉付けするというのは面白い行程でした。脚本を大事にしつつ、変えるときは山崎さんに許可を取り、完成したときにはお褒めの言葉をいただきました。

ー撮影日数とスタッフの数はどのくらいでしたか?

5、6日間で、スタッフは8人くらいです。脚本の山﨑も撮影(山本周平)、照明(鳥内宏二)、編集(辻田恵美)もみな映画学校の同期です。当時独り立ちしたばかりのころでしたが、できることを精一杯やりました。僕も演出をしただけでなく、お弁当を配ったり忙しかったけど、楽しかったです。

―同期ってありがたいですね。学校に行った強味ですよね。

ありがたいです。この前会って「この映画を今撮ったら、あんなこと、こんなことができる」という話になりました。拘束で僕は2年間止まったままだったのに、ミャンマーから戻ってきたらみんな先へ進んでいて、すごくいい仕事をしています。

―その空白の2年間の体験が、いつか生かせるときが来ると思います。来てほしいです。
『めぐる』は主人公の名前とも繋がっていますね。駅に走った「めぐみ」が、コーヒーカップを持った男性とぶつかるのが始まりです。「めぐる」も別の日に同じ人にぶつかります。人混みでカップを持つのはやめてほしいです。せめてペットボトルで(笑)。


自業自得(笑)。めぐみが起きられなかったのは、妹の悪夢を見ていたせいで、それはまた別の人が関わっています。言いたかったのは、僕らはちょっとした行動でも、他人に影響を与えてしまっている、めぐりめぐって影響しあっているということです。この社会も他人(ひと)が作ったんじゃなく、自分たちが作っている。今日お会いできたのも何かのめぐり合わせで。日本にはご縁という言葉がありますけど。

―ほんとに。ご縁がいい方に向いていけば嬉しいです。

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©合同会社CHAMP ASIA

―映画を目指すきっかけになった作品はありますか?

一番好きなのは『ライフ・イズ・ビューティフル』です。あのお父さんが子どものために、泣かせないように一生懸命笑わそうとするところがすごく好きでした。映画学校にいたころ観たんですが。

―映画学校に行くとものすごくたくさん観るようになりませんか?

それまで僕が観ていたのは、すごくスタンダードな作品ばかりだったんですよ。それが映画学校では映画バカ、映画マニアばっかりで「小津安二郎のあのカットがさぁ」と言われ、「なんだそれ?」、「岡本喜八がさぁ」と言われ、「なんだそれ?」(笑)。
それからいろいろ観るようになりました。ミャンマーで映画を観たことがなかった両親は、映画というものがわからなくて。映画を説明するために『青い春』を観せたら困っていました。

―『青い春』は観ていないんですが、親が観て困るような映画?(笑)青春ものですか?

青春ものです。高校生が屋上のフェンスの外で手を叩いて、回数が多い人が番長になれるんです。不良高校生の話ですが、淡々と描かれていてすごく面白かったんです。親は「こういう映画が作りたいの?」と驚いていました。
*『青い春』2002年公開/豊田利晃 監督。10代から20代の松田龍平、新井浩文、高岡蒼佑。EITA(永山瑛太)、KEE(渋川清彦)さんたちが出演

ー映画で食べていけるのかと心配されたでしょう?

されました。いまだに心配されています(笑)。

―親は、子どもが50、60でも心配するんです。そのうち親子が逆転します。
こういう監督を目指したいという目標としている方は?


北野武監督の映画には影響を受けました。でもやりたいのは山田洋次監督作品のような人情ものです。
だから『めぐる』に関しては僕の中では挑戦でした。どうしても『エイン』のように家族ものだったり、ラストもハッピーエンドになったりするものを書くことが多いので。全く違うタイプの山﨑さんの脚本を監督することで、自分の力量も試してみたかったんです。

―あれもまた別の面白さがあっていいですよね。3本目はまた違うタイプになりますか?

主人公が生き生きとして、映画を観終わった後に自分なりに周りを見る、考えるものを撮りたいなと思っています。「観たー!」「良かったー!」で終わるだけでなく、何かが心に残る映画を作っていきたいです。

―面白かった~が一番なエンタメ好きです。でも後でひっかかること、知らなかったことに気づかせてもらえると、お金と時間を使った甲斐があります。配信も多くなって1本あたり安く観られるようになりましたが。

配信は時代だと思いますけど、映画館はなくならないです。映画館で観た後の感覚ってやっぱり特別ですから。劇場では『めぐる』の後に『エイン』を上映する予定です。当時より外国人はうんと多くなっていますし、ミャンマーのことにも想いを馳せてもらえたらいいなと思います。

―今日はありがとうございました。

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取材・監督写真:白石映子


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=取材を終えて=
話が広がって、まとめるのに時間がかかりました(私の質問があちこちに飛ぶもので、すみません)。た~くさんお話をうかがえたのですが、公開前なのであまりネタバレになりそうなことはあげていません。2年間の空白についても最少限にしています。その中で印象的だったのが、「余談ですが」と話してくださった本について。
拘留中1年間本を読むことを禁じられていたのが、とても辛かったそうです。文字を目にできない間は、自分で地面に棒で文字を書いては消し、を繰り返したとか。2年目にやっと支援者から届いた本を読んだ時は嬉しくて落涙。解放されてからは、2年分の新聞を読み漁ったとか。
80年も戦後の平和が続いた日本は、世界でもとても珍しい国です。「すごいことです」とティンダン監督。
ただ、戦後生まればかりになり、すでに先人が手に入れた民主主義(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を当たり前と感じている気がします。ティンダン監督が身をもって知ったそのありがたみを、私たちはもっと大切にしなくては。最近のニュースを見ても、生命や自由がいとも簡単に奪われています。本や映画にはそんな前例がいくらでもあります。生活と政治は直結しています。無関心でいてはいけないとつくづく思いました。話が別方向にいきました。
『エイン』は故国と家族への想いで胸がいっぱいになるお話。『めぐる』は、人は見えなくともつながって世界ができていること。良いことも悪いことも巡ることを見せてくれます。観た方の胸に響くはず。(白)


『湯徳章―私は誰なのか―』 黃銘正監督、連楨惠監督インタビュー 

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左:黃銘正監督、右:連楨惠監督


『湯徳章(トゥン・テッチョン)―私は誰なのか』 映画紹介
激動の時代を生きた湯徳章
 台湾は日清戦争後、1895年(明治28年)下関条約によって、中国・清朝から日本に割譲され、日本の降伏で第二次世界大戦が終結した1945年までの50年間、日本の統治下にあった。
 1947年3月13日、台南の今では整備されたロータリーの中心にある公園で一人の男が処刑された。彼・湯徳章が生まれたのは1907年。40年の生涯だった。
 湯徳章は日本人の父・新居徳蔵(警察官)と台湾人の母・湯玉のもと台南で生まれた。8歳の時、父が殉職。湯徳章本人も1927年20歳の時に警察官になった。
 1935年、叔父・坂井又蔵の養子になり、母の「湯」姓から「坂井」姓に。1940年33歳の時日本に渡り、司法を学び弁護士資格を取得し、1943年36歳で台南に戻り、弁護士として働き始めた。
そして終戦前の1945年1月、彼は「坂井」姓から、姓を元の「湯」に戻す。
 日本の敗戦後、台湾は蒋介石率いる中華民国の統治下に置かれたが、国民党政権の抑圧や腐敗に台湾の民衆は不満と怒りを募らせ、1947年2月28日、「二二八事件」が勃発。蒋介石は徹底的に弾圧。多数の虐殺事件も起こった。湯徳章は混乱の収拾に尽力し多くの市民を守ったが、1947年3月11日、高雄から台南に進駐してきた軍に逮捕され拷問を受け、3月13日、台南市の中心部にある民生緑園(現・湯徳章記念公園)で公開処刑された。
 1949年に戒厳令が敷かれ、1987年戒厳令が解除されるまで長きに渡る言論弾圧が続いた。事件に関する事を語ることは禁じられ、台湾の記憶の奥に静かに封じられていった。湯徳章の名誉が回復されたのは、38年間続いた戒厳令が解除されてから。現在、台南には湯徳章の名を冠した公園や住宅、道路などがあるが、地元民でさえ、日本と台湾の間で生きた彼の人物像を知る人は少ない。数奇な運命をたどった彼の人生を、ジャーナリスト、彼の養子、民間の研究者など、台湾の人々が彼の足跡をたどり、「湯徳章とは誰か」をたどる。

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場面写真クレジット (C)2024角子影音製作有限公司

黃銘正(ホァン・ミンチェン)監督、連楨惠(リェン・チェンフイ)監督インタビュー   
取材:景山咲子、宮崎暁美 2026年1月21日
  

*この映画を作るまで

宮崎:おふたりが作った前作『湾生回家』(2015年製作)でも黃銘正監督にインタビューさせていただきましたが、この作品でもお話を聞かせていただこうと思います。よろしくお願いします。

と前作のHPのインタビュー記事を見せると、一瞬にして顔がほころび、「その記事と一緒に記念写真を撮りましょう」といい、その写真は黃銘正監督のFacebookに掲載されました。
https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=25684666817840076&id=100001703306131&mibextid=wwXIfr&rdid=uz4lU46NyEBvtMJP#
*『湾生回家』黄銘正監督インタビュー記事はこちら

景山:私の母は、神戸生まれなので湾生ではないのですが、6歳頃から終戦までの10年ほどを台湾の基隆で暮らしていました。女学校時代の台湾人の親友が、二二八事件で基隆川も血に染まったということを話してくれたのは、戒厳令が解けて、数年経ったころのことでした。母は時々中国本土に旅行していたのですが、その話をすると、まぁ~中国に!と、あまりいい顔をされなかったそうです。
今回の映画ですが、私の父方の祖父母が、父の生まれる1922年9月直前まで、台南で暮らしていましたので、台南にこのような方がいたことに、親しみを感じました。壮絶な最期でしたが、学校の制服はお金がないから着ないと反抗したり、退学したあと、炭焼きをしていたのに、急に警官になり、さらに日本で司法科と行政科を卒業するという快挙。すごい方だなと思いました。

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ロータリーと湯徳章紀念公園


宮崎:台南にあるロータリー、かつては「民生緑園」と呼ばれていた公園が、1998年に「湯徳章記念公園」と名前が変わり、湯徳章(日本名坂井徳章)の像が立てられたとのことですか、公園や道路に名前がつけられるほど、認知されるきっかけは?

黃銘正監督:湯徳章はこのロータリーで処刑されたんです。このロータリーには7本の路がありますが、ロータリーのメインストリートは中正路。これは蒋介石の名前から由来するものです。結果として、複雑な思いを抱く人も少なくなく、この「中正路」の名前は変えるべきという人もいます(2022年、中正路の一部が「湯徳章大道」と改名された)。
70年生まれの私が受けた授業では、蒋介石は我々の民族(国家)を救った人物として教わってきました。戦後のこの部分(二二八事件)の歴史には触れるなとなっていて、二二八事件について語ることは長いことタブーでした。

『湾生回家』が公開されて、映画を観た女性から、父親が有名な新聞の編集者で、二二八事件で殺されたのでもっと触れてほしいと言われました。台湾協会の方で、私が「台湾の母」と呼んで親しくしていました。「二二八事件の資料を持っているので監督がこの事件のことを映画にするのならお見せすることが出来ます」と、アプローチされたのですが、当時、私は二二八事件について詳しくなかったし、触れたくなかったので、そのままになってしまいました。彼女には4人の子どもがいるのですが、二二八事件の資料を子どもには絶対見せないと言っていました。それくらいタブーなわけです。その方にこの映画を作ったことを報告したいと思っていたら亡くなられてしまい、残念です。『湾生回家』に出演してくださった方も、だいぶ亡くなり、今、生きている方は5、6人です。

景山: 養子の湯聡模(トゥン・ツォンボォ)さんも、2023年に亡くなられたとのこと。ぎりぎり取材が間に合ったといえますね。 

黃銘正監督:証拠として残すことができたのは有意義なことです。二二八事件の被害者の方たちはあまりに辛い記憶なので、口を閉ざしています。

宮崎:台南に住む人たちでも湯徳章さんのことを知る人が少ないようですが、昨日、台北に住む元シネジャスタッフ(日本人)に、「湯徳章」や、この映画について知っているか聞いてみました。彼女は知らなかったけど、SNSでこの作品が日本で公開されることを知ったと言っていました。彼女の夫は台湾人で弁護士をしています。なので、彼は湯徳章のことを知っていました。でもこの映画のことは知らなかったそうです。彼女たちはこの作品を観ていないので、ぜひ観てみたいと言っていました。
台湾では、いつ頃公開されたのですか? またどのような形で公開されたのでしょう。これからも自主上映活動などありますか? 

黃銘正監督:台湾での上映は終わりました。台南と台北の弁護士会で自主上映会も開きました。今後、自主上映があるかもしれません。お友達にもお伝えください。

*映画の制作過程でのエピソード

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宮崎:黃銘正さん、連楨惠さん、おふたりの役割、あるいはどういう形でこの作品を作り上げたのでしょう。

連楨惠監督:私は湯徳章の関係者の方たちを訪ねていく旅人の一人です。

宮崎:映画を観た時は連さんの顔を知らなかったのですが、記者と二人で訪ね歩くシーンで、もう一人の人が連さんかな?と思いました。

黃銘正監督:私は、映画のストーリーテーリングとかプロットとか、どういう風に形作っていくのかそういうのが得意なので、それを主動してやっています。
連さんとのエピソードを。
ドキュメンタリーの魅力はどこにあるのかをいつも考えているのですが、今、おきていることを映像として記録しておくことはすごく大事です。計算した話でなく偶然も。冨永さん(『湾生回家』に出演)のお宅を訪ねた時のことです。私がトイレに入っている時に、冨永さんが吹くハーモニカが聴こえてきて、台湾民謡の「雨夜花」という曲でした。撮らなくてはと思ったのですが、トイレの中だったので撮れませんでした。でも、連さんがちゃんと撮っていてくれました。この人は私が求めているものをわかっていて、ドキュメンタリー映画を撮るセンスを持っていると思いました。また、インタビューするときに、相手に配慮する必要がありますし、忍耐力だけでなく、こだわりも必要です。あるいは寄り添って、相手の心の扉を開けるにはどうしたらいいかということも必要です。これは連さんにしかできないと思います。素材を集めるとか、インタビューする人をみつけてくるとかの段取りは連さんのほうが上手です。特に今回、養子の湯聡模さんは、最初は語りたくなかったのですが、連さんが時間をかけてアプローチしたら、心の扉を開いて話してくれるようになったんです。だから、この映像は非常に貴重なものです。これは連さんにしかできなかったと思います。

宮崎:まさに二人三脚ですね。湯徳章さんの姪の陳銀さん(聡模さんの姉)と聡模さんの二人は封印していて、最初はしゃべらなかったけど、後半、心を開いて、語ってくれるようになったなと思ったのですが、連さんの働きがあったからですね。

黃銘正監督:でもすごく時間がかかりました。聡模さんはドキュメンタリーの撮影は経験したことがなかったのです。二二八事件の日が近づくと、いろいろ取材が来るけれど、湯聡模さんは応じてくれなかったのですが、1998年ロータリー内の公園「民生緑園」の名前が「湯徳章記念公園」に変わって、やっと姿を現してくれるようになりました。それでも、電話しても、本人が電話口で「彼はいない」と濁すのです。台南市長が電話口に出て、やっと話してくれました。でも、湯徳章の銅像ができた時のセレモニーに彼が来たかどうかは不明です。湯聡模さんのお兄さんいわく、遠くから見ていたと。セレモニーの中心には行きたくなかったのでしょう。それまでのことがあるから。次第に民主化が進んで、ようやく話せるようになった感じです。

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湯徳章紀念公園の片隅にある湯徳章さんの胸像


宮崎:莉莉青果店の店主 李文雄(リー・ブンヒョン)さんは、どういう方なのでしょう。昔、湯家の近所に住んでいて、湯さんのことをご存じの方?

黃銘正監督:莉莉青果店は、銅像のあるところから2~300m離れたところにあります。カキ氷が有名なお店で、タクシーで乗ってくる人たちが運転手に「湯徳章さんって誰?」と聞くので、運転手たちが李さんに聞いてくるのだそうです。それで、李さんは台南の歴史のことを調べて、養子の聡模さんも李さんが7~8年かけて探しだしました。

宮崎:ああ、そうでした。この莉莉青果店の前にタクシーが止まって、中から男の人が出てきた時、「誰だと思います?」というシーンがありましたが、それが湯聡模さんでした。聡模さんを探すのがミッションだったのでしょう(笑)。その後、交流があったのですね。
あの歴史家の先生も面白かったです。あの家、資料の量がすごかったですね。

黃銘正監督:私たちも扉が開かなくて、家の中に入れなくてびっくりしました。入ったら出られなくなるのではと思いました。資料の山が崩れるんじゃないかという状態でしたし、照明もなくて、暗くておばけが出そうでした(笑)。

景山:先生的には、何がどこにあるというのはわかるのですよね(笑)。
宮崎・景山:私たちの家も似たようなものです。以前住んでいた家は映画資料に埋もれて、部屋の中に資料の山がいくつも連なっていて、家の中の移動に苦労するくらいになっていました。自分にとっては大事な資料だけど、他の人にはゴミですよね。だから、先生のことがよくわかります(笑)。

黃銘正監督:李さんと先生の関係ですが、李さんの集めた資料のほとんどが日本語で、それを先生が読んでくれたという間柄です。先生は早稲田大学に留学して、日本に10数年住んでいたそうです。

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左:養子の湯聡模さん


*歴史的資料の保管について

宮崎:冒頭、「児玉源太郎」(第4代台湾総督)の像と「孫文」の像が、並んで出てきたのが印象的でした。この二つの像は、この場所にあるのですか? あるいは「児玉源太郎」の像はどこかからもってきのですか? 
また、古い資料が保管されていることに驚きました。台湾では、支配する人が変わっても歴史的なものを保存する習慣があるのかなと思いました。

黃銘正監督:そうです。児玉源太郎さんの像は、別のところからもってきて、並べて撮りました。台南市の歴史的なものを保管する場所にあります。

宮崎:あのシーン面白かったです。

連楨惠監督:台南市に文物を保管する場所があります。 焼却されたものも多いのですが、戸籍の資料があったお陰で、湯徳章の親戚を調べることができました。台湾の戸籍ではわからなかったけれど、門田さんを通じて、日本の親戚に繋がりました。門田さんが湯徳章さんのことを調べて本にしていますが、彼からもいろいろ情報をいただきました。
注)門田隆将さんのノンフィクション小説「汝、ふたつの故国に殉ず」(角川書店)
もしかしたら東京の親戚については聡模さんの娘さんから聞いたのかもしれません。宇土への取材は門田さんがコーディネートしてくれて実現しました。

*湯徳章さんの想いはどうだったのでしょう

景山:姓が何度も変わりましたが、最終的には、「湯」となり、彼にとっては、日本人の父親のルーツよりも、生まれ育った台湾への思いが強かったのかなと感じました。タイトルに、「私は誰なのか」と、付いていますが、彼のアイデンティティについての思いをどのように感じていますか?  

黃銘正監督:最後、「湯」姓に変えましたが、途中、何度も姓を変えていますね。東アジアは父系社会。父親の姓を名乗ることが多いですが、植民地時代には日本人になった方が有利でした。姓を何度も変えたということから、彼の心情的な気持ちを読み取ることができると思います。

宮崎:日本で弁護士の資格を取る時には、叔父の「坂井姓」になっていましたが、やはり、日本人名のほうが弁護士の資格を取りやすかったのでしょうか。

黃銘正監督:当時、日本では台湾名でも弁護士資格は取れました。たくさんの台湾からの留学生が弁護士の資格を取るために来ていました。映画の中に、台湾からきた留学生で司法試験に合格した人たちの集合写真が出てきましたよね。アイデンティティは、明確に線引きできるものではないと思います。条件によって変わるかもしれない。日記などが残っていれば、ある程度、心情がわかったのですが、なかったので、資料から判断するしかありません。手紙も1通も見つかっていません。二二八事件以降、燃やしてしまったのかもしれません。写真の多くは、聡模さんのお兄さんがまとめて箱に保管して、屋根裏に隠していました。

宮崎:まだ、これから写真や資料などが出てくるかもしれませんね。

黃銘正監督:まだ作業を終えていないことがたくさんあります。それに、他の人も写真を持っているかもしれません。ほかにもできることがあるかもしれませんね。

宮崎:ここで時間が来てしまいました。まだ、いろいろ聞きたいこともありましたが、再度、映画を観て確認したいと思います。激動の時代を生きた「湯徳章」さん。「二二八事件」に関する映画は、いくつか観てきましたが、このような方もいたというのを知ることができました。ぜひ、日本人にも知ってほしいと思いました。

メモ起こし 景山 まとめ・写真 宮崎

『黒川の女たち』松原文枝監督インタビュー

2025年7月12日(土)からユーロスペース、新宿ピカデリー、池袋シネマ・ロサ、キノシネマ 立川髙島屋S.C.館、MOVIX昭島、CINEMA Chupki TABATAで公開 その他劇場公開情報 

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80年以上前の戦時下、国策の満蒙開拓により満州に渡った岐阜県白川の黒川開拓団員は650人余。5年満州で生活した。日本の敗戦が色濃くなる中、1945年8月9日ソ連軍が突然満洲に侵攻。守ってくれるはずの関東軍はすでに去り、満蒙開拓団は過酷な状況に。集団自決した開拓団や、避難する途中で亡くなった人も。
敗戦後はソ連兵や、抑圧してきた中国人から襲撃を受け、黒川開拓団は日本に帰るため敵であるソ連軍に助けを求めた。しかしその見返りは女性たちによる接待だった。差し出された女性は15人。数えで18歳以上の未婚女性が犠牲になり性の相手をさせられた。そして4人の乙女たちが亡くなった。
性接待の犠牲を払ったが、敗戦から1年、黒川開拓団の人々は451人が帰国できた。しかし、帰国した女性たちを待っていたのは労いではなく、差別と偏見の目、そして誹謗中傷。同情から口を塞ぐ人々。込み上げる怒りと恐怖を抑え、身をひそめる女性たち。身も心も傷を負った女性たちの声はかき消され、この事実は長年伏せられてきた。二重の苦しみに追い込まれ、故郷を離れ他の土地で酪農を始めたり、東京に行った人も。それぞれ思いを抱えていたが、その思いを口にすることなく、時に、犠牲にあった女性たちのみで集まり、涙をこぼした。
だが、黒川の女性たちは、犠牲の史実を封印させないため「なかったことにはできない」と手を携えた。2013年に満蒙開拓平和記念館で行われた「語り部の会」で、佐藤ハルエさんと安江善子さんが、満州で性暴力にあったことを公の場で語った。彼女たちの勇気ある告白に、今度は、世代を超えて女性たちが連帯した。
その後、1982年、黒川の鎮守の森に「乙女の碑」が建てられたが、お地蔵さんが鎮座するだけで説明はなかった。戦後70余年、2018年に、彼女たちの犠牲を史実として残す碑文が「乙女の碑」の脇に建てられ、その歴史が刻まれた。過去に向き合うこと、それは尊厳の回復にもつながった。

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(c)テレビ朝日(場面写真クレジット)
『黒川の女たち』公式サイト 
監督:松原文枝
語り:大竹しのぶ
製作:テレビ朝日
配給:太秦
2025/日本/99分/ドキュメンタリー

松原文枝監督プロフィール 公式HPより
1991年テレビ朝日入社。政治部・経済部記者。「ニュースステーション」、「報道ステーション」ディレクター。政治、選挙、憲法、エネルギー政策などを中心に報道。
2012年にチーフプロデューサー。経済部長を経て現在イベント戦略担当部長。2019年からイベント事業局戦略担当部長。
「独ワイマール憲法の教訓」でギャラクシー賞テレビ部門大賞。「黒川の女たち」のベースとなった「史実刻む」(2019)がUS国際フィルム・ビデオ祭で銀賞。
ドキュメンタリー番組「ハマのドン」(2021、22)でテレメンタリー年度最優秀賞、放送人グランプリ優秀賞、World Media Festival銀賞など。
映画『ハマのドン』がキネマ旬報文化映画ベスト・テン第3位。
著書に「ハマのドン」(集英社新書)。

松原文枝監督インタビュー 
2025年6月6日

*満蒙開拓平和記念館での「語り部」の会
編集部 これまで従軍慰安婦のドキュメンタリーの作品紹介やインタビューはしてきましたが、日本人女性の戦時性被害を扱ったドキュメンタリーについて取材するのは初めてです。
黒川の女性たちのことを知り、取材を始めたのはいつ頃ですか? また2013年の満蒙開拓平和記念館の佐藤ハルエさんと安江善子さんの「語り部」の取材には行っているのですか?

松原文枝監督 2013年の満蒙開拓平和記念館の取材には行ってないです。取材を始めたのは2018年の11月に碑文ができた時からです。それができる前の2018年8月に朝日新聞の全国版に佐藤ハルエさんのことが載っていました。岐阜市民会館で行われた戦争の証言集会というのがあり、自分の満州での体験を語られていて、それが記事になっていたんです。こんな戦時性暴力の体験をたくさんの人の前で語る人がいるんだと驚きました。その時佐藤さんは93歳でした。年を経たので語れるという人もいますけど、最後まで話さず、墓までもっていこうという人が多いわけで、たくさんの人の中で自分の体験を話すということは、ものすごく勇気もいるし、覚悟もいる。そこに写っていた写真の表情がとても印象的で、口を真一文字に結んで、ものすごく信念がある表情だったんです。それに引き込まれて「この女性、なんでここまで話せるんだろう」と思ったのが、この黒川開拓団の取材に入るきっかけでした。
公の場で話す機会はこの後ありますか?と聞いたら、「ありません」と言われて、その後、2018年11月に「乙女の碑の碑文の除幕式があり、佐藤ハルエさんも来ます」と黒川村の遺族会の方から連絡があり、その除幕式を撮ったのが映像を撮り始めた最初です。

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佐藤ハルエさん

編集部 満蒙開拓平和記念館での二人の語りの映像は、TV朝日の報道の映像ですか?

監督 2013年7月と11月の映像は、満蒙開拓平和記念館が撮っていた記録映像です。あの映像を残しておいてくれたことが次に繋がっていったので、満蒙開拓平和記念館の存在というのが、ものすごく大きかったなと思います。彼女たちが安心して話せる場所であり、それを記録した場所でもありました。

編集部 私は、2015年に山田火砂子監督の『望郷の鐘』という作品を観て、満蒙開拓平和記念館ができたことを知り、2016年の1月に長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行きました。ここは2013年4月にできていますが、彼女たちは7月と11月の「語り部の会」で証言をしているんですね。彼女たちにとって、ここができたから語れたという部分があるのかなと思いました。
(『望郷の鐘』の山本慈昭さん。長野県阿智村、長岳寺の元住職で、国民学校の先生として満蒙開拓民を募集して連れていかなくてはいけない状況で、終戦の半年前に満州に渡る。シベリアに抑留され1947(昭和22)年に引き揚げ。戦後は中国残留孤児の肉親捜しに奔走し、「残留孤児の父」と呼ばれている。「満蒙開拓平和記念館」は、この長岳寺のそばに建てられています)

監督 おっしゃる通り。

編集部 ここでの話が世間に知られるきっかけだったのでしょうか? 長年、伏せられ、表には出せないできたけど、ここで発言するにあたり、黒川村の開拓団の幹部の人たちのかくしておきたい事情とのせめぎ合いとか葛藤もあったかと思います。でも、彼女たちの「なかったことにはできない」という思いから、証言になっていったのでしょう。

監督 満蒙平和記念館ができたのは2013年4月で、佐藤ハルエさんが話しをしたのが7月の語り部の会で、第2回目なんです。安江善子さんが話しをしたのは11月なんですが、やはり、その場があったということが大きかったと思います。遺族会会長の藤井宏之さん(戦後生まれ)が、そこで話しをしてほしいとお願いしたのですが、それは、別に「性接待のことを話してほしい」とは言っていないし、彼はそのことを話すとは思ってなかったんですね。彼女たちに「満州の話をしてほしい」と言ったら、その場で彼女たちは、自分たちのほうから語り始めたそうです。そこの場は、満蒙開拓のことを知りたい、考えたいと思う人たちが来るところだから話せたのだと思います。でも安江善子さんは、その後、皆さんの前では語ってはいないんですよ(2016年死去)。後に、記念館の人たちがインタビューに行った時にはしゃべらなかったそうです。
佐藤ハルエさんは、記念館ができる前から「性接待」の話をしています。わかっている人、気づいた人が来た時には話をしていたんです。新聞などにも書いてほしいと言っているシーンも、この映像の中に出てきます。
以前の黒川村の開拓団の幹部は、証拠を焼いたり、埋めたりして、なかったことにしようとしていたわけです。女性たちが出したいと思っても声をあげられなかったのです。当時の遺族会の幹部によって抑え込まれ消し去られました。会長が戦後世代の藤井さんになったから、声を上げられるようになったと思います。

*「乙女の碑」のエピソード
編集部 会長の妻の藤井湯美子さんがが出てきてきて、「夫ながらあっぱれ」と言っていましたが、私は彼女がいたことで、ここまでできたんじゃないかと思いました。

監督 この女性は「長いものには巻かれたくない、おかしなことにはおかしい」という元気がいい女性なんです。この女性の存在も大きかったです。

編集部 彼女たちがいくら声をあげたとしても、遺族会があるわけだから、会長が先頭に立っていかなければ碑文の制作にしても形にはなっていかなかったと思います。「恥になること」と言っていた開拓団帰りの男性の声もあったわけですから、彼女たちの声を消さないで拾い上げて形にしたということに拍手喝采。

監督 そういう風に観ていただいて嬉しいです。ほんとにそうですよ。共同体のリーダーって大事ですよ。彼がいたことによって碑文として残せたと思います。

編集部 「乙女の碑」そのものは1982年に作られたわけですが、碑文は2018年に建てられていますね。でも、その碑だって、戦後37年もたってから建てられているんですね。

監督 黒川開拓団は600名余りの人たちが行っていますが、200名ぐらいの方たちが現地で亡くなり、性接待を強要された女性たちの中からも4名の方が現地で亡くなっています。お参りする場を作りたいということで、安江善子さんが中心になって、彼女たちを弔うために寄付金を集めて「乙女の碑」が作られました。
1981年に遺族会の方たちが、開拓団がいた陶頼昭(とうらいしょう)に慰霊の旅をしています。訪中の後、1982年にその記念碑が作られ、そこには満蒙開拓の説明や碑文もあるのですが、同じ頃建てられた「乙女の碑」の方は何の説明もなくお地蔵さんだけだったのです。身内の人がわかっているだけという状況でした。


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*性接待の状況
編集部 映画の中にも、‎訪中慰霊団のシーンは出てきますね。松原さんが2018年から取材を始めて、TVで放映されたのはどんな番組だったのでしょう。

監督 2019年の8月に報道ステーションで特集にしたのと、テレメンタリーという30分のドキュメンタリー番組になりました。その後に、テレメンタリーで1時間の拡大版というのが11月に放送されました。

編集部 反響がすごくあったということですね。

監督 結構ありました。

編集部 戦後すぐ、ソ連兵による日本女性への「性被害」という話は、これまでもいろいろ出てきていますが、ソ連兵に守ってもらう(中国人の襲撃から)という発想を開拓団の幹部がするというのは可能だったのかなというのは、この作品で知ってびっくりしました。

監督 このような「性接待」のことは、平井和子さんという戦時性暴力を研究者の本(「占領下の女性たち」)などを読むと、女性を物のように提供して性接待をするというのは44件くらいあったようです。平井さんは、国会図書館とかで記録集を読んで調べたものがそのくらいなので、たぶん証言とかないものも含めたら、もっとあったんじゃないかなと想像されます。これはそういう時に女性を差し出すという例ですが、そうでなく一方的な性暴力はもっとたくさんありました。

編集部 何年もかかって日本に戻ってきた人たちがいた一方、この黒川開拓団は敗戦の1年後には日本に帰ってきましたが、帰還事業の初期の頃に帰れたんですね。これまで、満蒙開拓団の話や避難を描いた映画をいくつも観ていますが、ソ連国境に近いところにいた人、中央部にいた人、港に近いところに住んでいた人によって状況は違いましたよね。日本は、もとはと言えば加害者だったのに、侵略者だった日本人を、終戦後、復讐のため襲撃した中国人もいた一方、子供や女性を受け入れて、育ててくれたり保護して家族にしてくれた中国人もいたわけですから、感謝の思いがあります。避難の途中で亡くなった人や、残留孤児、残留婦人になった人もたくさんいるわけですから、その団の人たちがいた場所とか、開拓団に成人男性がどのくらい残っていたかとか、また、団の運命は団長の決断によって分かれてしまい、自決したり、その後の状況は違ったものになりましたね。

監督 ほんとにそうですよ。その時にどう判断するかで変わってきましたね。女性を性の対象に差し出すって、犯罪的行為だと思うんですよね。それが、団を守るためという論理に差し替えられている。女性をそういう対象にしか見ていなかったことの現れですよね。

編集部 満蒙開拓団で渡った人というのは次男、三男とか、口減らしのために渡った人も多かったし、日本にいたところで、その時代だったら売られた女性もいっぱいいたわけだから、そういうことに対する意識は今とは全然違うので、今の時代の見方でみるわけにはいかないですね。
性接待の状況を説明するのに、床に布団が並べられて犯されている状況に驚いたという場面がありますが、従軍慰安婦の場合もカーテンとかで仕切られた場所でそのように相手をさせられていたという証言もあるので、そういう形は当たり前のように思われていたところがあったんじゃないかと思います。

監督 そうですね。このことを誰が決めたのかということははっきりわからないんですよ。ソ連軍がもちかけたという話もありますが、黒川開拓団がいた陶頼昭というのは交通の要所にあり、関東軍の事務所にいた人がいたり、ロシア語ができる人もいたりで、そういう人たちが開拓団の幹部にもちかけたという話もあります。

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*満州からの引き揚げ

編集部 日本から、満蒙開拓で行ったのが27万人と言われていて、8万人くらいが亡くなったということですが、あの状況から考えたら意外に帰ってこられた人の数は多かったという印象があります。長い距離を歩いて、日本に帰り着くための港・葫芦島(コロ島)までたどり着くのに時間がかかった団があった一方、黒川開拓団は、早くたどりついたと思いました。やはり、彼女たちの犠牲があってのこともあるのかなと思ったりしました。

監督 いや、彼らはもっと早く帰ればよかったと言っています。関東軍は日本からの撤退の情報を開拓民に伝えず、自分たち、あるいはその家族だけを連れて、さっさと日本に帰ってしまったわけです。彼らのように情報があれば、早く帰れたわけですよ。

編集部 それを伝えもせず、関東軍は、自分たちだけが帰ってしまったという、ひどい話ですよね。

監督 ひどい話ですよ。ソ連の中枢のほうも、兵士の風紀が悪くて、性暴力の話が国際的にも問題になってきたので、取り締まりもやっていたのですが、中国から引き上げるという話になっていたようです。いずれにせよ、早く帰さなかったことが被害を大きくしたと思います。

編集部 日本は敗戦で余裕もなかったのかもしれないけど、中国に送ってしまった人たちを日本に戻すという動きは、敗戦後すぐにはできなかったということですね。(舞鶴の「引揚記念館」などに引揚の状況などの記録が残っている)

監督 今と違って情報が伝わらずで、どうしたらいいかがわからないという状況があったわけですが、「現地にとどまれ」という話もあったのですが、その話すら伝わっていなかったのです。終戦の翌年1946年(昭和21年)の5月に引き揚げ事業が始まるのですが、陶頼昭の駅で、この引き揚げの情報を聞きつけ、すぐに葫芦島に向かったようです。だから、黒川開拓団は帰ってこられましたけど、集団自決しなくてよかったなとは思いますが、女性を差し出したから400人余りの人が助かったとは、必ずしも言えないかもしれません。

編集部 今の時代の発想で考えてはいけないと思うけど、そういう意味では、無駄な犠牲になってしまい、彼女たちの人権は踏みにじられてしまったといえますね。

監督 中国人たちを支配していたから、敗戦後、襲撃にあって根こそぎ物品が取られてしまっても、命に危害は与えられなかったようです。

編集部 いずれにせよ、27万人が満蒙開拓団として渡ってしまったわけだから、日本に帰るのは大変だったわけですよね。
そういえば、佼成学園女子校の高野先生が、この黒川村の女性たちの性接待の状況を授業の中で伝えているのはすごいなと思いました。こういう活動は必要ですよね。

監督 ハルエさんのところに学校の先生たちも集団で足を運んでいたのですが、先生ばかりでなく大学生や高校生、一般の会社員なども話を聞きに来て、ハルエさんはその都度丁寧に話をしているんです。そういうことで、人の心が動かされ、伝えるという行動につながっているんですね。あの映像はたまたま学校がOKしてくれたのですが、そうじゃない学校でもそうやって教えているんです。
ハルエさんや他の女性もそうですが、顔を出して自分の言葉で語ったというのは大きくて、その勇気と覚悟に対して、心打たれて、学校の授業にまで伝わっていったというのは、女性たちが突き動かしたなと思うんですよね。


*彼女たちの絆とカミングアウト

編集部 名前と顔を出して語っていたのは、最初は佐藤ハルエさんと安江善子さんだけでした。水野たづさんや安江玲子さんは、最初は名前を出さないでいたけど、後になって顔も名前も出すようになりましたが、それは安江善子さん、佐藤ハルエさんが亡くなって、後は自分たちが伝えていかないとと覚悟を決めたのかなと思ったんですけど、どうですか。

監督 この二人の場合は、覚悟を決めたというより、周りが理解してくれたということが大きかったと思います。彼女たちのことを認めて、尊敬というか大事にしたということが、心をとかしたんじゃないかと思います。

編集部 そうですね。自分の体験を言った時に、家族からどう思われるかというのがあると思うから。それに対して、家族から理解ある反応があったからというのが一番大きいのでしょうね。孫からの手紙を、ずっと持っていた話が出たときには思わず涙が出ました。
また、仲間たちとの団結力というか、励まし合いというのが大きな力になっていたと思います。一人じゃできないけど、5,6人の人たちが支え合い、時々は集まっていたのが大きな原動力だったのだろうと思います。

監督 そう思います。彼女たちの連帯というのがものすごく大きくて、彼女たちがお互いに支え合い、かつ「なかったことにされている」ことに対して憤りを持っていましたから、碑文を残すにあたって、彼女たちの力が大きかったですよね。連帯でもあるし、お互い支え合い、それぞれの気持ちを大事にして、ずっと一緒に生きてきた時間が長かった。

編集部 ハルエさんが安江菊美さんに対して、「あなたのおかげ」と言っていましたが、安江菊美さんはそれは逆だと言っていましたね。でも、やっぱり菊美さんの存在は大きいですよね。性被害体験者本人は言いずらいけど、周りにいた人だったら言えるということはあると思います。

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安江菊美さんと佐藤ハルエさん


監督 菊美さんは、被害者たちより若い世代ですし、非常に記憶力が鮮明で当時のことをよく覚えていますし、論理的な人なので、何があったかということを道先案内人のように解説をしてくれるので、すごくよくわかりました。彼女の存在はとても大きかったです。

編集部 当時11歳くらいだったのですよね。でも、それで、あれだけ覚えているというのはすごいなと思いました。私は、その年齢の時のこと、それだけ覚えていないです。

監督 私もその年の頃は全然ぽやっとした記憶しかないのですが、菊美さんはよく覚えていたんですね。やっぱり衝撃的だったからだと思います。記憶力がいいのもありますが、語り部をしているので、資料を整理してもっているということと、写真も持っているというのが大きいと思います。また、繰り返し当時のことを言っているのもあるかと思います。

編集部 菊美さんの存在もあったので、彼女たちの体験を裏付けられたと思います。そういえば、ものすごい量の手紙が出てきましたが、あれはどういうことだったのでしょう。

監督 あれは、佐藤ハルエさんのところに、いろいろな人から来た手紙の山だったのですが、あれはほんとに一部で、もっと膨大にあったと思います(笑)。

編集部 そういうのにも、絆というか助け合いというのを感じます。そういう繋がりがあったから、語ることができたのかもしれないですね。まとめる方がいて、集まれる場所があったり、励まし合ったりすることがあって、公表することにつながったのかなと思いました。

監督 ありがとうございます。女性たちが支え合ってきたことが大きかったと思います。でもやっぱり思うに、佐藤ハルエさんが外に出したかったという思いが大きかったと思います。その信念をみんなが支えていたんだと思います。お互いに理解し合える人たちがいることが、彼女の心の安寧にもなっていたと思うんですね。

編集部 一人だったらできなかったかも。

監督 仲間がいてくれるからこそ、彼女は行動できたと思います。一方で、絶対残さなくてはいけないという強い信念を持っていたのが大きいと思います。安江善子さんは公の場で話したのは、2013年の満蒙開拓平和記念館の時だけでしたけど、その後3年後の2016年には亡くなっているので、そのあとは話す機会もなかったのかもしれないですね。

編集部 ハルエさんはこれだけ苦労して99歳まで生きたそうですが、すごいですよね。

監督 ほんとですよ。良かったなと思います。大往生で、去年亡くなるまでよく生きたと思います。99歳の人生を生き抜いて、いろいろなことを後世に残しました。

編集部 ハルエさん一人だけのことでなく、黒川開拓団だけでなく、満蒙開拓団の方たちの代弁者だったと思います。本人はどうかわからないけど、いつのまにかそういう立場になってしまったので覚悟を決めたのかもしれませんが。

監督 いや、この方は固い意志があったと思います。

編集部 そういえば、佐藤ハルエさんが満州の農業学校(女塾)で学んだ時に、先生から「女性は戦争に負けたら、こういうこと(性接待)もあるかもしれないから覚悟をしておくように」と言われたということを話していましたね。しかし、日本に戻った時には「労らわれる(ねぎらわれる)」ことなく誹謗中傷に合い、結局、他の村に行かれたわけですね。
お孫さんからの励ましの手紙を持っていた方は、玲子さんですね。この手紙をずっと持っているというエピソードに心打たれました。それまでは顔を出さずに証言していたわけですが、この手紙をもらってから、名前も顔も出すようになったのですね。

監督 玲子さんは2017年くらいから語り始めていたのですが、顔も名前も出さずにいたわけです。

編集部 水野さんはもっと後ですか。 

監督 水野さんは、2017年、2018年ごろには匿名で話はしていましたが、その後は家族の手前、取材に応じていませんでした。このため、TV放映した頃は、写真にはぼかしを入れていました。今回、映画にするにあたって、インタビューも難しいかと思いましたが、碑文も出来て社会に知られたことで、息子さんの理解も進み、顔と名前を出して応じて頂きました。また犠牲になった女性たちが皆で映ってる写真では、TVの時は3人だけしか出せなかったのですが、映画になるときには、本人や遺族に確認をして、ご了解を得て、顔を出すことが可能になったんです。やっぱり顔が出せるとリアリティがありますからね。

編集部 彼女たちの救いは、家族が理解をしてくれたということでしょうね。だからこそ、発言して残していかなくてはと思ったのかなと思いました。TV放映は、どれか1回は見ていると思うのですが、映画化しようと思ったきっかけというのはあるのですか?

監督 それは玲子さんという人が笑顔になって、変わったんですよね。私自身、見て驚きました。人間は尊厳を回復することができるんだというのを目の当たりにしたんです。もう一つ決定的だったのはハルエさんが目の前で亡くなったというのが大きくて、この女性の死に立ち会ったことで、何か残さなくてはという焦燥感にかられたんです。彼女がやってきたことに対して頭が下がる思いがあり、何か記録に残さねばと思ったのです。到着して10分後に亡くなったんですが、おふたり(安江菊美さんと藤井宏之会長)を待っていたという感じがして、安心して逝かれたんだなと思いました。

編集部 あの菊美さんの語りかけのシーン、いいですよね。

監督 ハルエさんと菊美さんはいつも話しをしていて、絆が強い二人でした。いつも満州の話をしているんですよ。

編集部 悩みごとでもなんでも話すと少し楽になるということだったのかもしれませんね。だから満州時代の同じ経験をした仲間と集まって話すことが安らぎだったのかもしれませんね。

監督 他のところで話せないので、本音とか悲しみとか率直に出せる相手だったんだと思います。

編集部 その期間(性接待)が2カ月くらいだったとはいえ、病気になったり性病を持って帰ってきたりで、身体の状態が悪いまま帰ってきた方もいたと思います。

監督 完治しないまま、日本に帰ってきて、治療をしていた方もいました。

編集部 帰国後の誹謗中傷を生んだのは、「開拓団幹部の人の発言から」というのが出てきました。藤井会長が、もしかしたら自分の父さんかもしれないと語っていましたが、その時代の、そういうことに対する認識が今と違うからだったのでしょうね。それに伏せておこうとしても噂は広がってしまったのですかね。

監督 開拓団の中で内緒にはしていたけど、村の中で多くの人が開拓団として行っていたから噂にはなりますよね。いわれなき誹謗中傷や、そういう目で見られているということがあって、彼女たちはいたたまれない気持ちにはなりました。

編集部 時間が来てしまいました。この話を興味ある方に広げたいと思います。ありがとうございました。

監督 ありがとうございます。満州から帰ってきて、戦後日本で開拓した人たちというのはたくさんいると思います。ぜひぜひ広めてください。
取材 宮崎 暁美

『星より静かに』 君塚匠(きみづかたくみ)監督インタビュー

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*プロフィール*
1964年生まれ。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。 1988 株式会社フジテレビジョンの取材ディレクターを経て株式会社テレビマンユニオン に移籍。ドキュメンタリーを中心に数々のディレクターをして実績を残した。1988年、劇場映画『喪の仕事』の脚本・監督をするために株式会社テレビマンユニオンを退 社。フリーランスの道を選び、背水の陣で映画の実現に臨んだ。
1991年に監督・脚本 した『喪の仕事』が完成し公開。その後、『ルビーフルーツ』『激しい季節』『おしまいの日』の監督を依頼されて、2000年、黒木瞳、萩本欽一出演の『月』まで5本の劇場映画の監督と脚本を手掛けてきた。一方、TVディレクターとしても、ドキュメンタリーや情報番組、テレビドラマの監督経験多数監督。TV-CM、企業VPの監督もこなし受賞歴多数。今作『星より静かに』は最新作であり企画、プロデュース、脚本、監督、出演を果たす。
同映画は第49回湯布院映画祭にて映画祭最後を飾るクロージング上映に選出された。

*ストーリー*
55歳のときにADHD(注意欠如多動性障害)と診断された君塚匠監督は、それまでの生きづらさがADHDの特性によるものだと知った。この症状がもっと知られていってほしいという思いから映画制作を決意。
映画は君塚監督の実体験を元にしたドラマ部分と、ADHDについて君塚監督自身が様々な人と出会いながら探っていくドキュメンタリー部分とがあり、この二つが分かれるのではなく、互いにミックスしながら進む構成。
ドラマ部分ではADHDの夫・はじめ(内浦純一)と彼を支える妻・朱美(蜂丸明日香)、息子・純(三嶋健太)を見守る母(渡辺真起子)、二組の暮らしを丁寧に描いている。
公式サイト https://hoshiyori-shizukani.com/
作品紹介  http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/516463115.html
(C)ステューディオスリー
★2025年6 月21日(土)より K’s cinemaほか全国順次公開

―ADHDの人が今300万人から400万人もいるそうですが、知られてきたのは、最近ですよね。
私は検査したことはありませんが、「道順を憶えるのが苦手」とか「失くしもの、忘れものが多い」とか共通点がありました。監督は55歳になってからわかったそうですが、何かきっかけがありましたか?


僕はそれが顕著に出るんです。
最初は若い時にパニック障害で通院していて、それからいろいろな精神疾患の症状が出ました。検査をしてADHDの薬を処方されたら、てきめんに良くなるんですよ。それでこれまで生きにくかったのは、ADHDだったからだなとわかったんです。

―以前はちょっと変わった人、神経質な子ども、などと言われていました。ほかと違うことで困ったり、生きづらかったりした監督の体験からADHDはこういうものですとお知らせしたいと、この映画を作ることになったんですね。

はい、そうです。

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君塚監督、施設長

―映画はインタビューなどドキュメンタリーの部分と俳優さんが演技をするドラマの部分が両方あって、それがまじりあっています。夫婦と親子、二家族分のドラマがありましたが、ドラマの俳優さんがドキュメンタリー部分に出たり入ったりして面白いと思いました。ああいう組み立ては脚本の段階からだったんですか?

ええ、最初からです。構想は1年くらい前からあって、作ろうと動き始めて6か月くらい、脚本は20回、30回と書き直して、3ヶ月くらいで書き上げました。

―キャストは脚本が書き上がってから決まったんですか?

キャスティングは、二転三転しました。最初に考えていた人たちとはがらりと変わりました。

―観ているうちにこの人は当事者なのか、俳優さんなのかわからなくなっていました。支援施設で「支援員誰々」と名前が画面に出る方は本物の方ですね。

はい。障害者の方も、支援員の方もいます。経歴もほんとです。よく全部出させてくれたと思います。普通モザイクかけたりするので。交渉がうまくいったということです。

―みなさん、顔出してお話してくださっていましたね。施設長さんから職員の方、主治医の先生・・・。

家族2組の4人(内浦純一、蜂丸明日香、三嶋健太、渡辺真起子)は俳優で、後は実際の現場の方々です。
ふつうドキュメンタリードラマというと、ドキュメンタリーとドラマ部分がはっきり分かれています。僕はそういう考えは全くなくて、ミックスさせる、混在させたかった。脚本でわからないという人もけっこういたんです。作りながら、脚本にはなかったシーンを足したり、だいぶ変えました。
たとえば最後のほうのたこ焼き食べながら、突然タケノコの話をするのは現場で足したものです。

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はじめ(内浦純一)と朱美(蜂丸明日香)

―はじめさん役の俳優(内浦純一)さんもうまくて、この方は俳優さんなのか当事者なのか?と考えました。それくらい自然でした。

プロの俳優とそうじゃない素人との差がありすぎるのは、よくないと思ったんです。そこはすごく注意深くやりました。
今おっしゃったように、どっちが役者かわからなかったというのは、それがうまくいったんだと思います。

―私の感想は、監督のねらいどおりだったんですね。20代の独身の純、40代のはじめさん、年代の違うADHDの方の両方に監督の経験が入っているわけですね。

そうですね。最初ははじめ夫婦の2人がいて、純が出る予定はなかったんです。設定もわざわざ作ったところがあるんです。純がリンゴしか食べないとか、リンゴの会社に勤めているとか。ちょっと変わったユーモラスな部分を作りました。ドキュメンタリーとドラマとのバランスが良くなるかなと考えました。

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純(三嶋健太)と母(渡辺真起子)

―帰宅した純のシャツの背中に何か書かれていました。何と書いてあったんでしょう?

あれは最初純がぶん殴られる設定だったんですが、時間がなかったので変えました。何を書いていたかと言うと、デタラメな落書きです。
*宣伝さん「監督が自分で書かれたんですよね」監督「あ、そうです」

ー監督も同じ目にあったことが?

中学生のとき、いじめの対象になったことはあります。子どもって残酷ですから。暴力が当たり前のようにあった時代で、今なら大問題になりますが、生徒同士、先生が生徒に暴力を振るうのは珍しくなかったですから。シャツに書かれたことはないです。

―学校が荒れた時代がありましたね。
街頭のインタビューでは4、5人の方が登場していました。実際は何十人にもあたられたんでしょうか?


街頭ではけっこう長時間やったんですけど、ADHDはデリケートな話なので、自分が出て間違った話をして差別になっては、と出るのを断られる方もいました。5時間粘って、顔出しを了承してもらえた方はあれだけになりました。

―きっと長い時間かかったんだろうと思っていました。カップルの方は面白かったですね(2人ともADHD。お互い認め合って仲良し)最後の方はとてもまじめに答えてくださっていました。

はい。はっきりお話して顔出しもOKしてくれて、映画としてもよかったかなと。

―撮影は全部でどのくらいかかったんでしょう?
ドラマとドキュメンタリーが混在しているので、撮影や編集はたいへんではなかったですか?


撮影はドキュメンタリー部分も含めて1週間でした。お金がないので、僕が撮影したところもあります。
編集はテレビの編集マンをお願いしました。映画は初めてですが、ドキュメンタリーを何度か一緒にやった人です。ドキュメンタリー部分にはナレーション入れたらどうか?と言われたんです。そうするとわかりやすくはなったかもしれないけど、考えてみて結局それはつけませんでした。

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お姉さま、君塚監督、森重プロデューサー

―長引くとその分お金かかりますしね。(映画の中で)家を訪ねて来ていた森重さんがプロデューサーですね。

森重さんが資金集めをしてくれて、僕も制作に入っています。森重さんの条件は、スタッフは自分で集めろ、ADHDの当事者である監督の君塚匠が出演しろというものです。
とにかくものすごく低予算だったので、メイクも衣装もいなくて全部自前でした。衣装を替えるのもハイエースの中でやって。
渡辺真起子さんは根性のある方で、どんなに低予算でも自分が納得した脚本だったら出ると。メイクだけはあとから入れました。
いろいろボランティアでやっていただきました。カメラだけは2カメで撮ったんです。僕の出ているところも2カメで。じゃないと終わらないと思った。
テレビの再現ドラマを撮るカメラマンさんに頼みました。再現ドラマを狙ったわけじゃなくて、撮影が圧倒的に速いんです。この予算でこの映画って、相当異常ですね。

―俳優さんたちは出来上がったのをご覧になってなんとおっしゃっていましたか?

湯布院映画祭にも一緒に行ったんです。できあがって喜んでもらえました。

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君塚監督、渡辺真起子さん、蜂丸明日香さん
―「クレージー」と書かれたメールが間違って監督のところに届いた件、本人に届くとは思わず仲間うちの軽口のつもりだったかもしれないですが。

信頼していた人なのでびっくりしました。2、3人相手のメールだったんですが、そんな風に思われていたのかと人間不信になりました。その件を知った会社の幹部が深く謝罪してくれて、僕の怒りも静まりました。その後も配慮してくれて。

―言葉通り受け取るので、傷つきますね。ASDやADHDの人は、自分が思ったのと違うことを言えないしできないですよね。ほかの人も同じだと思って、裏を考えたりしません。

「忌憚のない意見を」とか言われると、正直にそのまま言ってしまうし、僕は忖度(そんたく)とかできないです。相手にも自分に直接ダメだったらダメと、はっきり言ってもらいたい。

―映画の中で喧嘩する場面ありましたね。うまく自分の気持ちを伝えられなくて、ついぎりぎりまでため込んでしまったりするのでしょう(自分がそうです)。監督の体験だけでなく、ADHDの特性を少しずつ入れ込んだのですか。

ADHDの特性については、医療監修していただいています。
鍵を何度も確かめるのは、強迫神経症(強迫性障害)のようです。

―はじめさんが何種類かの薬を飲んでいました。薬剤師さんが鍵をかけた引き出しを見せてくれましたがとても厳重なんですね。

アメリカでは承認されていない薬ですが、日本では承認されていて、ああいうふうに厳重に管理されています。診断書や証明書がないと処方されません。

―薬が効くのはありがたいですが、副作用の心配はありませんか?

薬によってはすごく眠くなるものもあるんです。最初はすごくよく効いても、長く使っているうちにだんだん効かなくなるものもあります。今も道順が覚えられないという、ADHD特有の自覚はありますが、体調は悪くないです。

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―登場するお姉様、仲良しなんですね。監督のご両親は?

父は70歳で、母は91歳で亡くなりました。

―ああ、そうでしたか、いろいろご心配しながら育てられただろうなと思ってしまって。施設長さんが、「いいことと悪いこと」を挙げていましたが、いいことを目指していかなきゃいけないですね。

そうですね。四六時中いっしょに見ていられるわけではないので、施設にいる2時間、3時間だけでも有効に使って自分で努力していくってことじゃないですかね。

―服飾専門学校のシーンは、ここだけちょっとカラーが違う感じがしました。若い人たちはこんなにこだわりないよということで?

差別をする人もいるけど、差別をしない人もいるよと、対比にしたんです。僕が世の中を歩いて、探していく旅のようにしました。答えは出していません。
「差別はあるけど、仕方がない。差別するしないのは自由なんだ」と施設長さんに言ってもらえて良かった。
湯布院映画祭ではそれを「冷たい発言ですね」という人もいたんですけど。自分が「ADHDだからしょうがないでしょ」と思っているところもあったので。
この映画で僕は自分を見栄えよくしようとは思っていないです。正直に自分の気持ちを言おう、前向きにさらけだそうと思いました。

―それは成功していると思います。ADHDを知らない人にこの映画が届いて、ほんの少しでも知識を持って理解が進んでくれるといいですね。

ありがとうございます。
            
(取材・監督写真:白石映子)

君塚匠監督の著作
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*書名:「もう一度、表舞台に立つために ―ADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡―」
*出版社:中央法規出版
*仕様:A5判/タテ組/並製/1色刷 約200頁
ISBN/JAN:9784824302830
*定価:2,000円(税別)
*書籍概要:55歳でADHD(注意欠如・多動症)と診断された映画監督・君塚匠は、人間関係がうまく築けず、人と同じようにできない自分に苦しんできた。本書は、自身も出演したドキュメンタリー×ドラマ映画『星より静かに』では描かれなかった君塚監督の幼少期からの生きづらさや周囲との軋轢、映画監督、テレビディレクターとしてのキャリア、自分を理解してくれる人々との交流などを、ときにユーモアを交えて著す。
*発行予定:2025年6月27日